2021年12月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:ルカの福音書2章2138

 前にもご紹介しましたが、先日、ある方が、ある場所で私を見つけて話しかけて来て下さいました。その姉妹は、ご自分の証しをして下さり、祈りによって神様の様々な恵みを見せられて来たことを話して下さいました。「この信仰は本物ですよね」、新興宗教を経験された方だからこその言葉だと思いました。そして「お母さんはいかがですか」と聞かれました。私が2~3年前に「母の救いを祈っています」と申し上げたのを覚えていて、祈って下さっていました。他所の教会員の祈りの課題をこんなに黙々と祈って下さっている方がいるのだと、信仰の励ましを頂く思いでしたが、その方の顔は、信仰の力に満ちているように感じました。祈りは、祈っている人に信仰による力を与えて行くのだと、そんなことも思わされたことです。皆さんも今年、様々なことを祈って来られたことでしょう。牧師のことも祈っていて下さいますこと、本当にありがとうございます。皆様の祈りによって、私も前に歩くことができています。
 今朝の箇所―(22節以降)―は「シメオンの讃歌」として有名な箇所です。初めに記事の背景を確認します。イエス様が生まれてから40日が経った頃でしょうか、ヨセフとマリヤは赤子のイエス様を連れてエルサレムの神殿に詣でました。目的は「マリヤの産後の聖め」のためと「イエスを神に捧げる」ためです。ユダヤの女性は子供を産んでから40日が過ぎた時、聖めの儀式を行いました。また生まれた子供は、長男は神に捧げるものとされました。しかし本当に捧げてしまったら、家に子供がいなくなりますから、通常は長男を捧げる代わりに5シェケル―(10万円位)―捧げて子供を贖った―(買い戻した)―のです。それが律法の定めでした。そのためにヨセフとマリヤ、赤子のイエス様が神殿に行きました。するとそこにシメオンとアンナいう老人がいました。アンナは84歳、シメオンも高齢だったと思われます。そのシメオンがイエス様を見て語った言葉がこの個所の主な内容です。それは何を教えるのでしょうか。2つのことを申し上げます。
 

1:「シメオンの賛歌」~祈りの恵み

25節から、「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた…シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです』」(2:25,28~30)。イスラエルは長く外国の支配下で惨めな状態でした。その中で人々は、様々なイメージで、ユダヤの栄光が回復されることを待ち望んでいました。その中に全身全霊を打ち込んで、神様が何かを始めて下さることを祈り続ける人々がいました。シメオンやアンナもそのような人でした。シメオンはイエスを見て喜びます。彼はイエス様を見た時、その赤子が神から送られた{主のキリスト(救い主)}であることが分かりました。つまり、神がイスラエルの民に―{31節では「万民(全ての民)」が視野に入っていますが}―いよいよ癒しの業を、救いを始めようとしておられる、そのことが分かったということです。彼はそれを喜んだのです。 
しかし、なぜシメオンは、赤子のイエスを見ただけでそのようなことが分かったのでしょうか。25節に「聖霊が彼の上にとどまっておられた」(25)とあり、26節には「聖霊のお告げを受けていた」(26)とあり、27節にも「御霊に感じて宮に入ると」とあります。何よりも聖霊の示しによることだったのです。しかしなぜ、彼はそれほど御霊に満たされていたのか、神の近くにいたのでしょうか。彼の側の理由もあったのではないでしょうか。それは、彼が祈っていたということです。「待ち望んでいた」(25)というのは「祈りつつ待っていた」ということです。ある英語の聖書は「祈りに満ちた期待に生きていた」(メッセージ訳25)と訳しています。
「靴屋のマルチン」という話があります。この教会でも数年前のクリスマスに子供達が劇をしてくれました。マルチンは、妻も一人息子も亡くして、神に失望して過ごしていました。そんな時、友達が訪ねて来て聖書を読むように勧めます。マルチンは、聖書を読み、祈ることを始めました。「神様が本当にいるのなら、私のところに来て下さい」。そんな中で神の声を聞くのです。「わたしは、明日、あなたの家に行くよ」。次の日になりました。窓の外を見ると雪かきの老人が疲れている様子でした。マルチンは家に呼んで、熱いお茶を出して上げました。今度は、赤ちゃんを抱いた女性が震えながら立っているのが見えました。マルチンは家に入れて、パンとスープを出して上げ、上着も上げました。次はリンゴ屋のおばさんがリンゴを盗んだ男の子を叱っているのが見えました。マルチンが代わりにお金を払って上げると、男の子はおばさんに謝り、2人は仲良く帰って行きました。やがて外が暗くなり、マルチンは祈りました。「神様、どうしてお出でにならなかったのですか」。その時、マルチンは神の声を聞きました。「マルチン、わたしは今日、あなたに会ったよ。雪かきをしていた老人も、女の人と赤ちゃんも、リンゴ屋のおばさんと男の子も、みんなわたしだったのだよ」。マルチンは喜びました。「私は神様に会ったのだ」。マルチンが開いていた聖書には次の言葉が記されていました。「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)。そういう話です。トルストイは、この話に色々なメッセージを込めていると思うのですが、私が申し上げたいのは、マルチンは、祈りを通して神に近づき、神に触れたということです。旧約の預言者達も、祈りを通して御心に触れました。
シメオンも祈っていたのです。イスラエルが慰められること、救われることを、何年も、何年も祈っていたのです。「神の慰めは、救いはどこにあるのか」と言いたいような辛い日々の中で、祈りつつ待ったのです。それは、どんなに人間的な制度が整っても、繁栄しているように見えても、神が関わって下さらなければ、神の救いが来なければ、本当の祝福は来ない、全ては虚しいからです。以前「クリスマス休戦」の話をしました。神が関わって下さるなら、戦場の真っただ中で和解が起こるのです。私達の教会でも、クリスマス祝会でプロジェクターが壊れて、私は大慌てをしたことがありました。しかし、主が関わって下さるなら祝福の集会が出来ることを経験しました。神が関わって下さるかどうか、それが全てだと思います。彼は、それが分かっていたから祈ったのです。祈って、祈って、神の救いを待ち望み、祈りの中で神に近づいたのです。だから赤子のイエス様の中に―{イエス様は何も語らない、何もしない。しかし神は、独り子を人の世に、人の子として生まれさせたのです。この何もしない、何も語らない幼子イエスの存在そのものの中に、神様の
人間に(私達に)対する憐れみ、私達を救うという篤い意志が現れていた、その}―神の救いの思いを、シメオンは見ることが出来たのだと思います。
その意味でこの箇所は、祈ることの大切さを語るのではないでしょうか。アンナも、84歳の今日まで神殿で祈って過ごしていたのです。だからイエス様のことが分かったのです。祈ることによって私達は、自分で気づこうが気づくまいが、神に近づくのです。祈りに生きたこの2人こそが、救い主の誕生の意味を最初に理解して、喜ぶことができたのです。
神学者ヘンリ・ナーウェンは言いました。「どんなにキリスト教的な言葉を語っていても、キリスト教的な行いをしているように見えていても、祈っていない人がいる。祈らなかったら全てが空しい。それは信じていることにならない…信仰とは祈りである」。祈りに励みたいと願うことです。
 ただ、もう一歩踏み込んで考えたいのは祈りの内容です。シメオンは、イスラエルの慰められることを祈っていました。つまり―(自分のことだけでない)―同胞のために祈ることを生きることにしていたのです。アンナもそうです。おそらく23~24歳でやもめになって、60年間、女1人で生きて来たのです。当時、それは大変なことだったと思います。女性には仕事などないのです。しかし彼女の関心は、自分のことに始終していないのです。同胞の上に神の贖いの出来事を待ち望んだのです。そのことは私達に対するチャレンジです。私はどれだけ心を砕いて執り成しの祈りをしているか、それが問われます。
「百万人の福音」に豊田信行という先生が、お父様のことを書いておられました。土曜日の夜になると伝道者だったお父様は、山に登り、大阪の街を眼下に見渡せる崖の手前でひざまずいて、夜を徹して日本の救霊のために叫び続けておられたそうです。そして祈りながら召天して行かれるのです。こんな器によって日本は神の祝福を得ているのではないか、と思わされました。私達には、こんなスケールの大きな祈りは難しいかも知れません。しかし家族、隣人のためには、祈りを導かれるのではないでしょうか。
「愛は祈りから始まる」という言葉があります。私達は愛することを大事に考えます。それが人間関係の祝福の原則だと信じます。また、家族、隣人への愛に生きる時、本当の満足、祝福ももらうのです。しかし信仰者が「愛する」という時、それは、まず祈ることから整えられて行くものではないでしょうか。聖書に「ある人々が中風の人をイエスのいらっしゃる家に運び、群衆で中に入れないので、外から屋根に上り、屋根をはがしてイエス様の前につり降ろした」という記事があります。その祈りに答えてイエス様が中風の人に業を為さるのです。シメオンも、祈りの中で悲しむ人、苦しむ人々を神の許に運んだのです。その祈りに神が応えて、救い主を送って下さったのです。もちろん、私達は自分のことも祈ります。その祈りは切実です。ある神学者は「最大の罪は祈らないことだ」と言いました。自分のことも熱心に祈りましょう。でも「祈るということの大切な一面は、誰かのために執り成すことではないか」ということも教えられるのです。
私は今年、思いもかけず虫垂炎を患いました。痛い経験でした。しかし、祈って頂ける恵みを改めて実感させて頂く経験でもありました。私達には、自分では祈る力もないということがあります。でも誰かに祈ってもらっている、神の祝福を取り次いでもらっている、それは本当に感謝なことです。教会の交わりは、一見淡泊です。しかし、日々の祈りの中で教会の仲間を覚えて祈る、あるいは、そのご家族の必要を覚えて祈る、祈りの中で誰かを神様の許に運ぶ、神の恵みを、助けを執り成す、そこに教会の交わりの祝福はあるのではないでしょうか。その中に置かれることは幸いです。
 そのように祈りに生きた結果、シメオンは言いました。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」(29)。シメオンは、祈りに励んで来たからこそ、その生活がいよいよゴールにたどり着いた、目的を果たしたという満足感で満たされたのではないでしょうか。ある牧師が言いました。「祈りの中に年老いて行く、それが信仰者の姿だ」。祈りに生きること、そこに人生を満たされたものとして仕上げる秘訣があるのではないでしょうか。
 

2:「マリヤへの預言」~クリスマスの恵み.

 シメオンはマリヤに言いました。「ご覧なさい。この子は、イスラエルの多くの人が倒れ、また、立ち上がるために定められ、また、反対を受けるしるしとして定められています。剣があなたの心さえも刺し貫くでしょう。それは多くの人の心の思いが現われるためです」(2:34~35)。暗い響きの言葉です。しかしこの言葉は、イエス様の生涯に関して重要なことを語るのです。イエスが地上に来られたことによって、イスラエルの人々は―(全ての人々は)―「イエスを信じない者」と「信じる者」とに分けられるのです。(イエス様が分けるわけではない。人が自分でどちらかを選び取るのです)。そしてイエス様は、「信じない人々」によって拒否され、十字架で殺されて行くのです。そのことがマリヤの心を刺し貫くのです。
しかし、これはマリヤだけの痛み、悲しみではありません。他ならぬ、神様の痛み、神様の悲しみをも表現する言葉です。ヨセフとマリヤは、律法に従ってイエス様を捧げ、また買い戻す手続きを取りました。しかし、実はここで神様は、この両親を用いて本当にご自分の独り子を捧げておられるのです。何のためでしょうか。
「多くの人の心の思いが現われるためです」(35)とあります。イエス様を十字架に架けるのは人々の罪です。十字架は、人の持っている罪が現れた時でした。多くの人々が、ある意味で、自分の罪のために、神の前につまずくのです。倒れるのです。しかしここに「多くの人が倒れ、また、立ち上がるために…」(34)とあります。「倒れた人が立ち上がらせられる」という読み方ができます。イエスの十字架によって心を刺された人々が、自らの罪を認め、心を低くした時、神に全ての罪を赦され、神によって立ち上がらせてもらうのです。神と和解するのです。立ち上がった人々はどうなるのでしょうか。シメオンは、そこに何を見ているのでしょうか。
少し節が前後しますが、シメオンは言いました。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」(29)。「もう死んでも良いです」と言ったのです。なぜでしょうか。神が人の世に救い主を送って下さった、そのことの満足もあったでしょう。しかしシメオンは、救い主が彼の死にも平安を与えて下さることを見ていたのではないでしょうか。前にも言いましたが、楽しい旅行をするためになくてはならないものは、帰る所です。帰る所のない旅は放浪です、悲惨です。帰る所があるから、旅を楽しめるのです。人生は旅に譬えられます。旅であれば帰る所が必要です。帰る所がなければ、地上の人生が終わった後はホームレスです。イエス様を信じる者には、地上の生涯が終わった後にも帰る所が備えられるのです。だからこそ、地上の生涯を希望に支えられながら過ごせるし、地上の生涯を平安の内に終えることができるのです。
シメオンの預言は、一見、暗い響きの預言です。しかしそこには、神の犠牲によって、イエス様の十字架によって、私達にどんな恵みが与えられたか、その大きな祝福が語られているのです。クリスマスの一番のプレゼントは、イエス様です。そしてイエス様の十字架と復活によってもたらされた天国の希望ではないでしょうか。そして、それは地上の祝福でもあります。私達も、地上生涯で色々な状況の中でつまずき、倒れるようなこともあると思います。しかし、私達は「御手の中にあるなら十字架には復活が続く」と知っています。そこにも神の御心があると知っています。であれば「神はこの状況も永遠の観点から見た益(善)に変えて下さるに違いない」という希望の中を生きることができるのではないでしょうか。そこで身を低くして、十字架を見上げる時、神様が立たせて下さるのです。
 

3:最後に

 新しい年が始まります。新しい年、祝福もあるでしょう。しかし闘いもあるかも知れません。失望することがあるかも知れません。しかし私達には、祈るという道があります。神の恵みがあります。祈って神の御業を待ち望みましょう。神から来る望みに生きて行く1年でありたいと願います。
 

聖書箇所:ルカの福音書2章8~20節

 クリスマス、おめでとうございます。礼拝を感謝します。皆様が主のご降誕をお祝いにお出で下さったことを、神様が喜んでおられると思います。
さて、皆様は、どのような思いで今年のクリスマスをお迎えでしょうか。コロナ禍のこともありますが、私は、今年、小さな病気を沢山しました。60歳になると人生が落ち着くような気がして、楽しみにしていましたが、60歳になってみたら、急に心身の健康の問題で悩まされることでした。(諸先輩方から「まだまだ今からですよ」と怒られそうですが…)。仕上げは10月の虫垂炎でした。痛みのない時の自分が想像できないくらい痛かったです。しかし神様が、驚くほど速く、つきっきりで癒して下さいました。いずれにしても、病気をして弱くされたことは「神様にすがることのできる恵み」を思うことのできた経験でした。同時に、祈りに支えてもらえる恵み、祈りに答えて働いて下さる神様の恵みを、改めて感じる経験でもありました。しかし、主イエスの誕生がなければ、神の恵みを経験することもなかっただろうと思うと、改めてクリスマスを感謝することです。今日、皆様の上にクリスマスの祝福を心からお祈り申し上げます。
今「ルカ2章8~20節」をお読み頂きました。イエスは、紀元前6年頃、イスラエルのベツレヘムでお生まれになりました。その時、その地方で羊の番をしながら野宿していた羊飼いの許に天使が現れます。羊飼いは恐れます。しかし主の使いは言います。「恐れることはありません…私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます…」(2:10~12)。天使は「すばらしい喜びを知らせ」ようとしたのです。先日インターネットで「何がめでたい?クリスマス」という説教を見つけました。私も今日「何が喜びか?クリスマス」という話をしたいのです。まず、なぜ天使は羊飼いに現れたのか。ある本にこうありました。「真夜中に羊の番を仕事としなければならないような、当時の社会の底辺層の人々…」。羊飼いは野宿を続け、体には獣の臭いがこびり付いています。また宗教の決まりを―(例えば「この日は出歩くな」という安息日を)―守ることが出来ません。それで人々からは「あの連中は神様から遠い連中だ」と言われ、自分達もそう思わされていたのです。その彼らに喜びの知らせが告げられたのです。その意味で天使が告げる喜びは、どんな人にも語られる喜びなのです。だから天使は「この民全体のため―(『全ての人』のため)―の素晴らしい喜び」(10)だと言いました。この喜びの与えられない人はいないのです。だからこれは、私達にも語られている喜びなのです。では、クリスマスはどんな喜びを語るのでしょうか。
 
9節に「主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた」(9)とあります。申し上げたように、彼らは「自分達は神に相応しくない」と思っていたから神を恐れたのです。日本人も後ろめたいことがあると「罰が当たる」と言って神を恐れます。でも私は、彼らの恐れは、色々なことを恐れながら生きている人間の姿を象徴していると思うのです。私の好きな歌に「もう笑わなくっちゃ」という歌があります。その中に「人はみんな、何かに怯え、生きて行くのか、それが定めなら…」という歌詞があります。私達は皆、色々な不安や恐れを感じながら生きているのではないでしょうか。皆様それぞれに、健康のこと、家族のこと、生活のこと、仕事のこと、将来のこと、色々と抱えておられるのではないでしょうか。そして、不安や恐れは、私達を様々に追い込んで行くのです。先程の歌は「悲しんでも仕方がないから、何も変わらないから、もう笑わなくっちゃ」と歌うのです。そういう見方もあるでしょうが、諦めとも言えます。しかし、天使は言いました。「恐れなくて良い、私は喜びを告げに来たのだ」。その喜びは「不安や恐れさえ追いやるような喜び」だと言うのです。では繰り返しますが、救い主、キリストの誕生が、どういう意味で喜びの知らせなのでしょうか。
申し上げ難いのですが、私は今年の4~5月頃、あることをきっかけに心のバランスを崩して、食欲もなくなり、7kg痩せて、病院で診察してもらったら「鬱です」と言われたのです。こんな話をすると「あなたは牧師でしょう。信仰はどうしたの」と言われそうですが、ストレスに弱い気質なのでしょうね。これは仕方がないです。でも苦しいのですね。苦しさに背中をおされて、インターネットで「鬱」に関する動画を色々探して見てみました。生き方セミナーのような講演で言われていたことは、「明けない夜はない。いつか、その経験を良かったと思える時が来ます」というようなことでした。「なるほど」とは思いますが、力がない。私が行きついたのは、あるご高齢の牧師の動画でした。その先生は聖書の「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)の言葉を読んで、こう語られました。「イエス様が『わたしの許に来なさい』と言っておられます。苦しくてどうにもならないような時は、神様を呼んで下さい。神様があなたのそばに来て、あなたを助けて下さいます」。「この方は、苦しくてどうにもならない状況を知っておられるな」と思いました。その時、一緒に読まれたのが「神は…試練とともに脱出の道も備えてくださいます」(1コリント10:13)という御言葉でした。「神が必ず脱出の道を備えて下さる、助けて下さる」、この言葉を握って祈りました。祈ることができる、すがりつくものがあるということは救いだと思いました。薬も飲みました。薬は幸せホルモン(セロトニン)の分泌を促して心を解してくれました。また、ちょうど礼拝のライブ配信が始まった頃でしたので、牧師の特権で説教をする中で神様に喜びを頂いたということもあります。いずれにしても、切羽詰まった中で、改めて神の中に希望を見ることができるようになった時―(あいは神に触れられた時と言っても良いかも知れません)―癒されて行ったのです。
私は、自分のつまらない経験からも思うのです。私達は「1人で全てを抱えて恐れている」のではないでしょうか。ある本にこうありました。「私たちの生活には、自分の努力ではどうにもならないこと、取り返しのつかないことなどがしばしば生じます。自分の能力で解決できないこともたくさんあるのです」。自分ではどうすることもできないことがあります。誰かに助けて欲しいことがあります。しかし、その時、神に希望を持つことが出来れば、「神が何かをして下さる」と思うことが出来れば―(サメに左腕を食いちぎられたある女性サーファーは、神を経験して言いました。「神は、悪からでさえ善を生み出してくださる」。それが本当なら)―それは真の希望であり、救いではないでしょうか。
神は、恐れを抱えて生きる私達に神が、神の助けが、神の希望が必要だと知っておられたから、「旧約」の時代から「私があなたと共にいる」と言って来られました。「恐れるな、わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ41:10)。「誰が傍らにいなくても、私が共にいる」。神は人と生きようとして来られました。
 
しかし問題が2つありました。1つは、人の側にそれが分からなかったことです。神が大き過ぎる方だから、人には神の思いが分かりませんでした。だから、むしろ神を恐れたのです。しかし、だからこそ救い主イエスは、赤子として地上に来て下さったのです。赤子は、お世話してもらわなければ死ぬしかない。そんな姿で人間の世界に入って下さったのです。それは、赤子ならどんな人でも恐れなく近づくことができるからです。羊飼い達も「みどりご」と聞いて、しかも「飼葉おけに寝ておられる」と聞いて「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」(15)と恐れることなく神に近づこうとしました。先週もお話したのですが、アメリカのある村の教会でクリスマス劇をしました。そこに「宿屋の主人の子供の役」を特別に作ってもらった男の子がいました。彼のセリフは「ダメだ、部屋はない!」でした。しかし彼は「ダメだ、部屋はない!」と言った後で、泣き出して「マリヤさん、ヨセフさん、馬小屋に行かないで。馬小屋は寒いから、イエス様が風邪を引いちゃうから馬小屋に行かないで」と叫んで、マリヤさんにしがみついたのです。劇は滅茶苦茶になりました。しかし人々の心に忘れがたいものを残したのです。でもそのように、今も、子供でも救い主イエスに(もっと言うと神に)近づけるのです。長じたイエスは「父の許を出て行き、他所の町で身を持ち崩しボロボロになって帰って来た息子を喜んで迎える父の話」を教えて下さいました。この父は、ボロボロの息子に走り寄るのです。それは、私達が神様の方を向くこと待ち望み、私達に走り寄ろうとされる神様の姿です。イエス様によって人々にそんな神様の真実が分かるようになったのです。そして人が神に手を延ばそうとするようになったのです。
しかしもう1つの問題は、人には、人を神様から隔てる仕切りがあったということです。ある時、イエスの許に姦淫の現場で捕まった女が連れて来られました。指導者達は石を振り上げて「こういう女は…石打ちですよね。あなたはどう思うのか」とイエス様に迫りました。イエスは言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)。「聖書」は「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された」(ヨハネ8:9)と語ります。「私には何の罪もない」と言える人は誰もいなかった。それは私達も同じではないでしょうか。ある人が話して下さいました。「私は『あの人は好かん、この人も好かん、好かん、好かん』と言っています。私の心を切ったら真っ黒だと思います」。私の心も真っ黒です。そんな罪ある私達と、聖い神様とは、本来一緒にいることはできないのです。私達の罪が神様との間を隔てるのです。しかし、だからキリストは、人となって地上に来て下さり、私達の罪の一切をその身に背負って、私達の身代わりになって十字架に架かって、私達の罪の始末して下さったのです。私達と神様との間の仕切りは取り除かれたのです。私達と神様の間に橋が架かったのです。天使は歌いました。「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(2:14)。「御心にかなう人々」というのは「立派な人」ということではありません。「『イエス様、人の世に生まれて来て下さり、私の罪のために十字架に架かって下さって、ありがとうございます』という人」ということです。それだけです。それで私達は、このままで神の御手の中に入ることができて、神と共に生きて行けるようになったのです。神は、ずっと私達と共に生きたい、助けたいと願って来られたのです。それが、時が来てイエスの誕生で現実になったのです。だから天使が讃美した、それは神が喜ばれたということです。私達は、イエス様の誕生によって、神と共に生きることができるようになったのです。
 
神と共に生きること、申しあげたように、それは真の希望であり、救いです。卑近な例で恐縮ですが、虫垂炎になった時、夜中に家内に病院に連れて行ってもらって、そのまま未明の手術になりました。手術の立会人が必要でした。その日、家内の早朝の仕事が休みだったのです。私はそこにも神の御手を思いました。一昨年来て下さった福島の佐藤彰先生は、原発事故で苦しまれました。しかしこう言われました。「神の御手の中にいる、その希望があるから我慢できます。希望があるから待つこともできます。希望があるから私達は諦めません」。先生はまたご自分の体験から「涙を流す私達と一緒にいて下さる神様は、いざとなったら奇跡を起こされます」と語られました。先週も拉致被害者の横田めぐみさんのお父様、滋さんが、洗礼を受けてクリスチャンになられ、昨年、天の御国に凱旋された話をしましたが、「ブルーリボンの祈り」という本を読みました。お母様の横田早紀江さんが、めぐみさんが突然いなくなって、どんなに苦しまれたか、また20年後に北朝鮮によって拉致されたと分かった後も、何度も打ちのめされ、どんなに苦しまれたか、それが書かれてありました。しかし同時に、その中で早紀江さんがどれだけ神様によって支えられて来たか、それがご自身の言葉で証しされていました。「娘が行方不明になるという…悲しい出来事の中で…神様に出会わなかったら、私はとても耐えられなかっただろうと思います」。「神様が『しっかりしなさい、わたしがついている』と、ドーンと言って下さっている気がしたのです」。そのようにしてあの凄い活動をなさっているのです。これはインターネットで見たのですが、40年間、キリスト教信仰を否定して来られた滋さんが「希望は神にある」と言って洗礼を受けられたことに触れて、早紀江さんは「神様は本当に不思議なことを為さる方だと思いました。だからめぐみのことも希望が持てます」と語っておられました。いずれにしても、神と共に生きること、それは色々なことがある日々の生活において、神から来る真の希望によって支えられ、神に助けられ、生きることができるということです。その希望は現実に私達を生かす力です。そのことを、私も確信を持って申し上げることができます。クリスマスは、それが現実になった時です。
 
しかし、それだけではありません。イエスは十字架に架かって私達の身代わりに死なれましたが、3日目に甦られたのです。そして「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と言われました。イエスを通して神に迎えられた者は「天国で永遠に生きる」という約束をして下さったのです。私達は必ず死にます。しかし神の御手の中に入るということは、地上の命が終わろうとも、御手に抱かれて天国に凱旋出来るということです。カナダである方の葬儀の司式をしている最中、ふと会堂の天井を見上げた時、その方を天に運ばれる神の腕が見えた気がしました。私は圧倒されました。子供を亡くされて「神なんかいない」と言って過ごして来られた方が、末期ガンで病院に入院し、亡くなる前に洗礼を受けてクリスチャンになられました。亡くなる時、「道が見える、天国への道だ」と言って天に帰って行かれたそうです。佐藤先生の教会の方が亡くなられ時、先生がそのお顔を見たら、そのお顔は笑っておられたそうです。佐藤先生は「『あぁ、イエス様に手を引かれて天国の門に立ったんだ』と分かった」と言われるのです。私達は、死にさえ希望を持って向かうことが出来るようになったのです。
「救い主が生まれた」という知らせは、「恐れるな、あなたも神の御手の中で神と共に生きることができるようになったのだ、生きるにも、死ぬにも、神の中に希望を見ることができるようになったのだ」という知らせであり、それは私達にとっても、素晴らしい喜びの知らせなのです。
今年は祝会がないので、お1人びとりに袋に入ったプレゼントがありません。すみません。しかしクリスマスの一番のプレゼントは、あなたのために生まれて下さったイエス様です、イエス様によって現実になった神から来る希望です、神の救いです。今日、お1人びとりに、そのプレゼントをぜひ受け取って頂きたいと心から願います。救い主イエスは、あなたのためにお生まれになりました。皆様の上に神の祝福をお祈り致します。
 

聖書箇所:ルカの福音書2章1~7節

 10月に虫垂炎になって二十数年ぶりに手術というものを受けました。実はある牧師の本に、その先生が手術を受ける時、「麻酔の前に少し時間をもらって、手術のため、執刀する先生のため、お世話する看護師の方々のめに祈った」ということが書いてあるのを読んでいました。それで私も、手術室に入った時、「少し祈らせて下さい」と言おうかと思ったのですが、とにかく腹部が痛くて、その余裕もなく、声に出して祈ることはできませんでした。しかし事前の説明で「もしかしたら大きな手術になるかも知れません」ということは聞いていましたので、そうならないようにと心の中で神様に祈りました。「手術室にも神様は共に入って来て下さった、神はここにもいて下さり、最善に守って下さる」、そのことは思うことができて本当に平安でした。因みに、麻酔のスゴイことに驚きました。「麻酔をかけます」という言葉を聞いた瞬間には、もう意識がなく、次に聞いた言葉は「手術が終わりました」でした。いずれにしても、どこにでも神様がいて下さる、神様と繋がっていることができる、それは本当に感謝なことだと改めて思いました。その恵みを私達に与えるために、神の子イエス様は、人として生まれて下さいました。
 今日の箇所は、イエス様の誕生の出来事を記す個所です。初めに内容を短く確認して、その後、この個所のメッセージを考えます。
 

1. 内容~イエスは歴史の中に生まれた

 1~2節に「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった」(1~2)とあります。皇帝アウグストは、帝政になったローマの最初の皇帝で、その長い在位期間に、ローマ帝国各地では住民登録が行われたようです。その皇帝の権威を背景にローマ帝国の各地でそれぞれに行われた住民登録を、ルカは「『全世界の住民登録をせよ』という勅令」と表現したようです。さらに、ルカは「クレニオがシリヤの総督であったとき」と書きます。クレニオという人は、ユダヤをその中に含むシリヤ州で軍事行動を起こして、権力を掌握したことがありました。その時にも住民登録が行われました。2節の「住民登録」というのは、その時の住民登録だと考えられます。
 当時の住民登録の命令は、それぞれ自分の本籍地に帰って登録をする、そのような命令だったようです。ヨセフは、偉大な王であったダビデの家系に属していましたので、その本籍地は、ダビデが生まれた町であり、またバビロン捕囚からユダヤ人達が帰還した時、ダビデの家系の者が多く住むようになったベツレヘムだったのだと思います。ある人は、ヨセフはそこに自分の土地を持っていたのではないか、と言います。それは分かりませんが、もし、そうだとすると、その住民登録は、人頭税と固定資産税を納めさせられるためのものであったことになります。
 いずれにしても、自分達が生活していたナザレの村から150kmの距離、3日の道のりのベツレヘムに、ヨセフは身重のマリヤを連れて出かけました。マリヤにとっては、大変な旅だったと思います。何とかベツレヘムに着いたのですが、そこでマリヤは出産することになります。しかし「宿屋には彼らのいる場所がなかった」(7)とあります。当時のベツレヘムに旅人の宿泊施設がどの程度あったのか、分かりません。もしかしたら、住民登録のために、既に大勢の人々がベツレヘムに来ていて、それで彼らの滞在する場所がなかったのかも知れません。それで2人は、家畜小屋に滞在することになったようです。ある学者は「洞窟のような所だっただろう」と言います。ある学者は「人の住居スペースに家畜小屋がくっついているような場所だったのではないか」と言います。「マリヤ」という映画がありますが、その映画の中では、今にも子供が生まれそうなマリヤを心配して、ヨセフが必死になって滞在場所を探して訪ね歩く場面が描かれていました。いずれにしても、子供を産むには、あまりにも辛い、お粗末な場所で、マリヤは男の子を産むのです。しかも「それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた」(7)という表現は、「マリヤ自身がそれをなした」というニュアンスで書いてあります。恐らく、お産を手伝ってくれる人もいなかったのではないでしょうか。そんな状況でイエス様は、お生まれになったのです。これが、私達の主、神の子イエス・キリストの誕生の様子なのです。
 ルカは、ここから何を伝えようとしているのでしょうか。それは何より、イエス様の誕生は、歴史の中に起こった歴史的事実であったということではないでしょうか。お伽噺は「昔々、あるところに」です。しかし、イエス様の誕生は違います。時代も場所もはっきりしています。歴史的事実なのです。そしてそれは、誕生の時がそうであったように、イエス様の生涯も、そして十字架も歴史の中で起こったことなのです。さらに、復活も歴史の中で起こったことなのです。
 昔からこんなことが言われて来たそうです。「昔、枝が2つに分かれた大きな木があった。一方の枝は、生まれたばかりのイエス様を寝かせるための飼い葉桶になった。そしてもう一方の枝は、イエス様の十字架になった」。もちろん寓話でしょう。しかしこの話は「イエス様が飼い葉桶に寝かされたということと、イエス様が十字架にお架かりになった、という出来事が、一つながりのことなのだ」ということを表そうとしています。つまりイエス様の出来事は、誕生から、十字架、そして復活まで、すべてが繋がっていて、歴史の中で起こったことなのです。神の御子が、赤子となり、人となって人の世に確かに生まれて下さったのです。人間の歴史の中に、神が入って来て下さったのです。神の世界と人間の世界が結ばれたのです。それがクリスマスです。
 

2.メッセージ

 この個所は、私達にどのようなメッセージを語るのでしょうか。

1)神の御心は成る

 1番目は、神の御心は成るということです。イエスがベツレヘムでお生まれになったのは、マリヤがヨセフと一緒にベツレヘムに行ったからです。しかしある学者は、登録だけならマリヤは行く必要がなかったのではないか、と言います。それは、実際どうだったのか、分かりません。しかし、もしそうなら、なぜマリヤは、ベツレヘムに行ったのでしょうか。マリヤの懐妊については、聖霊によって身ごもったということを、ヨセフも疑って、悩み、苦しんだくらいですから、ナザレの村でも、マリヤに対する様々な噂話がなされ、誹謗中傷がなされていたはずなのです。ヨセフは、それが分かっていたから、マリヤを1人、村に残しておくことを避けて、一緒に連れて行ったのだろうと思います。
 また、そもそも、なぜヨセフがベツレヘムに行かなければならなかったかというと、ローマ皇帝の権威を背景に「住民登録をするように」という命令が出されたからです。ローマの権力者も、そしてヨセフ達さえも、自分達の行動がどのような結果につながるか、分からなかったと思うのです。しかし、聖書はこう言っています。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」(ミカ5:2)。世界を治める本当の支配者(王)がベツレヘムから出る、ベツレヘムに生まれる、と預言するのです。つまり、それが神の計画だったのです。そして神様は、色々な人を用いて、ご自身の御心をなして行かれるのです。ローマ皇帝さえ、神の御心が成るために用いられた器に過ぎないのです。私は「神の御心は成る」ということを確認したいのです。
 ところで、イエス様の誕生に込められた神の最も重大な御心とは何でしょうか。それは、神が、イエス様を救い主と信じる全ての人を滅びから救い、天の御国に迎えて下さる、ということです。
 イエス様のお誕生が、あまりに辛い、悲しい状況であったということを申し上げました。神の子ですから、神がそのつもりになられたら、どんな境遇に生まれさせることもおできになったはずです。王侯貴族の家にでも、大商人の家にでも、どうにでもなったはずです。それにもかかわらず、あまりにも貧しい境遇でのお誕生でした。しかし、そこに神様のメッセージがあるのです。神の子であるイエス様が家畜小屋で生まれ、飼葉桶に寝かされたのは、「どんな小さな者、弱い者、貧しい者でも、あるいは苦しんでいる者でも、イエスは共にいて下さる、決して見捨てられない、必ず救われる」という神様の御心の表れだったのではないでしょうか。そのために、ここに生まれたイエス様は、人々の苦しみと共に生きて、そして最後は十字架に架かって、私達の救いを為し遂げて下さいました。そんなイエス様だから、その救いのメッセージは、どんな境遇にある人の心にも届くのです。そのイエス様の十字架の救いでカバーできない人は、1人もいないのです。それが、神の御心であり、その神の御心は成るのです。
 拉致被害者の横田めぐみさんのお父様の滋さんという方がおられます。昨年6月に召天されましたが…。「百万人の福音」の11月号に奥様の横田早紀江さんのお証しがありました。先日も少しご紹介しましたが…。めぐみさんが突然いなくなって、ご夫妻は、どんなに苦しまれたことだろうと思います。その大きな苦難の中で、早紀江さんが先に救われなさいました。そして、早紀江さんの回りに「祈る会」ができて行ったようですが、滋さんは「物語のような聖書の話など信じられない。祈っても何も変わらないじゃないか」と言われ、信仰を持つことを拒否されていたそうです。別の証しには「一番辛いのはめぐみなのだから、自分達だけが心救われるわけには行かない」と言っておられたともありました。しかしその滋さんが、「希望は神にある」と言って信仰を持たれたのです。「神がこの時を選んで与えて下さいました。感謝です」と言われたそうです。ご夫妻の苦しみは、私などには分かりません。しかし馬小屋で、貧しさと、悲しみの中に生まれたイエス様、十字架で苦しまれたイエス様は、確かに苦しみの中におられたご夫妻を救われたのです。イエス様は、どんなに苦しい思いを生きている方をも救うことがおできになる、生きる現実の中で救うことがおできになる、そんなことを思わされます。神の救いの御心は成るのです。
 そして「神の御心は成る」と申し上げましたが、この誰も見向きもしないような最低のところに生まれて下さったイエス様を、今、23億人の人が「私の主、私の王」として礼拝しているのです。当時の権力者は、皇帝アウグストも、どんなに大きな権力を持っていたとしても、歴史の中に埋もれて行きました。しかしイエス様は違います。私はそのことを思う時、神様に、イエス様に、委ねた人生こそ、一番確かな人生ではないかと、そんなことも思わされます。私達を救うために生まれて下さったイエス様、このイエス様を信じ、委ねて行くところに、何があっても失われない希望を見て生きる道があります。

2)主イエスを迎える

 この個所の2つのめのメッセージは、イエス様を心にお迎えするということです。2章7節に「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という言葉があります。ベツレヘムにはイエス様の家族が泊まる場所がなかった。だからイエス様は洞窟のような家畜小屋でお生まれにならなければなりませんでした。しかし、それはある意味でイエス様の生涯を象徴していたとも言えます。イエス様は、当時の社会の中で居場所のないような人々のために生きられたからです。生きて行くための希望を必要としている人に近づいて行かれ、神の愛と赦しを教え、彼らと共に生きようとされたのです。イエス様のご生涯、それは神が人となられ、人を支配するのではなく、人のために生き、人のために命まで差し出されるご生涯でした。
 しかし、それにしても、ベツレヘムには本当にイエス様の家族が泊まる部屋はなかったのでしょうか。誰かがその気になれば、1つの家族が泊まれるぐらいの余裕はどこかにあったのではないでしょうか。しかし結局、誰もそれを提供しなかったのです。誰かが提供した家畜小屋が当時の人々が示した最大の親切だったのです。もし私達が2000年前生きていたら、そしてベツレヘムに住んでいたら、どうだったでしょうか。
 私達は、イエス様の誕生によって、大きな、大きな祝福を頂きました。こんな自分の罪が全部赦され、神の子とされる、さらに永遠の滅びから救われ、天国に引き上げられるという祝福です。その恵みがあまりに大きすぎて、実感がないほどの祝福です。そんな祝福を頂いた私達です。何か、神様の恵みに応えて、今からでも、イエス様のためにスペースを開けるようなことができると、良いなと思うのです。
 最初に、虫垂炎で入院した話をしましたが、私のその前の入院は、急性鬱症での入院でした。ちょうどクリスマスの時期でしたが、私は心を病んで、ラジオから聞こえてくるクリスマスの賑わいが疎ましくさえありました。それでも何となく寂しいのです。そのためでしょうか、誰とも話をしないだろうと分かっていても、食堂に行ってボーッとしていました。しかし心は叫んでいました。「誰でも良い、話し掛けてくれ」。その時、思ったのです。私だけでなく、世の中には「誰か話し掛けてくれたら嬉しいな」と思っている人がたくさんいるのではないだろうか。ある人は言ったそうです。「誰か1人でも、私のために祈ってくれたら、私は生きて行ける」。そういうことなら、私にもできるのではないか、そう思いました。
 「村の教会のクリスマス劇」という話があります。「宿屋の主人の子供の役」を特別に作ってもらった男の子がいました。彼のセリフは、「ダメだ、部屋はない!」でした。しかし彼は「ダメだ、部屋はない!」と言った後で、泣き出して「マリヤさん、ヨセフさん、馬小屋に行かないで。馬小屋は寒いから、イエス様が風邪を引いちゃうから馬小屋に行かないで」と叫んだという話です。劇は滅茶苦茶になりました。しかし、村の人々の心に忘れがたいものを残しました。男の子は、そうやって神の恵みに応えたのではないでしょうか。「詩篇」の詩人も言いました。「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」(詩篇116:12)。
このクリスマス、何でも良い、どんな小さなことでも良い、誰かと愛を分かち合うこと、あるいは、神様の恵みに応答するという形で、お祝いすることができると良いな、と思います。私は今「あなたがたは、自分に関する限り、全ての人と平和を保ちなさい」(ローマ12:18)という御言葉に応答することを通して、神に感謝を捧げるように迫られています。皆さんは、どのような形で神に感謝を捧げられるでしょうか。
 

聖書箇所:ルカの福音書1章39~56節

 コロナ禍で一緒に集って礼拝を捧げることが長くできませんでした。それまで当然のように集まり、交わりを持っていたのに、それができなくなったことは、個々人にとっても、教会にとっても、試練だったと思います。ただ、私は、感謝なことに、個人的にお会いしたり、お電話をしたりして、お交わりする機会が与えられました。その時、感じたことは「交わりは癒しだな」ということです。癒されるのを感じたのです。今、こうやって、また一緒に礼拝ができるというこの恵みを改めて感謝するものですが、それだけに「この交わりを大切にしたい」と願うのです。意識しようが、しまいが、私達は、交わりによって支えられ、癒され、励ましをもらっているのではないでしょうか。今日の箇所を読んで、主にある交わりの恵みを、聖書からも教えられる気がすることです。
さて「クリスマス物語」は、「受胎告知―{天使がマリヤに現れて、『あなたは聖霊によって男の子を産みます』と告げること}」から始まります。マリヤは「私は主のはしためです…おことばどおりこの身になりますように―(『神様、全てをお任せします』)」(ルカ1:38)と言います。14~15歳の少女が自分の身を神に献げたのです。その「クリスマス物語」は、私達に何を語るのか、そのメッセージの1つを語ってくれるのが、読んで頂いた「マリヤの賛歌」です。3つのことを申し上げます。
 

1:「マリヤの賛歌」の前提~交わりの慰め

「マリヤの賛歌」には、前提があります。マリヤは、天使から受胎を告げられ、譬えようもないほどの不安の中にいたと思います。そのマリヤが、自分を受け止めてくれるだろう相手として思い浮かべたのが親類のエリザベツでした。マリヤは、天使から「エリザベツも神の特別の働きを受けて子供を身ごもった」ことを聞かされていました。自分も神の特別の働きを受けて身ごもる。マリヤは、神の業を受けた者として、同じような経験をしたエリザベツと会い、分かち合いたかったのです。エリザベツもまたそうだったでしょう。エリザベツは、事の真相を悟り、マリヤを歓迎します。良き相談相手となり、3ヶ月間、マリヤに憩いの場を提供しました。そのようにエリザベツに受け入れられ、慰めを受け、共に喜びと驚きを分かち合った、そのマリヤの口から語られたのが「マリヤの賛歌」なのです。マリヤが1人居る時、その口からこの「賛歌」は出て来なかったのです。
「マリヤの賛歌」を考える時に、教えられることがあります。古代からキリスト者は、このマリヤとエリザベツの交わりの姿に「教会の姿」を見て来たのです。私達は、なぜ日曜毎にここに集まって礼拝をするのでしょうか。教会をご存知ない方は「キリスト教では、そんなにしょっちゅう教会に行かなければならないのか」と言われると思うのです。でも私達は、交わりの中でこそ神を心から喜べるのです。主の名によって集まる時に、主もそこにおられるのです。だから、心からの讃美を歌うことが出来るのです。讃美の中で神を感じるのです。私達にとって、集まること、交わることは、喜びなのです。その意味で、この会堂は、マリヤとエリザベツが交わって、喜び、その口から讃美が流れ出た「山里」そのものなのです。
そのようにエリザベツとの交わりの中からこの「マリヤの賛歌」は生まれるのです。この「賛歌」には、マリヤの精一杯の信仰が語られます。クリスマスは、イエス様の誕生を祝うと共に、イエス様の再臨を待望する時でもあります。その意味で、この「賛歌」は、クリスマスを祝い、イエスの再臨を待望する私達に大切なことを教えてくれるのです。
 

2:「マリヤの賛歌」の内容~神は忘れておられない

「マリヤの賛歌」は、(47節)「わがたましいは主をあがめ、わが霊は、わが救い主なる神を喜びたたえます」(47)と始まります。マリヤは心から神を讃美しています。なぜ神を讃美しているかというと、「『卑しいはしため』と自称しているマリヤに、神が目を留めて下さり」、「(神が)大きなことをして下さったから(だ)」と彼女は歌います。実際マリヤは、当時の社会にあって身分の低い、いわば「取るに足りない人」だったでしょう。その彼女に、神が目を留めて下さったということを、彼女は喜んでいるのです。しかし神がなさった「大きなこと」とは、彼女が聖霊によって身ごもる、ということです。それは命の危険さえ覚悟しなければならないことでした。なぜ、彼女はそれを「喜び称える」と言ったのでしょうか。
それは、彼女は、ここで個人として喜んでいるのではないのです。彼女はイスラエル人、神の民でした。やがて神が人の世に直接介入して下さり、神の民を助け、神の民を苦難から救い出して下さる、そのような「来たるべき世―(新しい世)」が来ることを教えられていました。その「新しい世」は「神が救い主を送って下さることによって始まる」ということも教えられていたでしょう。マリヤは、天使から、自分がその救い主を産むことになることを告げられました。それはつまり、待ち望んでいた「新しい世」の到来を意味します。
彼女達は、酷い世の中に暮らしていたのです。権力者によって弱い者が踏みにじられる、そういう世の中にあって、救い主の登場、その登場によって始まる「新しい世」こそ、イスラエル人の唯一の希望だったのです。その「新しい世」は、51~53節にあるように、神が権力ある者を低め、低い地位に有る者を高め、飢えた者を満たし、富んだ者を手ぶらで帰らせる。つまり、抑圧の下にある者がその立場を引き上げられる、権力を誇る者が追い散らされる、そのように神の憐みが成る、神の義が成る、そのような世界なのです。それは「逆転の世」でした。53節、54節が過去形で歌われているのは、「神が必ずそうして下さる」という確信を表す表現です。だから、その「新しい世の到来」を、救い主の誕生を、神の民として喜び、そのために自分が用いられることを、信仰を持って喜んだのです。
しかし、さらに彼女に絞って考えれば、あるいは個人のレベルに引き下げて考えれば、それは(52節)に「低い者を高く引き上げ」(52)とありますが、その意味は「問題に悩み、苦しみ、神に助けを呼び求めている人を、神が必ず救い出して下さる」という信仰を告白した言葉だし、50~53節の全体を通して彼女が言っているのは、その「世」では、「苦しむ者が神によって助け出される、泥の中から引き上げられる」、いわば「運命の逆転が起こる」ということなのです。「神の御手の中で物事が変えられ、逆転させられ、そのようにして神を信じる者が救われて行く」ということなのです。なぜそうなのか。それは、54~55節で彼女が「主は…あわれみを…忘れないで、そのしもべ…をお助けになる…それはもう始まっているからだ」と言っている通り、神はご自分の憐みをお忘れにならないからです。
この「賛歌」のポイントは、「『新しい世』が来ることも、『運命の逆転』が起こるのも、神が神の民を忘れておられないからだ」ということです。「神は、神の民に目を停めておられる。その苦しみにも、辛さにも、悲しみにも、惨めさにも、目を停めておられる。決して忘れてはおられない。だからこそ神は、神の時に、その御力を現し、私達に神の憐みを、『逆転』を見せて下さる」、それがこの「賛歌」が語りかけていることです。
もちろん「救い主の誕生」によって始まった「新しい世」の「逆転」は、「主の再臨の時」に決定的に起こることです。だから私達は、主の再臨を待ち望みます。しかしそれは、「救い主の誕生」という大事件のために、神が「マリヤのような『卑しい者(小さい者)』を選ばれた」ということにおいて、すでに始まっているのです。だから、その「新しい時代」の中で、彼女は実際に「逆転」を経験して行くのです。
彼女は、聖霊によって身ごもりました。夫となるヨセフにだけはそのことを信じて欲しかった。しかし人間的に考えれば望みのないことです。しかし神は、夢の中でヨセフに語りかけ、ヨセフがそのことを信じることができるようにして下さるのです。「逆転」です。また、当時イエスの父親がヨセフではないということを、知る人は知っていたらしいのです。マリヤは、少なからぬ人々から疑惑と非難の目で見られ、危険の中にいたのです。しかしそれにも拘わらず、彼女は守られ通して行くのです。「逆転」です。そして、マリヤの経験した最大の「逆転」は、我が子イエスの運命の逆転でしょう。イエス様は、33歳の若さで、「最も残酷な刑」と言われた十字架に掛けられ、人々に罵倒され、唾をかけられ、血を流して、苦しみながら死んで行ったのです。彼女にとって、どれほどの痛み、悲しみ、苦しみだったでしょうか。彼女は「神に捨てられた」と思ったかも知れない。しかしその死んだイエスが復活するのです。全てが終わったと思ったことが、終わりではなかった、始まりだったのです。それだけではない。罵倒され唾をかけられながら死んで行ったイエスを、やがて人々は、神として崇め始め、「十字架で死んだイエスは神である」ということを信じる人々が集められ、教会が生まれるのです。彼女は「逆転」を生きるのです。
そして50節に「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます」(50)とある通り、彼女は、「私に起こったことが、『運命の逆転』が、どの時代の人々にも起こる」という確信を込めて歌いました。魂がそのように導かれたのです。私達の毎日の生活は、「私は神に忘れられてしまったのではないか」と思う、そういう思いの連続のような気がすることがあります。どうして私はこんな状況の中に置かれるのか、どうしてこんな悩みの中に置かれるのか、私のような小さな存在は、神から忘れられているのではないか、そう思う時があるかも知れません。しかし「マリヤの賛歌」は語るのです。「神は、決してあなたを忘れてはおられない、神は、その民を救うことに真実であられる。神は『あわれみの神』であられる。必ず『神の時』が来る。神を信じるなら、神によって神の御力を見せられる時が来る」。
佐藤彰先生の教会に通っておられた方のご主人は、お酒ばっかり飲んで、家族の生活は苦しい、でもそんな中でも、奥さんが神様を信じて辛抱強く生きていました。しかし、ご主人は、奥さんに文句ばかり言っていました。ある時は、奥さんがご主人に買って来たシャツをビリビリに破いて投げつけたりしたのです。でも奥さんは、神様が支えておられました。ところが、そんなある日、奥さんが「そろそろ洗礼を受けたいんだけど、良いかい」と言ったら、何とご主人が「俺も一緒に洗礼を受ける、お前の信じている神様を俺も信じる」と言ってクリスチャンになったそうです。神様は凄いことをされます。ご主人が亡くなった時、そのお顔は笑っていたそうです。
いずれにしても「マリヤの賛歌」は、「神はあなたを忘れてはおられない」、「必ず神の時が来る」と語るのです。
 

2:「マリヤの賛歌」のチャレンジ~神を大きくする

「マリヤの賛歌」は、「神の約束」を待望する私達の信仰の在り方に対してチャレンジも語ります。それは「神を大きくする」ということです。
「マリヤの賛歌」は「マグニフィカート」と呼ばれます。「マグニフィカート」とは、ラテン語で「大きくする」という意味です。マリヤはここで、神を大きくしているのです。もちろん神様は、人間が大きくしたり、小さくしたり出来る方ではありません。しかし神の大きさは、私の態度によって変化するのです。ある人が言いました。「分数で考えるとこのことが分かる」。分母は自分。分子は神様。分子である神様は「1」、これは変わらない。その時、分母である自分が「10」であれば、結果として神様は「1/10」になります。分母が「1」になれば、神様は「1」になります。分母である自分が小さくなればなるほど、神様は大きくなるのです。
それは具体的にはどういうことでしょうか。三浦綾子さんの「泥流地帯」が、今年、映画化されることになったというニュースを読みました。私は、本を読んだことはまだありませんが、記念文学館の森下先生の講演を何度も何度も聞いています。大正15年、十勝岳が爆発して、大泥流が発生して、開拓農家に育った主人公の2人の少年(青年)の家も、家族も、何もかも、泥流に飲まれてしまうのです。お兄ちゃんの方は、農民として逞しく成長して、被災した地を復興しようと頑張るのです。ところが、泥流以降も色々な苦難があるのです。苦しいことが起こるのです。弟が聞くのです。「何でこんなことになるのか。真面目に生きていても、こんな苦難があるのなら、生きていることはバカくさいじゃないか」。弟が、また叔父さんが、「何でこんなことが…」、失意の中でそう問う時に、ただ1人クリスチャンであるお母さんが言うのです。「人間の思い通りにならないところに、何か神の深いお考えがあると聞いていますよ。ですから苦難に遭った時に、それを災難だと思って嘆くか、試練と思って奮い立つか、その受け止め方だ大事なのではないでしょうか」。「人間の思い通りにならないところに、何か神の深いお考えがある」、この信仰を受け止める、それも神を大きくすることではないでしょうか。私達にも、信仰を持って神を見上げていても、「神様、どうしてですか」と言いたいことがあります。その時「神には深いお考えがある、これにも必ず意味がある、やがて分かる時が来る」と信じることができれば、それは希望ではないでしょうか。森下先生の講演には、この言葉で奮い立った1人の方の話も出て来るのです。子供の頃の病気で、ずっと辛い思いをした人です。「何で僕だけが…」、そう思いながら生きたのです。しかし、30歳を過ぎた頃に三浦綾子の「泥流地帯」を読んで、この言葉に出会ったのです。「人間の思い通りにならないところに、何か神の深いお考えがあると聞いていますよ…」。その方に「神の深いお考え」という希望が生まれ、立ち上がったそうです。やがて信仰を持って、祈りに生きるようになられ、祝福を経験して行くのです。その方はこう言うそうです。「苦難が来ると、人は苦難の理由を過去に探そうとする。しかし神は苦難の理由を未来に持っておられる」、「神には計画がある―(必ず意味がある、深いお考えがある)」ということです。
私は神を大きくして生きているか、神よりも自分を大きくして、不平不満を口にしながら生きていないか、問われます。神を大きくする時、私達には、聖書が「私たちは、四方八方から苦しめられますが、窮することはありません。途方にくれていますが、行きづまることはありません」(2コリント4:8)と言うように、神を見上げるという道が、いつも備えられているのです。「そのあわれみは、主を恐れかしこむ者に、代々にわたって及びます」(1:50)。神を見上げることによって、私達は神の憐れみに与って行くのではないでしょうか。神を大きくする信仰でありたいと願います。
 

3:最後に

「マリヤは三か月ほどエリサベツと暮らして、家に帰った」(56)。マリヤは、「賛歌」を歌った後、普段の生活の場に戻りました。私達もこの場を出たら普段の生活の場に戻ります。そこでまた1週、神の恵み、神から来る希望に支えられて、信仰に生きて行きたいと思います。