2022年1月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:マルコ福音書3章13~19節

 バンクーバーにいる時に、ある方に誘われて、ホームレスの人達に食事を提供しながら伝道する働きをしている牧師先生に会いに行ったことがあります。大通りから少し引っ込んだ通りにあるビルの1階で集会がなされていました。そこには多くのホームレスの人達が集っていました。私達が訪ねた時は、実は大変な時だったらしく、その集会があるために、そこにホームレスの人達が集まって来るので、近所の人達が「どこか他所に行って欲しい」という運動をして、集会は立ち退かなければならないかも知れない、という状況だったようです。そういう切羽詰まった状況で礼拝をしておられましたから、牧師は「私達にはイエス様がいるじゃないか、イエス様が助けて下さる」と参加者に言って、ワーシップソングを、涙を流しながら歌っておられたのが非常に印象的でした。礼拝と食事が終わった後、先生と個人的に話をしました。「大変な働きだと思いますが…」と言ったら、先生は「色々な働きをして来たけれど、今が一番恵まれた心境です」と言われました。私は「色々な伝道の働きがあるのだな」としみじみ思いました。
 今日の箇所は、イエス様が「12弟子」を選ばれる個所です。12人の中には、ペテロのように有名な人もいますが、名前だけしか分からない弟子もいます。しかしそれぞれの弟子が、それこそ涙を流しながら色々な働きをして、伝道したのだと思います。その働きによって、キリストの教会は、立ち上がって行ったのです。
13~14節に「イエスは山に登り、ご自身のお望みになる者たちを呼び寄せられたので、彼らはみもとに来た。そこでイエスは十二弟子を任命された」(13~14)とあります。イエス様は、ガリラヤ伝道のある時点で、弟子達の中から「12人」をお選びになり、いわゆる「12弟子(12使徒)」を形成されました。「12」という数字は「イスラエル12部族」に因んだ数字でしょう。イスラエルが奴隷の地エジプトから脱出する様子を記録する「出エジプト記」で、指導者モーセは、山の上で神から新しい使命を与えられ、それを民(12部族)に語るように命じられ、語り聞かせました。「あなたがたはわたしにとって祭司の王国、聖なる国民となる」(出エジプト19:6)。同じように、山の上でイエス様から新しい使命を受けたこの12人によって、今に続く「新約の神の民」は創られ、「神の御業」は始まるのです。
では、彼らに与えられた使命とは何でしょうか。3つの使命があります。第1に「彼らを身近に置(くため)」であり、第2に「彼らを遣わして福音を宣べさせ(るため)」であり、第3に「悪霊を追い出す権威を持たせるため」でした。12弟子の1人ペテロは、後に教会の信者にこう書き送りました。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です」(1ペテロ2:9)。かつて神がイスラエルに語られたその言葉を、諸教会のキリスト者に向けて「あなた方こそ、その役割を与えられた者なのだ」と語ったのです。その意味でこの3つの使命は、弟子達だけではなく、「イエスを信じる全ての信者(私達)に与えられているもの」だと言うことが出来ます。今日は「私達に与えられている使命」について学びます。
 

1: 「彼らを身近に置く」~主に繋がる

「最初の使命」は、「彼らを身近に置(くため)」ということです。この12人についての情報は、ペテロを除いて限られています。「ペテロ」、「ヤコブ」、「ヨハネ」、「アンデレ」の4人は漁師でした。「ピリポ」は、詳しく分かりませんが、朴訥な人柄だったようです。「バルトロマイ」は「ヨハネ1章」に登場する「ナタナエル」と同一人物だろうと言われます。「マタイ」は取税人でした。「トマス」は「疑り深いトマス」と呼ばれるようになる人です。「アルパヨの子ヤコブ」については名前しか分かりません。「熱心党員シモン」、熱心党は当時、サドカイ派、パリサイ派等に続いて4番目の勢力を持っていたグループで、国粋主義的な人の集まりでした。「シモン」も「ユダヤ命」という感じの人だったと思います。「タダイ」は、他の福音書に「ヤコブの子ユダ」として登場して来る人でしょう。最後にイエス様を裏切った「イスカリオテのユダ」、これが構成メンバーです。
このリストを見て感じることは、彼らがバラバラな人達であったということです。特に代表的なのは「取税人マタイ」と「熱心党のシモン」です。取税人というのは、外国の支配者ローマ、あるいはローマに助けてもらっている権力者のために働いていた人達です。一方、熱心党というのは、ユダヤの栄光と純粋性を守るためには命も投げ出す覚悟をしていた人達です。「熱心党のシモン」にとって世の中で最も赦せない人間は、「取税人マタイ」のような人だったのです。当然、取税人も、熱心党のような人達を嫌っていました。彼らはそういう間柄でした。イエス様の12人の弟子団の中には、そのように憎しみ合うような立場の人々もいたのです。やがて裏切り者になる「イスカリオテのユダ」のような人まで含まれています。
問題は、そのような彼らが、どうして一緒にいることが出来たのかということです。結論から言えば、彼らはお互い同士が繋がり合っていたのではなく、1人1人がイエス様に繋がっていた、彼らの繋がりはイエス様との縦の繋がりを土台とした横の繋がりだった、ということです。1人びとりがイエス様に繋がることによって、結果としてバラバラな人達が共に1つのグループを形成することが出来たのです。それが弟子団の姿でした。
 カナダで私達が所属していた教派は、当時、ある問題を抱えていました。そのために何回か会議が持たれました。その問題については色々な立場の意見があって、すんなりとは結論が出ない状況でした。しかし、会議の前には必ず15分程、少人数のグループに分かれて、皆が神の前に静まって、神の導きを求めて祈りました。意見は違う、立場は違う、しかし同じ神を「私の主」と仰ぎ、神の御心を求めようとする、その姿の中に、議論はあってもやがて問題が解決されて行く力のようなものを感じました。
 教会とは、気心の知れた人達が楽しく集っている場所ではありません。教会で唱えられる「使徒信条」という信仰告白の文章があります。その中に「我は…教会を信じる」という告白があります。「教会を信じる」というのは、「教会の中心にイエスがおられることを信じる」、あるいは「イエスの導いておられる教会であることを信じる」ということだと思います。教会とは、中心におられるキリストの回りに罪人が集まっている、そういう場所です。集まっている人々は、年齢も、生まれも、育ちも、性格も、好みも、背景も、考え方も、それぞれに違う人々です。しかし大切な共通点があるのです。それは、1人びとりがイエス様との関係で集まっているということです。イエス様が、1人びとりをご自分の働きのために無くてはならない存在として集められたのです。
 だから、1人びとりがイエス様との交わりを深めることは、教会の祝福にもなるのです。だからこそ、イエスは彼らを身近におかれたのです。彼らは、イエス様の傍にいて、イエス様に学び、御言葉を心に蓄えたのです。そして主の器として変えられて行くのです。「イエス様が彼らを身近に置く」、それは私達の側から言えば、「私がイエス様の身近にいる」ということであり、それはまた「イエス様が私の身近にいて下さることを信じる」ということです。その時、イエス様を中心とする集団は、違う者の集まりだからこそ、多様な働きをして行ける集団になるのです。
 

2: 「彼らを遣わして福音を宣べさせる」~「神の支配」を語る

そのことは「2番目の使命」である「彼らを遣わして福音を宣べさせ(るため)」にも関わって来ます。彼らはイエス様に遣わされます。遣わされて何をするかというと、イエス様と同じように「神の国は近くなった―(いや神の国は今来ている。神の支配は始まっている)」ということを語るのです。しかし、私達に何が語れるのか。私達は自分でも自分の弱さに泣いているような者です。何か特別なことが出来るわけではない、特別の力があるわけでもない、人より素晴らしく立派に生きているわけでもありません。しかし、弱さを抱えながらも、神に生かされる時、「確かに神は生きておられる」ということを語ることが出来る。自分に働いて下さった神の御業、身近な人に働いて下さった神の御業、それを語ることによって「神の恵み」を証しすることが出来るのです。
聖書は言います。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(1コリント10:13)。私達もこの経験を与えられます。それを語ることによってどんなに暗い状況に置かれている方に対しても「でも、神の支配は来ているのですよ」と語ることが出来るのです。こんな話を聴きました。ある方が信仰を持たれました。しばらくして、お金に困ってどうして良いか分からない時期があったそうです。ある時、バスに乗ったら、偶然親戚の人と乗り合わせました。それは、どう考えてもあるはずがないことでした。でも起こったのです。自分からその方の家にお金を借りに行くことは、どうしても出来なかったけれど、バスの中で世間話をする中で「実は…」と現状を打ち明けることが出来たそうです。そしてその話を聞いた親戚の人が配慮して下さって、そこを通ることが出来たそうです。「神様に救われました」と言われました。
試練の中でも特に辛いのは、自らが作り出してしまったように思える試練です。自分を責めざるを得ない時、私達は罪責感で苛まれます。しかしパウロは次のように言います。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。私達が神を信じる時、否定的に見える状況をさえ、神はひっくり返して「私達にとっての『善』」として下さると言うのです。イギリスのある有名な牧師は「この『すべて』には、あなたの失敗も含まれているのです」と語ります。私達はそのような素晴らしいメッセージを託されているのです。
前にもお話ししましたが、H兄という方は、バンクーバーで英語の勉強をしたいと思って、カナダ人の友人に「教会に行きたい」と言ったら、その友人が日系の教会に連れて行ったのです。そこで信仰を持たれたのです。数年後、すでに日本に帰っておられたH兄は、その友人の大病を知って、バンクーバーまで見舞いに行き、友人に向かってこう叫ばれました。「あなたとの素晴らしい出会いがあって…カナダに来る前は考えることも出来なかった人生にとって最大にして最高の宝である信仰を日本に持ち帰ることが出来たんだよ」。私達も誰かから「あなたとの素晴らしい出会いがあって…人生にとっての最高の宝を得たよ」と言ってもらえるかも知れません。私達は、伝えることが出来るのです。何でも良い。私達にその意思があれば、神様が用いて下さるのです。祈ることから始めたいと思います。
 

3:「悪霊を追い出す権威を持たせる」~主の働きを分かち合う

「3番目の使命」は、「悪霊を追い出す権威を持たせる」ということです。この言葉が私達にも語れているとすれば―(そして「そうだ」と信じますが)―私達にも「悪霊を追い出す権威」が与えられていることになります。「悪霊の働き」というのは今も現実です。特に南米とか東南アジアの密林に出かけて行く宣教師にとって、静かに聖書を語っているだけではどうにもならない、「悪霊に苦しむ人のために神に祈って悪霊を追い出す」というような伝道をせざるを得ない状況があるわけです。だから彼らは、そういう形で悪霊と対決して神様を示して行く。そして神様もその祈りに答えて下さるのです。もしかしたら、日本に暮らす私達にも、いつかそのような状況が訪れるかも知れません。この前も「ある教会で悪霊払いの儀式をされた」という話を聞きました。悪霊の働きは現実です。神様が悪霊の働きを縛って下さるように祈ることは、大切だと思います。
しかし、このことをもう少し私達の身の丈に合ったレベルで考えたいと思います。ある方のお兄さんが大学4年生の時に自殺をしました。それによって御両親は、立ち上がれない程の衝撃に襲われました。お母さんは新興宗教に助けを求めましたが、そこで聞かされたのは「あなたの過去の罪がこのことをもたらした」という言葉でした。お母さんはノイローゼ状態になり、お父さんは働く意欲を無くしました。家中の電灯は消され、線香の臭いが立ちこめる、お母さんは仏壇に向かって泣いている、家の中のどこにも希望がない、光がなかったのです。そんな時、お母さんの知人が見るに見かねて聖書を持って来て、渡しました。お母さんは、「何か光が見えないか」と藁にもすがる思いで聖書を読み始めました。そして、ぶつかったのが「ヨハネ福音書」の御言葉でした。「弟子達は彼についてイエスに質問して言った。『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか』。イエスは答えられた。『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです』」(ヨハネ9:2~3)。お母さんは、このたった2節の御言葉で救われるのです。この言葉に希望の光を見、神の愛を感じました。そして、その日以来、みるみる元気になって、信じられないような回復の生活が戻って来たのです。家族の人はその変化を見て、「ここにいのちがある」と分かって、信仰に導かれて行くのです。
私達には、悪霊の追い出し出来ないかも知れません。しかし、イエス様の言葉、神の言葉には、人の魂を覆って、辛くしている「闇」を取り去ってしまう力があるのです。「百万人の福音」には、ある方が「ただ礼拝に出るだけで、不安や恐れに襲われながらも、生きることに絶望せずにすみました」と証しを書いておられました。御言葉が働きます。そこに信頼を置いて、祈りつつ、祈りつつ、御言葉を蒔いて行きたいと願うことです。
 

終わりに

こんな話があります。「イエス様が地上の時を終えて天に帰られた後、天使長ガブリエルがイエス様に言いました。『主よ、人間達のためにひどく苦しまれたことでしょうね。でも人間達は、あなたが自分達をどれほど愛され、自分達のために何をされたか、それが良く分かったでしょう』。イエスは言われました。『いや、まだ分かっていない。今はパレスチナにいるほんの僅かな人々だけが分かっているだけだ』。ガブリエルは言いました。『では、全ての人にそれを分からせるために一体あなたは何をして来られましたか』。イエスは言われました。『私はペテロやヤコブやヨハネやその他の数人の人々に、私のことを伝えることを生涯の仕事にするように依頼した。他の人々はさらに別の人々に伝え、また別の人々は、最も遠くの地に居る人々までが私のことを知るようになるまで伝えて行くだろう』。ガブリエルは言いました。『そうですか。しかし、ペテロやヤコブやヨハネが疲れて来たらどうするのですか。彼らの後に従う人々が、忘れてしまったらどうするのですか。あなたは何か外の計画でも立てておられるのですか』。イエスは答えられました。『私には外の計画はありません。私は彼らを当てにしています』」。私達もイエス様に当てにされています。主を業に励みたいと思います。

聖書箇所:マルコ福音書3章7~12節

今や大企業になったアメリカ・アップル社の創業者スティーブ・ジョブズ氏は56歳で亡くなりましたが、彼がスタンフォード大学で行った有名なスピーチがあります。その中で、彼は自分の生涯も振り返って「ハングリーであれ、愚か者であれ」と言いました。3年前の「信徒大会」に来て下さった横山幹雄先生は、「それを次のように聞いた」とご自分の本に書いておられます。「主を知ることに常にハングリーであれ!主を知らしめることに常に愚か者であれ!」。「愚か者であれ」というのは「愚か者のようになって一心に…」ということでしょう。横山先生は、こんなことも言っておられます。「高齢になった今、『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている』(ヨシュア13:1)という御言葉を聞いている…主を知ること、主に似ること、主を伝えること、3つの占領すべき地を神様に示されている」。今日のメッセージを準備していて、この言葉を思い出しました。と言うか、この言葉の回りにメッセージが出来たような感じです。「内容」と「適用」と2つに分けてお話しします。
 

1.内容:主の救いとは

イエス様は、安息日に会堂で片手の萎えた人を癒されました。そのことによって指導者達は、イエスを殺そうと相談を始めます。「十字架」に向かう動きが始まったのです。イエス様は、その敵意を避けるようにガリラヤ湖畔に移動されました。しかし群集は押し寄せて来ます。「エルサレムから、イドマヤから、ヨルダンの川向こうやツロ、シドンあたりから、大ぜいの人々が…やって来た」(8)とあります。ガリラヤの周りの広範な地域から人々が押し寄せて来たのです。ある意味でこの個所は「イエス様の伝道状況」を報告する個所です。そして「伝道」という観点で言えば、ここには理想的な状況が起こっています。人々が押し寄せて来ています。しかしイエス様は、癒しを求めて押し寄せて来た人々を片っ端から癒す、ということをしておられません。弟子達に小船を用意させて、人々と距離を置かれるのです。なぜでしょうか。
 9節「イエスは、大ぜいの人なので、押し寄せて来ないよう…」(9)を,「新共同訳」は「…群衆に押しつぶされないためである」(9)と訳しています。なぜ、イエス様が群集に押しつぶされそうになられたのか。それは、群衆を突っぱねることをされなかったからです。イエス様は、人々を受け入れられたのです。前回、イエスは手の萎えた人を指して「ここに…大切にされるべき人がいる」と言われました。イエス様は、1人の魂を大切にしながら関わって行かれました。だから人々が押し寄せて来るのです。ではなぜ、距離を置かれたのか、皆を癒してしまわれなかったのでしょうか。
病に悩む人々の願いは切実です。私も軽微なものでしたが、昨年、病を経験しました。病に苦しむ、それは他に比べるものがない程に重大なことでしょう。だから私達は祈ります。その方が癒されるように、少しでも痛みが和らぎ、少しでも苦しみから解放されるように、祈ります。「祈りによって何らかの奇跡的な癒しの業を経験する確立は5%だ」と言った神学者がいます。5%もあるのです。いずれにしても、どんな病の癒しのためにも祈るべきです。また神様は、人類に医学という恵みを与えて下さっています。それが最善に機能するように祈るべきです。そして癒されることは素晴らしいことです。しかし「では祈れば必ず癒されるか」というと、そうではありません。そしてイエス様は、「集まった人々を片っ端から癒す」ということをされなかったのです。初代教会においても「奇跡的な癒し」はありました。しかし教会は、「癒しを前面に出して人を獲得する」ということをしなかったのです。なぜでしょうか。
ある時、インターネットの動画である作家がこう言っていました。「最近思うのだけど、人はみんな死ぬね。僕の知っている友人が次々に死んで行くんだ…」。「この人はどんな話をするのだろうか」と興味を持って聞いたのです。しかし結論は、「だから生きている毎日を大切にして、やり残しのないようにして世を去りたい」ということでした。「諦めの宣言だ」と思いました。しかし実際、死に対して、人間は無力です。病が癒されたら素晴らしい。しかし、人はいつか死ぬのです。最近、「臨死体験」ということが真面目に研究されています。死んだ人の魂が肉体を離れて行ってベッドに横たわっている自分の遺体を見下ろすのです。しかし次の瞬間、何かの理由で魂が体に引き戻され、息を吹き返すのです。沢山の事例があります。つまり、人は死にますが、「死んだら終わり」ではない、死を超えた世界があるのです。私達の魂は、そこに向かっているのです。
11節に「汚れた霊どもが…叫(んだ)」(11)とあります。この悪霊はどこから出て来たのでしょうか。これは明らかに「イエスの許に来たある人々に悪霊が取り付いていた」という書き方です。人々はイエスを求めて押し寄せて来ました。しかしその中には、神の虜ではなく悪霊の虜になっている人々がいたのです。もちろん、そうでない人々もいたでしょう。しかし、イエス様を取り巻いた「群衆」はどうなって行くのか。指導者が実際にイエス様を十字架につけることが出来るのは、しばらく後、「群衆はますます激しく『十字架につけろ』と叫び立てた」(マルコ15:14)、この状況が生まれた時です。その意味で「イエスの十字架」に許可を与えるのは「群集」なのです。病を癒された人も、癒されなかった人も含む「群衆」です。
「体は癒された、しかし魂は悪霊に憑かれている」としたら、あるいは、神の子を十字架に架けるように叫ぶ、そのようなものを持っているとしたら、その人は、どのようにして「永遠」を迎えるのでしょうか。イエス様のことを「癒しをする人」として捉えて、「癒し」を経験して、しかしそれで終わったら、魂が永遠に向かって救われなければ、何もならないのです。ある方は、教会の祈りによって癌が消えました。素晴らしいことです。しかしその方は、やがて信仰から離れて行かれたのです。「体が癒されること」と「魂が救われること」は、別のことなのです。
イエス様が何より願われたのは、人々がご自分のメッセージを受け入れ、悔い改め、神様と和解し、神様との祝福の関係に入ることです。神との関係に入った人が、「永遠の救い」を得ることが出来るように、イエスは十字架に架かって下さったのです。そして、「永遠の救い、永遠の命」を保証するために死から甦って下さったのです。神との関係、そこから神の恵みは、様々に広がって行くのです。イエスは、神との祝福の関係、「永遠の救い」をこそ与えようとされたのです。それをこそ人々に願われたのです。
こんな話があります。ロジャーさんという一家にジミーという7歳の男の子がいました。彼は家族にこんな話をしました。「あのね、僕達みんな、いつか天国の門の所に行くでしょう。そうしたら、でっかい天使が出てきて、持っている本を開いて、天国に入る人みんなの名前を呼ぶの。うちの家族のところに来て、お父さんから順番に呼んで言って、最後に『ジミー・ロジャースはいますか?』って、僕の名前を呼ぶんだ。僕が小さすぎて天使に見えないといけないから、僕、ジャンプして、すごく大きな声で天使に分かるように『ハーイ』って言うんだ」。その数日後、ジミーは大事故に巻き込まれてしまいました。病院に家族全員が駆けつけた時、ジミーの体は動かず、意識も戻りません。ジミーの命は、翌朝まで持ちそうもありませんでした。家族は祈りながら片時も傍を離れませんでした。真夜中近く、ジミーにほんの少し意識が戻ったような気配が感じられました。その時、ジミーの唇が動きました。ジミーは家族全員がそれと聞き取れるほどはっきりした声でこういったのです。「ハーイ」。この家族は慰められ、生きる希望、将来の希望を与えられました。「永遠の命」の希望は、生きる現実に対して無力ではありません。世が与えることが出来ない希望で「私達の生涯」を照らすのです。依然として死はやって来ます。しかし、ホスピスの現場で良い働きをしておられる下稲葉康之という先生は、こう言っておられます。「神の奇跡は現代社会のどこに見られるのかと問われるならば、私は躊躇なく答える。それは…絶望的な状況にある末期癌患者に生き生きとした望みを与える神の働きにあると。まことに神の力は弱さのうちに現される」(下稲葉康之)。神との関係にあるならば、死の淵でも、なお神の働きを経験するのです。
だからこそイエスは―(繰り返しますが)―その「救い」をこそ与えようとされたのであり、それこそ教会が、何よりも世と分かち合って行けることです。私達には、癒しは出来ないかも知れない。しかし、福音を伝えることは出来ます。ペテロは言いました。「あなたがたは、選ばれた種族、王である祭司、聖なる国民、神の所有とされた民です。それは、あなたがたを、やみの中から、ご自分の驚くべき光の中に招いてくださった方のすばらしいみわざを、あなたがたが宣べ伝えるためなのです」(1ペテロ2:9)。私達は「自分が救われて終わり」ではない。救われた者に、神が期待しておられる大切な使命があるのです。
 

2.適用:主を伝えるために主を知る

その意味でこの個所は、私達にチャレンジを与えます。ここで「汚れた霊どもが…『あなたこそ神の子です』と叫」(11)んでいます。超自然の存在が叫んでいるわけですから、こんなに強力な「証し」はありません。しかしイエス様は、悪霊に「ご自身のことを知らせないようにと、きびしく彼らを戒められた」(12)のです。なぜイエスは悪霊の「信仰告白」を封じてしまわれたのでしょうか。ある神学者がこう言いました。「たとえ私達がどんなに正しい告白をしたとしても、イエスの道に従い行くまでは、イエス・キリストを我々は知らない」。「汚れた霊」は、イエス様を「神の子」だと告白しました。しかし彼らは、イエス様を信頼し、イエス様に従おうとしていたわけではありません。悪霊としての知識でイエス様のことを知っていたかも知れませんが、本当の意味でイエス様を知らないのです。だからその告白は、人々に正しくイエス様を紹介するものでないのです。だからイエス様は、その口を封じられたのです。
しかし一方で、イエス様は「群衆に押しつぶされないため」に超自然的な方法を用いられたのでなく、弟子達に助けを求めて「小舟を用意して欲しい」と言われたのです。「この押し寄せて来る群集を、私と一緒に受け止めて対処して欲しい」と言われたのです。今、人々は教会に押し寄せては来ません。しかし、神を必要としている人は沢山いらっしゃると思うのです。いや「救い」を必要としていない人はいないのです。人は皆、何かの悩みを抱えて、問題を抱えて、生きているのではないでしょうか。その人々に、いや1人びとりに、関わって行くために、イエス様は「小さな舟」であるこの教会にも、私達にも「私を運んで欲しい」と言われるのです。だからこそ私達は、その働きが良く出来るように、イエス様をより良く知りたいのです。イエス様を正しく紹介したいのです。またある神学者は言いました。「我々が、主に似る者となる程度に従って、差し出される人間の必要に応えて行くことになるだろう」。いずれにしても、私達がイエス様を知り、少しでもイエス様に似た者になることは、大切なことなのです。
カーラ・タッカーという人の話があります。彼女は、友人と共謀して予てから恨みを抱いていた男性を殺してしまうのです。ところが刑務所の中で劇的な回心を経験するのです。そのあまりの変化に、やがて彼女を逮捕した刑事や、果ては殺された男性のお姉さんまでが、彼女が死刑にならないように助命嘆願をするようになるのです。結果的には死刑が執行されたのですが、「何が彼女を変えたのか、何が彼女の人間性をあれほど見事に回復させたのか」ということが人々の心に残ったのです。それは一言で言うと「イエス様の赦し」だったのです。恐らく彼女もある時、自分の犯してしまった罪の大きさ、その罪責感に耐えられないような思いになったのだと思うのです。そんな中で彼女は、聖書を通して「自分の罪のために苦しんでくれた人がいる」、「私が神に赦されるために死んでくれた人がいる」、そのことを真実として受け止めて行ったのではないかと思うのです。自分の罪に苦しめば苦しむほど、十字架を通して差し出されている「赦し」の有り難さは途方もないものだと思うのです。それが彼女の心を溶かして行ったのだと思うのです。しかし私は、彼女が聖書を読んだだけでなく、彼女にイエス様の赦しを伝え、イエス様の香りを放って導いてくれた誰かがいたのだと思うのです。繰り返しますが、その意味で、私達が主を知り、少しでも主に似ること、信仰者として成長することは大切なことなのです。
 確かに、私にはこんな経験もあります。カナダで、鬱病で入院する直前、高校生に向けてメッセージをしたことがあります。自分が崩れていますから恵みに溢れて語るような状態ではありませんでしたが、その説教で高校生たちが心を開いてくれたのです。1人の兄弟が言ってくれました。「とても聖霊に満たされているようには見えなかったけど、そのメッセージを神は用いられたのですね」。中国の伝道者が言ったそうです。「伝道とは、神がキリスト者を用いて働かれることだ」。私達の状況の云々を超えて、用いられるのは神様なのです。主権者は神です。私達には懸かっていない。
 しかし、そうであれば、それに力を得て、私達の方でも少しでも用いられやすい器、イエス様の憐れみ、力、それを分かち合えるように、イエス様のことを良く知ることが大切だと思うのです。礼拝は正に主を知る場ですが、礼拝だけでなく、普段に聖書に親しみ、御言葉に従い、祈りを捧げ、主の真実を、主を、知ることが大切ではないでしょうか。神様が私達を用いて驚くような御業をなして下さるかも知れません。先日もお話しましたが、ある場所である姉妹に2~3年ぶりにお会いしました。その姉妹は、すぐにご自分の証しをして下さり、「この神様は本物ですよね。祈りには力がありますよね」と確信を持って言われました。私は、その方の信仰に鼓舞されるものを感じました。その方は以前、こう言われました。「教会に導かれてから娘の運命も変えられました。家族の運命も変えられました。キリスト教に出会っていなければ、今頃、娘はどうなっていたのか、家族はどうなっていたのか、それを思うと、神様に感謝しています。本当に神は運命さえも変えることがお出来になる素晴らしい方です」。このような喜びを語る方が、私達の周りに起こされるかも知れません。
 その意味で、この適用のまとめとして、初めにご紹介した横山先生の言葉を思うのです。「高齢になった今、『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている』(ヨシュア13:1)という御言葉を聞いている…主を知ること、主に似ること、主を伝えること、3つの占領すべき地を神様に示されている」。これは、ご高齢の方ばかりでなく、私達皆に、この個所が語っているチャレンジではないでしょうか。

 

聖書箇所:マルコ福音書3章1~6節

 以前、「百万人の福音」に「怒り」についての記事がありました。ある人が運転中に車の中で家族と口論になり、怒りのあまり車のギアをいきなり「ドライブ」から「パーキング」に替えて、車が壊れて、修理にかなりのお金がかかった、ということでした。こういう記事を読むと、私は慰められます。私も、かつて、怒りのあまりハンドルを思い切り叩いて、その途端、メーターがバチバチと光って、車が停まってしまったことがあります。怒り易い自分の性格に悩むのですが、その同じ記事の中に「怒りには美点がある」とも書いてありました。「『つくり笑い』は出来ても『つくり怒り』は難しい」というのです。怒りにはその人の正直な心が現れるということでしょう。「怒り」が正直な心を語っているとすれば、私達は、誰かの怒りを通して、その人の心の中にあるものに思いを至らせることが出来る、ということではないでしょうか。
今日の個所に「2つの怒り」が記されています。特に注目したいのは、イエス様が怒っておられることです。もちろん、私達の怒りとは全く違うものでしょうが、今朝は、イエス様の怒りに思いを向けることによって信仰の学びをして行きたいと思います。2つのことを申し上げます。
 

1.内容:主イエスの怒りに込められた思い

申しあげたように、ここに2つの「怒り」があります。終わりの6節には「パリサイ人たちは出て行って…ヘロデ党の者たちといっしょになって、イエスをどうして葬り去ろうかと相談を始めた」(6)とあります。「殺したい」と思うほどにイエスを疎ましく思ったのです。ここに「怒り」があります。「パリサイ人」というのは、「神の民ユダヤ人に与えられている『律法』を守ることに命をかけていた人々」です。「ユダヤ至上主義者―(国粋主義者)」です。彼らは、イエスが彼らの信仰に逆らっていると、彼らの働きを妨げていると、思ったのです。一方「ヘロデ党」というのは、おそらく当時のガリラヤ領主ヘロデ・アンティパスに仕えていた人々です。彼らはヘロデ王の政治の安寧を願っていました。だから、少しでも社会の不安の材料になりそうな者は潰す必要を感じていたのでしょう。イエスにその危険を見たのです。そこで利害が一致します。しかしヘロデ王は、ローマ帝国の権力と結びつくことでガリラヤの領主の立場を得ていた人です。ヘロデに仕える人々も、盛んにローマ人との交わりを持っていました。国粋主義者であるパリサイ人にとって、ローマの権力におもねり、ローマ人と盛んに交わっているヘロデ党のような輩は、軽蔑すべき人々だったのです。そのパリサイ人が、ここでヘロデ党と手を組むのです。それほどイエスを殺したかった。それほどにイエスに「怒り」を覚えたのです。
もともとの問題は、イエス様が会堂で「片手のなえた人」の手を癒したことです。しかし「人を癒すこと」は、「安息日―(金曜日の日没から土曜日の日没)―に仕事をしてはいけない」という「律法」に抵触したのです。「律法」というのは、ユダヤの人々の生活を規定していた決まりです。本来は「神が与えたもの」ということで「人間が作った法律」と区別して「律法」と言ったのです。しかし「律法に抵触した」と言っても、それは、「神の律法」ではない、「律法学者」と呼ばれる人々が後に作り上げた「律法の細則」に抵触したということです。本来の「律法」にはなかった細々とした決りです。「安息日」に関するだけでも1500の細則があったと言われます―(234という説もあります)。そうなると重荷以外の何ものでもありません。しかし「律法の番人」を自任する彼らは、イエスの業を見過ごすことは出来なかったのです。(ここにはエルサレムの最高議会からイエスを見張るように派遣されていた人達もいたかも知れません)。もちろんパリサイ人も「何が何でも安息日に人が癒されるのはダメ」とは言いませんでした。命の危険がある場合、緊急の場合に、応急処置程度の手当てをすることは認めていました。しかし問題は「イエスが癒されたこの人の場合は緊急の状態ではなかった」ということです。教会の伝承では、この人は「左官(石工)」でした。レンガを積んだり、石を組んだりして、仕事をしていた人です。ある日、仕事中に重いものを扱ってケガをしたのかも知れませんし、何かの病気だったかも知れません。いずれにしても、それが利き腕であれば、生活に差し障りが生じます。それでも命の危険はなかった。日が暮れれば、「安息日」は終わるのです。イエス様は、何時間か待って、「安息日」が終わってから癒しをされても良かったのです。しかしそうはされませんでした。敢えて挑戦しておられる感じです。それが彼らの「怒り」を呼ぶのです。彼らの「怒り」は何を現しているのでしょうか。
ある人が言いました。「怒る者の心を支えているのは正義感である。『自分が間違っている』と思ったままで怒り狂い、殺意まで抱くことはない」。「『自分が正しい』と思うからこそ怒る、あるいは、それが私達の怒りを支えて行く」というのです。パリサイ人にしてみれば「イエスこそが悪い。我々が怒っているのは当然だし、正しい」のです。しかし三浦綾子さんは言っています。「自分は正しい、自分は偉い、自分は良い人間だと、自己を絶対化していることのいやらしさ、それが我々なのだ」(三浦綾子)。ただでさえそうだとすれば、一生懸命やっている時は余計にそうなのではないでしょうか。自分が正しいと思う。そうなると他の人を裁きたくなる。パリサイ派の人々は、命がけでやっています。記録によれば「ある時など、戦争中でも安息日を守るために戦わなかった」というのです。その伝統に立っていますから、「律法破りに対する批判」も激しいのです。しかし、彼らは本当に正しいのでしょう。本当にそれが神の御心を行なうことだったのでしょうか。何かを見失っているのではないでしょうか。
ここにもう1つの「怒り」があります。イエス様の怒りです。イエス様はなぜ、「問題が起こる」と分かっていながら、安息日が終わるまで待たれなかったのでしょうか。それどころか、敢えて挑戦的なことをなさったのでしょうか。イエス様は、手の萎えた人に「立って、真中に出なさい」(3)と言われます。会堂では、皆が床に座っていましたから、真中に立つというのは誰の目にも見えるような形にすることです。つまりイエス様は人々の心に訴えておられるのです。イエス様は言われます。「安息日にしてよいのは、善を行なうことなのか、それとも悪を行なうことなのか。いのちを救うことなのか、それとも殺すことなのか」(4)。誰が考えても「人を癒すこと―(手の萎えている人を癒すこと)」は基本的に「善を行なうこと」です。「ヤコブ書」は言います。「人がなすべき善を知りながら、それを行わないのは、その人にとって罪です」(ヤコブ4:17)。だから「助ける者もない人を見捨てて放置しておくこと」は「悪を行なうこと」です。どちらが本当に神の御心に適っているのか。でも、彼らには見えないのです。
大事なことは何でしょうか。それは、ここに病のために辛い思いをしている人がいる。その人の存在、その苦悩の現実をどう捉えるか、ということではないでしょうか。1人の人の人生、人格、人間の尊厳、その大切にされるべきものが大切にされていない、そのことをどう思うかということです。
この人は、手が萎えてしまってからも会堂に来て神を礼拝していたのです。しかし彼は、どんな思いでここにいたのでしょうか。辛い思いをしながら隅っこに座っていたのではないでしょうか。語られる祝福の言葉を複雑な思いで聞いていたのではないでしょうか。神の前に出て、自分の悩みを訴え続けながら「この悩みを誰が受け止めてくれるのか」、そういう思いを持ちながら座っていたことでしょう。しかし人々は、パリサイ人は、どのような思いでこの人を見ていたのか。「あんなにふうになったのは、あの人が悪いからだ」と思ったり、「私の知ったことじゃない」と思う人もいたかも知れません。安息日に一緒に神の前に出ていながら、自分の隣にこの人がいるのに、この人を本気になって心配する人、神に執り成す人がいなかったのです。あるのは、「イエスがこの男を癒すかどうか」、その好奇心だけです。しかも「安息日には癒されるべきでない」と思っているのです。イエス様は、その彼らの頑なさを嘆き、悲しみ、あるいは怒り、そして「神の御心を思いなさい」と彼らの良心に訴えておられるのです。
「神の御心」とは何か。「マタイ福音書」の並行個所には、この記事の後半に「イザヤ書」の御言葉が引用されています。「彼はいたんだ葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない、公義を勝利に導くまでは」(20)。「いたんだ葦を折ることもなく」、それは「いたんだ葦を折るのではなく、却って強め」ということで、「くすぶる燈心を消すこともない」、それは「くすぶる燈心を消すどころか、炎をもっと強くする」という意味の言葉です。それが、神の御心だと述べられています。イエスがここで訴えておられるのは、「人を生かす」という神の御心なのです。神の御心は、そこにいるその人の存在、その人の命、その人の尊厳、それを大切にして、生かして行く正義なのです。それが安息日の本来の意味です。しかしこの人々は、それを忘れているのです。彼らは「かたくな」(6)でした。「かたくな」とは、「頑固でまちがっていること」、「心を閉ざしていること」、「心が強情で愚かなこと」、「心が死んでいること」、英語の聖書は色々に訳しているようですが、いずれにしても、人の悲しみを顧みず、律法の冷たい正義を振りかざして人の心を殺している、人の望みを奪っている、そのことにイエス様は挑戦しておられるのです。
 

2.適用:主イエスの御心を受けて

私達は、イエス様の「怒り」から何を教えられるのでしょうか。私は、ある方の言葉を思い出しました。ある教会で、ある会議の席上、話し合いが紛糾したことがありました。その時、1人の方が立ち上がって、声を震わせながら言われました。「キリスト教とは憐れみです!」。「キリスト教信仰とは、自分も神に憐れみを受けている者として、隣人にも神の憐れみをもって接すること、そこに帰らなければならないのだ」と仰ったのだと思います。イエスは、パリサイ人の、人々の「かたくなさ」、言葉を換えれば「憐れみのなさ」、「心が神の憐れみに生かされていない、死んだように閉ざされている」、人の世のその現実に対して悲しい思いをされたのです。
私達はどうでしょうか、神の憐れみに生きているでしょうか。少し話が極端になりますが、マザー・テレサについて次のような話を聞いたことがあります。マザー・テレサは、インドのコルカタで、道端で死にかかっている人を施設に連れて来て、その人の尊厳を大事に扱って看取ったのです。人が死にかかっている。看取ることが出来たら、必ずその人の傍らに行き、慰め、励ましたそうです。「あなたはかけがえのない命を持っているのだ」、「あなたも神に造られたのだからあなたは尊いのだ」と語るのです。言葉だけでなく、献身的な看取りをもって、そのことを教えました。自分は尊ばれているのだ、ということをマザー・テレサから初めて聞いた人達は、そこで平安な顔をして死んで行ったそうです。人間の手を超えた世界のことは、彼女は全て神様に委ねていたのでしょう。しかし、ただ生きているその人の存在を、それを最大限に大切にしようとした。イエス様が一生懸命に人々に訴え、教えようとしておられるのは、正にそのこと、隣人に対する、その心ではないかと思います。
そして私達が問われるのも、恐らくその心ではないでしょうか。皆様のご家族の方や隣人の方との関係はいかがでしょうか。もちろん、私達は、マザー・テレサのような生き方は出来ないでしょう。私自身も、怒りに支配され、それをどうすることも出来ないことがあります。イエス様は、律法の中で最も重要なものは何かと問われて、「『心を尽くし、精神を尽くし、思いを尽くして、あなたの神である主を愛しなさい』。これが最も重要な第一の掟である。第二も、これと同じように重要である。『隣人を自分のように愛しなさい』」(マタイ22:37~39)と答えられました。しかし、「神を愛すること」も「隣人を愛すること」も、基本的に難しいのが私達ではないでしょうか。隣人への憐れみに踏み出したいけれど、自我が勝つ、それが私達の現実ではないでしょうか。もし、そうであるなら、この「手のなえた人」だけでなく、私達もまた、魂を癒されなければならないのではないでしょうか。どうすれば良いのでしょうか。
 「エレミヤ17章14節」に次の御言葉があります。「私をいやしてください。主よ。そうすれば、私はいえましょう。私をお救いください。そうすれば、私は救われます」(エレミヤ17:14)。つまり、私達は神に癒して頂くしかないのではないでしょうか。そして、それは、私達が十字架を見上げ続けることだと思うのです。
何度がご紹介していますが、三浦綾子さんが「我弱ければ~矢嶋楫子伝」という本を書いています。東京の女子学園の創設者である矢嶋楫子。明治期から大正期にかけて、教育者として、社会運動家として、素晴らしい活動をした人です。生来、強い性格の人だったようです。自信もあった。しかし彼女は、教師としての歩始めて間もなく妻子ある男性の子供を生むという過ちを犯します。生涯、その罪に苦しむのです。しかしそのことの故にイエス・キリストによって与えられた「赦し」を骨身に沁み込ませて生きる、生かされるのです。彼女の過ちを責め続けた甥の徳富蘇峰に向かって、後にこのような手紙を書いています。(実際の手紙なのか三浦さんの創作が良く分かりませんが…)。「私に洗礼を授けて下さったタムソン先生は…こう言われました『キリストは、あなたの罪をことごとくその背に負って十字架につかれたのです…あなたの罪をことごとくです。今までの罪は、針でついたほども、あなたにはなくなったのです。あなたはたただそのことを心から感謝し、己が救い主はイエスであると心から信じれば救われるのです。救われるためには、いささかの行為も必要としません…決して人間は、自分自身の行為によって嘉せられ、信徒となるのではありません。むろん信じた者が、救われた喜びのゆえに、貧しい人を助けたり、病める人を見舞ったりすることは自由ですが』。タムソン先生はこれが福音だと言われました…これほどの大きな罪も、信じるだけで赦して下さるとの神の約束を信じて私は喜んで信じたのです」。彼女は、生涯、自分を義としない。「赦された罪人」として十字架を仰ぎ続けます。そして「赦された者―(赦され続けている者)」としてものを見、人を見、生きて行くのです。その生涯の中で「愛と赦し」の軌跡(足跡)を残して行くのです。
私達が、神の御心、憐れみに生きて行けるように癒される秘訣、それは、私達が十字架によって赦され、憐れまれ、今在るを得ている、という思いを忘れないことではないでしょうか。私達は、今も「主の赦し、十字架の赦し」の中で生かされているのです。だからこそ、いつもイエス様の十字架を仰がなければならない。十字架の許に立って、私達のために、低く、低く、地のどん底まで下って下さったイエス様の姿に心を砕かれたいと願うのです。そこから始めて、願わくは、自らも、神の御心に、憐れみに、生きて行きたいものだと願わされます。

 

聖書箇所:マルコ福音書2章23~28節

一昨年の12月に事故に遭ってから車の運転に気をつけるようになりましたが、カナダにいる時にこんな経験があります。車で大きな道を走っていましたが、1本向こうの道に出たかったので、最初の筋を右に曲がりました。そこは初めて通る道でした。そうしたら、曲がった所に学校の門があって、当番のお母さんでしょうか、「30km」と書いた大きな看板を抱えて私の車を睨みつけるようにして見られました。私の注意不足か、恐らくそこは30kmに落とさなければならない区間だったのでしょう。「学校だ、しまった」と思って急いでブレーキを踏んだのですが、その女性のお顔から怒りは消えずに、「まったく仕様が無いドライバーだ」という顔をして、ノートを取り出して私の車のナンバーを控えておられました。「子供の安全を守りたい」というお母さんのお気持ちも良く分かりますし、その意味で大変申し訳なかったのですが、しかし、あまり良い気持ちはしませんでした。「悪かったな」という罪責感もあるのですが、同時に「お前の行動を見たぞ!」と言われているような、後味の悪さがありました。
私の些細な経験ですが、イエス様時代の社会というのが正に「どこに目が光っているか分からない」というような雰囲気があったようです。目を光らせていたのは「パリサイ派」と呼ばれるグループの人々です。元々は「私達は神の律法を真面目に守って生きて行きましょう」と集まった人々です。当時のユダヤ教は、「民族としての救い(祝福)」という考え方が強かったようです。「ローマに支配されている状況から民族として救われたい」ということもあったでしょう。だから、そのためには、民族の中に「祝福を損なうような行い」があると困るのです。それで彼らは、自分が律法を守るだけではなく、皆にも守らせようとしたのです。しかし結果として、人々の在り方に目を光らせ、「裁きの目」で人を見る様になって行ったのです。イエス様のグループも、早い段階からこの「裁きの目」の下におかれます。この箇所の記事もそういう雰囲気の中で起こっているのです。
 
内容に入りましょう。23節に「ある安息日のこと、イエスは麦畑の中を通って行かれた。すると、弟子たちが道々穂を摘み始めた」(23)とあります。「安息日」、会堂での礼拝の後でしょうか、イエス様の一行が畑の中を通って歩いている時、弟子達が麦の穂を摘んで、手で揉んで食べたのです。「マタイ福音書」によれば、彼らは空腹だったようです。ご高齢の方々は経験があられるかも知れません。しかし、それを見ている「パリサイ人の目」があったのです。彼らは「弟子の罪は主人の罪」とばかり、イエス様を咎めるのです。「咎める」と言っても、「いきなり罪に定めると可愛そうだから、1回は警告してやる。しかし2回目は、律法違反で石打ちに定めるぞ」ということです。何が律法違反だったのでしょうか。
ユダヤでは、貧しい者は他人の畑の穂を摘んで食べても良かったのです。「隣人の麦畑に入るときは、手で穂を摘んでもよいが、その麦畑で鎌を使ってはならない」(申命記23:26)と定められていました。だからその点では、問題はなかった。問題は、それが「安息日」だったことです。「律法」には「安息日を守ってこれを聖別せよ。あなたの神、主が命じられたとおりに。六日の間働いて、何であれあなたの仕事をし、七日目は、あなたの神、主の安息日であるから、いかなる仕事もしてはならない…」(申命記5:12~14)と戒められていました。しかし、旧約の歴史の中で「安息日」の律法だけではなく、他の律法も無視されるようになり、その不信仰の中で彼らは「国が滅びる」という悲劇を経験します。「バビロン捕囚」です。やがて自分達の国に帰って来た時、彼ら―(特に信仰熱心な人々)―は、そのことを反省して、律法を守ることに、特に「安息日」を守ることに情熱を燃やすようになります。しかし、それがエスカレートして、極端なものになって行ったのです。神が与えた「律法」には「安息日の趣旨」くらいしか書かれていないのに、律法学者がそこに色々な決まりを作り足して行きました。イエス様の時代には「安息日」に関する決まりが山ほど―(234項との説がある)―出来上がっていました。弟子達のしたことは、その「細かい決まり」に違反しました。「穂を摘む」ことは「安息日に収穫をした」という違反であり、「手で揉んだ」ことは「脱穀をした」という違反であり…という具合です。私達には馬鹿馬鹿しいことのようですが、彼らにしてみれば「民族が神の祝福を受けられるかどうか」という死活問題だったのです。
それに対してイエス様は何とお答えになったのか。イエス様はここで「Ⅰサムエル記21章」の記事を引用しておられます。「ダビデがサウル王の追っ手を逃れて、食べるものにも困り果てていた時、幕屋(移動式神殿)の中で神に供えられていたパンを祭司からもらって食べた」という歴史的事実です。「幕屋」の中には、イスラエル12部族を象徴する12個のパンが供えられていました。そのパンは1週間に一度取り替えられ、取り下げられたパンは、通常、祭司しか食べてはならなかったのです。それが祭司ではないダビデに与えられたのです。ダビデは、自分が食べただけではなく、供の者にも食べさせました。明らかに掟違反です。しかも、パンが取り下げられているところからして、恐らくその日は「安息日」です。しかし「Ⅰサムエル記21章」は、その出来事を非難していません。むしろ肯定的な書き方をしているのです。イエス様は「食べ物もなく空腹だった時に、命を支えるために、神の前に置かれていたパン、取り下げられたパンを食べたことで、ダビデが糾弾されたか。そうではないだろう。聖書でも、決りよりも人間の必要の方が優先されているではないか」と問うておられるのです。
そして、イエス様は、聖書が肯定しているこの事実に添えて2つのことを言われました。「安息日は人間のために設けられたのです。人間が安息日のために造られたのではありません」(27)と「人の子は安息日にも主です」(28)の2つです。ダビデの例を引いて、そしてこの2つの言葉によって、イエス様は何を言おうとしておられるのでしょうか。
 
イエス様は、まず「安息日は人間のために設けられたのです」と言われました。もともと「律法」の「十戒」の中にある「安息日」の項目には、こうあります。「あなたも、息子も、娘も、男女の奴隷も、牛、ろばなどすべての家畜も、あなたの町の門の中に寄留する人々も同様である。そうすれば、あなたの男女の奴隷もあなたと同じように休むことができる」(申命記5:12~14)。さらに「あなたはかつてエジプトの国で奴隷であったが、あなたの神、主が力ある御手と御腕を伸ばしてあなたを導き出されたことを思い起こさねばならない。そのために、あなたの神、主は安息日を守るよう命じられたのである」(申命記5:15)と続きます。2つのことが言われています。前半では「安息日には、主人はもとより、雇い人にも家畜にも休息が与えられなければならない。そうやって体を休めなければならない」ということです。{本来「自由に休息を取れる人だけでなく、主人の気持ち一つで休息を取れないような人(女性、奴隷)までが休息が取れる様に」という憐れみの法だったのです}。後半は「『出エジプト』を思い出して、神によって奴隷の状態から解放され、安息を得ることが出来るようになったことを感謝しながら神と交わりなさい。神の守りがあることを確認しなさい」です。「詩篇22篇」にこうあります。「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」(詩篇22:5~6)。神の守りを思うと魂が励まされます。いずれにしても「そうやって皆が、体を休めるだけではなくて、心もリフレッシュされるように」勧められていた、それが「安息日」の律法の趣旨でした。神が天地をお造りになり、私達人間を造って下さった。それに添えて「安息日」を造って下さった。それは「人がより良く生きるためだ」とイエスは言われるのです。
ところが、それが人を生かすどころか、人を苦しめるものになっている。さらには、人を殺すものになっていたのです。イエス様はそれを悲しんでおられる、いや怒っておられるのです。だからイエス様は続けて「人の子は安息日にも主です」(28)と、「私が安息日の主だ」と言われたのです。これは「あなた方の安息日についての考え方は間違っている。私こそがその本当の意味を教えることが出来るのだ。『憐れみの戒め』、『人を生かす戒め』であることを、心を低くして私に学びなさい」と訴えておられる、招いておられるということです。
 
さてしかし、「イエス様が安息日の主です」、この言葉には、もう1つの意味もあります。それは次のようなことです。「メッセージ」という聖書は28節を「人の子は、安息日を担当している(負っている)」(1:28メッセージ訳)と訳しています。つまり「私達の安息はイエス様の中にある、イエス様が安息を完成して下さる」ということです。そこで私が思い出すのが「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます。わたしは心優しく、へりくだっているから、あなたがたもわたしのくびきを負って、わたしから学びなさい。そうすればたましいに安らぎが来ます。わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(マタイ11:28~30)の御言葉です。私達は、イエス様の許に行く時に本当の安息に与ることができるのです。イエス様がそうおっしゃるのです。
では、「イエス様の許に行く」とはどういうことでしょうか。基本的には、イエス様を「私の主、私の神」と信じて、イエス様の御手の中に飛び込む、それだけで良いと思います。しかし、この個所の文脈に沿って、さらに2つの具体的なことを申し上げます。(これがこの個所の適用となります)。
 
1つは「イエス様の御言葉に生きる」ということです。「わたしのくびきを負って、わたしから学びなさい…わたしのくびきは負いやすく、わたしの荷は軽いからです」(29~30)とあります。ユダヤの人が信仰に関して「くびき」という言葉を使う時、それは「神に従うこと」を意味しました。「負いやすい」というのは、「よく体に合っている、体に合わせて造られているからぴったりとして傷がつかない」という意味です。ですから「私が与える教えは、あなたの体によく合っている。あなたを傷つけることはない」ということです。私達には、それぞれに置かれた状況があります。重荷があります。しかし「イエス様を信じ、全ての出来事の中に神の配慮を信じて行くこと、そしてその状況に対してイエス様の教えを持って相対して行くこと、それが私達に安息をもたらす」ということだと思います。
前にもご紹介した話ですが、ある姉妹は、義理のお母さんとの仲が決定的に悪くなったのです。子供が生まれたのを期に、激しいやり取りの末に別居しますが、ある日、事情があって印鑑を借りるためにお姑さんのところを訪ねたところ、お姑さんがそれを突っぱねて、嫁と姑の憎しみ合いが頂点に達するのです。その後、色々あったのですが、彼女はその頃、誘われて教会に行き、イエス様の言葉を聞くのです。「もし人の罪を赦すなら、あたたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(マタイ6:14~15)。彼女は思います。「主よ、感謝します。あなたがこのような罪深い私を赦して下さいましたから、私も姑を赦します。姑が私に和解を求めて来たら喜んで和解します」。そうしたら、またイエス様が語られたのです。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したらなら、供え物はそこに、祭壇の前においたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」(マタイ5:23~24)。「ああ、主よ。あなたは私が先に赦せとおっしゃるのですか。私から先に和解の手を伸べよ…と」。激しい葛藤の後、彼女はお姑さんに和解を申し出る手紙とプレゼントを贈ったのです。それでお姑さんも喜んで和解に応じて、彼女は、考えることが出来なかった祝福の時を迎えるのです。私達は、イエス様の言葉に従い、生きる時、きっと安息に与るのです。
 
「イエス様の許に行く」、2つ目は「イエスの教えて下さった神の見方を持って神の前に出る」ということです。私はある時、「どんなことがあっても、神は、私達の神であることを止められない」という言葉を聞きました。イエス様が教えて下さった神様は、そういう神です、主です。その主の前に出るのです。
かつてキリスト教放送で、ある牧師夫人の証しを聞いたことがあります。この方は大きな教会で、多くの人々に囲まれ、忙しく教会の奉仕に従事していました。しかし疲れがある。何となく上手くいかない。そんな中で彼女は「イエス様と同じものを見ることが出来れば平安がある」と思い、「主よ、あなたが見ておられるもの(聖いもの)を見させて下さい」と祈っていたのです。そんな時、ある「黙想会」に参加して、静まってイエス様と向き合ったのです。その中で、自分の心の中にあるものが見えて来ました。「上手に出来る人々への妬み、嫉妬、怒り、焦り、『どうせこんなことをしたって』という投げやりな思い」、それを見せられた時、彼女は自分にがっかりして、その持って行き場のない気持ちをイエス様にぶつけました。「主よ、私はこんな人間です。こんな人間なんてあなたは要らないでしょう」。しかしイエス様はこう言われたそうです。「わたしは良い羊飼いである。わたしは自分の羊を知っており、羊もわたしを知っている…」(ヨハネ10:14~15)。「あなたがそういう者であることを、私は良く知っている。私はあなたを知っている」。彼女の「あなたがご覧になっているものを見せて下さい」の祈りはこの時に答えられました。主は、彼女の醜さを見ておられたのです。心配して哀れんで見ておられた。しかもその彼女を全く認めながら見ておられたのです。彼女はそれに気付いた時、自分を肯定することが出来るのです。全てを主に知られ、その上で愛されている者として認めることが出来るようになるのです。彼女は安息を得るのです。
イエス様が教えて下さった神様は、こんな神様です。私達は、この主が私の主であることを感謝しながら、正直な心で、主の前に出て、主と交わることが大切なのではないでしょうか。徹底して正直な気持ちで主の前に出ることをしなければ、私達はなかなか変わらないのです。裸の心で主の前に出て、「あなたがどんな者でも、どんなことがあっても、私はあなたの神であることを止めることはない」という神様の声を心に聞くことが大切ではないでしょうか。そこに、本当の安息があるのではないでしょうか。私は、大きな失敗をして、自分を責めて、心を病みました。しかし、ボロボロの裸の状態で神の前に出た時、心の深いところで「あなたは私の御手の中にいる」という声を聞いて回復が始まりました。平安がやって来ました。私達がどんな者でも、主は私達の神であることを止められません。大切な礼拝の時も、心を開いて、正直な気持ちになって主の前に出たいと願います。そこが、主の安息への入り口です。
 
 もう終わります。イエス様は「私があなたの安息を担当している」と言って下さいました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:8)と言って下さいました。この主に近づいて、本当の「安息日」を頂きたいと願います。主が与えて下さいます。

聖書箇所:マタイ福音書2章1~12節

謹んで新年のご挨拶を申し上げます。皆様のこの1年が、豊かに祝福されますように、心よりお祈り申し上げます。
年末に、ある心理学者のこんな言葉を知りました。「私たちの幸福感は、自分の心が何とつぶやいているかよりも、自分の心に何を語りかけるかによって保たれる」。なるほど、と思いました。心から出て来る呟きと、信仰による自分自身への語りかけは、違うと思います。三浦綾子文学館の森下先生の話には、「泥流地帯」の中の言葉「人間の思い通りにならないところに、何か神の深いお考えがある…」、この言葉を自分に語り続けて、祝福を経験した人の話が出てきます。「夢だけが叶う」と言った先生もおられます。新しい年、自分の心に信仰による希望のメッセージを語りながら歩んで行きたい、と願うことです。 
さて、教会暦では降誕節(クリスマス)を12月25日から1月6日までとして、1月6日が「東の博士達がイエス様を礼拝した日」となっています。(ところで、1月1日は元旦ですが、教会暦では何の日だと思われるでしょうか。クリスマスに関係があるのですが…。「イエスの割礼、そして名前が付けられた日」とされています)。話を戻します。1月6日が「博士達がイエス様を礼拝した日」となっていますので、今年も1月最初のこの礼拝では、「博士達の来訪」の箇所を学びたいと思います。私は、この箇所からお分かちしたい恵みも示されております。「クリスマス物語」に必ず登場する「東方の博士達」ですが、彼らの記事は何を語るのでしょうか。
 

1.「博士達の来訪」の意味

イエス様が生まれてしばらく経った頃、東方から博士達がエルサレムにやって来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか…東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました」(2)と言いました。彼らは何者なのでしょうか。なぜ「ユダヤ人の王」が生まれたというのに、異邦人であるだろう彼らが拝みに来たのでしょうか。「東の方」というのは「ユダヤから見て東の方」ということで、かつてバビロンやペルシャがあった地域です。「新共同訳」は、彼らを「占星術の学者達」と訳しています。彼らは天文学の先生であり、星占いの先生であり、呪い師であり、祭司でもあり…そういう人達だったと思われます。ある学者は、「はるか昔に没落した王の種族であったのではないか」とも言っています。後には「この3人は、当時の世界を代表する地域の王であった」という伝説も生まれますが、それは聖書の言っていることではありません。「東の方」に戻りますが、例えばバビロンは、イエス誕生の600年前、ユダ国の主だった人々が捕囚民として連れて行かれた地です。バビロンでユダヤ人は惨めな捕囚民でしたが、彼らの信仰はバビロンの人々(後のペルシャの人々)にも影響を与えて行ったと思われます。「旧約ダニエル書」に「ダニエルの知恵に驚いたバビロンの王様がダニエルを『バビロンのすべての知者たちをつかさどる長官』(ダニエル2:48)にした」という記事があります。今でいえば文科大臣にしたということです。ダニエルの信仰はバビロンの人々に影響を与えて行ったはずです。聖書が預言する救い主はユダヤ人だけではない、世界の人々に救いを与える救い主でした。「そのような救い主がやがて現れる」という希望は、代々の東方の人々の心も捕らえて行ったと思います。
この博士達は占いをしていた人です。多くの人が救いを求めて訪ねて来たでしょう。しかし、彼らの占いには、何の救いも、確かな希望もない、ということを誰よりも知っていたのが、彼らだったのではないでしょうか。尼僧からキリスト教の伝道師になった方が言っておられます。「仏教が人間が行き着いた最高の哲学であることは分かる。でも求めているものはなかった…神に向かって祈る、神と交わる世界がなかった」。ある本にはこんな話がありました。その先生の教会に1人の女性が訪ねて来て言いました。「取り返しのつかないことをしました」。先生は「取り返しのつかないこと」の内容を聞いて何か助言して上げようとしました。しかし女性は立ち去ってしまうのです。先生は言っています。「あの日、彼女は、何者かの前に立ちたかったのです…彼女の深みに共にいる方をなぜ示すことができなかったのか…どんな人間の絶望よりもさらに深い神の恩寵の光の中に共に立って、なぜ祈れなかったのか、と思います」。この話も教えます。人には、神と交わる世界が必要なのではないでしょうか。神に祈る、神に助けを、導きを期待する、そういう世界がなければ、真の光は見えないのです。彼らも、人の世の闇を見ながら、そこに光をもたらすことが出来ない自分達を痛感していたのではないでしょうか。あるいは、ある神父さんは「なぜ神父になったのか」と聞かれて「本当に人を救うことの出来る本物に繋がり、その本物にひれ伏したかった」と言いました。博士達も本当に人を、自分達を救ってくれる、本物の神に繋がることを求めたのではないでしょうか。しかし、どうすれば本物の神に出会い、繋がることができるでしょうか。星野富弘さんがこんな詩を書いています。「遠くて見えないのですか。近すぎて見えないのですか。小さくて見えないのですか。大きすぎて見えないのですか。どうしたら、どこへ行ったら、あなたに逢えますか」(星野富弘)。こういう心境だったのかなと思うのです。だから「ユダヤに生まれる」と言われる「救い主」に、「本物」に、望みを掛けたのではないでしょうか。
彼らは、天文学の専門家です。星の動きに異変が起こった時、それが「神が特別なことを告げるしるしだ」ということが分かったのです。「救い主の誕生」と星との関連は「旧約」にも「ヤコブから一つの星が上り…」(民数記24:17)と預言されています。だから、ついに「救い主」が生まれることを確信して、「救い主」を訪ねて、はるばるユダヤにやって来たのです。
彼らは「王が生まれるなら、首都の王宮だろう」と考えたと思うのです。エルサレムに行きます。そして人々に聞いて回ります。それがヘロデの耳に入りました。ヘロデは「ユダヤ人の王」と聞いて、自分の地位が脅かされることを恐れました。だから博士達に捜し出してもらって、その子を殺すために、祭司長や学者達に問うて得た情報を博士達に与えました。こうして博士達は、教えられた通りベツレヘムに行くのです。
9~10節「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」(2:9~10)。ついに星が止まったのです。ついに救い主に見えるのです。彼らは「この上もなく喜」(10)びました。そして「ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」(11)のです。「黄金は王への捧げもの、乳香は祭司への捧げもの、没薬は死者への捧げもの」と言われます。それは真の王であり、人と神を執り成す祭司であり、死ぬことによって救いを成し遂げるイエス様の生涯を表す贈り物でした。博士達は、イエス様がそういう救い主であることを、何か理解していたのかも知れません。しかしそれ以上に、ある本には、「宝の箱」というのは「彼らにとって大切な星占い師の商売道具が入っていた箱だった」と説明されていました。もしそうなら、それをイエス様に捧げてしまったということは―(彼らは、神が占いや呪いを嫌われることを知っていたはずです。「旧約聖書」に何度も書かれています。しかし、それを捨てられなかった。でも彼らは)―救い主に見えることができた、その喜びの中で、喜びを打ち消すようなもの、神の御心にそぐわないものを捨ててしまいました。そしてそこから、彼らは神に近づく別の生き方、新しい生き方を始めるのです。それは12節「別の道から自分の国へ帰って行った」(12 )の言葉にも暗示されています。
 

2.「博士達の来訪」のメッセージ

この物語は、私達に何を語るのでしょうか。2つのことを申し上げます。

1)神の選びの恵み

「マタイ福音書」では、異邦人で、しかも占い師であった彼らが最初にイエス様に礼拝を捧げるのです。そのことは「神の選びの不思議」を語るのではないでしょうか。彼らが星の運行に詳しかったこと、救いを求めていたということを申し上げました。しかし、そんな人達は沢山いたでしょう。しかし彼らだけが、神の招きに応えて、立ち上がってやって来たのです。なぜ、彼らはそうしたのか。それは、最終的には神の選びによることだったと思います。神に選ばれたから応答したのです。しかし、ではなぜ、神は彼らを選ばれたのでしょうか。聖書にこうあります。「あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(1コリント1:26~29)。なぜ、彼らを選ばれたのか。それは、彼らが神の民ではない、異邦人であり、しかも占い師だったからだと思うのです。ユダヤ人にとって異邦人は神の救いから漏れるべき人々でした。しかも、申し上げた通り、「占い」は神が嫌われることです。彼らは神に選ばれるに相応しい人達ではなかった、御前に誇るべきものは何1つ持っていなかった、しかし、だからこそ選ばれたのではないでしょうか。だからこそ、イエスにお会いしたとき、そんな自分達に神が目を留めて下さり、今、救い主に見える、それを思って喜びに溢れたのではないでしょうか。
 そのことは私達も同じです。お1人びとり、教会にお出でになる切っ掛け、理由は、色々とあられるでしょう。それは自分で決めたことのように思っても、決してそれだけではないのです。最後は神の選びです。あなたは神に選ばれなさったから、神の招きに応答してイエス様の前に出ておられるのです。もし、みなさんが「私は選ばれるような者ではない」と思われるなら、だからこそ神は選ばれたのです。大塚久雄という経済学者が、自分は何を支えに生きて来たか、講演の中でこう言いました。「『自分は無きに等しい者であって、その自分を神は選んで下さった』、そのことを支えにやって来た」。「私が神様を選んだのではない。神様が私を選ばれたのだ」という事実は、私達の歩みを支えるのです。ある教会である方が洗礼を受けられた時、牧師が「あなたがキリスト教の神様を選んだのではなく、神様があなたを選ばれたのですよ」と話したら、その姉妹は「自分が選んだのではなくて、神様が自分を選んでくださったのですか。ありがたいことですね。本当にありがたい」、そう言って涙を流されたそうです。私達は、選ばれた恵みを、それが当たり前になってしまって、忘れてしまう時があるのではないでしょうか。しかし、神に選ばれ、神を「私の主」として持ち、神に礼拝を捧げ、御手の中で神に希望を持って生きることができること、それは大きな恵みではないでしょうか。
それは、こうも表現できます。イエスは、ある時、こう言われました。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のために…いつまでも…放っておかれることがあるでしょうか」(ルカ18:7)。「選ばれた民の祈りに、神は必ず答えて下さる」という言葉です。神によって選ばれているという事実があるから、選ばれた者の祈りだから、神は聞いて下さる、それが私達の祈りの根拠です。ある牧師が言いました。「私達がたとえどんな困難な所に立っているにしても、祈ることができる限り、道は必ず前に開けるのです」。いずれにしても、この個所は、選びの恵みを語ります。選ばれたという事実を感謝し、大切にして行きましょう。
 

2)選ばれた者ゆえの神の近さ

 博士達は、神から遠いところにいた、しかしだからこそ、神に選ばれ、選ばれたことを感謝して、2000kmの距離をやって来た、と申し上げました。しかし、それは、信仰を持つ時のことだけではないと思います。
 昨年1月、私は「今年は神様に少しでも近づくこと」を目標として掲げました。ところが「クリスマス礼拝」でも申し上げたように、鬱状態になってしまって、その中で大変な不信仰に陥ってしまったのです。病気のせい、と言えばそうなのでしょうが、神様への信頼、神様への感謝、それをどこかに失ってしまった状態でした。神様に近づくどころか、むしろ神様から離れてしまった感じでした。皆さんは、自分の信仰が神様から遠くなってしまっているのを感じることはないでしょうか。その時、私達は、あるべきところにない自分を責めるような、そういう辛さに陥るのではないでしょうか。
しかし、この物語は教えるのです。神から遠いところにいた博士達のところに神の方から手を伸ばして下さったのです。そして、彼らを導いて行かれたのです。もし私達が、自分は神から遠いところにいるように感じることがあったとしても、その遠さは、神様には何の問題もないのです。だから神の方から私達の方に来て下さるのです。そうやって私達は、自分の信仰の弱さを神様に支えられ、神様に導かれ、信仰生活を続けて行けるのです。2000km、しかし天地万物の支配者であられる神様には、ものの数ではない、私達の神様からの遠さは、ものの数ではないのです。神様の恵みは、私達の弱さ、神様からの遠さを、遥かに超えて大きいのです。今日、私は、そのことを一番申し上げたかったのです。そして、その神様への信頼を篤くして、全てを委ねて、新しい年を歩み始めたいと願うことです。
 

最後に

最後になりますが、博士達は2000kmの道のりをやって来ました。そして神様は、見事に博士達をイエス様に引き合わせて下さいました。博士達の求道に応えて下さったのです。聖書は言います。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」(ヤコブ4:8)。
 新しい年が始まりました。私は、懲りずに今年も「少しでも神様に近づく年でありたい」という目標を掲げました。皆さんは、どのような求道の1年を過ごされるでしょうか。皆さんの求道の御歩みに、神様が豊かに応えて下さいますように、祝福をお祈り致します。