2021年1月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:ヨハネ福音書14章25~31節

 「百万人の福音」に「聖霊とからだ」という記事がありました。ある牧師先生が、病院で体の中に黄色ブドウ球菌が確認されて入院治療を行いました。その菌が入ったのは、10年前に受けた手術の時だったのだそうです。黄色ブドウ球菌という危険な菌が、10年間も首全体に広がっていたにも拘わらず、熱も出ず、痛みもなく、体調は悪くならず、お医者さんは「考えられない」と言ったそうです。牧師先生は、それから抗生物質を飲み続けておられるのですが、クリスチャンのお医者さんは、会うたびに「守られていますね」と言って下さるそうです。なぜ健康が保たれているのか。牧師先生は「聖霊によって守られている」と推論して、今、聖書の御言葉を手掛かりに「聖霊によって体が守られている」という推論を検証している途中だと言うことでした。聖霊の働きについて検証しようとする姿、その基にあるのは、聖霊の働きへの信頼だと思います。私達も、聖霊の働きについて、普段に考え、信頼し、求めても良いのではないかと思いました。
 イエス様の「別れの説教」が続きます。前回の箇所でイエス様は弟子達に「神との交わりを生きることができるようになる」と語られました。今日の箇所では、その神との交わりを具体的に導くものについて語られます。「新共同訳聖書」は4章15節から31節に「聖霊を与える約束」という小見出しをつけています。その通り、私達と神様との交わりを具体的に導いて下さるのは聖霊です。この個所は、聖霊というキーワードを使うとメッセージが見えて来ます。聖霊は私達に何をして下さるのか、そのことを中心に学びましょう。2つのことを申し上げます。
 

1:聖霊の恵み

 26節に「しかし、助け主、すなわち、父がわたしの名によってお遣わしになる聖霊は、あなたがたにすべてのことを教え、また、わたしがあなたがたに話したすべてのことを思い起こさせてくださいます」(26)とあります。弟子達はイエス様から様々な教えを受けました。しかし、弟子達がそれを理解していたかというと、そうではなかったと思います。十字架の前のイエス様と弟子達の会話は、ちぐはぐです。イエスは、ご自分が十字架のお架かりになって、そして復活することも弟子達に話しておられましたが、弟子達はそのことも信じていなかったし、分からなかったのです。しかしペンテコステ(聖霊降臨)の後、弟子達は人々に、イエス様について、イエス様のもたらして下さった救いについて明確に語り、人々に悔い改めを勧めました。大祭司達に
イエスの御名によって語ることを禁じられても、堂々と語り続けました。どうして変わったのか。それが聖霊の働きなのです。弟子達は、聖霊によってイエス様の語られたこと、為された業を思い起こし、その真意が分かり、強められ、イエス様の話を、イエス様の救いを語ったのです。だからこそ「新約聖書」も生まれて来るのです。今もそうです。聖霊が私達にイエス様の言葉を思い起こさせ、その語られた意味を、またその深いメッセージを、悟らせて下さるのです。
 榊原寛という先生は、6歳のご次男を交通事故で天に送られるのです。奥様が「もう一生笑うことはないかも知れない」と言われるくらい、ご家族は嘆き悲しんだのです。しかしその先生を励まし、立ち上がらせて行ったのは、イエス様の言葉だったのです。ゲッセマネの園でイエスは言われました。「わたしは悲しみにあまり死ぬほどです」(マタイ26:38)。この個所を通して聖霊が先生に語られたのです。こう言っておられます。「悲しみの人で病を知っておられるイエス様は、私達家族の悲しみをしっかり受け止めて下さったと感じた」。それだけではない。長い苦しみを通られたと思いますが、しかし先生ご家族は「死んだ息子の分まで生きていこう。息子の分まで主のお役に立てて頂こう」、そういう祈りをするようになられるのです。聖霊の働きではないでしょうか。イエスの言葉を通して聖霊が語って下さる時、私達もイエス様の御言葉の深い恵みに気づくのです。
 さて、聖霊の恵み、働きは、それだけではありません。27節「わたしは、あなたがたに平安を残します。わたしは、あなたがたにわたしの平安を与えます。わたしがあなたがたに与えるのは、世が与えるのとは違います。あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(27)。「平安を与える」と言われます。その平安は「世が与える平安とは違う」と言われます。世が与える平安は、おそらく状況による平安だと思います。身体の状態が良かったり、生活が安寧であったり、人間関係が上手く行っていたり、経済的に落ち着いていたり、そういうものがもたらす平安ではないでしょうか。それはそれで大切なこと、素晴らしいことです。しかしそれは、いつも、いつも与えられるものではないでしょう。私達の生活には色々なことがあります。皆さんも今、色々な重荷を抱えておられることでしょう。子供の頃に見たテレビのコマーシャルを思い出します。お猿さんが気持ちよさそうに温泉に入っていて、ナレーションが「何にも心配がない」と入るのです。私は「いいな…」と思ったものです。しかし私達の現実の状況は決して平安を与えません。何かかにか、心配があります。
しかし、イエス様の下さる平安は違うのです。状況を越える平安です。使徒パウロの書いた「ピリピ人への手紙」は「喜びの手紙」と呼ばれます。「喜びなさい、喜びなさい」とパウロは勧めます。そしてこう語ります。「何も思い煩わないで、あらゆる場合に、感謝をもってささげる祈りと願いによって、あなたがたの願い事を神に知って頂きなさい。そうすれば、人のすべての考えにまさる神の平安が、あなたがたの心と思いをキリスト・イエスにあって守ってくれます」(ピリピ4:6~7)。パウロ自身が平安を経験していたからこそ語り得た言葉です。しかしパウロはこの手紙をどこで書いたのか。牢獄の中で、もしかしたら処刑されるかも知れない、という状況で書いたのです。平安等と言える状況ではなかったのです。しかし、その中で彼は平安を得ていました。なぜでしょうか。1つには、彼はイエス様の十字架によって一切の罪を赦され、永遠の命に与る者とされたという、その救いの現実の中に生きていたからだと思います。死を越える救いの恵みに支えられていたのです。しかしそれ以上に、聖霊を通して臨在されるイエス様と共に生きていたからだと思うのです。イエス様は、聖霊を通して「あなたがたは心を騒がしてはなりません。恐れてはなりません」(27)と語られたのです。「わたしは…あなたがたのところに来る」(28)と語られたのです。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ41:10)と語られる神様、イエス様と、パウロは共にいたのです。だから平安だったのです。ある姉妹が話して下さいました。お兄さんが交通事故で寝たきりになられました。ご家族にとって、特にお母さんにとって大変な状況でした。10年後に快復が始まるのですが、そうなった時にお母さんが言われたそうです。「10年間、この子はきっと良くなるという希望が与えられ続けた(語りかけを受けた)。そうでなければやって来られなかった。私は神様に出会っていた」。状況が与えるものとは違う、イエス様が与えて下さる希望です、平安です。聖霊は、私達にも、神のご臨在、イエスのご臨在を経験させて下さるのです。
イエス様は28節で「あなたがたは、もしわたしを愛しているなら、わたしが父のもとに行くことを喜ぶはずです。父はわたしよりも偉大な方だからです」(28)と言われます。それは、世において救いの業を為し遂げ、父なる神様の許に帰るのが、イエス様のゴールであり、目的だったからですが、それだけでなく、弟子達が喜べるのは、イエス様が父なる神様の御許に帰られる時、イエス様を通して父なる神様から聖霊が彼らのところに、私達のところに、送られてくるからです。偉大な父なる神が聖霊を送って下さるのです。いずれにしても、聖霊の恵み、働きによって、私達は導かれて行くのです。
 

2:聖霊と生きる

適用について短くお話しします。聖霊が私達を支え、信仰生活を支えて下さるのであれば、
私達は聖霊の恵みを、働きを豊かに受けて、信仰生活を力強いものにして行きたいと願います。どうすれば良いでしょうか。
私達は、日曜日に礼拝に集い―(今は家庭礼拝ですが)―神の前に出ます。どこで捧げるにしろ、礼拝を捧げることは、聖霊の働きを受けることなのです。皆さんも、礼拝を通して神に触れられる経験を為さるのではないでしょうか。私は先日の家庭礼拝で「全てを神に委ねなさい」と語りかけを受けました。いや、何かを感じる、感じないということではなく、それを越えて私達は、礼拝の中で聖霊の働きを受けるのです。だから礼拝は大切なのです。そして同じように大切なのが、普段に祈ることです。祈ることによって、神は不思議な平安を与えて下さるのです。
Yさんというお母さんの証しを読みました。お子さんが不登校になって、長い間、苦しみ、格闘されたのです。お子さんは、小学校1年生の5月から学校に行かなくなりました。まだ不登校が珍しかった頃です。Yさんはパニックに陥ります。親戚の人等が心配して訪ねて来るのですが、親戚が来る度に問題が複雑になって行くのだそうです。「ノイローゼ状態になり、不安と絶望の高ぶりの中で、子供と一緒に死ねたらどんなに楽になるだろうかと考えた」と書いておられます。Yさんは「何とか子供を学校に行かせなければ」と思って子供と格闘をするのです。でも、そのなりふり構わない子供とのやり取りの中で見えて来たのは、自分の内側からあふれ出て来る自分の罪性だったのです。ある人の影響ですがるような思いで教会に行きます。教会に言ってまず納得したのは「自分が罪人である」ということでした。しかしその自分を、一言も責めることも、非難することもしないで受け入れて下さる神様を感じるのです。そして祈るのです。祈りを通して少しずつ平安を得るのです。「自分の罪のせいで子供は…」と思っていた彼女に、イエス様が語られました。「『先生。彼が盲目に生まれついたのは、だれが罪を犯したからですか。この人ですか。その両親ですか…』…『この人が罪を犯したのでもなく、両親でもありません。神のわざがこの人に現れるためです』」(ヨハネ9:2~3)。自分を責める思いが暖かく、軟らかく砕かれて行く、解放を経験して行くのです。罪ある自分を受け入れて下さる神様を深く知って行く中で、委ねることも経験して行きます。そうすると、委ねるところから将来への希望が与えられ、これまでにない考えが与えられ、別の関り方が与えられて行ったのです。実はこの証しは「長い間、苦しみましたけど、子供も学校に行くようになりました」という証しではないのです。「依然として不登校は続いています」という証しです。その状況で、なぜ書くことが出来たのか。それは、Yさんが神様の平安に包まれているという何よりの証拠ではないかと思うのです。Yさんはこう結んでいます。「それぞれの人生は、すべて神のご支配のゆえに意味のあるものであり、そうして、過去の全てを肯定する時、平安があり、喜びと感謝があり、将来に希望が持てます」。
イエス様が与える平安は、状況に支配される平安ではない、逆に状況に働きかけて行く平安なのです。
イエス様は言われました。「この世を支配する者…はわたしに対して何もすることはできません」(30)。私達も聖霊の働きを受ける時、サタンは私達に近づくことは出来ても、私達を打ちのめすことは出来ないのです。最後にイエス様は言われました。「立ちなさい。さあ、ここから行くのです」(31)。私達も、礼拝(家庭礼拝)を通して、祈りを通して、聖霊の働きを新しく受け、新しい1週間の歩みに出て行きましょう。問題はあります。だから不安や恐れがあります。しかし、聖霊が共にいて下さいます。
 

聖書箇所:ヨハネ福音書14章18~24節

  ラジオ英会話で有名な東後勝明という方の証しの本に次のような話がありした。お嬢さんが不登校になって悩んでいた時期でした。東後先生は、大学の教授会の途中、極度の貧血で倒れ、救急車で病院に運ばれました。長時間の検査の結果、貧血は原因不明の腹部の動脈からの出血が原因で、これ以上出血が続くと危ないという状況だったらしいです。数人のお医者さんが、開腹手術をして、出血源を突き止め、止血の処置をしようとした時、「出血が止まった!」という声が手術室に響き、不思議と出血が止まり、そのまま手術なしで快方に向かって行ったそうです。そんな時、奥様の教会の牧師がお見舞いに現れ、「詩篇23篇」を読み始めました。「主は私の羊飼い。私は、乏しいことがありません。主は私を緑の牧場に伏させ、いこいの水のほとりに伴われ…」、この辺まで来た時、東後先生は、体中が熱くなり、肩の力がスーッと抜けて、目から大粒の涙がポロポロとこぼれて来ました。そして誰かの声がしました。「そのままでいいんだよ」。牧師の読む「詩篇23篇」が「たとい、死の陰の谷を歩くことがあっても、私はわざわいを恐れません」のところに来ると、再び涙がどっと溢れ、生かされている喜びに体が震え、その時以来、いつも神が自分のそばにいて、自分を支えていると、不思議に思えるようになったそうです。これが東後先生の神様との出会いの体験だったそうです。神様との出会い方、色々な形があるいうことを教えられます。皆さんは、どのような形で神と出会われたでしょうか。あるいは、神との出会いを求めておられるかも知れません。私も、神様と再び出会う経験を求めています。お1人びとりが、神様にさらに深く出会ことがお出来になるように、お祈りしております。
 イエス様の告別の説教が続きます。イエスはこの個所で「主との交わり」について教えて下さっています。ヨハネは「ヨハネの手紙」の中で「私は、あなたがたにも神との交わりを持って欲しいからこの手紙を書くのだ」(1ヨハネ1:3意訳)と言っています。「神との交わり、神との出会い」が信仰の核心であり、喜びの源泉だと言っているのではないでしょうか。では、何が私達を、神様との出会い、神様との交わりに導くのでしょうか。
 イエスは18節で「わたしは、あなたがたを捨てて孤児にはしません。わたしはあなたがたのところに戻って来るのです」(18)と言われました。これから数時間後、イエス様は逮捕され、十字架に架けられ、十字架の上で死んで行かれます。弟子達は、恐らく良く分かっていませんが、実は、もうすぐそこに、彼らが親に捨てられた孤児のように途方に暮れる時が待っていました。しかしイエスは「あなたがたのところに戻って来る」(18)と言われます。「戻って来る」とは、どういうことでしょうか。それは、絶望している彼らのところに復活のイエス様が現れる、戻って来るということです。ヨハネは、20章でその様子を「その日…弟子達のいた所では、ユダヤ人を恐れて戸が閉めてあったが、イエスが来られ、彼らの中に立っ(た)…」(20:19)と記しています。イエス様は19節で「あなたがたはわたしを見ます。わたしが生きるので、あなたがたも生きるからです」(19)と言われますが、「生きるからです」というのは未来形です。「メッセージ訳聖書」は「あなた方は、まさに生きようとしているところだ」と訳しています。弟子達は、イエス様の甦りを知り、目が開かれた時、本当の意味でイエス様を見ることになります。そして、イエスが神の許から来られた方であり、自分達もイエスを通して神と交わりを持って生きることが出来るようになる、ということが分かり始めて、霊的に生き始めるのです。神を昔の伝説としてではなくて、現実に働いて下さる方、共に生きて下さる方として捉えて、生き始めるのです。そしてそれは、イエス様の昇天から10日後の「聖霊の降臨」の時、聖霊という形でイエス様が再び彼らのところに戻って来られ、彼らが神の力に満たされた時、言わば完全に彼らの現実となるのです。イエス様が神の御手の中におられたことが分かるだけでなくて、今度は彼ら自身が、生けるイエス様の御手の中で生きて行けるということ、言い換えれば、自分の中に見えないイエス様、聖霊を頂いて生きて行けるということを、理解するようになるのです。
20節「あなたがたがわたしにおり、わたしがあなたがたにおる」(20)はややこしい言葉ですが、こんな話があります。「村の鍛冶屋の主人がクリスチャンになりました。そこにかつての悪友が来て言いました。『お前、キリスト教になったんだってなあ。似合ねぇよなあ。でも、キリストを信じて、お前は一体どうなったんだい』。鍛冶屋は礼拝説教を思い出しました。『キリストが俺の中に、俺がキリストの中に入った。俺、新しくなったよ』。『お前、良く考えろよ。「キリストがお前の中に、お前がキリストの中に」って意味がわかんねぇよ。やっぱりお前、ちょっと頭がおかしくなったんじゃないのか』。その時、聖霊が彼を助けました。鍛冶屋は火の中に突っ込んであった真っ赤に焼けた鉄の棒を取り出し、『ほら、火は鉄の中に、鉄は火の中に入った。信じられないなら、これを掴んでみてくれ』と言いました」。イメージして頂けるでしょうか。私達は鉄の棒です。イエス様の中に入り、またイエス様が私達の中に入って下さるのです。
 さて、イエス様はそのような霊的な現実を語った後で、その現実の中で彼らとイエス様(神様)との交わりが深まるための方法を語られます。確かに、彼らはイエス様の復活を見ることによって、イエス様を理解します。聖霊を受けることによって神と繋がって生きるようになります。しかし、彼らにとって大切なのは、復活と昇天と聖霊降臨という大きな出来事の後、それからの長い歩みを、日々、神様(イエス様)との生きた交わりによって、主の現実を感じ、励まされて歩むことでした。戦いの中でその必要があったのです。だからイエス様は、自分と彼らとの豊かな交わりの方法を教えられたのです。それは、イエス様が彼らを愛された、これからも愛されるように、彼らもイエス様を愛することです。人と人の関係でも、お互いに、相手のことを思い合うような交わりでなければ、お互いに励まし、励まされるような交わりは生まれません。 
昔、1つの映画を見ました。主人公の若い女性は、左手でしたか、生まれつき手首から先がないのです。それで、いつもお母さんを責めていたのです。「なんで、こんな体に生んだの」と。お母さんは、精一杯の愛情を込めて育てました。しかし彼女は、お母さんへの恨みがましさが先に立つのです。2人の関係は、ぎくしゃくしていました。しかし、やがてその女性が出産することになり、女の子が生まれて来た時、彼女が真っ先に見たのは赤ちゃんの手でした。自分と同じように手がなかったらどうしよう、そう心配していたのです。そうしたら、ちゃんとあったのです。でもその時、彼女は初めて、母親がどんな思いで自分を育てて来たか、母親も辛かっただろうということ、そんな中で一生懸命育ててくれたんだ、ということを思い遣るのです。感謝するのです。母を慕わしく思うのです。そして改めて母親に出会い直すのです。母親との魂の交わりを経験するのです。ニュアンスが違うかも知れませんが、弟子達も、イエス様を愛そうとする時、イエス様と目が合い、イエス様のことが分かり、神様が分かり、そこに主との豊かな交わりが実現して行くのです。
 では、イエス様を愛するとは、どういうことでしょうか。それをイエスは「私を愛するとは、私の戒めを保ち(持ち)、守ること」(21)だと言われます。イエス様の戒め、この一連の箇所で最も大切な戒めとしてイエスが教えられたのはこれです。「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい。もし互いの間に愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(ヨハネ14:34~35)。愛に生きることです。そのように生きる人に、イエス様は「わたしもその人を愛し、その人にわたし自身を現します」と言われます。「その人はイエス様を見る」ということです。23節では「わたしの父がその人を愛し、わたしたちはその人のところに来て…ともに住みます」(23)とも言われています。
 何を教えられるでしょうか。私達も、生きる現実の中でイエス様との現実的な交わりを心に感じて、経験して行くことが必要であり、それが私達の信仰生活を励まして行くと思うのです。そしてその方法は、イエス様が私達を愛して下さっているように、私達もイエス様に信頼して、イエス様の言葉(戒め)に従うことを通して、イエス様を愛して行くことです。その時にイエス様に(神様に)きっと出会えるのです。
 カナダの大学で日本人留学生の「日本語バイブル・スタディー」のお世話をしていた時、1人の学生がこんな話をしてくれました。「日本の大学ではミッション・スクールだったけど、キリスト教は遠い存在でした。聖書のテストも苦痛でした。でも、ここに来て、変化を感じました。自分も勉強で苦しんだし、苦しんでいる中で周りの友達にもライバル意識を持つようになって、妬んだりしている自分に気づくようになりました。そんな時にイエス様の『隣人を愛しなさい』という言葉に触れました。自分が隣人を妬んでいたので、その言葉が迫って来ました。『私もあの人を愛したい』と思って学校に行ったら、その日、その友達が、なぜか私にプレゼントを持って来てくれました。それを見て『信じるってこういうことなんだ』と思いました」。彼女は、神様を感じました。個人的にイエス様と出会ったのです。主との交わりを経験したのです。
「イエス様を見る」というのは、こういう様に誰かを通して起こるかも知れません。いずれにしても、私達が愛に生きようとする時、仕え合おうとする時、「神を経験する」と言えるような、私達の心にくさびを打ち込むような出会いを、神は与えて下さるのではないでしょうか。具体的な、特別な経験がなくても、森繁昇さんが言っていました。「神様が心に語って下さるからもう揺れない」。そういう神様との出会いもあるでしょう。いずれにしても、イエス様を愛し、
イエス様の言葉に踏み出そうとすること、それが、私達が主に出会い、主と交わることの出来る方法だと、イエスは教えて下さいました。尾山令仁という先生はご自分の経験からこう言っておられます。「御言葉に従って行く時、神は必ず働いて下さる。信仰にはそれを経験することが大切なのだ」(尾山令仁)。心に刻みたいと思います。
 さて、この個所でもう1つ気になる言葉があります。ユダがイエス様に聞くのです。「主よ。あなたは、私たちにはご自分を現わそうとしながら、世には現わそうとなさらないのは、どういうわけですか」(22)。私達も思います。イエス様が世の中の人に現れて下されば良いのに、そうしたらもっと多くの人が信じるのに。しかし、恐らくそうではないのだと思います。イエスが、金持ちとラザロの話をされた時、地獄に行った金持ちが天国のアブラハムに頼みました。「私の兄弟のところにラザロを送って兄弟に悔い改めるように言わせて下さい」(ルカ16:27~28意訳)。しかしアブラハムは言いました。「たといだれかが死人の中から生き返っても、彼らは聞き入れはしない」(ルカ16:31)。そこで人々がイエス様を自分の神として信じるということは、起こらないのではないでしょうか。むしろ、神が取られた方法は、イエス様を信じる人を用いて、ご自身のことを世に現すという方法でした。ある先生のメッセージでこんな話を聞いたのです。天然痘という恐ろしい病気がありました。エドワード・ジェンナーという人がワクチンを開発して、天然痘は撲滅されるのです。ところが、インドでは、なかなかワクチン接種が広がらなかったそうです。ヒンズー教の神様の中に天然痘の神様がいたらしいのです。皆にワクチン接種を呼びかけても、人々は受け入れない。そこに日本人の先生が行って「ワクチンはヒンズー教で大事にされている牛から作られているから、ヒンズー教の神様のバチは当たらない」と説得して、何人かの人にワクチンを打つことが出来ました。ワクチンを打たれた人は天然痘にかからない。それを見た村の人々が、ワクチンを受け入れるようになったという話です。つまり主は、私達という小さな存在を用いて、私達が神様を信じて生きる、そのことを通してご自身を世に現す、という方法を取られたのです。その意味でも私達は、神様を経験し、神様に感謝し、神様を喜んで、信仰生活をしたいのです。その私達を通して、神様に出会う人が出て来るかも知れません。私はある人が語ってくれた「先生、神は凄いな」というこの一言で、神様に目が開かれる思いがしたことです。
 主との出会い、主との交わりが与えてくれるもの、それは、この世が与えることが出来ない平安です、希望です。生きるにも死ぬにも、誰も奪えない平安であり、希望です。繰り返しますが、イエス様の言葉を生きて、主に出会い直し、主との交わりに励まされて生きて行きたいと願います。

聖書箇所:マタイ福音書14章15~17節

 ある本で「エレノア」という方の証しを読みました。この方は、若い時にご主人とお嬢さんを病気で、しかも同じ時期に亡くしたのです。周りが見ていても、「立ち上がれるのだろうか」というような状況の中だったそうです。しかし彼女の中で神の業が始まりました。彼女は、そんな状況の中で「温かい思い」、「将来への希望」、「他の人の痛みに対する憐れみ」、そのような思いに満たされて行ったそうです。エレノアさんは「神の奇跡だ」と言っています。詳しいことは分かりません。しかし今、彼女は、新しいご主人と大学で教えながら、神を宣べ伝えています。ある神学者が言いました。「人を救うのは道徳ではなく神秘だ」。信仰を持っているからといって、思い通りになるわけではありません。そうでないことが多い。しかし私達は、私達に働く神秘に期待できること、それは素晴らしい特権だと思います。その神秘を為して下さるのが神の御霊(聖霊)なのです。
 イエス様の告別の説教が続きます。イエス様は、ご自身がもうすぐ弟子達から離れて行くことをご存知で、弟子達を教え、励ます説教をされました。前回は、弟子達に「彼らがイエス様の宣教の働きよりもさらに大きな働きをする」ということを語られ、また「御心に適う祈りは聞かれる」という励ましを語られました。その続きです。ここでイエス様は、さらに大きな励ましの言葉を語られます。それは「助け主(聖霊)を与える」という励ましです。そのことは、2000年後を生きる私達への励ましでもあります。「聖霊を与えられるとは、どういうことなのか」、学んで行きましょう。
 聖霊の約束は15節の「もし、あなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(15)という言葉から始まります。「戒めを守る」という言葉は、嫌われる言葉だそうです。「『イエス様を愛する』というのは良いけれど、『戒めを守る』というのは暗い、『愛』と『戒め』は合わない」と、ある人々は言うそうです。しかしイエス様は、はっきり「わたしを愛するなら…わたしの戒めを守るはずです」、言い換えると「私の戒めを守ることで、私への愛を見せて欲しい」と言っておられるのです。イエス様は、沢山の信仰生活の祝福の原則を教えて下さいましたが、ここで直接的に指し示されているのは13章34節の「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34)の戒めではないかと思います。イエスは、後に残して行く弟子達に、そして私達に、祝福の原則として「互いに愛し合いなさい」と言われました。それも「罪あるお互いを赦しと忍耐と持って愛しなさい、愛し合いなさい」と言われたのです。しかし私達の愛は、イエスが教えて下さった愛、期待して下さった愛から遠いと思うのです。ある人は言いました。「私は家内が良くしてくれる時には、彼女を愛することが出来るけれど、良くしてくれない時には愛することが出来ない」。私達の愛には、どこか自己中心が入っているということではないでしょうか。そして、その自己中心のために、愛しているはずの人に痛みや悲しみを与えてしまうことがあるということなのでしょうか。私は、14年間、教師をしましたが、「子ども達のために」と言いながら「実は自分のためだった」ということが沢山あったことを思います。時々子ども達に謝りたい気持ちになることがあります。もう20年以上前になりますが、千葉の神学校で学んでいる時、昔教えた子ども達と再会しました。連絡を取るためにある男の子が電話をくれましたが、彼の声を聞いた瞬間、ある場面が頭の中にパーッと浮かんで来て、初めに言った言葉は「あの時は悪かったね」という言葉でした。愛することが大切であることは知っています。しかし私達の愛は、どこか自分勝手な、不確かなものではないでしょうか。皆さんはいかがでしょうか。私達が、本当に誰かを愛して行こうとしたら、イエス様の教えを良く聞いて、自分の感情ではなく、イエス様の戒め、イエス様の教えて下さった愛し方で愛して行く、その時、私達も、本当の意味で誰かを愛することが出来て、信仰生活の祝福の原則としての愛に生きることが出来るのではないでしょうか。そして、そのようにイエス様が戒めて下さった愛に生きる時、それがそのままイエス様を愛することだと、「あなたはわたしを愛している」と、イエス様が認めて下さるのです。
 しかし実際、難しいことです。だからこそ、イエス様は16節で「わたしは父にお願いします。そうすれば、父はもうひとりの助け主をあなたがたにお与えになります」(16)と約束して下さいました。この「助け主」と訳されている言葉は、元々の意味は「呼べば傍らに来てくれる者」です。なぜ呼ぶのか。助けて欲しいからです。祝福の原則を生きるためには助けが必要です。共にいてもらいたいのです。それだけではない、人生にやって来る困難に独りでは耐えることが出来ないのです。慰めや励ましが必要なのです。ある神学者は、この「助け主」を「困難や苦悩の中にある人を助けるために呼ばれた者、苦しんでいる者に再び勇気を与える者」と説明しています。なお「新共同訳」は、「助け主」を「弁護者」と訳しています。「弁護者」という言葉で思い出すのは「ヨブ記」です。あまりに辛い状況に苦しんでいるヨブがこう叫びます。「わたしのために争ってくれる者があれば、もはや、わたしは黙って死んでもよい」{ヨブ13:19(新共同訳)}。ヨブは、自分の傍らに在って慰め、助けてくれる存在を心底求めたのです。私達は、聖霊と言う弁護者を与えられていること、大きな特権ではないでしょうか。しかも「その助け主がいつまでもあなたがたと、ともにおられるためにです」(16)とあるのです。私達に与えられる聖霊は、今も私達と一緒にいて、私達を助けて下さる、私達が死んでも一緒にいて下さる、私達がやがて神の裁きの前に立った時にも、そこでさえ聖霊は一緒にいて下さるのです。私達を弁護して、私達をかばって下さるのです。イエス様は、そんな聖霊を与えると約束して下さっています。
 それでも、聖霊と聞くと、掴みどころのない感じがするかも知れません。しかし、イエス様は弟子達に言われました。「あなたがたはその方を知っています」(17)。なぜ、弟子達は聖霊を知っているのでしょうか。まだ聖霊は下っておられません。弟子達が知っているのはイエス様です。弟子達をかばい、守って来られたイエス様です。やがてイエス様が逮捕される時も、
イエス様は、ご自分が盾になって弟子達を逃がして下さるのです。そのイエス様なら、弟子達は知っています。どういうことかというと、三位一体の一角を占める聖霊は、同じ三位一体の一角を占めるイエス様だと、聖霊は見えないイエス様だと、理解出来るのです。イエスは2000年前に地上を歩かれた方です。でも私達は今、見えないイエス様と共に生きて行くことが出来るのです。それが、聖霊が与えられているということです。
 その聖霊(イエス様)は、今も私達に聖書を通して語って下さっています。ヨハネの時代も、世の人々はキリストを知らず、聖霊を知らず、教会を迫害していました。誤解され、迫害され、クリスチャン達が、教会が、内に、内に閉じこもってしまいそうになる、そのような時にこの「福音書」は生まれたと言われます。そして、教会にやって来られた聖霊の働きによって、彼らは、教会は、励まされ、立ち上がり、前に向かって宣教の歩みを進めて行ったのです。「イエス様こそ『道であり、真理であり、命なの…』(6)だ」と、「救いはここにしかない」と、証しをして行ったのです。
 その同じ聖霊が、私達にも与えられている、私達も聖霊の働きを受けながら歩いて行けるのです。主の言葉に、主が教えて下さった祝福の原則に生きて行けるのです。それが、この聖書個所の約束です。
 昨年、私達は、共に礼拝していた3人の仲間を天に送り、今も寂しい思いをしています。新型コロナウイルス感染症のこのこともあり、心が内向きになりがちではないでしょうか。私自身が、どこかでそうなのです。しかし、私達は、この個所に励まされます。私達は1人で生きて行くわけではない。私達がどんなところに居ようとも、どんな困難を感じていようと、私達には「聖霊(助け主)を与える」というイエス様の約束があるのです。
 話が少しとびますが、「エゼキエル書」の中に「枯れた骨の谷の幻」があるのをご存知の方もいらっしゃると思います。預言者エゼキエルが、主に導かれてある谷間に立ちました。その谷間には、至る所に人の骨が散らばっていました。しかも、その骨は、干からびているのです。その骨に「生き返るように預言せよ」と、エゼキエルは神様から言われるのです。エゼキエルが預言すると、散らばっていた骨が互いにつながり、その上に肉がつき、皮膚が覆い、やがてそれらは生き返り、自分の足で立ち、大群衆となるのです。幻です。しかし、その幻には意味があったのです。干からびた骨は、イスラエルの人々の状態でした。バビロン捕囚によって異教の地に連れて来られたイスラエルの人々は、あたかも干からびた骨のような、絶望的な状態だったのです。身の回りの現実もそうでした。自分達の将来に何の希望もなかったのです。むしろ、自分達は滅んでしまうのではないか、という恐れの中にいたのです。三浦綾子文学館の森下先生が言っておられました。「『花咲か爺さん』のお爺さんは、ポチから裏の畑を『ここ掘れ』と言われる前、裏の畑を何十年も掘り返して来て、そこには何も良いものは埋まっていないと誰よりも知っていた、『もう自分には良いものなんか何もない』と人生を諦めていた」。イスラエルも、そういう状態でした。いや、もっと深刻です。世の現実、置かれた状況、自分達の小ささに圧倒されていました。谷に散らばっていた骨は、神に希望を持たない人々の心の状態でもあったのです。しかし「花咲か爺さん」がポチに励まされて、希望を持って畑を掘ったように、絶望的な状態にあるイスラエルの人々に、神はエゼキエルを通して、谷間に散らばった干からびた骨が、みるみると生き返って、大群衆となるという幻を見せて下さったのです。現実は厳しい。しかし神は「神ご自身にあって起死回生の望みがある」ということを示されたのです。その場面で「エゼキエル書」にはこうあります。「わたしがまた、わたしの霊をあなたがたのうちに入れると、あなたがたは生き返る」(エゼキエル37:14)。つまり、そのことをして下さったのは聖霊なのです。聖霊が働かれると、枯れた骨でも生き返るのです。実際イスラエルは、やがてペルシャによって造られた特別の道路を歩いて、自分達の故郷に凱旋将軍のように帰って行ったと言われます。そうやって主の御心を生きて行くのです。私達の人生も、聖霊が注がれると不思議が起こるのです。神様の憐れみが、力が、私達にも働くのです。私達もきっと御心を歩いて行けるのです。教会もそうです。ある牧師が言いました。「どんなに沈滞している教会であっても、主の御霊が注がれた時に、リバイバルが起こる」。祝福の歩みが始まるのです。
 聖霊をあなた方に与える、それがイエス様の約束です。私達は、イエス様の戒めに、祝福の原則に生きるためにも、聖霊の助けが必要です。困難な状況の中で、希望を持って前に歩いて行くためにも聖霊の助けが必要です。その聖霊を、「助け主」を、「弁護者」を送ると、与えると、イエス様は語って下さいました。大切なことは、私達が聖霊の働きを待ち望むことです。私達の信仰の中に、御言葉と共に働く聖霊を待ち望み、期待して行くような、そのような部分を持ちましょう。静まって神に祈り、聖霊の働きを願いましょう。キリスト教の神秘を、私達も経験することが出来るに違いありません。

聖書箇所:マタイ福音書14章8~14節

 ある牧師先生が若い頃、アメリカを旅行し、あるクリスチャン家庭に泊めてもらいました。夕方、その家の主人が彼に尋ねました。「お腹はすいていないか?」。先生は奥ゆかしく答えました。「いいえ、すいていません」。しばらくすると、その家の夕食が始まった気配がします。しかし、いつまで経っても、食事のお呼びがかかりません。結局、その日の夕食はなしだったそうです。その時、「アメリカでは、遠慮深さ、言外の心を汲み取ってくれるだろうなどという甘えは通用しないということを身に沁みて教えられた」ということでした。先生の本は「これは祈りにも通じることではないか」と言うニュアンスで書かれてあったように、私は受け取りました。「心だに、誠の道に、かなひなば、いのらずとても、神やまもらむ」という古い歌があるそうですが―{もちろん神様は、私達が「願う前から…必要なものをご存じ」(マタイ6:8)の方ですが}―しかし「人格者である神様に向かってきちんと祈る、きちんと祈って交わる」ということも大切なのではないでしょうか。
 クリスマスの期間を挟んで随分と間が空いてしまいましたが、14章1~7節でイエス様は、不安と混乱の中にいる弟子達に「心を騒がせずに私を信じなさい」と言われました。弟子達は、イエスの言われたことが良く分かりません。7節では「今や、あなたがたは…すでに父を見たのです」と言われます。ユダヤ人にとって神は見えない方です。彼らはますます混乱します。そこでピリポが「主よ、私達に父を見せて下さい」と切り出します。それを契機に、今日のイエス様のメッセージがなされます。イエス様は、弟子達を励ますために語られますが、同時に私達にも、信仰生活への励ましを語って下さいます。2つのことを申し上げます。
 

1:主イエスを通して神に触れることが出来る

 ピリポは「主よ、私達に父を見せて下さい」(8)と言います。ユダヤ人にとって神は見えない方でしたが、旧約聖書には神を見た人の話があります。モーセは、イスラエルの民を導くのに疲れて大混乱している時に、神様に「姿を見せて下さい」と頼みます。そして神の後ろ姿を見ることを許されました(出エジプト33~34)。そうやって彼は、不安と混乱の中で、神との特別の交わりを通して神に従い行く確信を与えられたのです。この時、ピリポは、その特権に与って確信を得たかったのではないでしょうか。イエス様は「神を見ることが出来ない」とは言われませんでした。そうではなくて「わたしを見た者は、父を見たのです」(9)と言われたのです。
日本には「鰯の頭も信心から」とか「狐の尻尾も信心から」という言葉があります。何でも良い、信じることが尊いのだということでしょう。しかしキリスト教は、決して何か分からないものを信じて行く信仰ではありません。11節に「わたしが父におり、父がわたしにおられるとわたしが言うのを信じなさい」(11)とあるように、キリスト教は、イエスという歴史的な人物の生涯を通して、神がどういう方であるかを知ることが出来る、そういう信仰です。そのために私達には4つの福音書があります。不思議な神体験をすることも祝福ですが、それ以上に、神への信仰は聖書を通してイエスの生涯に触れ、イエスを通して神に触れることによって育てられて行く、それがここでイエスが教えておられる信仰の在り方なのです。
 では、イエス様を通して私達は神様の何を(どんな性質を)理解することが出来るのでしょうか。イエス様は「業によって信じなさい」(11)と言われました。イエス様がその為さった業を通して見せて下さったのは、神は力ある神であるということです。イエスは、様々な力ある業を為さいました。死んだラザロを甦えらせることさえなさいました。神は力の神です。しかし、それ以上にイエス様が教えて下さったのは、神様は愛の神であるということです。神様が愛の神でないなら、気に入らない人間はさっさと裁けば良いのです。多くの人がそのような裁く神を想像していました。しかし、イエス様は見せて下さいました。神様は裁く神ではなかった、愛の神でした。
 私は「姦淫の女」の話にイエス様の愛、神の愛を見ます。イエス様の前に姦淫の現場を押さえられた女が連れて来られました。宗教指導者は言いました。「モーセは律法の中で、こういう女を石打ちにするように命じています。ところで、あなたは何と言われますか」(5)。確かに律法は姦淫を死刑と定めていた。しかしイエス様は「そうだ、石で打て」とは言われなかったのです。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(7)と言われたのです。彼女を責め苛む指導者に対して「あなた方には、罪はないのか。あなた方は、神に代わって彼女を石打てるほどに立派なのか」。この言葉に力がありました。この言葉でイエス様は、女を守られたのです。そして言われました。「わたしもあなたを罪に定めない」(11)。これは「あなたの代わりに私が十字架にかかるのだ」ということです。さらに「今からは…罪を犯してはなりません」(11)、つまり「私の助けを受けて違う道を歩みなさい」と励まして下さったのです。
イエス様が見せて下さった神様は、愛の神でした。ある本にこんな言葉がありました。「自ら苦しみを負うことなしにひとりの人間を生かすことはできない」。人を愛するということは、ある意味で、苦しみを負うことだと言えるのではないでしょうか。家庭の中でも、そうでしょう。そして、神が私達を愛する方であるから、神の子は、その生涯を通して人々の苦しみを担い、何より最後まで十字架の苦しみを偲ばれたのです。神様が私達を愛して下さったからです。
 イエス様は、神がどういう方であるかを見せて下さいました。神は愛の神であること、今も私達を愛し、赦し、生かし、永遠の命にまで導いて下さる方であること、だからこそ「恐れるな。わたしはあなたとともにいる…わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ41:10)という約束も信じることが出来ること、このことが私達の信仰生活を励まして行くのです。だからイエス様を学ぶのです。
 

2:祈りを通して神に触れることが出来る

 イエス様は、さらに驚くようなことを言われました。「わたしを信じる者は、わたしのわざを行い、またそれよりもさらに大きなわざを行います」(12)。どういうことでしょうか。弟子達の行ったことで、イエスの為さったことよりも大きなこととは何でしょうか。それは恐らく「宣教の広がり」ではないでしょうか。イエス様は、パレスチナ以外では活動をされませんでした。そして、パレスチナにおいて、イエス様に敵対する多くの人々がいたとしても、彼らは、ある意味で神を恐れる人々でした。その考え方や方法が間違っていたとしても、神に喜ばれることを意識していた人々です。しかしイエス様の後、初代教会は、宗教的道徳の通用しない異教世界へ出て行き、宣教したのです。恐ろしいことに、その人々は円形(半円)闘技場(劇場)で奴隷に殺し合いをさせて、その刺激を楽しんでいた人々です。後には、キリスト教徒が猛獣に食われるのを楽しんで見ていた人々です。彼らは、そんな世界で「十字架で殺されたイエスは甦った、神の子だった、あなたもイエスの十字架を信じて救われなさい」という、「何をとぼけたことを…」と言われそうなことを言い続けて、やがて人々の心をつかみ、そして300年後、ローマ世界をキリスト教世界にしてしまったのです。
 さて、しかし、大切なことは、彼らがそのような大きな働きが出来るようになる理由を、
イエス様は「わたしが父のみもとに行くからです」(12)と言われました。どういうことかというと、イエス様が神の御許に行き、彼らの祈りを執り成すから、神の力によってそのような大きなことをするということではないでしょうか。私は、祈りの大切さを教えられます。
戦前、中国大陸の熱河省というところで日本人宣教師が中国人に伝道をしたことがありました。「熱河宣教」と言われます。そのリーダーがこう言っています。「伝道の働きの中で、まず第一にすることは祈りです。後はつけたしです」。この言葉は、祈りの大切さ、祈りの力を教えてくれます。ソロモン王は、神殿を造った時、神殿を神様に捧げる祈りをしました。その祈りは「神の前に自分は小さい者に過ぎない」という小ささの自覚から始まります。ある本に、その祈りを解説して次のように書いてありました。「ソロモンの祈りから知ることは、罪の告白、自らの小ささの意識がはっきりしていることである。祈りとは、要するに自分の小ささ、無力の自覚から出て来るものである。祈れない、祈ろうとしないというのは、口先では謙遜を装っても、自らの小ささ、無力の自覚、罪の自覚に乏しいと言わざるを得ない。祈りを必要としないほど、立派なのである」。最後に「ちょっと皮肉ったらしいが」と、付け加えてありました。
 私達が誰かのことを気に掛けながら、しかし、何の連絡もしないということがあります。その人のことを忘れている訳ではない、いつもちゃんと心にはあるのです。しかし、そこに建設的な交流は始まらないと思うのです。時間をとって、「エイっ」と思って電話をして、自分の気持ちを伝え、相手の声を聞き、そのようにして初めて生きた交流が生まれて来るのではないでしょうか。信仰生活でも、祈りがなければ、いくら聖書を読んでも、讃美をしても、メッセージを聞いても、それは「人間的なレベルで止まってしまう信仰生活」ということにならないでしょうか。突き抜けないのです。信仰生活に神様に入ってもらうために大切なのは、祈りです。信仰者の強さは、ただ神とつながっている強さです。頭を垂れて祈る、祈りが私達の信仰生活を支え、励ますのです。
 そしてイエス様は、祈りについて「あなたがたがわたしの名によって求めることは何でも、それをしましょう」(13)と言われました。これは「イエス様の御名によってお祈りします。アーメン」と祈りの最後につけるということだけではありません。聖書では、「名」は、その人の全てを代表するものです。「イエス様の御名によって」というのは「神の子が人となって来られ、人に仕えられ、人を救うために十字架に架かられ、死から甦られたこと」、その「主の生涯を心に覚えて」ということです。ある人が「かつて私は『神様、あの人を殺して下さい』と祈っていた」と証ししました。イエス様の生涯に照らした時、その祈りを神が聞かれるはずがないのです。でも、私達がイエス様の生涯にフィットする祈りをする時、具体的には、「愛」「赦し」「神への服従」に生きるために祈りをする時、それは必ず聞かれるということです。だから「メッセージ訳聖書」は「私がどんな者であるか、私が何をしたか、そのことに沿った願いをするなら、私はそれをして上げよう」(13)と訳しています。
 ある教会で1人の老婦人が天国に召されました。長い信仰生活の末の凱旋でした。この方は、牧師にこう話していました。「私は立派なクリスチャンではありませんでした。そんな私を見て、家族の誰もクリスチャンになろうとしませんでした。それが私の大きな悲しみです。でも、私は祈ることができます。朝に夕に、私は家族の救いを祈っています。『主イエスを信じなさい。そうすれば、あなたもあなたの家族も救われます』のおことばを頼りに祈っています」。葬儀が終わったとき、その息子さん夫婦が牧師のところにやって来ました。「先生、お話しがあります」。「どうぞ」。「今日は、母の葬儀をありがとうございます。つきましては、私達夫婦は、本日から、母の信仰を受け継いでまいります。母が生きている間は、反発して信じようとはしませんでした。しかし、母が何十年も最も大切にしてきたキリストへの信仰を、私達が受け継ぐべきだと夫婦で決心したのです。そうさせたのは、母の祈りの姿です。母はいつも曲がった背中をさらに曲げて、よく祈っていました。私達子どものためにです」。御心に適う祈りを、イエス様は聞いて下さるのです。希望を持って祈りに励みましょう。
 

結論

 ヤコブは言いました。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなた方に近づいて下さいます」(ヤコブ4:8)。聖書と祈りを通して神を知り、神に近づき、神に捉えて頂き、信仰の喜びと力を味わわせて頂きましょう。

 

聖書箇所:マタイ福音書2章1~12節

 インターネットで「元旦の祈り」というのを見つけました。「神様。今のところなんとか頑張っています。今のところ人の噂話もせず、怒り出したりせず、欲張ったり、機嫌が悪かったりせず、意地悪だったり、わがままだったり、甘えすぎたりしていません。本当にそのことでは感謝しています。でもあと数分でボクは寝床から出ます。そうしたらそこからは沢山の助けがいると思います。宜しくお願いします。アーメン」。起きた瞬間から戦いが始まるということでしょうか。そうであれば、朝の祈りは大切だと思います。皆様は今年の目標聖句をもう決められたでしょうか。私は、祈りもそうですが、神様に少しでも近づきたいと切実に願っています。
 教会暦では1月6日が「東の博士達がイエス様を礼拝した日」となっています。「クリスマス物語」に登場する「東方の博士達」ですが、彼らの記事は何を語るのでしょうか。
 

1:「博士達の来訪」の意味

 イエス様が生まれてしばらく経った頃、東方から博士達がエルサレムにやって来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか…東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました」(2)と言いました。彼らは何者なのか、なぜ「ユダヤ人の王」が生まれたというのに、異邦人の彼らが拝みに来たのでしょうか。「東の方」というのは「ユダヤから見て東の方」ということで、かつてバビロンやペルシャがあった地域です。「新共同訳」は彼らを「占星術の学者達」と訳しています。彼らは天文学の先生であり、星占いの先生であり、呪い師であり、祭司でもあり…そういう人達だったと思われます。バビロンは、イエス誕生の600年前、ユダ国の主だった人々が捕囚民として連れて行かれた地です。バビロンでユダヤ人は惨めな捕囚民でしたが、彼らの信仰はバビロンの人々(後のペルシャの人々)にも影響を与えて行ったと思われます。「旧約ダニエル書」に、ダニエルの知恵に驚いたバビロンの王様がダニエルを「バビロンのすべての知者たちをつかさどる長官」(ダニエル2:48)にした、という記事があります。今でいえば文科大臣にしたということです。ダニエルの信仰はバビロンの人々に影響を与えて行ったはずです。聖書が預言する救い主は、ユダヤ人だけではない、「世界の人々に救いを与える救い主」でした。「そのような救い主がやがて現れる」という希望は、東方の人々の心も捕らえて行ったのだと思います。
 この博士達は占いをしていた人です。多くの人が救いを求めて訪ねて来たでしょう。でも、彼らの占いには、何の救いも、確かな希望もない、ということを誰よりも知っていたのが彼らだったのではないでしょうか。小島誠志という牧師の話です。教会に1人の女性が訪ねて来てポツリと言いました。「取り返しのつかないことをしました」。先生は「取り返しのつかないこと」の内容を聞いて何か助言して上げようとしました。しかし女性は立ち去ってしまうのです。先生は言っています。「あの日、彼女は、何者かの前に立ちたかったのです…彼女の深みに共にいる方をなぜ示すことができなかったのか…どんな人間の絶望よりもさらに深い神の恩寵の光の中に共に立って、なぜ祈れなかったのか、と思います」。神に祈る世界がなければ、真の光は見えないのです。博士達も、人の世の闇を見ながら、そこに光をもたらすことが出来ないことを痛感していたから、「ユダヤに生まれる」と言われる「救い主」に望みを掛けたのではないでしょうか。あるいは、ある神父さんは「なぜ神父になったのか。本当に人を救うことの出来る本物に繋がり、その本物にひれ伏したかった」と言いました。博士達も、本当に自分を救ってくれる方の前にひれ伏すことを求めたのではないでしょうか。星の動きに異変が起こった時、彼らには、それが「神が特別なことを告げるしるしだ」ということが分かったのです。「救い主の誕生」と星との関連は、「旧約」にも「ヤコブから一つの星が上り…」(民数記24:17)と預言されています。だから、ついに世界に救いを与える人物が生まれることを確信して、「救い主」を訪ねてユダヤにやって来たのです。
 彼らはヘロデに教えられた通りベツレヘムに行きます。9~10節「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」(2:9~10)。ついに星が止まったのです。ついに救い主にまみえるのです。彼らは「この上もなく喜」(10)びました。そして「ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」(11)のです。「黄金は王への捧げもの、乳香は祭司への捧げもの、没薬は死者への捧げもの」と言われます。それは真の王であり、人と神を執り成す祭司であり、死ぬことによって救いを成し遂げるイエス様の生涯を表す贈り物でした。博士達は、イエス様がそういう救い主であることを何か理解していたのかも知れません。しかしそれ以上に「宝の箱」というのは、楽器のケースのようなものです。旅に出て行く時や仕事に行く時には、持って行くのです。それには、彼らにとって大切な宝物が入っていました。それは星占い師の商売道具です。例えば、お呪いを書く時に没薬を入れたインクを使って書いたと言われます。それをイエスに捧げてしまったということは―(神は占いや呪いを嫌われることを彼らは知っていた。しかし捨てられなかった。でも彼らは)―救い主にまみえることが出来た、その喜びの中で、喜びを打ち消すようなもの、神の御心にそぐわないものを捨ててしまいました。彼らは「呪いをしてくれ」と頼まれても、もうしない、別の生き方をして行くのです。それは12節「別の道から自分の国へ帰って行った」の言葉にも暗示されています。彼らは神に近づく別の生き方、新しい生き方を始めるのです。
 

2:「博士達の来訪」のメッセージ

この物語は私達に何を語るのでしょうか。2つのことを申し上げます。
 

1)神の選びの恵み

 「マタイ福音書」では、異邦人で、しかも占い師であった彼らが最初にイエス様に礼拝を捧げるのです。そのことは「神の選びの不思議」を語るのではないでしょうか。彼らが星の運行に詳しかったこと、救いを求めていた、ということを申し上げました。しかしそんな人達は沢山いたでしょう。しかし彼らだけが、神の招きに応えて、立ち上がってやって来たのです。なぜ彼らはそうしたのか。それは最終的には、神の選びによることだったと思います。神に選ばれたから応答したのです。しかし、ではなぜ、神は彼らを選ばれたのでしょうか。聖書にこうあります。「あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(1コリント1:26~29)。なぜ、彼らを選ばれたのか。それは、彼らが神の民ではない、異邦人であり、しかも占い師だったからだと思うのです。ユダヤ人にとって異邦人は神の救いから漏れるべき人々でした。しかも「占い」は、神が嫌われることです。彼らは神に選ばれるに相応しい人達ではなかった、御前に誇るべきものは何1つ持っていなかった、しかしだからこそ選ばれたのではないでしょうか。だからこそ、イエスにお会いしたとき、そんな自分達に神は目を留めて下さり、今救い主にまみえる、それを思って喜びに溢れたのではないでしょうか。
 そのことは私達も同じです。お1人びとり、教会にお出でになる切っ掛け、理由はあられるでしょう。それは自分で決めたことのように思っても、決してそれだけではないのです。最後は神の選びです。あなたは神に選ばれなさったから、神の招きに応答してイエス様の前に出ておられるのです。もし皆様が「私は選ばれるような者ではない」と思われるなら、だからこそ神は選ばれたのです。大塚久雄という経済学者が、自分は何を支えに生きて来たか、講演の中でこう言いました。「『自分は無きに等しい者であって、その自分を神は選んで下さった』、そのことを支えにやって来た」。「私が神様を選んだのではない。神様が私を選ばれたのだ」という事実は、私達の歩みを支えるのです。イエスは、ある時、こう言われました。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のために…いつまでも…放っておかれることがあるでしょうか」(7)。「選ばれた民のために神が何かをして下さる」という言葉です。祈るということは、神によって選ばれているという事実があるから可能になるのです。選ばれた者の祈りだから、神は聞いて下さる、それが私達の祈りの根拠です。ある牧師が言いました。「私達がたとえどんな困難な所に立っているにしても、祈ることが出来る限り、道は必ず前に開けるのです」。いずれにしても、選ばれた、という事実を感謝し、大切にして行きましょう。
 

2)選ばれた者ゆえの求道

 「マタイ福音書」で最初に主イエスを心から礼拝したのは異邦人でした。その事実は、ユダヤ人クリスチャンには受け入れ難いことでした。彼らは「『ユダヤ人』だけが『真の神の民クリスチャン』になれる」と思っていたのです。しかし「ユダヤ人だけが神の民である」という考えは、実は神の御心から遠い考え方だったのです。彼らは自分達の信仰、生き方を、御心に適うように変えて行く必要があったのです。本当の意味で神の御心に近づく必要があった。そこに祝福の秘訣があったのです。つまりイエス様を信じて終わりではない、信じてからこそ真の求道があるのです。
 ある神学者が言いました。「クリスマスに神の前に立てば立つほど、私達の心の神から遠いこと、私達の行っている業の神…からの遠さを痛烈に味わわずにはおられない」。そうであれば、この物語は私達のための物語でもあるのではないでしょうか。一昨年の「信徒大会」に来て下さった横山幹雄先生は、高齢になった今「『あなたは年を重ね、老人になったが、まだ占領すべき地がたくさん残っている』(ヨシュア13:1)という御言葉を聞いている」と、「主を知ること、主に似ること、主を伝えること、3つの占領すべき地を神様に示されている」と言われました。私達の占領すべき地、求道の道はどのようなものでしょうか。
 カナダの教会で副牧師として奉仕して下さったのは、趙先生という韓国人の先生でした。
先生は韓国陸軍を退官された後、教会の長老として奉仕しておられましたが、ある学会で日本語の通訳をされました。(先生は戦前、戦中に日本語の教育を受けておられましたから日本語が出来たのです)。学会の指導者が「これからは、神様があなたを、日本語を用いて神に仕えるようにされるだろう」と言ったそうです。先生は「遠からずこの世を去る時を考えると、日本人を憎み、彼らが悪くなるように願う心持ちでいては、決して天国には入れないだろう。日本人を愛せるようにならなくては…」、そうやって日本で開拓伝道をし、後に私達の日系人教会に仕えて下さったのです。それが先生の求道だったのです。奥様は日本での開拓伝道を振り返ってこう言っておられます。「人の能力では不可能でも、神様と共になら不可能なことはないということを再確認しました」。であれば、私達もこの1年をますます神様に近づき、神の不思議を経験する1年にしたいと願います。大きなことを考える必要はない、地道なことこそ大切だと思います。「今年こそは聖書を通読する、もっと祈りの時間を取る」、そのような目標も大切な求道ではないでしょうか。聖書は約束します。「神に近づきなさい。そうすれば、神はあなたがたに近づいてくださいます」(ヤコブ4:8)。今年1年、良い求道の旅をしたいと願います。祝福を求めましょう。