2021年9月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:マルコ福音書1章16〜20節

 カナダで最初に入学した学校は、メノナイトの聖書学校でした。私は、その学校のESLのクラスで英語を勉強したのですが、そこで、良く目にしたり、耳にしたりした言葉がありました。「ディサイプルシップ」という言葉です。日本語に訳すと「弟子の道」です。「弟子」と聞くと、私は落語の世界を連想してしまうのですが、しかし信仰の世界にも言えることなのだと教えられました。「イエスを信じて信仰生活を送る」ということは、「イエスの弟子としての道を歩くことだ」という理解だと思いますが、若いクリスチャン達に、そのことが熱心に教えられていました。私達は、普段「弟子」という言葉はあまり使いませんが、イエス様は、例えば「マタイ28章」で「それゆえ、あなたがたは行って、あらゆる国の人々を弟子としなさい」(マタイ28:19)と言われました。また「使徒行伝」では「ダマスコにアナニヤという弟子がいた」(使徒9:10)等々、信者のことが「弟子」として表現されています。その意味で私達は「宮崎県にいるイエス様の弟子」であり、それが私達のアイデンティティーをより相応しく表現する言葉なのかも知れません。その「主の弟子」について、「弟子とはどのような者か」、「弟子はどのように生きるのか」、そのようなことを教えるのがこの個所です。2つのことを申し上げます。
 

1:「弟子」とはどのような者か~主に招かれた者

イエスは、故郷のガリラヤに帰られ、そこで宣教活動を始められました。第一声は「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(15)という言葉でした。「あなた方の祈りに神が答えられる時が来た。神の国はすでにここに来た。神の恵みの支配が今ここにある」ということです。宣教を始められたイエス様は、すぐに一緒に活動する「弟子」となる人々を呼び集められます。この記事は、最初の4人を召される様子を描きます。
イエス様が「弟子」として最初に招かれたのは、どのような人達だったのか。それは一言でいうと「普通の人々」でした。当時の歴史家ヨセフスは、330隻の舟がガリラヤ湖で漁をしている様子を伝えています。彼らは、そのように沢山いる漁師だったのです。また後に権力者は、彼らのことを「無学な普通の人」(使徒4:13)と呼んでいます。「無学な」というのは「律法の専門教育を受けていない」ということです。そのように神の子が同労者として最初に召されたのは、身分のある人でも、学問のある人でも、宗教の専門家でもなかったのです。いわゆる「普通の人々」だったのです。
しかしです。16節の「シモンとシモンの兄弟アンデレが湖で網を打っているのをご覧になった」、19節の「ゼベダイの子ヤコブとその兄弟ヨハネをご覧になった」、この2つの「ご覧になった」という言葉は、「ぼんやり眺めた」という意味の言葉ではありません。「じっと見つめた、するどく見つめた」、そういう意味の言葉です。イエス様は彼らに「人間をとる漁師にしてあげよう」(17)と言われますが、漁師はプロの目で魚の動きを見て獲るのです。イエス様は、彼らを「人間をとる漁師」にする前に、ご自身がプロの目を持って彼らを見られ、そして招かれたのです。彼らは、人間的には普通の人々でした。しかし神様の目には、また別の見方があったのです。
ある本にありました。教会の歴史の中でこの個所は問題になった個所だそうです。教会が受けた攻撃の中に次のようなものがあったようです。「教会というのは、どのようにして始まったのか。リーダー達はどんな連中か。イエスという男に『ついて来い』と言われて、十分考えもしないでついて行った連中ではないか…大の大人がすることか。ただ『ついて来い』と言われて付いて行った。何という思慮の無さ。キリスト教会とはそんなふうにして始まった軽薄な団体だ」。この個所を読むと、私もそう思います。「ついて来い」と言われて、何も考えないでついて行くものだろうか。網を捨て、舟を捨て、身内を捨ててついて行った、何も理由がないとしたら軽薄そのものです。しかし、ここには書いていませんが、彼らには心のドラマがあったのです。他の「福音書」を読むと、彼らはここで初めてイエス様に会ったわけではありません。バプテスマのヨハネからも推薦を受けています。また、それまでもイエス様の話を聞き、イエスというお方について彼らなりに考えていたはずです。その結果として「イエスこそ我々が待っていたメシア(救い主)だ」という結論を持っていたのではないでしょうか。
しかし「マルコ福音書」は、彼らの動機を一切書きません。なぜ書かないのか。それは、「彼らの動機」以上に大切なことがあるからです。それは「イエス様が漁師の目で彼らを見て招かれた」、つまり「イエス様の側の動機、神様の側のイニシアティブ(主導)」を強調しているからだと思います。彼らが「十分な動機、はっきりとした理由」を持っていたことが大切なのではなく、「イエス様が彼らを呼ばれたこと」の方が大事なのです。
もし「彼らの動機や理由」が大事だとしたら、どうなるでしょうか。ペテロはイエス様が大好きでした。しかし、彼もいつもイエス様と心を一つにして歩いたわけではありません。イエス様から「サタンよ、引き下がれ。あなたはわたしの邪魔をするものだ」(マタイ16:23)と言われる時もあったのです。激しい言葉です。私だったら「そこまで言われてついて行く必要なない。俺は辞める」と言うと思います。しかし、それでも彼は、躓きながらも最後までイエス様について行くことが出来ました。それはペテロの方に「十分な動機、十分な理由」があったからではありません。ペテロが誠実な人だったから、信仰の生涯を全う出来たのではありません。神様の方に動機があった、神が「ペテロの信仰の状態」の云々を超えてペテロを導かれたからです。だから、挫折があり、失敗がありながら、彼はイエス様の後を歩き続けたのです。
この記事は、私達を励まします。私達はどのようにして神様に繋がる―(繋がった)―のでしょうか。私達の方に「神様を信じるのに十分な動機」があり、十分考え抜いた結果、「これこそ正しい」と思ったからでしょうか。そういう面もあるかも知れません。しかし、もしそれだけだったら、私達の心がぐらついたらどうなるでしょうか。「あの時は確かにそう思ったけれど、良く考えてみたらそうではなかった」と思い始めたら、どうなるでしょうか。もしかしたら、そこで終わりです。しかし、そうではないのです。
CSルイスという20世紀を代表するキリスト教の作家がいます。彼は60歳を過ぎてから初めて結婚をしますが、その時には既に妻となる女性はガンに冒されていました。一時的に奇跡的な回復を見せますが、3年後に妻は亡くなってしまいます。その悲しみの中で「悲しみをみつめて」という本を書きます。この本には、やり場のない悲しみ、悲しみの故の神に対する怒りや非難が書いてあります。信仰は危機に瀕しています。それこそ「神が何だ、信仰が何だ」という感じです。しかし、そのことを通して彼は、「自分が『信仰だ』と思っていたものが、いかにもろいものであったのか」、その真の姿がさらけ出されるのを感じるのです。しかし同時に、自分の信仰の状態がどうであるかを越えて、それもこれも包み込んで彼を導いて行かれる神様に気付くのです。言葉を換えれば、彼の神との関係は、彼の信仰にかかっていたのではないのです。神の方が彼を導いておられたのです。
私達にとっても、神様と私達との関係というのは、きっと「私達の側の動機や理由」を土台としたものではないのです。「神様の側の動機や理由」こそが大切なのです。なぜ私達なのか、それは分かりません。しかし神様の側には、私達を招かれた理由があるのです。だから私達は勝手に信じるわけではないのです。先程「もしペテロ達が理由も動機もなしにイエスについて行ったのなら、軽薄そのものだ」という批判があったと申し上げました。しかし「マルコ福音書」は、ペテロの言ったことをマルコが書いた福音書だと言われます。つまり「『ついて来なさい』と言われて、すぐについて行った」ということを言っているのは、他ならぬペテロなのです。それは何を意味するかと言うと、ペテロは「イエス様が私に突然出会って下さったのだ。それが全てだ」と言っているのではないでしょうか。私達が神を見上げているのは、神に招かれたからであり、それはまた、イエス様が私達それぞれに、不思議な仕方で出会って下さったからではないでしょうか。イエス様は言われました。「わたしを遣わした父が引き寄せられないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできません」(ヨハネ6:44)、「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(ヨハネ15:16)。いずれにしても、神様(イエス様)が私達を選んで下さった。だから私達の信仰が時にどんなにぐらつこうとも、神様との関係が回復されて、また導かれて行くのです。イエス様の「弟子」というのは、自分からなろうと思ってなれるものではないのです。神様に呼ばれてなるのです。それが「弟子」です。私達はそのもの凄い特権に生かされているのです。「私はイエス様に選ばれて、『わたしについて来なさい』と呼ばれた者である」、そのことを心に刻みたいと思います。
 

2:「弟子」はどのように生きるのか~主の言葉に従い御国を生きる

この個所が「イエスの弟子」について教えるもう1つのことは、「彼らがイエス様に応答した、イエス様に従った」ということです。漁師である彼らが、網を捨て、舟を捨て、イエス様について行きました。なぜついて行くことが出来たのでしょうか。それは、イエス様が「神の国はすでにここにある」(15)と言われたように、彼らに働く「神の国―(神の導き)」の現実によって彼らは立ち上がることが出来たのです。しかし逆も言えます。イエス様は「神の国は来ている」と言われました。しかし現実問題として、見えない「神の国」がどのようにして彼らにやって来たのか。彼らがイエス様の招きに応じて従った時に、彼らにとって「神の国」が現実的なもの、具体的なものになったとも言えるのです。
それは、私達も同じです。「神の国」、「神の恵みの支配」は来ています。しかし見えません。それがどうやって私達にとっての現実となるのでしょうか。それは、私達がイエス様の招きに応える時に、私達は、見えない「神の国」に引き入れられ、「神の国」を経験するのではないでしょうか。
アーネスト・ゴードンという人の書いた「死の谷を過ぎて~クワイ川収容所」という本があります。第二次大戦中、日本軍は「泰緬鉄道」というタイとビルマ(ミャンマー)を結ぶ鉄道を建設しました。その鉄道工事に連合軍の捕虜を使ったのです。日本軍は「数年かかる」と見られた工事を、1年8か月の突貫工事で仕上げました。その結果「枕木1本当たり1人が死んだ」と言われる程の過酷な工事となりました。と同時に、その収容所では日本兵による捕虜への酷い取り扱いがありました。捕虜達は日本兵を赦せなかったのです。しかしその地獄の収容所の只中で、彼らは仲間のキリスト者の生き方を通して、だんだんと神に対して目が開かれ、神を信じるようになって行くのです。
「死の谷を過ぎて」に次のような個所があります。ゴードン達は、日本軍の命令で移動することになりました。その時、ある地点で、線路の前方に列車が停まっているのに気付きます。それは、ビルマでの戦闘で役立たなくなった傷病兵達を乗せた日本軍の列車でした。ゴードンの目には、彼らは、使い果たされた消耗品、戦争の廃物に見えました。その時です。ゴードン達の班の将校のほとんどが一言も発せず、自分達の雑嚢を開き、配給された食糧や布切れ、水筒を持って日本兵の列車に近づいたのです。そして憎くてたまらないはずの日本への傍らにひざまずいて、水と食べ物を与え、膿を拭い取り、傷口に布を巻いて上げたのです。すると、彼らが列車を離れて行く時、日本軍の負傷兵が、「アリガトウ!アリガトウ!」と何度も、何度も叫ぶのです。それまでは「バカヤロウ!」しか聞いたことがなかったのです。ゴードンは書いています。「私は、そして仲間は、この血痕で汚れた鉄道列車の中で神からの恵みの瞬間を体験した。私達は神の恩寵に浴していると感じた…嬉しい神の恵みの力に思いをめぐらせているとき、私はイエスの言葉をふと思い起こした。『「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい。それでこそ、天におられるあなたがたの父の子どもになれるのです』(マタイ5:43~45)」。
私は、彼らが「神の国」の現実を経験しているのを感じるのです。この証が教えるのは、私達はイエス様の呼びかけに応答することによって、イエスの言われた「神の国」を経験して生きることが出来るということです。「メノナイトの信仰告白」という本にも「生活の中でキリストに従って行くにつれ、神とのより密接な関係の中に導き入れられる」とあります。
そしてそのことは、私達が「神の国」を経験するということだけではなく、私達がイエス様に呼びかけられた使命にも関わるのです。イエス様は弟子達に「人間をとる漁師にしてあげよう」(17)と言われました。彼らが召された第一の理由は、「人々にイエス様を紹介する、そのようにして『神の救い』に与ってもらう」ことです。私達も同じでしょう。それはどうやって可能になるのか。それは「私達がイエス様に従って生きる生き方を通して、『神の国』の現実、豊かな恵みを経験して、その喜びをお伝えする」、そのようにして行われるのではないでしょうか。ここでペテロは色々なものを捨てました。しかしそのすぐ後で、彼はイエス様を家に連れて来て、イエス様に姑を癒して頂くのです。イエス様に応答することは、「神の国」の祝福を経験することだと思います。私達には、自分の力ではどうすることも出来ないことがあります。そんな私達に「神の国」は祝福をもたらすのです。私達も、主に従うことで、それを経験出来るのです。「弟子」とは主の言葉に従いつつ、御国を生きる者なのです。
 

3:最後に

 今日、2つのことを申し上げました。「私達は主に招かれた者である」、そして「私達は主に従いつつ、御国を生きる者である」。信仰者というだけでなく、イエス様の「弟子」としての思いを持ちつつ、イエス様の背中を見つめて、イエス様について行きたいと願います。
 

聖書箇所:マルコ福音書1章14〜15節

7月に熱海で土石流の災害が起こって、亡くなった方が26名、行方不明の方が1名いらっしゃるということです。被災地の方々の上に神様の慰めと励ましを心よりお祈り申し上げます。私は、三浦綾子さんの「『泥流地帯』という本を、森下辰衛先生が解説しておられるCDを良く聞いたのですが、今回の130件の家を呑み込む泥流型土石流の映像を見て、「泥流地帯」の舞台となった大正15年の大泥流の凄まじさを具体的に感じたような気がしました。
さて森下先生はお話の中で、初めに「泥流地帯」のテーマを一言で説明しておられます。「『苦難の中でこそ人生は豊かなのです』ということ、それが主題です」と言われるのです。なぜ「苦難の中でこそ人生が豊か」なのか、それは「苦難の中でこそ人は成長する」ということと繋がるようですが、今日はその話をする時間はありません。申し上げたいのは、主題が分かっていると、物語を読む時、いつもそこに帰れば内容が分かり易いということです。今日の箇所がそういう個所なのです。イエス様は、伝道生涯で結局何を言われたのか、私達は「マルコ1章15節」に帰ることによって、中心から外れずに「福音書」を読んで行くことが出来るのです。
洗礼を受けられたイエス様は、荒野のサタンの誘惑に勝利し、いよいよ「神を宣べ伝える公生涯」に入られました。この個所は、そのスタートに当たりイエス様が為さったこと、語られたことを記します。そしてこの短い個所は、申し上げたように、イエス様の教えの内容を短くまとめて示してくれ、そのことを通して私達に信仰の励ましを与えてくれるのです。
14~15節の内、中心は15節のイエス様のメッセージです。「時が満ち、神の国は近くなった。悔い改めて福音を信じなさい」(15)。この言葉は2つに分けることが出来ます。前半の「時が満ち、神の国は近くなった」は「事実の報告」です。後半の「悔い改めて福音を信じなさい」は「呼びかけ」です。前半と後半に分けてお話しします。
 

1.主が語られた「事実の報告」~「時が満ち、神の国は近づいた」

 「時が満ちた」とはどういうことでしょうか。クリスマスに讃美する讃美歌94番は「久しく待ちにし、主よ、とく来たりて、み民のなわめを、解き放ちたまえ」と歌います。「霊的ななわめからの解放」の意味も歌われているのかも知れませんが…。イスラエルの人々は、絶えず諸外国に翻弄されました。紀元前586年にはバビロンによって、国は徹底的に破壊され、主だった人々は捕囚の民となって屈辱的な生活をしなければなりませんでした。その人々を支えたのは、聖書の言葉、預言者の言葉でした。イザヤのような預言者は、「神を待ち望め、神を待ち望め」と前もって励ましていました。もともと神に対する不信仰によって、自分達に滅びをもたらしたイスラエルの民でしたが、祈りの中で神に帰って行ったのです。そして聖書の言葉を希望に、神を待ち望み、神を呼んだのです。心あるイスラエルの人々皆が「どうか天から見下ろして下さい。どうか天を破って下って来て下さい」と祈り続けたのです。 「詩篇126篇」に「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう」(詩篇126:5)という言葉があります。彼らは、祈りを種のように蒔いて行ったのです。それは、バビロン捕囚から解放された後も同じでした。依然として、外国の勢力下、支配下に置かれました。人々は、神が御業を為して下さる新しい時代が来ることを待ち続けました。そのような事実を背景として、イエス様は「時が満ちた」と言われたのです。だからそれは「(ただ単に)ある程度の時間が過ぎた」ということではないのです。「あなた方の祈りに神が答えて下さる時が来た。神の時が来た」ということなのです。聖書の中に「すべての営みには時があ(り)…神のなさることは、すべて時にかなって美しい」(伝道者3:1,11)とありますが、神の時がある、それを祈りつつ待つことの大切さを教えられます。
では、時が満ちて、どうなったのでしょうか。それが「神の国は近くなった{『神の国は近づいた』(新共同訳)}」ということです。「神の国は近づいた」、しかし例えば「メッセージ」という英語の聖書は「神の国はすでにここにある」と訳します。ギリシャ語原典を直訳すると「神の国は近づいた」ですが、学者によると、そこに含まれているニュアンスは「神の国はすでに来た」となるらしいです。なぜそのような曖昧な―(また複雑な)―言葉になるかというと、「神の国」というのは、「既に来ているけど、まだ完全には来ていない」、そういう性格のものだからです。第二次大戦の勝敗はノルマンディー上陸作戦で決まりました。連合軍の勝利は既に確定しました。しかし戦争はそれからまだ1年弱続きました。「もう来ている、しかしまだ完全には来ていない」、お役に立つ譬えなら良いですが…。
では「既に来ている『神の国』」は、どのような形で来ているのでしょうか。イエス様の目の前にいる人々にとって「神の国」は、まず「イエス様において」来ていました。イエス様によって「神の裁き」ではなく「神の赦しと受け入れ」のメッセージが宣言されました。ある時、ミッション・スクールの高校生達と話をしたことがあります。彼女達は私が語った「ザアカイ」のメッセージで心を開いてくれたのですが、1人の女の子が―(過去に何かあったのでしょう)―「過去のことを赦されたいと思っていたけど、最近その確信が与えられた」と嬉しそうに話してくれました。私も「赦されたい」と思ったことが、神様に本気になって近づくきっかけとなりました。イエス様は、その「神の赦し」のメッセージを語って下さいました。イエス様のメッセージを受け入れた人々の心に「神の国」がやって来たのです。「国」という言葉には「支配」という意味があります。その意味で「神の支配が来た」と言った方が分かり易いかも知れません。「支配」というと、窮屈な感じがありますが、それはむしろ「影響下(保護下)に入る」という意味です。その人々の心と体が「神の影響下に入る、保護下に入る」、そのような形で「神の国」がやって来たのです。そして、「神の国」は、神に服従する人の心に、さらに、徐々にやって来るのです。
そのことを良く伝えてくれるのが、申し上げた「ザアカイの話」です。エリコの町の取税人の頭であったザアカイ。取税人ということで人々に差別され、毛嫌いされ、そうされればされるほど、心を頑なにして、人々にやり返すようにして強欲に税金を取り立てていたザアカイ。そのザアカイがイエス様に受け入れられた時、自分の間違いに気付く「柔らかい心」を持つことが出来ました。人々から不正に取り立てた税金を返して回るようになったと言われます。そうすることによって、彼は自分の本当の値打ちを自覚し、生きていることを心地よく思うようになったのです。自分の「生」を喜ぶことが出来るようになったザアカイは、イエス様が自分のような者を探し出し「神の影響下」に引き入れて下さったことを心から喜んだのです。ザアカイだけではない、病を治してもらった人、悪霊を追い出してもらった人、多くの人々の人生が、イエス様によって「神の影響下」に入ることによって変えられて行ったのです。「神の国」は、イエス様を受け入れた人々の心と体にやって来たのです。
ベトナム戦争の有名な写真があります。燃える服を脱ぎ捨てて裸で逃げる少女の写真です。彼女はファン・ティー・キム・フックという方で、重度の火傷で助からないと判断されたところを、17回の手術を受けて奇跡的に一命を取り留めました。しかし戦後も、火傷のおかげで苦しい日々を過ごしました。「自分をこんな目に遭わせた人達を同じように苦しませてやりたい」、そう思っていたのです。「自分の心を変えるか、憎悪の中で死ぬか、2つに1つだった」と言っておられます。その彼女が、従妹を通して教会に導かれ、クリスマスの説教を聞いたのです。「赤子のイエス様が世に来られたのは、罪に苦しむ私達のために十字架に架かって死ぬためだったのです。イエス様を個人的に救い主と受け入れるとき、心には平安があたえられます」。彼女はイエス様を信じるのです。そして人生が変わるのです。憎しみが平安に変えられて行ったのです。今はカナダに住んでおられますが、彼女は言います。「神様は私の人生に不可能と思われたことを可能にして下さいました。今は憎しみを感じません」。「神の影響下」で癒されたのです。私達を変える、支える「神の国」が確かに来ているのです。
目に見えない神を信じ、頼り、求めることは、ある人達から見ると愚かなことかも知れません。しかし、信じた者には、見えない神に頼り、神の中に希望を見る思いが与えられるのです。「神の国」が心に来ているからです。「神の影響下、神の保護下」に置かれるからです。
私達にも「神の国」は目には見えません。でもイエス様を信じ、受け入れることによって、目に見えない「神の国」に引き入れられて行くのです。そして、いつかはっきりと見える形で、イエス様が王として支配なさる時が来るのです。私達は、「神の国」が完全に来るのを見るのです。
 

2.主が語られた「呼びかけ」~「悔い改めて福音を信じなさい」

 イエス様の後半のメッセージが「(神の国が来ているから)―悔い改めて福音を信じなさい」ということです。神の国は、イエス様を信じる者に来ています。しかし私達には「イエス様は『あなたに神の国が来ている。だから悔い改めて福音―(「神が『わたし』を通してあなたの罪を赦し、あなたを受け入れて下さる」という良い知らせ)―を信じなさい』と言われるけれど、『神の国(保護下)』を生きている実感が持てない。神を遠くに感じる」ということはないでしょうか。「人生を導く5つの目的」という本は「神の臨在が感じられなくなる時が、最も厳しい信仰の試練の時だ」と言います。その時をどのように乗り越えれば良いのでしょうか。
初代教会の人々は―(ペテロも、パウロも)―キリスト教のメッセージを語りましたが、聖書学者によれば、彼らは、イエス様がここで語っておられるのと基本的に同じメッセージを語っているというのです。「悔い改めて福音を信じなさい」、「洗礼を受けて教会の仲間に入りなさい」と語りました。しかし「神の国が近づいた―(来ている)」が違うというのです。彼らは「神の国が来ている」とは言わず、「あなた達が十字架につけて殺したイエスを、神は甦らせて私達の王(主)とされた」と語ったのです。何を言っているかと言うと、人間は、寄って集ってイエス様を十字架につけて殺しました。しかし神は、そのイエスを甦らせなさいました。神は人間の悪意をひっくり返して、ご自分の業を為さったのです。十字架と復活によって、私達に天国への道を備えて下さったのです。そのことを「神の国が来ている」という言葉の代わりに語っているというのです。
それはどういうことかというと、私達は、この世の様々な事柄に翻弄されながら生きています。人間的に考えれば否定的にしか考えられないような状況もあります。生きて行くのは大変です。しかし弟子達も、身の回りに起こる出来事に翻弄されながら生きたのです。いつも、いつも不思議なことが起こったわけではないでしょう。神の助けがないように感じることもあったはずです。しかしその時、彼らは「人の悪が十字架につけてしまったイエス様を、神様は甦らせた。神は悪の業をひっくり返された」、その事実に帰って行ったのです。「もう全ては終わった。どこにも希望はない」と思っていたのに、それを神は、「終わり」ではなくて「始まり」にしてしまわれたのです。(「AD」というドラマは、イエス様の十字架の場面から始まるのですが、画面の下に「始まり」という文字が出るのです)。その事実によって「神の支配は来ている」ということを確認したのです。だから「イエス様の復活」を語ることによって「神の国」の現実を語ったのです。ということは私達も、信仰が弱ってしまう時、「神は人間の業をひっくり返して御業をなさった」、「『終わった』と思えることを『祝福の始まり』にしてしまわれた」。その事実を思い巡らすことによって、「いや、確かに『神の国』は来ている」ということをもう一度確認出来るのです。
いずれにしても「神の国は来ている」、だからこそ「悔い改めて福音―(『神が「わたし」を通してあなたの罪を赦し、あなたを受け入れて下さる』という良い知らせ)―を信じなさい」と、主は言われるのです。「悔い改める」とは、「神に戻ること」です。私達は「神様、あなたがいるのならどうしてこうなのですか…」と神を試みる時があります。災害で多くの方が苦しむような時も、私達はそれを感じます。試練に遭う時、信仰が空しく感じる感じられる時があるのではないでしょうか。私にもあります。しかしイエス様は「悔い改めなさい―(神の許に戻りなさい)」と言われます。結論から言えば、私達にとって唯一、収まるところに収まって、前を向いて歩いて行けるのは―(あの放蕩息子が父の許に帰って、父の愛の中でこそ、ようやく祝福の生き方が出来たように)―神の前に謙って、神に祈って行く時ではないでしょうか。結局それ以外に良い解決の道はないのです。それはイスラエルの民も経験したことでした。私達を立ち上がらせるのは、いつも、神のところに帰り、身を低くして、神を見上げる時です。だからイエス様は、私達に―(時に神への信頼を失うようなことのあるような私達に)―「神の許に帰りなさい、あなたに『神の国が来ている』という私のメッセージを受け取り直しなさい、神の許で、神の赦しと愛、力と不思議を信じて生きて行きなさい」と言われるのです。私達は、絶えず神の許に立ち帰ることによって、「神の国(保護下)」の祝福に与りながら、歩みを進めることが出来るのです。
そして私は、イエスがガリラヤで宣教を始めて下さったことの中に慰めを見出します。なぜ首都エルサレムではなかったのか。クリスマスに私達は「イザヤ9章」を読みます。「しかし、苦しみのあった所に、やみがなくなる…異邦人のガリラヤは光栄を受けた。やみの中を歩んでいた民は、大きな光を見た。死の陰の地に住んでいた者たちの上に光が照った」(イザヤ9:1~2)。ガリラヤは、地理的にいつも最初に敵の侵略を受ける悲惨な場所でした。また貧しい地域でした。頑固な国粋主義者と異邦人が混在している混乱した場所でもありました。「1日中働いても、ようやく食べるのが精一杯」、日の当たらない闇と悩みが満ちている地、それがガリラヤでした。しかしその人々の中で、イエス様は伝道を始められたのです。「もし神がおられたとしても、私のことなんか覚えていて下さるはずはない」という人々の思いのある所、そこに生きる人々に「神の国、神の恵みの支配」を経験させなさったのです。だから、それはまた、私達が神に帰りさえすれば、私達の暗い、悩んでいる心に、イエス様は来て下さるということではないでしょうか。カナダにいる時、大きな、大きな試練と悲しみを通られた後、洗礼を受けられた姉妹が、洗礼式でこう言われました。「今『恐れるな、わたしがここにいる』という語りかけを聞いています」。
「神の国」は来ています。私達がすること、それは絶えず神の赦しと愛を信じて、神の許に帰ることです。そこに答えがあるのです。
 

聖書箇所:マルコ福音書1章12〜13節

インターネットに色々な動画があります。先日、こんな動画を見ました。アフリカの自然公園の中で、1匹のライオンの赤ちゃんが置き去りにされていました。ケガか何かで、親ライオンが「育てられない」と判断して、置き去りにしたのだろう、ということでした。その赤ちゃんライオンを見つけた2人の人が―(動物学者だったと思いますが)―その赤ちゃんライオンを一生懸命介抱して、成長するまで育てたのです。ゴールは「自然に帰すこと」でしたから、自然の中で生きて行けるように、狩り等も教えながら育てました。やがて成長した時、2人はそのライオンを自然に帰しました。それから1年後です。2人は、自分たちの育てたライオンがちゃんと生きて行っているか、それを見るために、自然公園にやって来ました。そこで、自分たちの育てたライオンの姿を見ることが出来ました。立派に生きていました。ところが、ライオンの方は、2人を見つけると、2人の方にやって来て、そして大きな体で2人に抱き着いたのです。自分を育ててくれた2人のことを覚えていたのです。ライオンが人間に抱き着いて愛情を示している動画は初めて見ましたので、非常に印象的でした。ライオンというと、恐ろしい感じですが、しかしライオンも神の被造物です。ライオンと人間がじゃれ合うような世界は素晴らしいと思います。今日の聖書箇所を読んで、その動画を思い出したことでした。今日の聖書箇所とライオンがどう繋がるのか、後ほど触れます。
イエス様は、およそ30歳になられた時に「神を宣べ伝える生涯」に入られました。まず為さったことは、バプテスマのヨハネから洗礼を受けることでした―(1章9~11節)。ところが、その喜びの洗礼の後、荒野でサタン(悪魔)の誘惑を受けられます。イエスが誘惑を受けられた記事は、何を語るのでしょうか。今朝は「神の摂理の御手を信じる」というテーマで学びます。
 

テーマ:神の摂理の御手を信じる

13節に「イエスは四十日間荒野にいて、サタンの誘惑を受けられた」(13)とあります。イエス様は荒野でサタン(悪魔)の誘惑を受けられたのですが、「40」という数字は、「旧約」における様々な苦難、試練の時を連想させます。「出エジプト」の荒野の旅は、40年続きました。エリヤは、40日40夜、荒野を歩き続けてホレブの山に着きました。そのように、「40日間」という言葉は、それが大変厳しい試練の時であったことを表現します。「マルコ福音書」にはありませんが、「マタイ福音書」と「ルカ福音書」には、サタンがイエス様をどのように誘惑したかが書いてあります。サタンは、断食の後で空腹でたまらないイエス様に向かって「あなたが神の子なら、この石がパンになるように、命じなさい」(マタイ4:3)と言いました。それをイエス様が御言葉で退けられると、さらに2つの誘惑を仕掛けて来ますが、いずれも「神から与えられた力(賜物)を自分のために―(自分を満足させるために)―使いなさい」と誘惑して来たのです。それはつまり、イエス様を、「神の願われる生涯を生きる」という救い主としての道から逸らせようとした、ということです。イエス様は、それを全て「聖書の言葉」を用いて撃退されます。
しかし、なぜか「マルコ福音書」は、その有名な「イエスとサタンとのやり取り」を書きません。イエス様の公生涯における大きな出来事です。なぜマルコは、それを詳しく書かなかったのでしょうか。実はマルコは、詳しく書かなかったのではなくて、どうしても書かなければならないこの出来事のポイントだけを書いたのです。そのポイントとは、「野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた」(13)ということです。「イエス様は、荒野にあってサタンの誘惑を受けられ、しかも野獣―(人に害を加えるもの)―に囲まれて過ごされた。しかしその中で天使達によって守られた」という事実です。もちろん天使達は、神の命令によってイエス様を守っていたのです。「サタンの誘惑も激しかった、イエス様の置かれた状況も厳しかった、しかし神はイエス様を守り抜かれた」。マルコが言いたいのは、そのことなのです。実際この個所を読むと、サタンが登場する前に「御霊はイエスを荒野に追いやられた―(神の霊がイエス様を荒野に追いやった)」(12)と書いてあります。「神様がイエス様を荒野に行かせた」と言うのです。つまり、この出来事の全体を後ろから支配しておられたのは、神様だったのです。だからこそ神様は、天使を送ってイエス様を守ることが出来たのです。
しかし、そうすると疑問が湧きます。「なぜ神様はイエス様を荒野に連れ出されたのか」という疑問です。その機会に乗じて、サタンはイエス様を誘惑して来たのです。神様がイエス様を「誘惑され易い」危険な状況に置かなければ、サタンも誘惑出来なかったかも知れません。そんなことも思います。なぜなのでしょうか。
「山崎パン」という会社があります。創業者は飯島藤十郎という方ですが、創業期を乗り越えた頃、あることで家族3人が対立して収拾がつかなくなったのです。飯島さんは、洗礼は受けておられませんでしたが、信仰は持っておられました。対立を何とかしようと3人で話し合って、3人揃って洗礼を受けることにされたそうです。それも不思議な導きですが、そうやって飯島さんはクリスチャンになりました。そして3人の関係が回復して、会社が上手く行くようになったのです。しかし、飯島さんが次のような証しをしておられます。「私は、事業が非常に困難な時に、多額の投資をして、新しい工場を建てました。『これで上手く行くだろう』と思ったのです。しかし、その工場は火事で全焼してしまい、本当に辛い思いをしました。私はそれを機会に色々なことを考えさせられました。家族はバラバラで心を合わせるということもなかった。また自分の信仰はいい加減で、きちんと教会生活も守っていなかった。名ばかりのクリスチャンだった。そういうことが示され、『よし、あたらしい工場ではなくて、自分の信仰生活を建て直そう』と思いました。信仰を大切にして行く決心をし、教会生活を守ることにしたのです。すると家族が共に祈る、そういう姿になって来ました。そして事業も少しずつ回復したのです。あの火事は、お先真っ暗になるような出来事だったけど、神はそれさえも用いて、私に沢山のことを教えて下さり、事業だけでなく。私を建て直して下さったのです」(飯島藤十郎)。決して、神様が火事を起こした、ということではありません。神はそんなことはされません。火事は何らかの原因で起こったのでしょう。しかし神様は、先の祝福を見越して、その出来事を用いられることがある、ということを申し上げたいのです。確かに大変な苦労であられたことでしょう。しかし飯島さんは、永遠の観点から「自分の立て直し」をしてもらったことを喜んでおられるのです。そして現在、山崎製パンは、日本の輸入小麦の10%を使うと言われ、年商9000億円以上の会社になっているのです。神様が痛みを用いられるなら、そこには、神様の深いお考えがあるに違いありません。神様は、必ず色々な形で試練を祝福に変えて下さるのです。もし、何もかも上手く行って、しかし肝心の「自分の建て直し」がなされなければ、それは、地においても、天においても、取り返しのつかないことだったのではないでしょうか。何より多くの信仰者が「人は試練を通してのみ、神の御心に適うような者に磨かれる」と言うのです。
アメリカで3000万部も売れた「人生を導く5つの目的」という本があります。著者のリック・ウォレン牧師が次のように教えています。「人格というものは、試されることによって成長する。神は、日々、あなたに相応しいテストを用意されるのです…(そして)…神はあなたが人生のテストに合格することを願って…直面する問題が手に負えなくなるほど大きくなり過ぎないように配慮して下さるのです。神は…その問題と取り組むための力を備えて下さるのです」。
「イエス様が荒野で誘惑を受けた」、この記事は、私達に何を語るのか。イエス様は「あなたはわたしの愛する子、わたしの心に適う者」{マルコ1:11(新共同訳)}という神様の言葉を聞いて、神様の御心に適う救い主としての道を歩み出されたのです。それは、最後の最後まで、十字架に至るまで、愛と赦しによって、罪人を神の許に回復するという救い主の歩みでした。その歩みをサタンは、誤らせようとしたのです。しかしイエス様は、神様の助けによって、その誘惑(試練)を乗り越え、ここにおいて「神の御心に適う救いを成し遂げる救い主」としての歩みを確かにされたのです。
私達も、クリスチャンになっても様々な問題は起こります。辛いこと、苦しいこと、落ち込むこと、悩むこと…色々なことが起こります。サタンは、私達に神様を信じさせなくすること、私達を神様から引き離すこと、それに最大の喜びを感じる存在です。だから、その問題の中で私達の心に囁くのです。「お前が困っているのに、苦しんでいるのに、神は何もしてくれないじゃないか。いくら祈ったって何も変わらないじゃないか。神なんか信じてもダメなんだよ」。あるいはもっと巧妙に、私達の心に「神を疑う思い」を起こさせるのです。「神は私には不当に厳しいじゃないか。いや、神なんか本当はいないんじゃなか」、そう思わせるのです。しかし「神なんかいないんじゃないか」と思い始めるところで、私達の心の中に「荒野」が生まれるのです。だから大切なのは、「いや、神様を信じよう」と選び取ることです。それが、イエス様が為さったことだし、飯島藤十郎さんが為さったことなのです。聖書は言います。「もし私達が…同じ気持ちで、神様に信頼し、最後まで忠実であれば、キリスト様にあるいっさいの祝福を、受けることが出来るのです」(ヘブル3:14リビング・バイブル)。今は見えない。しかし神様は、永遠の観点から「そこを通った方が通らないよりも良くなる」と思われた時、先に祝福を見ておられる時、試練を許されることもあると信じます。だから「今は分からないけど、神様はきっと大きな計画を持っておられて、この嬉しくないことも、その御手の中で支配しておられるに違いない。私は神様を信じよう、私は神様に信頼しよう」、そうやって神様に信頼することを選び取ることが大切なのです。
その時、信仰の目が開かれ、私達が問題の中で問題に潰されてしまわないように、サタンの誘惑(悪の力)によって潰れてしまわないように、神が―(御使いを送って)―私を支えておられる―(守っておられる)―ということ、「まことに主は、あなたのために、御使いたちに命じて、すべての道で、あなたを守るようにされる」(詩篇91:11)、このみ言葉の真実を、経験するのではないでしょうか。そして「荒野は―(試練は、問題は)―神のおられない世界ではない。それどころか、神の支え、神の守りを経験するところだった」ということが分かって来るのではないでしょうか。
しかし、この個所が教えることは、それだけではありません。13節の「イエスは…野の獣とともにおられたが、御使いたちがイエスに仕えていた」(13)という言葉を、新しい「新改訳2017年版」は「イエスは野の獣とともにおられ、御使いたちが仕えていた」(13)と訳しています。「が」がないのです。「が」がないとどうなるかというと、「野の獣とともにおられた」ということが悪いことだったのではない、というニュアンスになるのです。どういうことかと言いますと、「旧約」の「イザヤ書」に、やがて救い主が支配する世界について、このような描写があります。「狼は子羊とともに宿り、ひょうは子やぎとともに伏し、子牛、若獅子、肥えた家畜が共にいて、小さい子どもがこれを追っていく。雌牛と熊とは共に草をはみ、その子らは共に伏し、獅子も牛のようにわらを食う。乳飲み子はコブラの穴の上で戯れ、乳離れした子はまむしの子に手を伸べる。わたしの聖なる山のどこにおいても、これらは害を加えず、そこなわない。主を知ることが、海をおおう水のように、地を満たすからである」(イザヤ11:6~9)。弱肉強食の世界は消え、獣と獣、人間と獣が、和合して暮らしている様子が描かれているのです。最初に申し上げたライオンと人間が抱き合う世界が実現しているのです。そのように訳すと、イエス様は、荒野で神様の祝福の世界を既に経験しておられる、ということが言えるのです。それを私達も経験するということです。この話も何度もしますが、ある方は、職場の人間関係で随分と悩まれたのです。「神様、なぜこんな人を私の近くに置かれたのですか。この人事が為された時には、神様は寝ておられたのですか」、そう呟いておられたのです。しかしある日、御言葉が響いて来たそうです。「自分を愛してくれる人を愛したところで、あなたがたにどんな報いがあろうか」(マタイ5:46)。それから「敵を愛する」という十字架を背負って歩き始められたのです。その中でその方は、神様を近く、近くに感じるようになって行かれたのです。やがて「あぁ、この人は私を神に近づけてくれる人だったのだ」と思えるようになられたそうです。試練の只中で神の祝福を経験されたのです。そういうことが起こるのです。
いずれにしても、聖書は言います。「主は愛する者を鍛え、子として受け入れる者を皆、鞭打たれるから…あなたがたは、これを鍛錬として忍耐しなさい。神は…わたしたちの益となるように…わたしたちを鍛えられるのです。およそ鍛錬というものは、当座は喜ばしいものではなく、悲しいものと思われるのですが、後になるとそれで鍛え上げられた人々に、義という平和に満ちた実を結ばせるのです。だから、萎えた手と弱くなったひざをまっすぐにしなさい」(ヘブル12:6~12新共同訳)。試練は、時に私達を打ちのめします。しかし私達は、神様の御手の外にいるのでない。神様は全てを知っておられ、その支配の御手の中で、本気になって私達を育てようとしておられるのです。「平和な義の実を結べるような者、本当に信仰の喜びを味わえるような者」にしようとしておられるのです。だから必要な、相応しいテストをあえて許されるのです。その中で、神は私達を祝福に向かって造り替えようとしておられるのです。あるキリスト者が言いました。「私は嵐を恐れない。その中で、船の操縦の仕方を学んでいるのだから」。心に「荒野」が生まれそうな時、でも私達は、そこにも神様の摂理の御手があることを信じて、やがて試練が祝福に変えられることを信じて、そこで神様に信頼することを選び取って行きたいと願うのです。
 

聖書箇所:マルコ福音書1章9〜11節

 ある時、1人の牧師と議論をしたことがあります。その先生は「洗礼は浸礼―(全身を水に浸す形の洗礼)―でなければならない」と主張しておられる方で、私は「なぜですか」と尋ねたのです。そうすると先生は「イエス様が全身を水に浸されたからです」と言われるのです。私は滴礼―(頭から水をかける形の洗礼)―で洗礼をうけましたから、少しムキになって、「聖書には、イエス様が全身を水に浸けられたとは書いていないですよね」と言いました。その先生は「いや、書いてあるよ」と言われ、そこで引用されたのが、今日のこの個所だったように覚えています。私は「水の中から上がられると」(10)と書いてあるから、「イエス様が水の中に腰まで浸られて、ヨハネが頭から水をかけたかも知れませんよね」と言うようなことを言って、議論したのを覚えています。あれから15年になります。今日の箇所をメッセージするために改めて色々な本を読みましたが、どうも、イエス様が全身を水に浸された、という意見が多いようです。しかし、浸礼でも、滴礼でも、洗礼の尊さに違いはありません。大事なのは、イエス様が洗礼を受けて下さった、ということです。
今日の箇所は、イエス様が洗礼を受けられた記事を記します。しかし、マルコは既に1章1節で「神の子イエス・キリストの福音のはじめ」(1:1)と書いて、イエス様を「神の子」だと断言しました。「神の子」であるイエス様には、罪はありません。従ってヨハネが呼びかけていた「罪の赦しのための悔い改めのバプテスマ(洗礼)」(1:4)は必要なかったのです。それなのに、なぜイエス様は洗礼を受けられたのでしょうか。イエス様の洗礼は、何を意味するのでしょうか。今朝はそのようなテーマで学びます。
 

1:内容~罪人となられた主イエス

「イエス様の洗礼は何を意味するのか」、それを考える鍵になるのが10~11節の御言葉です。イエス様が洗礼を受けて水から上がられた時、2つのことが起こりました。1つは「天が裂けて御霊が鳩のように」(1:10)イエスの上に下って来ました。2つ目は「天から…『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ』」(1:11)という声がしました。この2つのことは何を教えるのでしょうか。「旧約聖書」が、2つの意味を教えてくれます。
1番目の「『天が裂けて御霊が鳩のように』イエス様の上に下って来たこと」についてですが、このことと関係のある御言葉が2つあります。1つは「イザヤ書64章1節」です。「どうか、天を裂いて降ってください。御前に山々が揺れ動くように」(イザヤ64:1 新共同訳)。イザヤがこの祈りの言葉を語っている時、念頭にあったのは、やがてイスラエルの人々が捕囚の地に引いていかれ、自分達の前途には黒い雲しか見えない時代でした。天が見えない。それはつまり「神が見えない、神の御業が見えない」ということです。その中で人々は叫んだのです。「神様、どうぞ天の雲を裂いて、雲を追い払って、山々が揺れ動くような御業を行って下さい」。それ以来、やがて捕囚の地から故郷に帰った後も、人々はその祈りをして来たのです。その祈りの言葉に答えるようにして、今、天が開かれたのです。
そして「御霊が鳩のように―(イエス様の)―上に下られ(た)」(10)ですが、「天地創造」の様子を、聖書は「地は茫漠として何もなかった。やみが大水の上にあり、神の霊が水の上を動いていた」(創世記1:2)と記します。この「動いていた」という言葉は「鳥が空を舞うように動いていた」というニュアンスの言葉だそうです。神の霊は、鳥のように激しく動いて地に神の御業を生み出して行きました。イエス様が洗礼を受けられた時、神の霊が、今また鳥のように激しく動き始めてイエス様に下って来たのです。つまりそれは、「創世記」がもう一度、イエス様を通して新しく繰り返されることを示すのです。天が裂け、神がイエスを通して御業を為さる。父なる神、子なる神(イエス)、聖霊なる神、三位一体の神による新しい「創世記」が今始まる、そのことが示されているのです。
しかし「新しい創世記、新しい創造」と言っても、具体的には何が始まるのでしょうか。それを教えるのが2つ目の「天から…『あなたは、わたしの愛する子、わたしはあなたを喜ぶ』(という声がした)」(1:11)ということす。このことに関わりのある「旧約」の御言葉も2つだけ取り上げます。1つは「創世記22章」の「アブラハムのイサク奉献」の記事です。神はアブラハムに向かって言われます。「『あなたの…愛しているひとり子イサクを連れて、モリヤの地に行きなさい。そしてわたしがあなたに示す一つの山の上で、全焼のいけにえとしてイサクをわたしにささげなさい』…アブラハムは…刀を取って自分の子をほふろうとした。そのとき…御使いは仰せられた。『あなたの手を、その子に下してはならない…あなたは…自分のひとり子さえ惜しまないでわたしにささげた』…『…あなたが…あなたのひとり子を惜しまなかったから、わたしは確かにあなたを大いに祝福し…』」(創世記22:1~17)。ここで「あなたの愛しているひとり子」、「自分のひとり子」、「あなたのひとり子」と3回言われています。「マルコ1章11節」の「愛する子」という言葉は、「ひとり子」と言う意味でもあります。アブラハムは、神の命令で「愛するひとり子」を捧げようとしました。神も「愛するひとり子」イエスを捧げようとしておられるのです。その神の決意がこの言葉に込められているのです。その決意がイエス様に伝えられ、イエス様は「自分を十字架に捧げる」という使命を既にここで確認されたのです。
2つ目は「イザヤ書42章1節」です。「見よ。わたしのささえるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者。わたしは彼の上にわたしの霊を授け、彼は国々に公義をもたらす」(イザヤ42:1)。神に選ばれた神のしもべ。ヘブル語では、この「わたしのしもべ」の「しもべ」には、「子」という意味があるそうです。「わたしの子」となります。そしてこの42章の言葉は、やがて53章に至ってイエス様の生涯そのものを描いて「神のしもべ(子)が苦しみの中で『罪人の一人』に数えられて死んでしまう、しかし死ぬことによって神の御心を成し遂げる、自らもそれを喜んで引き受ける」、そのような姿が描かれて行くのです。
以上、イエス様が洗礼を受けられた時に起こった2つのことを、「旧約」の御言葉から見ました。これらを通して、聖書は何を教えるのでしょうか。
イエス様の洗礼によって天が開けたのです。天が見えた。神の御業が人々のところに届くようになったのです。そしてイエス様を通して、イエス様に注がれた聖霊を通して、新しい御業が始まったのです。それは具体的に言うと…。この「天が裂けて」(10)の「裂ける」という言葉は、「マルコ福音書」の中でもう1箇所使われています。「それから、イエスは大声をあげて息を引き取られた。神殿の幕が上から下まで真っ二つに裂けた」(マルコ15:37~38)。イエス様の十字架が成った時、神殿の幕が裂けたのです。厚さが10cmもある幕です。その幕は、聖所と至聖所の間を仕切っていました。つまり、人と神を仕切っていたのです。その幕が裂けたといことは、イエス様のご生涯と十字架によって、誰でもが神に近づけるようになったということです。イエス様という神殿を通して、私達も神と交わることが出来るようになったのです。神が「愛するひとり子」を十字架に捧げることによって、誰でも神に近づけるようになった、そのことを端的に示すのが、十字架の時のローマ百人隊長の言葉です。「イエスの正面に立っていた百人隊長は、イエスがこのように息を引き取られたのを見て、『この方はまことに神の子であった』と言った」(マルコ15:39)。十字架を通して、イエス様を「神の子」と初めて認めることが出来たのは、イエス様を十字架に架けた側の異邦人でした。教会の伝承は、彼が後にキリスト者になったと伝えます。こういう人達が増えて行って、そして聖霊が豊かに働かれて、教会はやがてローマ帝国をひっくり返して行くのです。歴史が変わるのです。
いずれにしても、イエス様の洗礼は、十字架で成し遂げられる神と人との新しい関係によって、つまり人がイエス様によって神と真に結びつき、その人に聖霊が与えられ、その人の心に神の国が生まれ、そのような信仰者が増えることによって地上に神の国が広がり、それによって新しい歴史が造られて行く、そのような流れに繋がって行くのです。そしてそれは、やがてイエス様が見える形で王として世を支配為さる千年王国、さらには新天新地へと繋がって行くのです。主の洗礼は、そのように「新しい創世記、新しい創造」の始まりを指し示す大きな出来事だったのです。
 

2:適用~主イエスに罪人になってもらった私達

この個所が私達に投げかけているチャレンジは何でしょうか。「イザヤ53章12節」に「彼が…そむいた人たち―(罪人)―とともに数えられた…」(イザヤ53:12)という御言葉があります。これは十字架のことを語っている御言葉ですが、同時にこの「洗礼」の出来事を指している言葉だとも言われます。イエス様は、ヨハネの許に集まっている多くの人々と何ら変わらない様子でここに立って、順番を待っておられたと思います。罪の赦しを求めて、悔い改めの洗礼を受ける大勢の人々の中に立ち、その1人として洗礼を受けられたのです。それは、ご自分が罪人の1人に成り切るためだったのです。つまり私達は、イエス様に罪人になってもらって、罪の罰を肩代わりしてもらわなければならない者なのです。イエス様は、私達と同じところに立ち、私達の身代わりになるために洗礼を受けて下さったのです。
ある方が初めて教会に来られた時、牧師に「あなたも罪人ですよ」と言われて、「なぜ私が罪人か」と怒って、2度と教会に行かなかった、という話を聞きました。もしかしたら、その先生の言い方も拙かったのかも知れません。しかし、神の子が洗礼を受けられた。やがて十字架の上で私達の罪の罰を受けることを覚悟して、罪人の1人になり切って下さった。それは即ち、神の目に私達は、神の子に身代わりになって頂かなければならないほどの罪人だと言うことです。「犯罪を犯した」ということではありません。そうすると「なぜ私が罪人か」ということになります。そうではない。しかし私達は、神の願っているように愛に生きることが出来ないのです。自分の我を通して、自分を義として生きてしまう、良いと分かっていることをすることが出来ない、人を赦すことも難しい、プライドが邪魔する、あるいは、私達を愛して止まない神様を信頼し切ることが出来ない、何かあると呟いてばかりいる、そのような者ではないでしょうか。そして、口では「罪人だ」言ったとしても、もしかしたら自分の罪の姿を、イエス様ほど真剣には受け止めていないのではないでしょうか。だから信仰が揺れるのではないでしょうか。「この信仰を手放してはダメだ、イエス様から離れてはダメだ」という思いが薄れるのではないでしょうか。イエス様への感謝、十字架への感謝が薄れるのではないでしょうか。
私達が「主の御名によって」洗礼を受けるということは、イエス様が、私のために、私の罪を肩代わりして下さるために、私の身代わりになるために、洗礼を受けて下さった、そしてこんな私が、神様に「神の子」として迎えられ、天国に入れるようにして下さった、そのことを認め、悔い改め、感謝することです。そのように神様の前に遜ることです。{神は言われます。「わたしは…心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ57:15)。遜ることは、祝福に繋がるのです}。そして生涯を、イエス様に委ねて行く決心をすることです。
何度かお話ししていますが、私が「キリスト教は凄い」と初めて思ったのは、或る方の洗礼を通してでした。私がその方と出会った頃、その方は、ご家族を亡くされ、辛いところを通って来られ、大きな痛みを経験され、私のような者に、涙を浮かべながらご自分の辛い経験を話して下さっていました。神様については「神がいるなら、なぜ、私にこんなことがあるのだ」という神に対する反発のような思いも語って下さいました。それでもその方は教会生活を続けられました。そして―(詳しくご紹介する時間はありませんが)―それから2年後、神様が迫って下さったのです、その方は、神様によって痛みを癒され、何より神様の下さる天国の希望をご自分のこととしてしっかり受け取られ、その神の恵みの前に遜り、全てを委ねたご様子で、満面の笑みを浮かべて洗礼を受けられました。私はそれまで、あのような素晴らしい笑顔で洗礼を受ける方を見たことがありませんでした。私はその方のご様子を拝見して「キリスト教は凄い、こんなに人を変えるのか…」と思いました。そのこともあって、その頃、少しずつ感じていた神様の召しを真剣に受け止めるようになりました。福音の力は凄いと思いますし、洗礼は、このイエス様と1つになることの出来る素晴らしい儀式(礼典)だと思います。聖書は言います。「バプテスマを受けてキリストにつく者とされたあなたがたはみな、キリストをその身に着たのです」(ガラテヤ3:27)。本当にイエス様と1つになれるのです。
既に洗礼を受けられた方々がおられます。これから洗礼を受けられる方々がおられます。これから洗礼を受けられる方々が、少しでも早く、天の名簿にお名前を刻むことがお出来になりますように、心よりお祈りすることです。しかし、どういう方であっても、私達はもう一度、「イエス様が私のために洗礼を受けて下さった」、そのことを真剣に受け止めたいのです。その時、私達は砕かれ、イエス様としっかり結びつくことが出来るのです。神の救いの御業を心から感謝して、全てを委ねることが出来るのです。イエス様は、私達のために、洗礼を受けて下さいました。そのことを思い、私達は、悔い改めと感謝を捧げて行きたいと願います。