2021年7月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:ヨハネ福音書20章24~31節

 南インドに「聖トマス教会」という教会があります。その教会はトマスの伝道によって建てられたと言われています。1つの伝説があります。トマスは、紀元52年頃、王の宮殿を建てる大工としてインドに行き、宮殿建設の責任者になりました。ところが彼は、宮殿の建設費として支給されたお金を全部貧しい人々に施していました。「どうも様子がおかしい」と思った王は、宮殿を見に行くことにしました。王がトマスに「いつ私の宮殿を見に行けるのか」と尋ねると、トマスは答えました。「今は見ることが出来ません。王がこの世を去られる時に見ることが出来ます」。王はカンカンに怒りましたが、そんな時、王の弟が「天国に建てられている王の宮殿」の夢を見るのです。それもあって、やがて王はトマスに心酔するようになり、インドにキリスト教がもたらされるようになった、というのです。これは伝説ですが、トマスがインドで宣教したのは事実だと思います。
 トマスは、今日の聖書箇所の出来事のために「疑り深いトマス」という不名誉は名を歴史に残すことになります。しかし―(伝説はともかくとして)―やがて彼は、生涯をイエス様のために捧げるようになったのです。何がその変化をもたらしたのか。この箇所はそのことを考えさせてくれますが、同時に「私達の信仰の歩みに何が大切か」、そのようなことも教えてくれます。3つのことを申し上げます。
 

1:求める

 「ヨハネ11章」にイエス様が死んだラザロをよみがえらせる記事があります。ラザロのいるベタニヤは、イエス様を狙う指導者のいるエルサレムと目と鼻の先です。そこへ行くことは、殺されに行くようなものでした。弟子達も止めます。しかしトマスだけは「私たちも行って、主といっしょに死のうではないか」(11:14)と言えたのです。「疑り深いトマス」と言われる彼ですが、他の弟子達以上にイエス様に打ち込んでいたからこそ、主の十字架が、立ち直れない衝撃だったのではないでしょうか。イエス様が弟子達に現われなさった時、彼はそこにいませんでした。1人で沈んでいたのかも知れません。そんな状況で弟子達が「イエス様に出会った」と言うのが、調子が良すぎるように思えたのです。その気持ちをごまかして、皆に調子を合わせることは出来なかったのです。だから「私は…指を釘のところに差し入れて…みなければ信じない」と言ったのだと思います。
10人が「イエス様を見た」と言っている中で、1人「俺は信じない」と言い続けるのは辛いことだったでしょう。しかし彼は「お前達とは一緒にやって行けない」と言って弟子団から身を引くことはしなかったのです。弟子団から離れたら、ますますイエス様から離れてしまうように思われたからでしょう。つまり彼は、もしイエスの復活が本当なら、それを信じたかったのです。その意味で真剣に求めていたのです。そして次の日曜日、イエス様が現れて下さったのです。トマスの真剣な求めがあったからこそ、イエス様が彼の前に現れて下さった時の、彼の劇的な変化があったのだと思います。世界で初めてイエス様を「神」と、天地万物を造られた「神」と、呼ぶのです。彼のその信仰告白が、後の教会の信仰告白になるのです。私はトマスの真剣さに教えられる気がするのです。
 かつてイエス様は言われました。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます。だれであれ、求める者は受け、捜す者は見つけ出し、たたく者には開かれます」(マタイ6:7~8)。この言葉は、正確には「求め続けなさい…捜し続けなさい…たたき続けなさい」という言葉です。私達の信仰生活―(信仰の生涯)―は、どこまでも巡礼です。巡礼者は、神に近づき、神を経験することを求めて歩み続けるのです。ある神学者は言っています。「神の御業を拝するためには、神を待ち望むことが必要です」(小林和夫)。「私達は、どれくらい真剣に神の御業を待ち望んでいるか」、トマスの一途さにチャレンジされる気がします。神の御業を拝することが出来るように、真剣に求め続けたいと思うのです。
 少し話が変わりますが、24節に「デドモと呼ばれるトマス」(24)という言葉があります。「デドモ」というのは「双子」という意味です。トマスという名前の人が沢山いたから、区別するためにそう呼ばれたのでしょう。そのトマスの兄弟は、聖書には登場しません。どこへ行ったのか。ある神学者が示唆に富んだことを言っています。「もう1人を探さなくても良い、それは私達自身だ」。それは「疑り深いトマス」という意味での双子です。私達も、何か困難があると、求めるより、疑い深くなります。主は生きておられ、働いて下さっている、ということを疑うのです。そういう時こそ、主の業を求めるべきなのです。私達は「疑り深いトマス」の双子かも知れません。しかし、真剣に求めるトマス、熱心にイエス様を慕い、神を求めるトマスの双子でもありたいと願います。
 

2:神の恵みに帰る

 復活のイエス様が弟子達の前に姿を現されるのは、聖書の記載によれば、復活された日曜日が5回、そしてその後の40日間でさらに5回です。書かれていない顕現も沢山あったと思いますが、聖書の記載によれば、この箇所の顕現は6回目の顕現ということになります。貴重な10回の顕現の中の1回。誰のための顕現だったでしょうか。
 25節に「ほかの弟子たちが彼に『私たちは主を見た』と言った」(25)とあります。これは「言い続けた」という言葉です。10人はトマスに言い続けたのです。「トマス。イエス様が現れたよ。すごかったよ」。しかし10人がかりで説得されても、彼はどうしても信じることが出来なかったのです。「私は、その手に釘の跡を見、私の指を釘のところに差し入れ、また私の手をそのわきに差し入れてみなければ、決して信じません」(25)、この言葉は「信じたいけど信じられない」という何とも言えない悔しさの裏返しの言葉だと思います。そのトマスの心を砕いたのは何だったか。それはイエス御自身の顕現でした。トマスの前に現れたイエス様は、トマスが言った通りのことをトマスに語りかけられます。「あなたの指をここにつけて、わたしの手を見なさい。手を伸ばして、わたしのわきに差し入れなさい」(27)。イエス様は、信じたいけれど信じられないトマスの苦悩を知っておられ、その心を汲み取っておられたのです。そして「あなたが信じることが出来るのなら、私のこの傷に手が差し入れられる痛みなどは何でもないんだよ」と言われたのです。この顕現は、主を求めていたトマスの許へ、イエス様の方から足を運んで下さった出来事だったのです。「あなたの指をここに…差し入れなさい」。トマスはこの瞬間、この傷が誰のためであったのかということも悟るのです。そして「わが主。わが神」と素晴らしい信仰告白をするのです。しかしその告白は、イエス様の恵みと憐れみによって成立した告白だったのです。そしてこのことは、私達の信仰についても言えることだと思います。私達の信仰も、神の恵みによって始まり、神の恵みによって支えられて行くのです。
 1人の姉妹の証しを読みました。彼女の弟さんは、生まれながら難病を患っていました。家族の生活は、いつも弟さんを中心とした生活でした。彼女も親にも甘えられない。時には弟さんに対する妬み、両親への不満も感じながら育つのです。世間の差別に苦しむこともありました。しかし、やがて弟さんが教会の作業所で働き始めると、弟さんはイエス様を信じ、彼女を教会に誘うようになります。彼女は、義理で礼拝に出ていましたが、説教はほとんど聞いていませんでした。しかし、時々耳に入って来る言葉に、涙が出て来るのです。後で、それはイエス様が心に触れて下さっていたのだと分かりましたが、その時は、救いの必要は分かりませんでした。でもお母さんが亡くなり、教会で葬儀があり、牧師が「お母さんは、この女性ならこの子をまかせても大丈夫だと、多くの女性の中から選ばれた、強くて素晴らしいお母さんです」と説教した時、彼女は驚きました。「母親は犠牲者だ」と思っていたのに、母親を誇りに思えたのです。同時に弟さんと共に生きる自分に対する見方も「弟の犠牲者ではないのかも知れない」と変わり始めます。やがて彼女は介護の仕事に就きますが、愛を持って人と関わることの難しさに苦しむのです。そんな時に、教会で聞いた「放蕩息子」の話―(ボロボロになって帰って来た息子を、走り寄って迎える父親の話)―が心に甦るのです。ご本人の言葉です。「走り寄って抱きしめて下さった神様の御手の感覚が体中に感じられました。私は子供のように泣きじゃくり、神様の胸に飛び込んで行きました」。そして洗礼を受けるのです。5年後、弟さんは42歳で召天されます。悲しみはありましたが、「その年齢まで生きられたことの奇跡、いのちをかけて家族を導いてくれことへの感謝」、それがイエス様への感謝となって溢れるのです。
私はこの方の証しを読んで、改めて「信仰はイエス様によって始められ、イエス様によって守られて行くのだ」ということを思いました。私達が何か素晴らしいものを持っているから信仰生活を始めることが出来たのではありません。何かが私達の心に入って来たのです。そして何かが私達の信仰を守り続けているのです。もしサタンが私の信仰を潰そうと思えば、私の信仰などイチコロです。それなのに、今でも信仰者として歩ませて頂いている、「守られているのだな」と思います。皆さんはいかがでしょうか。だから信仰に必要なのは、いつも神に―(神の恵みに)―立ち返ることです。私達は、背中を向けておられる神に必死になってぶら下がっているわけではありません。神の恵みが私達を取り囲んでいるのです。確かに「神様は私のことを気に掛けて下さっているのか」と言いたい時もあります。でもイエス様はトマスのうめきを聞いて、知っておられたのです。イエス様は、私達のうめき、祈りを知っておられるのです。「私は主の恵みの御手の中にいる」、いつもそこに立ち返る、それが信仰の歩みに大切だと思います。
 

3:交わりに加わる

 イエス様が最初に弟子達の前に現れた時、トマスがイエス様に会えなかったのは、トマスが弟子達の交わり―(教会)―から離れていたからです。そして、トマスがここでイエス様にお会い出来た時、彼は弟子達の交わり―(教会)―の中にいたのです。これは偶然ではないと思います。「エペソ人への手紙1章23節」に「教会はキリストの身体であり、いっさいのものをいっさいのものによって満たす方の満ちておられるところです」(エペソ1:23)とあります。言い換えると「教会はキリストの身体であり、イエス様の満ちておられるところです」となります。1対1でイエス様と交わることは大切です。イエス様も「奥まった部屋に入(って)…隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」(マタイ6:6)と言われました。しかし教会は、キリストが満ちておられる所なので、個人的な交わりでは経験出来ないようなイエス様との出会いを経験出来る場所なのです。
 イエス様は「見ずに信じる者は幸いです」(29)と言われました。この「幸い」という言葉は、「心の貧しい者は幸いです」(マタイ5:3)と言われた、あの「幸いです」と同じ言葉です。「祝福だ!」と言って下さっているのです。「見ずに信じる者」とは誰でしょうか。それは、第2世代以降のクリスチャンであり、そして私達です。私達はイエス様の言われた「見ずに信じる者―(見ないで信じることが出来た幸いな者)」なのです。でも1人で信じることが出来たのではありません。何らかの形で、どこかの教会が私達にイエス様を伝えてくれたのです。イエス様を肉の目で見ることが出来ない私達のために、「見ずに信じる」ことが出来るように、神は教会を造り、イエス様と出会う場所として下さったのです。そしてそれは、最初の出会いだけではありません。私達は、信じる者の交わりの中、教会の交わりの中で、イエス様と出会い続けるのです。なぜなら教会こそがキリストの身体であり、その頭としてイエス様が臨在しておられる所だからです。私達は信仰の歩みのために教会の交わりを必要としているのです。以前、カナダ・メノナイト総会で議長がスピーチしました。「教会は、色々なことがあるけれど、素晴らしい景色を見ることが出来るところだ」。
 しかし、トマスは「交わりに加わること」で終わらないのです。初めに「聖トマス教会」がトマスの伝道による、という話をしました。伝説によれは、彼は直接イエス様の指示によってインドに送られるのです。つまり、交わりの中でイエス様に会っただけではなく、主の働きの中でイエス様に出会い続けるようにされたのです。「どんな人に聖書が良く分かるか」という議論があります。そのうちの1つは「証をしようとする人」です。「証」に踏み出して行く中で、私達は主に近づくということです。ある時、韓国人の先生と話をしました。先生は言いました。「韓国のクリスチャン人口は確かに多い。しかし腐敗も始まっている。伝道に力を入れなければ、腐敗は進んで行く。韓国の教会が伝道して行くことで一番助かっているのは、韓国の教会なのです」。つまり「『証』をして行く中で、信仰が、教会が、守られる」と言って良いのではないでしょうか。
 こんな話があります。(先週ご紹介した話のフルバージョンです)。「イエスが天に帰られた後、天使の長ガブリエルがイエス様に言いました。『主よ、人間達のためにひどく苦しまれたことでしょうね。でも、人間達は、あなたが自分達をどれほど愛され、自分達のために何をされたか、それがよく分かったでしょう』。イエスは言われました。『いや、まだ分かっていない。今はパレスチナにいるほんの僅かな人々だけが分かっているだけだ』。ガブリエルは言いました、『では、全ての人にそれを分からせるために一体あなたは何をして来られましたか』。イエスは言われました。『私はペテロやヤコブやヨハネやその他の数人の人々に、私のことを伝えることを生涯の仕事にするように依頼した。他の人々はさらに別の人々に伝え、また別の人々は、最も遠くの地に居る人々までが私のことを知るようになるまで伝えて行くだろう』。ガブリエルは非常に疑わしそうな様子でした。彼は弟子たちが十字架の時に逃げ去ったことを良く知っていました。そこで彼は言いました。『そうですか。しかし、ペテロやヤコブやヨハネが疲れて来たらどうするのですか。彼らの後に従う人々が、忘れてしまったらどうするのですか。(21世紀の人々があなたのことを他の人々に伝えなかったらどうするのですか)。あなたは何か外の計画でも立てておられるのですか』。イエスは答えられました。『私には外の計画はありません。私は彼らを当てにしています』」。
 私達はイエス様に出会い続けるために教会を必要としています。しかし私達だけではなく、誰かがイエス様に出会うために教会を必要としているのです。そしてイエス御自身が、誰かと出会うために教会を必要としておられるのです。イエス様は、私達の交わりをも当てにして下さっています。私達も、1人でも多くの方にイエス様に出会って頂けるような教会でありたいと願います。その中で私達の信仰も祝福されて行くのです。
 

聖書箇所:ヨハネ福音書20章19~23節

 ある教会で、初めて来た人に「お名前は?」と聞くと、「たぬきです」と答えました。冗談だと思った受付の人が「私はキツネです」と言ったら、叱られました。「たぬき」は「田貫さん」でした。日本の名前の種類は30万と言われますから、色々なお名前があります。さて、日本語で「教会」と訳されている言葉は、原文のギリシャ語では「エクレシア」という言葉です。「エクレシア」のもともとの意味は「呼び出された人の集まり」ということです。「教会」は、神に呼び出された人が集まって出来上がって行くものなのです。誰かが自分勝手に作り出して行くものではありません。田貫さんも呼び出されて教会に来たのです。「教会」がそのようなものだから、聖書は「教会」について「神の民、キリストの花嫁」等と、神様にとって大切な存在だという表現をしています。それらの言葉から分かることは、神様にとって個々の信仰者お1人びとりももちろんですが、共同体としての「教会」そのものも大切な存在だということです。
 今朝の聖書箇所は、イエス様が弟子達の前に御自身を現わされたことを記す箇所です。この箇所でイエス様は3つのことを語っておられます。1つは21節「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(21)、2つ目は22節「聖霊を受けなさい」(22)、3つ目は23節「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(23)の3つです。この3つの言葉は「教会」について大切なことを教える言葉です。従って、この箇所は「教会」について教える箇所だと言うことができます。では、その3つの言葉は「教会」について何を教えるのでしょうか。
 

:「教会」のメッセージ

「父がわたしを遣わしたように、わたしもあなたがたを遣わします」(21)。これはイエス様が弟子達を宣教に派遣するということです。イエス様は、神の許から携え来られたメッセージを3年間に渡って宣べ伝えられました。今度はその仕事を弟子達に委ねるというのです。しかしイエス様の仕事を委ねられる弟子達は、「正にイエス様の仕事を成し遂げて行くだろう」と思われるような人達だったでしょうか。いいえ。つい3日前に「イエスなんて知らない」と言った人達です。人間的に見れば、最も信用できない(相応しくない)人達だったです。しかしその彼らに「あなた方に私の仕事を委ね、世に遣わす」と、イエスは言われたのです。彼らに何があったから、イエス様は御自身の大切な仕事を、彼らに委ねられたのでしょうか。
 19節に「弟子たちがいた所では、ユダヤ人を恐れて戸がしめてあったが」(19)とあります。しかし、弟子達が恐れていたのは「ユダヤ人」だけだったのでしょうか。ルカ福音書24章には「これらのことを話している間に、イエス御自身が彼らの真ん中に立たれた。彼らは驚き恐れて、霊を見ているのだと思った」(ルカ24:36~37)とあります。弟子達はイエス様を見て恐れたというのです。「亡霊だ」と思ったから恐れたのでしょうか。それだけではないと思います。
 50年前になりますが、「浅間山荘事件」という事件がありました。連合赤軍のメンバーが浅間山荘に立て籠もって、警官隊と銃撃戦を繰り広げました。この事件が衝撃的だったのは、その事件の前に、彼らが仲間14人をリンチによって殺していたということでした。なぜ仲間を殺したのか。信頼していた仲間が裏切って逃げて行きます。そうすると次第に彼らは「こいつも裏切るのではないか」、「あいつも裏切るのではないか」と疑うようになって、裏切る可能性のありそうな者を殺して行ったのです。信頼していればいるほど、裏切りに対する憎しみは強いのだと思います。そして、裏切られた傷というものはそう簡単に消えるものではないのでしょう。
 弟子達はイエス様を裏切ったのです。彼らは「イエス様がマリヤに現れた」ということを聞きました。「もしかするとイエス様は本当に現れたのかもしれない」と思いました。しかし、イエス様を見殺しにした自分達に対して、甦りのイエス様は何と言われるのか、彼らはそれを恐れる思いがあったのではないでしょうか。ところが甦ったイエスは、彼らの所に現れて「平安があなたがたにあるように」(19)と言われたのです。しかも2回も言われました。ヘブル語では「シャローム」です。「シャローム」は「あなたに平和があるように」という挨拶の言葉ですが、ユダヤ人にとって真の「平和」とは、「神がともにおられる」ということです。だからイエス様は彼らに(なおも)「神があなた方と一緒にいて下さいますように」と祝福を語られたのです。弟子達はイエス様が十字架上で祈られた「父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)の言葉にも、自分達に当てはめて衝撃を受けたでしょう。しかしこの祝福の言葉も、衝撃的な言葉だったと思います。
イエス様は、彼らに手と脇腹の傷を見せました。彼らは、確かに自分達が裏切ったイエス様が甦ったということを知りました。「甦り」は、イエス様が神の許から来られたことを証しました。そしてその方は、十字架で弟子達のために「彼らをお赦し下さい」と祈られ、今また「神が共にいて下さるように」と祝福されたのです。この時、彼らは、ただ赦されるしかない状況でした。その状況で、彼らは、赦されるどころか祝福されたのです。常識では考えられないことでした。彼らは、神の赦しを体験しまた。「赦されて神と共に生きる」ということを、身をもって体験したのです。そして、十字架と復活の前のイエス様が何を言おうとしておられたのか、それが分かり始めたのです。
 派遣されるためには、語る言葉、運んで行くメッセージがなければなりません。彼らは、この体験を通して神の愛と赦しのメッセージが分かるのです。彼らのために生きて死んだ方がおられました。にもかかわらず、イエスに従っていながら最後まで自分の栄光を求めていた彼らでした。弱さの故に裏切ってしまった彼らでした。そしてイエス様の恨みを恐れていた彼らでした。こんな運命に定めた神を呪っていたかも知ません。だからこそ、神の愛と赦しがどれほどのものか、彼らには分かったのです。イエス様のメッセージが彼らの中に受肉したのです。
 初めに申し上げたように、「教会」というのは神によって召し出された者達の集まりです。ということは、弟子達の集まりがそのまま教会であり、ここで弟子達に語られていることは、そのまま「教会」に語られていることだと考えることが出来ます。「教会」は、イエス様のことを、神の愛と赦しを、宣べ伝えるために、世に遣わされているのです。私達が立派な生き方をしているから宣べ伝えるのではありません。自分を宣べ伝えるのではありません。どうにもならない弱さを持った私達のために死んで下さった方がおられるのです。私達が希望を持って生きることが出来るように、死から甦られた方がおられるのです。そのイエス様を信じる時、相応しくない者が、それでも赦されて、神と共に生きて行けるようになるのです。私達はその福音のメッセージを語って行くのです。
 

2:「教会」の根拠

 次にイエス様は「彼らに息を吹きかけて…『聖霊を受けなさい』」(22)と言われました。「息を吹きかける」という言葉で思い出すのは、「創世記」の人の創造の記事です。「創世記2章7節」「神である主は土地のちりで人を形造り、その鼻にいのちの息を吹き込まれた。そこで人は生きものとなった」(創世記2:7)。「息」という言葉は、ギリシャ語でもヘブル語でも「霊」という意味を持つ言葉です。神が息を吹きかけて、人が生きるものになったというのは、神が霊を与えて、人が生きるものになったということです。ここでイエス様が、彼らに息を吹きかけて「聖霊を受けなさい」と言われたことの意味は、イエス様が聖霊を与えることによって弟子達が神の子として再創造されるということです。
 しかし、ここで注目しなければならないのは、イエス様が「彼ら(集団)に息を吹きかけた」ということです。原文には「彼らに」という言葉もありません。イエス様は、弟子達が集まっているその集まりに息を吹きかけられたのです。つまりイエス様は、「教会」に聖霊を与えられたのです。ここに「教会」が「神の教会」であるところの根拠があるのです。初めに「『教会』は神によって召し出された人達の集まりである」と申し上げました。しかし、召し出された者が集まっているから「教会」が特別な場所なのではないのです。それもありますが、「教会」は、主イエスを通して聖霊を与えられた場所であるから特別な場所なのです。この最初の「原始教会」とも言える弟子達の交わりに聖霊が与えられることによって、「教会」は生き始めるのです。
 礼拝と交わりを通して私達が神に触れることの出来る根拠がここにあります。私達は「信者の集まり」に加わることによって「信者の集まり/教会」に与えられた聖霊に触れるのです。そして、個々の霊性が落ちている時でも、「教会」に与えられた聖霊によって回復されて行くのです。
 ある牧師がこんなことを言っておられます。「聖書は『神の御霊が自分達のうちに宿っていることを知らないのか』(1 コリント3:16)と言います。知りませんでした。でも少しずつ知らされて行きました。『御国来る。下手な説教する時も』。こんな川柳を作ったころから『牧師や信徒の実力が「教会」の力のすべてではない』と思えるようになりました。『教会』はそもそも伝道する実力などもっているのではありません。聖霊を待ちつつ、聖霊の力をうけとりつつ伝道できるだけなのです」(小島誠志)。「教会」が「教会」である根拠、「教会」が福音を宣べ伝えることの出来る根拠、礼拝を通して私達が神に触れることが出来る根拠、それは「教会」にイエス様を通して神の聖霊が与えられているからなのです。感謝です。
 

3:「教会」の使命

 最後にイエス様は、23節「あなたがたがだれかの罪を赦すなら、その人の罪は赦され、あなたがたがだれかの罪をそのまま残すなら、それはそのまま残ります」(23)と言われました。これは、弟子達に誰かの罪を赦す権威があるということではありません。いや、ある神学者は「弟子が聖霊を受けた時、その聖霊の役割には、罪から人を聖めることもあった」と言っています。その意味で、教会に、罪を赦す働きが委ねられていると言えるかも知れません。しかし、それは「弟子達が罪を赦すことが出来る」というよりも、むしろ「弟子達(教会)は罪の赦しのメッセージを伝えることが出来る」ということではないでしょうか。
 ローマ帝国による初代教会迫害の様子を描いた「クオ・ヴァディス」という映画があります。次のような場面があります。ネロ帝によるキリスト者迫害の時期、1人のキリスト者の女性がローマ軍の高級将校から見そめられます。相手がローマの支配者階級の人間ですから、彼女も最初はその気持ちを受け入れることが出来ませんでした。しかし、内心では少しずつ惹かれて行くのです。彼自身は、彼女を通して既に少しずつキリスト者の側に立ち始めていました。しかしキリスト者の仲間は、彼女がローマの将校と近づくことを絶対に許そうとしません。その時、ローマの信者を励ますためにやって来たペテロがこう言います。「主は、御自身を迫害する者さえ赦され、御許に招かれたのだ」。そうすると、横に座っていたパウロが自分を指差すのです。そうやって、ローマ軍の将校であったその男は、キリスト者の仲間に迎えられ、信者になって行くのです。
つまりイエス様の使信を運ぶのに最もふさわしいのは、イエス様のことを良く知っていた弟子達だったのです。イエス様はどんな人に近づき、どんな人に神の赦しを宣言し、逆にどんな人に対して悔い改めを求められたか。イエス様と歩いた3年間、彼らはそれを見て来たし、十字架と復活のイエス様を体験して、イエス様のメッセージを身体で合点して、地上の伝道の生活でイエスが言われたこと、なさったこと、その意味がよく分かったのです。例えば、ヨハネは言います。「もし、私たちが自分の罪を言い表すなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(1ヨハネ1:9)。彼らはイエス様のメッセージが良く分かったから、心から悔い改めている人に対しては、キリストの赦しを語ることが出来たし、逆に神に対する悔い改めも、神の愛に対する感謝もない人に対しては、悔い改めを勧めることが出来たのです。
 申し上げたように「教会」の働きも、またその点にあるのではないでしょうか。「教会」は、誰かの罪を赦す権威を持っている訳ではありません。しかし「教会」は、自分の弱さを思い、罪を悔い、神に赦しを求め、神に近づこうとする人に対して、神の赦しを語ることが出来るのです。ある精神医が言いました。「もし人間が過去の罪を拭い去られ、つらい過去から解放されることが出来るならば、世界中の精神病院の患者の90%は出てくることが出来るだろう」。私達は、皆それぞれに「赦されたい」と思う過去の傷を背負っているのではないでしょうか。「赦されたい」と願う人に、神は「教会」を通して「赦し」を語って下さるのです。また、教会は、自分の罪を認めず、神に対して何の悔い改めもなく、神を無視して生きる人々に「神に立ち帰り、神の赦しと祝福を受けて下さい」と勧めることが出来るのです。いや、その責任があるのです。
大きな特権であり、責任です。その為には、私達がイエス様の御心を良く知ることが重要です。難しいです。でも、こんな話があります。「イエス様が天に昇られた時、天使が言うのです。『イエス様、随分大変でしたね。ところでイエス様の始められた仕事は、この後、どうなりますか』。イエス様は言われました。『私はペテロやヨハネやその他の何人かの人達に後を頼んで来ました』。天使が疑わしそうに、また心配そうに言いました。『何だか頼りない話ですが、その他にも何か手を打って来られたのでしょうね』。イエスは言われました。『いや、それだけです。私は彼らを頼りにしています』」。この小さい教会である私達もあてにされています。皆で励まし合って、神に従う歩みを選び、主に忠実な「教会」を育てて行ければと思います。そして神の赦しを必要としている人に、赦しの言葉を、主にある希望を、伝えることが出来れば、と願います。
 

4:終わりに

 使徒信条は「我は…聖なる公同の教会…を信ず」と告白します。「教会を信ず」とは、「教会」の中におられる方を信じるということではないかと思います。「教会」に、私達の交わりの中に、御自身の血を流し、肉をさいて私達を赦し、そして召して下さった方がおられることを、その方が分け与えて下さった霊がおられることを信ずるということではないかと思います。その方が、今朝も、礼拝を通して私達に新しく触れて下さったことを感謝して、新しい週の歩みを進めて行きましょう。
 

聖書箇所:ヨハネ福音書20章1~18節

こんなジョークがあります。「私は、新しい歯科医院で歯医者の名前が記された証明書に気づいた。すると突然、50年前の高校のクラスにいた同姓同名の、背が高くてハンサムな男の子のことを思い出した。しかし医者を見るなり、違う人だと思った。顔に刻まれた深いしわ、曲がった腰、この男性がクラスメートにしてはあまりにも老いていたからだ。帰り際に、その昔、地元の高校に通っていたかどうかを尋ねてみた。『そうです』と彼は答えた。『卒業はいつでしたか』。『1950年です』。『とすると、私のクラスにいらしたのですね?』と彼女は興奮して叫んだ。医者はまじまじと彼女を見つめて言った。『先生は何の教科を教えていらっしゃいましたっけ?』」。50年前だと分からないのも無理はないでしょうが、今朝の箇所でマグダラのマリヤは、3日前に亡くなったイエス様が分からなかったとあります。なぜでしょうか。今朝はマリヤの姿を通して御言葉を学びます。
イエス様の墓には、入り口に大きな石の蓋がしてありました。ところがマリヤが行って見たら、すでに石は転がされていたのです。マリヤは2つのことを考えたと思います。1つは「イエス様を十字架に架けた人達が、イエスのお体をどこかに持ち去って甚振っているのではないか」ということ、もう1つは「墓泥棒がイエス様の遺体を盗んで行ったのではないか」ということです。彼女はペテロとヨハネのところに走って行って事の次第を伝えました。ペテロとヨハネも墓にやって来ました。彼らは、イエス様の体を包んでいた布が―(胴体のあったところには胴体用の亜麻布があり、頭があったところには頭が巻かれていた布があって)―そこから体が抜け出したような状態で置かれているのを見るのです。それでペテロとヨハネは、かつてイエス様が言われた「復活」ということを考え始めるのです。なお8~9節は文の繋がりが悪いように感じます。「リビングバイブル」は「…この有様を見て、イエスが復活なさったことを信じました。この時までは、イエスは必ず復活すると書いてある聖書のことばを、全く理解していなかったのです」(8~9・リビング・バイブル)と訳します。この方が分かり易いと思います。
さて、マリヤは、2人が墓を立ち去った後に墓に戻って来たのかも知れません。彼女には「盗まれた」ということしかありません。彼女は男の弟子達のようにあっさり墓を立ち去ることも出来ず、墓の前で泣いていたのです。マリヤの姿は、何を教えるでしょうか。3つのことを申し上げます。
 

1:マリヤは泣いていた…復活の事実

私の持っている高校の世界史の教科書には「復活」についてこう書いてあります。「イエスはエルサレムの郊外で十字架の刑に処せられたが―(紀元30年頃)、まもなく弟子達の間に、イエスは復活したとの信仰が生まれ…」。「イエスは復活した」とは書いていない、「イエスは復活したとの信仰が生まれた」とあるのです。これと似た言い方に「イエスは弟子達の心の中に復活した」という言い方があります。イエス様の復活を最も力強く証しするのは、弟子達の変化です。弱虫だった弟子達が、なぜ死をも恐れないでイエス様のことを宣べ伝えるようになったのか。彼らの変わり様がイエスの復活を証しします。しかし「復活」を認めない人達は「イエスが弟子達の心の中に復活した」という言い方をするのです。
遠藤周作が「イエスの生涯」という小説を書いています。彼にとっても、大きな謎は、なぜ弟子達が劇的に変わったのかということです。小説ですから「復活」という奇跡は書けない。だから1つの推理をします。「弟子達は権力者と裏取引をして一切の責任をイエス1人に被せて逃げ延びたのではないか…だから十字架上のイエスの『父よ、彼らをお赦し下さい。彼らは自分が何をしているのか知らないのです』(ルカ23:34)という赦しの言葉を聞いて、彼らは愕然としたに違いない」と考えるのです。「自分達の卑怯な裏切りに怒りや恨みを持たず、逆に愛を持ってそれに応えることは人間のできることではなかった。少なくとも弟子達は…今日までの人生の中で、そのような人を見たことはない。今日までの人生だけではなく、このユダヤの歴史に出現した王や預言者にもそのような人は一度も出現しなかった。その驚きは弟子達には激しかった」。この衝撃が弟子達を変えたのではないか、とします。しかし、彼は正直に書くのです。「弟子達のような弱虫は、自分達を赦してくれたイエスへの感動と思慕を持っていても、そういう心理だけでは…その後半生の生涯をささげ、あらゆる苦難に打ち勝って布教に努めることは出来なかったはずである…時間が経てば感動は色あせ、初めの決意を忘れさせるものだ」。「それだけは弟子達の変化は説明出来ない」と言うのです。彼らは弱い人達だったのです。「良い話を聞こうとする気持ちはあっても、信念は弱く、恐怖のためには自分の先生も犠牲にするような卑怯な性格で、そのくせプライドだけは高い」、そういう、私達と変わらない普通の人達だったのです。その彼らがなぜ、死を恐れずイエスの復活を宣べ伝えて行ったのか。更に説明出来ないのは「十字架で惨たらしく死んだイエスを、なぜ彼らは『神』として崇め、宣べ伝えて行ったのか」ということです。十字架で死ぬ人は沢山いたのです。なぜ、イエスだけが「神」とされたのか。彼らの心にイエス様が甦ったからでしょうか。そんなことではないことをマリヤが教えてくれます。彼女にはそんな余裕は無かった。遺体が盗まれたと言って泣いているのです。
マリヤの姿は何を教えるのか。それは、イエス様の復活が「弟子達の心に甦った」等という中途半端なものではない―(そんな復活なら私達には関係がない。そうではなく)―まぎれもない歴史的事実として起こった、それが弟子達を根底から変えた、ということを教えるのです。それ以外に弟子達の変わり様を、十字架に架けられた男を神とするキリスト教の存在を、説明することは出来ないのです。イエス様は本当に甦られたのです。
 

2:マリヤはイエスに気づかなかった…生きておられるイエス

墓を覗き込んでいたマリヤは―(天使を見ても事情が分からない、しかし)―背後に足音を聞いたのでしょう、振り返るのです。しかし、それがイエス様だとは分かりません。なぜマリヤは、イエス様が分からなかったのでしょうか。イエス様の方にも、以前とは違うところがあったのでしょう。しかしマリヤの側の理由が大きかったと思います。マリヤはイエス様を園の管理者だと思い込んで「あなたが、あの方を運んだのでしたら、どこに置いたのか言ってください。そうすれば私が引き取ります」(15)と言います。彼女はイエス様を、死んで何も出来ない、運び出されれば運び出されたまま、置かれれば置かれたまま、そのような姿でイメージしているのです。そのようなイエス様を探しているのです。彼女は、イエス様を死の世界に探していた。だから、イエス様と言葉を交わしながら、イエス様が側におられるのに、認めることが出来なかったのです。彼女はイエス様を、生きておられる方として探さなければならなかったのです。
イエス様が復活されたのなら、イエスは、今日も生きておられる、皆様のところにもおられるのです。しかし、私達がその事実を受け入れなければ、私達にもそれが分からないのです。死人の中にイエス様を探しても、見つからないのです。しかし、本当に生きておられる方として認めて行く時、私達にも色々な経験を通して、生けるイエス様が分かって来るのです。
森繁さんがご自分の経験を話しておられました。彼は、アメリカで一緒に暮らしたクリスチャン達が祈っているのを見て、「空気に向かって祈って何になるのか」と思っていたのです。「神なんかいない、彼らは洗脳されている」と思って、「聖書の中にバカなことが書いてあるはずだから、それを示して目を覚まして上げよう」と聖書を読み始めたそうです。しかし彼は、逆に御言葉に捉えられ、少しずつ心を開いて行くのですが、決定的だったのは「イエス様、あなたがいるのなら、私に分からせて下さい。あなたがいるのなら、私はあなたを知りたいのです」と祈り求めたことだったのです。彼は―(半信半疑だったけれど)―生けるイエスに向かって呼び求めたのです。神は言われます。「あなたがたがわたしを呼び求めて歩き、わたしに祈るなら、わたしはあなたがたに聞こう。もし、あなたがたが心を尽くしてわたしを捜し求めるなら、わたしを見つけるだろう」(エレミヤ29:12~13)。その通り、彼はイエス様を見出したのです。
「主は今生きておられる、我が内におられる。全ては主の御手に在り、明日も生きよう、主がおられる」という讃美があります。イエス様は生きておられます。生きておられるから、私達の明日を支え、導いて下さるに違いないのです。私達にたとえどんなに恐れや不安があっても、イエス様の恵みと力によって、私達はなおも希望を持って明日に向かうことが出来るのです。
 

3:マリヤはイエスにすがりついた…復活の希望

イエス様は「マリヤ」と声をかけて下さいました。マリヤは目が開かれた時、「ラボニ」と叫んでイエス様にしがみつきます。そのマリヤにイエス様は言われます。「わたしにすがりついていてはいけません。わたしはまだ父のもとに上っていないからです」(17)。不思議な言葉です。イエスはこの40日後に昇天されます。父の許、天へ帰って行かれます。昇天したら、もうしがみつけなくなります。昇天前だからしがみつけたのです。どういう意味でしょうか。いやその前に、なぜマリヤはイエス様にしがみついたのでしょうか。「嬉しかったから」。でもそれだけではないでしょう。 
聖書は、マリヤはイエス様から7つの悪霊を追い出してもらった、と紹介します。ひどい状態から救い出してもらったのです。それだけにイエス様に頼る思いは強かったでしょう。「イエス様がいなくなってしまったら私はどうなるのか」、そう思ったのかも知れません。だから「イエス様が帰って来て下さった、もう放しません」ということだったのだと思います。しかしそれは「マリヤは十字架の前のイエス様との関係に戻ろうとした」ということです。しかしイエス様は「そうではないのだ」と言われたのです。「わたしの兄弟たちのところに行って、彼らに『わたしは、わたしの父またあなたがたの父、わたしの神またあなたがたの神のもとに上る』と告げなさい」(17)。この言葉は何を意味しているかというと、神様と弟子達の関係が変わったということです。「イエスの父なる神である方が、弟子達の―(私達の)―父なる神になられた」といことです。父が同じだから「兄弟たち」と言われたのです。どういうことかというと、「なぜそうなったのか」、その仕組みは分かりません、しかしイエス様の十字架と復活が弟子達を―(イエスを信じる者を)―イエス様と同じ「神の子」にしたのです。ということは、同じ神の子として「イエス様を死から甦らせた力がイエス様の弟子達に―(私達に)―働く」ということです。「イエス様の復活が事実かどうか」、なぜ大事なのか。それは、もし事実なら、私達の復活も事実なのです。かつてイエス様は言われました。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです…」(ヨハネ11:25)。イエスの復活が事実なら、この言葉も事実なのです。イエス様を復活させた神様は、私達をも復活させることがお出来になるのです。いや十字架と復活によって、神様が私達の父になって下さったから、父なる神が私達を復活させて下さるのです。クリスチャンは死なない訳ではありません、やはり死にます。しかしクリスチャンは、人が死を通って行く時、誰にすがれば良いのか、誰が私達を守ってくれるのか、それを知っているのです。そしてイエス様が死を打ち破って甦られたように、クリスチャンは天の御国に甦るのです。私達は、生も死も支配しておられる方に頼って、死の問題を乗り越えることが出来るのです。
しかし、イエス様の復活の力―(希望)―はそれだけではありません。「ケセン語訳聖書」という聖書があるのですが、先程の「わたしは、よみがえりです。いのちです…」(ヨハネ11:25)、この言葉を「この俺には、人を立ち上がらせる力がある。活き活きと人を生かす力がある」と訳しています。マリヤと弟子達は、絶望のどん底にいたのです。その彼らがイエス様の復活に出会い、その復活が彼らを立ち上がらせて行くのです。それはイエス様が昇天され、もうイエス様を肉の目では見ることが出来なくなった後も変わらないのです。なぜでしょうか。イエスが天に上られ、天から聖霊を送られるから、彼らは、聖霊を通して神の力を直接頂いて生きて行くようになるのです。だからもう肉のイエス様にしがみついて生きなくても良いのです。
ベサニー・ハミルトンという人の話をして終わります。彼女はプロのサーファーを目指してサーフィンの練習をしている時、左腕をサメに食いちぎられます。片腕でサーフボードを漕ぎながら「神様、助けて下さい、私を浜に着かせて下さい」と祈るのです。「死ぬかも知れない」という思いが頭をよぎりました。それほど傷が酷かったのです。それでも彼女は「私は神様に守られている、イエス様が私を守って下さる」と信じ続けて、そして浜にたどり着くのです。救急車に乗せられ、病院で治療を受け、奇跡的に快復します。しかし、プロのサーファーを目指して努力して来た彼女にとって、片腕がなくなったということは、その夢がズタズタになったように思えたのです。「『なんで私がこんなことに…』と1秒ごとに考えた」と言っています。その彼女を立ち上がらせて行ったのは、信仰であり、神の言葉でした。ある日、クリスチャンの友人が御言葉を伝えてくれたのです。「わたしは、おまえたちのために立てた計画をよく知っている。それは災いではなく祝福を与える計画で、ばら色の将来と希望を約束する」(エレミヤ29:11・リビング・バイブル)。彼女は神様の励ましを受けるのです。「神様は私の人生に計画をもっていて、それに私のことを愛してくれています。納得がいかないことが起こっても、すべては神様が最初から計画されていたことであり、悪から善を生み出してくださると信じたのです」。彼女は、神様から、忍耐と、立ち上がる力と、サーフィンに対する新たな情熱を与えられ、片腕のサーファーとして色々な競技会に出場して、素晴らしい成績を上げるようになるのです。しかし彼女は言っています。「イエス様こそ、私にサーフィンをする力や、海に立ち向かう勇気や、サメの恐怖や困難を乗り越える力を与えてくれました。イエス・キリストこそ一番大切です」。
マリヤは、復活の力に生かされて生きるようになったことでしょう。私達も生けるイエス様を信じる時、生きるにも、死ぬにも、復活の力に与ることが出来るのです。主の復活を信じ、感謝しましょう。
 

聖書箇所:ヨハネ福音書19章38~42節

「アルファ・コース」で聞いた話です。海岸に大量のヒトデが打ち上げられました。1人の少年が、そのヒトデを1匹、また1匹と海に投げ返していました。通りがかりの人が、少年に言いました。「こんなに凄い数のヒトデだよ。君が1匹、2匹のヒトデを海に投げ返したからといって、何になるんだい。何にもならないよ」。少年は、1匹のヒトデを海に投げ返しながら答えました。「この1匹にとっては大きな違いなんだ」。確かにそうです。講師のガンベル先生は、この話を紹介してこうコメントしました。「私達は大きな問題を解決することは出来ないが、出来ることをすれば良い。出来ることは必ずある」。大切なことを教えられる気がします。「自分に出来ることをやって行くという在り方がある」ということです。それは私達の信仰生活についても、示唆、励ましを与えるのではないでしょうか。今日の個所は、そのような励ましを語る個所です。2つのことをお話しします。
 

1:内容~出来ることをしたアリマタヤのヨセフ

十字架のイエス様が息を引き取られたのは、金曜日の午後3時でした。ユダヤの1日は日没(午後6時)から始まります。モーセの律法によれば、処刑された人の体が木につるされていたならば、その体はその日の内に取り除かれ、埋められなければなりませんでした。ローマ占領下では、その律法は十字架刑に適応されました。しかし多くの場合、犯罪人は共同墓地に投げ入れられるのが関の山でした。それ以下の酷い扱いを受けることもありました。しかし、イエス様のお体をそのような惨めな取り扱いから救う人物が現れます。アリマタヤのヨセフであり、ニコデモです。ヨセフについては4つの「福音書」が全部紹介していますが、彼は金持ちで、最高議会の議員でした。ニコデモは、「ヨハネ福音書3章」で夜にイエス様を訪ねて来た人です。彼も最高議会の議員でした。
今日はヨセフを中心に学びますが、ヨセフはエルサレムの近くに墓を持っていたのです。彼はアリマタヤという所の出身でしたが、議員になってからでしょうか、その前でしょうか、エルサレムに移り住んで、やがて高齢になり、自分のために墓を造ったのでしょう。「マタイ福音書」には「岩に掘って造った自分の新しい墓に(イエスのからだを)納めた」(マタイ27:60)とあります。通常、死体には香料と香油で埋葬の処置が施されますが、ニコデモが香料を30kgも持って駆けつけました。その香料で応急処置をして、イエス様のお体を墓に納めたのです。因みにイエス様の遺体に添えられた香料30kgという量は、王様を葬る時に使われる量に匹敵する量だそうです。そして「まだだれも葬られたことのない新しい墓」(41)です。それも特別なことでした。ヨセフとニコデモは、イエスのお体を受け取って、ただ葬っただけではなく、謂わば、王として葬ったのです。最も目立つ方法で、イエス様との関係を一番疑われる方法で、見事に葬ったのです。
しかし、アリマタヤのヨセフは、なぜこのようなことをしたのでしょうか。38節に「…イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが、イエスのからだを取りかたづけたいとピラトに願った…」(ヨハネ19:38)と記されています。彼は、どのような形であったのか、イエス様の弟子だったようです。しかし、弟子でありながら「ユダヤ人を恐れてそのことを隠していた」というのです。社会的な立場が邪魔して、表立って弟子としての活動は出来なかったのかも知れません。「ルカ福音書」は「この人は議員たちの計画や行動には同意しなかった」(ルカ23:51)と言います。「議会で行われた『イエスの死刑判決』に賛成はしなかった」と言うのです。だからと言って、議会で反対を表明したり、反対演説をしたりしたのかと言うと、そうではなかったと思います。議会は「全会一致」でイエスの死刑を決めているようです。彼は、心の中では反対を呟きながら、しかし何も発言しなかったのかも知れません。あるいは、判決に加わることを避けて、議会を欠席したのかも知れません。いずれにしても「命をかけてイエス様を守った」というようなことをした訳ではないのです。彼が反対表明でもすれば、イエス様の心は幾ばくかの慰めを感じたかも知れません。しかし、彼はそうしなかった。
しかしそれにも拘らず、4つの「福音書」には、ヨセフの行動を責める語調はありません。むしろ「美しい姿」として彼の行動を描いている印象があります。なぜでしょうか。それは、議会では反対することは出来なかったけれど、その後、自分の為し得る限りのことをしたからではないでしょうか。イエス様は、謂わば、ユダヤ社会全体から寄って集って十字架に架けられた人です。そのイエス様の死体を引き受けたのです。そのためには、ピラトにはっきりと「私はイエスの弟子である」と申し出なければならなかったはずです。さらに、自分の墓地を提供し、そこに葬ることは、きっと彼の社会的な名誉や地位を傷つけることだったでしょう。このことは公衆の面前で行われました。彼はこの後、周りの人から何と言われ、どのような取り扱いを受けたのでしょうか。いずれにしても、彼は犠牲を覚悟して、勇気を振り絞ってこのことを行ったのです。
なぜ彼は、このようなことが出来たのでしょうか。ヨセフは、イエス様に神性を感じていたのではないでしょうか。心の中ではイエス様の弟子でした。こっそりとイエス様と接触していたかも知れません。しかし、彼にはそれ以上のことは出来ませんでした。失うものが大き過ぎるように見えたのかも知れません。そうしているうちに、イエス様の十字架を見上げる時が来たのです。彼は、恐らく十字架のイエス様の言葉を聞いたのです。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは,何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ 23:34)。「父よ。わが霊を御手にゆだねます」(ルカ23:46)。「父よ。彼らをお赦し下さい。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ 23:34)というのは、イエス様を十字架に掛けようとしている人々、イエス様を裏切った人々、そしてイエス様の弟子となっていながら、従うことの出来ないヨセフのような弟子に対する赦しを宣言し、その人々の救いを祈られた言葉です。イエス様は、ここに及んでも「人への愛」と「神への絶対の信頼」に生きられたのです。十字架から流れ出てくる愛、十字架から流れ出てくる神への信頼、それが人間の業を越える業であることを、彼は理解したのではないでしょうか。彼には復活は見えていません。十字架による救いも、この時点では見えていないでしょう。しかし、師と仰ぐ人の圧倒的な生き方を見て、またその人の神への信頼、自分への愛と赦しの言葉を聞いて、もう「隠れ弟子」でいることは出来なかったのです。
さらに「ルカ福音書」は、「この人は…神の国を待ち望んでいた」(ルカ23:51)と記します。彼は、社会の不正に耐え難い思いをしながら、神の直接的な支配が始まることを待ち望んでいたのです。その彼に、イエス様の神様への信頼は、強烈な印象だったと思います。そして自分も「神の国」を待ち望んでいたからこそ、為し得る限りの正しさ、優しさに生きようとしたのではないでしょうか。生前のイエス様を守ることは、荷の重すぎることでした。しかし「お体を葬ること」は出来ると思った。そこで彼は、自分の出来る範囲において犠牲的な行為を行った、ということだったのでしょう。さらにその彼を、聖霊が励ましたということもあったと思います。
 

2:レッスン~出来ることをする信仰生活

私達はこの個所から何を学ぶことが出来るでしょうか。
先日、私は朝のデボーションをしていた時、「私の命はイエス様が代わりに死んで下さった命なんだよな」という思いが迫って来ました。であれば、最後まで大切に生きて行きたいと思います。しかし、色々な弱さがあります。その私達を、ヨセフの記事は励ますのです。
前にもお話ししたと思いますが、カナダにいる時、私は、毎週月曜日は目が痛くて寝込んでいました。それでかかりつけのお医者さんに紹介してもらって、1か月待った後、バンクーバー市街地にある総合病院で検査してもらえることになりました。私達の住んでいたアパートから病院までは40kmくらいです。家を出て高速道路に乗ろうと思ったら、家から高速の入り口までの直線道が大渋滞しているのです。私は「予約の時刻に遅れる。遅れたら見てもらえない。また1~2か月待たなければならない」と思いました。焦った私は、もう1つ先のインターチェンジから高速に乗ろうと思って、別の道を目指してハンドルを左に切りました。その道だったらスイスイと車が動いているはずだったのです。ところが行ってみたら、そちらの道の方が酷い渋滞なのです。私は絶望的な気持ちになりました。ところが、「バカな判断をしてしまった」と嘆いている私の横で、家内は携帯電話で病院に電話をかけました。「道が大渋滞しているので到着が遅れます」。そうしたら受付の人が「大丈夫ですよ」と返事をしてくれたのです。私は「その手があったのか」と思いました。私の中には「予約の時刻に間に合うか、時刻に遅れて全部ダメか」、「0か100か」の二者択一しかなかったのです。しかし実は「10分、15分送れて行く」というより現実的な選択があったのです。
つまらない経験ですが、しかし私には貴重な経験でした。そしてアリマタヤのヨセフの姿と重なります。私達は、自分が願っているような理想的な信仰生活は出来ないでしょう。罪があります。弱さがあります。恐れもあります。失敗もあれば、人を赦せないこと、愛せないことも多いです。何かあると神に呟く不信仰もあります。悩みは多いです。しかし「だから私の信仰生活は全てダメだ」と思わなくて良いのではないかと思うのです。自分の弱さ、欠け、至らない面、それは現実です。神様に取り扱って頂かなくてはどうにもなりません。しかしその自分にも、信仰を働かせて出来ることがあるのではないか、「10分遅れ」のような形で出来ることがあるのではないか、そう思うのです。
奥田知志という北九州でホームレスの人々の自立支援の活動を続けている牧師のお話を聞きました。今までに1000人近い方々を自立に導いて来られました。しかし、先生がこんなお話をしておられます。例えばアパートを求めている人が100人いたとしても、しかし自分達の力だと5人分のアパートしか提供できない。この5人を誰にするのか。もしかしたら、5人の中に選ばれなかったために、数日後には死んでしまう人がいるかも知れない。先生はそこで「自分達の活動は、人を助けようとする活動なのに、その一方で人を死に追いやってしまう活動でもあるのではないか」と悩むのです。でも結局、「自分達は罪人なのだ。罪人である自分達が罪を犯しながら続けて行くのがこの活動なのだ」と言い聞かせるところに道を見出されるのです。もちろん先生方の活動は、私達には真似の出来ない素晴らしい活動です。でも「自分達は罪人なのだ。罪人である自分達が罪を犯しながら続けて行くのが…」という言葉に、私達も励まされる気がするのです。罪人である自分達が、弱さを抱えたまま、それでも何とか「神様に喜ばれるように」と拙い歩みを続けて行く、それが信仰生活ではないかと思うのです。ヨセフは、自分に出来ることをやりました。そして「福音書」は、そのヨセフの姿をむしろ良く描くのです。私達も、理想的な信仰者で在れないことを嘆くより、出来ることで小さい一歩を踏み出すことの方が、意味があるのではないかと思うのです。
スウェーデンのホテルで、女の子がロビーにあるピアノを滅茶苦茶な音を出して弾いていました。そこに父親がやって来て、女の子の演奏を止めるのではなくて、横に座って、女の子が出す音の合間を埋めるようにしてピアノを弾き始めました。そうしたら、女の子の酷い音と父親の演奏が合わさって素晴らしい音楽になったのです。この話を紹介している「アルファ」のガンベル先生は言いました。「神が、同じように私達の下手な演奏―(欠けのある信仰の歩み)―を美しい音楽に変えて下さるのです」。
その時に大切なのが「神の国を待ち望む」ということです。繰り返しますが、ヨセフは「…神の国を待ち望んでい」(ルカ23:51)ました。「神の国」、それは「神の支配」という意味にもなります。神の具体的な支配が見えないような世の中の動きです。身の回りにも試練があります。そこに神様の働きが感じられない時もあります。諦めに押しつぶされるように思うこともあります。しかしそれらは、決してそのまま終わるものではないのです。やがて、神の国が来る。やがて全ての問題に解決が与えられる時が来るのです。ある牧師が次のように言っておられます。「わたしたちはこの世界がこのままで終わらないことを信じています。神が御国を来たらせて下さることを信じています。だから諦めないのです。御国を待つ者にふさわしく生きるのです…」(小島誠志)。それは、この世界という大きなレベルだけでなく、私達の身の回りのことにも言えます。私達の身の回りのことにも、神の支配が来るのです。私達は、希望を持って、どんなに無力感に襲われようが、それでも自分に出来る信仰の歩みを続けて行くのです。
 

3.終わりに

アリマタヤのヨセフは、自分に出来得ることをやりました。その彼に、神は何をして下さったでしょうか。彼の墓は、イエス様の復活の舞台となりました。その同じ墓に、ヨセフも身を横たえて眠りについたのです。彼こそが、正に「甦り」に対する、誰よりも強い希望と確信を持って眠りについた人であったと思います。彼にとって、墓は新しい意味を持つ場所となりました。墓は「甦り」へと続く場所になったのです。その希望は、私達にも与えられている希望です。主は確かに葬られました。でも甦られたのです。私達もやがて死んで葬られるでしょう。しかし主に在るならば、私達も甦ります。墓は甦りの場所になるのです。繰り返しになりますが、その希望があるからこそ、弱いながらも、神を待ち望み、現実的なレベルで、出来ることをしながら、慎ましい信仰生活を積み上げて行きましょう。主はそれを「良し」として下さいます。決して見過ごしにはされません。その小さな歩みを祝して下さいます。