2021年2月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:ヨハネ福音書15章26~16章4節

  7年前、東京で行われた「アナバプテスト・セミナー」に参加した際、「現代の殉教は、地方で福音を宣べ伝えることである」という言葉を聞きました。キリストの教会は、迫害の中で多くの殉教者を出して来ました。現代の日本に生きる私達には、殉教は遠い世界のことのように思われますが、「現代の殉教は、地方で福音を宣べ伝えることである」という言葉を聞いて、「皆で伝道の困難を担って行くことに大きな意味があるのだ」と新しい気付きを与えられたような気がしました。
 さて、イエス様は15章18節から「迫害の予告」を語られますが、今朝の箇所では「その迫害の中でどう生きて行くか」、そのようなことを語っておられます。私達には、いわゆる迫害はないかも知れません。しかし、ここで「迫害」と訳されている言葉は「霊的な戦い」というニュアンスも持つ言葉です。私達にも、イエス様に従って行く上での信仰の戦い、霊的な戦いはあります。その意味で「問題の中をどう生きて行くのか」、そのように置き換えて考えても良いと思います。2つのことを申し上げます。
 

1:問題の中で証しに生きる(15章26~27節)

  イエス様は「迫害」をベースにして語っておられますが、26~27節で言われていることは「迫害の中で『助け主』なる聖霊を派遣する、その聖霊ご自身がイエス様について証しをされる」ということです。聖霊が証しをされるから、弟子達はどうすれば良いのかというと、弟子達もまた聖霊と一緒に証しをする、ということが言われているのです。つまり「迫害の中でどのように生きて行けば良いか」、「イエス様の証しをするように」教えておられるのです。27節の「あなたがたもあかしするのです」(27)は命令形です。「リビングバイブル」は「あなたがたもまた、わたしのことをすべての人に語らなければなりません」(LB27)と訳します。そして弟子達は、実際に、聖霊降臨の後、迫害の中で証しをして行くのです。
 しかし、なぜイエス様は、「証しをしなさい」と言われたのでしょうか。もし「証しをしなさい」と言われなければ、彼らは静かに自分達の信仰を守って暮らし、迫害らしい迫害にも遭わなかったかも知れません。平安に生きて行けたのかも知れません。しかし、一方でどうでしょうか、彼らは信仰を持っていても何をして良いか分からない、勿論、天国に向かって生きては行ったでしょうが、それは弱々しい歩みではなかったでしょうか。しかし、彼らは「証しをしなさい」と言われ、証しをして生きて行きます。しかしそれは、決して重荷を負わされたということではないのです。そうではなくて、生きる目的、使命を与えられた、神の業に参加して行くという命のある限り無くなることのない生き甲斐を与えられた、ということも言えるのです。「自分は何のために生きているのか、生きていて何の意味があるのか」、そのように生きる目的を失ったり、自分で人生の価値を見つけ出す必要はないのです。元気だから、病気だから、若いから、高齢だから、幸せだから、辛いから、それも関係ないと思います。時が良くても、悪くても、その時、その時にしか知ることができない神様の御心があり、その時にしか伝えられない神様の恵みがあるのです。彼らは、その使命に生かされて精一杯、証しに生きるのです。そして、彼らの証しを、聖霊が助け、導いて行かれるのです。
「十字架で死んだ男は神だった」、受け入れがたい話です。なぜ、多くの人々が「十字架は私のためだった、イエス様は神様だった」と告白して行ったのか。聖霊の働きだとしか言いようがありません。聖霊が人々の心に働かれたのです。
さらに言えば、彼らは、信仰が確立していたから証しをして行ったのではないのです。むしろ、証しをして行く中で信仰が育てられて行ったのです。証しをして行く中でイエス様に近づいて行ったのです。森繁昇さんも「伝える中で信仰が強くされた」と言っておられました。ある神学者が「どういうときに聖書がよく分かるか」、4つを上げています。神を求めて読む時、遜って読む時、従おうとして読む時、証しをしようとして読む時、その時に聖書が分かると言うのです。
 何を教えられるでしょうか。イエス様のことを誰かに伝えようとすること、それは、恐らく信仰者に与えられたオプションではないのです。私達の信仰が鍛えられ、神に近づいて行くための、信仰生活の大事な一部分なのだと思います。私達は、誰かに信仰を伝えようとする時、どうするでしょうか。自分の力ではどうにもなりませんから、まず、その方の魂の救いのために祈るでしょう。誰かの魂を愛し心を傾けて祈る、そのことが既に私達をイエス様に近づけるのではないでしょうか。なぜなら、イエス様は人の魂を愛する方だからです。今、皆さんは、誰の魂を愛して、誰の魂のために祈っておられるでしょうか。私達も証しをする中で、私達自身が育てられて行くのです。証しをする中で神の業に参加していくことになるのです。聖霊の働きを経験するのです。そして、証しをしようとすると、自分の在り方が問われますから、自らの生き方も吟味されて行くのではないでしょうか。それがまた私達を、イエス様の弟子としてのあり方に向かわせるのではないでしょうか。そのような成長を、祝福を、イエス様は与えようとしておられるのです。
そして初めに、この個所は「問題の中の信仰生活」という捉え方も出来ると申し上げました。生まれたばかりの教会は、すぐに迫害されました。問題がやって来ました。しかし迫害によって潰されてしまうことはなかったのです。不思議なことに迫害があればあるほど、迫害をバネにするように広がって行ったのです。神は、彼らを助け、励まし、時には迫害の急先鋒パリサイ人パウロをキリスト教の伝道者にするというような大逆転も用意して、彼らを守り導いて行かれました。私達にも色々な―(迫害でなくても)―問題がやって来ます。時々、それは、私達の信仰を吹き飛ばしてしまうように思え、私達を沈み込ませたり、私達の力を奪ったりします。しかし弟子達は、聖霊の働きに信頼して、そして助けられ、乗り越えて行ったのです。私は、問題の中で聖霊の働きに期待することの大切さを教えられます。聖霊が働かれる時、辛く苦しい状況の中でも、私達には、状況に潰されない、むしろ問題の中で不思議な平安と希望が与えられる、そのようなことが起こって行くのです。聖霊の働きは、言葉だけではありません、現実の力です。信頼して行きたいと願います。
 いずれにしても、イエス様は私達にも「あなたがたも証しをする」と言われます。問題の多い信仰生活ですが、私達には、生きる限りなくならない生きがい、生きる意義、目的が備えられています。色々な形で、色々な場で、イエス様のことを伝えることが出来ます。問題ばかり見つめるのではなくて、イエス様が下さっている使命、永遠の使命を見失うことがないように、積極的に生きて行きたいと願います。そして聖霊の働きを経験させて頂きましょう。
 

2:問題の中で神の支配を思う(16章1~4節)

 イエス様は、続いて16章1~4節で、彼らにどのような迫害がやって来るのか、具体的に予告されました。「ユダヤ人が彼らを会堂から追放する」ということ、さらには「イエス様の弟子を殺すことが神に対する奉仕だと思う時が来る」ということを言われました。実際、そうなって行くのです。サドカイ人、パリサイ人は、「イエスを救い主とする新しい分派がユダヤ教全体を汚す、堕落させる、曲げて行く」と考えて彼らを滅ぼしてユダヤ教を守らなければならないと考えます。それが神への奉仕だと考えます。3節にあるように「人を罪から救うためには、神の子が死ななければならなかった」ということが、「父なる神様と子なる神イエス様が、とてつもない犠牲を払って罪人に救いの道を造って下さった」ということが、彼らには分からないのです。そして、キリスト者を迫害したのです。パウロもその1人でした。彼は外国にいる者まで殺そうと思って信者を追いかけて行ったのです。そして復活のイエス様に出会ってキリスト教の宣教師になった途端に、今度は命を狙われる立場に立つのです。しかし、イエス様は「あなたがたがつまずくことがないために、これらのことを話す」と言われます。「つまずく」という言葉は、「不意打ちをくらう」という意味の言葉です。不意打ちをくらって、信仰から離れることがないように、これらのことを教えるのだと言われました。「クォ・バディス」という本の中で、ペテロが迫害の真っ直中にある時に言います。「かつて主は、私に『あなたが年をとると、両手をのばして、他の人に帯をしめられ、行きたくないところに連れて行かれる』と言われたんだ。だから、当然、こういうことが起こるんだ」。聖霊を受け、イエス様の御言葉で備えていたペテロは、迫害を通して、イエス様を近くに感じて行くのです。
ここから何を教えられるでしょうか。それは、迫害(問題)は、主の支配の外にはないということです。確かに、彼らに起こった迫害は酷いものでした。会堂から追放されるということは、村八分にされるということです。生きていくこと自体が大変な状況になるということです。でもエルサレムのクリスチャン達が迫害されてどうなったのか。彼らがエルサレムに居られなくなって散らされたことによって、キリスト教が広まって行くのです。その後、270年間、キリスト教はローマ帝国によって断続的な迫害にさらされました。しかし、不思議なことに、迫害が起こる度に教会は鍛えられて強くなって行ったのです。なぜ、迫害の度に教会は強くなったかというと、恐らくそれは、クリスチャンが自分の信仰を曖昧にしておれなかったからだと思います。握りしめるか、捨てるか、決断を迫られます。その中で尚も神に期待して、神に自分を捧げていくか、神に失望して行くかが迫られるのです。そうやって1人ひとりが自分の信仰を問われて、神に対する信頼を新たにされて、教会は強くなって行ったのだと思います。そして、やがて教会は、大ローマ帝国をひっくり返して行くのです。
 イエス様が「迫害がある」と言われたように、迫害がありました。なぜ、神は、迫害を許されたのか、それは分かりません。しかし、歴史の事実として、迫害が、信仰を広め、教会を強くしたのです。ある牧師が次のように書いておられました、「中国の教会も…共産主義の激しい迫害の中で…信者数を増やして来ました。一方、日本の教会はこの半世紀…平和と自由と豊かさに飼いならされて、教会勢力は沈滞しています」。そのようなことを思う時、迫害さえ、神の支配の外にあったのではないということを思うのです。フィリップ・ヤンシーというジャーナリストがチェスの名人と試合をして、次のことに気づいたのです。「こちらがどんな手を打っても、名人はそれを自分に都合の良い形にしてしまう」ということです。「神様がそれと同じことを為さる」と言っているのです。迫害は、悪の力が起こすものです。しかし神は、悪が打ってくる手を逆手にとって、信仰者の命がけの献身、証しを用いて、信仰を広め、そして信仰者を強め、教会を強めることが出来る方なのです。
 私達も、誰かに伝道しようとする時、辛い思いをすることがあるかも知れません。そうでなくても、信仰生活を送る中で、私達の信仰を打ちのめすような問題が襲って来るかも知れません。しかし大事なことは、何がやってきても、それは神の手の外にあるのではないということを確認することだと思います。信仰生活も、人生さえも、揺さぶるように見えることがやって来たとしても、そこで私達が、なおも神に信頼する時、それがやがて私達の信仰を強くするのではないでしょうか。
カナダにいる時、ロシアから移住して来られた方の体験を聞いたことがあります。ロシア、旧ソ連で、メノナイトは、信仰の故に迫害に逢ったのです。彼のお父さんも「秘密警察に連れて行かれ、帰って来なかった」と言いました。また、物資が奪われ、人が傷つけられて行きました。嘆き、悲しみは、どれほど大きなものだったかと思います。でもその方は、あくまで大らかに、時には笑みを浮かべながら、ご自分の話を淡々と語られました。私は、その方の中に「もうこの人の信仰は、何が来てもびくともしないだろうな」というようなものを感じました。また、実はその苦しみの中で、ロシアのメノナイトの人達は、伝道ということに目が開かれて行ったのです。それがやがては、メノナイト教会の海外宣教にも繋がり、北米からの宣教師によって私達の教会が建てられて行くことにも繋がって行くのです。苦しみはありました。しかし神様は、私達の苦しみを、苦しみだけに終わらせる方ではないのです。C.S.ルイスが「痛みの問題」という本の中で「苦しみや悲しみが信仰を強くするのであるなら、この世界は概してその仕事を良く果たしているように思われます」という趣旨のことを言っていたのを思い出します。問題の中で、証人として生きる時の困難の中で、そこにも添えられている神様の御手に信頼しましょう。
 

3:終わりに

 今週も、私達は、問題の中を生きて行くかも知れません。しかし私達の傍らには、神がおられます。神の摂理に信頼して歩いて行きましょう。そして願わくは、私達も神の証人として、神が備えられた方々に神様のことを証し出来るように願いながら、生きて行ければ、と思います。
 

聖書箇所:ヨハネ福音書15章18~25節

7年前になりますが、大分の国東半島に「ペトロ岐部」という人の銅像を見に行きました。ペトロ岐部は、徳川幕府のキリスト教弾圧が厳しくなる頃、ローマに行き、司祭に叙された後、「ローマに留まりなさい」という勧めを聞かず、迫害の嵐が吹き荒れる日本に帰って来ました。各地に潜んでいる切支丹達を励ましながら九州から東北まで行き、ついに仙台で捕縛されます。彼を待っていたのは穴釣りの拷問です。でも彼は同じ拷問に苦しむ仲間達を「天国が見えているぞ。もう少しの我慢だ。ほらイエス様が苦しみを半分担って下さっているじゃないか」と励まし続けました。あまりに励ますものだから、役人が穴から引きずり出して、拷問を行いました。でも最後まで棄教しない。彼を取り調べた幕府の役人は書き残しました。「ペトロ岐部、転び申さず候 (ペトロ岐部は最後まで決して信仰を捨てなかった)」。役人がペトロ岐部の信仰の姿に心打たれた言葉だと思います。私達の先達の信仰に心打たれることです。
 イエス様の長い告別説教が続きます。ここでイエス様は、やがてキリスト者が受けるであろう迫害の予告をしておられます。しかし、キリスト者が憎まれる前に、まずイエス様が憎まれたのです。なぜ世はイエス様を憎んだのでしょうか。イエス様に憎しみを向けたのは、主に宗教指導者でした。イエス様の教え、行動が、指導者達のそれと違っていたからです。指導者達は「安息日には仕事もするな」と言って、してはいけない仕事のリストまで作って人々を縛りました。病人も癒されてはならなかったのです。ところがイエス様は、安息日に病人を癒し、苦しみから救われました。そのことが指導者達は、我慢ならなかったのです。あるいは彼らは、自分達の判断基準より下にいる人達を「罪人」と呼んで、接触しないようにしました。しかしイエス様は、「罪人」と呼ばれる人々に近づき、その人達を神に導き、救われたのです。指導者は、そんな宗教家がいることが赦せないのです。イエスが天の神様を「お父さん」と呼んでおられたことも、指導者にしてみれば「神への冒涜」でした。イエス様は、神の真理を語られ、神の愛の業を為して行かれました。24節にあるように、ユダヤ人達は、そのイエス様の業を見た、神様の業を見たのです。しかしそれは、指導者達が造り出した信仰の形とは違ったのです。それで憎まれたのです。
 弟子達の時代、彼らは、ユダヤ教、あるいはローマの宗教が支配する社会でイエス様を神として生きました。ローマ帝国に住む者は、年に一度、皇帝を神として拝み、ローマに忠誠を誓わなければなりませんでした。クリスチャン達は、それをしませんでした。それで「不信仰な者達、不忠実な者達、危険な者達」として憎まれました。どんなに善良な生活をしていても、他の人と違うことをすれば、受け入れられないのです。日本でも、歴史の中でキリスト者は憎まれました。ペトロ岐部もそうです。数年前に評判になった「沈黙」の映画の中でも、キリスト者が憎まれる様子が描き出されていました。また70年前の戦中も、ある牧師達は牢に入れられ、解散させられた教会もあるのです。
 私達はどうでしょうか。信仰を持っているからといって「憎まれている」と感じることは、あまりないかも知れません。しかし世は、世間一般と違うもの、異質なものを疎ましく思う傾向を依然として持っているのではないでしょうか。そして私達も、ある意味で回りと違うのです。それは、私達が信仰を拠り所として生きているということです。多くの人が神を認めない世にあって、私達は神様の支配を信じ、聖書の言葉を喜び、聖霊の働きを期待して、希望を持って歩いています。死は終わりでなく、死の向こうに天国があると信じて生きています。私達を生かしているこれらの土台のところは、私達が意識しようがしまいが、外へ出て来るのです。その意味で、私達も、世から疎まれる条件に当てはまるかも知れません。しかし、それはある意味で、私達の置かれている恵みの立場をはっきりさせることでもあるのです。イエス様は言われました。「あなたがたは世のものではなく、かえってわたしが世からあなたがたを選び出したのです。それで世はあなたがたを憎むのです」(19)。私達が世の在り方と違う在り方で生きているとしたら、それは私達がイエス様によって世から選び出された証拠だし、聖書が「私たちの国籍は天にあります」(ピリピ3:20)と言うように、私達が天の御国に属している証拠なのです。イエスは言われました。「しもべはその主人にまさるものではない」(20)。イエス様が憎まれたのなら、私達が世から疎まれることがあっても不思議ではないということです。そのことをイエス様は、予め弟子達に語られたのです。
 では、世がそういうものだとして、私達は、世に在って、どのように生きて行ったら良いのでしょうか。3つのことがあると思います。
 1つは、自分の罪を認めて生きるということです。イエス様は22節で「もしわたしが来て彼らに話さなかったら、彼らに罪はなかったでしょう。しかし今では、その罪について弁解の余地はありません」(22)と言われました。彼らの罪とは、イエス様、神様に対する不信仰でしょうが、しかし彼らは、自分達のことを不信仰だとは思っていません。9章41節に「もし、あなた方が盲目であったなら、あなたがたには罪はなかったでしょう。しかし、あなた方は今『わたしたちは目が見える』と言っています。あなたがたの罪は残るのです」という言葉があります。彼らは、自分達のことを熱心な信仰者だと思っているのです。実際、ある意味で熱心でした。しかし、いつの間にか、天に代わって人に石を投げるような信仰になっていたのです。それがイエスの言われた「あなたがたは『自分は見える』と言っている」と言うことです。しかし結果として、「見える」と言っていた彼らが見えなかったのが、自分の中にある罪だったのです。自分も、神に罪を覆われ、神に導いて頂かなければならない存在であることを忘れてしまっていた、そして神の御心から一番遠い所に立ってしまっていたのです。自分が絶対になってしまって、神の許から神のメッセージを持って来られた方を見ても、その方のどんなに素晴らしい業を見ても、「自分の方が正しい」として、その方を退けてしまったのです。
 私達へのレッスンは、私達も、神に罪を赦され、神に導いて頂かなければならない存在であることをしっかりと覚えるということです。彼らも、身を低くして聞く耳を持つことができれば、救いは目の前にあったのです。しかし、彼らはイエス様を無視しました。しかし私達も、神を信じている、でも神様に聞こうとしない、イエス様の言うことに真剣に耳を傾けない、そういうことがあるのではないでしょうか。この「しもべはその主人にまさるものではない」(20)という言葉は、重い言葉だと思います。私達の主は、私達のために十字架に架かられた主です。私達は、十字架のゆえに、神の恵みに与り、永遠の命に与っているのです。しかし、神様を隅に追いやって、自我で行こうとする、思い通りにならないと神様を恨む、そういうことがあるのではないでしょうか。イエス様は、その私の罪のために十字架に架かって下さいました。そのイエス様の十字架に生かされて在る、ということを思う時、祈りを忘れることはなくなる、赦しを、導きを求めることを忘れることはなくなるのではないでしょうか。私達は、彼らのように心を頑なにしてはならないと思います。
 2つ目は、愛に生きることです。イエスは「あなた方は、憎まれたら憎み返せ」とは言われなかったのです。「もし、世があなたを憎むことがあっても―『しもべはその主人にまさるものではない』(20)―私が生きて見せたように生きなさい」と言われたのです。イエス様は、神様の使命を持って世にお出で下さいました。聖書は宣言します。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。神が世を愛された、イエス様はその愛を生きられたのです。だから、イエス様に敵対する人々にも救いの道を説かれたのです。最後は、ご自分を十字架に架ける人々のために神の赦しを執り成されたのです。遠藤周作が言っています。「自分達の卑怯な裏切りに怒りや恨みを持たず、逆に愛を持ってそれに応えることは人間のできることではなかった。少なくとも弟子達は…今日までの人生のなかで、そのような人を見たことはない…ユダヤの歴史に…もそのような人は一度も出現しなかった。その驚きは弟子達には激しかった」(遠藤周作)。その愛が弟子達を変え、人々を変えて行く力となって行くのです。イエス様はこの一連の説教の中でも「愛に生きなさい」と繰り返し語られました。「山上の説教」では「敵さえ愛する愛に生きなさい」と言われました。結局、キリスト者の生き方とは、愛に生きることではないでしょうか。ある方が言われました。「私は神に愛された。その愛された愛で誰かを愛し返す、それが私の信仰です」。教えられます。
ある姉妹は、父親の暴力に耐えきれなくて母親と家を出たのです。彼女は父親を憎んでいました。やがて母親が死にます。彼女は入院中の父親に母親が死んだことを知らせに行きます。父親は「俺が生きているのはお前への復讐の一念だ」と言います。彼女も「お母さんが死んだのはお父さんのせいよ,どうしてくれるの」と言いたかったのです。でも口をついて出た言葉は「お父さんを放っておいてごめんなさい。赦してね」という、言った本人が一番驚くような言葉だったのです。父親の怒りは消え、もう何も言えなくなるのです。憎しみに、憎しみをぶつけても何も変わりません。キリスト教会がローマ世界で人々に認められ、広がって行く、その理由の1つは、教会の愛の生き方だったと言われます。愛に生きること、それが、イエス様を主と仰ぐ生き方なのだろうと思います。
 3つ目は、証しに生きることです。キリスト者は憎まれました。しかし、キリスト者を憎むローマ帝国の中で、教会は広がって行ったのです。そして、やがてコンタンチヌスという皇帝がキリスト教を公認するのです。教会を無視しては、敵対していては、帝国を治めることが出来ないくらい、教会は成長して行ったのです。凄いことです。なぜ、そんなに成長したのか。もちろん神のご計画でしょうが、しかし具体的には、クリスチャン達がイエス様のことを宣べ伝えて行ったからです。彼らは命がけで「ここにしか救いはない」と宣べ伝えたのです。そして、イエス様を信じる信仰に力があったから、本物だったから、彼らの証しは広がって行ったのです。明治初年、長崎の浦上から島根の津和野に流された切支丹達の中に5歳の女の子がいました。女の子を何とか棄教させようとした役人が、お菓子を見せて「『キリシトは嫌いだ』と一言言いなさい。後はおじさんが全部世話して上げるから」と言いました。しかし女の子は「ゼズス様を汚す言葉を言うことなんかは出来ない。天国にはもっと素晴らしいお菓子がたくさんあるから」と答えて死んで行きました。しかし、その返事を聞いた役人がやがてクリスチャンになり、牧師になったのです。5歳の女の子の信仰が、人を変えたのです。日本でも起こったこんなことが、ローマ帝国内のあちこちでも起こったのではないでしょうか。
 私達も、その力ある、人を生かす真理である福音を委ねられています。良い話を知っていたら、人に聞かせたいと思うではありませんか。ある牧師がこう言っておられます。「証というものは特別な行いであってはならないのではないか。生活そのものでなくてはならない。苦しいと言ってはうめき、悲しいと言っては泣き、自分の弱さに何回もつまずきながらも、神に依りすがって生きて行く、それが私達の信仰生活である。それは、スマートなかっこいいことではない。いや、しばしば、はなはだかっこ悪いことである。それでいい。どんなにかっこ悪くつまずこうが叫ぼうが、その人間の支えられている土台というものは現れているのだと思う。どんなに弱点をさらして生きたってかまわない。その人間の根拠はかくしようがない」(小島誠志)。私達が神を信頼し、神を人生の土台に据えて生きて行くなら、その生き方が、神のご存在を証しするものになるのではないでしょうか。そして私達が証しに生きようとするなら、私達の話を聞いてくれる人がきっと備えられているはずです。そして神を信じる方、永遠の命をもらって天国に向かって歩む方が起こされた時、天国では歓声が上がるのです。そんな神様の働きに、置かれた場所で加わって行ければ、何と幸いなことでしょう。
 終わりになりますが、先日、ある方から「家族に伝道をしたいけど、どうしたらよいか分からないのでとりあえず聖書を贈ることにしました。ついては何か御言葉を書いて下さい」というお電話を頂きました。「皆、心が固いのです」と言われましたが、その時、私はパウロのことが思われました。「新約聖書」の多くの書簡を書いたパウロ、しかし彼は、クリスチャンを憎み、教会を迫害していた人でした。しかしそのパウロが、やがてイエス様を宣べ伝える人になったのです。私は「神様はパウロさえ変えられた方ですから、希望を持って祈って行きましょう」と申し上げました。私達も、他の人に受け入れられない、時には憎まれることもあるかも知れません。しかし神様は、それにも勝って素晴らしいことを為さる方です。この神様に希望を置いて、前に向かって歩いて行きましょう。

聖書箇所:ヨハネ福音書15章11~17節

  小学校に勤めていた時にある先生から聞いた話です。1人の男の子が忘れ物をしました。彼は、よく忘れ物をする子でした。先生も、「またかっ!」と思って叱ろうとしたけど、ぐっと我慢して、「どうすれば魂が入るか」、それを考えて取りに帰すことにしました。「叱らないけど、家に取りに帰って来なさい。取りに帰れるか」。彼は、「叱られる」と思ったのに、思わぬ優しい言葉に喜んで、「はいっ!」と言って一目散に家に帰ったそうです。しばらくして、彼の家から学校に電話がかかって来ました。お母さんが先生に言いました。「家の子供が忘れ物を取りに帰って来ましたけど、何を取りに帰ったのかを忘れてしまっているので、教えてもらえませんか」。
私達も、自分が何をするように言われて歩いているのか、それを忘れてしまうことがあるのではないでしょうか。そのような意味で、今日の箇所は「私達は何を期待されているのか、神様は私達に何を願っておられるのか」、そのことをもう一度教えてもらえる箇所です。
イエス様の「告別の説教」が続きます。前回は「ぶどうの木」の譬えを通して「信仰の成長」について語って下さいました。自動車の運転でも何でも、初めのうちは、楽しむ等という余裕はありません。しかし少し上達してくると、運転を楽しむことが出来るようになります。信仰生活においても、成長して行くと信仰生活の深い喜びが分かる、そういう面があるのではないでしょうか。それでイエス様は11節で「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(11)と、「私の経験している喜びで、あなたがたの喜びが満たされるために話したのです」と言われたのだと思います。信仰生活は、基本的に「喜びの生活」なのです。それは「ワッハッハ」という喜びではないかも知れない。しかしそれは、私達を希望に生かす、深いところから湧き上がる、尽きない喜びなのです。今日の箇所でイエス様は、私達の信仰生活の喜びについて一歩話を進めて行かれます。それは「使命に生きる喜び」ということです。
イエス様は言われます。「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(12)。イエス様は17節でも、念を押すように同じことを言っておられます。「キリスト者とはどういう人か」と問われたら、「それは互いに愛し合う使命に生きている者だ」ということになるのではないでしょうか。そして使命に生きることは、喜びではないでしょうか。教員になって最初の1年は、失敗の多い、酷い1年でした。そんな時に事務の先生が私に「焼却場の看板の文字を書いてくれませんか」と言って下さいました。私は、美術関係は好きでしたので、「明朝体で書けば良いですか」と言って引き受けました。毎日、昼休みになると、物置のような場所に行って、木の表札にペンキで文字を書きました。「あなたにこれをやって欲しい」と言われて、それをやって行く、少し出来ると褒めてもらえる、それは私の喜びになっていました。「あなたにこれをやって欲しい」と言われて、それをやって行くことは、喜びだと思います。その意味で、イエス様の使命に生きることは、喜びなのです。
しかも、ここでイエス様は「これがわたしの戒めです」(12)と、「こうしなさい」と強く言われました。私達が、具合が悪くて医者に行ったとします。お医者さんが症状を診て、この薬を飲めば治る、この食事療法が必要だ、という時には、「よかったら、この薬を飲んでみたらどうでしょうか」等とは言いません。そんな処方では患者が困ります。そうではなく「この薬を飲みなさい、こういう食事療法をしなさい」と確信と愛情を持って言うでしょう。「これがあなたのためなのだ」ということです。イエス様の強い口調も同じです。「あなたがたも互いに愛し合(いなさい)」、「愛に生きることが、あなたがたのためなのだ、あなたの喜びが増し加わるためなのだ」と、イエス様は確信を持って言われたのです。だから、11節、17節、そして13章34節でも「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)と言われたのです。私達は、何のために生きているのか、何を使命に生きて行くのか、それを見失わないようにしたいと思います。
しかし、ここで考えなければならないのは「わたしがあなたがたを愛したように」(12)という言葉です。「イエス様の愛で愛しなさい」と言われているのです。私達の愛は、どういう愛でしょうか。ある人が言っていました。「私はね、家内が良くしてくれるときは愛することが出来るけど、良くしてくれないときは愛することが出来ない」。当たり前のことのように思いますが、なぜ「奥さんが良くしてくれないときは愛することが出来ない」のでしょうか。それは、愛の関係の中心に、自分というものがデーンと居座っているからではないでしょうか。自分を中心とした愛だから、自分が満足出来ないと愛せない、ということなのではでしょうか。「聖フランシスコの祈り」に「神よ…愛されることよりも、愛することを望ませて下さい」という言葉があります。しかし私達の愛は、「愛する」ことを願う愛ではなくて、「愛されること」を願う愛なのかも知れないと思うことです。
人間の愛で最も神の愛に近い愛は、「親が子を思う愛」だと言われます。ある方がポツリと言われました。「親は子のためには何でもするのにね」。そうなのだと思います。つまり、親が子を思う愛は、「与える愛」、「愛する愛」という意味で神の愛に近い愛なのだと思います。ですからイエス様が「わたしがあなたがたを愛したように愛し合いなさい」と言われるのは、「自分を中心とした愛、愛されることを願う愛ではなくて、相手にとっての最善を願う愛で、関わって行きなさい、交わりを作り上げて行きなさい」ということではないでしょうか。
 しかし、これは難しい、なかなか出来ないことです。私の愛も、いつも条件付きです。時には「恨みや憎しみを抱えた愛です」。だからこそイエス様は、愛において弱い私達に3つの励ましを語って下さいます。
 1つ目は13節です。「人がその友のためにいのちを捨てるという、これよりも大きな愛はだれも持っていません」(13)。この言葉を読むと、「そんな愛は、私にはありません」と下を向いてしまいそうですが、イエスは私達に「あなた方も友のために死ぬほどに愛しなさい」と言っておられるのではないと思います。そうではなくて、「イエス様が十字架にかかってまで私達を愛して下さった」ということが言われているのであり、ポイントは「あなた方は、そのような愛で愛されているのだよ」ということです。
 私達は、神の御手の中で、神に希望を持って生きて行けることを喜んでいます。また、やがて私達は皆、必ず地上の生涯を閉じますが、死は滅びへの入り口ではなく、素晴らしい喜びと祝福への入り口となった、ということを喜んでいます。しかし、私達がその素晴らしい祝福に与るために、イエス様は、あなたのために(私のために)死んで下さったのです。死ぬほどの愛で、愛して下さったのです。今も、その愛で愛して下さっているのです。だから「あなたもそんな大きな愛を受けているんだよ。だから、あなたも愛に生きて行きなさい」、それがここで言われていることなのです。ある教育の本に「愛されたことのない子は、愛することを知らない」と書いてありました。私達は、愛された者なのです。だから愛することを知っているのです。だから「あなたも愛に生きて行きなさい」とイエス様は言われたのです。
 2つの目の励ましは14節です。「わたしがあなたがたに命じることをあなたがたが行なうなら、あなたがたはわたしの友です」(14)。私達がイエス様の戒めに生きる時、イエス様は私達を「友」と呼んで下さると言うのです。一見、何でもない言葉のようですが、大変な言葉です。「旧約」の人々は、「神のしもべ」と呼ばれることさえ名誉として喜んだのです。それほど神様は、畏れ多い方だったのです。そんな「旧約」の中で「神の友」と呼ばれた人がいます。それは「旧約」最大の出来事である「出エジプト」を導いたモーセです。聖書にこうあります。「主は、人が自分の友と語るように、顔と顔とを合わせてモーセに語られた」(出エジプト33:11)。不信仰なイスラエル人を、大変な困難を経験しながら導いて行ったのがモーセでした。そのモーセに対して神は、「友と語るように」接せられたというのです。「神の友」という特権は、「旧約」の長い歴史でもモーセだけに与えられた特権です。その特権を、イエス様は私達に下さると言われるのです。私達も、あのモーセだけの特権に与ることが出来るのです。先日お送りした「お便り」の中でご紹介したレーナ・マリアさんはこう言っています。「人生の中で困ったことが起こった時、すべてに信頼のおける方を、私は知っています。それは私の最高のお友達、イエス・キリストです。私は寂しいとき、イエス様に祈りながら、心の中にあるどんなことでも打ち明けています…」(レーナ・マリア)。私達の頂いている特権を良く教えてくれる言葉です。また、3年前に「信徒大会」でご奉仕下さった横山幹雄先生はこう言っておられます。「私を友と呼んで下さる。そんなイエス様を知ると、心が熱くなる。こんな私を? 自分でも自分が嫌になり、友と呼ばれる資格のない、恥ずべき自分なのに…。しかし主は『自分には資格がないと悟ることこそが、その資格なのだよ』と語って下さる。『あなたのその恥を、わたしが十字架の上で身代わりに受けたのだから』と」(横山幹雄)。イエス様に「友」と呼ばれることの恵みを教えられます。
いずれにしても、私達はそんな特権を与えられているのですが、さらに素晴らしいのは、「あなた方は友だから、父の御心を教えよう」と言って語って下さったのが、16節の言葉です。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです。それは、あなたがたが行って実を結び、そのあなたがたの実が残るためであり…」(16)。「『あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選(んだ)』、これは神様の深い御心なのだ」と教えて下さったのです。そして「神が選ばれたあなた方だから、実を結ぶことが出来る」と言っておられるのです。私達もイエス様の愛を受け取り、励ましを受け取り、神の深い御心に支えられて、きっと愛に生きることが出来るのです。
 3つ目の励ましは16節です。「あなたがたがわたしの名によって父に求めるものは何でも、父があなたがたにお与えになるためです」(16)。実際問題、私達が愛に生きることは難しいことを、イエス様は知っておられました。だから「愛に生きることが出来るように、その力を求めて祈りなさい、神様がその力を与えて下さいます」と教えて下さいました。私達は、愛において弱いです。弱いから、自分の力で愛そうとするのではなくて、神様に力を頂かなければならないのです。そのためには、祈ることです。祈りを通して、私達は神様に力を頂いて、与えられている素晴らしい使命に生きて行くのです。
天に帰られた姉妹が、以前言われたことがあります。「私達には『きょうよう』と『きょういく』が必要です」。それは「生活の張りのために『今日、用事があること』と『今日、行く所があること』が大切だ」という意味でした。今は「どこかに行く」ことは難しいですが、「愛に生きる、隣人を愛する」という大切な用事に生きることは出来ます。「誰にも会わない日がある」という場合もあるでしょう。でも「愛は祈りから」と言われます。愛に生きるために、誰かのために祈ることが出来ます。いずれにしても「愛に生きること」、それが私達に与えられている使命です。この使命から迷い出ず、この使命を生きて行きたいと願います。イエス様は、そこに喜びがあると約束して下さっています。
 

聖書箇所:ヨハネ福音書15章1~10節

 神学校である先生が「私達が栄光の体を頂く時、私達は、私達が理想として描ける30歳位の体に変えられるのではないか」と言われました。具体的な話だったので印象深く覚えています。その後、1つの話を聞きました。1人の姉妹が、お母さんが亡くなる直前に幻を見ました。その幻の中で、お母さんは天国に続く階段を上って行きました。ところが、階段を上っていくお母さんの姿が、ある所で若者の姿に変えられて、そしてその後は、駆け上がるようにして階段を上って行ったそうです。姉妹が幻から醒めて、「お母さんは天国に行くんだ」と平安が与えられた直後に、お母さんは息を引き取られたそうです。私達の人生は、地上の生涯が終わった後にこそ、素晴らしいことが待っているのだと思います。だからこそ、天国を十分に楽しめるように、今のうちに、少しでも魂を天国向きに変えたいと願います。
 イエス様の説教が続きます。今朝の箇所は「ぶどうの木の譬え」として有名な個所です。イエスはここで何を教えておられるか。一言で言うと「信仰の成長」ということです。私達はイエス様を信じる決心をして、信者として歩み始めます。喜びがあり、感動があり、恵みを経験して行きます。しかし一方で、相変わらず自我に振り回され、醜い思いを持って生きている自分もいるのです。それを見て、悩んだり、がっかりしたりするのではないでしょうか。神様が私達を召されたのは、素晴らしい信仰生活を経験させるためです。しかし現実にギャップがある。その意味で「信仰の成長」は、信仰生活の大切なテーマだと思います。3つのことを申し上げます。
 

1:「信仰の成長」の目的

 イエス様は1節で「わたしはまことのぶどうの木で(す)」と言われます。私達には唐突に思える「ぶどうの木の譬え」ですが、ユダヤ人である弟子達には、そうではありませんでした。というのは、「旧約聖書」はイスラエルの民を「神のぶどうの木」として描いているからです。例えば「ホセア書」は「イスラエルは、多くの実を結ぶよく茂ったぶどうの木であった」(ホセア10:1)と言いました。ぶどうの木は、イスラエルの民の象徴でした。しかし「旧約聖書」は「イスラエルは神のぶどうの木だったのに、よい実をつけることができなかった」と語るのです。つまりイエス様の言葉の背景には、「イスラエルは神のぶどうの木だったのに、神の御心に適うよい木に成長することができず、むしろ荒れ果てたぶどうの木になってしまった」という事実があったのです。その結果、彼らは、本来期待されていたはずの実り豊かな歩みをすることが出来なかったのです。
 実りとは何でしょうか。例えば私達に期待されている実りは何でしょうか。神が望んでおられることは、1人でも多くの人が救われることですから、その意味では、「福音を伝えること」もあるかもしれません。しかし、ここで言われていることは、それよりもっと広い意味で「イエス様を信じる者としての生き方の実、人生の本当の実」ということではないかと思います。では、「イエス様を信じる者の生き方の実」とは何でしょうか。「ガラテヤ書」には「霊の結ぶ実は、愛に生き、平和に生き、寛容に生き、親切に生き、善意に生き、誠実に生き、柔和に生き、節制に生きることだ」(ガラテヤ 5:22・意訳)とあります。ある人は、それをまとめて「『信仰の成長』のしるしは愛と謙遜だ」と言いました。そのように生きることが出来れば、私達の人生はもっと豊かになるのだろうと思います。しかし、そこにとどまらない。さらに大きな目的があります。イスラエルは、自分達が実りをつけることが出来ないことを通して、神の栄光を表すことに失敗したのです。8節に飛びますが、「あなたがたが多くの実を結び、わたしの弟子となることによって、わたしの父は栄光をお受けになるのです」(8)とあります。佐藤彰先生に頂いた半谷昌という方の生涯を描いた証の本の中に、次のような文章がありました。「クリスチャンではない方の口からも、『本当の神様がいるとすれば、あの方が信じている神様かも知れない』と聞こえてきた…」。1人の姉妹を通して、神の栄光が現れたのです。コロナ禍の今、「人間はもっと謙虚になることが求められているのではないか」という声を聞きます。しかしそれも含めて、神が生きておられることを知ること、神の前に遜ることを知ること、そのことが、1人の人生にとっても、人類の未来にとっても、本当に大切なことだと思います。神が生きておられることは、どうやって示されるのか。それは神ご自身が為さることでしょうが、しかし神様は、私達のような者の人生を用いてご自身を現して下さる方です。私達が人生の本当の実りをつけて、そのことを通して、どんなに細やかでも神様の存在を周りの方々に示すことが出来れば、私達の人生には、何と大きな意味、永遠の意味が生まれることでしょうか。成長し、人生の実りを実らせる目的は、神の栄光を表すことです。それはまた、私達が自らの人生を最高に生きることでもあるのです。
 

2:「信仰の成長」をもたらすもの

具体的に何が「信仰の成長」をもたらすのでしょうか。2つあると思います。1つは、神様がして下さること、もう1つは、私達がすることです。
 

1)神がして下さること

 イエス様は2節で「わたしの枝で実を結ばないものはみな、父がそれを取り除き、実を結ぶものはみな、もっと多く実を結ぶために、刈り込みをなさいます」(2)と言っておられます。これは「実を結ばない信者は取り除く」と言っておられるのではなく、イエス様を信じる者皆が、もっと良く人生の実りを実らせることが出来るように、神様が1人ひとりに刈り込みをして下さる、ということです。ぶどうはパレスチナ全体でよく栽培されましたが、よく刈り込みをしないと、葉ばかり茂らせて実を結ばないようになってしまうそうです。栽培者は、そうならないように、枝をよく見分けて、実を実らさない枝は徹底的に刈り込むそうです。そうすると実を実らす枝は、ますます豊かな実を実らせるようになるそうです。イエス様は、神様が信仰者1人ひとりをそのように扱って下さると言われるのです。
 実際、私達は、信じた後も、色々なところを通らされて信仰を育てられて行くのではないでしょうか。メノナイトの神学校の校長先生の著書にハワードという兄弟のことが書いてありました。彼は小さい頃から神童と言われて育ち、順調に大学に入り、卒業と同時に大学に残って研究者としての生活をしていました。自分の研究、それが彼にとって人生で最も意味のあることでした。ところが、研究に没頭しているうちに大きな病気をしてしまいます。それは、彼にとっては大きな挫折でした。しかし、その状況の中で初めて彼は、自分の人生にとって一番重要なことは何なのか、ということを考えるのです。それまでの自分の価値であった業績が取り去られた時、彼を支えたのは「その状態でも自分には寄り掛かって行くものがあった」という発見でした。つまり、神に頼れるということがいかに大きなことであるか、を理解したのです。同時に自分は本当の意味で神様を求めて歩いて来なかった、ということを感じるのです。やがて彼は、信仰者として愛を磨くことが人生の目標になるのです。彼は言っています。「神は、時に私達の枝を切り取られる。そのことを通して私達が人生の実を結ぶことができるようにして下さるということを今実感している。病気がなければ、私は人生の中でイエス様に会う備えをすることをしなかっただろう、大変なことになるところだった」。そう言って神様の刈り込みに感謝しているのです。
 私は、神様がわざと彼を病気にしたとは思いません。神が私達に大事なことを教えるためにわざと苦しみを与えるとは思いません。しかし神様は、私達に大事なことを気づかせ、もっと豊かな歩みをさせるために、私達にやって来る痛みを用いられるということがあるのではないかと思います。それは、否定的な、消極的なことではないように思います。むしろ、その理解が、私達に色々な問題がやって来た時、「この苦しみにも必ず神の計画があり、神様は私をさらに祝福に向けて成長させようとしておられる、神様はこの苦しみを人生の祝福に変えて下さるのだ」と思うことが出来るのです。そして実際そうに違いないのです。
 

2)私達がすること

 ここが今朝、一番申し上げたいことです。イエス様は、この個所で繰り返し「わたしにとどまりなさい」と言っておられます。4節「わたしにとどまりなさい…あなたがたも、わたしにとどまっていなければ、実を結ぶことはできません」(4)。5節「人がわたしにとどまり、わたしもその人の中にとどまっているなら、そういう人は多くの実を結びます」(5)。6節「だれでも、もしわたしにとどまっていなければ…」(6)…。「わたしにとどまれば実を結ぶ」「わたしにとどまっていなければ実を結ぶことはできない」と繰り返し言われるのです。では「イエス様にとどまる」とは、どうすることでしょうか。それは7節です。「あなたがたがわたしにとどまり、わたしのことばがあなたがたにとどまるなら…」(7)。つまりイエス様にとどまるとは、「イエス様の言葉にとどまる」ということです。私は改めて言葉の重大さを思うのです。私が居たバンクーバーは、人口の半分の人は家庭で英語以外の言葉を話しているそうです。色々な国から集まっているから、母国語もバラバラです。私達の家庭では、もちろん日本語でした。日本語を話すということは、日本語を使って考えるということです。つまり日本語文化の価値観で生きるのです。それぞれの言葉を話す人達も、その言葉の文化で生きているのです。そのバラバラの文化的背景の人々をカナダ人として生かしているのは英語です。言葉です。(ちょっと言い過ぎかも知れませんが)。ある日系人の方が言われました。「家の娘たちはバナナです」。外側は日本人だけれど、内側はカナダ人だという意味でした。学校で、英語で学び、英語で考えて行く中で、カナダ人としての価値観、生き方の様式が身について行くのではないかと思うのです。もちろん、言葉だけではないと思います。その意味で譬えはまずいですが、申し上げたいことはこうです。イエス様の言葉を、私達が本当に心に蓄え、イエス様の言葉の価値観に影響されて物事を考えるようになるなら、やがて自然と、少しずつでも、イエス様の言葉の価値観で生きるようになるのではないでしょうか。私達を信仰者として成長させて行くのは、言葉ではないでしょうか。「デイリー・ブレッド」にこんな記事がありました。「チャールズ・シメオンは英国ケンブリッジで50年牧師をしましたが、新米の頃…きつくて自己主張が強い(人でした)…シメオンは、時を経て、優しい人になりました。その理由の一つは、彼が毎日、聖書を真剣に読んで祈り、それを実行したことです。彼と数か月、寝食をともにした人は、その努力を目の当たりにし『あれが、彼のあわれみ深さと強い霊性の秘訣だ』と語りました…」。御言葉に変えられたのです。その意味でも、イエス様の言葉、聖書の言葉に触れ、御言葉を蓄えることは、私達の信仰生活にとって大切なことなのです。カナダにいる時、お交わり頂いた韓国人の先生が「弟子訓練、弟子訓練」ということを盛んに言われたので、「弟子訓練とは何ですか」と聞いたことがあります。その先生は言われました。「御言葉を学ぶことです。御言葉が入ると、その人は変えられます」。「百万人の福音(1月号)」に本田路津子さんの証がありました。彼女は単語帳に御言葉を書いて、それをバッグの中に入れて、持ち歩いて、御言葉を覚えていると、それが信仰生活を豊かにしていると、言っておられました。
私達は、御言葉にとどまることに、もっと貪欲になって良いのではないでしょうか。悩みの時に、悲しみの時に、決断を迫られる時に、もちろん喜びの時にも、いや、何気ない人との交わりにおいても、御言葉に導かれて行く、そんな信仰生活を目指したいものだと思います。その意味で毎日少しでも聖書に触れることが大切です。聖書を抜きにして信仰の成長はないと、イエスが言われるのです。そして、そのように御言葉に導かれ、少しでもイエス様の価値観、聖書の価値観をもって祈るなら、それは「かなえられます」(7)とイエス様が約束して下さっています。
聖書を読みましょう。御言葉を蓄えましょう。イエス様の言葉の中に人生の根をおろしましょう。私達のまだまだ知らない豊かな信仰生活が待っていると思います。
 

3:「信仰の成長」の祝福

 信仰の成長が何をもたらすか、今日の箇所の次の11節にこうあります。「わたしがこれらのことをあなたがたに話したのは、わたしの喜びがあなたがたのうちにあり、あなたがたの喜びが満たされるためです」(11)。信仰の成長がもたらすものは、喜びだと約束して下さいました。それは、「ハハハッ」という喜びではないかも知れません。しかし、「聖歌476番」は「このやすき、この喜び、たれもそこない得じ」と歌います。何がやって来ても、損なわれない喜びなのです。そしてそれは、地上における喜びはもちろんですが、それ以上に、やがて天に帰った時の計り知れない喜びに繋がっているのではないでしょうか。そこに向かって歩みを進めましょう。