2021年11月 佐土原教会礼拝説教

HOME | 2022 | 2021 | 202111

聖書箇所:ルカの福音書1章26~38節

先週月曜日にある姉妹とお会いしました。その姉妹が「お母さんはその後いかがですか。洗礼は受けられましたか」と聞かれました。以前、私が「母の救いを祈っています」とお話ししたのを覚えて下さっていたようです。「いえ、まだです」と申し上げると、「お母さんはいくつになられますか」と聞かれるので、「87歳です」と答えると、「私の母は95歳で洗礼を受けました。諦めて祈ることを止めた時もあったけど、神様は祈りを聞いておられました」と言われました。お母さんは、以前から信仰心は持っておられたそうですが、その信仰心が聖書の神と結びつかなかった。それが―(色々あられたのでしょう)―95歳のクリスマスに、ついに聖書の神と結びついて洗礼を受けられたそうです。その姉妹ご自身も「40年前のクリスマスに洗礼を受けた」と言われました。「クリスマスは特別な時だな」と改めて思わされたことでした。今日から「待降節(アドベント)」に入ります。皆様の上に、クリスマスの恵みの光が照り輝きますように、心からお祈りすることです。
今日の箇所は、天使がマリヤに「イエスの誕生」を予告する箇所です。この個所を読んで、思い出した話があります。この兄弟は、神学校で学んでおられる方でしたが、ある時、幻を見せられたそうです。彼は、崖の上に立っていましたが、目の前に真っ暗な世界が広がっていました。そこで神の声を聞くのです。「もう1歩、踏み出しなさい」。もう1歩前に出たら、真っ暗な谷に落ちて行くように見えるのです。しかし、声は繰り返します。「もう1歩、踏み出しなさい」。彼が、覚悟を決めて飛び出した時、その真っ暗な闇が、スーッと幕が開くように分かれて、素晴らしい世界が目の前に広がったそうです。「御言葉に従うというのは、こういうことですかね」と言われました。御言葉に従うのは、時にとても難しいです。「自分の敵を愛しなさい」(ルカ6:35)。難しいです。しかし、御言葉に飛び込んだ時、新しい世界が広がる、そういうことがあるのではないでしょうか。
今日、2つのことを申し上げます。
 

1.聖書の内容~マリヤの信仰と決断

「クリスマスの物語」は、天使ガブリエルがナザレという村に住む娘マリヤに現れて「あなたは聖霊(神の霊)によって男の子を産みます」と告げるところから始まります。この時、マリヤは何歳だったのか。「14~15歳だっただろう」という学者もいます。いずれにしても、恐らくまだほとんど少女のマリヤに、神の使いが現れて呼びかけるのです。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(28)。「おめでとう」、直訳すれば「喜びなさい」という言葉です。何が「おめでとう」なのか、何を「喜べ」と言われているのか。具体的には「マリヤが聖霊によって身ごもって、男の子を産む」ということです。しかし考えれば、人間的にはとても喜べる話ではありません。27節に「この処女は、ダビデの家系のヨセフという人のいいなずけで、名をマリヤといった」(27)とあります。彼女はヨセフと婚約中でした。当時のユダヤでは、婚約はほとんど結婚を意味していました。そんな状況で「聖霊によって身ごもった」、もしヨセフに信じてもらえなければ、ヨセフは会堂で公に事実を公表して離縁を宣言することになります。そうするとマリヤは、「不身持な女」として「石打ちの刑」です。「おめでとう…」(28)どころではありません。マリヤは「どうしてそのようなことになりえましょう」(34)と困惑というか、抵抗と言うか、そのような思いを言い表します。彼女は戸惑いました。しかし結果としてマリヤは「ほんとうに、私は主のはしため(しもべ)です。どうぞ、あなたのおことばどおりこの身になりますように」(38)と言うのです。マリヤは、これから自分の身に何が起こるか分からない、しかし、そんな恐ろしさの中に飛び込んで行く、全てを主に委ねることを信仰によって決断するのです。
このマリヤの言葉は、とてつもなく重要な言葉でした。神は、滅びに向かって歩いている人類を救うために、予てから計画しておられた「救いのプラン」を実行に移されました。それは「神の独り子が人の全ての罪を背負って十字架に掛かり、その十字架の贖いを信じる信仰によって、神はその人と和解して下さり、その人は、神との関係に守られて生き、守られて死ぬ、そして神との関係に支えられて復活する、そして永遠の命を生きる」、そのような壮大なプランでした。そのためにキリストは、神でありながら、人の身代わりになれるように弱き人間の赤子として生まれて下さいました。しかし神は、そのプランの実現のためにキリストを産んでくれる女性を必要とされたのです。その神の申し出に対して、マリヤは「私は主に従う者です。あなたの御業のために用いられたいと願います」と答えたのです。14~15歳の少女が、です。そのマリヤの返事に、神の計画が、人類の救いの歴史が、私達の救いが、懸かっていたのです。そして「救い主イエス・キリストの誕生」は、このマリヤの一言によって「現実」になるのです。
 

2.信仰生活への適用~神に用いられることを喜ぶ

私達はこの個所から何を学ぶことができるでしょうか。 
ある学者が言いました。「マリヤは片田舎の普通の娘だった。彼女は何を持っていたわけでもなかった。しかし、ただ1つ、マリヤは『喜んで主に用いられよう』という思いだけは持っていた…そして、それをこそ神が喜ばれたものだった」。マリヤは、神様に自分を委ねるのです、預けたのです、任せたのです。そして、神様が用いたいと願われるなら、用いて頂こうとしたのです。その視点が、私達の信仰も、神様に喜ばれるもの、祝福をもたらすものにするのではないでしょうか。
私は、先日もお話しした森繁さんの話を思い出します。彼はアメリカで信仰を持ち、「日本人に伝道したい」と思って日本で教会を始めたのですが、事情があって、家族のためにハワイに住むのです。しかし仕事がない。ようやく見つけたのがマカデミアン・ナッツの農場で草を刈る仕事でした。ずぶ濡れになりながら働きました。彼は神に叫んだのです。「神様、私はここで何をやっているのでしょうか。伝道もできません。伝道ができなければ生きている甲斐がありません」。3か月、泣いて祈っていたそうですが、やがて「神様、もしあなたが私にさせたいことがここで家族の面倒を見ることだったら、それをあなたがさせたいのなら、私はやります。一生でもやります」。そう祈るようになるのです。それもまた、神に委ね、神に用いられようとすることではないでしょうか。そこから、彼の生活だけでなく、奉仕も導かれて行くのです。
なぜ、神様に用いられることを喜ぶことができるのでしょうか。神様が私達を用いたいと思われる時、それは「滅私奉公」のようなものではないのだと思います。もちろん、マリヤの経験は、神の子を産むという、私達から遠い特別な経験です。しかし、神様に用いられることの祝福を教えてくれます。マリヤは、神の子を産むために神に用いられることを引き受けました。大変な経験でした。しかし、イエス様を育てる中で、イエス様を通して多くの祝福も経験したはずです。やがてマリヤは、我が子の十字架という苦しみを、絶望を経験します。しかし彼女は、その苦しみの中で神に支えられて行くのです。それだけでなく、今度は、誰よりも大きな喜びもってイエスの復活を経験するのです。「神に委ねた人生に、神は決して下手なことは為さらない」ということを、身をもって経験して行くのです。
私達が読んでいるこの物語、なぜルカは、この「受胎告知」の物語を知っているのでしょうか。それは、他ならぬマリヤ自身が後に教会で語ったからではないでしょうか。人々の求めに応じて何度も語ったのでしょう。「おめでとう、恵まれた方。主があなたとともにおられます」(28)という言葉と共に始まった「神と共に歩む人生」、それはとんでもないように見える出来事で始まった。しかし、振り返って見た時、「どれほど神の恵みを経験させられる人生であったか、どれほど納得の出来る人生であったか」、彼女は、感謝と喜びを持って語ったに違いないのです。さらに私は、やがて天に帰ったマリヤは、イエス様と再会して、どんなに喜んでいるか、どんな恵まれた時を過ごしているか、そんなことまで思わされます。だから、クリスマスに生まれたイエス様は、死ぬために生まれて下さったのに、マリヤの歩みには、この後、苦しみがあるのに、「クリスマス物語」の全体の調子は、喜びに溢れているのです。
繰り返しますが、マリヤの経験は特別な経験です。しかし、神に委ね、神に任せ、神が必要とされるなら神に用いられて行くことを喜ぶこと、そのことの持っている深い恵みは、私達も共有できるのではないでしょうか。そして神様は、マリヤだけでなく、私達をも、深い祝福を味わわせるために、用いようとして下さるのではないでしょうか。
作家の三浦綾子さんは、新聞社の一千万円懸賞小説に応募する時に、「原罪」の問題を取り上げて、「日本人にも神に目を向けて欲しい」という願を持って「氷点」を書きました。そして、それが750点余りの参加作品の中から1位に入選した時、夫の三浦光世さんは綾子さんにこう言うのです。「綾子、神を畏れなければならないよ…神は、私たちが偉いから使ってくださるのではないのだよ。聖書にある通り、我々は土から作られた、土の器に過ぎない。この土の器をも、神が用いようとし給う時は、必ず用いて下さる。自分が土の器であることを、今後決して忘れないようにね」。最初にご紹介した姉妹は、ご自分が教会に導かれる前に信仰しておられた新興宗教の仲間だった方々を―(その方々がその信仰の中で思い悩んでいる姿を見て)―教会に導かれたそうです。その方々は、すでに天に召されたそうですが、「神が私を用いて下さいました、信仰宗教の経験も無駄ではありませんでした」と喜んで話して下さいました。神様は、私達にも信仰の深い満足を与えたいと願っておられるのではないでしょうか。だから、私達も用いて下さるのではないでしょうか。いや「私と一緒に神の業をしよう」と言って下さるのではないでしょうか。「私の計画にはあなたが必要だ」と言って下さるのではないでしょうか。
私は先日、ある方の口を通して神の言葉を頂きました。「主があなたの永遠の光となり、あなたの嘆き悲しむ日が終わるからである」(イザヤ60:20)。生きていると、色々なことがあります。皆様もそうでしょう。しかしこの言葉は、私の希望となりました。神様は、希望を下さる神様です。いや、そもそも私達のために死んで下さった神様です。死ぬために生まれて下さった神様です。この神様に預けた人生に、神様は下手なことをなさるはずがありません。だから、神様に人生を委ねようではありませんか。大きな御手に自分を任せようではありませんか。そして、神様が必要とされるなら「私で良ければあなたの業のために用いて下さい」と申し上げる信仰を持ちたいと願います。
しかし、神様に委ね、任せ、用いて頂く、と言っても、それは日常的にはどうすることでしょうか。マリヤは、マリヤに告げられた御言葉に仕えようとしました。「あなたのおことばどおりこの身になりますように―(この身を通して御言葉が現実になりますように)」と神の言葉に仕えようとしました。同じように、私達にとっても、それは、与えられた状況の中で、神の御言葉に仕えて行くことではないでしょうか。それが、神様に用いられるように生きて行くことなのではないでしょうか。先程も申しましたが、私は「あなたの嘆き悲しむ日が終わる」(イザヤ60:20)、この言葉に身を委ね、この言葉に向かって生きて行きたいと願っています。それもまた、御言葉に仕えることではないかと思っておりますが…。
「百万人の福音」でジェイコブ・ディシェイザーという人の証を読みました。この人は、日本軍の真珠湾攻撃に激怒して、復讐に燃え、名古屋空爆に志願しましたが、空爆の後、中国の日本軍支配地域に不時着して、日本軍の捕虜になりました。そこで憎い日本軍の看守に反抗して、状況をどんどん悪くしていました。そんなある日、捕虜仲間が赤痢で死んでしまいます。その時、なぜか、日本軍の看守が棺桶の上に1冊の英語の聖書を置いて行きました。彼はその聖書を読んでイエス様の信じるのです。自分の罪を悔い、神の赦しを願い、「自分の敵を愛する」というイエス様の言葉に仕えたいと思い、実行に移すのです。それまで憎しみの関係だった日本軍の看守に自分から「オハヨウゴザイマス」と挨拶をするしょうにしました。そうしたら看守も、戸惑いながらも蒸したサツマイモを差し入れてくれたりするようになりました。彼は言っています。「『互いに愛し合いなさい』と言った時、イエス様は最善の行動方法を語ったのだ。神の方法は、試しさえすれば上手く行くのだ」。「神の方法は、試しさえすれば上手く行く」、この言葉は深いと思いました。さらにイエス様の「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)の言葉が、彼の心に突き刺さりました。「看守はキリストのことを知らないのだ。日本で福音を伝えたい」。戦後、彼は日本にやって来て伝道しました。その伝道によって、あの真珠湾攻撃の爆撃隊長だった淵田美津雄さんがクリスチャンになるのです。神様は、彼を通して素晴らしいことをなさるのです。
いずれにしても信仰者が、神の言葉に仕えて行こうとする時、私達も、神の御業に関わって行くような、振り返った時、納得の行く、満足の噛みしめられるような、信仰生活を送ることができるのではないでしょうか。先の姉妹は、色々と証しをして下さった後、「神の御言葉に信頼する時、神は御業を現わして下さる、ということを経験しました、この神様は凄いです」と確信を持って言われました。私達は、信仰の豊かさ、力、祝福をもっと味わわせて頂けるのではないでしょうか。
そしてそれは、地上の祝福だけでは終わらない。先程、マリヤが天上で喜んでいるのではないか、ということを申し上げましたが、御言葉に仕える歩みは、私達の天上の祝福にも繋がっているように思います。
 

聖書箇所:マルコ福音書2章18~22節

ある教会の掲示板に貼られた広告だそうです。「断食祈祷大会の参加費には、食事代が含まれています」。何かおかしい。断食が、それだけ難しいということでしょうか。私は、10月初旬に虫垂炎の手術を受けました。祈って頂けることの恵み、神が癒して下さるという恵みを、心底感じさせて頂いた経験でした。(皆様にお世話になりました。本当にありがとうございました)。術後は、3日間でしたか、点滴だけで過ごしました。4人部屋でしたが、朝、昼、夕と食事時になると「お食事ですよ」と声がして、私以外の3人の方のところに食事が運ばれます。私は、手術した部分が痛くて食べるどころではなかったのですが、しかし3人の方が食事をされる時の口を鳴らす音が良く聞こえるのです。良い匂いもします。美味しそうなのです。さすがに3日目には「食事が欲しい」と思いました。だから「今日から食事が出ますよ」と言われた時には、嬉しかったのです。点滴で栄養をもらっていたのですが、ちょっとした断食の経験でした。しかし4日ぶりの食事を早速完食したことを考えると、断食して祈る強さは、私にはないと思います。皆さんは、断食して祈られたことがあるでしょうか。
さて、今日の箇所は、「断食についての質問」と小見出しのつく個所ですが、この個所は私達に何を語るのでしょうか。
イエス様は「2章13~17節」で取税人レビを弟子として召されました。イエス様に従う決心をしたレビがまずやったことは、取税人仲間を招いて、そこにイエスを招待して食事会をすることでした。それは、失われていた人が回復された喜びの宴会でした。当時、取税人は、人々からひどく嫌われ、蔑まれていました。彼らを嫌っていた代表格が「パリサイ人」と呼ばれる宗教指導者でした。取税人の集まっている食事会に招かれても、彼らは絶対に加わらない。ところがイエスは、その食事会に喜んで参加して、楽しく食事をされたのです。パリサイ人は、それが気に入りません。また、彼らは週に2回、月曜日と木曜日に断食をしました。「それが神を信じる者のすることだ」と思っていました。ところがイエスは、宗教家でありながら、断食どころか、楽しく食べているのです。「あいつは何を考えているのか」、彼らはそう思うのです。イエス様は、弟子達にも断食を強いられなかったようです。そこで彼らが、イエス様とその弟子達の所に来て、難癖をつけるところから、今日の個所は始まります。
彼らはイエス様に言います。「ヨハネの弟子たちやパリサイ人の弟子たちは断食するのに、あなたの弟子たちはなぜ断食しないのですか」(18)。「お前の弟子はなぜ断食をしない。なっちゃいないじゃないか。お前がちゃんと指導していないからだ」と言うことです。「ヨハネの弟子」というのは、イエス様の先駆者的な働きをしたバプテスマのヨハネの弟子です。「マタイ福音書」によれば、そこには、ヨハネの弟子達もいたようです。ヨハネは、パリサイ人とは全く違いますが、しかし、彼も断食をし、弟子達にも断食を強いたようです。だからこの人々は「信仰者なら断食をする、それが常識だ」と考えていたのでしょう。
断食、それ自体は、決して悪いことではありません。イエスも断食をされたし、「山上の説教」でも断食を教えておられます。しかし本来、断食とは、悲しみの表現だったのです。「神の不在を悲しみ、神の働きが見えないことを悲しみ、嘆いた」、その思いを表現したのが断食でした。あるいはバプテスマのヨハネは、神の裁きを恐れ、断食をして、裁きに備えようとしました。しかし、イエスは言われます。「花婿が自分たちといっしょにいる間、花婿につき添う友だちが断食できるでしょうか。花婿といっしょにいる時は、断食できないのです」(19)。聖書では、「花婿」は、神の譬えとして用いられます。神が「花婿」であり、神の民が「花嫁」です。イエスが「私が花婿である」と言われ、「花婿が…いっしょにいる」と言われたのは、要するに「ここに神がいる」と言っておられるのです。これが、イエスの弟子達が断食をしない決定的な理由なのです。パリサイ人も、ヨハネのグループも「神が見えない、神の働きが見えない」と嘆いていました。あるいは、神の裁きを恐れて、断食をして備えました。しかし、神は来ておらました。神は、イエスにおいて働いておられたのです。どのように働いておられたでしょうか。
「ザアカイの話」が、そのことについて教えてくれます。エリコの町で取税人の頭として働いていたザアカイも、人々から「罪人」と呼ばれ、「売国奴」として嫌われ、市民生活の中心である会堂からも締め出されていました。そういう状況ですから、身も心も固くして人々の目を跳ね返すようにして生きるしかなかったのです。その生き方が良いとは思わない。喜びが無い。しかし、どうして良いか分からない。だから「どうせ嫌われるなら」と開き直って、強欲に税金を取り立て、ますます孤立する道を歩いていたのです。しかしある日、イエスがエリコの町に来られました。背が低かった彼は、木の上に登ってイエス様を眺めていました。するとイエス様の方からザアカイに声を掛けられたのです。「ザアカイ。急いで降りて来なさい。きょう、あなたの家に泊まることにしてあるから―(あなたの家に泊まりたいのだ)」(ルカ19:5)。ザアカイは驚きました。しかしそれは、ザアカイが一番願っていたことでした。そのイエス様の愛に、ザアカイの心は溶かされました。そして彼は、その溶かされた心で「新しく生き直そう」と立ち上がるのです。ザアカイは言いました。「主よ。ご覧ください。私の財産の半分を貧しい人たちに施します。また、だれからでも、私がだまし取った物は、四倍にして返します」(8)。「半分を施しに使います。残りの半分は償いに使います」。彼は、ほとんどの財産を投げ出しても良い、と思ったのです。それほど嬉しかったのです。それほど感謝したのです。これがザアカイの経験した救いでした。「神の働きが見えない」と嘆く必要はなかった。神は、イエスにおいて働かれました。そこには慰めがありました。喜びがありました。神は、そのような形で働いておられたのです。
聖書では、「救い」と「慰め」は時に同義語です。現実の生活において、私達には様々な悲しみがあります。皆さんも、心に色々な悲しみがあることでしょう。興味深いことに、聖書の「慰め」という言葉は、「悲しみ」という言葉から派生した言葉です。それはつまり、悲しみのあるところに、その悲しみを覆う慰めを、主が下さるということです。その慰めを経験する時に、主への感謝がやって来るのです。過去の出来事に対する悲しみも、悲しみのままでは終わらない、主が違うものに変えて下さるのです。
カナダでお会いした1人の姉妹は、ご主人が若くして病気で召されて行く、その悲しみの中で信仰を持たれた方でした。ご主人が病床洗礼を受けられたことは大きな慰めでしたが、当然ながらご主人のご召天は、姉妹には大きな悲しみの出来事でした。しかし、ご主人が召天された3年後に、姉妹は次のように証しをされました。「なぜ、自分の人生にこんなことが起こるのか、苦しい杯を無理やり飲まされた感じでした。しかし今思えば、あの苦しみの時が、私にとって本当の意味で神様にお会いできた時でした。苦しみの中で神様に会えるということが、どれほど大きな恵みであるのか、後になってよく分かりました。主人の召天も、私達には見えない神様の永遠の計画の1つであったと受け止めています。神様はあの時以来、今に至るまで、私達が倒れないように溢れるほどの恵みで包んで来て下さいました。今、私達は、神様の祝福と平安の中で暮らしています。でもこれは、次の試練への準備期間だと思っています。次の試練の時も、その中で神様に信頼して、神様と深く出会う経験をしたいと願っています」。主だけがなし得る慰めだと思います。同じようにイエスに深く出会った人々は、慰めを受けたのです。静かな、しかし深い喜びを、感謝を与えられたのです。その感謝、喜びを、悲しみの表現である断食で表すことはできないのです。主が共におられたのです。だからイエスを信じる群れでは、時に断食をすることがあっても、それが「信仰のしるし」とはならなかったのです。
確かにイエス様は「しかし、花婿が彼らから取り去られる時が来ます。その日には断食します」(20)と言われました。それは、イエスが十字架に架かられる時のことです。その時、弟子達は、断食というか、食事も喉を通らないほどの絶望を味わいました。イエス様を裏切った自分達を責めることもしたことでしょう。しかし、イエスは甦られました。甦ったイエスは、また弟子達と共にいて下さり、共に食事をして下さったのです。イエスは、やがて天に帰られましたが、今度は、聖霊として弟子達と共におられました。弟子達には、主が共におられるという希望がありました。だから、イエス様を信じる群れにあっては―(繰り返しますが)―「神が見えない」と断食することが「信仰のしるし」とはならなかったのです。
 では、何が「信仰のしるし」となったのでしょうか。私達も、同じように、聖霊としてイエスが共にいて下さいます。主の恵みと憐れみの中に生かされています。私達にとっても、何が「信仰のしるし」となるのでしょうか。
イエスは「新しい酒は新しい皮袋に入れるのです」(22)と言われました。新しいブドウ酒は発酵を続けてガスを出すそうです。古い、固い皮袋では、そのガスの圧力を受け止めることができません。新しい、柔らかい皮袋でなければダメなのです。何を言っておられるのか。イエスはこの比喩を通して、イエス様を受け止められる「新しい皮袋」になること、つまり新しい信仰を持つことを勧められておられるのです。それはまた「古いものに継ぎを当てるような信仰でもダメだ」と言われます。新しくなることが勧められているのです。しかし私達は、なかなか変わろうとしない者ではないでしょうか。変わることは難しいです。だから私達は、往々にして、イエス様を信じることによって、慣れ親しんだ古い自分を少し変えて、そうやって信仰生活を生きて行こうとしてしまうのではないでしょうか。しかし、繰り返しますが、イエスは「新しくなりなさい、新しい信仰を持ちなさい」と言われます。それがイエスの群れの「信仰のしるし」となるのではないでしょうか。どのように新しくなれば良いのか、どのような信仰を持てば良いのでしょうか。
「百万人の福音」の11月号は「祈りか聞かれない時」というテーマでした。私達の信仰生活にも、祈りが聞かれないように思う時があります。自分の思うようにならないことも多いです。「生きて行くことは難しいな」と思います。私は、拉致被害者の横田めぐみさんのお母さん、横田早紀江さんの文章に教えられました。横田さんは「ヨブ記」を通して信仰を持たれるのですが、信仰を持たれた時、「命は神が与え、神がとられる、人間は神にゆだね、ただ神に与えられたご用をすればよいのだ」(横田早紀江)と思われたそうです。そう思った時「神の光が差し込んで来た」と書いておられます。その時、彼女は宣教師を通して祈ることを教えられました。「ちょっとした時間でいいから祈りなさい。どんなことでも神様とお話をしなさい。その祈りのつみ重ねが大事ですよ…」。それから、彼女を囲む「祈りの会」が生まれたのです。
私が感心するのは、それから40年、横田さんが祈り続けておられるということです。彼女は言われるのです。「神を信じたあの日から一度も祈りをやめようと思ったことはない」(横田早紀江)。なぜでしょうか。主が共におられることを、その信仰によって受け止めておられるからではないでしょうか。その信仰で、主の愛に信頼し、主の中に希望を見、主の御手に全てを委ねておられるからではないでしょうか。めぐみさんは、まだ帰って来られない。しかし主は、キリスト教を否定し、「物語のような聖書の話など信じられない。祈っても何もかわらないじゃないか」と言っておられた夫の滋さんを信仰に導く、という御業を見せて下さるのです。「神は時にかなって本当に麗しいことをなさる。祈りを聞いてくださるのだと感じた瞬間でした」(横田早紀江)と言っておられます。主は、慰めを、喜びを下さるのです。
私は思うのです。私達と共にいて、私達を愛し、時にかなって慰めを与えて下さる主、喜びを与え、感謝を与えて下さる主、その主を、どこまでも信頼し、期待し、委ね、そして祈り続けること、それこそが、私達の「信仰のしるし」なのではないでしょうか。「新しくなる」とは、色々な試練はある、しかしそれでも神に、主に信頼すること、期待すること、委ねること、祈り続けること、そこに身を置くこと、身を置くことに決断することではないでしょうか。聖書は言います。「望みを抱いて喜び、患難に耐え、絶えず祈りに励みなさい」(ローマ12:12)。その時、主は、様々な恵みを見せて下さるのではないでしょうか。私達の信仰は、その主の恵みを受け止めることができるのではないでしょうか。
実は、私自身、その線の向こう側に渡り切っていない、と思わされて、悔い改めています。線のこちら側にいて、時に神様に期待し、時に神様に失望し、時に神様を褒め称え、時に神様に呟く、そんなことを繰り返している自分がいます。だから、主イエスの醗酵するような豊かな恵みを受け止めそこなっているのではないか、と思うことです。
もう1人、宮原寿夫という方の言葉もご紹介します。この方は阪神大震災の時に、天井が落ちて来て、5歳のご次男を天に送られたのです。そんな経験をされながら、こう言われるのです。「信仰を持つということは、どんな状況でも、自分に思わしくない状況に思える時にも、必ず背後で神様が事を行っていてくださっている、と考えられることでしょう。それが何であれ、今の自分にとって最善のことを神はしてくださっている、と思えることが信仰でしょうし、今までを振り返ってみて、確かにそうだったと思えることは感謝すべきことですね」(宮原寿夫)。私は、この言葉の中にも、キリスト者の「信仰のしるし」を見る思いがします。
いずれにしても、イエスは、この個所を通して「私が与える慰めを、喜びを、いや私自身をしっかり受け取ることのできる新しい信仰を持ちなさい」と勧めておられます。変わることは難しいです。だからそれは、最終的には聖霊がして下さることです。そこに希望があります。しかし私達自身も変わることを、変えられることを求めて行くように、線の向こうに立つ決断をするように、勧められているのではないでしょうか。その招きに応じて「変わること、変えられること」を祈り求めて行きましょう。心揺さぶられるようなことの中で、しかし主に信頼する側に立つ、主に期待し、委ね、祈り続ける、「望みを抱いて喜(ぶ)」、そのような「新しい皮袋」でありたいと願います。そして、地上に於いてそのような信仰を生きたその軌跡(足跡)は、生きている間に私達を、慰めと感謝に与らせ、信仰の祝福に与らせるだけではない。その歩みを通して私達の魂に刻まれたものは、私達が天の御国に帰った時にも、きっと永遠の意味を持つのです。
 

聖書箇所:マルコ福音書2章13~17節

「愛する人が襲われたら」という本の中にこんな話があります。日本で合気道を学んでいるアメリカ人の青年が電車に乗っていると、酒の臭いをプンプンさせた酔っ払いが乗って来ました。赤ちゃんを抱いている女性にはぶつかり、怖がって逃げようとしたお婆さんには蹴りを入れようとしました。青年は、今こそ合気道を使って世のため人のため、酔っ払いをとっちめてやろうと立ち上がりました。その瞬間、酔っ払いに向かって「よう!」と声をかけるお爺さんがいました。お爺さんは、酔っ払いに上手に話しかけ、彼の身の上話を引き出すのです。酔っ払いは、涙を流しながら自分の辛い状況を話し、お爺さんがそれを受け止めて上げると、お爺さんに心を開いて、ついにはお爺さんのひざに頭をもたせかけるのです。その様子を見て、青年は自分の未熟さをしみじみ反省する、という話です。この話は「人は自分を理解してくれる人をどんなに切実に必要としているか」いうことを教えます。私の中でこの話と今日のレビの話とが重なったのです。
今日の箇所は、金持ちだったであろう取税人レビが、イエス様の招きに応えて、生活の資を捨ててイエス様の弟子になる様子を描きます。失ったものは大きかったでしょう。なぜ彼は、イエスの招きに応えたのでしょうか。私は、この個所は、レビの姿を通してキリスト教信仰の恵みについて教えてくれる個所だと思います。2つのことを申し上げます。
 

1:キリスト教信仰は招きに始まる

レビは、カペナウムの町で取税人をしていました。当時のカペナウムは、国境に位置する町でした。そこには収税所(税関)があって、レビはそこで働く取税人でした。当時の取税人は、その仕事のために人々から嫌われていまいた。特に宗教のリーダー達は「お前達のような者がいるから国が祝されないのだ」と毛嫌いしていました。レビも、そのような軽蔑の視線、冷たい視線に絶えるような生活を送っていたと思います。そのカペナウムは、イエス様が伝道の拠点に定めておられた町でもありました。イエス様は、会堂がイエス様に扉を閉ざし始めていたのでしょう、時に湖畔で、時に丘の上で、人々に教えられました。説教を終えて、その日の宿を求めてカペナウムに帰って来られる途中に、収税所にいるレビを見られたのかも知れません。レビに向かって言われるのです。「わたしについて来なさい」(14)。この一言で、レビは全てを置いてイエス様に従って行くのです。
「なぜイエスは、レビを召されたのか、なぜレビが、この一言でイエス様に従ったのか」、ここには何も書いてありません。おそらくレビは、イエス様がどこかで話しておられるのを既に聞いていたのだろうと思います。「ルカ18章」でイエスは譬え話をしておられます。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようではないことを、感謝します…』。 ところが、取税人は遠く離れて立ち…自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』。あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません…だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(ルカ18:10~14)。イエスは、色々な場所で同じ話をされたでしょうから、レビもこの話を聞いていたかも知れません。そうだとしたら、レビは「この人なら取税人である私をも受け入れる人に違いない」と、イエス様の中に「人生の導き主」としての光を見ていたということは考えられます。しかし、マルコはそんなことを長々と述べない。イエス様が「わたしについて来なさい」と言われ、その一言で彼は立ち上がってイエス様に従うようになった、それだけ書きました。申し上げたように、レビにはレビの心のドラマがあったと思います。しかしそれでも、自分がイエス様の弟子になる物語は、突き詰めれば、イエス様が自分を招かれた、それで全てだったのではないでしょうか。
私は「キリスト教信仰は招きで始まる」ということを思うのです。皆様、お1人びとりが、それぞれ違う道筋でキリスト者になられたでしょうし、これからなられることでしょう。誰1人として同じ人はいない。しかし共通しているのは、「『キリスト者になろう』と思って生まれて来る人はいない」ということです。人生のどこかの時点で―(それはどこか一点ではなくて継続する期間かも知れませんが)―「神様を信じよう」と思う状況が出て来るのです。問題の中で教会に導かれたり、キリスト教を勧める人があったり、誰かの影響で教会に行くようになったり…。子供の頃にキリスト教に触れる機会があった、という方もおられるでしょう。様々だと思います。しかし、それは自分で造った状況ではない。神様を信じるようになる状況が、私達の回りに置かれるのです。それが神様の私達に対する「招き」なのです。今神を求め、神を見上げておられる全ての方が、1人残らず神様に招かれたのです。そうでなければ、キリスト教が圧倒的少数派の日本で、私達が神を求め、神を見上げるようにはなっていない、と思います。
ある時、私はある姉妹と洗礼準備会をしていました。その姉妹がご自分の色々な思いを分かち合って下さった後、「こんな私がクリスチャンになって良いのでしょうか」と言われました。私はイエス様の御言葉を紹介しました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(ヨハネ15:16)。イエスはこうも言っておられます。「父のみこころによるのでないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない」(ヨハネ6:65)。神があなたを選んで招かれたのだと、お話ししたことでした。実感のない話です。しかしイエス様がそう教えて下さるし、この個所もそのことを教えるのです。
私にも教会に繋がるようになった道筋はあります。しかし「なぜ、私は神様を信じるようになったのか」、突き詰めて考えてみれば、神が招いて下さったから、それ以外に考えられないのです。人が信仰者になって行く理由、それは、その人が必死になって神にしがみついたからではないのです。まず神が招き、身許に引き寄せて下さったからです。私達の側の動機が大切なのではない。いや、それも大切でしょう。しかし、私達の信仰生活の大前提は、私達は神様に招かれた、ということです。私達は、そこに信仰生活の根拠を置くことができるのです。神様が招いて下さったから、神様が責任を持って下さるのです。それがキリスト教信仰の恵みです。イエスはレビを召されました。イエスは私達を召して下さいました。そして今日、改めて私達を(あなたを)招かれます。「わたしについて来なさい」(14)。
 

2:キリスト教信仰は赦しの信仰である

ここにもう1つ、キリスト教信仰の恵みのポイントがあります。15節「それから、イエスは、彼の家で食卓に着かれた。取税人や罪人たちも大ぜい、イエスや弟子たちといっしょに食卓に着いていた。こういう人たちが大ぜいいて、イエスに従っていたのである」(15)。レビは、これから仕事を捨ててこの人について行く、その決断を示す思いがあったのでしょう、何より、他の人が自分に向ける冷たい視線とは違う、暖かな視線を向けてくれる人がいた、仲間にもその人のことを知って欲しかったのではないでしょうか。それでイエス様を招いて宴会を開きます。そこには取税人や、パリサイ人から「罪人」と呼ばれていた人達が同席していました。聖書の「罪人」は、基本的には「パリサイ人や律法学者の基準に合わない人」のことです。取税人もその仕事の故に「罪人」でした。当時の社会は、90%の貧しい人々と、10%の地主とで成り立っていた社会です。イエスの周りに集まっていた貧しい人々の中には、「罪人」とレッテルを貼られることを覚悟しなければ生きて行けない人もいたのです。それにも拘らず「誰か罪を犯す者はいないか」と見張っていたのがパリサイ人であり、律法学者です。彼らは、レビが主催した宴会の様子を見て怒ります。彼らにとって取税人や「罪人」は、遠ざけなければならない存在でした。自分達だけではなくて、宗教家ならば近づきになるはずがない連中だったのです。ところがイエス様は、その彼らと楽しそうに食事をされたのです。それが、彼らには我慢できませんでした。だからイエスの弟子達に言うのです。「なぜ、あの人は取税人や罪人たちといっしょに食事をするのですか」(16)。
それに対してイエスは言われます。「医者を必要とするのは丈夫な者ではなく、病人です。わたしは正しい人を招くためではなく、罪人を招くために来たのです」(17)。これは「『正しい人―(神の前に何の罪もない人、霊的な癒しを必要としないような人)』が少しはいる」という意味ではありません。そんな人はいません。そうではなくて「癒される必要を感じなければ、その人は癒しを受け取れない」ということです。レビがイエス様の召しに答え得た理由が、ここにあります。レビは自分の生き方が良いとは思っていなかったのです。人々の冷たい眼差しによって「自分が罪人である、神に喜ばれるように生き得ていない」ということは、嫌というほど自覚させられていました。しかし、だからこそ「罪人を招くために来た」と言われるイエス様の招きに答えたのです、応答できたのです。
私達には、人に言えない、聞かせたくない思いがあります。心に様々な傷―(痛みや、悲しみや、情けなさや、悔しさや、恨みや…)、そのようなものを持っているのが私達です。しかしイエス様は言われます。「『自分の心―(生き方)―がどこか病んでいる。心に傷がある。何とかしたいけれどどうにもならない』、そのことを感じている人、そのことに苦しんでいる人、そういう人を招くために、私は来たのだ」。先程の姉妹が、こう言われました。「辛いところを通って来たし、奇麗事だけでは済まされないものがあります、こんな醜いこともあったし、今もあるのです」。私は申し上げました。「その人に言えないような部分、心の傷の部分でイエス様と繋がって下さい。いやその部分でこそ、私達はイエス様と繋がれるのです」。
宗教のリーダー達は、自分を聖く保とうとして頑張り、しかしそれが他の人に対する優越感になり、独善的になり、結果としてイエスの差し出しておられる「癒し(赦し)の恵み」を受け取ることができなかったのです。どんなに頑張っても、神の前に全く喜ばれるように生きることは、私達には―(誰にも)―できないです。三浦綾子さんがこんなことを言っています。「何気なく言う悪口、陰口…その心の中にとぐろを巻いているのは、敵意、ねたみ、憎しみ、優越感…ではないか…だが人の悪口を言ったことのない者はいないだろう。私達は1人残らず罪深いのだ」(三浦綾子)。私の心にも、人を憎む思い、赦せない思い、あるいは妬み、そんなものがとぐろを巻いています。皆様はいかがでしょうか。私達にも、自分ではどうしようもない心の罪があるのではないでしょうか。であれば、神様の基準に合格するようにはとても生きられないのですから、神様と和解し、神様の恵みの御手の中で生き、そして天国の祝福を頂くには、神に赦してもらうしかないです。だからこそイエス様は、私達が神の赦しをもらえるように、私達の罪を背負って、十字架に架かって、それを始末して下さったのです。
キリスト教は、「神の赦し」を土台とします。だから救いがあるのです。先週も少し紹介しましたが、三浦綾子さんのトラクトは、次のような言葉で終わっています。「今まで、どんなに罪深い生活をして来た人でも、自分勝手な人でも…自分自身に愛想つきた人でも、そのままでいい。罪深いままでいい。聖書にあるとおり、キリストは我々罪人を救うためにこの世に来られたのだ。ああ、私が悪かった、おゆるしくださいと言う人を、神は喜んで迎えようとしておられるのだ。だまされたと思って、あなたもイエス・キリストの神を信じて下さい。全く別の人生があなたの行く手に待っていることを、わたしは断言してはばからないのです」。ご自分が罪の泥沼から引き揚げられた経験を持つ彼女自身の信仰告白だと思います。
しかも、赦されて主の招きに応えたレビはどうなったか。イエスに招かれたレビが、今度はイエスを招いているのです。イエスの「招き」に答えた者は、今度はイエスを招くことができるのです。問題の中に、悩みの中に、途方に暮れる状況の中に、主に来て頂く…いやこの人生そのものに主に来て頂き、祝福して頂くことができるのです。「無実の罪で14年間も旅行先のメルボルンの刑務所に服役しなければならなかった方」の証を読みました。彼は「なぜ私にこんなことが?」という中で聖書と出会い、イエス様と出会います。もちろん大変な日々を過ごします。しかしイエス様を迎えることで、14年を乗り越えて行くのです。そして今「この14年がなければ、私の『我』が砕かれることはなかった。神の愛なんか分からなかった。いや何より自分の人生の本当の姿に気付くこともなく、人生そのものが『有罪』で終わるところだった」、そう言ってその辛い経験を「主に在って意味あるもの」として見ておられるのです。イエス様に来て頂く時、私達のものの見方が変えられます。出来事の意味が変わります。感謝をもって振り返ることができるようになるのです。
いずれにしても、キリスト教信仰は、私の良さに懸かっていない。ただ赦されて、神との関係に入ることができる信仰です。私達も過去を赦され、今を赦されて、将来を赦されて、この時があるのです。それこそキリスト教信仰の恵みです。そして、誰でもがその恵みに与ることができるのです。

最後に

今日、キリスト教信仰の恵みについてお話ししました。最後に1つのことをお話しして終わります。レビは、後に「マタイ福音書―(『歴史上、最も多くの人に影響を与えた本』と言われる)」を書くマタイその人です。「マルコ福音書」は「12使徒の1人であるマタイの過去―(かつて取税人であった)―をあまり広めたくない」という配慮からでしょう、「レビ」という昔の名前を用いています。でも当のマタイは、自分の「福音書」の並行個所に「レビ」ではなく「マタイ」という名前を使うのです。(せっかく気を遣ってもらったのに、です)。しかしマタイは「私は、かつて取税人として嫌な思いをしながら生きていた、罪の中に生きていた、しかし、そこで私はイエス様の『癒し(恵み)』を受け取ったのだ。そこでイエス様に出会ったのだ」と叫ばずにはいられなかったのではないでしょうか。だから「私こそ、この取税人なのだ」と書いたのです。それこそ、キリスト教信仰が恵みの信仰であることを、私達に教えてくれる事実ではないでしょうか。キリスト教は「恵みの信仰」です。招かれ、赦され、神様と生きて行くことができるということを、感謝したいと思います。
 

聖書箇所:マルコ福音書2章1~12節

カナダに行って、珍しかったものの1つに、板葺きの屋根がありました。昔、「大草原の小さな家」というテレビ番組の中で「屋根板を直す」という言葉が出て来たのを覚えていたのですが、私は、板葺きの屋根を見たことがありませんでしたので、「これが板葺きの屋根板か」と珍しがって眺めていたことがあります。日本では、瓦葺の屋根がまだ多いのでしょうか。スレート葺が多いのでしょうか。しかし、板葺きにしても瓦葺にしても、屋根を剥がして、天井にも穴を開けて、そこから人を吊り降ろそうと思ったら、大変な作業になるだろうと思います。しかし、イエス様の当時のパレスチナの家はそうではなかったようです。当時の家は粘土で造られていて、屋根は梁と梁の間に木の枝を渡して、その上を粘土で覆うような構造だったようです。ですから表面の粘土を少し掘り返して、下の枝を抜き取るか、押し分ければ穴が開いたようです。またその屋根は平たくて、外には屋根に上るための階段がつけられていました。だから「棺桶の出し入れは屋根から為された」という話も残っています。
さて、本日の説教には「あなたの罪は赦されました」(5)というイエス様の言葉をそのままタイトルに使いました。この言葉は、そしてこの個所は、何を語るのでしょうか。2つのことを申し上げます。
 

1:信仰の祝福~神との和解

イエス様が、またカペナウムの町に帰って来られました。カペナウムにおける「家」は、おそらくシモン・ペテロの家だったしょうか。イエス様が帰って来られたというので、大勢の人々が詰めかけ、立錐の余地も無いほどになりました。そこへ4人の人が中風―(「脳出血による身体の麻痺」のような病気でしょうか…)―のために身動き出来ない人を担架に乗せて運んで来ました。ところが、家は入り口まで人で溢れていて、とてもイエス様の所まで近づけません。そこで4人は、彼を担いで屋根に上り、粘土造りの屋根の一部に穴を開けて、そこからこの人を吊り降ろすのです。申し上げたように、当時の家は、大して家を損なうことなく屋根に穴を開けることができたし、修復も簡単にできたようです。それにしても大胆なことをしたものです。しかし5節に「イエスは彼らの信仰を見て…」(5)とあります。インターネットの動画サイトで、あるご高齢の牧師が訴えておられました。「どうにもならないような苦しみの時、神様に助けを求めれば良いのです。神様は助けようとしておられるのです…」。イエス様は、イエス様に心から期待し、助けを求める彼らの信仰を喜ばれたのです。
しかし、「イエスは彼らの信仰を見て…」(5)という言葉は、興味深い言葉です。「彼ら」とは、中風の人も含まれるかもしれませんが、むしろ担いで来た4人の信仰でしょう。つまり、「ある人」のために執り成す人の信仰によって、その「ある人」にイエス様が働いて下さる、ということを教えるのです。つまり、執り成しの祈りがいかに大切かを教えられます。3年前に「信徒大会」に来て下さった横山先生がこう言っておられます。「これまで、どれだけ多くの方々の隠れたところでささげられた祈りによって、祝福を受けて来たことだろう。そのほとんどは、知られないままに、知られないところでささげられた祈りだろう。私達は、目に見える人間的な努力や知恵に成功の原因を見ようとする。しかし、天国に移されたとき、永遠に残る仕事のほとんどが、祈りによってなされていたことを知るにちがいない」(横山幹雄)。執り成しの祈りの大切さを教えられます。だからお互いに祈り合うことは素晴らしいのです。自分で祈れない時でも、誰かが神に執り成していて下さる、それは本当に感謝なことです。私は今回の手術を通して、祈られることの幸いを、また強く感じました。
しかし、それに対するイエス様の応答は意外なものでした。「子よ。あなたの罪は赦されました」(5)。不思議なお答えですが、この言葉が信仰について教えるのです。なぜ、このようなことを言われたのでしょうか。
1つには、当時の人々は「病気は罪の結果として起こる」と考えていたということがあると思います。「ヨハネ9章」に、生まれつき目の見えない人を指して弟子達が「先生、彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか」(ヨハネ9:3)と尋ねる場面があります。イエス様は「(誰のせいでもない)…神のわざがこの人に現れるためです」(ヨハネ9:3)と言われました。明確に罪と病気の因果関係を否定されました。しかしそのように、人々は一般に「罪が病気を引き起こす」と考えていました。当時のユダヤ教は「あなたが病なら主に祈れ。過ちの道を捨てて正しい道に帰れ。心を罪から清めよ。罪のための犠牲の捧げ物を捧げよ。それから医者を求めよ…」と教えました。つまり、神から罪の赦しを頂かなければ、彼の心は癒しに向かわないのです。彼が何か具体的な罪を犯していたかどうか分かりません。しかしどんな人でも、神の愛に生きることはできていないはずです。あるいは「あれが悪かったのではないか」と思い当たるような罪が、1つや2つはあるでしょう。そして何百もあった律法の量りで量れば、自分を責めようと思えばいくらでも責められるのです。だから「罪が赦されなければ病気は治らない」と信じている人にとって、まず必要なのは、罪の赦しが宣言されることだったのです。それによって彼の心は、癒されることに向かうのです。ということは、イエス様は、彼らの熱心な信仰を見て、最善の形でそれに応えられたのです。イエス様は、まず「罪の赦し」を宣言され、それによって彼の心に、癒しへ向かう準備ができて、その心と共同作業をするかのようにして、体の癒しを為さったのです。そのための「罪の赦し」の宣言だったのです。
しかし、それだけではありません。2つ目にもっと大切なことがあります。2節に「この人たちに、イエスはみことばを話しておられた」(2)とあります。それは恐らく、イエス様が宣教の初めから語って来られた「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(1:15)という言葉だったでしょう。確かに彼にとって、病が癒されることは切実なことでした。いや、何よりも大切なことだったでしょう。だからイエス様は、その願いにも答えておられます。しかしイエス様は、永遠の観点から見た時、病の癒しと同様に、いやそれ以上に必要なものを知っておられたのです。それは「神との和解」です。罪赦されて、神の子とされる必要です。
ある時、「バウンダリー(境界線)」という学びをしました。その中で教えられたことに「人間関係を本当の意味で豊かな、健全なものにするために必要なことは、必要な時に『ノー』と言えること、また他の人の『ノー』を受け入れられること」、ということがありました。しかし、私は「ノー」ということが苦手です。なぜかというと、「『ノー』と言って悪く思われたら、好意を持ってもらえなくなったらどうしよう」と思うのです。それを考えた時、天地万物を造られた神様と和解して、神様の好意を得ながら生きて行けるという恵みの大きさを思うのです。その恵みは、日毎の恵みです。さらに永遠の恵みです。私は虫垂炎の痛みから解放してもらった時、「人を苦しみから救う仕事は素晴らしいな」と思ったのです。その時、心に響く声がありました。「クリスチャンの仕事は、永遠の苦しみから人を救う仕事ではないか」。もし、神様を恐れながら、そして死を恐れながら、生きて行かなければならないとしたら、どれだけ人生は苦しいでしょうか。
「ハイデルベルク信仰問答」という問答書は、信仰者の祝福を次のように告白します。「生きるにも死ぬにも、あなたのただ1つの慰めは何ですか…(それは)私が…体も魂も、生きるにも死ぬにも…イエス・キリストのものであることです。この方は…天にいますわたしの父の御旨でなければ、髪の毛一本も落ちることができないほどに、私を守っていて下さいます。実に万事が私の救いのために働くのです…」(ハイデルベルク信仰問答)。「神の守り」という慰めの中を生きることができると言うのです。そして、この言葉で思い出すのは、再三引用する「ローマ書8章28節」の御言葉です。「神を愛する人々、すなわち、神の御計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私達は知っています」(ローマ8:28)。「アルファ・コース」のガンベル先生は「この『すべて』には私達の失敗さえも含まれている」と言います。失敗さえも、やがて益に変えて下さる、何という励まし、慰めでしょうか。「メッセージ訳聖書」は「ゼパニヤ書3章」の言葉を次のように訳します。「心から喜んでいいんだ。神様はあなたをもう裁かない。神様がリーダーになってあなたの中にいてくれる。だからもう悪いことが起こるのを恐れなくていいんだよ」(ゼパニヤ3:14~15)。神と和解すること、私達は、それによって初めて、深いところから来る平安に支えられて生きることができるのではないでしょうか。病の中にあっても、神と和解しているなら、神に期待することができます。私の生涯に責任を持って下さる神に委ねることができます。
イエス様が地に下って来て下さったのは、この「神との和解」に生きる人々を生み出すためでした。肉体の癒しは預言者も行いました。ある預言者は、死人を甦らせることさえしました。しかし「罪の赦し」を宣言すること、「神との和解」を与えること、それは預言者の業ではない。それは神様の業です。まさにイエス様だけが出来たことです。CSルイスは示唆に富んだことを言っています。「『罪を―それがどういう罪でも―赦す』…あまりにも途方もないことなので…神でもない者がそんな言葉を出すとするなら…歴史上最大の思い上がりである…しかし、イエスはまさにそういうことをやった男だったのである」(CSルイス)。なぜ、イエス様にはそれが言えたのか。それはイエス様が、受け入れる人々の罪をご自分の肩に負い、その罪を十字架で始末することを前提として生きておられたからです。私達の人生には病があります。問題があります。しかし、もし私達が神と和解しているなら、私達の魂に響く声があるのです。「子よ、あなたの罪は赦されている。神はあなたに対して怒ってはおられない。神はあなたを我が子として愛しんでおられる。あなたは神の御手の中にいる」。
 

2.神との和解をもたらすもの~罪の自覚と赦しの願い

では、何が神との和解をもたらすのでしょうか。ここに律法学者が登場します。イエスが「子よ。あなたの罪は赦されました」(5)と言われたのを聞いて、彼らは心の中で呟きました、怒りました。「神おひとりのほか、誰が罪を赦すことができよう」(7)。何を言っているかというと、神殿で犠牲を奉げて行われている「赦しの儀式(システム)」があったのです。律法学者は、それが神が与えたものだ、と信じていたのです。ところが、イエスは「神殿の赦しのシステム」を無視して、(いわば)道端で「赦し」を宣言された。それで「神殿の儀式以外に誰が勝手に赦しを宣言出来るのか」と怒っているのです。実際、CSルイスが言うように、神でない者がそんなことを言ったら、おかしいです。しかもユダヤにあっては、自分を神の立場に置いたということで、「涜神罪」でした。 
しかし、ここに彼らの落とし穴があります。律法学者は、病の人を見ると、その人の中に罪を見て裁きました。だから彼らにとって、罪が赦されることなしに、癒しはなかったのです。ところが目の前でイエスによって癒しが起こりました。ということは、彼らの理屈に従えば「罪の赦しが行われた」ということです。ユダヤ人は、神に罪赦されて、来るべき「神の国―(次の世界)」に入って行くことを願っていました。その「罪の赦し」が行われたのです。人には言えない言葉を堂々と宣言し、それを証明する人が、目の前に現れたのです。しかもイエス様は、自らを「人の子」と呼ばれました。これは「旧約・ダニエル書」の言葉ですが、やがて神から遣われる者は「人の子」と呼ばれることになっていたのです。罪を赦す権威を持つ神からの人が現れたのです。待ち望んでいたことが現実になったのです。彼らは諸手を上げて歓迎しても良かった。それなのに、彼らはイエス様に手を伸ばすどころか、呟く、怒る、やがて殺意まで持つのです。
なぜ、真っ先にイエス様の祝福を受け取って良かったはずの彼らが、イエス様を拒否してしまうのでしょうか。彼らは律法の教師として「私は罪の問題の専門家だ、人の罪を判断し、裁くことが自分の仕事だ」と思っていました。ところが、その中でいつしか「自分こそが神の赦しを必要としている」ということを忘れてしまっていたのです。そして彼らはイエス様の差し出しておられる「罪の赦し」を拒否するのです。
だからイエス様は、「信仰と何か」を教えるために、ある時、「放蕩息子」の話をされたのだと思うのです。こんな話です。父親の財産を無理矢理もらって、遠い国へ行って遊び暮らし、そこで財産を使い果たしてどうにもならなくなった息子がいました。どうにもならなくなった彼は、やっと我に返って「父の所に帰ろう」と思います。「ただ父にお願いして赦してもらおう、そして息子ではなくて、ただの雇い人としてやり直しをさせてもらおう」と思います。そして彼は、ボロボロになって父の家に帰りました。彼には父に見せることのできるものは何にもありませんでした。「赦してもらう」、それしかなかったのです。しかし父は、息子が帰って来た、そのことをただ喜び、走って行って出迎え、一切を赦し、大事な我が子として受け入れたのです。この譬え話は、聖書の中で唯一、神が走る姿を描いている話だ、と言われます。それほど神は、人が罪を悔い改めて帰って来るのを待っておられるのです。イエス様は、この譬え話を通して「人は、ただ自分が神の御心に適わないことを自覚して、赦しを請い、神から全てを赦してもらって、受け入れてもらうしかないのだ。それが神と人との関係なのだ。それが信仰なのだ」と教えられたのです。
私は、洗礼を受ける時も、その後も、自分が罪人であることを分かっていませんでした。しかし、仕事の失敗を通して「自分も罪人だった」と教えてもらい、ボロボロの心の状態で神様に赦しを願いました。その時、神様が、教会を通して赦しを宣言して、私を受け入れ、私が神の恵みを感じながら生きることができるようにして下さいました。先日、虫垂炎の手術をした時も、神様は平安を下さり、術後は、日に日に癒して下さいました。罪赦されて、神様と和解できる、本当に感謝なことです。三浦綾子さんもトラクトに書いています。「私が悪かった、おゆるしくださいと言う人を、神は喜んで迎えようとしておられるのだ」(三浦綾子)。イエス様が「これを知って欲しい」と願われたのは、私達が、自らの罪深さ(欠け)を認め、ただ罪の赦しを請う時、神は、私達の罪を全く赦して、私達を神様と和解させて下さり、神との恵みの関係に入れて下さるということです。私達は、ただ赦されて、神様との関係に入れて頂いた―(入れて頂く)―のです。その恵みを忘れないように、神の御前を謙遜に生きて行きたいと願います。
 

終わりに

今日、「あなたの罪は赦されました」(5)という御言葉から学びました。赦されて、神と和解させて頂き、神との恵みの関係を生きることができる、それがキリスト教信仰です。その恵みを良く教えてくれるのが、「アメージンググレース」を作ったジョン・ニュートンの最晩年の言葉です。「私は、2つのことだけは覚えている。1つは私がとんでもない罪人であったこと。もう1つは、キリストはとんでもない救い主であったということだ」(ジョン・ニュートン)。