2021年10月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:マルコ福音書1章40~45節

 私は学生の頃、キリスト者学生会という聖書研究会に属していて、顧問の先生やクリスチャンの学生の方々と良い交わりを持たせて頂きました。ある時、恐らくイエス様がツァラアトの人を癒す個所―(まだ聖書に「ツァラアト」という言葉は使われていませんでしたが)―を学んでいた時だと思います、「砂の器」という映画の話になりました。「砂の器」は、父親がハンセン氏病に冒されたため、村を追われ、父親と息子がお遍路姿で全国を放浪する、病気の苦しみ、社会の差別、そういったものが背景となっている映画です。聖書研究会の先輩が「あれは名作だ、映画館は上映する映画がなくなると『砂の器』を上映する」と言いました。当時、私は家庭教師のアルバイトで中学生を教えていましたが、中学生が「先生、映画に行こう」と言ったので、「砂の器」を見に連れて行ったのを覚えています。中学生には難しい映画で、彼は可哀そうに眠っていましたが、確かに見ごたえのある、また考えさせられる映画でした。「聖書」のツァラアトとハンセン氏病は違います。その病気が、今では良く分からないから、「新改訳聖書」は、当時の呼び方のまま「ツァラアト」と書いています。(「新共同訳聖書」は「重い皮膚病」と訳しています)。しかし、病気は違いますが、ハンセン氏病の方が筆舌に尽くしがたい苦しみを経験されたように、病気の苦しみ、そして社会の差別の中を生きなければならなかった、その苦しみは、共通のものがあったのではないかと思うことです。
今日の箇所は、イエス様がそのツァラアトの人を癒される記事です。「内容」と「適用」と2つに分けてお話しします。
 

内容~イエスの憐れみと怒りの御業

ここに1人のツァラアトに冒された人が登場します。ツァラアトに冒された人は、大変な病気だというだけでなく、「宗教的に汚れている」とされました。そしてその人に触れた人もまた「汚れた者」とされたのです。だからその人々は、町から追放され、町はずれの人が寄り付かないような場所で暮らさざるを得なかったのです。(ガリラヤの場合は、サマリヤとの国境地帯に追いやられたようです)。しかも移動する時には、他の人が誤って触れないように「汚れた者が通ります、汚れた者が通ります」と言いながら歩かなければなりませんでした。人々から忌み嫌われ、蔑視を受けて生きて行く、その苦痛はどんなに激しいものだったでしょうか。彼はそのような状況を生きていた人でした。
その彼が、イエス様の許に来て、ひざまずいて癒しを願うのです。彼の姿は私達に教えます。彼は「ひざまずいて」必死に願いました。しかも「お心一つで、私をきよくしていただけます―{『御心ならば、わたしを清くすることがおできになります』(新共同訳)}」(40)と、「イエス様には癒す力がある」と信じて願いました。同時に「御心ならば」とイエス様の主権を認めて謙虚にすがりました。必死に、信じて、しかも謙遜に、祈りの姿勢について教えます。それに対してイエス様はどうされたのか。41節に「イエスは深くあわれみ、手を伸ばして、彼にさわって言われた。『わたしの心だ。きよくなれ。』」(41)とあります。ある英語の聖書は「私はそうしたい。清くなりなさい」(メッセージ訳聖書)と訳しています。イエスは手を伸ばして、彼に触れて、癒されるのです。
「手を伸ばして、彼にさわって」(41)という行為の中に、私達の信じるイエス様がどういう方か、それが良く表れています。この人は、もう長い間、人に触ってもらったことがない人です。人が自分に触らないように「汚れた者が通ります」と言って生きなければならなかった人です。ハンセン病の方の手記を読んだことがありますが、隔離施設の近くの店に買い物に行くと、店の人がおつりを、手が触れないように、投げ落とすように渡したそうです。そのことの屈辱、情けなさ、それが切々と綴られていました。(もちろん、私には、お店の人を裁く資格はありませんが)。しかし、そうであればこそ、イエス様があえて触って癒されたことの意味を感じます。イエス様は、きっと一番酷い部分に触られたのではないでしょうか。この人にとって、病気が癒されたことはもちろんでしょうが、触れてもらったこと、それは、彼がこれまで負ってきた重荷が受け止められた瞬間、人格(人権)が回復された瞬間ではなかったかと思うのです。イエスは、体だけではなく、心まで癒された、そう言えるのではないでしょうか。
イエス様の癒しの動機は、憐れみでしたが、手を差し伸ばされたところにイエス様の憐れみが表れています。(私に信仰について大きな影響を与えて下さった高齢の兄弟がおられますたが、ある会議の席上で声を震わせながら「キリスト教とは憐れみです」と言われた言葉を忘れることはできません。「キリスト教とは神の憐れみの宗教であり、神に憐れまれた者として憐れみに生きる宗教だ」と言うことでしょう)。「詩篇」を読むと、「詩篇」の詩人達も、ただ神の憐れみにすがって祈っています。私達が、自らの足りなさ、弱さ、醜さ、頑なさ、そういうものを知りつつ、なおも神に顔を上げて行ける、それも、神が憐れみ深い方であるからです。様々な弱さを覚えながらも、信仰をもって求める、それに対してイエス様が憐れみ深く答えて下さる、信仰の祝福を思います。
しかし、ここにあるのはイエス様の憐れみ深い姿だけではありません。癒された後、イエス様は「彼をきびしく戒めて…彼を立ち去らせた」(43)とあります。「叱りつけて…追い出した」ということです。何を叱りつけたのか。1つは「だれにも何も言わないようにしなさい」(44)ということであり、2つ目は「…行って、自分を祭司に見せ…人々へのあかしのために、モーセが命じた物をもって、あなたのきよめの供え物をしなさい」(44)ということです。
順序が前後しますが、「自分を祭司に見せ…供え物をしなさい」(44)というのは、「ツァラアトから癒された」と診断し、それを社会に向かって宣言するのは祭司の仕事だったからです。祭司に「癒された」と宣言してもらう時、その人は、子羊等の供え物をする等、複雑な儀式を経なければなりませんでしたが、それによって社会に復帰することができたのです。
しかし、なぜイエス様は叱りつけるようにして彼を追い出されたのでしょうか。彼は人々から差別を受けて、社会から追い出さたのです。そして社会の外で暮らしていたのです。しかし今度は、自分を差別した社会に帰って行くのです。彼の中には恐れや躊躇があったはずです。辛い経験はトラウマになって、彼の心を圧迫していたでしょう。また、帰っても、差別や偏見がものの見事になくなる、ということはないでしょう。41節の「イエスは深くあわれみ」(41)を、ある「有力な写本(古いオリジナルに近い聖書)」は「イエスは激しく憤って」と書いているそうです。そう読むなら、この人をそのような状態に追い込んでいるもの、人の苦しみに同情し得ない人々、また人の苦しみをそのままにしている社会、そのようなものに対して、イエス様は、怒りを含んだ悲しみを込めて、怒りと彼への憐れみの混じったような感情をぶつけておられるのかも知れません。イエス様は彼の恐れと躊躇を知っておられ、「戦いが待っているかも知れない社会、しかしそこがあなたの生きる場所なのだ。ここから出てそこへ帰って行きなさい」と、強く背中を押すような励ましの言葉を語られたのかも知れません。
しかしもう1つは、「だれにも…言わないようにしなさい」(44)ということでした。それは、人々がイエス様の「救い主」としての働きを間違って理解しないようにするためです。イエス様は、現実の苦しみから私達を救い出して下さる方であり、今でも祈りに答えて奇跡的な癒しをして下さる方です。イギリスのある有名な聖書学者によると「祈りによって奇跡的な癒しが為される可能性は5%」だそうです。5%もある。だから私達は「御心ならば癒して下さい」と心を合わせて祈るのです。
しかし、イエス様の差し出しておられる恵みは、ただ1回の癒しだけではない、生涯に渡る恵みであり、さらに私達がどうすることもできない死の壁さえ越える、永遠に至る恵みです。ある方は、教会の祈りによって癌が奇跡的に消えたのですが、間もなく教会から離れて行かれたのです。残念です。イエス様は言われました。「人は、たとえ全世界を手に入れても、自分の命を失ったら、何の得があろうか。自分の命を買い戻すのに、どんな代価を支払えようか」(マタイ16:26)。病気が癒されることは切実なことです。(私も今回の虫垂炎の苦しい経験から、心底そう思います)。しかしそうであっても、永遠というものがあるなら―(ある神学者が言いました。「アメリカの西海岸から東海岸までリボンを張って、最初の20cmがこの世の生涯、残りの全てが永遠の命である」。であれば)―天秤にかけるわけではありませんが、永遠の救いの方がより重要ではないでしょうか。
しかしそのためには、「神様との人格的な関係」に入ることが何よりも大切なのです。そこから真の恵みは始まるのです。イエス様は、人々にそれを得させるために来られたのです。私達を変えるのは、自分の罪を認めて、神の前に砕かれ、赦しを請い、遜って神を仰ぐことです。その時に、私達の中に、神様が望んでおられる形での神様との人格的な関係が始まるのです。人々がイエス様の奇跡だけを求めて、肝心の神様との関係に入ることがどこかに飛んで行ってしまう、そのようなうねりにならないように、「だれにも…言わないようにしなさい」(44)と言われたのです。
 

2.適用~祈ること、永遠を思うこと

この記事は信仰生活に何を語るのでしょうか。私達が差別や偏見から自由になる、ということもあると思います。しかしそれ以上に、祈りについて語っているのではないでしょうか。
ツァラアトの人にとって、イエス様に近づき、イエス様の前に出ることは、大変なことだったはずです。しかし、それでも彼は来たのです。なぜそこまでしてイエス様の前に出たのでしょうか。「イエスにそのおつもりがあれば、イエスは癒すことがおできになる」と信じたからです。私は、この出来事の全体が、私達に、神の前に出て心からの願いを祈る、そのことの大切さを教えていると思います。聖書は、「あれが欲しい、これが欲しい」という私達の自我を助長するような信仰は教えません。しかし一方で「主はあなたがたに恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる」(イザヤ30:18)、神が祈りを待っていると、イエスが助けようとしておられると、教えるのです。イエス様も「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)と言われました。「あなた方の心からの願いを何でも祈り求めて良い」と言われたのです。同時に「あなたがたの天の父は、求める者に良い物をくださるにちがいない」(マタイ7:11新共同訳)とも言われました。「聖書」は、そのような、神に単純にすがる信仰を勧めるのです。
 確かに必死に祈っても、癒されないことがあります。私達は、辛い経験をします。なぜ、祈っても癒されないのか。私達には分かりません。それでも、「祈っても祈らなくても同じではないか」、「結局、何も変わらないのではないか」という不信仰ではなく、「祈りは物事を変える」という信仰を生きることを、期待されていると思います。私も、心を病んで、病院のスタッフに「死にたいですか」と聞かれるような状況になったことがあります。「ああ、こんなところまで落ちたのだ」と心のどこかで思いました。「このトンネルから抜け出ることがあるのか」、心が押しつぶされるような日々を過ごしました。しかし、そこに神が手を伸ばして、不思議に癒して下さったのです。妻も、もう治らないかも知れないというような状態から、神様に癒して頂きました。一昨年来て下さった佐藤先生は、「奇跡はある、神様が必要だと思われたら奇跡が起こる」と言われました。私達は、神様(イエス様)の恵みと憐れみ、何より力を信じて、癒しのために、様々な問題の解決のために、祈り続けて行きたいと思うことです。
 しかしこの個所は、イエス様の憐れみ、祈りの大切さ、それを教えると同時に、永遠の救いをこそ思うことの大切さをも教えるのです。イエス様に止められたにも拘らず、結果として「彼は…この出来事をふれ回り、言い広め始め」(45)ました。彼はイエス様のことを「イエスは癒し主だ」という形で言い広めたのでしょう。しかし「マルコ福音書」は、これを否定的に表現します。それは、イエス様は、人々がご自分のことを、ただ「奇跡的な業をすることのできる人」という形で信じる信仰を願われないからです。申し上げたように、人々が真に自らの罪を悔い改めて、イエス様を通して―(十字架の赦しを通して)―神様との人格的な関係に入り、それによって神の国―(神の恵みの支配、神の保護下である世界)―を生きるようになること、それを願われたのです。そこに、永遠に続く祝福があるからです。イエス様は私達にも、罪を認め、遜って神を見上げ、赦しを感謝して受け取り、神の憐れみの中を生きようとする、そのような、悔い改めの信仰を生きることを願っておられるのではないでしょうか。それこそが永遠に続く救い、祝福、永遠の命の希望に生かされる信仰だからです。
「百万人の福音」に遠藤芳子という方のお証しがありました。この方のご主人は、牧師であり、神学校でも教えておられた方です。ところが46歳、これから、という時にALS(筋委縮性側索硬化症)という難病の宣告を受けるのです。私もALSの方を数年間、お見舞いしたことがあります。本当に大変な病気です。姉妹は「突然、崖から突き落とされたような、そんな恐怖でした」(遠藤芳子)と書いておられます。しかしご主人は、驚くほど見事な様子で、病気を受け入れ、「命の許される限り、全力を尽くすのみ」と言って奉仕を続けられたのです。ご主人は、ご自分の本のあとがきにこう書いておられるようです。「十字架で私の罪のために身代わりの死を遂げてくださったイエス・キリストが復活なさり、永遠の命の恵みを約束してくださった。そして、まだこの福音に仕えることを許していただいている。今こそ『しかし私には、私たちの主イエス・キリストの十字架以外に誇りとするものが決してあってはなりません』(ガラテヤ6:14)とのパウロの叫びに強く共感を覚える者である」(遠藤嘉信)。そしてやがてご主人の目は、天国に向いて行ったそうです。「神の前に立たされる時、キリストの十字架のゆえに罪なしと宣言されるんだよ。何てありがたいんだろうね」(遠藤嘉信)。姉妹は書いておられます。「突然、難病によって死と向きあわされながら、しかし死で終わりでない永遠のいのちに生かされる恵みがどれほど素晴らしいものか、主人は身をもって見せてくれました」(遠藤芳子)。
長く引用させて頂きましたが、このお証しは、イエス様が私達に与えたいと思われた究極の祝福について語って下さっているように感じます。誰もが、やがて死を迎えます。避けることはできません。だからこそイエス様は、十字架に架かり、私達を神に受け入れられる者として下さり、また復活して、私達に永遠の命の希望を与えて下さいました。そのことを、私達は見失ってはならないと思います。もちろん、現実の問題に対して、主の不思議な御業を、主の恵みと憐れみの御業を、期待して祈って行かなければならないし、私達にはそうすることが赦されています。主にある祝福、希望、癒しを、誰かのために取り次ぐ特権も与えられています。感謝です。しかし最終的には、全てのことを主に任せて、永遠の救い、永遠の命の希望をこそ、何よりも大切なこととして、信仰生活を送りたいと願うのです。
 

聖書箇所:マルコ福音書1章32~39節

「お便り」にも書いたのですが、7日の深夜、激痛に襲われ、我慢できなくて救急病院に行きました。先生方が色々な検査をして下さり「虫垂炎に間違いない、腹膜炎になる前に手術した方が良い」ということになり、8日の未明に入院し、手術を受けました。術後は、身動きができず、術創部は痛く、熱はあり、「本当に良くなるのだろうか」と思う状態でした。それが、日が経つにつれてどんどん良くなるのです。「我、包帯す、神、癒し給う」という、ある先生のメッセージで聞いた「近代外科医の創始者」と言われるアンブロワーズ・ペレの言葉を思いました。担当医の先生も良い手術をして下さり、看護師の方々も細やかにお世話をして下さいました。しかし、日々癒され、良くなって行く、「これは神様の御業だ」と実感しました。その意味で、皆様の主に在るご心配、お祈りが、本当にありがたかったのです。祈られて在ることの幸いを感謝致しました。
今朝の箇所は「祈り」がテーマです。内容と適用と2つ、お話しします。
 

1:内容~御心を歩むために主イエスは祈られた

 イエス様は、最初の弟子達を招かれた後、カペナウムを中心とした宣教活動を始められました。「1章21~31節」は、イエス様が安息日に会堂で教えを為さったこと、悪霊に憑かれていた男から悪霊を追い出されたこと、その後、会堂を出てペテロの家でペテロの姑を癒されたこと、それら一連の出来事を伝えます。当時の律法では、安息日に人を癒しても、癒されても、いけませんでした。また人のような重いものを運んでもいけませんでした。それでイエス様の癒しを見た人々は―(特に病気の家族を抱えている人々は)―家族をイエス様の所に連れて行きたくても、安息日には連れて行くことが出来ませんでした。ユダヤの1日は日没で終わります。32節に「日が沈むと…」とあるのは、「安息日が終わって次の日が始まると…」という意味です。「癒されても良い日」が始まったのです。それでペテロの家の前には、多くの病人が連れて来られたのです。イエス様はその人々を癒されました。その癒しには、かなりの時間が掛かったに違いありません。後に長血を患った女を癒される場面で、イエス様は「私から力が出て行ったのを感じたのだ」(ルカ8:46)と言っておられます。この場面でも、イエス様は「癒し」を為さるために霊的な力を使い果たされたはずです。だからこそ、イエス様は、次の日の「朝早くまだ暗いうちに起きて、寂しい所へ出て行き、そこで祈」(35)られたのです。
イエス様は「祈り―(神との交わり)―無しにはやって行けない」ということを良く知っておられたのです。ヘンリ・ナーウェンというカトリックの神学者が、次のようなことを言っています。「…活動について声高に語る言葉の間に挟まった、静けさが支配するこの文節を読めば読むほど、イエスの働きの秘訣がどこにあったかに気づかされます。それは、夜が明ける前、朝早い時間に祈りに出かけたあの人里離れた所に隠されていたのです」(ヘンリ・ナーウェン)。(今日はナーウェンの言葉を特に取り上げます)。私達も一生懸命生きています。その中に色々な気遣いがあります。配慮があります。業があります。色々な形で自分の内にあるものを外に出しています。イエス様でさえ「神様との1対1の交わり」の中で神様から力を頂くこと無しにはやって行けなかったとするなら、私達はどれだけそれが必要でしょうか。ある聖書学者は言いました。「祈らないことは、私達の資源に神を加える可能性を無視する信じ難いほどの愚かな罪である」。宗教改革者ルターは言いました。「私はあまりにも忙しいので、1日3時間は祈らなければならない」。もちろん祈らなくても生きて行けます。しかし、生き生きとした信仰の命を生きること、神の命に生かされることは、できないのではないでしょうか。
さてしかし、私達は「このイエス様の祈り」について、もう一歩踏み込んで考える必要があると思います。と言うのは34節に「イエスは、さまざまの病気にかかっている多くの人をいやし、また多くの悪霊を追い出された。そして悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった。彼らがイエスをよく知っていたからである」(34)とあり、それに続いて「イエス様の祈り」の記事が書かれているのです。ということは、「悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった」ということと「イエス様の祈り」には関係があるのではないでしょうか。イエス様は、単に疲れた魂に、霊に、精神に、神の癒しと神の力を頂くために祈られたのではないのだと思います。では、何を祈り求められたのでしょうか。
まず「悪霊どもがものを言うのをお許しにならなかった」(34)ということですが、悪霊であれ何であれ、例えば、悪霊に憑かれた人が神がかりのようになって「お前は神の聖者だ」と言えば、人々の注目が集まり、それだけ伝道し易くなるはずです。しかし「福音書」のイエス様は「ご自分が神からの救い主である」ということを極力隠そうとされるのです。それは…。イエス様は、確かに神の許から人を救うために来られた方です。しかし、イエス様が救い主であるというのは、私達の日々の生活の様々な問題から私達を救って下さる方である、ということでもありますが、それは、私達が神様との関係に入ることによって、初めて積極的な意味で現実となる救いです。何より、私達を永遠のいのちに導いて行くのは、神との個人的な関係です。だからイエスが、ご自分の使命として果たそうとされたのは、人々を神との関係に引き入れることです。そしてそれは、最終的には、ご自身の十字架によって成し遂げられるのです。
そうすると、イエス様がここで何を祈っておられたのか。36~37節に「シモンとその仲間は、イエスを追って来て、彼を見つけ、『みんながあなたを捜しております』と言った」(36~37)とあります。前夜の癒しの評判がますます広まり、人々がイエス様のところに押し寄せているということでしょう。そうなると、人間的にはどうでしょうか。人々に期待されていること、人々が大きな関心を持って見つめていることに、心が揺らされるのではないでしょうか。人々の賞賛は、私達の虚栄心をくすぐり、私達を動かし始めます。イエス様にとっての戦いは、ご自分の評判が高まれば高まるほど、十字架が難しくなるということです。言い方は相応しくないかも知れませんが、イエス様の人間としての部分が「このまま力ある説教をして、力ある業をすれば、人々の心を神に向けることが―(人々を神と結びつけることが)―できるのではないか。何も十字架という悲惨の極みのようなことを身に受けなくても良いのではないか」と思い始めることです。そうやって神の御心から逸れて行くことです。
だからこそ、イエスは祈られたのです。祈りの中で神の御前に立ち、自らの歩むべき道を確認し、自らを誘惑して来るものを見据えて、それに打つ勝つ力を求めて祈られたのです。それが、ここでの祈りの大きな部分だったと思います。「主の祈り」の中でイエス様が教えて下さった「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」(マタイ6:13)という祈りは、他ならぬイエスご自身がなさった祈りだったかも知れません。だから「寂しい所」での祈りの結果、イエス様は、神の聖者に祭り上げられそうな場所から離れて、「さあ、近くの別の村里へ行こう。そこにも福音を知らせよう。わたしは、そのために出て来たのだから」(38)と言われたのです。
 

2:信仰生活への適応~御心に適う信仰生活をするために祈る

この個所から何を学ぶことができるでしょうか。もちろんそれは「祈る」ことです。CSルイスは言いました。「神は、人間という機械を、神ご自身を燃料として走るように設計なさったのである」(CSルイス)。これは「人は神に結びつかなければならない」ということを説いた言葉ですが、同時に「結びつき続けることの必要」が語られている言葉だと思います。私達は、神様に祈る中で信仰者として生きることが出来るのです。「問題の中で、試練の中で、祈ることができる」ということはどんなに幸いなことでしょうか。また、初めに申し上げたように、祈られて在る、ということは、どんなに感謝なことでしょうか。「詩篇」に次の御言葉があります。「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」(詩篇22篇5~6節・新共同訳)。「あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」、例えばこの御言葉を握って祈る時、私達にとって、祈ること自体がすでに希望です。
しかし、ある神学者は言いました。「人は困難の時には1万の祈りを捧げるが、繁栄の中ではその祈りは1つである」。「困難の中で祈ることが出来る」、それは素晴らしいことです。しかし、祈りというものが、もしそれだけなら、困難がなければ祈らないことになります。実際、私達の信仰は、逆境の中でもへこみますが、それ以上に順境の中で弱って行くのではないでしょうか。祈らなくなる、聖書を読まなくなる、「それでもやって行ける」と思う。そうやって私達の霊性は、知らず知らずの内に弱って行く、知らず知らずの内に神から離れて行く、ということがあるのではないでしょうか。問題の解決や人生の祝福を願い求めることは、祈りの重要な要素です。いや一番大きな部分でしょう。私達にはそれぞれ、課題が、切なる願いがあります。しかし、それだけが祈りの目的ではありません。
 では、祈りの他の目的とは何でしょうか。それは、ここのイエス様の祈りが教えます。ある牧師が次のように言っておられます。「キリストから離れても、むろん、いろいろなことが出来ます。面白いこと、自分を喜ばせること、なんだってすることが出来ます。しかし神の御心にかなうことは何一つ出来ないのです…」(小島誠志)。「祈り無しには―(神に導きを求め、神の導きの中を歩むことなしには)―神に喜ばれる信仰生活はできない」と言うのです。なぜ、できないのか。私達は基本的に、神様ではなく、自分を主人公にして生きようとするのではないでしょうか。言い換えると「神がどう思われるか」という神様の視点を抜きにして考えてしまう、ということがあるのではないでしょうか。
私はある時、「失敗した」と思い悩んで鬱的になって行ったことがあります。その時に1人の先生が私に言われました。「神様には『先生がしたこと―(何をしたかということ)』よりも『先生そのもの』が大切なのですよ」。私にはその視点がありませんでした。神様を抜きにして、「自分だけの世界」で物事を見ていた傲慢があったのです。神への祈りが足りなかった、ということも言えます。ヘンリ・ナーウェンは次のように言っています。(分かり易く言い換えます)。「祈りを通して神と交わって行く中にイエス様の生きる根拠(土台)があったし、祈りを通して神の御心に触れるところに、心を安んじて、しかも回りに左右されずに自由に生きて行くその支えがあった」(ヘンリ・ナーウェン)。私達も、神への祈り、神との交わりが、生活の、生き方の、土台であるべきだと思うのです。
祈りの大切な目的は、神に生かされて在ることを確認して、「神様に喜ばれる生き方ができるように」と願い求めることではないでしょうか。そのように、神を自分の生きる現実の中にお招きすること無しには、私達は「神の御心に適う生き方―(神の愛に応える生き方)」をすることは難しいのではないでしょうか。私は森繁さんの話を思い出します。(何度もお話ししますが…)。彼はアメリカで信仰を持ち、「日本人に伝道したい」と思って、日本で教会を始めたのです。しかし、アメリカ人の奥様は日本の生活に馴染めなくて、だんだん落ち込んで行かれたのです。彼は家族のためにハワイに住むのです。しかし、仕事がない。ようやく見つけたのがマカデミアン・ナッツの農場で草を刈る仕事でした。ずぶ濡れになりながら働きました。彼は神に叫んだのです。「神様、私はここで何をやっているのでしょうか。伝道もできません。伝道ができなければ生きている甲斐がありません」。彼は3か月、神様と祈りの格闘するのですが、その中で導かれるのです。そしてやがて「神様、もしあなたが私にさせたいことが、ここで家族の面倒を見ることだったら、それをあなたがさせたいのなら、私はやります。一生でもやります」。そう祈るようになるのです。そこから彼は、生活のことも導かれ、そして色々な形で神の御業に用いられるようになるのです。祈りが、彼の人生を、生活を、奉仕を導いたのです。(ご本人に確認したわけではありませんが、私はそのように理解しています)。
私達も、日毎に祈り、日毎に神との関係を受け取り直すことを通して、本当に「神との生きた交わりを土台とした信仰生活」を造って行ければ、と願います。そうでなければ、結局は信仰生活が、神に根ざしたものでなく、人間的なものに支配されて行くことになるのではないでしょうか。そして私達を深いところから生かす神の力や愛を経験することができずに、霊的に枯れて行くのではないでしょうか。
私の好きな話があります。三浦綾子さんが「氷点」を書いている時の話です。12月31日の締め切り日が迫って来て、原稿が間に合わないかも知れないという状況になりました。綾子さんは夫の光世さんに「恒例になっている自宅を開放しての子供クリスマスを今年だけは休めないか」と頼むのです。光世さんの返事は「神の喜ばれることをして落ちるような小説なら書かなくても良い」でした。しかし、光世さんの言葉の背後には「祈り求めることは、すでにかなえられたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになるであろう」(マルコ11:24)というイエス様の言葉があったのです。彼は「入選するように」と祈り求め、「それが成る」と信じることができたのです。祈りがあったのです。だから言えた信仰の言葉だったのです。そのように、祈りが私達を信仰者として生かすのではないでしょうか。
だから私達も祈りましょう。そして願わくは、少しでも神様に喜ばれる信仰生活を歩ませて頂きましょう。
 

最後に

 ある牧師が亡くなる前に言われたそうです。「もう一度、神が私をこの地上に生かして下さるなら、私が色々なことに使った時間を、その時は祈りのために使うだろう」。天国に行った時、私達は初めて、祈りの本当の重大さを知るのではないでしょうか。それを思うからこそ、祈りつつ、天に向かって良い信仰生活を紡いで行きたいと願います。
 

聖書箇所:マルコ福音書1章21〜28節

前にもお話したことがあると思いますが、カナダにいる時、「現代のユダヤ教では『過越しの祭り』をどのように祝うのか」、興味を持ってバンクーバーにあるユダヤ教の会堂を訪ねたことがあります。イエス様の時代には、「過越し」を祝うために、人々は神殿に羊を連れて行って、祭司に屠ってもらい、ある部分を犠牲として献げ、残りの部分を家に持ち帰って焼いて、1頭の羊を家族10人くらいで食べました。私は「会堂の中で、何かそれに似たことが為されているのではないか」とチラッとそんなことも思いました。中に入ったら、1人の男性が私を見つけて、キッパーという小さな被り物を渡して礼拝堂に案内してくれました。礼拝堂ではラビを中心に皆で聖書を読んでおられました。食堂らしい部屋を覗いたら、「羊を屠る」等という雰囲気は全くなく―(当然ですが)―テーブルの上には綺麗に食器がセットされていました。会堂で一緒に「過越しの食事」をするのではないかと予想しました。忘れられないのが、私を案内してくれた男性のこぼれるような笑顔と、礼拝堂を出る時に聞こえた「ラバイ!」とラビを呼ぶ女性の声です。ユダヤ人の人達のコミュニティーでは、今も会堂が大きな役割を果たしているように感じました。今朝の箇所の舞台は、その会堂です。
前回の個所でイエス様は、ペテロ、アンデレ、ヤコブ、ヨハネという最初の弟子達を招かれました。その弟子達が最初に経験したのが「カペナウムの会堂の出来事」でした。初めにこの個所の内容について確認し、その後、この個所が教える信仰生活への適用を考えたいと思います。
 

1:内容~権威ある教えと権威による悪霊追い出し

ユダヤの人々は、安息日―(土曜日の朝)―になると、会堂に集まって「信仰の告白」をし、「祈り」をし、朗読される「聖書」に耳を傾け、説教を聞きました。キリスト教会の礼拝の原型は、ユダヤ教の会堂にあります。ただ会堂には、専属の説教者がいませんでした。会堂司と呼ばれる管理人が、その日の説教者を選びました。この時、会堂司はイエス様を指名したのだと思います。それでイエス様は説教をなさいました。21節に「それから、一行はカペナウムに入った。そしてすぐに、イエスは安息日に会堂に入って教えられた。人々は、その教えに驚いた。それはイエスが、律法学者たちのようにではなく、権威ある者のように教えられたからである」(21~22)とあります。人々はイエス様の教えに驚くのですが、ここでイエス様が何を語られたのか。おそらく「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)、「神の恵みのご支配が始まったから、あなた方は心を変えなさい。神を無視して生きて来たことを認めて、罪を認めて、神の許に帰りなさい」、そう語られたのかも知れません。あるいは「山上の説教」のような説教を為さったのかも知れません。
しかし「マルコ福音書」は内容を書きません。つまり「語られた内容よりもイエス様の語り方に人々が驚いた」ということを強調しているのです。ではイエス様の語り方の何が「律法学者たち」と違っていたのでしょうか。「リビング・バイブル」は22節をこう訳します。「イエスの話し方が、これまで聞いてきたのとは、まるで違っていたからです。イエスはやたらに他人のことばを引用せず、権威をもって堂々と話されました」(リビング・バイブル1:22)。どういうことかというと、会堂で頻繁に説教していたのは、律法学者です。専門的に「聖書―(特に『モーセ五書』)」を研究していた聖書学者です。しかし彼らは、常に「律法の◯◯に◯◯と書いてある、ラビ◯◯がこう言っている」という様に、何かの権威に拠って語りました。(牧師も「聖書の◯◯に○○と書いてある」と言って、そこから話を始めるしか出来ません)。しかしイエス様は「山上の説教」でも「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない。』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでもさばきを受けなければなりません…」(マタイ5:21-22)と語られました。「あなたがたは聞いています」というのは「律法学者が語っているのを、あなたがたは聞いています」ということです。その人々にイエス様は「しかしわたしはあなたがたに言います」と言われるのです。何の権威にも寄りかかっていない。自らの権威で「わたしは…」と語られたのです。こんな語り方をする人はいなかった。それは、律法学者達にしてみれば、聖書の権威を無視することでした。それだけではなく、それは、そのように語っている律法学者の面目を潰すことでもありました。だからすぐに律法学者や、彼らの多くが所属しているパリサイ派のグループは、イエス様に対する激しい敵対心を持つのです。自らの足下を崩されると人は怒ります。「マルコ3章」で、彼らはイエス様を葬ることを考え始めます。
しかし、私達はここから知ることが出来るのです。イエス様こそ、何の権威にも寄りかからないで、自らの権威と責任において、真実の言葉を語ることが出来た方なのです。なぜ出来たのか。真実―(神の真実)―を知っておられたからです。だからこそ私達は、イエス様の言葉の中に「神の御心―(真実)」を読み取ることが出来るし、そうしようとするのです。
さて、そのように真の権威を持って語られたイエス様に対して、敏感に反応したものがいました。悪霊です。ここに「汚れた霊(悪霊)につかれた人がい」(23)たのです。でも彼は、イエス様が語られるまでは、つまり律法学者が語っている間は、皆と良くなじんでいたのです。彼が悪霊に憑かれていることが、皆には分からなかったのです。それだけ人々の心が鈍っていたということかも知れません。しかし真の権威を持つ方―(神の許から来た方、悪霊を滅ぼす力を持つ方)―を見た時、悪霊は、男の口を借りて騒ぎ出すのです。しかしイエス様は、それを「黙れ。この人から出て行け」(25)の一言で追い出してしまわれたのです。人々はこれに驚きます。しかしここのポイントは、イエス様が悪霊を追い出されたということより、むしろイエス様が真の権威を持って語られたということです。悪霊さえ逆らうことの出来ない権威を持っておられ、権威によって語られたのです。
そしてこの記事は、私達にイエス様の権威についてもう一度考えるように教えるのです。「人々はみな驚いて、互いに論じ合っ…た」(27)のです。「この人は一体誰だ」。私達はイエス様のことを「神の子」と認め、イエス様の権威を認めている…つもりです。しかし日常生活のレベルで、本当にイエス様の権威を、イエス様の教えの権威を認めているのか、問われます。
こんな話を読みました。ご主人に先立たれたケニアのAさんは広い土地を相続しました。ところがその土地の大半は小高い山によって占められ、放牧にも耕作にも適しません。Aさんは経済的に困り、「この山さえなければ、穀物を植えたり、羊を飼ったりできるのに」と思っていました。Aさんはある時、「だれでも、この山に向かって『動いて、海に入れ』と言って、心の中で疑わず、ただ、自分の言ったとおりになると信じるなら、そのとおりになります」(マルコ11:23)という御言葉を知って心打たれました。「すごい。うちの山に向かって『平らになれ』と言って、疑わないで信じるなら、そうなるのだ」。ある宣教師は言いました。「とんでもない。イエス・キリストは、比喩として『問題の山』について語れたのですよ」。でもAさんは聞きました。「でもこの言葉は本当にイエス様が語られたのですよね」。宣教師は「そうです」と答えました。Aさんはその日から毎日「主イエスの御名によって命じる。山よ、平らになれ。イエス様、山を平らにして下さい」。2か月が過ぎましたが、山はびくともしません。それでも諦めずに、毎日山に命じ、神に祈り続けました。4か月が過ぎた時のことです。建設省の役人がAさんを訪ねて来ました。「道路建設のために大量のアスファルトの原料が必要です。大学に調査をさせたところ、お宅の山はコールタールの原料の塊だと分かりました。ぜひお宅の山を買い上げたいのです」。「神がついに私の祈りを聞いて下さった」、こう確信したAさんは大喜びで値段を交渉して、ついに400万ドルで売却が決まりました。アッと言う間に、山は崩されて平らになりました。
いつも、いつもこうなるわけではなりでしょうが、しかし、イエス様の権威、主の御言葉の権威を信じて、祈って行った女性の信仰に教えられます。私達も、イエス様の権威を信じて、御言葉を握りしめ、祈って行くことが大切ではないでしょうか。イエス様は言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。重荷がある時、「主は必ずこの重荷を取り除いて下さる」と信じて、「私から重荷を取り除いて下さい。ここを通って行く力を与えて下さい、助けて下さい」と求めれば良いのではないでしょうか。イエス様の権威を信じて、あらゆることの中で主におすがりしたいと思うのです。私達の主は、私達を苦しめる悪霊さえ、その権威の前には逃げ出す、そのようなお方なのです。その権威で、私達を守り、導いて下さるお方なのです。
 

2:適用~イエスの権威に依存する

ある考古学者が中東の墓を掘って頭蓋骨を調べたところ、幾つかの頭蓋骨には、頭の天辺に小さな穴が開けられていたと言います。しかもそれは生前に開けられた穴でした。外科手術が未熟だった当時、それは非常に危険な手術でした。なぜそこまでして穴を開けたのか。それは悪霊が体から抜け出すように開けられた穴だったのです。当時の人々は、それほど悪霊を恐れました。当時のユダヤ人もまた、悪霊を恐れました。この個所も、そのような文化的、時代的な背景の中で起こったことです。
現代を生きる私達は、「悪霊」と聞いてもあまりピンと来ないのが実感ではないかと思います。しかし、では「悪霊は古代の話で、今は関係ないか」というと、決してそうではありません。私の知っている先生は、宣教地での体験を基に悪霊の本を書きました。その先生にとって悪霊体験は現実です。ポール・トゥルニエという有名な精神科医は、「何か懸命な策略のある敵―(悪霊)―に出会っているという感じを、病気と闘っている時に持った医者は、私と同様に多くいる」と言っています。彼は悪霊に憑かれた少女に実際に相対しています。またCSルイスは「悪魔の手紙」という本の中で、悪魔―(悪霊)―が現代社会において、現代人にどのように働きかけて来るのか、見事に描いています。現代においても悪霊の働きは現実です。神を信じる者を、神から引き離そうとします。私も、色々な形で悪霊の働きを見せられて来たように思います。そして今、悪霊の働きに対する警戒が足りなかったと思わされています。もちろん、主イエスを信じる者は、たとえ悪霊が攻撃しようとしても、悪霊を滅ぼすことの出来る権威をお持ちの主に守られていますから、悪霊を恐れ過ぎる必要はありません。そのことは感謝なことです。(多くの人が霊の問題に訳の分からない恐怖を覚えて「霊感商法」にひっかかって、とんでもない高価なものを買わされたりするのです。私達はそういうものから自由でいられます)。しかし、それでも悪霊の働きは現実ですから、足下をすくわれないようにすることは大切です。
しかし、そのことはそのこととして押さえた上で、私はもう少し日常的なレベルの適用を考えたいのです。23~24節に「その会堂に汚れた霊につかれた人がいて、叫んで言った。『ナザレの人イエス。いったい私たちに何をしようというのです。あなたは私たちを滅ぼしに来たのでしょう。私はあなたがどなたか知っています。神の聖者です』」(23~24)とあります。この言葉は、悪霊が彼に叫ばせている言葉です。「我々」とありますから沢山の霊が叫んでいることになります。彼自身の意識もあったのかどうか分かりませんが、もしそうだとすれば、彼の意識は、ばらばらに分裂していることになります。
シスターの渡辺和子さんが「まわりの人に流されず、自分らしく生きる」という文章を書いています。そのポイントは「統一的な人生観」ということです。それを「自分の価値観をしっかり持っていること」、「人に流されないこと」と言い換えています。悪霊の影響は別としても、自分が、自我によって、感情によって、利害によって、周りの状況によって、振り回され、統一性がない、分裂していることは、私達も感じることがあるのではないでしょうか。「ここではこう言い、あそこではああ言う」という感じです。そのところに、悪霊は働きかけて来るのだと思いますが…。その分裂から少しでも身を守り、「統一的な人生観」を持って生きるために大切なことは、イエス様という物差しをしっかり持つことだと思います。何かの本で「抵抗が弱いところに侵略が起こる」という言葉を読みました。その意味で、イエス様によって抵抗を強くすることです。主に喜ばれることはどうすることなのか、そのことをいつも思い、そこに踏み出す力を願い、また色々なものに振り回される自分を自覚し、権威者なるイエス様に絶えず頼って行く、イエス様に心を守って頂く、また試練の時は、問題に心を奪われるのではなく、イエス様の中に希望を見て行く、そのようにすることによって、私達は分裂から守られるのではないでしょうか。
しばらく前、私は、ある状況の中で非常な恐れを感じて、それこそ切羽詰まり、心がバラバラに引き裂かれ、苦しくてたまらない時がありました。心の中でもがいて、もがいて、色々なものに助けを求めましたが、最終的に恐れを追いやってくれたのは、聖書の言葉―{「神は…試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(1コリント10:13)、「脱出がある」という約束}―とイエス様への祈りでした。渡辺和子さんも「『力に余る試練を与えない神』は、私の86年間の歩みの中に、結構たくさんの試練をくださいましたが、お約束通り、耐える力と逃れる道を、その時々に応じて備えてくださいました」(渡辺和子)と言っています。神の約束の言葉への信頼、主にすがる切なる祈り、神様は、それを用いて下さることを実感しました。主を信頼し、主に頼り、主の御心を思うこと、具体的には、御言葉と祈り、それが私達の心を、分裂から、また悪の力から守るところの主の力を頂く方法だと思います。
 

最後に

今日はイエス様の権威について考えました。最後に一言申し上げたいのですが…。「人生を導く5つの目的」という本に次のような言葉があります。「この地上でキリストに従って生きて行く時、私達は、困難、悲しみ、そして拒絶といった経験と無縁ではいられないが、これらのものは皆、この地上が私達の最終的な故郷ではないという事実を説明している。さらに…ある祈りは答えられていないように見えたり、この状況はどう考えても不当だと思ったりすることがあるかも知れないが、それらのことも、この同じ事実を示す。…私達は地上においては完全に幸せになることはない」(リック・ウォレン)。真に「イエス様の権威を認める」ということは、イエス様の権威にすがってこの世的な祝福だけを求めることではありません。滅びるしかない弱き器である私達に、甦りを与え、栄光の体を与え、永遠の御国に導くことの出来る、そのイエス様の権威を認めることです。私達は弱い存在です。時には悪の力に踊らされて簡単に足下をすくわれるのです。しかし、そんな弱い私達にも「天の御国」の約束が与えられています。だから私達は、この地上の生涯を少しでもより良く生きたいと願うし、そうすることが永遠の意味をも持つのです。主の権威に頼り、天に向かって地上の生涯を大切に生きて行きたいと願います。