2021年5月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:ヨハネ福音書18章33~40節

 随分前になりますが「命のビザ」というドラマを見ました。杉原千畝という外交官を主人公にしたドラマです。杉原千畝氏は、1940年、リトアニアの日本領事館の領事代理だった時に、本国の命令を無視して、助けを求めて来たユダヤ人に大量の日本通過ビザを発行して約6000人のユダヤ人の命を救ったと言われます。ドラマの中に、こんなシーンがありました。逃げ場を失ったユダヤ人達が日本領事館の回りに押し掛けています。今にも中に入ろうかという勢いです。その時、彼はこう言います。「ここは日本領事館です。無断で領事館の敷地に入ることは、不法入国をすることになります」。リトアニアにあっても、日本領事館の敷地内は日本国、日本の飛び地のようなものだと思います。
今朝の聖書箇所は、ローマの総督ピラトによるイエス様への尋問の記事を扱いますが、対話の中でイエスが言われたのは「わたしの国はこの世のものではない」ということです。この「わたしの国(イエスの国)」が、今申し上げた外国にある大使館(領事館)のようなものだと思うのです。
 さて、この時、ユダヤ人指導者達は、イエス様をピラトの許に連れて来て(「ルカ福音書」によると)「この人はわが国民を惑わし、カイザルに税金を納めることを禁じ、自分は王キリストだと言っていることがわかりました」(ルカ23:2)と訴えました。「王」という言葉を使って、「ローマ帝国に反逆する危険分子」として訴えて、裁いてもらおうとしたのです。
 ピラトの仕事は、ユダヤ人に反ローマ的な暴動を起こさせずにユダヤを平穏に治めることでした。ここでも彼は、その観点からイエス様に相対します。彼は「お前がユダヤ人の王なのか」(33・新共同訳)、つまり「反ローマ的な民族運動、政治活動を行ったのか、行うのか」と聞きます。とにかく「イエスが何をしたのか」それが知りたかったのです。それによって、イエスをどう裁けば良いかがはっきりすると考えたのです。
 それに対するイエス様の答えは、「わたしの国はこの世のものではありません」(36)というものでした。これは、ピラトの最初の質問「お前はユダヤ人の王なのか」に答えられたものです。「わたしは王であるけれど、わたしの王国は、ローマに反逆するような、そんな性質の王国ではない、わたしの王国は地上ではなく、天上に起源を持つものだ」ということです。
 尋問はまだ続きますが、今朝は「わたしの国はこの世のものではありません」(36)という言葉―(「わたしの国」、それは「神の国」と言い換えても良いと思いますが)―について学びたいと思います。いつか、どこかで「国を構成する三要素は、『領土』と『法律』と『国民』だ」と聞きました。「領土、法律、国民」の順序で「わたしの国(神の国)」について学びます。
 

1:神の国はどこにあるのか(どのように建てられて行くのか)

 普通、国を建てるという場合、どのようにして建てられるでしょうか。毛沢東は「革命は銃口から生まれる」と言ったそうですが、武力をもって建てられるのがこの世的な考え方ではないでしょうか。そしてピラトが恐れたのも、その意味での王であり、王国でした。しかしイエス様は武力とは無縁です。では、イエス様の言われた「わたしの国(神の国)」は、どこに、どのようにして建てられて行くのでしょうか。
 かつてイエス様は、「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と言われました。「イエスの国(神の国)」は、まず私達の心の中に生まれるのです。私達の心がその領土なのです。では「神の国」は、どうやって私達の心の中に生まれるのでしょうか。「国」という言葉は「支配」という言葉と置き換えることが出来ると言われます。つまり私達の心が神の支配、イエス様の支配に入る時、私達の心に「神の国」が建てられるのです。では、どうやって私達の心が神に支配されるようになるのでしょうか。
 星野富弘という方は、事故で首から下が動かなくなり、絶望の中におられましたが、神を信じるようになる過程でイエス様の御言葉が彼を引きつけるのです。「全て、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ 11:28)の言葉です。彼はこの言葉を自分のこととして受け取ったのです。「イエス・キリストというお方が、私を持ち上げて下さるように感じた」と言っています。神の言葉に、私達の心をつかむ力があるのです。インターネットである牧師が「マタイ11:28」を読んで訴えておられました。「イエス様が『わたしのところに来なさい』と言っておられます。辛い時、苦しい時は、神様を呼んで下さい。神様があなたのそばに来て、あなたの問題を解決して下さいます。神様が助けて下さいます。私もそうやって問題を解決してもらいました。神様を呼んで下さい」。この御言葉だけではない、それぞれの信仰者が、それぞれの御言葉によって神の支配に入って行くのです。
 地上の国は武力で生まれます。でも「神の国」は神の愛の言葉を通して、まず私達の心の中に生まれるのです。「詩篇84編」は歌います。「なんと幸いなことでしょう。その力が、あなたにあり、その心にシオンへの大路のある人は。彼らは涙の谷を過ぎるときも、そこを泉のわく所とします」(詩篇84:5)。私達の心に「神の国」が生まれ、その心に「シオンへの大路(神の都、天国への思い)」が生まれる時、「涙の谷を過ぎるときに、そこが泉のわく所となる」のです。なぜなら、そこは、神の愛と力が現実に及ぶという意味で、天国の飛び地なのです。だから「涙の谷が、祝福の湧き上がる泉に変わる」と言う経験をさえするのです。
 そしてイエスの言われた「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)の「あなた方のただ中に…」は「あなたがたの間に…」とも訳せる言葉です。私達がイエス様を中心として誰かと交わる時、1つ1つの「神の国」という点と点が結ばれて線ができ、面ができ、そのようにして、「神の国」が広がって行くのです。それが教会の御国建設の大きな使命です。 
  

2:神の国の法(性格)はどのようなものか

  イエスが36節で「わたしの国(王国)」という言葉を使われたので、ピラトは「王国」という言葉が気になりました。なぜなら、彼はそれを地上的な意味で取ったからです。先程も言ったように、イエス様は神から遣わされた「王の王キリスト」という意味で王ですから、「あなたが言う通り」(37)と言われましたが、ピラトが誤解しないように、御自身について、さらに御自身の国についてその性格を語られます。イエスは「わたしは、真理のあかしをするために生まれ、このことのために世に来たのです」(37)と言われました。「真理」という言葉は、分かったようで分からない言葉ですが、「新約聖書」に日本語の「真理」が79回使われています。例えば「コロサイ1章5節」に「福音の真理の言葉」(コロサイ1:5)とある通り、それは「福音」と言い換えることが出来ると思います。では「福音」とは何でしょうか。「福音」とは、一言で言えば「罪の赦し」です。では「罪の赦し」とはどういうことでしょうか。「イザヤ書59章2節」に「あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いて下さらないようにしたのだ」(イザヤ59:2)という言葉があります。私達の罪が私達と神の間に仕切りとなっているというのです。だから「罪の赦し」とは、私達がどんな者であっても、私と神とを仕切っていたその仕切を、神の方が取り去って下さり、私達が神に受け入れられるようになる、ということです。藤井圭子という方は尼僧からキリスト教の伝道者になった方ですが、こんなことを言っておられます。「神様に向かって…祈れる世界がここにある!…人間が、本当に神様と交われる世界がある!罪が赦された世界とは、人が神に祈ることを許された世界であり、神が祈りをお聞き下さる世界なのだ!」。この方も、長い間、御主人の看病をしたり、また息子さんを亡くされたり、人間的には大きな悲しみ、苦しみを通られた方ですが、神に赦され、神と交われる世界を喜んでおられるのです。先日、教会に来られた方は「高校生の時から自分の罪が苦しくて、苦しくて仕方がなかった、それが赦され、神様の腕の中に飛び込めた時の喜びは大きかった」と言われました。「神の国」は、神の福音が現実にやって来る国です。そして、神に触れられる国です。
しかし、罪の赦しが実現するため、神の子が十字架に掛からなければならなかったのです。イエスは37節で「このことのために世に来たのです」(37)と言っておられますが、天地を造られた神の独り子が死ぬという、計り知れない犠牲の上に「信じる者は神に受け入れられる」という恵みがあるのです。
 「神の国」は、この神の愛と犠牲によって成っているのです。だから「神の国」の法も「真理」と「愛」で特徴づけられるのです。イエスは言われました。「『心を尽くし、思いを尽くし、知力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』。これがたいせつな第一の戒めです。『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』という第二の戒めも、それと同じようにたいせつです」(マタイ22:37~39)。神を愛するから真理(神に対する真実)に生きるのです。そして愛の内に働く力を信じるから隣人を愛する愛に生きるのです。因みにCSルイスは、キリスト教の愛についてこのように言っています。「(愛とは)自分については生まれつき自然にもっているが、他者に対しては努力して学ばなければならない意志の状態である…自分を愛するとは自分を好きになることを意味しない。自分を愛するとは自分のためを思うことである。同じように隣人に対するキリスト教的愛も好きになるとか愛着を感じるとかいうこととは全く別である…『私は隣人を愛しているだろうか』等と考えている暇があったら、さっさと出て行って愛しているかのように行動してみることである。行動するや否や、私達は大きな発見をする。それは、愛しているかのように振る舞っていると、やがてその人を本当に愛するようになる…今日、あなたの行った小さな愛は、数ヶ月後、考えもしなかったような勝利をあなたにもたらすことになるかも知れない」。神を愛し、隣人を愛す、そのようにして「神の国(イエスの国)」を生きる者でありたいと願います。
 

3:神の国の民とはどのような民か

 37節でイエスは「真理に属する者はみな、わたしの声に聞き従います」(37)と言われました。それは「神の国に属する人は皆、イエス様の言葉に聞き従う、御言葉に生きる」ということです。「神の国」の民とは、神に死んでもらった人達です。神に命を犠牲にしてもらい、神の命を受けた人達です。教会で使う「贖う」という言葉は、「買い戻す」という意味です。誤解を恐れずに言えば、私達は、神様が命を犠牲にして悪魔の手から買い戻して下さった者達です。だから、もう滅びないのです。悪魔も私達を滅ぼすことは出来ないのです。
しかし、ということは、私達は神のためにも、人生を大切に生きなければならないと思います。それは、神が私達に願っておられる、その神の願いに答えるように歩むことではないでしょうか。そして、神の願いに答えるように歩むことは、私達が、私達の本国である天国に帰る準備、天国で豊かに暮らすための自分づくりでもあります。
しかし、そのためには「神の願い」を知らなければなりません。どうやって神の願いを知るのでしょうか。それは御言葉によるのです。2つだけ取り上げると、例えばこういう御言葉があります。「いつも喜んでいなさい。絶えず祈りなさい。すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(1テサロニケ5:16~18)。「主は何をあなたに求めておられるのか。それは、ただ公義を行ない、誠実を愛し、へりくだってあなたの神とともに歩むことではないか」(ミカ6:8)。しかし御言葉は、ただ神の願いを教えるだけではありません。CSルイスは「人間は神を燃料にして生きるように造られている」と言いました。車はガソリンがなければ走らないように、私達も神の言葉が無ければ燃料切れになって信仰者としてよく走れないのです。
1人の方の話を紹介して終わります。この方は中学生の時に網膜剥離で失明をしてしまいました。あるクリスチャンとの出会いを通して「教会に行こう。この後、何のために生きるのか、教えてもらえるかも知れない」と考えて、教会に通い始めます。神様の話を聞きますが、「どうして私の目を見えなくさせたのですか」と、どうしても納得出来ないのです。それでも教会に通い続け、やがて洗礼を受けました。しかし、その後も「神様、どうして私の目は見えないのですか」と悲しみを神にぶつけていたのです。ある日のこと、泣きながら祈っていて、いつの間にか眠っていました。目が覚めた時、聖書の御言葉が心に響いて来ました。「見よ。神の幕屋が人とともにある。神は彼らとともに住み、彼らはその民となる。また、神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」(黙示録21:3~4)。「川の両岸には、いのちの木があって、十二種の実がなり、毎月、実ができた。また、その木の葉は諸国の民をいやした」(黙示録22:2)。「すごい、天国に行ったら、見えるようになるんだ。あの木の葉を食べさせてもらおう…」。やがて彼は牧師になって、学校に呼ばれるようになりました。ある時、子供達にこう話したのです。「この木の葉を食べたら見えるようになる。だから、今見えなくても、ま、いいかと思っているんです」。この言葉に、子供達が感動したそうです。
そのように、御言葉が神の民を導き、支え、生かして行くのです。だからイエス様は、「皆、私の声を聞く、聞き続ける」と言われたのです。神の民は、神の言葉によって生かされて行くのです。

最後に

 初めに杉原千畝氏のことを御紹介しました。彼は、皆がユダヤ人を迫害する社会の中で、1人ユダヤ人を守るために生きました。世に在って、同じ時代に、同じ場所で生きながら、しかし実は、「神の国」を、神の法に従って、神の民として生きたのではないでしょうか。彼もクリスチャンです。私達も世に在って、しかし「神の国」を、神の法に従って、神の民として生きることが出来るし、そう期待されていると思います。やがて私達が天の本国に帰って、主にお会いする時、「よくやった、天国の良い大使だった」と言って頂けるとしたら、何という喜びでしょうか。

聖書箇所:ヨハネ福音書18章28~32節

 先日、インターネットで興味深い話を聞きました。人が1時間、怒りに怒った後、吐いた呼気を集めて、ガラスの瓶に入れて、急速に冷やすと、水滴が出て来ますが、それを蒸発させると、灰色の物質が残るそうです。怒りや、憎しみといった感情のない呼気には、何も残らないそうです。その灰色の物質を水に溶かして、実験用の小動物に注射をしたら、小動物が死んだというのです。怒り、あるいは憎しみの感情は、呼気の中にもそのような有害なものを与えるとしたら、自分の体内で、自らにも悪影響を与えているのではないでしょうか。しかし私達は、何かかにか、怒り、憎しみのような感情を抱えながら生きているのではないでしょうか。今日の箇所に登場するユダヤ人の中にも、その怒り、憎しみの姿を見るのです。
 今日の箇所を理解するために、初めに少しこの箇所の背景をお話します。
 当時、ユダヤ人の国家は、ローマ帝国の支配下に置かれ、エルサレムを中心とするユダヤ・サマリヤ地方は、ローマから送られた総督が治めていました。イエス様の十字架の時はピラトという総督でした。しかし、ローマの総督がユダヤ人社会の宗教から政治から、全てを治めることは出来ません。そこでローマ帝国は、ユダヤ人の大祭司を中心とする「議会」という自治政府を認め、内政については議会に治めさせていました。イエス様を逮捕したのは議会です。イエス逮捕後、議会は、形ばかりの裁判でイエスに死刑を言い渡しました。しかし議会には、死刑を執行する権利がありませんでした。それは、ローマ帝国が握っていたからです。ですから議会は、イエス様を死刑にするためには刑の執行を総督ピラトに依頼しなければならなかったのです。今朝の箇所は、議会の指導者達がイエス様をピラトのもとに連れて行って、「この男を死刑にしてくれ」と頼んでいる場面なのです。
 ユダヤ人指導者の姿は、人間の持っている罪、特に怒り、憎しみについて教えてくれます。私達も、怒りや憎しみに捉えられることがあります。それは本当に苦しいことです。願わくは解放されるべきです。でも難しい。そこにイエス様の十字架があるのです。2つに分けてお話しします。
 

1:怒り、憎しみの問題

 なぜ、議会の人々はイエスを死刑にしようとしたのでしょうか。彼らは、議会のメンバーとして特権を享受していました。彼らにとって一番恐ろしかったのは、騒ぎが起こって、ローマ帝国が彼らから自治権を取り上げることです。彼らは、自分達の立場を守ること、自分達の信仰を民に押し付けることに汲々としていました。だから騒ぎの芽になりそうな者は、皆、邪魔者でした。そんな中でイエス様は、神の愛を語り、人々を慰め、励まし、しかも安息日に病人を癒し、また死人を甦らせ…そのような活動をしておられたので、イエス様の回りには人々が集まっていました。人々の興奮もありました。しかもイエス様は、神を語りながら、神の愛から遠い指導者達を、彼らの信仰の在り方を、激しく非難されました。指導者にとってイエスは、妬みと憎しみの対象だったし、騒ぎを起こして自分達を脅かすかも知れないと邪魔で仕方がなかったのです。本気で潰したかったのです。
 だから、逮捕後の議会の裁判では「イエスは自分を神の子だと言った、涜神罪だ」と、あっさり死刑が決まりました。イエス様が逮捕されたのは夜中でした。しかしユダヤには「生死に関わることは夜に決めてはならない」という法があったので、彼らは、夜が明けるのを待って、夜明けと共に決めたのです。死刑は決めたものの、死刑を執行する権利がありません。それで彼らは、総督ピラトの所に死刑の執行を要請に行きました。ところが、この時期は「過ぎ越しの祭り」の時期でした。祭りの時、ユダヤ人は「過ぎ越しの食事」を取りました。しかし異邦人の住居に入ると、宗教的に汚れて食事が出来ない。そこで彼らは、自分達を聖く保つためにピラトの屋敷に入らなかったのです。ピラトの方が表に出て来ました。しかしローマ帝国は、支配地域の民の信仰の問題には干渉しませんでした。「イエスは神を冒涜しました、涜神罪です」と言っても、ピラトにすれば、ユダヤ人が自分達で裁けば良いことでした。しかしユダヤ人にすれば、自分達で裁けば死刑にすることができません。何が何でもピラトに裁いてもらわなければなりません。だから―(「ルカ福音書」によると)―彼らは「この男はわが民衆を惑わし、皇帝に税を納めることを禁じ、また、自分が王たるメシアだと言っていることが分かりました」(ルカ23:2)と言って、イエスをローマに対する政治的な反逆者に仕立ててしまうのです。
 私達は何を教えられるでしょうか。ユダヤ人の中には2つの姿があります。1つは、正しくあろうとする姿―(宗教的な決りを守って自分を聖く保とうとする姿)―です。裁判をしないで死刑に出来ないので、形だけでも裁判をしました。判決のために、夜明けを待ちました。ピラトの屋敷には入りませんでした。それなりに正しくあろうとしたのです。しかしその一方で、裁判は初めから死刑が決まっていました。ピラトに対する告発は、ウソの告発でした。彼らは、一方で正しくあろう、聖くあろうとしながら、他方では、怒り、憎しみ、イエスを赦せない思いが心の中にあり、それに支配されているのです。彼らは極端です。しかし考えてみると、彼らの姿は、どこか私達の姿を映し出している面があるのではないでしょうか。
 初めの人アダムが、神様から「食べてはいけない」と言われた木の実を食べて罪に踏み出した時、彼はどうなったのか。「あなたが私のそばにおかれたこの女が私に木の実をくれたのです。この女が悪いのです。いや、この女を私のそばにおかれた神様、あなたが悪いのです」と言って「あの女が悪い、神様が悪い」と、いわば他に対する憎しみ、怒りを抱えながら生きるようになったのです。私達も、正しくあろう、真面目に生きよう、愛に生きようとする面がある一方、時に、怒りや憎しみに支配される時があるのではないでしょうか。いかがでしょうか。色々な人間関係の中で傷つけられることがあります。自分に苦しみを与える人がいます。過去のことを思い出しては、腹が立つことがあります。もちろん、いつもいつも、そういう状態でいるわけではないでしょう。また「私には怒りや憎しみは全くない」と仰る方もおられると思います。しかし多くの場合、私達は「愛に生きたい、優しさに生きたい」と願っているのに、怒りや憎しみに捉われることがあるのではないでしょうか。しかし、怒りや憎しみに支配されることは本当に苦しいことです。その束縛の中から救い出し、解放してくれる、私達は、そんな救いを必要としているのではないでしょうか。
 

2:十字架による解放

 しかし、怒りや憎しみの感情は湧き上がって来るものです。自分の力ではどうにもならないという気がするのです。自分の力でどうにもならなければ、外からの力によってそこから引き上げてもらう以外にないのです。では、その力とは何でしょうか。それがイエスの十字架なのです。
32節に「これは、ご自分がどのような死に方をされるかを示して話されたイエスのことばが成就するためであった」(32)とあります。結果としてイエス様は、ローマの処刑方法である十字架に架かることになります。ユダヤ人がユダヤの法で裁けば、たとえ死刑にすることが出来たとしても、それは「石打ち」です。しかし、イエス様はかつてこう言われました。「わたしは地上から上げられるとき、すべての人々を自分のもとに引き寄せる」(ヨハネ12:31)。「私は上げられなければならない、十字架で死ななければならない」と言われました。石打ちと十字架とでは、何が違うでしょうか。申命記に「木にかけられた死体は、神に呪われたもの…である」(申命記21:23) とあります。十字架の死、木に架かって死ぬことは、神に呪われることを意味しました。誰のために呪われて下さったのでしょうか。私達の、いや、私のためです、あなたのためです。イエスを信じる者は、十字架の故に、神に一切を赦され、永遠の命を生きる者になっているのです。「私はイエス様の十字架で赦されて在る」、そのことを本気で信じる時、そこに神の力が働き、私達が解放されていくきっかけがあるのです。
 真珠湾攻撃の爆撃隊長だった淵田美津雄という方がおられます。彼は、戦後、日本軍の戦犯を裁く裁判に証人として呼ばれていましたが、裁判に対して「勝者が敗者に対して行う復讐だ」と言って怒りと憎しみを持っていました。何とか一矢を報いてやろうという思いがあったのでしょうか、その頃、本土に帰って来た、アメリカ軍に捕らわれていた日本人捕虜に、アメリカ軍の日本人捕虜に対する取り扱いぶりを聞いて回りました。ところが、ある捕虜から次のような話を聞きます。彼のいたキャンプにいつの頃からかアメリカ人の若い女性が現れるようになって、日本軍捕虜に親切を尽くしてくれるようになったと言うのです。兵士達が聞きました。「お嬢さん、どうしてそんなに親切にしてくれるのですか」。皆があまりに問い詰めるので、彼女はやがてその理由を話しました、「私の両親が日本軍によって殺されたからです」。「日本軍に殺されたから日本軍に親切にする」というのでは話が逆です。話はこうでした。彼女の両親は宣教師でフィリッピンにいました。日本軍がフィリピンを占領したので難を逃れて山中に隠れました。3年後、アメリカ軍が再上陸して来て日本軍は山中に追いつめられました。そして両親の隠れ家が発見されて、日本軍は両親を「スパイとして斬る」と言いました。両親は「私達はスパイではないが、どうしても斬るというのなら30分の猶予を下さい」といって、30分で聖書(「山上の説教」)を交互に読み、神に祈って、斬られて行きました。その次第はアメリカにいた彼女の許にも伝えられました。両親がなぜ斬られなければならなかったのか、彼女は日本人に対する憎しみ、怒りで胸が張り裂ける思いでした。しかし、しばらくして彼女は、両親が殺される前の30分間に何を祈ったのか、それを思い巡らしたのです。そして、それは日本人を神に執り為す祈りではなかったのか、と思い至るのです。そうすると、自分の憎しみは両親の祈りとは相反するのではないか、という思いになったのです。それでも悶々として過ごしていた時、1つの御言葉に出会いました。「キリストは、私たちのために、ご自分のいのちをお捨てになりました。それによって私たちに愛がわかったのです。ですから私たちは、兄弟のために、いのちを捨てるべきです」(1ヨハネ3:16)。その時、彼女の気持ちは憎しみから愛へ変えられたというのです。自分も日本人に愛を示したいという思いになり、捕虜の世話をするようになったというのです。
 淵田さんはその話を聞いて、心には残りましたが、よく分からなかったのです。そんな時、渋谷の駅前でアメリカ人が配っているキリスト教のパンフレットを読みました。そのパンフレットには、日本軍の捕虜になったアメリカ軍人の手記があり「獄中で虐待されている中で『なぜ人間同士がこうも憎み合わなければならないのか、憎しみを愛に変えるというキリストの教えについて調べたいという欲求にとらわれた』」と書いてありました。それを読んで淵田さんも「聖書を読んでみよう」と思います。そして、あちこち読む中で次の言葉に出会います。「父よ、彼らをお赦し下さい。自分が何をしているのか知らないのです」(ルカ23:34)。キリストが自分を十字架に架けた人々、自分を槍で突き刺そうとしている人のために祈った言葉です。この言葉を読んで、例のお嬢さんの話が甦って来ました。そして淵田さんなりに彼女の両親の祈りに思い至るのです。「神様、いま日本軍の人々が私達の首をはねようとしていますが、どうか、彼らを赦してあげて下さい。この人達が悪いのではありません。地上に憎しみ争いが絶えないで、戦争などが起こるから、このようなこともついてくるのです」。ここに至って淵田さんは、自分の怒り、憎しみの解決、いや、全ての解決がキリストの中にあることを感じ、キリストに向かって歩き始めるのです。
 イエス様は生前も「赦すこと」を説かれました。「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなささい」(マタイ5:44)、「『主よ…何度まで赦すべきでしょうか』…『七度まで、などとはわたしは言いません。七度を七十倍するまでと言います』」(マタイ18:21~22)。しかし御言葉を知っていても、なかなか踏み出せないのが私達の弱さです。しかしイエスは、最後の最後まで、憎しみではない、愛に、赦しに生きて見せて下さったのです。そこに生きるべき道があることを教えて下さったのです。そして、神に逆らっていた私達が、赦されて神の御腕の中に生きることが出来るように、十字架で死んで下さったのです。このイエス様の十字架、十字架の赦しに思いを致す時、きっと、私達の力ではない、神様が不思議なことをなさるのではないでしょうか。神様が、私達の怒り、憎しみを取り扱って下さり、別のものに変えて下さるのではないでしょうか。そこに望みがあります。願わくは、憎しみの生き方ではなく、愛の生き方をする者になりたいと願います。

 

聖書箇所:ヨハネ福音書18章12~27節

15年前、私は「急性鬱症」で入院しました。全てに絶望していました。それまでは「イエス様がね…」と神の恵みを語っていたのです。それが、自分自身が一切の希望を否定している状態です。ベッドの中に逃げ込んでいました。「回復プログラム」の集まりにも出ないものですから、元気の良い看護師さんから「起きろー!」と怒鳴られたこともありました。嫌だったのは、食堂で「仕事は何をやっているのか」と聞かれることでした。「キリスト教会の牧師です」と言えないのです。クリスチャンであることも言いたくない。そんな中で、私は自分を呪いました。「なんでこんなことを始めてしまったのか。お前はバカだ」。そうやって全く神の恵みを否定していた私でした。しかし、そこから助け出して下さったのは、やっぱり神様でした。情けない話ですが、今日の聖書箇所を読んで入院の経験を思い出したことでした。
今日の箇所は、イエス様が「前の大祭司アンナス」に尋問される場面を扱う個所ですが、それ以上に並行して書かれている、ペテロがイエス様を3度否んだ、という内容で印象深い個所です。
「ヨハネ福音書」が書かれた頃、ペテロはすでに殉教していました。しかし彼は、初代教会を代表する指導者、そしてまた偉大な殉教者として、クリスチャン達の尊敬の対象でした。本来ならそのような人物を引きずり降ろすようなことを書くことは、はばかられたのではないかと思うのです。しかし、4つの「福音書」は例外なく、ペテロのこの失敗を書いているのです。「4福音書」の中で最初に書かれたのは「マルコ福音書」ですが、「マルコ福音書」は、「ペテロが語ったことをマルコが書いた福音書」だと言われます。ということは、ペテロ自身が自分の失敗を書き残そうとしたということです。なぜでしょうか。ヤコブは「私達はみな多くの点で失敗をするものです」(ヤコブ3:2)と言っています。私達も多くの点で失敗をするものです。私も失敗の連続です。生きている限り、失敗は避けられないと思うのです。その現実があるから、ペテロは「自分の失敗を通して信仰の兄弟姉妹を励まし、さらに大切なレッスンを伝えたい」と思ったのではないでしょうか。
「内容」と「メッセージ」に分けてお話し致します。
 

1.内容~ペテロの否認

初めに簡単に内容を確認します。イエス様は、ゲッセマネの園で逮捕され、大祭司の屋敷に連れて行かれました。ゲッセマネの園から逃げ出したペテロは、大祭司の屋敷までイエス様の後をこっそりつけて行ったようです。そして、大祭司の屋敷に入り込むのです。ここで気になるのは「もうひとりの弟子は…大祭司の知り合いで、イエスといっしょに大祭司の中庭に入った」(15)という言葉です。なぜ、イエス様の弟子が大祭司の知り合いなのでしょうか。色々な意見があります。もしかしたら、イスカリオテのユダだけでなく、弟子達は事前に大祭司と何か裏取引をしていたのではないか、という学者もいます。そうすると、弟子達の裏切りはより一層深刻です。あるいは、この弟子はガリラヤの漁師で、ガリラヤの魚を塩漬けにして、大消費地エルサレムに持って来て大祭司の家にも納めていたのではないか、という学者もいます。良く分かりません。いずれにしても、もう1人の弟子の手引きで、ペテロも中庭に入ることが出来ました。しかし、門番の女が言うのです。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」(17)。厳密には「あなたはあの人の弟子ではないですよね」という質問です。「違うよ」と答えれば、それで済んでしまうような尋ねられ方をしたのです。その状況の中で「違う」と言ってしまうのです。恐れのためでしょう。外は寒かったのか、しもべ達や役人達は、炭火を起こして、温まっていました。ペテロもそこにいました。一方、イエス様の尋問(裁判)は続いていました。イエス様は、アンナスの前で毅然として相対しておられます。ペテロの方も、いわば小さな尋問を受けるのです。人々は言います。「あなたもあの人の弟子ではないでしょうね」(25)。ペテロは、ここでも否定してしまいます。「そんな者ではない」(25)。そして3回目「あなたは園であの人といっしょにいました」(26)と言われ、否定した時、鶏が鳴くのです。
他の「福音書」によれば、ペテロはそこでイエスの言葉を思い出すのです。最後の晩餐の時、ペテロはイエス様に言ったのです。「あなたのためにはいのちも捨てます」(ヨハネ13:37)。それに対してイエス様は言われました。「鶏が鳴くまでに、あなたは三度わたしを知らないと言います」(ヨハネ13:38)。イエス様の言われた通りでした。そして彼は、自分の現実を見せられ、情けなさ、恥ずかしさ、悲しさ、自責の念、そのようなどうしようもない思いを抱えて泣くのです。しかしそれは、彼が「私はイエス様に従うことが出来る、何があっても従うことが出来る」、そう自信を思っていた、自我が崩れ始める時だったのです。彼の本当の悔い改め、そして、赦されることによって成り立つ、イエス様との新しい関係が始まる時だったのです。
 

2.メッセージ~警告と励まし

この箇所は何を語るのでしょうか。 私は2つのことを教えられます。

1)警告~(主を否定しない)

1つは「主を否定することに対する警告」を語っていると思います。ペテロは、結局イエス様を否定してしまいます。「あなたはイエスの仲間だ」、そう言われて否定するのです。初代教会の人々も「あなたはイエスの仲間だ」、そう言われて迫害されたのです。今の時代に置き換えれば「あなたはキリスト信者だ、あなたが教会に行っているのを知っている」、そう言われることかも知れません。もちろん、そう言って私達を迫害する人はいないかも知れない。しかし、私達はその時、何と返事をするのでしょうか。私達は、状況に支配され易いのではないでしょうか。まして、そこに恐れや利害が絡めば、信仰を表明することが難しいことがあるかも知れません。しかしこの物語は、「人間は、いざとなったら弱いのだ」と語って、私達を慰めようとする物語ではないと思います。その意味で自分に自信を持っていたペテロが反面教師です。「弱い」ということを自覚して、だから本当に神様に頼って、言うべき時には、「私はイエス様を信じています、教会に行っています」と、慎ましくてもしっかりと言えるものを持っておきたいと願います。
しかし、私達はもっと表に出ないところで主を否定しているのではないか、この箇所はそれを問うのです。「マルコ福音書」によれば、ペテロは「のろいをかけて誓い始め」(マルコ14:71)とあります。それは、ペテロが自分を呪った、という意味でもあると思います。どう呪ったの。彼は心の深いところでこう思ったのではないでしょうか。「なぜ、このイエスという男について来てしまったのか。なぜ『私について来なさい』と言われた時に断わらなかったのか。なぜ、この男に途中で見切りをつけなかったのか。お前はバカだ」、そう自分を呪い、あるいはイエス様まで呪ったのではないかと思うのです。それは、「自分の人生は神の祝福の中にはない」と決めることなのです。そういう形で、神様を、イエス様を否定することなのです。しかし、私達もまた、このようなことをしてしまうことがあるのではないでしょうか。「自分は神の祝福の中にいるのだ」ということを受け入れない、認めない、否定する。そうやってイエス様を心の中で否定してしまうことがあるのではないでしょうか。その意味での「否認」の方が、重大なのではないでしょうか。
初めに申し上げたように、私は急性鬱で入院した時、自分を呪いました。「なんでこんなことを始めてしまったのか。お前はバカだ」と心の中で思いました。そして、信仰も、神様のことも、どうでも良くなりました。「自分は神の祝福の中にいる」ということを信じることは、とても出来ませんでした。友人が病室を訪ねてくれて言いました。「神はもうあなたのために業を始めておられるのだよ」。それも、とても信じられませんでした。しかし、彼の言った通りでした。その時も私は御手の中にいたのです。その後も「私は神の恵みと祝福の中にいるのだ」と思えないことが何度もありました。自分の信仰の弱さを思うのですが、そうやって、イエス様を否定してしまうことがあるのです。
しかしこの個所は、そのペテロの様子と並行して、イエス様の様子を記します。イエス様は何をしておられるか。この箇所は、そのペテロのために戦っておられるイエス様を伝えようとしているのではないでしょうか。ペテロは、1人ではなかったのです。イエス様がおられたのです。ペテロの罪のために、弱さのために、戦っておられたのです。そしてその主の恵みは、彼をまた立ち上がらせて行くのです。
私達の毎日の生活には、色々な状況があります。その中で、現実の問題に翻弄されて、「私は神の祝福の中にいる」ということを信じることが出来ない時もあると思うのです。でもこの箇所は、私達に語るのです。「あなたは神の御手の中にいるのだ。イエスがあなたを守っておられる。神の恵みを否定してはならない」。
 

2)慰めと励まし~(主が導いて下さる)

しかしこの箇所は、「イエスを否定してはいけない」と叱咤激励するだけではなく、慰めと励ましも語るのです。ペテロはイエス様の言葉を思い出して泣きました。イエス様はペテロの裏切りを見抜いておられました。ペテロは、恐れと恥ずかしさの中で泣きました。でも「ペテロの物語」は、そこで終わりではなかったのです。その涙を拭って下さる方がおられたのです。イエス様です。
「ルカ福音書」によれば、最後の晩餐の時、イエスはこう言われました。「シモン(ペテロ)、シモン。見なさい。サタンが、あなたがたを麦のようにふるいにかけることを願って聞き届けられました。しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31~32)。この言葉は何を意味するでしょうか。イエスはペテロの裏切りを知っておられた、ペテロ以上にペテロの真の姿を知っておられた、しかしそれを知った上でペテロを赦しておられた、ということです。ペテロの裏切りを赦し、しかも信仰がなくならないように、立ち直ることが出来るように、祈っておられた。ペテロにとって、この言葉がやがてどれほど大きな慰めになっていったことでしょうか。悔い改めを助けたでしょうか。そして、この言葉をサポートするかのように、イエスが甦られた日、墓に行った婦人達に天使は言いました。「驚いてはいけません。あなたがたは、十字架につけられたナザレ人イエスを捜しているのでしょう。あの方はよみがえられました。ここにはおられません…ですから行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます。前に言われたとおり、そこでお会いできます。』とそう言いなさい」(マルコ16:6~7)。ペテロが神の配慮の真中にいるのです。「ルカ24章32~34節」には「すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻ってみると、十一使徒とその仲間が集まって、『ほんとうに主はよみがえって、シモン(ペテロ)にお姿を現わされた』と言っていた」(ルカ24:33~34)とあります。甦られたイエスは、まずペテロを訪ねて下さったのです。このようにしてペテロは、絶望の涙の中から、イエス様の赦しと慰めと励ましの中で立ち上がって行くのです。やがて弟子達は使徒として任命されますが、ペテロがそのリーダーとされて、彼は伝道の生涯を生きて行くのです。この時にも「あなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)、この言葉がどれだけ大きな意味を持ったでしょう。「自分のようなものが…」、彼はそう思ったでしょう。でもイエスは「あなたは(また)兄弟を力づけて行くのだ」と言われたのです。そして彼は、最後は皇帝ネロの迫害の中で殉教して行くのです。バチカンの聖ピエトロ大聖堂は「ペテロが十字架で殉教した、その場所に建てられている」と言われます。ペテロは、証しの生涯を全とうして、見事に天に凱旋して行くのです。
どうして、彼はそういう生涯を生き抜くことが出来たのでしょうか。彼が強かったからでしょうか。そうではありません。彼は、はっきりとイエス様を否定しました、イエス様を捨てました。イエスを信じてついて行った自分を呪い、もしかしたらイエス様を呪いました。でもイエス様が、そのペテロを赦し、包み込み、ペテロの涙を拭い、再び立ち上がらせたのです。涙の中で祈り始めたペテロの祈りに応えて、聖霊の力を覆わせ、その歩みを導いて行かれたのです。ペテロは自分の弱さを知りました。自分の罪を知りました。それだけに「その弱い、罪深い私のために、主は十字架に架かり、私を赦し、導き続けて下さった。私は真実ではなかったけど、主はいつも真実であられた」、そのことを語りたかったのではないでしょか。それを語り、クリスチャン達に「あなたがたとえどんな状態になろうとも、信仰を諦めないこと、希望を捨てないこと、豊かな赦しがあること、私達の主は恵みの神であること」、そのことを言いたかったのではないでしょうか。私達がどんなに弱い者であっても、失敗しても、主が私達の信仰の歩みを導き、私達のために祈っていて下さるのです。
 

終わりに

「あなたがどんな状態でも、あなたは神の赦しと祝福の中にいることを忘れてはならない」。ペテロのメッセージを受け止めたいと思います。

 

聖書箇所:ヨハネ福音書18章1~11節

 「人生は学校で、そこにおいては、幸福よりも、不幸のほうがよい教師だ」という言葉があります。あるいは「私達は、成功を通しては驚くほど学ばない、失敗を通して学んで行く」と言った人もいます。人生においては、順風満帆の生活よりも、山あり、谷あり、失敗もあれば、挫折も味わう、そういうところを通って行く方が、成長、成熟の可能性があるということではないでしょうか。それは信仰においても言えるのではないでしょうか。宗教改革者マルチン・ルターが大学で教えていた時、学生が質問しました。「先生。神を学ぶために最も大切なことは何ですか」。ルターは「それは『苦難』だ」と即答したそうです。皆さんは今、具体的に人生の苦難に直面しておられるでしょうか。もしそうなら、その渦中にある時は、とてもそうは思えなくても、それがやがて私達に「何か」をもたらす、そういうことを覚えたいと思うのです。
 さて「ヨハネ福音書」は18章からイエス様の受難について記します。それは、弟子達にとっても苦難であったと思います。この箇所は「イエス逮捕」の場面を記しますが、単にイエス様が逮捕されたということを伝えるだけでなく、私達が経験する「苦難」についても教えてくれるように思います。「苦難の中で」というテーマで信仰の学びをしたいと思います。
 

1:神は耐えられない苦難は与えられない

イエス様と弟子達は、エルサレム市街地を出て、オリーブ山の麓にあたる「ゲッセマネ」と呼ばれる園に行かれました。イエスはそこで弟子達と良く会合をされたようです。だからイエス様を裏切るイスカリオテ・ユダは、イエス様がそこにおられることを知っていたのです。3節「そこで、ユダは一隊の兵士と、祭司長、パリサイ人たちから送られた役人たちを引き連れて」(3)、園にやって来ました。「一隊の兵士」というのは、恐らくユダヤ人の神殿警備兵だと思いますが、ローマの兵隊だと考える人もいます。ある学者は、「一隊」という言葉から「少なく見積もっても200人位は来たのではないか」と言います。イエス様を逮捕するために、ユダヤ議会はそんなに大量の兵士を送り込んだのです。取り逃がしたりして騒ぎにならないように、一気に押さえ込もうとしたのだと思います。彼らは、手に手に「ともしびとたいまつ」(3)を持っていました。イエスが洞穴や物陰に隠れているから、灯りを照らして探して、捕まえようと思ったからです。
 しかし、イエス様は、隠れるどころか、兵士の前に進み出られて「だれを捜すのか」(4)と聞かれます。彼らが「ナザレ人イエスを」(5)と答えると「それはわたしです」(5)と言われます。そしてもう一度「だれを捜すのか」(7)と聞かれ、兵士が「ナザレ人イエスを」(7)と答える会話が繰り返されます。「彼らはあとずさりし…地に倒れた」(6)。それは、彼らが意表をつかれて驚いたからでしょう。しかもイエス様は「それはわたしです」と言われますが、この言葉は、「旧約」の「出エジプト記」で神様がモーセに現れた時、「わたしはある」(出エジプト3:14)と言われた言葉と同じ言葉です。恐らく最前列にユダヤ人の神殿警備兵がいて、捜さなければ見つからないはずのイエスが、彼らの前に堂々と姿を現して、しかも、神の自己紹介の言葉である「わたしはある」という言葉を語られるのを聞いて、彼らはイエスの姿勢と言葉に圧倒され、思わず後ずさりして、よろめくように倒れたということでしょう。
 しかし、ここで大事な点は、なぜイエス様は「だれを捜しているのか」と2回も言われたのかということです。それは、2回「だれを捜しているのか」と問い、2回「ナザレのイエスだ」と言わせることによって、兵士達に「自分達の目的は、イエスを逮捕することだ、目当てはイエスだ」と確認させたのです。イエス様が確認させたから、弟子達は、いわば共犯者でありながら、逃げることができたのです。ではなぜ、イエス様は弟子達を逃がしたのでしょうか。色々な理由があったと思います。弟子達は、やがて伝道の責任を負わなければならない人達でした。しかし、それだけではなくて、もしここで彼らが逮捕され、裁判に掛けられ…ということになったら、弟子達はその試練を耐えることが出来なかったからではないでしょうか。きっと公の場で、イエス様を否定したでしょう。命が惜しくなって「助けてくれ」と言ったでしょう。「私はイエスに騙されていた」と言って身の安全を図ろうとしたかも知れません。そうするとどうなるでしょうか。彼らは、公の場所で決定的に裏切ることになります。もう二度と立ち上がれない失敗を仕出かしてしまうことになるのです。イエス様は、弟子達がそのような場に立たされることがないように、弟子達をその苦難から逃れさせたのではないでしょうか。彼らが耐えられない苦難に遭わなくても良いようにされたのではないでしょうか。
 私は「1コリント10章13節」の御言葉を思います。「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(1コリント10:13)。この通りのことを、イエスはここでなさっているのです。
私達は、試練がやって来たとき、しばしばその困難さを思ってうなだれます。しかし聖書は「神は真実な方です」と言います。神が真実な方であるなら、神を信じて生きようとしている私達を、裏切るようなことをされるはずがありません。私達に試練が、苦難が、やって来たら、それは、私達がそれに耐えられるから、神はその試練を敢えて許されたと考えることも出来るのではないでしょうか。いや、そう考えたい。そう考えた時、私達の姿勢は変わるのです。
アポロ13号の話を良くします。アポロ13号は、3人の飛行士を乗せて月に向かう途中で大事故を起こして、地球に帰ってくるのも絶望的な状況に置かれたのです。しかし3人の飛行士は無事に帰って来ました。彼らが帰ることが出来た理由は、もちろん、地上のスタッフが、地上から最善の指示を送ったこともありますが、1番のポイントは、3人の行士達が諦めなかったことです。彼らは宇宙船の中で「試練とともに、脱出の道も備えて下さいます」(1コリント10:13)という聖書の言葉を読んで「神が守って下さるから絶対帰れる」と言って決して諦めなかったのです。そうやって彼らは、多くの人々の努力、祈り、神の言葉に支えられて帰ってくるのです。神が脱出させて下さったのです。インターネットで面白い記事を見つけました。県内のある小学校の校長先生は、その当時小学5年生でしたが、担任の先生が教室でテレビをつけたら、ローマ教皇が世界中の人にアポロ13号のための祈りを呼びかけていたというのです。そして彼も良く分からないまま祈ったそうです。そしてアポロ13号は帰って来た。その経験から最近の「校長室便り」に「祈りは聞かれます。明日の遠足のために、晴れになるように祈りましょう」と書いておられました。
いずれにしても、神は耐えられない試練は与えられない、さらには、その試練を通して私達に何か善きものを与えて下さる、そう信じるのです。その時、神は、最後には、私達が必ずそこから逃れることが出来るように、ちゃんと脱出の道を備えて下さるに違いないのです。私達がそこに立つ時、それは、試練の中で私達を支えて行くのではないでしょうか。 
 

2:苦難も神の御手の中にある

 弟子のペテロは、無我夢中でということでしょうか、神殿警備兵の一人に斬り付けます。イエス様を守ろうとしたのかも知れません。しかしイエス様は「剣をさやに収めなさい。父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」(11)と言って、ペテロを諫められます。
 「新約聖書」には4つの福音書があります。それぞれの福音書を書いた人達は、「自分はイエス様のこの部分を特に伝えたい」という、それぞれの思いを前面に出して書いています。だから4つの福音書は、同じ出来事を扱っても、ニュアンスが微妙に違います。この「イエス様逮捕」の出来事にしても、ヨハネには彼の伝えたいイエス様の姿があるわけです。それは何かというと「イエス様の逮捕という場面においても、イエス様が主導権を握っておられた」ということです。つまり「イエス様は、兵士に見つかってしまって、仕方なく捕まって、そして引いて行かれた」ということではないということです。確かにイエス様を捕らえたのは、兵士でした。イエス様は、捕らえられる立場でした。しかし、勢いに圧倒されて地に倒れたのは兵士の方です。立っている者と、倒れた者と、どちらがこの場を支配しているかと言えば、当然、立っている方です。つまりヨハネは、イエス様が逮捕されるこの場面においても、イエス様がここを支配しておられた、ということを伝えたかったのです。神の支配があったのです。
 イエス様が、伝道の初めに故郷のナザレの会堂で説教をされた時、皆が怒ってイエス様を崖から突き落とそうとしたことがありました。しかし、その時イエス様は、皆の真ん中を通り抜けて行かれたのです。イエスご自身が捕まろうとしなければ、兵士が何百人来ようが、イエス様を捕まえることは出来なかったはずです。イエス様が、ご自分で捕まろうとされたのです。では、どうしてそうされたのか。それは「父がわたしに下さった杯を、どうして飲まずにいられよう」(11)、大祭司でもない、議会でもない、神ご自身がこの一切のことを支配しておられると知っておられたからです。
そして、ここでご自分が犠牲になって、弟子達を救われたように、イエス様は、ご自身が犠牲になることによって、私達を永遠の滅びから救おうとされたからです。それが神の計画であることを知っておられたからです。「あなたがわたしに下さった者のうち、ただのひとりをも失いませんでした」(9)という言葉は、私達の救いを象徴しているのです。神が招いて下さった私達は、失われることはないのです。肉体の死を迎えても、失われることはない。それが神のご計画だからです。
 私が教えられる2番目のことは、どのような苦難(試練)がやって来ようが、例え、神が一切関わっておられないように感じるような試練の中にいるとしても、その場でさえも、最終的に支配しておられるのは神様である、イエス様である、ということです。神は言われます。「わたしは決してあなたを離れず、また、あなたを捨てない」(へブル13:5)。「決してあなたを離れず」と言われるのです。これは、神が私達に語られる約束です。
ではなぜ、試練や苦難があるのか。それは分かりません。しかし、繰り返しますが、私達が苦しんでいる、そこは神に見放された場所ではない、そこにも神の御心は流れていて、神の御手は届いているに違いないのです。
「創世記28章」に「信仰の父アブラハムの孫のヤコブが、ベテルという所で夢を見る」話があります。兄のエサウを騙して、また父親をだまして「長男としての祝福」を手に入れたヤコブは、兄エサウの激しい怒りを買って命からがら家を逃げ出します。そして伯父さんの家に向かいます。家も、家族も、安定した生活も、何もかも無くして「体1つ」、これからどうなるのか、そんな「人生のどん底」にいた時、彼はベテルという所で野宿をします。石を枕にして寝るという惨めな状態でした。神の御手等、見えなかった。しかし、そこで彼は夢を見るのです。天と地を結ぶ梯子(階段)があって、そこを神の使いが上り下りしているのです。その時、主がヤコブに現れてこう言われます。「わたしはあなたと共にあり、あなたがどこへ行っても、あなたを守り、あなたをこの地に連れ戻そう。わたしは、あなたに約束したことを成し遂げるまで、決してあなたを捨てない」(創世記28:15)。眠りから覚めたヤコブは言います。「まことに主がこの所におられるのに、私はそれを知らなかった…こここそ神の家にほかならない。ここは天の門だ」(創世記28:16~17)。ヤコブが打ちひしがれて横たわっていた場所、まるで世界のどん底だと思っていたそこが、実は天に触れる門だったのです。「まことに主がこの場所におられるのに、わたしは知らなかった」(28:16)。自分の抱えている惨めな、苦しい状況に、神が関わっていて下さるとは、思えなかったのです。しかし、神は、そこにも臨んでいて下さったのです。そこも、神の支配しておられる場所だったのです。その神の臨在の約束が、この後のヤコブの人生を支えて行くのです。
イエス様は、ある時、弟子になるナタナエルにこう言われました。「まことに、まことに、あなたがたに告げます。天が開けて、神の御使いたちが人の子の上を上り下りするのを、あなたがたはいまに見ます」(ヨハネ1:51)。この言葉を次のように解釈している文章を読んだことがあります。「私に従う時、人生のどん底だと思えるその時,その所に、私を通して、天の梯子が届いているのを、あなた方は経験することになる」。希望の言葉だと思って読んだことでした。
 さらにまた、私達が神の前に遜って、神を求める思いになる、そして、そこで神の業を見せられる、そういうことも、しばしば試練や苦難の中で起こるのではないでしょうか。大事なことは、私達が「そこも神の御手の中である」ということを―(渦中にいる時は難しいですが、しかし)―忘れないことだと思うのです。神は「あなたを見捨てない」と言われます。いつでも、私達の真の導き手、支配者として私達のところにおられるのです。苦難や試練はやって来ます。しかし「私はどんな時にも神の御手の中にいる」という信仰、そこに私達を試練や苦難に耐えさせ、乗り越えさせていく道、いや、神による救いに与る道があるのではないでしょうか。
 

3:終わりに

 今日、2つのことを申し上げました。「神は耐えられない苦難は与えられない」、「苦難も神の御手の中にある」。生きている限り、苦難から全く解放されることはないでしょう。しかし、私達には神がおられます。神様との交わりを新たにしつつ、神様の助けによって苦難を乗り越えさせて頂きましょう。

 

聖書箇所:ヨハネ福音書17章20~26節

 突然ですが、私の父は、私がカナダに行って1年半が過ぎた頃、突然、亡くなりました。父が亡くなるということは、全く予想していませんでしたので、知らせを聞いた時、茫然としました。「頭をハンマーで殴られたような」という言葉を初めて理解しました。日本に帰って来て、冷たくなっている父を見て、父の死の現実が迫って来ました。「世の中にこんなに悲しいことがあったのか」と思いました。葬儀等を済ませてカナダに帰った時、私は教会の礼拝が待ち遠しくてたまらなかったことを覚えています。礼拝に出て「教会の交わりは良いなー」と本当に慰められました。教会とは、慰めの共同体だと思います。世にはない特別の共同体、そういう共同体に属して生活が出来れば、何と幸いなことでしょうか。
 さて、私達は「最後の晩餐」におけるイエス様の祈りを学んで来ました。祈りの中でイエス様は、御自分の働きのために祈られ、次に弟子達のために祈られました。そして最後に「彼ら(弟子達)の言葉によってわたしを信じる人々」(20)、つまり、やがて生まれてくる信者(私達)のために祈られたのです。今日の箇所は、教会、そして信者のための祈りを記す箇所です。ここでイエス様は、何を祈っておられるのでしょうか。逆に言うと私達は、何を祈られているのでしょうか。2つのことを学びます。
 

1:私達は祈られている

 イエス様が何を祈って下さったのか、それを学ぶ前に確認しておきたいことがあります。それは、私達はイエス様に祈られている者である、ということです。私達は今も祈られて在ります。そのことの恵みを思います。
 私は、祈られて在る、祈って頂いているということを心から感謝しています。先日もある方から「先生のことをお祈りしていますよ」と言って頂きました。私達は、お互いの祈りによって、神様の守りと、様々な恵みを頂いていると思うのです。「守られた!」と実感することが、何度もあります。カナダで入院した時のことを良くお話ししますが、私は、なぜ元気になったのか、今でも不思議です。私の置かれた状況は、特に何も変わったわけではないのです。ただ、神様が触れて下さり、希望と平安を与えられたのです。皆さんに祈って頂いていたと思います。そして、イエス様が祈って下さっていたということを改めて思うのです。イエス様は大失敗をするペテロに言われました。「しかし、わたしは、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈りました。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:32)。ペテロは、この祈りによって立ち上がって行くのです。いずれにしても、私達は「私のために祈っている人はいない」と思ってはいけないと思います。教会の仲間が祈っています。誰よりも、イエス様が祈って下さっています。イエス様の祈りによって、私達は守られているのです。私達は、イエス様に祈られて在る者なのです。そのことを、まず確認したいと思います。
 

2:祈りの課題は何か

 では、イエス様の祈りの中心的なテーマは何だったのでしょうか。それは、私達が主と共にいることが出来るように、ということです。そのことについて、2つの祈りをして下さっています。
 

1)地において主と共にいることができるように

 イエス様は21節で「彼らもわたしたちにおるようになるためです」(21)と祈られました。リビングバイブルは「彼らをもわたしたちのうちにおらせてください」(21・LB)と訳します。そして、私達が主と共にいる、その具体的な在り方を祈って下さっています。それは「彼らがみな一つとなるためです」(21)という祈りです。つまり、地に在って私達は、1つとなることによって、神様の不思議な臨在の中に居ることが出来るのです。
「みな一つになる」とはどういうことでしょうか。それは「信仰者が一致する」ということです。これからイエス様が十字架に向かう時に、イエス様を捨てて逃げて行く弟子達です。しかし、その弟子達がやがて立ち上がり、イエス様を宣べ伝え、イエス様を信じる群れ、教会が造られて行くということを、イエスは信じておられたのです。その信頼が、祈りが、弟子達を立ち上がらせて行くのです。そして実際、弟子達の宣教によって教会が形成されて行きます。しかし教会が形成され、成長して行くにつれて、一致を保つことが難しくなって行くことも、イエス様はご存知でした。イエス様が求めておられたのは、組織的なガチガチした、そんな一致ではありません。それは、愛の共同体としての教会の一致です。21節をもう一度見ます。「父よ、あなたがわたしにおられ、わたしがあなたにいるように、彼らがみな一つとなるためです」(21)。イエス様と父なる神様の間にある一体性、一致、愛の交わり、そのような素晴らしい交わりを、そして一致を、教会が造り出せるように、イエス様は祈られたのです。
そのような交わりの中でこそ、私達は癒され、励まされ、力をもらうことが出来るからです。それだけではない。そのような交わりの中でこそ、私達は、神様に触れるような経験を持つことが出来るからです。主と共に居るような恵みを経験出来るからです。私が自分の罪を示され、本当に落ち込んでいた時、私は教会の人達を通して神の赦しを感じて、「赦された者」として生き直す、そんな恵みに与ることが出来ました。教会の中に、そのような愛の交わり、一致があれば、教会で、1人びとりが色々な素晴らしい霊的な経験をすることが出来るのではないでしょうか。
しかし、一教会のことを考えても、そのような素晴らしい一致を造り出すことは難しいのです。私達は互いに違う存在です。考え方も、性格も、生きて来た道も、経験も、みんな違います。その違う私達が、話し合いを重ねて「1つになりましょう」と言っても、限界があるのです。私達は、その意味で弱いのです。だから、イエス様は祈って下さったのです。そして、そのイエス様の祈りによって、教会は、私達の欠けにも拘わらず、ここまで守られて来ているのではないでしょうか。そしてそれは、イエス様の祈りの故に、これからも守られて行くのです。私達は、その交わりの中で、様々な慰めや、励ましや、幸いを経験するのではないでしょうか。
その時、大切なことは、私達が神様を見上げることです。私達がお互いを見ても、一致は難しいのです。だから神様という同じ方向を見ることによって一致を目指すのです。クリスマスにお話ししましたが、第一次大戦の時、イギリス軍の兵士とドイツ軍の兵士が、突然、休戦を経験しました。両方の兵士達が、イエス様のことを考えた時、戦いを止めたのです。一時的なものでしたが、彼らの心が1つになったのです。私達は、神様によって、イエス様によって、一致させられて行くのです。
さてしかし、イエス様は「彼らがみな一つとなるためです」の後で「そのことによって、あなたがわたしを遣わされたことを、世が信じるためなのです」(21)と祈っておられます。つまり一致は「一致した素晴らしい交わりを作ること、信仰者がその素晴らしい交わりを経験すること」と共に、その交わりを通して、イエス様が神様から遣わされて世に来たということを世の人々が信じるためだと言われるのです。
ある人が言いました。「人間にとって分裂することが一致することよりも自然で,共に集まるより飛び散る方が自然だ」。もし人間の自然のあり方が「一つになるのが(一致が)難しい」ということであれば、私達が教会の中で、年齢も、性格も、背景も、その違いも越えて1つになれれば、一致を生み出すことが出来れば、世の人々は、そこに尋常でないもの、人知を越えた神の御手を見て行く、イエスの名の下に集まる人々の中に、神が働いておられるのを見て行くのではないでしょうか。そのようにして、神様の恵みを宣べ伝えることが出来るのではないでしょうか。
 熊本県に「お坊さん夫婦」から「クリスチャン夫婦」になった御夫妻がいます。奥さんがある日、駅前で配られていた特別伝道集会のチラシを見て教会に行きました。話はよく分かりませんでしたが、奥さんの心をとらえて離さなかったものがありました。それは、教会の中にあった何とも言えない和でした。老若男女、様々な人がいるのに、どうしてこれほど仲良くしていられるのか、不思議でした。それは自分の寺の現実とあまりにかけ離れたものでした。教会のこの美しい和と一致に見せられて、奥さんは翌日も教会に出かけ、そうしているうちに信仰を告白するに至りました。お寺の奥さんがキリスト教信者になったのですから、後が大変でした。御主人(お坊さん)は「信仰を捨てるように」と奥さんを責め立てました。しかし、それが繰り返されるうちに、お坊さんは、奥さんの中に本当の信仰があることが少しずつ見えて来ました。やがて御主人も真の神様を知るようになって、二人して寺を出られたのだそうです。
 この方々のことを考える時、教会が一つの群として一致を保つことの大切さ、またその力を教えられます。だからこそイエス様は「一つになるように」と祈られたのです。それが、世に対する大きな証だからです。
 

2)後の世で主と共にいることができるように

イエスは24節でこう祈っておられます。「父よ。お願いします。あなたがわたしに下さったものをわたしのいる所にわたしといっしょにおらせてください。あなたがわたしを世の始まる前から愛しておられたためにわたしに下さったわたしの栄光を、彼らが見るようになるためです」(24)。イエス様が、地に降って来られる前に、天で持っておられた栄光、それを「彼ら(私達)が見る」とはどういうことかというと、それは、私達がやがて天に帰った時、イエス様を、栄光のイエス様として拝するということです。私達が天上でイエス様と一緒にいることが出来るように、とイエス様が祈って下さっているということです。イエス様は「ヨハネ福音書14章1~3節」でこう言っておられます。「あなたがたは心を騒がしてはなりません。神を信じ、またわたしを信じなさい。わたしの父の家には、住まいがたくさんあります。もしなかったら、あなたがたに言っておいたでしょう。あなたがたのために、わたしは場所を備えに行くのです。わたしが行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます。わたしのいる所に、あなたがたをもおらせるためです」(ヨハネ14:1~3)。私達は天で、イエス様と共におらせて頂くことになるのです。ここでイエス様がそう祈って下さっているのです。ある聖書は24節を「父よ。あなたがわたしに与えて下さった者達を、わたしのいるところにいつもおらせるように致します」(24)と訳しているそうです。イエス様がそう言われたのであるなら、なおさら確かなことになります。私達のゴールは、この地上にはありません。私達が信仰者として生きた軌跡、経験した1つ1つの事柄、それらの全ての報い、それらは天で与えられるものなのです。
もちろん申し上げた通り、地に在っても、教会を通して、あるいは個人的にも、私達はイエス様と共に居ることが出来ます。先日、ある先生と電話でお話ししました。話の中でその先生が言われました。「失敗したり、心配したり、悩んだり、色々ありますけど、イエス様がちゃんとして下さいます」。イエス様が、私達を主の許におらせて下さるからだと思います。感謝なことです。しかし、そのような地上の歩みを終えて、天に帰った時、天上でイエス様の素晴らしい栄光を拝するのです。その時、地上で経験した様々なことを思い出しながら、そこにも神の御手があったことを知り、感謝するのではないでしょうか。私達には、地上では考えも及ばないような栄光を見、また栄光に与る時が来るのです。
 

4:終わりに

 今日、イエス様の祈りについて見てきました。イエス様は最後に言われました。「わたしは彼らにあなたの御名を…これからも知らせます。それは、あなたがわたしを愛してくださったその愛が彼らの中にあり、またわたしが彼らの中にいるためです」(26)。これは、イエス様が私達と共に歩き、神の助けを授けて下さるという約束の言葉です。イエス様に祈られている者として、神の助けを経験しながら、信仰の歩みを続けて行きましょう。そして、願わくは、私達も良い交わりを築いて行きましょう。