2021年3月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:マタイ福音書21章1~11節

 最近、ある方からラインでヴィクトール・フランクルのインタビュー番組を送って頂きました。フランクルはユダヤ人の精神科医で、第二次大戦中、ナチスのアウシュビッツ強制収容所を生き延びた人です。その経験は「夜と霧」という本になって読み継がれています。さてヨーロッパ各国がナチスによって占領された時、その国々ではナチスによってユダヤ人が捉えられ、収容所に送られました。そんな中、デンマークの王様は、ユダヤ人を守った王様だったそうです。王は、ユダヤ人が付けさせられた黄色い星のワッペンを自分もつけたほどに、ユダヤ人に同情し、必死になってユダヤ人を守り、また国民の先頭に立ってナチスに抵抗したそうです。そのデンマークは今、国民の生活満足度が世界で1位か2位だと聞きました。こんな王様なら、国民もついて行こうと思ったのではないでしょうか。
 今日から「受難週」に入ります。この金曜日にイエスは十字架に架かられますが、それに先立つ日曜日、イエスは十字架の待つエルサレムに入城されました。今日は「マタイ福音書」の「エルサレム入城」の記事から学びます。この箇所のメッセージを一言でいうと「イエス様をあなたの心に王としてお迎えしなさい」ということです。聖書に聴きたいと思います。
 ガリラヤからエルサレムに向かって旅をして来られたイエス様一行は、オリーブ山の手前のベテパゲに近づきました。オリーブ山を越えればエルサレムです。その時、2人の弟子を「近くの村に行ってロバとロバの子を連れて来るように」と遣いに出されます。その際、「もしだれかが、あなたがたに何か言ったなら―(『なぜそんなことをするのか』と言う人がいたら)―主がお入用なのです、と言いなさい」(3)と言われました。弟子達が行ってみると、お言葉通りにロバとロバの子がいて―(並行箇所「マルコ11章」を見ると)―彼らがロバを連れて行こうとして、持ち主に咎められた時にも、「主がお入用なのです」と言うと、彼らは連れて行くことを許してくれるのです。「主がお入用なのです」とはどういう意味なのでしょうか。
 「主がお入り用なのです」、それは、ロバの持ち主に対して「あなたの主があなたのロバを必要としている」、あるいは「ロバの本当の主がロバを必要としている」ということではないでしょうか。つまりイエス様は、ロバの持ち主に対して「私が主だ(王だ)」と主張しておられる、「主(王)」になろうとしておられるのです。そして、それを弟子達がそのまま伝えたところ、持ち主はすんなり許してくれました。それはつまり、イエス様が「主(王)」になろうとしておられる、そのことをロバの持ち主が受け入れた、イエス様を「主(王)」として迎えたということです。同じことが次の部分からも言えます。イエス様はエルサレムに入城されるのにロバの子を用いられました。ここまで歩いて来られたのです。あと3kmです。なぜロバに乗る必要があったのでしょうか。そこにイエス様のメッセージがあるのです。「旧約」の「イザヤ書62章」に「シオンの娘に言え。『見よ。あなたの救いが来る…』」(イザヤ62:11)とあり、「ゼカリヤ書9章」に「エルサレムの娘よ。大いに喜べ。見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方は…救いを賜り、柔和で、ろばに乗られる…雌ろばの子のころばに」(ゼカリヤ9:9)とあります。「マタイ21章5節」は、「イザヤ62章」と「ゼカリヤ9章」を組み合わせたものです。「旧約」の預言者は「やがてやって来る『救い主(王)』は、ロバの子に乗ってエルサレムにやって来る(入城する)」と預言していたのです。そしてイエスがその通りのことをされたということは、「私こそ預言された救い主である(王である)」と宣言しておられるということです。イエスはロバの子に乗られました。すると―(弟子達は自分達の上着をロバの上に掛けましたが)―人々は、イエスの進まれる前に上着を脱いで道に敷き、木の枝{「しゅろの木の枝」(ヨハネ12:13)}を切って来て道に敷きました―(そこからこの日曜日を「棕櫚の日曜日」と言います)―イスラエルでは、それは王を迎える時にすることでした。また人々は「ダビデの子に、ホサナ。祝福あれ。主の御名によって来られる方に…」(9)と叫びました。「ホサナ」というのは「主よ(王よ)、救って下さい」、という言葉です。人々は、預言されていた王(救い主)が登場して、ローマを追い出し、ユダヤ人の国を再興してくれること待ち望んでいました。だから、奇跡を行うと噂され、しかも預言通りにロバに乗って入城したイエスを、熱狂的に迎えたのかも知れません。しかしいずれにしても、ここまで目立たないように活動して来られたイエス様が、ここで初めて預言されていた「王」になろうとしておられるのです。そして人々は、イエス様を「王」として迎えたのです。この人々の中には、やがて「イエスを十字架につけろ」と叫び出す者もいたでしょう。しかしイエス様は、その人々が歓迎することさえも、「それで良いのだ」として受けられたのです。この箇所は、そのことを伝え、ここを読む私達に「王になろうとされたイエスの、そのメッセージを受け取るように」、「あなたもイエス様を『王』としてお迎えするように」と語るのです。
 しかし、なぜイエス様を「王」としてお迎えしなければならないのでしょうか。ただ「信じる」というだけではいけないのでしょうか。いやその前に、「『王』として迎える」とはどういうことでしょうか。「王」というのは現実的な意味での支配者です。実生活から離れた、頭だけの神ということではない、生きる現実の中で見上げるべき存在だということです。私達は「王」を戴くということには抵抗があります。自由が束縛される感じがします。しかし実は、実生活で真に見上げるべき方を持っていてこそ、様々な束縛、圧迫から解放されて、生きて行けるのではないでしょうか。
 一昨年11月に来て下さった佐藤彰先生は、原発事故で教会員と大変な流浪の旅をしておられるに最中、こう言われました。「今の状況は正直に言えば苦しみです。でも聖書に『試練を喜べ』と書いてある。だから、確かに本音の部分では苦しいけれど、でも信仰を働かせて喜ぶ方を選びとって行きましょう。主が喜べる状況を与えて下さいます」(佐藤彰)。イエス様を「王」として迎えるとは、色々なことが起こるこの現実の中で、「王」なるイエスに信頼し、自分の本音を裏切るようにしてでも「王」なるイエスへの信頼に生きようとすることではないでしょうか。そこに私達を、困難の中、辛い中でも、その束縛の中で立たせ、前に歩ませる力があるのではないでしょうか。
 最近、テキサス州にお住いのP姉妹からメールを頂きました。テキサスは、多数の死者まで出るような大寒波に見舞われ、P姉妹ご家族も大変な経験をされたようです。雪嵐で車のタイヤの空気が抜けて、危ない運転を強いられたり、家が停電して、家の中がだんだん寒くなって、暗い部屋で何枚も重ね着をして過ごしたり、水道の水が凍って水が止まったままになってしまったり、ついには友人の家に避難しなければならなくなったそうです。しばらくして家に帰ることが出来たそうですが、今度は、店に買い物に行ったら物凄い行列で―(私もインターネットで行列の写真を見ましたが、気が遠くなるような行列でした)―ようやく店の中に入っても、品物がない、品物の供給が追い付かなかったり、皆がパニックに陥って買い占めに走ったりしたことが理由のようですが…。とにかく大変な経験をされたようです。ところが、そのメールには、次のような言葉がありました。「私達の神は良い神です。いつも微笑んで下さっています」、「私達に知恵を与えて下さった主に感謝します」、「主は良い主です」。「主は、昔、今、そして未来、変わることはないのです。何という希望でしょう」。寒波の大変な経験が書かれているメールの中に散りばめられている主への信頼の言葉、置かれた状況の中でイエス様を信頼して行こうとされる姿に、それが彼らを支えているように、教えられる思いでした。
 なぜイエス様を「王」としてお迎えするように勧められているのか。それは、そのようにイエス様に向かった時に、現実の生活の中で信仰が力を発揮するのではないでしょうか。そうでなければ「イエスを信じている」と言いながら、信仰が生きる現実に具体的に関わって来ないということになってしまうのではないでしょうか。
 そして、イエス様は、私達が「王」として戴くに相応しい方なのです。私は「イエスは、聖書の預言に従うことによって、ご自分を『王』として宣言しておられる」と言いました。しかし、もう1つ大切なことは、イエス様は、聖書の預言(神の言葉)に従うことによって―(神の言葉を自分が現実にすることによって)―「神の言葉はこのように現実になるのだ」ということを示そうとされたとも思います。先の「イザヤ62章」の1節にこうあります。「シオンのために、わたしは黙っていない。エルサレムのために、黙りこまない…その救いが、たいまつのように燃えるまでは」(イザヤ62:1)。言い換えると、神は「私はエルサレムを救うために休まないで働く」と言われたのです。私達の立場に置き換えると「私は神の民(あなた)を救うために休まないで働く」と言われたということです。この箇所でもイエスは神の民を救うためにエルサレムに入城され、神の民のために働かれたのです。イエス様は、人々の心が砕かれ、本当の信仰に導かれるように命がけで語られたのです。そして5日後には十字架に架かられるのです。重い十字架を負って、ローマ兵に鞭打たれながら、何度も何度も倒れながら、ヨロヨロと歩いて下さったのです。罪の故に滅びに向かって一直線に歩いていた人々の(私達の)罪を、ご自分が拾い上げ、代わりに背負って十字架に架かって下さったのです。私達の代わりに滅びを引き受け、私達に永遠のいのちに至る道を造って下さったのです。そのようにして―{「エゼキエル書」に「わたしは、だれが死ぬのも喜ばない…だから、悔い改めて、生きよ」(エゼキエル18:32)とありますが}―神が私達を愛しておられる、神は私達が滅びることではなく、生きることを願われる、その神の愛の意志は必ず実現するということを、言い換えると、神の愛の御心をイエスが実現して下さるということを、示して下さったのです。イエス様は、そのご生涯と十字架によって「私はあなたを救うために休まないで働く」という神の意志を実現されたのです。イエス様はそのような「王」なのです。
 イエス様はご自分を「王」だと主張されました。「王」とは、その意志によって世界を治める存在です。イエス様は実にそういう力を持つ方です。しかしイエス様は、単なる支配者、権力者ではない、「私は王であるけど、その王とは『神の愛を実現する王』である」と示されたのです。その方は十字架で死なれたけれども、復活して、今も生きて、世を支配しておられるのです。その方が、今朝、私達にも「私があなたの王である」と言われるのです。この箇所は「そのイエスをあなたの王として迎えなさい」と語ります。私達がそのメッセージに応え、この方を「王」として迎え、この方を「私の王」として生きる時、私達は「私の人生は、決して『もうどうにもならない、お終いだ』というころまで悪くなることはない」という希望を持つことが出来るのではないでしょうか。なぜなら、私達にどんなに辛いことがあっても、どんない苦しいことがあっても、「お先真っ暗だ」と思えるようなことがあったとしても、この世を支配し、私の人生を支配しているのは、私でもない、誰か他の人の力でもない、運命でもない、私を愛する神の意志であり、私を愛するが故に十字架を負って下さった「王」であり、その「王」が死から甦り、今生きておられ、私に神の愛の御心を実現して下さる、という希望を持つことが出来るからです。そうであるなら、たとえ何があっても絶望しなくて良いのではないでしょうか。いや、絶望することがあっても、なお、そこで希望を持つことが出来るのではないでしょうか。そして、たとえ死に臨むことがあっても、イエス様の「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)という約束を握りしめることで、暗闇に放り込まれるのではない、なおそこで「イエス様が、神の愛の御心を私達に実現して下さる」という望みを持つことが出来るのではないでしょうか。
 イエス様を「私の王」として心にお迎えして、生きて行きましょう。その時、私達が生きるにしても、死ぬにしても、その信仰は、私達を支え、希望を与え、私達を支えて行くのです。

聖書箇所:ヨハネ福音書16章25~33節

 今日の聖書箇所の「わたしはすでに世に勝ったのです」(33)を読んで「讃美歌第二編164番『勝利をのぞみ』」という讃美歌が強く思われました。アメリカでキング牧師が導いた公民権運動の象徴の歌として歌われたと聞きました。インターネットで、ジョーン・バエズという白人の女性シンガーが、当時のオバマ大統領列席の集会でこの讃美歌を歌っているのを見ました。会場にいる黒人の人も、白人の人も、アメリカの歴史を思っていたのでしょう、歌詞を噛みしめるようにして声を合わせていました。この讃美歌は「讃美歌21」という讃美歌集では471番にあるのですが、4節の歌詞はこうです。「平和と自由、主はいつの日か、与えてくださる。ああ、その日を、信じて、我らは進もう」。苦難はあるのです。私達にも多くの苦難があります。しかし、主が祝福を与えて下さる、そこに希望があるのです。そしてイエス様は、今日の箇所で「あなた方にも私の勝利がある。勇気を出しなさい」と言って下さっているのです。
イエス様の告別説教を学んで来ましたが、今日の箇所は最後の部分です。最後の説教とも言える個所です。イエス様は33節で「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです」(33)と言っておられます。つまり励ましのメッセージを語って下さったのです。この箇所から2つの励ましを受け取りたいと思います。
 

1:神は私達を愛しておられる

 イエス様は25節で「これらのことを、わたしはあなたがたにたとえで話しました。もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます」(25)と言われました。イエス様は、この告別の説教で、大切なことを譬えを用いて語って来られました。「これらのこと」というのは、特に20節の「あなたがたの悲しみは喜びに変わります」(20)という個所だと思います。つまり「十字架の悲しみが復活の喜びに変わる」という「十字架と復活」のことです。それを「出産の譬え」を用いて語られました。しかしここで(25節)「もはやたとえでは話さないで、父についてはっきりと告げる時が来ます」(25)と言われます。これは不思議な言葉です。「これらのこと―(十字架と復活のこと)―をもはやたとえでは話さないで、十字架と復活についてはっきり告げる時が来ます」というのが、普通の言い方ではないでしょうか。なぜ「十字架と復活について」ではなく「父について」なのでしょうか。実はこの言葉に、大切な励ポイントがあるのです。
 宗教改革者ルターは「自分の罪について思えば思うほど、『正しい神、義なる神』が恐ろしかった」と言っています。彼には「父なる神」に対して「裁きの神」のイメージがあったのです。ある人が「聖書の神にはついて行けない、厳しすぎる」と言いました。私達は「神は愛なり」と聞いています。「神は愛なり」。しかし私達も「旧約聖書」等を読むと、神を「厳しいお方である」というイメージで捉えてしまうことがあるのではないでしょうか。しかしイエス様は「十字架と復活についてはっきり教えよう」と言わないで「父についてはっきり教えよう」と言われました。それはつまり、十字架も復活も全て父なる神様から出ているということです。「十字架について学ぶことは、父なる神について学ぶことだ」ということです。
 数年前の宮崎市民クリスマスにも来られた岩渕まことさんの歌に「父の涙」という歌があります。6歳でいらしたでしょうか、ご自分のお嬢さんが脳腫瘍と診断されて、ほとんど助かる見込みがないと分かった時に作られた歌のようです。彼は「愛する我が子が死んでしまうかも知れない」という、父親として胸の張り裂けるような痛み、悲しみの中で、独り子イエス様の十字架の苦しみを見守る父なる神様の痛みに思いを馳せるのです。そしてこんな歌詞が生まれました。「心に迫る父の悲しみ、愛するひとり子を十字架につけた、人の罪は燃える火のよう、愛を知らずに今日も過ぎて行く、十字架からあふれ流れる泉、それは父の涙…」。この歌は、ここでイエス様が言おうとしておられることを良く教えてくれるように思います。つまり、全ては父なる神様の愛より始まっているということです。だからイエス様は「わたしはあなたがたに代わって父に願ってあげようとは言いません。それはあなたがたがわたしを愛し、また、わたしを神から出て来た者と信じたので、父ご自身があなたがたを愛しておられるからです」(26~27)と言われます。私達と神との間を隔てていたのは、私達の罪です。自己中心です。御心を無視して生きる思いです。イエス様を信じたからといって、私達がすぐにその罪から解放されるわけではありません。相変わらず神の合格点には遥かに及びません。しかし私達が、イエス様の十字架の贖い、私の罪は主の十字架で全て赦されたと信じて、感謝した、それはつまり、十字架に込められた私達を愛する神の愛を信じた、という一点で、神様はあらゆる障害を越えて、私達に手を伸ばして下さるのです。そして私達の神様に感謝する思いと、神様の私達を愛する思いが出会うのです。そしてその出会いによって、私達は神に結ばれ、神の愛を受けながら歩いて行けるようになるのです。神様に直接祈ることが出来るようになるのです。私達は今、26節の「その日」(26)に生かされているのです。
 私達への励まし、それは「神様は独り子を犠牲にしたほど私達を愛しておられる方である」ということです。私達の信仰生活には色々なことがあります。時には「神は本当に私を愛しておられるのか」と思う時があります。「私にだけは不当に厳しい、私には恵みがない」と思う時もあります。しかしこの個所は、そこで私達が神の愛を信じるように、そこも御手の中だと認めるように、神は私に最善を為して下さると信じるように、私達を励ますのです。なぜなら神は、私達を愛するが故にご自身の独り子まで犠牲にして下さった方だからです。その方が良くして下さらないはずがない。その信仰に立つ時、私達はきっと神の愛、摂理的な御業を経験するのです。
 

2:主イエスはご自身の勝利に私達を与らせて下さる

 イエス様は33節で「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、あなたがたがわたしにあって平安を持つためです」(33)と言われました。彼らは29~30節で素晴らしい信仰告白をします。しかしイエスは言われます。「あなたがたは今、信じているのですか。見なさい。あなたがたが散らされて、それぞれ自分の家に帰り、わたしをひとり残す時が来ます。いや、すでに来ています」(32)。実際、イエス様が十字架に架かられると、弟子達はイエス様を捨てて逃げてしまいます。私達の信仰も、いつもそのような不確かな危うさ、弱さがあるのではないでしょうか。弟子達は、本気で告白したのだと思います。それでも彼らは、十字架の死という現実を見せられて、その告白が飛んで行くのです。それは、私達の現実でもあるのではないでしょうか。イエス様は、彼らの失敗の予告を為さいました。では、その失敗の予告が、どうやって彼らに平安を持たせるのでしょうか。
弟子達はこの後、イエス様の予告通り、ゲッセマセでイエス様を残して散って行きます。見事に失敗します。でも、復活のイエス様は、その彼らのところに現れて「平安あれ」と言われたのです。彼らは、失敗を通して「イエス様は、自分達の弱さや失敗を全部分かった上で、なお愛し、あるがままを受け入れておられた」ということを理解して行くのです。
 私はザアカイの話が大好きです。イエス様がエリコの町を通られる時、ザアカイもイエス様を見たいと思いましたが、彼は、背が低かったので群衆に遮られないように、木に登ってイエス様を見ていました。イエス様は、そのザアカイの下に立って「急いで降りて来なさい」と言われたのです。いわば、「背伸びしなくて良いのだよ」と言われたのではないでしょうか。
 弟子達も、私達も、どう背伸びしても、自分以外では在り得ません。しかし神は、私達に良いところがあるから愛して下さるのではありません。ありのままの私達に向かって「わたしの目にはあなたは高価で尊い」(イザヤ43:4)と言って下さるのです。彼らは、その後も失敗したでしょう。つまずいたでしょう。でも彼らは「こんな私を、イエス様は赦し、愛し、召して下さったのだ、私は赦されて在るのだ」と、主の赦しに自分が今ある根拠を置くのです。そして、こんな自分を引き上げ、支え、前に歩かせて下さる、神の中に希望を置くのです。神に希望を置くようになった時から、彼らには神の許から来る不思議な平安があったのです。
 ただ、イエス様は「私を信じたら問題はない」とは言われませんでした。「患難はある、しかし、その中にあっても、平安は尽きない」と言われるのです。パウロは、それを「患難さえも喜んでいます」(ローマ5:3)と言いました。なぜ、患難の中でも喜んでいられるのか。それは、神に希望を置く者は、患難はただの患難ではない、患難には必ず神の意味と目的がある、と思うことが出来るからです。また、患難の中でこそ、神の御業を経験出来る、と信じることが出来るからです。そして、ここでイエス様は「わたしはすでに世に勝ったのです」(33)と言われました。
 1人の姉妹がおられます。大変な境遇で生まれ育ち、お母さんは、余りに辛いので何度も一緒に死のうとしたほどでした。しかしその度に命を守られ、やがて成長し、結婚をします。しばらくして病気を通して信仰に導かれるのです。それからも試練はありました。しかし、その度に神様が助けて下さいました。彼女は色々な場所でその証をしました。そんな彼女にとって、一番の祈りの課題はご主人との関係でした。ご主人も一度は信仰を持ったのです。しかし信仰から離れ、日曜日の朝からお酒を飲むようになり、やがて彼女の信仰生活を激しく迫害するようになるのです。そんな夫を愛せない、裁きばかりが出て来る、それが苦しみでした。長い間、苦しみました。やがてご長男夫婦にお孫さんが生まれるのですが、7ヶ月後、天に凱旋して行きました。家族にとって大きな悲しみでした。ところが、そのことを通して、お孫さんの母親(お嫁さん)が神を信じ、洗礼を受け、そして何とご主人が洗礼を受けたのです。不思議なことでした。彼女は言っています。「孫は、我が家のために一粒の麦となったのでした。神様は積まれた祈りを決してむだになさることはないことを知り、良いことも悪く見えることも、万事を主に感謝する信仰が強められたのです」。やがてご主人が病気で倒れるのですが、病床で「イエス様が一緒にいて下さると思うと嬉しかったよ」とポロポロ涙を流したのです。そんな時、フト開いたノートに以前書きつけておいた「ヨハネ11:3,4」の文字を見つけて、聖書を開いてみました。「この病気は…神の子がそれによって栄光を受けるためです」。この言葉に触れた瞬間、長い苦しみに勝利させて下さったことを感じるのです。初めて夫への思いやりが芽生えて来たのです。大きな解放でした。そして、これまでの人生を振り返って、病も、多くの試練も、何もかも、人生の問題1つ1つに、御手の中に守り、乗り越えさせて下さった神様を思って感謝するのです。
 「わたしはすでに世に勝ったのです」(33)、それは「わたしは、世のあらゆる妨害にも拘わらず、神の御心の道を歩み切った」ということです。それは同時に「私が、御心の道を歩み切ったから、あなたは神の子となれる。あなたを神の平安から引き離すものは何もない」という宣言だと思います。それは「私達は天の御国に行く者にされている、その特権は、世の何者も奪うことが出来ない」ということでもあるでしょう。しかしそれだけではなくて、イエス様の世に対する勝利は、私達の思いを超えているのです。十字架の後に復活があることを、予想することが出来た者がいたでしょうか。誰もいません。しかし、イエス様の復活の勝利は、弟子達にとっても、十字架を前に絶望していた彼らの人生に対する勝利だったのです。彼らは主の勝利に与って行くのです。神の勝利は、いつも私達の思いを超えているのです。その神の不思議が、様々な困難の中で悩む私達にも、きっとやって来るのです。困難に悩む私達をも、主が勝利に与らせて下さるのです。「勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(33)とは、そういうことだと思います。
 その励ましを頂いた私達も、イエス様が神の御心を歩み切って勝利の宣言をなさったように、神を信じる信仰を一途に歩んで行きたいと思います。ある本に「我々は神の子であり、イエスに従って行く者である」とありました。「神の子」とは「イエスに従って行く者」なのです。それが神から来る平安、勝利を、待望する方法なのです。様々な戦いがあります。でも、イエス様にしがみついて行けば、私達も、やがて主の勝利に与るのです。

聖書箇所:ヨハネ福音書16章16~24節

 カナダの神学校では、色々な貴重な学びをさせて頂きましたが、時には授業が終わった後、非常に落ち込んで教室を出ることがありました。全体の枠組み―(先生が何について話しておられるのか)―が分からないので、聞き取れる言葉があっても、教えようとしておられることが見えないのです。良く修了出来たものだと、今さらながら神様の憐れみに感謝することです。今、イエス様の「告別の説教」について学んでいますが、イエス様の説教を聞いている弟子達がそんな感じだったのではないかと思うのです。
今日の箇所は「告別の説教」の終盤になります。十字架は、もうそこまで迫って来ていました。それでイエス様の話も具体的になって行きます。ここでイエス様は「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります。しかし、またしばらくするとわたしを見ます」(16)と言われました。しかし弟子達には分かりません。彼らは分からないから、お互いに「イエス様は何を言っておられるのだろう」とヒソヒソ話すのです。しかし、不安と混乱の中にいる彼らに向かって、イエス様は励ましの言葉を語られます。「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが、世は喜ぶのです。あなた方は悲しむが、しかし、あなたがたの悲しみは喜びに変わります」(20)。「世」というのは「神に逆らう人々」と考えて良いでしょう。十字架の時、イエス様を敵視する人々は「イエスさえ死んでくれれば、後は万事上手く行く」と思ったのです。一方、弟子達にとっては「こんなことがあって良いはずがない」という経験です。彼らは一切を捨ててイエス様に懸けて来ました。その人生がガラガラ壊れて行くような失意、挫折を味わうのです。しかし、イエス様は「あなたがたの悲しみは喜びに変わ(る)」、「悲しみが悲しみのまま終わることはない」と言われたのです。この箇所は「キリスト者の希望」について教えてくれます。2つのことを申し上げます。
 

1:「悲しみが喜びに変わる」

 イエスは「あなたがたの悲しみは喜びに変わります」(20)と言われましたが、それはどのようにして起こるのでしょうか。ある英語の聖書は「悲しみが喜びにひっくり返る」と訳しています。「悲しいことがあったけれど、それに勝る喜びがあったので慰められた」ということではないのです。悲しみ自体が喜びに変わる、ということなのです。イエス様は、その例として出産のことを上げておられます。赤ちゃんが生まれる時、お母さんは大変な痛み、苦しみを通ると聞いています。しかし、子どもが生まれると、その苦痛が喜びに変わるのです。逆に言うと、出産の喜びは、苦痛を通してやって来るのです。苦痛が喜び生み出すのです。彼らの悲しみも「そのようになる」と言われるのです。
 具体的にはどういうことでしょうか。16節の「しばらくするとあなたがたは、もはやわたしを見なくなります」(16)というのは、イエス様の十字架の死、そして埋葬によって、イエス様が見えなくなってしまうということだと思います。20節に「あなたがたは泣き、嘆き悲しむが」(20)とあるように、十字架は、彼らの夢の終わり、希望の終わりを意味していました。しかし、実際はどうなって行くでしょうか。絶望のどん底で、後悔したり、悲しんだり、怯えたり、絶望したりしている彼らの許に、イエス様の復活のニュースが届き、「またしばらくするとわたしを見ます」(16)の言葉通り、イエス様ご自身が彼らの前に立たれたのです。驚きと同時に、湧き上がるような喜びに包まれたことでしょう。しかも、彼らには素晴らしい発見がありました。それは「イエス様は本当に神の許から来られた方だった」という発見です。自分達を弟子に招いて3年間一緒に歩いた方は、本当に神の許から来られた方だったという発見をするのです。
 十字架の時、皆がイエス様を裏切りました。取り返しのつかないことをしたのです。しかし復活のイエス様が弟子達のところに現れて、「平安あれ」と言って彼らを祝福された時、彼らは、赦されてあるという祝福に与るのです。彼らの夢も希望も将来も、全てをうち砕いた十字架が、彼らがそのままで―(弱いところがある、裏切りもした、しかしそのままで)―神に赦され、迎えられる、神の子とされ、天国へ行く者とされるという、神の赦し、愛と恵み、祝福のシンボル、喜びの基となるのです。
 その後も、彼らには色々な困難がありました。然し、彼らはもう希望をなくすことはなかったのです。どんなことがあっても、主の十字架によって赦された自分達は、神の御手の中で生きている、最後は神が責任を持って下さる、何より復活のイエス様がどこまでも共にいて下さるという安堵感、慰めと希望を生きるのです。遠藤周作の「侍」という歴史小説があります。藩の命令でローマに行き、クリスチャンになって日本に帰って来た長谷倉という侍は、キリスト教迫害下で死罪になります。彼につき従って来た下男が処刑場で「ここから先はもうお供は出来ない」という場所まで来た時、長谷倉に向かって叫びます。「ここから先はあの方が、あの方が一緒に行かれます」。弟子達は、その慰めを生きて行くのです。その思いを彼らに確信させ続けるのが、十字架、そして十字架を通してやって来る主の復活なのです。パウロは言います。「私たちは、私たちの主イエス・キリストによって、神との平和を持っています…この恵みの信仰に導き入れられた私達は…艱難さえも喜んでいます…」(ローマ5:1~4)。十字架を握った彼らは、艱難さえも主にあって喜びと思えるようになるのです。なぜなら、十字架には復活が続くことを知ったからです。つまり、患難がただの患難で終わらないことを信じることが出来たからです。
「あなたがたの悲しみは喜びに変わります」(20)、このイエス様の言葉が書き記されたのは、十字架と復活の60年後です。その間、弟子達も様々な形でこの言葉の真実を経験したのです。だから確信を持って、このイエス様の言葉を書き伝えたのです。私達にも悲しみがあり、嘆きがあります。しかし私達の希望は、「あなたがたの悲しみは喜びに変わります」(20)と、「悲しみは悲しみのままで終わらない」と、イエス様が言って下さっていることです。キリスト教信仰の素晴らしさは、正にそこにあると思います。
先日のお便りの中にレーナ・マリアさんのお母さんの言葉を書いたのですが、実は前段があります。レーナさんが生まれた時、お母さんは「私は妊娠中、お腹の子供に悪いような薬を服用したこともなかった。それでも、この子がこういう体になったのは、私達のせいではないか」と自分を責めて悩んだのです。「どうして、私達にだけ、こういう子供をお与えになったのですか」と何度も神様に問いかけ、愚痴をこぼしたのです。神様の愛が見えなくなったのです。しかし、レーナさんは神様の命、神様の力によって明るく、たくましく成長して行ったのです。そして、神様を愛し、神様を讃え、喜んで神様に自らを捧げて行こうとする今の彼女を見て、お母さんは言うのです。「『彼女を見ていると、自分が小さな問題で不満を言ったり、悩んだりするのが恥ずかしくなる』と多くの方々から言われて来ました。これは初めから、神様がレーナと共にいて下さり、あの子を支え、生きる喜びを注いで下さったからです。親の努力や心がけでこのように育つものでないことを、私達自身が一番良く分かっています」。大変なところを通られたでしょう。しかし「神様、どうしてですか」という悲しみが、「神様、ありがとうございます」という喜びに変えられたのです。「悲しみが喜びに」、考えることもお出来にならなかったのではないでしょうか。しかし、神はそれをして下さる方なのだと、そのことを教えられます。
 イエス様の下さる喜びは、ある場合は、悲しみを通して深い神の恵みを体験できる、振り返って見る時、「あの悲しみの中で、悩みの中で、神が働いて下さった」という実感して感謝する、そういう面があると思います。しかしそれは、生きている限り、何かしら悲しみを、苦難を抱えざるを得ない私達にとって、大切な、かけがえのない喜びだと思います。
 

2:「喜びは祈りを通してやって来る」

 イエス様は「悲しみは喜びに変わる」という話をした後で「まことに、まことに、あなたがたに告げます。あなたがたはが父に求めることは何でも、父は、わたしの名によってそれをあなたがたにお与えになります。あなたがたは今まで、何もわたしの名によって求めたことはありません。求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものになるためです」(23~24)と言われました。「私の名で願いなさい」とは「『イエス様の御名によってお祈りします。アーメン』と祈りの最後につけなさい」ということだけではありません。聖書では、名前はその人の全人格を表します。イエス様の御名によって祈るとは、イエス様の人格に調和した祈りをするということです。イエス様がその伝道生涯において教えられたのは、「あなたの神である主を愛せよ…あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」(マタイ22:37~39)ということでした。ですから、私達が本気になって神様を愛せるように(神様に従えるように)、また人を愛せるように祈る時、神は必ず私達の祈りに答えて下さるのです。
 しかし今朝のメッセージのテーマに関連して申し上げたいことは「祈りにはそれ以前の恵みがある」ということです。星野富弘さんが、事故で首から下が動かなくなって、病床で苦しい思いをしておられた時、気付かれたことは「自分には、嬉しい時にその人に感謝し、苦しい時にその人の名を呼ぶ、そんな人がいない」ということだったそうです。そんな時、大学の先輩が持ってきた聖書を通して「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)の言葉に触れ、この言葉を通してイエス様に出会うのです。「わたしが、けがをすることなど、夢にも思っていなかったずっとまえから、神様はわたしのために、このことばを用意してくれていたのではないかと思いました。聖書に書いてあるイエス・キリストという人が、わたしをだきあげて、わたしのいうことをやさしく聞いてくれるような気がしました」。色々なことが自分にやって来た時、そしてそれをどこに持って行って良いか分からない時、神に祈ることが出来るということ、神に自分の願いをぶつけることが出来るということ、このこと自体が、実は喜び(希望)ではないでしょうか。自分でどうにもならないことを「お願いします」と言えるお方がおられるということ、大きな幸いではないでしょうか。
そして、「お願いします」と言って終わりではありません。祈りの中で、本当に静まって魂を神に向けて行く時、私達は神に触れて行くのです。交通事故で同乗の婚約者を死なせてしまった女性がいました。自分が責められ、夜も睡眠薬なしでは眠れない、どうしようもなくなった時、ある牧師に「神に事故のことを感謝していますか。聖書には『全てのことを感謝しなさい』と書いてありますよ」と言われるのです。「『感謝しなさい』と言っても…出来るはずがありません…でも…じゃやってみます」。それから彼女は「いつも喜んでいなさい、絶えず祈りなさい、すべての事について、感謝しなさい」(1テサロニケ5:16~18)の御言葉を何度も何度も読んで、そして神に祈ることを始めるのです。不思議なことに、その時から彼女は少しずつ癒されて行くのです。祈りの中で神の力が彼女に働くのです。「わたしの名によって…求めなさい。そうすれば受けるのです。それはあなたがたの喜びが満ち満ちたものになるためです」。イエス様は、私達が神に触れ、喜ぶことのできる方法を教えて下さったのです。
 今日、「キリスト者の喜び」について学びました。お一人びとりが様々な状況を抱えておられるでしょう。しかしイエス様は言われました。「あなたがたの悲しみは喜びに変わります」(20)。新しい週、このみ言葉を握りしめ、神に期待し、信頼する週でありたいと思います。

聖書箇所:ヨハネ福音書16章5~15節

 カナダで開拓伝道を始めた頃、教会会議のお誘いで「開拓伝道の研修会」に参加したことがあります。長い講義が続きました。受講者がきつい思いをすることを察しておられたのか、1人の先生は講義の中に短く映画を取り入れておられました。1本は「炎のランナー」で、もう1本は「カサブランカ」でした。開拓伝道と「カサブランカ」がどう繋がるのか、最後まで分かりませんでしたが、「炎のランナー」の方は迫られるものがありました。「炎のランナー」、1924年のパリ・オリンピックにイギリス代表として陸上競技に出場したエリック・リデルという人を主人公にした映画です。彼は100mの選手でしたが、聖日礼拝を守るためにレースを棄権して、結局チームメートの配慮で400mに出場することになります。見せて頂いたのは、彼が400mの決勝を走る場面でした。彼は、走りながらだんだん喜びが高まってきて、最後は笑うようにして走るのです。何故かというと、彼は「自分が走る時、神が喜んでいるのを感じる」というのです。喜びに溢れて走る彼の姿は、私には感動的でした。「自分が何かをしている時、そのことを神が喜んで下さっているのを感じる」、素晴らしいことだと思いました。それと同時に、神が喜んでおられるのを彼に感じさせたもの、それは正に聖霊の働きだろうと、印象深く思ったことでした。
 イエス様の告別説教が続きます。イエス様は、説教の中で繰り返し聖霊について語られます。先週の箇所では「これから迫害の中で聖霊が弟子達を助けてイエス様を証しする」ということを語られました。今日の箇所では、イエス様が復活し、昇天された後、信じる者にやって来られる聖霊が、どのような働きをされるのか、そのようなことを語って行かれます。イエス様の言葉を通して、聖霊に働きに関して2つの面から学びます。
 

1:聖霊が来る意味

 イエス様は、ます、聖霊がやって来ることの意味について語られます。弟子達はイエス様から「私が行く所へは、あなたがたは来ることができない」(13:33)と言われ、さらに迫害の予告です。彼らには、これからどうなるのか分からなかったし、動揺していたと思います。イエスご自身が「わたしがこれらのことをあなたがたに話したために、あなたがたの心は悲しみでいっぱいになっています」(6)と言われるように、弟子達にしてみれば、この場面は、たまらない思いだったと思います。彼らはイエス様のために全てを捨てて、イエス様に期待をかけて、イエス様だけを頼りについて来たのです。それが「自分達から離れて行く」と言われるのです。一体これまでのことは何だったのか、そう思うでしょう。しかしその彼らに、イエス様は不思議なことを言われます。「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです…もしわたしが去って行かなければ、助け主があなたがたのところに来ないからです。しかし、もし行けば、わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(7)。「私がいなくなった方があなた方のためだ」という言い方です。この箇所から聖霊が来られることの意味について2つのことを学ぶことが出来ます。
1つは、神様は(イエス様は)私達と共にいて下さるということです。なぜ、イエス様がいなくなって、聖霊がやって来ることが、彼らにとって良いのでしょうか。イエス様がずっと一緒にいて下さった方が、彼らのためには良いのではないでしょうか。目で見ることが出来れば、何かあったら助けを求めて行けば良いのです。しかしそうではあっても、イエス様が肉の姿を取っておられる以上、イエス様は、弟子達と、あるいはイエス様に従う人々と、いつも一緒にいるというわけには行きません。しかし、霊ならどうでしょうか。聖霊としてのイエス様であれば、弟子達と、そして私達一人一人と、いつでも、どこでも、共にいて下さることが出来るのです。イエス様は、天国に帰って行かれる前、弟子達に言われました。「見よ。わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。どうやって可能になるでしょうか。聖霊としてのイエス様であれば、聖霊を求め、受けた人は、世の終わりまでイエス様と一緒にいることが出来るのです。イエス様の約束です。イエス様は、今私達と共におられるのです。その意味でイエス様は「わたしが去って行くことは、あなたがたにとって益なのです」と言われたのです。
2つ目に教えられることは、私達は神の計画の中にあるということです。申し上げたように、弟子達にとって、イエス様との別れは「これまでのことは何だったのか、これからどうすれば良いのか」、大変な挫折と絶望です。だからイエス様が逮捕された時、十字架に架かった時、彼らはどうしようもなかったのです。まさか、その後に復活があり、さらにいつも聖霊(助け主)としてのイエス様を宿して、聖霊に強められて、支えられて、助けられて、慰められて、導かれて、歩いて行けるようになる等とは、思いもしなかったのです。しかし彼らに待っていたのは、その思いもしない祝福の現実だったのです。そのために、イエス様は一時的に離れて行かれたのです。CSルイスは「神の意図は、私達を小さなキリストにすることだ」と言います。肉体を持ったイエス様に従っている時、彼らはイエス様の近くにいましたが、イエス様がいなければ何にもできない人達でした。でも聖霊を頂いた時、彼らは、あたかも小さなキリストでもあるかのように、主の業を為して行くのです。その意味でイエス様は、彼らにとって最善のことをされたのです。
 私達も、信仰があっても、状況に目を奪われてしまいがちではないでしょうか。状況が良いと信仰深くなって、状況が悪いと「信仰があったってダメなのだ!」と思ってしまうのではないでしょうか。彼らは、大きな祝福が待っていることも知らずに、状況に振り回されて、悲しんで、絶望していたのです。しかし、弟子達には見えなかったけれど、神は、彼らの思いを遥かに超えて、彼らに最善の計画を持っておられたのです。私達にも聖霊(助け主)が与えられています。神が聖霊を通して私達に働いて、私達をも最善に導いて下さるのではないでしょうか。神は言われます。「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている…それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり、あなたがたに将来と希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)。私達に聖霊を与えるために、イエス様が苦しみ抜いて死なれたのです。神様は独り子の苦しみを見つめておられたのです。それほどまでにして与えられた聖霊であり、私達はそのような神のご計画の中に生かされているのです。神様が私達に最善を為されないはずがないと思います。確かに見えないことも多いです。しかし、状況に目を塞がれるのではなくて、私達の思いを遥かに越えて最善をなそうとしておられる神に、聖霊に、目を向けて行きたいと願います。
 

2:聖霊の働き

 イエス様は、聖霊が来ることが弟子達のためであると言われた後、聖霊の働きについて要約されます。聖霊は何をされるのか、イエス様は8節で「その方が来ると、罪について、義について、さばきについて、世にその誤りを認めさせます」(8)と言われました。
 1つ目に、聖霊は罪について教えなさるのです。9節では「罪についてというのは、彼らがわたしを信じないからです」(9)と言っておられます。なぜ、イエス様を信じないことが罪なのでしょうか。イエス様が公生涯で最初に言われた言葉は「悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)ということでした。福音とは神の赦しです。「あなたをそのまま受け入れる」という神の赦しの宣言です。それにも拘わらず、人々はイエス様を殺してしまいました。しかしペンテコステの時、ペテロの説教に刺された人々は「私たちはどうしたらよいでしょうか」(使徒2:37)と言い出しました。どうして人々は変わったのでしょうか。ポイントは「罪の意識」です。イエス様の十字架を見た後、彼らは「自分も神の前に罪人ではないのか」、そう思い始めたのです。イエス様を信じないということは、自分の中に救われるべき罪を見ないということです。「私は私でやって行く、イエスなんか要らない」。きつい言い方ですが、そういうことではないでしょうか。でも、彼らが「私も何と神の目に適わない存在か」と思った時、神の赦しの宣言が大きな恵みに変わったのです。「アメージング・グレース」を作ったジョン・ニュートンは、奴隷船の船長でした。そんな彼が神に助けられた時、「こんな私が赦されるのか。神の恵みとはそんなに大きいのか」、と言って「驚くような恵み(アメージング・グレース)」という歌を作りました。亡くなる時、「キリストは私にとって、とんでもない救い主だった」と言って天に帰って行きました。その全てを導いたものは何だったでしょうか。私達に罪を認めさせ、「イエス様、ありがとうございます」と思わせて下さるのは、聖霊の働きなのです。
2つ目に、聖霊は義について教えるというのです。10節「義についてとは、わたしが父のもとに行き、あなたがたがもはやわたしを見なくなるからです」(10)と言われます。義とは、神の目から見て「正しい」という意味です。申し上げたように、私達に「神の前に正しい」という義はありません。それはイエス様だけに言えることです。イエス様は、神の前に全く正しく生きて下さいました。それは、不義なる生涯しか送ることが出来ない私達を、死後の裁きの時に、イエス様の義の生涯で覆って下さるためです。人は、イエス様の義の生涯と、13節に「やがて起ころうとしていることを」(13)とあるように、この後起こる十字架の贖いによって義と認めてもらえるのです。しかし、そのイエス様を、人々は、極悪人、危険人物として裁いて、十字架に架けてしまったのです。人々に、イエス様の「正しい」は見えなかったのです。しかしイエス様が「わたしが父のもとに行き」(10)と言われるのは、それらの義の業を全て成し遂げて、父の許に帰られるということです。それは、神様がイエス様を義(正しい、良し)とされたということです。そのことが、聖霊の働きによって、やがて人々に分かるのです。
そして私達は今、犯罪者として十字架に架けられた人を「救い主、私のために生きて、死んで下さった方」と認め、感謝し、礼拝するのです。「私はあなたのために死んだ。あなたは私のために生きるか」と問われ、心を震わすのです。そのように導いて下さるのが聖霊の働きなのです。
3つ目に、聖霊は裁きについて教えると言われます。11節で「さばきについてとは、この世を支配する者がさばかれたからです」(11)と言っておられます。弟子達は、やがてほとんど全員が殉教して行くことになります。弟子達だけではありません。キリスト教迫害の嵐が吹き荒れる時、世の力は強いように見えました。一方クリスチャン達は、あまりに力がない、あまりに弱い存在のように見えました。しかしなぜ、そんな弱いちっぽけな彼らが、強大な力に屈しなかったのでしょうか。なぜ、体を張って最後まで抵抗したのでしょうか。ポリュカルポスというリーダーは、「キリストを罵れ。そうしなければ焼き殺すぞ」と言われた時、こう返事しました。「あなたは、ひと時しか燃え続かず、すぐに消えてしまう火で私を脅かすつもりですか。それは、あなたが、来るべき審判の折りに邪悪な者を待ちかまえている火を知らないからです」。彼らは、この世を支配している悪の全てが、最後には裁かれることを知っていたのです。そして世の支配者であるサタンも、十字架によって既にイエス様に負けたことを知っていたのです。だから、世の力は彼らを迫害するかも知れない。しかし、彼らの永遠の命を奪うことの出来る者は、誰もいないのです。だからイエス様はこの後で言われます。「あなたがたは、世にあっては患難があります。しかし、勇敢でありなさい。わたしはすでに世に勝ったのです」(16:33)。
クリスチャン達がこれらのことを見ることが出来たのも、聖霊の働きです。聖霊が、世の悪は裁かれることを、必ずそうなること、もう始まっていることを、彼らに見せていたのです。そしてそのことを見ていた人々は、死を越える命に生かされたのです。宗教改革の時代、多くのアナバプテストが信仰のために迫害されました。1人のその町でも善人で有名だった青年が、異端のレッテルを貼られて処刑されることになりました。町のある有力な婦人が、はりつけになっている彼に言いました。「私があなたを引き取って、自分の子供として生涯面倒をみるから、『自分の信じていた教えが間違っていた』と一言言って、赦してもらって、降りて来なさい。今ならまだ、それが出来るから」。彼は、その婦人にこう言ったのです。「私は、それを神が喜ぶとは思いません。私は神が喜ぶことをしたいのです。だから、この信仰をしっかり持って死んで行きます。神が迎えて下さるでしょう。アーメン」。「神が喜ぶ方を選びたい」と言って信仰を守り抜いて行ったのです。天で大いなる祝福に囲まれたことでしょう。彼もまた、神の裁きこそを何よりも大事に考え、死を越える命に生かされて行ったのです。
 

3:終わりに

今日、2つのことを申し上げました。皆さんが今、御自身の心に罪を見ておられるなら、キリストの赦しを受け取っておられるなら、終わりの時に救われることを見ておられるなら、それは聖霊の働きです。その聖霊は、これからも私達を神の最善に導いて行かれる現実の力です。「聖霊は御言葉と共に働く」と言われます。聖書を通し、祈りを通し、聖霊の働きを求め、聖霊に導かれて、神の最善の道を歩んで行きたいと思います。