2021年4月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:ヨハネ福音書17章12~19節

 3年前に「信徒大会」にお出で下さった横山先生がこんなことを言っておられます。「祈りの形をとりながら、面と向かって言えないことを相手に投げつけることがある」。先生が食時の前、お子さん達と一緒に食前の祈りをされました。お子さん達への注文を並べ立てた祈りをされたそうです。最後に「アーメン」と言ったら、お子さん達は「アーア」とため息をつかれたそうです。先生は言っておられます。「その人の立場に立って、真にその人の必要のために祈るには、大きな愛と想像力がいる。そこに祈りの難しさがある」。この場合には、お子さん達に聞かせようとする気持ちが入っておられたかも知れませんが、誰かのことを執り成そうとすれば、聞かせようとしなくても、時には「あの方がこんな様に祝福されますように」という願いが、祈りの中に滲み出ることがあると思います。
お読み頂いた箇所は、続いて「最後の晩餐」におけるイエス様の祈りを記します。イエス様はもうすぐ天に帰られます。そこで地上に残る弟子達のために祈られます。弟子達のことを祈るその祈りの中には「イエス様は、弟子達がどのように祝福されることを願っておられるのか、弟子達がどのように歩いて行けるようにと願っておられるのか」、それが滲み出ているのです。その祈りを、弟子達は身近に聞く特権に与りました。そして私達に伝えてくれました。ですから、その祈りは「信仰者がどのような者であることを、主は願っておられるのか」、それを教えてくれることになります。この箇所から3つのことを学びます。
 

1:神に信頼する

 イエス様は12節で「わたしは彼らといっしょにいたとき、あなたがわたしに下さっている御名の中に彼らを保ち、また守りました」(12)と祈られました。弟子達は、イエス様に従うために、家も家族も安定した生活も捨ててついて来ました。イエス様に従うことが最も価値のある生き方だと思ったのです。しかし福音書は、弟子達が最後までイエス様のことを理解していなかったことを正直に語ります。お互いに足の引っ張り合いをしているような様子でした。しかし不思議なことに、旅から旅への放浪生活、指導者達からは付け狙われて危険がある、しかも枕するところも無いような惨めな3年間の生活で、彼らは脱落することも無く、とにかく最後までイエス様に付いて行くのです。失敗したり、間違ったり、イエス様に落胆されたり、仲違いをしたりしながら、それでも彼らは最後までイエス様に付いて行くのです。なぜ、彼らは脱落しなかったのでしょうか。その答えがここにあります。イエス様が彼らの信仰を守られたのです。彼らは十字架の時、イエス様を裏切ります。惨めな挫折の瞬間でした。でもどうして、全員がもう一度イエス様のところに帰ることが出来たのでしょうか。そして後には、皆が使徒として初代教会をリードするようになるのです。それも、イエス様が守られたからです。彼らの信仰の強さではないのです。
 私達の信仰も同じではないでしょうか。私達は、自分の信仰で信仰生活をしていると思っているかも知れない。でも本当に私達は、自分の信仰だけで信仰生活を送って来られたのでしょうか。私達の信仰はそれほど強いでしょうか。そうではないと思います。私は、自分でも嫌になるくらい不信仰です。とっくの昔に信仰を捨てていても不思議ではありません。でも、なぜ、今でも信仰者でいられるのでしょうか。それは、そんな者の信仰さえ、イエス様が守って来て下さったからです。それを思う時、本当に感謝します。神様の守りの御手に包まれているのだということを感じます。
 さてしかし、ここでイエスが「滅びの子が滅びました」(12)と祈っておられるように、イスカリオテ・ユダだけは脱落しました。なぜ、彼がイエス様を売り渡したのか、それは分かりません。しかしここにヒントがあります。イエス様は「わたしは…あなた(の)…御名の中に彼らを保ち、守りました」(12)と言われました。それは「弟子達が、イエス様の教えた『神がどういう方であるか』という、その神様に信頼して、信頼に答えて下さる神様の守りを経験することが出来るようにした」ということです。つまり、どんなに分かっていなくても、弟子達はイエス様が教えた神様に信頼したのです。ユダは、神に信頼することが出来なかったのだと思います。だから、神に委ねるのではなくて、自分で何とかしようとしたのです。
 イエス様はその伝道生涯の中で繰り返し「神に信頼しなさい」と言われました。「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願する先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」(マタイ6:8)、それがイエス様の教えです。「神に信頼しなさい、そうすれば神が支えて下さる、助けて下さる」、それが聖書全体の教えでもあります。新約聖書には「彼(主)に信頼する者は、失望させられることがない」(ローマ9:33)と言う言葉が3回も出て来ます。神は、私達の信仰さえ守っておられるお方です。その方は、他のことも守られます。神の御手が自分を包んでいることに信頼して、その御手に委ねて行く、私達にもその姿勢が期待されているのではないでしょうか。
 

2:神の愛を土台として生きる

 イエス様は14節で「わたしは彼らにあなたのみことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました。わたしがこの世のものでないように、彼らもこの世のものでないからです」(14)と祈られます。なぜこの世の者でなくなったかというと、それは、イエス様が弟子達に神の言葉を与えられたからです。ここで「あなたのみことば」というは、恐らくイエス様の教えの総体でしょう。つまり「神はあなたを愛し、あなたのために独り子を十字架に架けて、あなたを滅びから救われて天国へ行く者として下さる。その神の愛を受けとったなら、あなたも神を信頼し、神と人を愛する生き方をしなさい」ということです。この言葉を受け取った人は「世の者でなくなる」と言われているのです。「世の者でなくなる」というのは「『世の基準を土台として生きる者』ではなくなり、『神が私を愛して下さっている、その神を信頼して生きて行こうという、神の愛、神への信仰を土台として生きる者』になる」ということです。「生きる土台」という線路が変わるから、同じ所を走っているように見えてもゴールが変わるのです。
 ここでイエス様は、祈られます。「わたしは彼らにあなたのことばを与えました。しかし、世は彼らを憎みました」(14)。世が信仰者を憎むのは、神の愛、神への信仰を土台として生きる人々は、色々な面で世の人々と違って来るからだと思います。ローマ帝国に生きた初代教会は、皇帝を「神」として崇めさせようとする世の流れの中で、神でない皇帝を「神」とすることは出来ませんでした。そのために憎まれました。「違うから疎まれる」、いつの時代にもあることではないでしょうか。だからもう1つ祈られたのは「彼らをこの世から取り去ってくださるようにというのではなく、悪い者から守ってくださるようにお願いします」(15)ということです。  
1番目に「神への信頼」という話をしましたが、キリスト者が神への信頼、神への信仰を土台として生きて行くのは、「この世」です。私達は「この世」に在って、神への信頼、神への信仰を土台として生きるように期待されているのです。しかし様々な困難がある。だから「悪い者から守ってくださるようにお願いします」と祈って下さったのです。
 このことについて示唆を与えてくれるのは、信仰の父アブラハムです。「アブラムはその地を通り、シケムの聖所、モレの樫の木まで来た。当時、その地方にはカナン人が住んでいた。主はアブラムに現れて言われた。『あなたの子孫にこの土地を与える』。アブラムは、彼に現れた主のためにそこに祭壇を築いた。アブラムは、そこからベテルの東の山へ移り、西にベテル、東にアイを望む所に天幕を張って、そこにも主のために祭壇を築き、主の御名を呼んだ。アブラムは更に旅を続け、ネゲブ地方へ移った」(創世記12:7~9)。アブラハムは色々な所へ移動しました。移動した所で生活するためには、生活環境を整えたり、周囲の人々と交渉したり、沢山のことをしなければならなかったのです。何から手をつけて良いか分からないくらいにしなければならないことがある。しかし、アブラハムはまず祭壇を築くのです。まず神に向かったのです。神の愛、恵み、その神への信仰を、生きる土台としたのです。その結果、確かに彼の生活は厳しいものでした。神を知らないカナンの人々と共に生きながら、時には交渉しながら、特には戦いながら、そうやって生きて行ったのです。しかしその厳しさの中で、アブラハムは神の祝福を経験して行くのです。神が守って行かれるのです。
 繰り返しますが、私達は「この世」に在って、神の愛を、その神への信仰を土台として生きて行くのです。そこには、困難があるかも知れません。また「もう少しこうなれば、ああなれば…」ということに満ちているかも知れません。しかし私達は、神の計画によって今の場所、今の状況に置かれています。そこが、私達が神の愛を、神への信仰を土台として生きる場所なのです。イエス様が祈って下さっています。神を信頼し、神への信仰を大切にして生きて行く、その生き方の中で、私達もアブラハムのように神の祝福を経験して行くのです。
 

3:神の業に参与する

  イエス様は17節で「真理によって彼らを聖め別ってください」(17)と祈られます。「聖め別つ」とは、神のために他から取り分けるということです。ですからイエス様は「弟子達を、神の御用のために世から取り分けて下さい」と祈っておられるのです。「神の御用のために取り分けられる」とは、どういうことでしょうか。ここでイエス様は「わたしは、彼らのため、私自身を聖め別ちます」(19)と祈られます。それは「私は、彼らのために、神の御用のため、神のご計画に従い、十字架に架かります」ということです。それが「彼ら自身(弟子達)も真理によって聖め別たれるためです」(19)というのは、「弟子達が『私はイエス様に死んで頂いた者だ、イエス様の十字架によって神の御手の中に入れて頂いた者だ』と感謝しながら、神の御用をする」ということが期待されているということです。
 「神の御用をする」とは、「神の仕事は何だ、何だ」と探し回ることではありません。イエス様は「真理によって神の御用をするようにして下さい」と祈られました。そして「あなたのみことばは真理です」(17)と祈られました。「真理」とは「神の言葉」と置き換えられます。つまり私達は、何か特別なことをするのではなくて、神の言葉を聞いて、信頼して、そこに生きることによって、神の御用をする者とされて行くのです。ある人は「キリスト者とは御言葉に仕える者だ」と言いました。神の言葉を聞いて、信頼して、そこに生きること、そのことが、神の御用をすることなのです。
先日からレーナ・マリアさんの話をしていますが、彼女の代表的な歌に「いちわの雀に」という歌があります「こころくじけて 思い悩み、などてさみしく 空をあおぐ。主イエスこそわが まことの友。いちわのすずめに 目をそそぎたもう、主はわれさえも ささえたもうなり。声たからかに われはうたわん、いちわのすずめさえ 主はまもりたもう」。この歌はシビラ・マーティンという女性が作詞をしたのですが、1905年、彼女はある場所でドゥーリトゥルという名前の夫妻と知り合いになりました。妻は、20年以上寝たきり、夫は足が悪く、車いすの生活をしていました。でもその夫妻が、喜びに溢れ、周りの人々に慰めと励ましを与えていたのだそうです。しばらく共に過ごし、夫妻の様子を見ていたシビラ・マーティンは、ある時、思い切って夫妻に聞いたそうです。どうしてあなた方はそんなに望みに満ちて暮らしているのですか。夫妻から返って来た答えはごくシンプルでした。「一羽の雀にさえ目を注がれる主は、私達にも目を注いで下さっていることを知っているからです」。イエス様は言われました。「五羽の雀は二アサリオンで売っているでしょう。そんな雀の一羽でも、神の御前には忘れられてはいません」(ルカ12:6)。ドゥーリトゥル夫妻は、その言葉を本気で受け取り、そこに生きていたのです。その言葉に衝撃を受けてシビラ・マーティンが書いた詩が「いちわの雀に」という讃美になって、今も歌い継がれているのです。私達も、どんなに貧しい形でも良い、神の言葉を聞いて、信頼して、そこに生きる、そのようにして、神の御用をする者でありたいと願います。
 

4:終わりに

 神に信頼する、神の愛を、神への信仰を土台にして生きる、神の言葉に仕える(生きる)、イエス様は、私達にも期待し、私達のためにも祈っていて下さっています。イエス様の祈りに守られていることを覚えつつ、信仰の歩みを進めて行きたいと思います。

聖書箇所:ヨハネ福音書17章6~11節

 ある子供のメッセージです。先生は、1000円札を取り出して子供達に聞きました。「これは何ですか」。「1000円です」「欲しいですか」。「欲しいです」。「では、これをくちゃくちゃにして、ふんずけて、しわしわになったら、欲しいですか」。「欲しいです」。「どうしてですか。「やっぱり1000円だから」。「そうです。神様は、私達をこのように見ていて下さいます。私達がどんなに傷んでも、ボロボロになっても、神様の目には私達は同じ価値なのです」。私も時々、信仰がボロボロになっているのを感じることがあります。ですから、その話に慰められたのです。私達には、慰めが必要です。そして聖書は、私達に慰めを語るのです。
 イエス様は「告別の説教」の後、長い祈りをされました。それが17章の内容です。本日の箇所は、イエス様が弟子達のために祈られた祈りの一部です。なかなかピンと来ない箇所ですが、イギリスの宗教改革者ジョン・ノックスという人は、亡くなる前の日々、付き添いの人にこの箇所を読んでもらって「何という慰めだろう」と言っていたそうです。この聖書箇所も私達に「信仰生活の慰め」を語ってくれる箇所なのです。「4つの慰め」について学びます。 
 

1:神が私達を求めておられる

 イエス様は6節で「わたしは、あなたが世から取り出してわたしに下さった人々に、あなたの御名を明らかにしました。彼らは、あなたのものであって、あなたは彼らをわたしに下さいました」(6)と祈られました。ここで言われていることは「神ご自身が弟子達を世から取り出してイエスに与えられた」ということです。ということは、弟子だけではない、イエス様に来る者は皆、神が世から取り出してイエスを信じるようにされる(た)ということです。イエス様は、このことを他の言い方で「父のみこころによらないかぎり、だれもわたしのところに来ることはできない」(ヨハネ6:65)と言っておられます。私達が神を信じるということは、私達の方が「神はどこにいるのだ」と神を探して、どうにかして神に出会い、「もう離しませんよ」と必死になってしがみつく、そういうことではないのです。神が、こんな私達を求めて、私達に近づいて下さり、私達の心に働いて、そして私達がイエス様を信じることが出来るようにされるのです。
 鼻が低いのを悩んで死のうとした人の話を聞いたことがあります。昔の話です。その人は、小学校を卒業するとすぐ、上野の飾り職人の家に奉公に入りました。毎日毎日、銀細工を磨くのが彼の仕事です。磨いている銀細工に自分の顔が映りますが、とにかく鼻が低い。同僚が「お前は良いな、雨が降っても雨が鼻に当たらないだろう、ころんでも鼻をすりむくことはないだろう」と囃し立てますが、返す言葉がありません。そこで彼は、生きている気がしなくなって、悩んだ末に死ぬことにしました。死ぬつもりである晩、上野の山の墓地に行って、墓石に腰をおろして「あぁ、これで最後か」と悲しんでいました。すると西郷さんの銅像の方向から「ドーン、ドーン」という太鼓の音と、「ただ信じよ…信じる者は皆救われん」という讃美歌の歌声が聞こえてきました。「死ぬ前に一回くらいキリスト教の話を聞いてみるのも悪くないだろう」、そう思って行ってみると救世軍の説教があったのです。説教に聞き入っているうちに、鼻が低いのを恥ずかしがって悩んだ自分が情けなくなって来ました。「恥ずかしいのは、悲しいのは、俺の鼻が低いことじゃないんだ、心が罪に汚れていることだ」と分かったのです。それから彼は、信仰を持って、新しい歩みを始めたのです。
 なぜ、彼は上野の山に行ったのでしょうか。なぜ、そこで救世軍の説教が行われたのでしょうか。なぜ、死ぬ前に説教を聞いて見ようと思ったのでしょうか。なぜ、あんなに悩んでいたのに「鼻が低いことなんか大したことじゃないんだ」と思えたのでしょうか。神様の方が彼に近づいて、彼の心に触れられたのではないでしょうか。
 私達の信仰は、神様が先に動いて始まるのです。神様の方が私達1人びとりを「私の所に来なさい」と求めておられるのです。神様の方が私達を求めて始まる信仰だから、私達がどんな状態になったとして、神様が最後まで責任を持って下さるのです。これがキリスト者の慰めです。
 

2:私達の神は憐れみの神である

 6節でイエス様は「わたしは…あなたの御名を明らかにしました」と祈られました。「聖書」で「御名」というのは、その人がどういう人であるか、その人の全てを表す言葉として使われます。「あなたの御名を明らかにした」と言われたとき、「私はあなたがどのような方であるか、それを明らかにしました」という意味です。「旧約」の人々は「主の御名をみだりに唱えてはならない」(出エジプト20:7)という決まりを守って、神の名前を口にしませんでした。しかし、名前を口にしないだけでなくて、いつの間にか「神がどのようなお方なのか」分からなくなってしまったのです。
「福音書」に、イエス様のところにツァラートという病気の人がやって来る記事があります。当時の決まりでは、ツァラートにかかった人は、街の中に入ってはいけないことになっていました。宗教家は、そういう人を見つけたら、石を投げて追っ払って「私は汚れた者に触れて身を汚すことはなかった」と自慢したのです。ツァラートの人々とって、宗教とは何だったでしょうか。神とはどんな方だったのでしょうか。
 しかしその人々も、それでも神様の中に一縷の希望を見ていたと思います。1人のツァラートの人がイエス様のところにやって来ました。イエス様の噂を聞いていたのでしょう。そして恐らく彼は、イエス様の中に神的なものを見ていました。彼は、人の中に入れば石を投げつけられて追っ払われるということを知っていました。どれほど悔しい思いをするか知っていました。でも彼は、イエス様を通して「神は自分をどう思っておられるのか、自分をどう取り扱われるのか」、それを知りたかったのです。彼はイエス様の前にひれ伏して言います。「お願いでございますっ!どうぞ私の体を、体をもとどおりにしてください」(ルカ5:12・リビング・バイブル)。イエス様は、言葉だけで人を癒すことが出来た方です。でもイエス様は、彼に手を延ばして、しっかりさわって、そして癒されたのです。彼にはそれまで神が分からなかった。しかし今、イエス様を通して、神がどのような方であるか分かったのです。神は、彼の心の痛みを知っておられ、その傷に触れて、そこに優しい、しかし力強い御手を延ばして下さる方だったのです。
 イエス様は、生涯を通して「神はあなたを愛して、あなたを心配しておられる」というメッセージを語られたのです。そして人々を癒し、罪の赦しを宣言し、苦しみから解放して行かれました。イエス様は、また何度も「私は神のところから来た、私と神とは一つです」と言われました。つまり「私が教える神が本当の神の姿なんだ」と言われたのです。
信仰者の慰め、それは、私達の信じている神は何だか分けの分からない神ではない、私達の信じている神は、イエスが教えて下さった憐れみの神であるということです。神は、私達の心の奥深くにある傷まで知っておられ、私達の労苦を知っておられ、私達を慰め、励まし、支え、導こうとされる方なのです。
以前、水曜集会で「岩渕まこと・由美子コンサート」を鑑賞したことがあります。ご夫妻は、6歳のお嬢さんを脳腫瘍で天に送られます。由美子さんは「もう少し私が気遣ってあげれば良かったのに、あの時、ああして上げれば良かったのに」と自分を責め続けたのです。自分を責めるのは、本当に苦しいことです。しかし、その彼女に、神が語られたのです。「もう自分を責めるのは止めなさい。あなたが自分を責めているあの出来事の中にも、私は介在していました。あなたが全部を1人でやったのではない」。1人の姉妹の霊的な体験ですが、何という慰めの導きでしょうか。だからこそ私達は、その神に信頼し、その神に祈り求めることができるのです。
 

3:神は私達を蔑まれない

  イエス様は弟子達についてこう祈られました。「私は彼らによって栄光を受けました」(10)。これは、この時点でも、弟子達がイエス様の影響を受けて、イエス様の素晴らしさの幾分かでも映し出す存在になっていた、ということもあるかも知れませんが、彼らはこの直後、イエス様が逮捕されると逃げて行く人達です。イエス様はそれを知っておられました。それにもかかわらず「私は彼らによって栄光を受けました」とはどういう意味でしょうか。
 彼らは、十字架に直面して「どれほど自分達が弱く情けない者であったか」いうことを嫌というほど思い知らされ、崩れてしまいます。しかし、その彼らが再び立ち上がって、イエス様のために働くようになるということを、イエス様は知っておられたのです。いや、そのために「彼らを保ってください(守ってください)」(11)と祈られたのです。そして彼らは、神の愛と赦しを本気で受け取って本当に立ち上がって行くのです。イエス様のことを、地中海世界に出て行って、命がけで伝え始めるのです。
 「キリスト者の慰め」、それは、私達がどんなに惨めな状況に落ちても、私達が自分の弱さ、足りなさの故に失敗をしたり、また、色々な状況の中で倒れそうになっても、いや実際に倒れるような経験をしても、神は、その私達をもう一度立たせて、歩ませて下さるということです。私達は失敗をします。私も自分を情けなく思うことが多いです。しかし、椎名麟三という作家が「公園の裏」という短編を書いています。生活に打ちひしがれた女性がいます。彼女は今の不安な生活から自分を解放してくれるものは、死だけだと考えています。恋人と池のボートに乗っている時、ボートが転覆して、彼女は池に落ちて、「死ぬんだ」と思うのです。その彼女のところに恋人が歩いてやって来て言うのです。「立てば立てると言っているのに、どうして分からないんだ」。
私達が、絶望せずに、神の赦しと助けを本気で信じて立ち上がろうとすれば、私達も「立てば、立てる」、何回でもやり直すことが出来るのです。イエス様が祈って下さっています。神の助けは、私達の足下にいつもあるのです。神は、私達が失敗しないことを、倒れないことを「私の栄光」とは言われないです。失敗した時、倒れた時、神を信頼して立ち上がって行くことを「私の栄光」と言われるのです。
 

4:神の御名が私達を守る

 イエス様は11節で「わたしはもう世にいなくなります…聖なる父。あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保ってください(守ってください)」(11)と祈られました。弟子達は、3年間、イエス様と一緒に行動しました。言葉を換えれば、イエス様を通して神様に繋がることが出来たのです。イエス様を通して神の守りを経験することが出来たのです。しかしイエス様は天に帰られます。彼らは地上に残ります。物理的にはイエス様を通して神様と繋がることが出来なくなるのです。そこでイエス様は、神御自身が弟子達を守って下さるように祈られます。しかしここで不思議なのは、「神様、あなたが彼らを守って下さい」ではなくて「あなたがわたしに下さっているあなたの御名の中に、彼らを保って(守って)ください」(11)と祈っておられることです。どういうことでしょうか。「御名」というのは、「神がどういう方であるか」という神様の性質を表す、と申し上げました。ということは、この言葉を分かり易く言い換えると「弟子達が、私が示した『神がどういう方であるか』、その神様に信頼して、そして、その信頼に答えて下さる神様の守りを経験することが出来るように」という祈りなのです。
 私の友人に、Kさんという人がいます。神学校で私にいつも「ここでまで導いて下さった神様はこれからも導いて下さいますよ」と言って励ましてくれた人です。彼にもう一つの口癖がありました。それは「これはもう神様の御手の中にあることですから」と言う言葉です。彼は、「インドに行ってインドの貧しい子供達に仕えたい」と言う願いを持っていました。ところが、いつも問題が山積みでした。でも彼は、問題にぶつかる度に「これはもう神様の御手の中にあることですから」と言って投げ出さないのです。神の守りと導きを信じ切っているのです。でも、ついに道が開かれて、彼はインドに行きました。1度、彼のニュースレターを受け取りました。そのレターの中に何度も何度も書いてある文字は「守られています、神はこんな者達を守って下さっています」という言葉でした。私は、神に信頼する生き方の強さを教えられる気がします。
信仰は「神が守ってくれたら信頼しよう」ではなくて、「神は私を守られるに違いない」と信頼して行くときに神の業を経験するのだと思います。それを、彼を通して教えられるのです。キリスト者の慰め、それは「神は私達の信頼―(それは小さな信頼かも知れない、しかしその小さな信頼)―を喜ばれ、私達の信頼に応えて下さる神である」ということです。だから、神への信頼こそ、私達が捧げる最大の捧げものではないかと、私は思います。
 
終わりに
「『神の民である』ということは『目に見えない神に頼って生きる』という不安定を選ぶことだ」と言った人がいます。しかし、その不安定の中で、私達は信仰の慰めを見出すのです。神の慰めに支えられて、新しい週も新しい歩みを進めて行きましょう。

聖書箇所:ヨハネ福音書17章1~5節

 しばらく前、近所にお住いの方から「母の葬儀をして頂けないでしょうか」とご依頼があり、司式をさせて頂きました。亡くなられたお母様(Kさん)は、クリスチャンではありませんでしたが、数年前に召天されたKさんのお母様が熱心なクリスチャンで、Kさんのために祈りを積み上げておられたようです。またKさんご自身が、キリスト教式の葬儀を望んでおられたということも伺いました。また、これは告別式の参列者の方から伺ったことですが、Kさんは、一時期、教会に通っておられたようです。いずれにしても私は、Kさんと神様との繋がりを知り、感じ、イエス様の憐れみにすがって、「永遠の命」、「天の御国」について、その希望をお話しすることが出来ました。ご遺族の方々も、目を天に向けて下さったご様子でした。死は悲しいです、地上の別れは辛いです。しかし、その中にあって、「永遠の命」という希望をお話し出来ることの幸いを思いました。イエス様の十字架と復活を感謝しましたし、1人でも多くの方に「永遠の命」をご自分のものにして頂きたいと、改めて思ったことでした。
 さて、少し「ヨハネ福音書」を休みましたが、また17章から学びます。イエス様は、告別の説教で、目の前に迫った十字架に弟子達の心を備えようとされました。そして、教えることを教えた後、「祈り」をされました。それが17章の内容です。その「祈り」は3つに分けることができます。「1~5節が御自分のための祈り」、「6~19節が弟子達のための祈り」、「20~27節が全てのキリスト者のための祈り」です。今朝の箇所は、御自身のために祈っておられる箇所です。しかし御自身のために祈るということは、御自身の使命について祈るということですから、私達の救いについての祈りだと言えます。そのポイントは一言で言うと「永遠の命」です。「永遠の命」とはどういうものなのか 、イエス様の祈りを通して学びます。
 

1:「永遠の命」とは神とイエスを知ること

 イエス様は1節で「時が来ました。あなたの子があなたの栄光を現すために、子の栄光を現してください」(1)と祈られました。「ヨハネ福音書」において「栄光」というのは、「卑しい奉仕」を指します。そして「時が来ました」と言っておられますから、イエス様は十字架のことを祈っておられることが分かります。さらに2節で「それは子が、あなたからいただいたすべての者に、永遠のいのちをあたえるため、あなたは、すべての人を支配する権威を子にお与えになったからです」(2)と祈られます。「すべての人を支配する権威」というと、厳めしい感じがしますが、要するに「すべての人の救いがイエス様に懸かっている」ということです。ですから、イエス様は、祈りの初めに「全ての人の救いが私に懸かっているから、私に十字架の業をさせて下さい」と祈られたのです。つまり、「永遠の命」は、神様が計画され、イエス様が為し遂げて下さった十字架のゆえに、ただもらうものなのです。私達の方には何もない。信仰とは、「永遠の命」をただ「ありがとうございます」と言って受け取る手なのです。
 しかし、その「永遠の命」を、私達はどのように理解すれば、あるいは受け取れば、良いのでしょうか。私達は「永遠の命」を「死んでも天国に行って永遠に生きること」と理解していると思います。それで良いと思います。しかし、ここでイエス様は、「天国に行って永遠に生きる」ということとは少し違うことを言われます。イエス様は「私に来る全ての人に永遠の命を与えるために十字架に掛かります」と祈られた後で「永遠のいのちとは、彼らが唯一のまことの神であるあなたと、あなたの遣わされたイエス・キリストを知ることです」(4)と言われます。「『神と…イエス・キリストを知ること』が、そのまま永遠の命だ」と言われたのです。
 以前、あるバイブル・スタディーの席上、「永遠の命」の話になった時に、1人の方が「永遠の命ですか。疲れそうですね」と言われました。「永遠の命」が、ただ永遠に生きることだとすれば、もっともな意見かも知れません。しかしこの「永遠」という言葉は、単に「いつまでも続く」ということではなく、「質的な完全さ」という意味を含む言葉です。つまり「永遠の」というのは「完全な」という意味になります。「完全な」という言葉が本当に当てはまるのは神以外にはありません。ですから「永遠の命を与える」という言葉は、「神の命を与える」と言い換えることができます。私達の立場から言うと「神の命を経験出来る」、「神との関係に生かされて生きて行ける」ということです。だからそれは、死んでからではない、今、ここから始まる「命」です。そして、私達が一旦、神との関係に入れば、たとえ死でさえも、それを壊すことはできない、死の壁を越えて神との関係、神の守りが続いて行くのです。いずれにしても「永遠の命」とは、今、ここで「私は永遠の命を持っている」と叫ぶことが出来るようなものなのです。
「そのためには、神様を、イエス様を知ることだ」とイエス様は言われます。では、神様を、イエス様を、どのように知ることが大切なのでしょうか。それはイエス様の祈りのように、神様は、私達を救い、生かすために、さらには永遠に生かすために、イエス様を地に遣わし、十字架に架けて下さった、イエス様は、私のために、私の一切の罪を背負って十字架に架かって下さった、ということを知り、その神様とイエス様の愛を信じることです。
 田原米子という方がおられます。彼女は高校3年の時に、愛する母親を亡くして、全てが空しくなり、電車に身を投げたのです。命だけは取り留めました。しかし両足と片手を失い、右手も3本の指しか残りませんでした。意識が戻って、それを知った彼女の唯一の希望は、痛み止めの睡眠薬を致死量まで溜め込むことでした。そんなある日、アメリカ人宣教師と日本人の青年がやって来ました。彼らは病室を何度も訪れて、讃美歌を歌い、聖書の御言葉を読んで彼女を励ましました。彼女は2人を拒否していましたが、ある日、2人が置いていったカセツトテープを聞いたのです。「神様は、あなたにどんな欠点や弱い面があっても、そのままの姿で愛しているのです。そして、あなたを生かしたい、助けたい、幸せになってほしいと思われて、独り子イエス・キリストをお遣わしになったのです。キリストは、神様に背を向けていた私たちの罪の身代わりとなって、十字架の上で死んで下さいました。それほどまでに私たちを愛して下さっているのです」。彼女の心に、この言葉は響きました。「私を愛してくれている方がいる。キリストなら私の苦しみを分かって下さるかも知れない…キリストは、信じる者に新しい命を与えると言っている…キリストが神かどうかは分からないけれど、この人たちの言うことに賭けてみよう」。彼女は、そう決心をしたのです。その時のことをこう振り返っています。「その晩は睡眠薬も飲まずにぐっすり眠ることが出来ました。本当に不思議でした。翌朝、見慣れていた周りの風景が輝いて見えました。右の手を見ると、指が3本しかないと思って絶望していたのに、3本も残っていることに気づきました…枕元にあった聖書をめくると、次の言葉が目に飛び込んできました。『だれでもキリストのうちにあるなら、その人は新しく造られた者です。古いものは過ぎ去って、見よ、すべてが新しくなりました』(Ⅱコリント5:17)。確かに私は『新しく造られた者』だ、同じものを見ても違って見える…何故、昨日までの私とこんなにも違うのだろう。そうか、昨日、私は神様に『助けて下さい』と祈ったんだ」。やがてクリスチャンとなった彼女は、小学校、中学校、高校に招かれて「生きるって素晴らしい」という話をするようになりました。そして2005年、67歳で天の御国に凱旋されました。彼女は、十字架を通して愛の神様を、イエス様を知り、信じたのです。そして「神の命」、「永遠の命」をもらったのです。闇の中で神の愛に引き上げられました。世に在っては、「神の命」、「永遠の命」の中に生かされ、そして神様との関係に守られて天の御国に帰って行かれたのです。十字架を通して、私達を死ぬほど愛して下さった神様を、イエス様を知り、その愛と救いを信じることで、誰でも「神の命」、「永遠の命」に与れるのです。
 私は、このメッセージの準備のために読んだ1冊の本を通して、1つの気づきを与えられました。5節の「世界が存在する前に、ごいっしょにいて持っていましたあの栄光」(5)という言葉から、著者は「イエスが世界の存在する前からおられたのだから、『旧約』の全ての言葉の背後にはイエスがおられる」と言うのです。そして「旧約聖書」の「哀歌」を引用していました。「主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに…主は、いつまでも見放してはおられない。たとい悩みを受けても、主は、その豊かな恵みによって、あわれんでくださる。主は人の子らを、ただ苦しめ悩まそうとは、思っておられない」(哀歌3:25,31~33)。繰り返しますが、この愛の神様、愛のイエス様を知ること、そして何より、私達を救い、生かすために、十字架の救いの御業を為して下さった神様、イエス様を知ること、信じること、それによって私達は、「神の命」、「永遠の命」を、今、ここから持つのです。
 

2:「永遠の命」に生かされるために神とイエスを深く知ること

 イエスは4節で「あなたがわたしに行なわせるためにお与えになったわざを…成し遂げて…あなたの栄光を現しました」(4)と祈られましたが、実際、イエスが為さったことは、どういうことだったでしょうか。「ある一人の人の生涯」という詩があります。「彼は…普通の人が偉大だと考えることは何一つしなかった…世間が彼を攻撃しはじめた時…友人たちも彼を見捨てた…かたちだけの裁判でなぶり物にされた。2人の泥棒に挟まれ、その真ん中に釘で十字架に打ち付けられた…彼が死んだとき、死骸は知人の同情で他人の墓に葬られた」。イエスのご生涯は、「栄光」とは無関係なように見えます。どこに「神の栄光」が現れたのでしょうか。しかし「福音書」から浮かび上がって来ることは、イエスは神に忠実に生きられ、最後は神に忠実であろうとして十字架にまで架かられた、ということです。ある学者は言いました。「イエスは神の御心に従うことを生涯の目的としておられた」。つまりイエス様は、神に忠実に生きたことをもって、そして何よりも、神に忠実であろうとして十字架に架かられたことをもって「神の栄光を現した」と言われたのではないでしょうか。もちろん、十字架は神の愛の現れの頂点です。イエスは十字架で、神が私達を愛しておられる、その愛を表し尽くして下さいました。やがて、十字架の栄光を認める人々が出て来て、教会が生まれます。しかし、その十字架も、神に忠実であろうとされた生き方の結果だったのです。イエス様も世に在って、人が経験するあらゆることを、苦難を、経験されたのです。「荒野の誘惑」のような信仰の戦いも経験されたでしょう。しかし、その中でも、神に忠実に生きられたのです。それがイエス様と神様との交わりを祝福したのです。
 何を教えられるでしょうか。「永遠の命」とは「神様とイエス様を知ることだ」と申し上げました。しかし聖書で「知る」と言う時、それは単に知識として知ることを言うのではありません。もっと深い知り方、それは神様を、イエス様を本気で信頼して生きて、そこから体得するような知り方です。その意味で、イエス様のお姿に、私達は教えられるのです。
 先日、私は、インターネットであるキリスト教番組を見ました。説教者は「ローマ人への手紙8章28節」を取り上げました。「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。そして「この『すべて』には、あなたの失敗も含まれています」と言いました。「アルファコース」でも聞いた言葉です。失敗さえも、神は益にして下さる。力強い、慰めのメッセージです。そうやって神の不思議を経験することも、「神の命」、「永遠の命」に生かされる恵みです。しかし説教者は続けて「だから、困難の中でも神様を忠実に信じて下さい。そうすれば、神は失敗さえも益に変えて、祝福に変えて下さいます」と言いました。私は、私達にとっての「忠実」の意味を改めて教えられた気がしました。「忠実」とはどういうことか。それは、神の真実―(神は最善を為して下さるということ)―を信じることが難しいような状況の中で、それでも神が真実なお方であることを信じること、なお神様に信頼すること、それが「忠実」ということなのだと思いました。そして、そのようにして私達は、神様を、イエス様を、深く知って行くのではないでしょうか。イエス様がそうであられたように、それが私達と神様との関係を祝福するのではないでしょうか。ある牧師が話しておられました。その方の友人は、大きな試練の中を「1コリント書」の言葉―{「あなたがたの会った試練はみな人の知らないものではありません。神は真実な方ですから、あなたがたを、耐えられないほどの試練に会わせることはなさいません。むしろ、耐えられるように、試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(1コリント10:13)}―を握りしめて通って、神を経験して「神は本当に試練の中で支えて下さる方だった、神は真実な方だった」と、牧師に言われたそうです。その方はその後、「神は生きておられる」という確信に支えられて行ったことでしょう。
 いずれにしても、そのように神様を、イエス様を深く知ることによって、私達も「神の命」、「永遠の命」の中を豊かに生かされて行くのではないでしょうか。そして、やがて「神の命」、「永遠の命」に導かれて、神様との関係に守られて、天の御国に帰って行くのです。そこで祝福に包まれて、永遠に生きるのです。

聖書箇所:ルカ福音書24章13~35節

皆さん、イースター、おめでとうございます。主のご復活を感謝します。
さて又吉直樹というお笑い芸人の方がおられますが、今は芥川賞作家としての方が有名です。実は彼の親御さんはクリスチャンで、彼も子供の頃、教会学校に通っていたそうです。その彼が、3年前の近畿大学の卒業式のゲストスピーカーに呼ばれ、20分程のスピーチをしています。最近、それを聞きました。最後の部分で次のようなことを言っておられました。「辛いこと、しんどいことが続く時は、これは次に良いことが起こる予兆だと考えるようにしている。水も喉が渇いている時に飲んだ方が美味しいように、しんどいことがあったら、必ず楽しさが倍増するようなことがあるんだって信じるようにしている。『バッドエンド(悪い終わり)はない。僕達は途中だ』というのが実感です。しんどい夜の先に、続きがある、そのことを思って頂きたいと思います」。親御さんの信仰の影響だと思うのですが、「悪い終わりはない、しんどい夜の先に、続きがある」、それは「主の復活」のメッセージに通じるスピーチのように聞いたことでした。
 
さて、今朝の聖書箇所は「エマオ途上」と呼ばれる箇所です。「聖書の中で最も美しい記事だ」と言われます。ですから「この箇所を読むだけで十分」という感じもしますが、拙いメッセージをさせて頂きます。
 
イエス様の十字架から2日後、日曜の午後、エルサレムからエマオという村に向かって歩いて行く2人の弟子がいました。イエス様の弟子でしたが、イエス様の十字架に直面して、失望し、何もかも捨てて故郷に帰ろうとしていました。彼らには近寄って来られたイエス様が分かりません。イエスは彼らに聞かれます。「ふたりで話し合っているその話は、何のことですか」(17)。19~21節にある彼らの言葉は暗いです。「あんなに望みを掛けていたのに、結局、彼は死んでしまった。全ては虚しく終わった」、そんな絶望感が伝わって来ます。彼らだけではない。「この人が我々を圧制から解放してくれる、この人について行けば良い」、弟子達はそう思ってイエス様について来たのです。ところが、その人が権力者に逮捕され、鞭打たれ、十字架に掛けられて行くのです。その恐ろしい現実の中で、彼らはイエス様を裏切って逃げてしまうのです。隠れ家に集まって恐ろしい時をやり過ごすのが精一杯だった、あるいはこの2人のように故郷に逃げ帰るのが精一杯だったのです。ここにおいてイエスという宗教家がいたことも、イエスを中心に活動していた集団があったことも、歴史の彼方に消えてしまうはずでした。
ところが2人の弟子がイエス様と食事の席についた時、彼らの目は開かれるのです。イエスの手に釘の跡を見たのかも知れません。彼らも信じられなかった。でも確かに目の前にイエス様がおられたのです。そして彼らは「イエスの復活」という事実を理解し始めるのです。理解した時、どうしたのか。(33節)「すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻(る)」(33)のです。エマオからエルサレムまでは11km。しかし、復活のイエス様との出会いによって、彼らの心は変えられました。まだ明るい道を暗い気持ちで歩いて来た2人でした。しかし、今度は暗い夜道を希望に支えられて歩くのです。信仰生活を象徴しています。どんな暗闇の中でも、希望に支えられて、夜明けを信じて歩くのが信仰生活です。とにかく彼らは、自分達の経験したことを仲間に知らせたくてしょうがなかった。これが、後に弟子達が復活のイエス様のことを人々に宣べ伝えて行くエネルギーなのです。何もないところから教会が生まれていくエネルギーなのです。
では「復活」は(この箇所は)どんなメッセージを語るのでしょうか。目が開かれる前の彼らはこう言っています。(19~24節の抜粋)「…祭司長や指導者たちは、この方を…十字架につけた…その事があってから三日目になります…仲間の…女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらない…御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです…」(19~23)。彼らは、御使いが「イエスは生きている」と告げたことを知っているのです。墓が空だったことも聞いているのです。それなのに目の前のイエス様が分からないのです。どうして彼らにはイエス様が分からなかったのでしょうか。イエス様の方にも以前とは違う何かがあったかも知れません。しかし彼らの方も、十字架の衝撃、あまりの失望、落胆で反応出来ない、イエス様の出現を受け止めることは出来ないのです。しかしその一番の理由を、イエスは(25節)「預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」(25)と言われます。つまり「聖書の言葉に対して鈍い、聖書の言葉を信じないから復活を受け止めることが出来ないのだ」と言われたのです。だからイエスは、ご自身をお示しになるのに「私だよ、見てごらん。手には釘の跡があるだろう。脇には槍の跡があるだろう」という方法を取られませんでした。そうではなくて(27節)「聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」(27)のです。
神が天地万物をお造りになって、すぐに人間の罪の歴史が始まりますが、神は人間の罪の歴史に心を痛めながら、人間を救うために力を注いで来られた、それが聖書の大筋です。その救いの御業の頂点にイエスの十字架があるのです。弟子達は、その十字架にぶつかった時、神の御旨が見えなくなって絶望してしまったのですが、イエス様は(26節)「キリスト(救い主)は、必ず…苦しみを受けて、それから…栄光にはいるはずではなかった…か」(26)、それが「聖書に預言されていたことではなかったか」と諭されたのです。それが「イザヤ書53章」等の預言です。そして実際イエスは、十字架で苦しんで、私達と神を遮る私達の罪の罰を始末して下さり、私達が全ての罪を赦されて、神の御腕の中に飛び込んで行くことが出来るように、救いの道を造って下さったのです。そのための十字架でした。
しかし、十字架で終わりではなかったのです。神の御心を為し終えたイエス様を、神様は甦らせたのです。それが神の計画だったのです。 
 
この箇所から2つのことを教えられます。1つは「物語を終わりにしてはいけない、終わりにしなくて良い」ということです。この2人はイエス様の十字架に直面して「もう終わりだ、何もかも終わった」と思ったのです。弟子達の全部がそう思ったのです。「イエス様の墓が空だった」というニュースも、「天使が『イエスは生きておられる』と語った」というニュースも、彼らを立ち上がらせることは出来なかったのです。失望の極みだったのです。私は自分が急性鬱症で入院した時のことを思います。失望に打ちのめされて、誰が何と言って励ましてくれても、立ち上がることは出来ませんでした。彼らもそうだったのです。しかし、それは彼らの視点から見た話でした。神様の視点では、イエス様は、苦しみの後に栄光に入ることになっていたのです。出来事の意味も、結末も、全然違うものだったのです。続きがあったのです。
この物語は「私達に起こる出来事も同じではないか」と語るのです。私達の人生も、順風満帆な時だけではありません。時には悩みがあり、苦しみがあります。失望したり、落胆したり、そんなことが多いのです。その時、私達は先が見えなくなって、神の御心が見えなくなって、途方に暮れるのです。時に立ち上がる力もなくすのです。しかし、それも人間の視点から見た話なのです。神の視点には、違うものが映っているのです。私は入院した時、又吉さんが言うように「これにも続きがある、これも良いことに変わる」等ということは考えることも出来ませんでした。しかし、それは私の視点でした。神様にはご計画があって、そのことを通してご自分を経験させ、やがてその苦しい出来事を感謝出来るようになる、そのような結末に導こうとしておられたのです。実際、今もあの出来事が、私の弱い信仰をかろうじて支えています。私達が神の御腕の中にあるなら、どんなに失望しようとも、失望は決して失望で終わらない。そうに違いないのです。私達が「終わった」と思うところ、しかし神様の方では、その物語は終わっていない、そこにも神の御旨は流れているに違いないのです。神に在っては、十字架の苦難は、復活の喜びに繋がっているのです。神に在っては、私達の苦しみは、後の感謝に繋がっているに違いないのです。「その信仰に生きて行きなさい」と、この箇所は語るのです。
もう1つ、この箇所のメッセージは「甦ったイエス・キリストが共におられる」ということです。2人は食事の席で目が開け、イエス様だと分かりました。彼らはそこまで気がつきませんでした。しかしイエス様は、彼らと共におられたのです。そして31節に「それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった」(31)とあります。「イエスは、彼らには見えなくなった」、しかし「イエスはいなくなった」とは書いてないのです。見えなくても、イエス様はおられるのです。彼らと共にいて下さるのです。そしてこの時から、イエス様を信じる者とイエス様が共に歩いて下さる、そのような祝福が始まったのです。教会は、その信仰に生きて来たのです。2人の弟子と歩いて下さったイエス様が、今も私達と(あなたと)共に歩いて下さっている、その真実を語るが故に、この物語は誰にとっても美しい物語なのです。
申しあげたように、私達の人生にも、失望し、恐れを抱き、落胆の道を日没に向かって歩いているように感じる時があるのです。しかし、そのような時にも、実はイエス様が傍らにいて下さり、私達を支え、私達が前に向かって歩くことが出来るように、共に歩いていて下さるのです。「足跡」という詩があります。(週報の裏面に全文がありますが、一部を抜粋します)。「『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしと共に歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません』。はささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとが一つだった時、わたしはあなたを背負って歩いていた』」(マーガレット・パワーズ)。ちょうど2人の弟子には分からなかったけど、イエス様が彼らと一緒に歩いておられたのと同じです。「イエス様が私と共に歩いていて下さった。歩けないような時には、背負ってでも共に歩いて下さっていた」。作者は、そのことを語らずにおれなくてこの詩を書いたのです。それがイエス様を信じる者を包んでいる現実です。
そして、それは地上を生きる時だけのことではないのです。先日もゴスペルシンガーの岩渕まことさんのお嬢さんのことをお話ししましたが、お嬢さんが亡くなった時、岩渕さんの奥さん(由美子さん)は、「もう少し私が気遣ってやっていれば…」と自分を責め続けたのです。そんな時、イエス様が彼女に1つの夢を見せて下さいました。夢の中で、お嬢さんは、イエス様の膝の上に抱きかかえられていて、右手を振りながら「ママ、こっちは良いよ!」と言ったのです。それが、天国の現実でした。その天国の現実が、現実としてご夫妻の心に流れ込んで来て、ご夫妻は今、全てを主に委ねて、復活の希望、天国の希望を語り続けておられます。私達の人生の終焉も同じです。イエス様が私達を抱いて、死を越えて、天国に至るまで一緒に歩いて下さるのです。そして天国においても、私達と共にいて下さるのです。
 
イエス様は甦られました。今生きておられます。誰でもイエス様を心にお迎えするなら、神様に受け入れられ、神様の深い御旨、神の摂理の中を生きて行くことが出来るようになりました。そして、その歩みにおいては、イエス様が共に歩いて下さるようになりました。主の復活は、その恵みを私達に語ります。主イエスの復活を感謝し、お祝いしましょう。