2021年6月 佐土原教会礼拝説教

HOME | 2022 | 2021 | 202106

聖書箇所:ヨハネ福音書19章31~37節

 苦しくてどうしようもない時があります。どうすれば良いのか。先日も、あるご高齢の牧師がインターネットの動画で熱心に語っておられた、という話をしました。「神様に助けを求めれば良いのです。神様は、助けようとしてあなたの傍にいて下さいます。あなたを助けて下さいます…私も神様を求めた時から、あらゆる問題が解決しました…」。実際、神様に助けを求めたら、すぐに、見事に問題が解決する、ということばかりではないと思うのですが、しかし、自分でもどうしようもない時、神様に期待し、助けを求めることが出来る、それは大きな恵みだし、希望だと思います。その恵みも、希望も、それは十字架に始まるのです。
 さて、イエス様が十字架で息を引き取られたのは、金曜日の午後3時頃でした。もう2~3時間したら土曜日(安息日)が始まります。しかもそれは、1年の最大の祭りである「過ぎ越しの祭り」を祝う安息日でした。それでユダヤ人達は、十字架の遺体を取り降ろしてくれるように、総督ピラトに願い出ました。まだ死んでいない受刑者を十字架から取り降ろす場合は、囚人の足を木槌で砕きました。イエス様の両側にいた囚人は、まだ死んでいませんでしたので、兵士達は彼らの足を砕いてとどめを刺しました。しかしイエスはすでに死んでおられたので、彼らは足の骨を砕くことはしませんでした。しかし、その死を確かめるためでしょうか、1人の兵士が槍でイエス様の脇腹を突き刺しました。するとその傷のところから血と水が流れ出て来ました。
 ここでヨハネは「私は見たんだ、本当なんだ」と力を込めて書いています。ヨハネがこれを書いた時、彼は信仰の故に困難に直面しているキリスト者を励ます必要に迫られていました。見たからといって、意味のないことを書くはずがありません。彼にとってこの出来事は、既にイエス様を信じている人々を励まし、まだ信じていない人々をキリストに導くために大切な意味のある出来事だったのです。ではヨハネは、この「血と水」の記事を通して何を伝えようとしたのでしょうか。
 

1:血の恵み~罪の赦しの恵み

 まず「血」です。十字架の背景になっているのは「過ぎ越しの祭り」です。それは、この時から1300年前、エジプトで奴隷として苦しんでいたイスラエル人が、神様の力によってエジプトから救い出されたことを記念する祭りでした。彼らは、どのようにして救われたのか。イスラエル人を解放しようとしないエジプトに対して、死の使いがエジプト中の初子(長子)を打ったのです。それによってエジプト人は、イスラエル人に「出て行け」と言って、彼らを解放したのです。死の使いがエジプトの初子を打つ中で、イスラエル人だけは「家の門柱と鴨居に子羊の血を塗る」という方法で守られました。家の門柱と鴨居に子羊の血が塗られていたら、死の使いはその血を見て、その家を過ぎ越したのです。エジプト人でも、子羊の血を塗った家は守られました。イスラエル人は、イスラエル人だからということで、あるいは善人だからとか、正直者だからとか、そういう理由で救われたのではないのです。人間のどんな功績も、神の裁きから私達を救うことは出来ません。彼らにも神の前に罪がありました。しかし、ただ神が「わたしはその血を見てあなたがたの所を通り越そう」(出エジプト12:13)と言われたように、彼らが救われるかどうかは、子羊の血に拠ったのです。
イエス様から流れ出た血を考える時、「過ぎ越し」に流された子羊の血のことが大きな意味を持ちます。聖書は言います。「私たちの過越の小羊キリストが、すでにほふられたからです」(1コリント5:7)。私達にとっては、イエスが子羊の血を流して下さったのです。どういうことでしょうか。 
聖書には「人間には、一度死ぬことと死後に裁きを受けることが定まっている…」(へブル9:27)とあります。3年前に来て下さった森繁さんが「スピード違反」という歌を歌っています。「人が追い越そうとしたら、わざとこっちもスピード出してやれ。抜かさせないようにしてやろう。自分の前には絶対入らせない」。私達の情けない現実を歌っていると思うのです。ある時、ある場所でバイブル・スタディーをしていました。「皆さんには罪ありませんか」、そう聞いたら、1人の方が言われました。「私の心を2つに切ったら、真っ黒だと思います」。信仰があっても、時に神に呟き続ける不信仰はないでしょうか。いずれにしても私達は、自分の良さで神の裁きの時に合格点をもらえるような者ではないのです。だからこそ私達には、救いの道が必要なのです。その道とは、イスラエルの人々が羊の血によって救われたように、私達も神の本当の子羊であるイエス様の血によって救われる、という方法です。イエス様が私達にとっての「過ぎ越しの羊」だから、イエス様の足は折られなかったのです。聖書に「過ぎ越しの羊の骨を折ってはならない」(民数記9:12)と書いてあります。「イエスが十字架で流された血は、私のためであった」と信じて、信仰によってイエス様の血を受け取り、心の門柱と鴨居にイエス様の血を塗ることによって、私達がどんなに弱く、どんなに神の御心に添わない者であっても、イエス様の血の故に私達は罪赦されて、「神の祝福の対象」にしてもらえるのです。
 「祝福の対象となる」とはどういうことでしょうか。三浦綾子さんがこんなことを言っています。「私はよく、人様に『お祈りしてください』とお願いする…私は、しかし、決して気軽にお願いしているつもりはない。この言葉を口から出す時、私の心の中には、キュッと引きしまった厳粛な気持ちが流れている。本気で言っているのだ。祈りを聞いてくださる神がいられる。だから祈りはきかれる。ゆえに、人々に祈っていただきたい…イエス様は『もし、あなたがたのうちのふたりがどんな願いごとについても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう』とマタイ伝18の9で約束して下さっている。私のような者でも約束は守ることが多い。ましてイエス様の約束である。きっと、心を合わせて祈るなら、きいてくださるにちがいない」(三浦綾子)。キリストの血の故に罪赦されている存在だからこそ、このような希望が生まれて来るのです。「神に赦されて存在している」、それが私達なのです。イエス様の血が、私達に罪の赦しをもたらしたのです。
 

2:水の恵み~聖霊による命の恵み

 ヨハネは、「水が出て来た」と書いています。かつてイエス様は、サマリヤの女に言われました。「わたしが与える水は、その人のうちで泉となり、永遠のいのちへの水がわき出ます」(ヨハネ4:13)。また「仮庵の祭り」の時に言われました。「『わたしを信じる者は、聖書が言っているとおりに、その人の心の奥底から、生ける水の川が流れ出るようになる。』」、これについては、「これは、イエスを信じる者が後になってから受ける御霊のことを言われたのである」(ヨハネ7:38~39)と解説がついています。そのように、「ヨハネ福音書」において「水」というのは、神の霊、「聖霊」を表します。イエス様のわき腹から水が出た、ヨハネはそれを見て「信じる者は、イエスの『血』によって神の赦しを受け取るように、イエスの『水』によって神の聖霊を受け取るようになる」ということを言っているのです。聖霊を受けるとは、神の命を受けるということです。言葉を換えると、永遠の命を受けるということです。信仰者にとって、永遠の命の希望は、罪の赦しに伴う大きな恵みです。
 イエス様は、その伝道活動において、死人を甦らせなさいました。でも、死から甦らされた人もまた死にました。結局死ぬのなら、なぜイエスはそのようなことをなさったのでしょうか。それは、それらのことを通して「キリスト教の救いとは何か」ということを示されたのです。「キリスト教の救い」とは、最終的には「からだのよみがえり」ということです。永遠の命とは、何か訳の分からない状態でフワフワ存在しているということではないのです。私達は、自分を苦しめて来た罪の重荷を取り除かれて、新しい身体を持った存在として、生きているのが嬉しくて仕方がない、神に仕えるのが嬉しくて仕方がない、そういう状態に甦って、生かされて行くのです。それも主の十字架の故の大きな恵みです。
 しかし聖霊の恵みは、天国の恵みだけではありません。今を生かす恵みです。先日も「田原米子さん」の話をしましたが。彼女は、高校生の時、お母さんが急に亡くなり、空しさに襲われ、生きる意味も希望も失くし、電車に飛び込むのです。両足と左手を切断。右手は指が3本だけ残されました。「この先、この体でどうやって生きて行けば良いのか」。入院中は、病院からもらう睡眠薬を溜め込んで、それを飲んで死ぬことばかりを考えていました。その彼女がキリストに出会い、心に「神の支配」が来るのです。「指が3本しかない!」と叫んでいた彼女が、「指が3本もあるじゃないか。神様が残してくれたのだ!」と感謝して生きるようになるのです。朝、義足をつけると祈られるのです。「神様、今日、誰に会わせて下さるでしょうか。あなたが私に出会わせて下さる方のために、私が生きることが出来るように導いて下さい…今日もあなたの器として生きて行きます。私を用いて下さい」。そう祈って、1日1日を活き活きと生きられたのです。そして学校に招かれては「生きるって素晴らしい」と語って回られたのです。既に天の御国に帰られましたが、彼女の生きられたお姿を思う度に、聖霊が、永遠の命の恵み、天国の力で人を生かす、今を生かす、そのようなことを否定することが出来ない気がします。
 イエス様の十字架は、そのように大きな恵みをも、私達にもたらしたのです。
 

3:御心にそった嘆き~恵みを頂くために

ヨハネは37節で「また聖書の別のところには、『彼らは自分たちが突き刺した方を見る。』と言われているからである」(37)と言っています。「彼らは自分たちが突き刺した方を見る」(37)とはどういうことでしょうか。
この言葉は「ゼカリヤ12章10節」の言葉です。「わたしは、ダビデの家とエルサレムの住民の上に、恵みと哀願の霊を注ぐ。彼らは、自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き、初子を失って激しく泣くように、その者のために激しく泣く」(ゼカリヤ12:10)。この「彼らは自分たちが突き刺した者、わたしを仰ぎ見…」(ゼカリヤ12:10)という預言、これはまさにイエス様の十字架において成就する訳です。しかし、この「彼らは…わたしを仰ぎ見、ひとり子を失って嘆くように、その者のために嘆き…」というのは誰のことでしょうか。イエス様を直接突き刺したのはローマ兵です。しかしこの「彼ら」というのは、恐らくエルサレムに生きる者、神の民ユダヤ人のことでしょう。しかし広い意味では、弟子達のことも言われているのではないでしょうか。彼らは、イエス様と一緒に行動したのです。イエス様が犯罪人であるなら、彼らは共犯者です。でも彼らは、イエス様1人に責任を押しつけて逃げたのです。その意味で、間接的に彼らは、イエス様を槍で突き刺したのです。しかしその後で彼らは、自分達のどうにもならない弱さ、卑怯さ、自分中心、それを嘆いたのです。しかしゼカリヤ書は、その嘆く彼らに「恵みと哀願の霊を注ぐ」(10)、神の霊が注がれる、と言っているのです。そして事実、十字架の50日後、彼らの上に神の霊が降り注ぎ、そして彼らは、自分達の全てのことに対する赦し、永遠の命の確信を握って立ち上がって行くのです。
 何を教えられるでしょうか。血の恵み、水の恵みを頂くための、神の霊を頂くための「嘆きの大切さ」ということです。ある牧師の話です。彼は牧師家庭に生まれ育ちましたけれど、極貧の経験を通して物的な豊かさに人生の目的を見出すようになりました。仕事でお金を沢山稼ぐようになりました。レコードを買いあさり、高価なオーデオ設備を整えて満足していました。そんな時、奥さんが交通事故を起こします。彼の大好きなレコードの最高潮の部分が流れている時に、事故を知らせる電話のベルがなるのです。電話を受けた時、それまで心血を注いで来たレコードも、自慢のオーデオも、一瞬にして色あせて見えたそうです。奥さんはある家に突っ込んでしまったのですが、その家にはヤクザの息子がいて、それから毎日のように呼び出される生活が始まりました。どうにもならなくなった時、彼は20年ぶりに神に祈るのです。「神様、私の立っていた所は間違っていました、あなたを土台にして立たなければならなかったのです。神様、心から悔い改めます。どうぞこの状況から救い出して下さい」。不思議なことに、その時から呼び出しがなくなったのです。保険会社に問い合わせたら、同じ家に別の車が突っ込んで、その事故の保険金を請求するために、前の事故の示談を成立させなければならなくなって、例の息子が急いで示談に応じたということでした。彼は、その時、2つのことを悟るのです。1つは、神を土台として生きることの確かさです。もう1つは、後から突っ込んだ人が、いわば彼の身代わりになってくれた訳ですが、そのことを思った時、「イエス様が自分の身代わりになって自分を助けてくれた」ということの大きさが初めて心から分かったのです。
 私達が、イエス様の血の恵み、水の恵み、神の霊に生かされて歩むために必要なのは、「自分の罪深さに対する嘆き、悔い改め」ではないでしょうか。自分のことを、そこそこ良い人だ、と思っている時、神の助けは、あれば嬉しいけど、無くても何とかなる程度のものではないかと思うのです。でも、私達が本当に自分の的外れ、罪深さ、弱さを嘆く時、罪の赦し、神の憐れみ、イエスの十字架、そういったものがどうしても無くてはならないものになるのです。それなしには、自分の救いは考えられないものになるのです。その時、私達は砕かれて、神の導きを求めるようになるのです。その時、神の霊、神の恵みは、私達に流れて来るのではないでしょうか。
 

最後に

 ヨハネは、イエス様の「わき腹から…血と水が流れ出た」と書きました。「血と水が流れ出た」というのは、医学的には心臓が破裂したことを示すそうです。ローマ兵の槍はイエス様の心臓を貫いてイエス様の心臓は破裂したのです。イエス様は、十字架の上で、痛みと苦しみとの極みを味わって死なれ、そして最後は心臓まで破裂したのです。その全てが私達のため―(あなたのため、私のため)―であったことを、改めて感謝を持って受け止めたいと思うのです。私達の救いは全て、イエス様の十字架に拠るのです。
 

聖書箇所:ヨハネ福音書19章23~30節

 ここしばらくインターネットで「生き方セミナー」のような動画を見ることが多くなりました。ある動画の中でヴィクトール・フランクルという精神科医の話が出ていました。この方はナチスのアウシュビッツ収容所を生き抜いた方ですが、彼は生きるか死ぬかの極限状態の中で「どういう人が生き残るのか」、観察をしていたというのです。その結果、得た1つの結論は「なぜか楽観的な人が生き残る」ということだったそうです。言い換えると「もうダメだ」と思う人ではなくて、「なお生きることに希望を持って行こう」という人が生き残る、ということでしょう。しかし、楽観主義で生きて行くのもなかなか難しいと感じます。なぜなら、自分の意志や力で希望を生み出すことは難しいからです。しかし、聖書がその助けをしてくれます。聖書のイエス様が、私達に力を下さいます。 
 「マルコ福音書」によると、イエスが十字架に架かられたのは午前9時、息を引き取られたのは午後3時でした。イエス様は、十字架の上に6時間架かっておられたことになります。その6時間は、イエス様にとって筆舌に尽くしがたい「苦悩」の時間でした。イエス様の「苦悩」と比べることはとても出来ませんが、しかし私達にも信仰を持って歩んでいても「なぜ、どうして」ということがあります。その意味で、この個所は「現実の『悩み・苦しみ』をどう受け止め、どう通って行くのか」、そのようなテーマについて語りかけてくれる個所です。2つのことをお話しします。
 

1:苦悩の中で~なお神の愛に信頼する

 イエス様をゴルゴダまで引っ張って来たローマの兵隊達は、ゴルゴダに着くとすぐにイエスを十字架に架けました。当時、十字架刑を執行する兵士は、囚人の身につけているものを自分のものにすることが出来ました。兵士達はクジを使って分けたのでしょう、下着以外の4つをそれぞれ1つずつ取りました。そして下着だけが残りました。下着は「上から全部一つに織った、縫い目なしのものであった」(23)と記されています。ある人は「それは大祭司がつけていた下着と同じであった。イエス様が私達を神に執り成して下さる本当の大祭司であることを示している」と言います。いずれにしても下着については、またクジを引いて1人がそれを取りました。イエス様が十字架で苦しんでおられる時、その側ではこのような冷酷なことが行われていたのです。しかしヨハネはこの光景について「『彼らはわたしの着物を分け合い、わたしの下着のためにくじを引いた』という聖書が成就するためであった」(24)と聖書の成就を見ています。
この言葉は「詩篇22編」の言葉です。「詩篇22篇」は不思議な「詩篇」です。これは、イエス様の十字架の1000年前、ダビデが詠んだものですが、そこには十字架の光景が描かれています。1節「わが神、わが神。どうして、私をお見捨てになったのですか」(詩篇22:1)は、イエスが十字架上で叫ばれた言葉です。そして18節「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」(詩篇22:18)が、ここで兵士達がしていることです。それで「詩篇22編は十字架を預言した詩篇だ」と言われます。ダビデは自分の「悩み・苦しみ」の経験を通して、そこで味わったことを詩に詠みました。しかし結果として、「22篇」はイエス様の受難を預言することになりました。だからイエス様の受難について語ってくれるのです。
 もう一度1節を見ると、ダビデは「苦悩」の中で神に向かって「なぜ、沈黙をしておられるのですか、なぜ、手を出して救って下さらないのですか」と問います。今日、私達が「なぜ神様は何にもして下さらないのですか」と問う、さらには「神は結局何にもして下さらないのだろうか」と問う、それと同じ問いです―(「問い」というより「呻き」です)。そして、彼がそんなに苦しんでいるのに、人々(敵)は、神に頼る彼をバカにしたのです。また「着物を奪って分け合う」(18)ような残忍な態度で彼に迫ったのです。そういう切迫した状態で、彼はそれでも神を信頼して助けを求める叫び声を上げたのです。
しかしこの「詩篇」の特徴は、22節から調子ががらりと変わることです。これまで「苦悩」の中にあって、神の沈黙に嘆き、人々の嘲りの中で絶望的な叫びを上げていたのに、ダビデは、22節から神を讃美するのです。24節「まことに、主は悩む者の悩みをさげすむことなく、いとうことなく、御顔をかくされもしなかった。むしろ、彼が助けを叫び求めたとき、聞いて下さった」(詩篇22:24)。つまり「神から見捨てられた、神は何もしない、神は私がこんなに苦しんで叫んでいるのに答えて下さらない」と思ったのに、しかし、後になって見たら、彼がそう思ったその時に、実際はそうでなかった。神は彼の近くにおられ、彼の祈りに答え始めておられたのです。ダビデはそれを言いたかったのです。
 ある時、出会った青年から聞いた話です。好青年を絵に描いたような人でしたが、中学生の頃はものすごく悪くて手がつけられなかったと言うのです。彼のお母さんは、その頃、ある教会で伝道師として働いておられたそうです。私は「お母さんは、どうされていましたか」と聞きました。「母は、毎晩のように泣きながら祈っていましたね」、彼はそう答えました。中学の時は、お母さんのその姿を見てもどうにもならなかったのでしょうが、やがて彼は変えられて行ったそうです。そして神学校で牧師になる勉強をするようになったのです。神様は、祈りをちゃんと聞いておられたのです。そしてお母さんの祈りに答えて下さったのです。星野富弘さんの詩に「あてはずれ」という詩があります。「あなたは私が考えていたような方ではなかった。あなたは私が想っていたほうからは来なかった。私が願ったようにはしてくれなかった。しかしあなたは私が望んだ何倍ものことをして下さっていた」(星野富弘)。この「して下さっていた」という表現が教えます。神は、見ておられ、御手を添えておられたのです。
 「詩篇22篇」に帰りますが、そうやって「わが神、わが神、どうして私をお見捨てになったのですか…」で始まるこの詩は、神への絶望が、神への信頼、神への賛美に変わって行くのです。十字架の上でイエス様がこの詩篇の冒頭を叫ばれたのは、「神に見捨てられたような、いや実際に見捨てられた状態にある。しかし、それでも私は神に信頼します」という信仰を言い表し、「この苦しみ・悩みが、嘆きが、やがて讃美に変わっていく、それを信じ、全てを神に任せます」という、神への信頼を口に出そうとされたのではないでしょうか。
 そして実際、神様は、十字架を十字架で終わらせることはなさいませんでした。あの悲惨な十字架は、やがて栄光の復活につながって行くのです。神様は、イエス様の信頼に答えて素晴らしいことを為さるのです。そしてここに4人の女性が登場しますが、彼女達は、なおイエス様の中に一縷の希望を見ていた、信頼を置いていた、と言えるのではないでしょうか。その4人の代表のような母マリヤと愛する弟子(ヨハネ)に、イエス様は言われます。「『女の方。そこに、あなたの息子がいます』…『そこに、あなたの母がいます』」(26~27)。そして「その時から、この弟子は彼女を自分の家に引き取った」(27)とあります。ここにイエス様を中心とする共同体、教会が生まれるのです。神様は、女達の信頼を「世に祝福を告げ知らせて行く教会の誕生」という実として結ばせて下さるのです。
 いずれにしても「悩み・苦しみ」の中で、私達はそれをどう受け止め、どう通って行けば良いのか、ということについて示唆を与えられる気がします。それは、それでも神を信頼するということです。それでも神の深い御旨を信じ、神に希望を置くということです。そこに信仰者が「悩み・苦しみ」の中で立ち上がることの出来る秘訣があるのではないでしょうか。教えられる次のような言葉があります。「失敗したからそれでおしまい、親しいものを失ったからダメ…なんてことは人間の考えです。人間の知恵や考えが終わったと思うところで、神の聖なるみ旨は終わっていないのです。いや、私達が失ったと思ったところに、はかりがたい恩寵がしばしば隠されているのです…神を信じる者は…自分の目には今は見えないけれど、神のみ旨は地下水のように深く滔々と流れていると信じるのです」(小島誠志)。このような信仰に生きたいと願います。
 

2:苦悩の中で~神の愛の業を確認する

28節「この後、イエスは、すべてのことが完了したのを知って聖書が成就するために、『わたしは渇く』と言われた」(28)。「聖書が成就するために、『わたしは渇く』…」というのはどういう意味でしょうか。具体的には「詩篇69章21節」「彼らは私が渇いた時に酢を飲ませました」の成就でした。しかし、ヨハネは「1つの預言が成就した」というような、そんなことを言いたいのではないのです。「ヨハネ福音書」が書かれたのは紀元90年頃です。その頃、キリスト教会の中にグノーシスという大変勢いを持った異端が現れます。グノーシスは、「肉体は悪」、「霊は善」と極端に分けました。その結果、「善である神が悪である肉を取るはずがない」と考えたのです。「イエス様は、肉体を取られたのではなくて、肉体を持っているように見えたのだ」としたのです。だから、彼らに言わせれば、「神が苦しむということはないのだから、イエス様は『苦しみ・悩み』を味わわれたように見えたけれど、本当は何の『苦しみ・悩み』も味わうことはなかったのだ。神はそれほど凄いのだ」ということになったのです。そうやって神に栄光を帰そうとしたのです。
しかし、イエス様の十字架を見ていたヨハネは、イエス様が「わたしは渇く」(28)と言われたのを聞いたのです。イエス様は「のどが渇いた」と言われたのです。肉体を取ることのないイエス様だったら、渇くはずがありません。「のどが渇いた」と言われたということは、イエス様は、神の子でありながら、本当に人間となって私達と同じ弱い肉体を持って下さった、ということです。そして十字架の上で極限の痛みと、神の裁きの恐ろしさと、神から切り離される恐怖を味わい尽くして下さったということです。
 「イザヤ書53章」は「救い主」についてこう言っています。「彼は、私達の病を負い、私達の痛みを担った…彼は…私たちの咎のために砕かれた…彼の打ち傷によって、私達はいやされた…彼を砕いて、痛めることは主のみこころであった…彼は、自分のいのちの激しい『苦しみ・悩み』のあとを見て、満足する」(イザヤ53:1~12)。私は、「パッション」という映画の中で、苦しみながら十字架を背負って歩かれるイエス様を見て、「『勝手にしろ』と言って十字架を放り投げてしまわれればよいのに」という思いになったのです。でもイエスは、決して十字架を捨てられませんでした。なぜなら、あの十字架は、実は私達なのです。私達の運命を背負っておられた、だから捨てられなかったのです。イザヤが預言した通り、イエス様が「激しい苦しみと悩み」を引き受けて下さったが故に、私達の救いは本当になったのです。だからイエス様は「成し遂げられた」(30新共同訳)と言って、息を引き取られたのです。ヨハネは、そのことが言いたかったのです。「あなた方の救い主は、あなた方に代わって、生身の人間として痛みの極みを味わって下さった、そのようにして救いの道を開いて下さったのだ。だからあなた達の救いは間違いがないのだ、十字架の故にあなた達は間違いなく罪赦されて神の子とされるのだ。あなた達は、間違いなく神の御手の中にいるのだ」、そう言いたかったのです。私達を「悩み・苦しみ」が襲う時、自分では何も出来なくても、私達が神様の御手の中にいるなら、神が何かをして下さるという、希望があるではありませんか。
因みにCSルイスという人は、こんなことを言っています。「神であるイエスは、本来、死ぬ必要のない方である。あえて言えば、死ぬことが出来ない方であった。でも人間になれば死ぬことが出来る。イエスは私達が死に際してもイエスの御跡を見ることが出来るように、イエスと会うことが出来るように、死んで下さった」(CSルイス)。イエスは本当に苦しみ抜いて下さいました。それだけではなく、本当に死んで下さったのです。そんな方だから、私達がどんな苦悩の中にいる時でも、イエス様は、その苦しみを知っている方として私達と共にいて下さるのです。私達には、やがて死ぬ時が来ます。でもその時にも、私達は、死んで、葬られて下さったイエス様を、そこに見い出すことが出来るのです。
 なぜ、私達に「悩み・苦しみ」がやって来るのか、それは分かりません。しかし、分かることがあります。私達が「苦難」の中で神様に希望を置くことが出来るように、そして、そこで共におられるイエス様を見ることが出来るように、イエス様が「苦難」を先に背負って下さったということです。神様は、私達のために独り子の十字架を忍んで下さったということです。そのことは、主が私達を見捨ててはおられない、愛していて下さっている、という事実を伝えるのではないでしょうか。私達は「悩み・苦しみ」の中でも、この事実に目を向けることによって――苦しみは現実です――しかしなお希望を持ってそこを通って行くことが出来るのではないでしょうか。主の十字架に感謝したいと思います。
 

3:おわりに

「『悩み・苦しみ』をどう受け止め、どう通って行くのか」、今朝、2つのことを申し上げました。「苦悩の中で」、「なお神の愛に信頼する」、そして「神の愛の業を確認する」。そのようにして、困難の多い日々の生活を、神様の愛に支えられて、歩いて行きましょう。
 

聖書箇所:ヨハネ福音書19章13~22節

十字架というと、どれくらいの高さを想像されるでしょうか。イエス様が随分高いところに架かっておられるイメージがあるのではないでしょうか。1963年、エルサレム郊外で、ローマ時代に十字架刑で処刑された男性の骨や十字架刑の道具が発見されました。十字架が、思っていたよりも低かったのです。もし、イエス様の十字架がそのように低いものであったとすれば、イエス様は御自分をあざ笑う声や罵倒する声を浴びるようにして身に受け、それを忍ばれたのだろうなと思ったのです。
さて「1コリント1:22~24」にこうあります。「ユダヤ人はしるしを要求し、ギリシヤ人は知恵を追求します。しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです。ユダヤ人にとってはつまずき、異邦人にとっては愚かでしょうが、しかし、ユダヤ人であってもギリシヤ人であっても、召された者にとっては、キリストは神の力、神の知恵なのです」(1コリント1:22~24)。日本人もそうでしょう、宗教に求めるものは「しるし」―{どれだけお蔭(ご利益)があるか)}―ではないでしょうか。またギリシヤ人に限らず、日本人も宗教に「生きるための知恵―(世に処して行くための知恵)」を求める面があるのではないでしょうか。人々が宗教に求めるものが、しるしであり知恵であると分かっているのに、なぜ「しかし、私たちは十字架につけられたキリストを宣べ伝えるのです」と言うのでしょうか。そして、なぜイエス様は、自ら進んで十字架に架かられたのでしょうか。今日は「なぜ十字架に」というテーマで学びましょう。
 

1:人に罪の現実があるから…1316

13節に「ピラトは…イエスを外へ引き出し、敷石…と呼ばれる場所で、裁判の席に着いた」(13)とあります。「『敷石』と呼ばれる場所」というのは、総督官邸の外庭、あるいは玄関前の「石の舗装道路」のような場所で、ピラトはそこに臨時の裁判所を作ったのかも知れません。
 さて、十字架とは何でしょか。私達は、大きな苦しみや困難のことを「これは私の十字架だ」という言い方をします。聖歌にも「主の賜いし十字架を、担い切れず沈む時、数えてみよ、主の恵み、呟きなどいかであらん」(聖歌604番)という歌詞があります。十字架を担って行く力は、恵みを数えることなのだと思いますが、しかし本来、十字架というのは、私達の罪の象徴なのです。
 裁判の時、ユダヤ人達は「殺せ。殺せ。十字架につけろ」(15新共同訳)と叫びました。イエス様は、人として生きて下さり、人々の悲しみに寄り添い、死んだ人の墓の前に立って「出て来なさい」と言ってよみがえらせて下さった方です。また、その教えによって人々を導き、魂をよみがえらせ、あるいは5000人の給食のような奇跡の業を行い、あるいは癒しを行い、神の恵みを人々に届けて下さった方です。素直に見れば、神がこの方を愛しておられる、特別な方であることが分かったはずです。その方を「殺せ」と叫んでいるのです。しかも14節に「その日は過越の備え日で、時は第六時ごろであった」(14)とあります。祭司達は「過越の祭り」の準備で忙しい時なのです。祭りで皆が食べる犠牲の子羊は、神殿で屠られ、各家庭に配られました。その羊を屠る大事な時間です。しかし、その大事な仕事も放って、イエスを殺すことに熱中しているのです。なぜでしょうか。5章18節は、イエスが安息日に癒しをなさった後の記事です。「このためユダヤ人たちは、ますますイエスを殺そうとするようになった。イエスが安息日を破っておられただけでなく、ご自身を神と等しくして、神を自分の父と呼んでおられたからである」(ヨハネ5:18)。イエス様に対する妬み、怒り、憎しみ、また自分達の教え、立場を守ろうとする自我、それが彼らを支配しているのです。
彼らは極端でした。でも、彼らの姿は、私達には関係がないでしょうか。三浦綾子さんは言います。「人間は生涯の内に様々の罪を犯します。今までも犯して参りました…心の中に人をなじり、侮辱し、驕り、高ぶり、情欲を抱き、人を羨み、妬み、はては人の死を願うことさえあるのではありませんか…自分の罪はこれだけだと、自分の中から取り出せるものではないのです。人間の存在そのものが罪なのです…人間は日々、赦して頂かなければ生きて行けないように、生まれついているものと言えないでしょうか」。私達にも、罪があるのではないでしょうか。人間は知恵や知識を求め、「お蔭」のようなものを求めます。しかしキリスト教は、何より人の中にある罪を問題にするのです。なぜなら、罪こそが人間にとっての一番の問題だからです。罪が私達に色々な重荷を負わせます。人間関係の問題を生みます。妬み、憎しみ、怒り、裁き、それらは、罪から出て、私達の人間関係を破壊し、私達自身を破壊するのです。それだけでなく、罪は、やがては私達を神の裁きの座に引き出します。そして私達を永遠の滅びに至らせるのです。人は、この罪の問題が解決されなければ、罪に縛られて生き、やがては滅びに至る、そういう存在なのです。「世の光」である方が証しをしておられました。「自分は罪人ではないと思っていた。でも職場での問題、家族問題、良く考えたら、そこに自分の罪があった…」。全ての人は罪人なのです。神の基準に達して生きてはいない―(生きられない)―のです。
 しかし人は、この罪をどうすれば良いのでしょうか。罪は、自分ではどうすることも出来ません。どうにもならないものは、赦して頂くしかないのです。と言っても、誰に赦してもらうのでしょうか。もちろん、神様に、です。でも神様も「良いよ、良いよ、どうでも良いよ」とは言えない。神は正しい方です。正しい裁判官は、厳正な裁きをしなければならないのです。罪は裁かれなければならないのです。私達も、無慈悲な犯罪が起これば、正しく裁かれることを願うでしょう。しかし本当に神に裁かれたら、例外なく罪を抱えている私達は滅んでしまいます。だから十字架なのです。17節に「自ら十字架を背負い」(17新共同訳)とあります。聖書は「その罪をイエス様が変わって担って裁かれて下さった、それが十字架だ」と言うのです。
 

2:主イエスが罪人の友だから…1718

 イエス様は、2人の強盗に挟まれるようにして十字架に架かられました。私は、イエス様が罪人の間に立たれたことに深い意味を感じます。イエス様は、裁判から十字架に至る一連の流れの中で、ある時点から何も言われなくなります。人々の罪を指摘することも、自分の無罪を主張することもせずに沈黙されます。なぜでしょうか。それは、イエス様にとってこの裁判は、ピラトによる裁判ではなくて、神様による裁判だったからです。「神が、罪ある人間のその罪を裁く裁判」でした。この時、イエス様が罪人の真ん中に、罪人と同じ所に立たれたように、イエス様が人間の側に立ち、私達の罪を全部背負われた時、神の裁判において、イエス様は無罪ではなかったのです。いや、恐ろしい有罪の罪がイエス様の背中にはあって、だからイエス様は何も言うことが出来なかったのです。だまって罪の罰に服すしかなかったのです。だからイエス様は、釘で打たれようが、骨が裂けようが、血が流れようが、激痛が走ろうが、私達の罪と、そこに下る罰を負い続けて下さっていたのです。その結果は、どうなったでしょうか。
「ルカ福音書」は「イエス様と2人の罪人の会話」を記しています。イエス様の様子をじっと見ていた1人の罪人は言います。「イエスよ、あなたの御国においでになるときには、わたしを思い出して下さい」(ルカ23:42)。イエス様は、「今さら遅い」とは言われませんでした。彼に答えられます。「あなたは、今日、わたしと共にパラダイスにいます」(ルカ23:43)。そういう道が開けたのです。罪人が救われる道が開けたのです。この人は、救いから一番遠いような人です。あるいは「こんな惨めな姿で人生が終わるのか」と絶望していた人です。その人がイエス様の愛と恵みにすがった時、その人に救いがやって来た、人生の逆転がやって来たのです。それが私達にもやって来るのです。神は私達に言われます。「イエスの十字架の故に、わたしはあなたをそのままで―(罪もある、弱さもある、醜さもある、色々な過去もある、そのあなたをそのままで)―受け入れよう。あなたが、ただイエスの十字架を信じたから、わたしの子として受け入れる」。このメッセージが福音なのです。私達は自分の良さで神の前に立たなくても良いのです。イエスは、十字架において私達に「神への道」を開いて下ったのです。神が私達と直接的に関わって下さるようになったのです。
私達は救われます―(救われました)。しかし依然として罪人です。しかしイエスは、罪人の真ん中に立たれたのです。そして罪人を神の国に導かれたのです。イエス様は、今も、罪ある私達の真ん中に在って、罪ある私達と共に生きることを、「罪人の友」となることを喜んで下さる方なのです。十字架は、そのしるしです。だから私達は―(相変わらず、罪はある、問題もある、しかし)―イエス様を通して神が関わって下さるが故に、神が私達に働いて下さるが故に、どんな時でも諦めずに生きることが出来るのです。
 

3:主イエスが本当の王だから…1922

 ピラトは、「罪状書き」を書いて十字架の上に掲げました。そこには「ユダヤ人の王」と、ヘブル語、ラテン語、ギリシヤ語の3か国語で書いてありました。ヘブル語はユダヤの国語、ラテン語はローマ帝国の公用語、ギリシヤ語はローマ世界の共通語でした。つまり、全ての人が読める言葉で書かれたのです。ユダヤ人指導者達は、それは困ります。「ユダヤ人の王」として死なれれば、「ユダヤ人の王」を自分達の手で殺したことになります。彼らは、「彼はユダヤ人の王と自称した、と書いてください」(21)と言いました。しかしピラトは、「罪状書き」についてはユダヤ人の圧力に屈しないのです。「わたしが書いたものは、書いたままにしておけ」(22新共同訳)と頑張るのです。ピラトの意地だったかも知れません。しかし私は、それ以上のものがあったと思うのです。イエス・キリストがユダヤ人、ローマ人、ギリシヤ人の、いや世界中の人々の本当の王だから、この「罪状書き」が掲げられることを、神が支えられたのだと思うのです。
 「キリストが私達の王である」とは、どういうことでしょうか。私達に王がいたとして、王に期待するものは何でしょうか。色々あるでしょうが、その1つは、生きる希望を与えて欲しいということではないでしょうか。
 1989年、カナダのある町で交通事故がありました。荷物を積んだトラックが高速道路を降りた後、道を間違って町の方に走ってしまい、そこでブレーキが壊れ、病院にぶつかって炎上しました。事故の巻き添えをくって亡くなった女性の夫は、牧師に言いました。「なぜ、神は私の妻を取られたのですか。彼女は悪い女性ではなかったのです。私も子供達も、彼女を必要としているんです」。牧師は言いました。「私には、なぜ、こんなことが起こることを、神が許されたのか、分かりません。でも、神は、私達のために独り子を死に渡された方ではないですか。あなたと同じ痛み、悲しみを味わわれた方ではないですか。神を信じましょう」。彼らは、「妻の記念礼拝」を計画しました。夫は、「私達には友人や知人が少ないから」というので、50人くらいのひっそりとした式を考えて準備しました。当日、式の始まる30分前には、500人を越える人々がつめかけました。牧師は、イエス様の言葉「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい」(ヨハネ14:1)を紹介してこう言いました。「私達は、困難に出会うと本能的に神を考えるかも知れない。でも私達が神との本当の生きた交わりをするためには、イエスが誰かということを知らなければならないのです。イエスは神の子だったのに、私達が神と交わりを持つことが出来るように死んで下さったのです。分からないことは多い、でも私達のために死んで下さったこの方に信頼するところに、必ず希望がやって来ることを信じましょう」。皆が「なぜ、こんなことが…」という怒りとも何とも言えないものを持っていました。しかし礼拝に参加した人々は、そこで神の臨在を感じたと言います。心が癒されて行くのを、さらには希望が与えられて行くのを感じたと言います。一番それを感じたのは、他ならぬ夫でした。彼は言いました。「私達の人生が、こんなに多くの人々に影響を与えるとは、信じられません。私は今日、ここで起こったことを妻が知っていてくれることを願っています」。悲しみ、怒り、「なぜ…」という思い、皆の心の中で、それらがいつしか「神への希望」に変えられて行ったのです。後に夫は―(彼は幼児洗礼を受けていましたが)―「今、もう一度、イエス・キリストを主と告白して洗礼を受けたい」と言って洗礼を受けました。
 この事件には、もう1つ、不思議なことがありました。トラックの運転手は、この事故で亡くなりました。彼もクリスチャンでした。不思議なことというのは、トラックが炎上している時、町の何人かの人々は、トラックのキャビンの中で運転手と一緒にもう1人の人が炎に包まれているのを見るのです。その人が神に救いを求めている声を聞いたのです。しかし、後に消防士が運転手の遺体を運び出す時、トラックのキャビンには、運転手の遺体が一体だけしかなかったのです。
 妻を亡くした夫、彼には何の奇跡も起こった訳ではありません。しかし彼は、妻を事故で亡くした失意のどん底で、でも励まされて、神の愛を信じて行こうとしました。イエス様を主として行こうとしました。その時、神は、彼の中に、生きるために必要な希望を与えられたのです。彼も、町の多くの人々も、分からないことはある。しかし、神からやって来る希望の故に平安を与えられたのです。運転手は亡くなりました。彼は助かった訳ではありません。しかし神は、最後の最後まで彼を捨てられなかったし、彼を1人にはされなかったのです。そして、イエス様は、彼の魂を天の御国に運ばれたことでしょう。
 「偉大な王」、「偉大な政治家」と呼ばれる人は沢山いるでしょう。でも、私達のために十字架の苦しみを、死を、引き受けてくれた王がいるでしょうか。生きるにも死ぬにも、私達と共に歩き、私達を魂の深いところで支えて下さる王がいるでしょうか。イエス様は、王の王である方なのに、私達のために死んで下さいました。イエス様の十字架は、私達の救いのため、永遠の命のためですが、それだけでなく、私達が死にさえ、神の臨在、慰めと希望を見出すことが出来るようにするためだったと、私達は教えられます。
 

4:終わりに

 イエス様は、私達のために自ら十字架に架かって下さいました。十字架に架かって下さった王、それが私達の神です。感謝しましょう。
 

 

聖書箇所:ヨハネ福音書19章1~12節

 以前、礼拝で告白していた「使徒信条」の中にこんな言葉があります。「主は聖霊によりてやどり、処女マリヤより生まれ、ポンテオ・ピラトのもとに苦しみを受け、十字架につけられ…」。この「使徒信条」のために、ピラトという人は、おそらく世界でも屈指の悪者になってしまったのです。可愛そうなことです。本人も、さぞ不本意だと思います。彼は本来、優秀な官僚だったと思われます。皇帝から直接任命された第5代ユダヤ総督として、10年間、ユダヤを治めています。そして、聖書を読むと、ピラトはむしろイエス様を何とか助けようと努力したことが分かります。彼は、イエスを釈放したいと思ったのです。しかし、結果的に「十字架につける」という判決を出してしまいます。なぜ、そうなってしまったのでしょうか。何が問題だったのでしょうか。私達は、彼の姿から何を学べば良いのでしょうか。今日は「ピラトの問題」を中心に学びます。
 

1:ピラトは何をしなかったのか~~(神との関係を第一とする)

 ユダヤの指導者達は、ピラトに「イエスを十字架に掛けてくれ」と要求しました。しかしピラトは、「イエスの中には彼らが言うような罪はない」と見ていました。18章38節で、19章4節、6節で、繰り返し「私はこの人に何の罪も認めません」と言っています。しかしユダヤ人達には、要求を取り下げる気配は見られません。それで彼は、3つのことをしました。
 初めにピラトはこの問題を取り扱うことを避けようとしました。そして「過ぎ越の祭りに1人の囚人を釈放する」という習慣を利用してイエス様を釈放して、それで全てを済ませようとしました。18章の最後です。しかしユダヤ人指導者達は「この人ではなくてバラバを」(40)と言ってバラバの釈放を要求しました。次にピラトは、妥協を図ろうとしました。ピラトは、イエスをムチ打ちにするように命じました。ムチにつけてある鉛や動物の骨が背中に食い込んで、背中は、畑の畝のようになったと言われます。さらに兵士達は、イエスをさんざんバカにして惨めな姿にしました。ピラトは、それをユダヤ人達に見せて「こんな惨めな者がローマに対する反逆者であるはずがないだろう。もう勘弁してやったらどうか」と持ちかけました。しかし彼らは「十字架につけろ」と言って聞きませんでした。そこでさらにピラトは「あなた方がこの人を引き取って十字架につけなさい」(6)と言いました。もちろん、ユダヤ人には誰かを十字架につける権力がない、ということを知っていました。知っていて、「自分達の責任で好きにしろ」と、彼らに問題を投げ返したのです。
 3つのことを申し上げました。ピラトはイエス様を逃がすために色々と努力しています。しかし一方で、彼がやらなかったことがあります。彼は総督ですから、決定を下す権力を持っていました。彼が「イエスには罪を見出さない、無罪放免」と言えば言えたし、本来、それで良かったのです。しかしピラトは、この「自分で決定を下す、決断する」という一番肝心なことをせずに、それ以外のことで解決しようとしたのです。ここに彼の問題があり、そして信仰のレッスンがあります。それは何かというと、第一義的なものをそのままにして、第二義的なもので問題の解決を図ろうとしてもダメだということです。
 信仰者にとっての第一義的なこととは何でしょうか。ある牧師のところに大きな問題を持って相談に来られた方がいました。牧師は、話をじっと聞いていました。確かに大きな問題でした。しかし牧師は、話を聞いた後でこう言いました。「良く分かりました。大変ですね。ところで、あなたは、最近、聖書を読み、祈り、神様との個人的な交わりをするためにどれくらいの時間を使っておられますか」。そうしたら、その人がハッとして、次にニヤッと笑って、そして言いました。「そう言えば忘れていましたわ」。信仰者にとっての第一義的な事柄というのは、神様との関係です。皆さんは、問題に圧倒され、神様との交わりを忘れてしまうこと、その気力を無くしてしまうことはないでしょうか。私には、しばしばそういう時があります。問題が大きく、神様が小さく見えるのです。しかし、そういう時、私はダニエルの話を思い出すのです。
 ダニエルは、エルサレムからバビロンに捕囚民として連れて来られました。しかし優秀だったのでしょう、バビロンの宮廷でも重く用いられました。バビロンの高官達は面白くありません。何とかしてダニエルを陥れようとします。彼らは、ダニエルが日に3度、跪いて真の神に祈っていることを知っていたので、王をだまして「これから30日間、王以外にどんな神も人も拝む者は獅子の穴に投げ込まれる」という法令を出させて、ダニエルを窮地に追い込もうとしました。ダニエルはどうしたでしょうか。「ダニエルは、その文書に署名がされたことを知って自分の家に帰った。――彼の屋上の部屋の窓はエルサレムに向かって開いていた――彼は、いつものように、日に3度、跪き、彼の神の前に祈り、感謝していた」(ダニエル6:10)。ダニエルは、淡々として神に祈り、神との関係を第一とする姿勢を崩さなかったのです。そして、結果的に神様に守られて行くのです。
 私達は、目に見えない神に頼る前に、目に見える人に頼るということをしてしまう面があるのではないでしょうか。それも大切です。ある牧師先生は、子供さんの問題で本当に悩んで、力になってもらえそうな人に助けを求めたのです。そしてその人の助けで、子供さんが立ち直って行くのです。牧師は言っておられました。「『助けて下さい』と言った時が、助かった時だった」。だから、人に頼ることも大切です。しかし、同じように大切なのは、神様に頼ることではないでしょうか。「詩篇」にも「私の助けは、どこからくるのだろうか。私の助けは、天地を造られた主から来る」(詩篇121:1~2)とあります。先週もご紹介しましたが、ある牧師がインターネットの動画で切々と訴えておられました。「どうにもならないような時、イエス様が『わたしのところに来なさい』と言っておられます。辛い時、苦しい時は、神様を呼んで下さい。神様があなたのそばに来て、あなたの問題を解決して下さいます」。神に助けを求めること、帰るべきは、そこではないでしょうか。その時、私達は、問題の中で、神様に支えられ、また神様の霊に動かされた助け人が与えられ、そのようにして、神の御手が取り囲んでいることを体験して行くのではないでしょうか。
 

2:ピラトはなぜ決断しなかったのか~(信仰に立つ)

 ピラトは、ユダヤの支配者ですから、自分の信じたところに従って決断すれば良かったのです。自分でも「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか」(10)と言っています。「罪を見出さない」と信じるなら、そうすれば良かったのに、肝心なことをしないのです。なぜ、彼は、毅然として信じるところに従って決断をしなかったのでしょうか。
 実は、彼には決断を下せない理由がありました。彼は、この時までに何度かユダヤ人と衝突していました。詳細は省きます。当時のローマ帝国では、支配されている国民は、総督があまりにひどい場合には、皇帝に直訴することが出来ました。そして皇帝は、「確かにこれはまずい」と判断した場合には、総督を罷免することがありました。ユダヤ人には、そういう切り札があったのです。ピラトは、ユダヤ人の感情を害することを随分して来ています。ここで彼らの訴えを無視して、直訴されるようなことがあれば、自分の立場が危ないのです。彼は、イエスがユダヤ人達の言うような反逆者でないことを知っていました。しかし、真実に立てば政治家としての立場が危うくなります。だから真実に立てなかったのです。真実と現実(保身)の間で揺れている、それがこの時のピラトの姿なのです。
 この真実と現実のバランスの上でオロオロしている姿、実はそれも私達の姿ではないかと思うのです。私達は真実(真理)を知っています。カール・バルトという有名な神学者がいます。ドイツの教会がナチスに協力して行く中で、ナチスに抵抗した人でもあります。戦後、彼がアメリカに講演に呼ばれた時、1人の新聞記者が聞きました。「バルト先生、先生がこれまで発見した最も深い思索(真理)は何ですか」。バルトは、しばく考えてこう答えました。「主、我を愛す、主は強ければ、我、弱くとも、恐れはあらじ、わが主イエス、わが主イエス、わが主イエス、我を愛す」(讃美歌461番)。私達も同じ思いです。私達も「主、我を愛す、主は強ければ、我、弱くとも、恐れはあらじ…」という所に立って、神様に委ねて生きようとしています。しかしもう一方で、信仰に立てない、どこかで現実に目を奪われ、神の愛、神の力を疑っている、そういう面があるのではないでしょうか。信仰の世界と現実の世界の狭間でおろおろしている面があるのではないでしょうか。
 エミー・カーマイケルという人がいます。イギリスの宣教師としてインドで50年間奉仕した人です。彼女が1人のインド人女性の話を紹介しています。その女性は、少女の頃、たった一度だけキリスト教の神様の話を聞きます。その時、彼女は神様を信じるのです。しかし、それ以降、教会とは全く関わることが出来ないまま、ヒンズー教が社会を支配しているようなインドの農村でひとり神を信じて生きるのです。それは、大変なことでした。17歳で結婚しますが、貧困に苦しんだり、夫が正気を失ったり、子供が死んでしまったり、大変な困難を経験します。回りの人々は「あの女が変な神を信じているからだ」と噂します、責めます。彼女の現実は、辛く悲惨でした。しかし、大変なことがある度に、彼女は心の中でこう言うのです。「神様、私はあなたにつまずきません」。
 私達の現実は、私達に神を実感させないことがあるばかりではなく、時には「神がおられるなら私の人生に、なぜこのようなことが起こるのか」と言いたくなることさえあります。しかし私達にとって大切なのは「私はあなたにつまずきません。私を愛していて下さるあなたに信頼します」と言って神の真理に立つ決断をすることではないでしょうか。このインドの女性は、22年間、信仰を持ち続け、22年後にエミー・カーマイケルに再会し、洗礼を受けるのです。そしてやがて病気が癒された夫もクリスチャンになるのです。神の守りの御手を感じます。確かに現実は厳しいです。時に、どうして良いのか分からないようなこともあります。しかしそこで「神様、私はあなたにつまずきません」と告白すること、覚えたいと思います。
 

3:ピラトの一番の問題は何だったのか~~(神の権威の下で生きる)

 ピラトにとって一番の問題は何だったのでしょうか。彼はイエス様に言います。「私にはあなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威があることを、知らないのですか」(10)。しかし、そのピラトにイエス様は言われます。「もしそれが上から与えられているのでなかったら、あなたにはわたしに対して何の権威もありません」(11)。ピラトの権威は皇帝から与えられたものでした。彼は「あなたを釈放する権威があり、また十字架につける権威がある」と言いますが、結局、彼には正しいと思うことをすることは出来ないのです。彼に与えられていた権威は、彼が正しく生きることを励まし、支えるものではなかったのです。結果として「この人を釈放するならあなたはカイザルの味方ではない」(12)の一言で、彼の気持ちは、真実を無視して、自分を守ろうとする方に決まるのです。
 私は、私達が自分の上におられる本当の権威者である神、私達を良く生かして下さる神を知っていることの恵み、また大切さを教えられます。「アルファ・コース」でこんな話を聞きました。ある会社の社長秘書をしている女性がいました。ある時、社長に電話がかかって来ました。社長は「留守だと言ってくれ」と言いました。彼女は言いました。「ご自分でどうぞ。私は、嘘はつきません」。社長は言いました。「これは業務命令だ」。彼女は言いました。「どんな場合でも、私は、嘘はつきません」。その時は、社長はカンカンになって怒りましたが、しかし、それまで以上に彼女を信用するようになった、という話でした。彼女を生かし、支えていたのは、「良く生きるように」と導く神様だったのではないでしょうか。
 学校に勤めていた時、日曜学校の女の子が言ったのです。「私の天国の家は、私が生きている間にしたことを材料にして作られるんだよ。だから、私は、いっぱい良いことをするんだ」。私はその時、思ったのです。「神様を知っているということ、自分の上におられる方を知っているということは、子供にも力を与えるのだ」。
私達が、神様を本当の権威者、「私の主」として、自分の上にしっかり置くところから、私達は、世に在って、神の御心に適う歩みをしていく力が与えられて行くのではないでしょうか。私達の上には、私達を愛し、期待し、見守っておられる神様がおられるのです。私達は、この方を戴いて歩んで行けるという、大きな特権を与えられているのです。
 

終わりに

 神との関係を第一とする、信仰に立つ、神の権威の下で生きる、今朝、3つのことを申し上げました。ピラトの姿は、私達の人間の弱さと苦悩を教えてくれます。その困難を通って行くためには、真の神様を見上げ、導きを求め、神と共に生きて行くことだと思います。信仰の歩みを前へと進めて行きましょう。