2023年8月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:マタイ福音書5章8節 

 横山幹夫という先生が数年前に「信徒大会」に来て下さいましたが、ご自分の本にこんな話を紹介しておられます。ニンニクを思い切り食べた夜、腹に激痛が走り、病院に駆け込みましたが、病院のスタッフが「何か変な臭いがする」と言い始めました。先生は力なく「ニンニクを食べすぎて…」と答えました。病名は腎臓結石だったのですが、手術の時も、入院しても、回りの人が「何か臭う」と言うのです。その度に「すみませーん、私です、ニンニクを食べすぎて、腎臓の石が手を離しました」と説明したそうです。その経験から「私は今、回りの人にどんな香りを残しているだろうか」と問うておられました。もちろん、人に与える印象という意味での香りです。皆さんは、回りの人にどんな香りを残しておられるでしょうか。
これは講演でのお話ですが、横山先生がある時、病院伝道を始めましたが、なかなか上手くいかない。しかしそんな時、あることを通して自分が「きよめられる」経験をされたそうです。自分がきよめられると、自然と人が先生の話を聞いて信じてくれるようになった。「『伝道とは、こうやって為されて行くのか』と思った」と言っておられました。その話を聞いて、私も「きよめられたい」と思いました。伝道するためにもそれが必須なら、本当に「きよめられたい」と願います。しかしそれ以上に、聖なる神様を「私の神」と仰ぐ者として、きよくありたいと、私達は願うのではないでしょうか。イエス様は「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」(8)と言われましたが、「きよい」とはどういうことなのでしょうか。どうすれば「きよく」あれるのでしょうか。学んで行きましょう。
イエス様の時代のユダヤ教においても、ユダヤ人は「きよさ」を求めました。その代表はパリサイ人と呼ばれる宗教指導者でした。しかし彼らが求めたのは、外側の「きよさ」でした。例えば、彼らは手洗いを徹底しましたが、それは衛生のためではない、「万一どこかで汚れたものに触れて汚れていてはいけない」と考えて、儀式的な、形式的な手洗いで自分をきよめたのです。あるいは、自分達が「きよくない」と思う人を遠ざけました。側にいても、いないことにしました。無視するのです。そうやって自分の「きよさ」を保とうとしたのです。
しかしイエスは、そのような在り方を非難されました。外側ばかりを大事にする、自分の「きよさ」を保とうとして人を人とも思わないような行動に出る、その彼らに、イエスは言われました。「いまわしい人たちよ…あなたがたは偽善者です。杯の外側はきれいにみがき上げるが、内側は…汚れきっています…まず杯の内側をきれいにしなさい。そうすれば、杯全体がきれいになるのです」(マタイ23:25~26リビング・バイブル)。特にパリサイ人は、人を避けるだけでなく、「あいつらはきよくない」、「あいつらはダメだ」と言って裁いていました。それは、イエスが一番嫌われた姿でした。(つまりイエス様から見て一番「きよくない」姿だったのです)。
ここでイエスも、「きよさ」を問題にされましたが、イエスは「心のきよい者は…」と言われました。イエスが問題にされたのは、外面的な「きよさ」ではない。まして自分の「きよさ」のために、他の者を見下げた扱いをする、そのようにして守られる「きよさ」ではないのです。「聖書」に「人はうわべを見るが、主は心を見る」(1サムエル16:7)とある通り、「心のきよさ」、「心のあり様」を問題にされました。
その時、ここで使われている「きよい」という言葉は、元々「混じりけがない―(不純物がない)」という意味の言葉です。しかしそうすると、私達は「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」(8)という言葉に、別の意味で絶望するのではないでしょうか。「私達の心は神の前にきよいのか―(不純物がないのか)」、それが問われます。確かに「きよい」部分もあるでしょう。でも、森繁さんの「スピード違反」という歌の中に次のような話があります。「『皆さんの中で、今まで一度もスピード違反をしたことがない人、ハイ手を上げて』と言ったら、45歳くらいの女性が手を上げた。そこにいた皆がビックリして、私もビックリして、『奥さん、本当に今まで一度もスピード違反をしたことがないんですか』と尋ねたら、その人が言った、『一度も捕まったことがないんです』…」。きつい言い方をすれば、私達の中に「きよい」部分があったとしても、こんな様なものではないでしょうか。「悪いことはしていない。私は真面目に生きて来た」、多くの人がそう思っているのではないでしょうか。確かに犯罪は犯していないかも知れない。しかし、どうでしょうか。心の中を正直に見つめると、私達は「自分は神の前にきよくない」と思わされるのではないでしょうか。皆さんが、先週考えたこと、思ったことが、このスクリーンに映し出されるとしたらどうでしょうか。心の中に不平不満は、憎しみや怒りは、ないでしょうか。妬みはないでしょうか。どうしようもなく人を受け入れられない、嫌うものはないでしょうか。(社会を騒がす事件でも心の内の怒りや憎しみから始まるのです)。あるいは、神を信頼し切れない不信仰はないでしょうか。かつて出会った牧師の息子さんが私に言いました。「先生は牧師ですよね。牧師と言うのは、恵みを語りながら恵みに生きられない人達ですよね」。私が最近示された聖書の言葉は「心を尽くして主に拠り頼め。自分の悟りにたよるな」(箴言3:5)という言葉です。しかし「拠り頼み切れない」不信仰があります。いずれにしても、そうやって自分の「きよくなさ」にがっかりするのが私達の現実ではないでしょうか。そうすると、イエス様が言われたこの「心のきよい者は幸いです」という「祝福の言葉」は、私達には関係がない、「祝福の言葉」どころか、私達を絶望に追い込む言葉なのではないでしょうか。
しかし、ではイエスからこの言葉を語りかけられている人々は、「心のきよい人々は幸いだ」と言ってもらうのに相応しい人々だったのでしょうか。ある神学者は、「心がきよい」、それを「動機において純粋」と説明しました。では、彼らは「動機において純粋」だったのでしょうか。そうではない。弟子達さえ、自分勝手な動機でイエスに従っていたのです。最後まで「誰が一番偉いか」と言い争っていたのです。そう考えると、イエスは違う視点を持ってこの言葉を語っておられるのではないでしょうか。
「きよい」という言葉、これは本来「混じりけがない」という意味だと申しました。しかしもう1つの意味がある。それは「単純」とか「皺がない」とか、さらにそこから派生して「一途」、「愚直」、そのような意味です。実はここに、この言葉を理解する鍵があるのです。「心のきよい者は幸いです…」(8)。しかし私達には「(『混じりけのない純粋さ』という意味での)―心のきよさ」はない。ではどうするのか。ただ絶望するのか。
この問題を泣き叫びながら問わざるを得なかったのが、「旧約」のイスラエルの王ダビデです。ダビデは、自分の部下ウリヤの妻バテシェバと姦通の罪を犯し、その罪を何とかごまかそうとして、彼女の夫ウリヤを激しい戦場に送って死に至らしめて、どさくさに紛れてバテシェバを自分の妻にしてしまいました。それで有耶無耶に出来ると思っていた重大な罪を、預言者ナタンに責められて泣かざるを得なかったのです。彼は、それまでも信仰の人でした。ただ神の恵みによって今の自分があること、国の祝福があることを知っていました。だから神の前に立つことが出来なくなれば、もう希望がない、生きて行く力がない、そういう心境に追い詰められたのです。(私はある時、「神は私と共におられないではないか」という思いに襲われたことがありました。もう力が出ません)。その時に、彼はどうしたのか。彼は神に叫ぶのです。「神よ。御恵みによって、私に情けをかけ、あなたの豊かなあわれみによって、私のそむきの罪をぬぐい去ってください。どうか私の咎を、私から全く洗い去り、私の罪から、私をきよめてください…神よ。私にきよい心を造り、ゆるがない霊を私のうちにあたらしくしてください…」(詩篇51:1,2,10)。彼は言うのです。「私の中には『きよさ』はありません。私にあるのは『罪にまみれた心』だけです。赦して下さい。きよめて下さい。この私にきよい心を造り出して下さい、それ以外に御前に立つ方法はないのです」。しかし、彼の祈りは17節でこう変わります。「神へのいけにえは、砕かれたたましい。砕かれた、悔いた心。神よ。あなたは、それをさげすまれません」(詩篇51:17)。自分の中に「きよさ」が無いことを見せられ、彼の魂は砕けて、ただ神を見つめる、ただ神が関わって下さることを一心に求める、他の何も目に入らない、ただ神の憐れみだけに目を向けるのです。しかしこれが「一途な心」、「愚直な心」ということではないでしょうか。全ての自分の誇りや賢さや、そういうものを全部捨てて、ただ単純に、愚直に神に向かったのです。その時、彼は、「神よ。あなたは、砕かれた、悔いた心を、さげすまれません」と言うことが出来たのです。神に触れられたのです。そして、それが「聖書」に書かれているということは、神様もそう言っておられるということです。
もう1つ、5章8節のイエス様の言葉を理解するために大切な聖書の箇所は、「ルカ18章」の「パリサイ人の祈りと取税人の祈りのたとえ」です。「ふたりの人が、祈るために宮に上った。ひとりはパリサイ人で、もうひとりは取税人であった。パリサイ人は、立って、心の中でこんな祈りをした。『神よ。私はほかの人々のようにゆする者、不正な者、姦淫する者ではなく、ことにこの取税人のようでないことを感謝します。私は週に二度断食し、自分の受けるものはみな、その十分の一をささげております』。ところが、取税人は遠く離れて立ち、目を天に向けようともせず、自分の胸をたたいて言った。『神さま。こんな罪人の私をあわれんでください』。あなたがたに言うが、この人が、義と認められて家に帰りました。パリサイ人ではありません。なぜなら、だれでも自分を高くする者は低くされ、自分を低くする者は高くされるからです」(ルカ18:9~14)。パリサイ人が祈りの中で意識しているのは、神よりむしろ自分―(自分の立派さ)―です。それが「心の皺」です。「一途さや、愚直さのない心」です。一方の取税人は、ただ神の憐れみを請うしかない。胸を打ちたたいて「こんな私を憐れんで下さい」と愚直に、ただ神に思いを向けるのです。その時、イエス様は「義と認められて家に帰ったのは取税人だ」と言われました。「義と認められた」ということは、「きよい者」と認められたということです。
イエスの言われた「心のきよい者」とは、一途に神を見つめるダビデの心、一途に神の憐れみにすがる取税人の心、そういう心のことなのではないでしょうか。「私の中には、神の前に立ち得るきよさはない、神を見るきよさはない」、それを心から知る者は、自らを憐れんで下さる神に、ひたすら目を注ぐのです。「神様、きよくない私を赦し、受け入れて下さい、神様、私をきよめて下さい」と、愚直に、一途に神に目を向けるのです。その遜った心こそ「神に受け入れられる心」なのではないでしょうか。そしてその時に、人は「赦しの神」を見るのではないでしょうか。イエスが言われたのは、そういうことではないでしょうか。それなら、私達も経験できる幸いです。
以前も申し上げましたが、私は学生時代に教会に戻った後も、信仰がよく分かりませんでした。ところが就職した後、仕事上の失敗を通して、やっと「私も罪人だった―(醜い人間であった)」ということが分かった、いや、分からせて頂きました。周りの人が皆、私を責めるような態度を取った時、私は「とにかく赦されたい」と思いました。そういう思いを持ちながら足取り重く教会に通いました。私には、およそダビデや取税人のような一途さはありませんでした。それでも、私のような者でも、教会に通う内に教会を通して「あなたは赦された」と語られる神の細き御声を心に聞いたのです。初めて神にお会いした気がしました。相変わらず周りの人はよそよそしかったのですが、「人が何と言おうが、私は神に赦された」、その赦しにすがって、私はそこを通り抜けることが出来たのです。
罪を抱え、しかしだからこそ「この私を憐れんで下さい」と神に目を注ぐ時、私達も、キリストの十字架に表される「赦し」のメッセージを通して、魂の目で神を見ることが出来るのではないでしょうか。であれば私達は、自分の「きよくなさ」に絶望しなくて良い。イエス様のこの言葉は「きよくない」私達にとって「祝福の言葉」なのです。私達も自らの「きよくなさ」を握りしめて、一途に、愚直に神を見つめれば良いのです。 
そしてそれだけでなく、聖書にこんな言葉があります。「もし、私たちが自分の罪を言い表わすなら、神は真実で正しい方ですから、その罪を赦し、すべての悪から私たちをきよめてくださいます」(1ヨハネ1:9)。「水曜集会」で「矢嶋楫子」という人の動画を見ました。矢嶋楫子は戦前日本のキリスト教界の指導者であり、教育者でもあった人です。彼女は、40歳を過ぎて「妻子ある人との間に子供ももうける」という大変な過ちを犯してしまうのですが、その後のことを、彼女を描いた「我弱ければ」という本を書いた三浦綾子さんは、こう書いています。「楫子は…理性的な人間だと人に思われ、自分でもそう信じてきた。そしてまた誰の目にも…道を踏み外すような…女ではなく、常に自己を制して生き得る人間のはずだった。その楫子が過ちを犯した。(人間は弱い!)。楫子は身にしみてそう思った…信じきっていた自分自身に裏切られた楫子は、すべてのことを神に祈るよりしかたがなかった。神こそがすべてのことに答え得る方であり、導き得るかただった。楫子は幼子のように神の力を信じ、神の愛を信じた…」。彼女は、生涯、自分を義―(「きよい」)―としない。「きよくなさ」を、「人間は弱い」ということを忘れないのです。「赦された罪人」として十字架を仰ぎ続けます。そして「赦された者―(赦され続けている者)」としてものを見、人を見、生きて行くのです。その生涯の中で人々に感動を与える「愛と赦し」の足跡を残して行くのです。「きよく」生かされて行くのです。罪を自覚し、告白し、だからこそ神を一途に、愚直に見上げる時、私達も、聖霊が働いて、「きよく」生かして頂けるのではないでしょうか。
最後にもう1つ申し上げて終わります。イエスは言われた。「心のきよい者は幸いです。その人たちは神を見るから」(8)。しかしこの言葉は、恐らく今のことだけを語る言葉ではありません。パウロは言いました。「今、私たちは鏡にぼんやり映るものを見ていますが、その時には顔と顔とを合わせて見ることになります。今、私は一部分しか知りませんが、その時には、私が完全に知られているのと同じように、私も完全に知ることになります」(1コリント13:12)。やがて私達が、新しく頂く霊の体の目によって、本当に神を見る時が来るのです。「天国は本当にある」という映画では、コルトンという天国に行って帰って来た少年は、礼拝中のある瞬間に教会の講壇に天国の幻を見るのです。天使が歌うのです。私達は今、その幻を見ることが出来なくても、イエスを信じるなら、いつか必ず天国に行き、天国において、本当の意味においてきよめられた私達は、神を見るのです。
その時まで具体的に私達がすること、それは礼拝です。礼拝を通して神を見上げることです。礼拝を通して、聖書のイエス様の言葉、お姿を通して、砕かれた、悔いた心で神を見上げることです。三浦綾子さんが亡くなった時、東京の教文館の社長が「三浦綾子追悼の言葉」というのを店に掲げました。こんな件があります。「私どもも世にある限り、三浦綾子さんのように礼拝を固く守り生きて行きたいと思う。絶えず神様を仰ぎ愛し求め、そして隣人に対し温かく優しい思いやりのある生きがいのある人生を歩んでまいりたいと思う」(中村義治)。「礼拝を通して一途に神に目を注ぎ、きよくありたいと願うからこそ、パリサイ人のように他人を排除するのではなくて、隣人に対して思いやり深く生きる、神の愛に生きる」、イエス様が言おうとされたこと、それがここに込められているように読みました。
 

聖書箇所:マタイ福音書5章7節 

 カナダでお会いしたクリスチャンのご夫妻の話です。かつて商売をしておられる時、ある人がこのご夫妻を騙したのです。騙されて大変辛い思いをされました。しかしその騙した人が、今度は―(詳しいことは忘れましたが)―何か苦しい立場に置かれたのです。その時にその人は、この御夫妻に助けを求めて謝って来たそうです。ご夫妻は、自分達を騙したその人を赦し、「とりあえず今出来ることをして上げよう」ということで、手許にあったお金を上げようとされました。2万円上げるべきか、3万円上げるべきか迷われた。そこでハッと、「2万円と3万円で迷っているのなら、これを合わせた5万円を上げよう」という思いになって、とりあえず5万円を施されたそうです。この兄弟は「キリスト教とは憐れみです」と言っておられました。その兄弟が、亡くなられる直前、朦朧とした意識の中でメモ用紙に走り書きされた言葉の中に、この一節がありました。「二倍のものを主の手から受ける、何という信仰のよろこび」。「二倍のもの」と書かれたこの言葉が何を指しているのか、私には分かりません。「永遠の命」のことを言われたのかも知れない、地上で経験された様々な祝福のことを言われたのかも知れません。しかしこの「5万円」の話が語るように、このご夫妻は、その信仰の生涯で「『あわれみ』を生きられたな」という印象を受けています。そしてその結果、人生の最後に「二倍のものを主から受けた」と、告白せざるを得ない祝福を経験されたのだと思います。「二倍のものを主から受けた。主よ。感謝します」、そんなふうに地上の人生を閉じることが出来たら、どんなに素晴らしいだろうか、と思います。
さて、今朝は「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」(5:7)という御言葉について信仰の学びをして行きます。
「あわれみ深い者は幸いです。その人たちはあわれみを受けるから」(5:7)、私達は憐れみ深いでしょうか―(あなたは憐れみ深いでしょうか)。「はい」と言えれば幸いですが…。その前に「あわれみ深い」とは、どういうことでしょうか。ここで使われている「あわれみ」という言葉は、「他の人の心の中にまで入って、その人の立場で物を見、その人に身になって考え、その人が感じるように感じる」、そのような意味の言葉だそうです。英語に「同情」という意味の「シンパシー」という言葉がありますが、「シンパシー」の語源は、「一緒に経験する」ということのようです。それも「あわれみ深い」という意味を良く表していると思います。そのように、あたかも「一緒に経験する」ように同情する、苦しみを一緒に経験するように苦しむ、悲しむ、他者の心を自分の心とする、そのような本当に深い同情というか、心から相手を思う慈しみの心、その心を持つことが「あわれみ深い」ということなのだと思います。
しかし、「聖書」の語る「あわれみ」は、それだけではないようです。「あわれみ」という言葉は、「聖書」の中に沢山出て来ますが、私達に憐れみを勧める箇所に「マタイ18章」があります。少し長いですが引用します。「ある王様に、自分に1万タラントの借金のあるしもべがいたのです。そのしもべが返済の猶予を願うのです、王様は、しもべを憐れに思って赦してやりました。借金を帳消しにしてやったのです。(1万タラントというのは、例えば1日の労働賃金を5000円とした時、3000億円です。一生かかっても返すことのできない額です)。それほどの借金を赦してもらったその家来が、その直後、自分に100デナリの借金のある仲間と出会います。(100デナリというのは、同じように計算すると50万円程です)。決して小さい金額ではありません。しかし彼が赦してもらった1万タラントに比べれば、比べものにならない小さな額です。しかし彼は、その仲間を赦さず、あくまでも借金を取り立てようとして、牢に入れてしまったのです。それを聞いた王様は怒って、彼の借金帳消しを取消し、彼は牢に入れられてしまうのです。王様は、彼にこう言っています。『私がおまえをあわれんでやったように、おまえもなかまをあわれんでやるべきではないか』(マタイ18:33)」。ここでは、「あわれみ」が、具体的な「赦し」という行動を意味しています。
あるいは、「マタイ25章」には、次のような箇所があります。「『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき…食べる物を与え、わたしが渇いていたとき…飲ませ、わたしが旅人であったとき…宿を貸し、わたしが裸のとき…着る物を与え、わたしが病気をしたとき…見舞い、わたしが牢にいたとき…たずねてくれたからです』。すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか』。すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです』」(マタイ25:34~40)。ここにも、イエス様が「あわれみ深い」ということで、私達に何を期待しておられるか、それが示唆されていると思います。つまり「具体的な愛の行い」、そういうものが期待されているのではないでしょうか。ここで「これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」とあります。社会の中にこういう精神が生きているなら、その社会は素晴らしい社会になるだろうと思わされます。政治の力だけでは、どうにもならないことがあるのです。いずれにしても、相手と同じ思いになって喜ぶ、苦しむ、悲しむ、そんな心から相手を思う慈しみの心を持ち、そしてそれが、思いばかりでなく、具体的な行動となって現れる、そんな生き方をイエス様は期待しておられる、そんな生き方を「幸いだ」と言っておられるのではないでしょうか。
しかし、実際どうでしょうか。私達は、そのような―(イエス様から「あなたは本当に幸いだ」と言われるような)―憐みに生き得ているでしょうか。先日も申し上げましたが、私は、赦しに生きることが出来ずに苦しんでいるような者です。皆さんは、いかがでしょうか。皆さんの生き方を、イエス様がご覧になった時、何と言われるでしょうか。「天国は本当にある」という映画の中で、危篤状態の老人の枕元に牧師が呼ばれ、牧師が老人に聞きます。「何か悔い改めることはありませんか」。老人は言います。「何もかもだ」。願わくは、そのようにして人生を振り返ることのないようにしたいと思います。
しかし私達も、なかなかイエス様の期待しておられるような「あわれみ」に生きることが難しい者ではないでしょうか。どうすれば良いでしょうか。
実は「マタイ18章」にそのことを考える良い示唆が与えられています。先程の「3000億円の借金が赦された男が、50万円の借金を赦さなかった」という話です。この男と50万円の借金をしている友人との関係だけを見ると、貸してあった50万円を請求することは不当なことではありません。しかしここにあるのは、男と友人に関わる話だけではありません。その前の話があるのです。彼は、主人(王)から3000億円の借金を赦された人間でした。それが彼の前提です。つまりこの譬え話は、私達の生きている、生かされている現実とはどういうものか、ということを語るのです。3000億円を赦された人間、それが私達だと語られるのです。
「3000億円を赦された」と言われても、正直、今は実感として湧かないかも知れません。しかし、ラジオ牧師だった羽鳥明先生がこんな話をしておられます。先生が夢を見ました。先生は、夢の中で神の裁きの座に立っていました。そこで自分の人生の様々な場面を見せられました。自分の人生の裏も表も見せられて、自分でも「もうダメだ」と思ってくずおれた、その時に、どこからか澄んだ声が近づいて来て、その声が言いました。「父なる神様、この者の罪は、私が全部十字架で始末しましたから、だからこの男を赦して下さい」。「アッ、イエス様の声だ」と思った瞬間に目が覚めたそうです。
私達は、人生の総決算の時があるとするなら、そしてその時、自分の人生の全てが見せられて、神の基準で―(私の基準ではない、神の基準で)―裁かれるとするなら、私達も「もうダメだ」とくずおれるしかないのではないでしょうか。前にも申し上げましたが、私は4年前、交通事故に遭った時、魂が神の裁きの座に立たされるという幻を見せられました。足が震えました。「神の裁きの座に出るとはこういうことか」と思いました。しかしその時、私達にもイエス様の声が聞こえるのです。生涯の一切の罪が、全くなかったかのごとく、生まれてから一度も罪を犯したことのない者のように認められ、天国に入って行くのです。そのために、私達は何かしたのでしょうか。何もしていないのです。ただ憐れまれ、赦されたのです。もう赦されているのです。そのためにイエス様が十字架で命を捨てて下さったのです。恐らく私達が「自分は3000億円を赦された人間である」ということ、その自分の罪と赦しの恵み―(神の憐れみ)―が本当に身に沁みて分かるのは、人生の最後の裁きの時かも知れません。
いずれにしても私達は、今、既に3000億円を赦されて在るのです。そんな大きな赦しと「あわれみ」を受けている、そのことを心に沁み込ませた時、私達も、誰かに対して「あわれみ」の心を持ち、「あわれみ」の行いに踏み出すことが出来るのではないでしょうか。しかも、神の「あわれみ」は現在進行形です。「神のあわれみ」がテーマになっている「旧約」の「ホセア書」では、夫を裏切って逃げる妻に対する真実の愛を貫こうとする夫の愛の姿によって、神の愛が象徴されています。夫は、赦し続け、愛し続けます。神に対してしばしば真実であることが出来ない私達も、そのような「あわれみ」で憐れまれ続けているのです。だから、私達の信仰は守られているのです。そのことを、深く心に止め、私達も「あなたは幸いだ」と言って頂けるように、「あわれみ」に生きる者にして頂きたいと思うことです。
イエス様は言われました。「その人たちはあわれみを受けるから」(5:7)。「憐れみ深い人たちはあわれみを受ける」。あるいは「聖書」は語ります。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(マタイ6:14~15)。「人に憐れみをかけない者には、憐れみのない裁きが下されます。憐れみは裁きに打ち勝つのです」(ヤコブ2:13)。「憐れむ者だけが憐れまれる」、それは「新約聖書」の一貫した主張です。申し上げたように、それは私達を待っている死後の裁きの時に、神から「あわれみ」を受けるということもあるかも知れません。裁きの時が喜びの時となる、主から「あなたの人生は幸いだ」と言って頂ける時となる、そのような意味合いが強いだろうと思います。しかしそれはまた、私達が、この地上において具体的な主の「あわれみ」を経験する、ということでもあるのではないでしょうか。
最初にカナダで出会ったご高齢のご夫妻のことをお話ししましたが、このご夫妻について、もう何度もお話ししている話ですが、ここで申し上げたいとことがあります。このご夫妻は、施設のお子さんを短期間、自分の家に連れて来て、様々にお世話して、家庭の温かさを味わってもらう、そういう活動をしておられました。ある時、家でお世話した女の子が、「ここでずっと暮らしたい」と言い出しました。ご夫妻は、その子供さんを養子として受け入れるかどうか、随分悩んだのです。子供は「ここに来たい、ここで暮らしたい」と言う。でも自分達の年齢を考えた時に、とても育てて行く自信はない。結局、ご夫妻は「やはり施設に帰そう」と施設に連れて行かれたのです。しかし、そんな時に兄弟が夢を見ました。小さな天使がやって来て兄弟の胸を揺さぶったのです。そしてどこからか「最も小さな者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです」(マタイ25:40)という御言葉が響いて来ました。目が覚めた時、兄弟は「引き取るのが御心や。神を信じよう、後は全部、神の憐みにすがろう」と決めて、そのお子さんを引き取りに施設に行かれました。そのお子さんの手を引いて施設を出る時、空を見上げたら、東の空から西の空までキリストが手を広げて立っておられるのが見えたそうです。それは「その子のことは、私が責任を持つから、あなた方は、出来るだけの愛でその子に関わって行きなさい」という励ましのメッセージだったのではないかと、私は勝手に思っています。ご夫妻は、その後の来し方を振り返って良く言っておられました。「あの子を育てるために必要なものは、全部神が備えて下さった。何も困らなかった」。神の「あわれみ」を経験されたのだな、と思います。「憐れむ者が憐れまれる」、その言葉を思うことです。それは、地上においても、様々な形で、現実のこととして有るのではないでしょうか。
もちろん、私達は、それでも、どこまでも自己中心に振り回される、そんな弱さを纏っています。「あわれみの貧しさ」があるのではないでしょうか。しかしその時には、「主よ、憐れんで下さい」と叫ぶことが出来ます。「私も、あなたから憐れまれた憐みで、愛された愛で、憐れみに、愛に生きることが出来るように、どうぞ憐れんで下さい」、そう祈って行くことが出来ます。いや、そうやって祈ることなしには、「あわれみ」に生きることは出来ないのではないでしょうか。そうやって、私達もイエス様が教えて下さったように「あわれみ」に生きることを求めて行きたいと思います。先ほどのご高齢の兄弟は言われました。「キリスト教とは『あわれみ』です」。私達の生活を、私達の人間関係を、私達の人生の軌跡を、そしてまたこの教会を、「あわれみ」で満たすことが出来たら幸いです。
 

聖書箇所:マタイ福音書5章6節 

 先日、私は親戚の人の葬儀に参列しました。それは仏教の葬儀でしたから、お坊さんから故人についての話は何もありませんでしたが、キリスト教の葬儀では、多くの場合、司式者が故人の「人となり」のようなものを話すのを聞くことが出来ます。もう、随分前に参列した葬儀ですが、司式者は故人について「この方は父親として本当に正しい人でした。正しさを大切にする人でした」と話をしました。信仰者であれば誰でも、自分の罪深さは認めながらも、少しでも正しく在ろうと心していると思うのですが、改めて「この方は正しい方でした」という言葉を聞いた時、その一言で、故人の人となりに触れたような気がして、今でも印象深く覚えていることです。
 今日はイエスが語られた「義に飢え渇く者は幸いです。その人たちは満ち足りるから」(5:6)という御言葉を学びます。「義に飢え渇く」とはどういうことでしょうか。「義」、辞書で引くと「正しいこと、正しい道、立派なこと」等と説明がされています。その意味で「正しいことに飢え渇く者は幸いです」ということになり、それはさらに「正しいことに飢え渇きなさい」という勧めの御言葉になります。では「正しさに飢え渇く」とは、どういうことでしょうか。
先週、マーチン・ルーサー・キング牧師の話をしました。彼がなぜ公民権運動に関わって行くようになるのか。アメリカ社会を覆っている人種差別の現実、そこで「神様、これで正しいのですか、これであなたの『義』が、『正しさ』が、立つのですか」というような思いがあったからだと思います。合衆国憲法は「神の義」を謳っている。それなのに、現実としては「本当に神が世界を支配しておられるのか、であれば『神の正義』はどうなってしまったのか」と、神の支配を疑わせるような事実があったのです。そして「どうせ、こんなものさ」と祈ることを諦める、そういう雰囲気がありました。その中でキング牧師は「神の義、神の正しさ」に飢え渇きました。人々にも「神の義を求めるように」励ました。そこからアメリカ社会がやがて手にすることになる大きな祝福が始まるのです。私達は、この生かされている社会において、「神の義、神の正しさ」に飢え渇かなければならないのではないでしょうか。そしてその故に、正しさが成るように、もっというと「神の義(正しさ)」が成るように」という祈りを止めてはならないと思います。それは、私達の身の周りの問題でもそうです。皆さんも身の周りに色んな問題を抱えながら生活していらっしゃることでしょう。時には、どう考えても納得できないこと、不条理なことに直面することがあります。「神様。これで良いのですか。これで神様の義がなるのですが、納得出来ません」と思いの丈をぶつけたいことがあります。だからこそ、そこで「『神様の義(正しさ)』が成りますように」と飢え渇き、祈ることは大切なことだと思います。聖書的な祈りだと思います。
 神は人を造られました。「詩篇」にはこうあります。「あなたは、人を、神よりいくらか劣るものとし、これに栄光と誉れの冠をかぶらせました」(詩篇8:5)。「人間は素晴らしい者として造られている」とあります。その素晴らしさは、「義(正しさ)」、「神の義(正しさ)」に飢え渇くところに、素晴らしく生かされて行く秘訣があるのではないでしょうか。以前、私は「ルワンダの虐殺」のことを調べたことがあります。残念に思ったのは、教会が虐殺に加担して行ったという事実でした。教会が権力者に近く在りすぎて、社会に「義(正しさ)」がなること、「神の義が成ることに飢え渇くこと」、その大切なことが見落とされていたのではないかと感じました。今のウクライナ戦争でも、私達は感じるのではないでしょうか。「ロシアにある教会は、本当に『神の義』に飢え渇いているのか。それとも、教会と国家の良い関係を守ろうとするだけなのか」、そんなことを思わされます。イエス様は、この言葉を通して、「『義』に飢え渇け、『正しさ』を求めよ、『神の義』が、『神の正しさ』が通る世界について執り成すことを諦めずに、また祈りから生まれる小さな業に生きることを諦めずに、『神の義』に渇いて生きよ」と言われるのではないでしょうか。
その時、私達には励ましがあります。祈祷会では「創世記」を学んでいましたが、「創世記」に「ノアの箱舟」の物語があります。神は人間を造り、人間社会を祝されました。しかし人間のあまりの罪の酷さに、一度、人間社会に絶望されました。そしてノアの家族以外の人々を全部滅ぼしてしまわれました。しかしその後、神はまた、人間社会に望みを置かれ、それだけではなく「もう二度と滅ぼすことをせずに人間社会に望みを置き続けよう」と言われました。そして「そのしるしは空にかかる虹だ」と言われました。神様は、ご自分が人間社会を決して諦めておられないという証拠に虹を掛けられました。その虹はやがて、神の独り子を「救い主」として人間に与えて下さるという最も鮮やか虹として掛かりました。イエス様の誕生は「神が人間を諦めておられない、決して諦めない」というしるしです。神が人間社会を諦めておられないなら、私達は「神の義」が成るように、神の支配が見えるように、社会のこと、身の回りのこと、色々なことに敏感になり、「正しさ」に飢え渇き、問題の中で「神の義(正しさ)」が成ることを祈り求めて行かなければならないのではないでしょうか。繰り返しますが、祈ることを止めてはいけないと思います。
さてしかし、ここで問題があります。(実はここからが本題と言っても良いのですが…)。「正しさ」を求めて祈る、そうする時に、私達がどうしても思い至らずにおられないのは、社会のこと、政治のことをあれこれと批判している、その当の「自分の正しさ」です。「自分の義」です。カナダの神学校で面白い講義を聴きました。「教会の何がおかしいか―(何が悪いか)」という講義でした。始まって30秒もしない内に、講師は答を言いました。「教会の何が悪いか」、答:「私が悪い」。教会の一番の問題は「私が悪いこと」だそうです。「私が変われば、教会は変わる。それが全てだ」と言って、それが結論でした。3分で終わりました。その講義の中で、講師はフランスのある哲学者の言葉を引用しました。その哲学者は言いました。「世界で一番大きな問題は何か。それは私だ。私が悪いことが一番の問題だ」。(皆が本気でそう思えば、社会は変わるということではないかと思います)。社会のために、あるいは身の周りのことでも、「神の義」が成ることを祈ることは大切でしょう。でも同時に私達は、「では自分の中には『義が、正しさが』あるのか」と問われるのです。その時、「悲しむ者は幸いです」(5:4)の御言葉の時に学んだように、自分の中にあるのは、むしろ罪の悲しみです。正しく生きようとしても、自己中心が頭をもたげる、「義(正しさ)」がない、そういう現実です。社会を見る前に、自分の足元がぐらついているのです。
しかし、それが私の真の姿であれば、「自分の中に『義』、『正さ』がない」というか、正しく生きようとしても生きられないのであれば、自分について「神の義」に飢え渇くことこそ、「私の中に『義』が成りますように、私が神の前に『正しく』生きられますように」、そのように自分について「義」に飢え渇くことが、まず大事ではないでしょうか。だからこの御言葉を、ある聖書は次のように訳します。「神の前に、正しく良い者になりたいと、こころから願っている人は幸いです。そういう人の願いは完全にかなえられるからです」(マタイ5:6「リビングバイブル」)。
しかし私達が、自分では願わないのに、罪に振り回されるというのは、それは、私達はその本性において堕落しているということです。では、どうすれば良いのでしょうか。「三浦綾子さんが結婚する時、夫の光世さんは、神様に『愛を下さい』と祈り求めた」という話があります。後日、光世さんはこのように言っています。「私の中には愛はない…ない袖はふれない…愛は『愛なる神様』から頂くより仕方がない」(三浦光世)。「義」も同じではないでしょうか。自分の中に「義」がないのであれば、「義」は、神に願い求めるしか、神に頂くしかないのではないでしょうか。だからイエス様が「義に飢え渇くように」、「義を求めよ」と言われた時、それはまた、「『義』のない自分のために、『義』に飢え渇け」、「神に義を求めなさい」、「神に助けてもらえるように、祈り求めなさい」と言うことでもあったのではないでしょうか。
「神に義を求める」、「神に助けてもらう」とは、どういうことでしょうか。宗教改革者マルチン・ルターについてこんな話があります。ルターは、修道院に入ってからも、恐ろしい神しかイメージが出来なかったのです。罪人を裁く恐ろしい神です。だから信仰生活に平安がなかったのです。そんな時、「ローマ書1章7節」が彼の目に飛び込んで来るのです。「なぜなら、福音のうちには『神の義』が啓示されていて、その義は、信仰に始まり信仰に進ませるからです。『義人は信仰によって生きる』と書いてあるとおりです」(ローマ1:17)。彼はこの「神の義」を、「神の正しさ」と理解するのではなく―(「福音のうちには『神の正しさ』が掲示されている」と読まないで)―「神が不義な罪人を義と認めて下さるところの義」と解釈するインスピレーションを与えられたのです。「私は、自分の力では正しくあり得ない。裁かれるべき者だ。でもその私のために、イエス・キリストが地上に来て下さり、私の罪の一切を背負って―(過去の罪も、現在の罪も、将来の罪も背負って)―十字架に掛かって下さった。そのイエスの十字架を『私のためでした』と感謝して受け取り、イエスを『私の救い主』として信じるなら、神は、その信仰の故に、正しくない者を『正しい者』と認めて下さるのだ。その信仰によって、本来行くことの出来ない天国に行くことの出来る者と認めて下さるのだ」。この理解に至った時、彼は平安を得るのです。「ローマ書」には、こうもあります。「すべての人は、罪を犯したので、神からの栄誉を受けることができず、ただ、神の恵みにより、キリスト・イエスによる贖いのゆえに、価なしに義と認められるのです」(ローマ3:23~24)。神が「義」と認めて下さるというのです。
 こんな話があります。私達が地上の人生を終えて、神の裁きの前に立った時、悪魔が私達の罪の記録簿を持ってニコニコしてやって来るそうです。彼は、新しい魂―(私達の魂)―が手に入ると確信しています。なぜなら、その記録簿には私の酷い言動、それだけではない、憎んだことや、恨んだことや、その他諸々の心の思い、神に喜ばれない全てのことが書き込んであって、どう考えても私の地獄行きが決まっているからです。いよいよ悪魔が神の前で私達の罪状を読み上げようとして本を開いた時、悪魔の顔色が変わります。そして、その本をあちこちとめくって、そして呟きます。「おかしい。あんなにいっぱい書いてあった罪の記録が全部消えている」。イエス様の十字架を信じたというその一点で、私達の罪の記録は消されてしまうのです。これが福音です。私達には、「義」はない。私の中では「神の正しさ」は成っていない。でも「イエス様の十字架を信じます、こんな者が『神の子』という特権に与ることが出来るように、イエス様が死んで下さったことを信じます」、そう告白する時、神が「神の義」で私達を覆って下さるのです。私達を「『義』がある、『正しさ』がある」と認めて下さるのです。「神に義を求める」とは、自分の罪を認めて、十字架を見上げることです。その時、「義」のない私達が、信仰の故に、既に「正しい者」と認められ、「正しさ」に生きようとする出発点に立つことが出来るのです。イエス様の十字架を見上げる時、神は何度も、何度も、「神の義」で私達の欠けを覆い、聖霊の働きを与えて、罪に支配されるのではない、「正しさ」に生きる、その出発点に立ち返らせ続けて下さるのです。やり直しをさせて下さるのです。
 神が「義」のない私達を「義のある者」と認め、「正しさ」を求める出発点に立たせる、そんな環境を作って下さったのだから、そして私達に天国を喜びとする、そんな特権を与えて下さったのだから、その神の恵みにお応えして、精一杯「義」に飢え渇き、「正しく」生きて行こうとする、それが、イエス様を十字架に架け、私を神の子として下さった神様に、私達がせめてお返し出来ることだと思うのです。だから祈りたいのです。「神様、あなたは私の不義を赦して、神の『義』の衣を着せて下さいました。神様、あなたに『義がある』と認めて頂いた私です。だからこそ、あなたの恵みによって、精一杯『義(正さを)』求めることが出来るように、あなたの前に『正しく』生きることが出来るように、それを喜びとすることが出来るように、そのように助けて下さい、導いて下さい」と。この話は「信仰問答」で紹介しましたが、ある会社の社長秘書として働いていた女性がいました。ある時のこと、社長に電話がかかって来ました。社長は「留守だと言ってくれ」と言いました。彼女は言いました。「ご自分でどうぞ。私は、嘘はつきません」。社長は言いました。「業務命令だぞ」。彼女は言いました。「どんな場合でも、私は、嘘はつきません」。その時は、社長はカンカンになって怒りましたが、しかしそれまで以上に彼女を信用するようになったという話でした。こんな風に生きて行きたいと願います。
そして、イエスは「その人たちは満ち足りる…」(5:6)と言われたのです。新共同訳は「その人たちは満たされる」と訳しています。受け身形です。原文も受動態です。どうやって満たされるのか。この「義」という言葉は、「『神との正しい関係』という意味だ」という理解があります。申し上げたように、私達が、自分について「神の義」に飢え渇いた時、神はイエス様の十字架を通して、「飢え渇き」を満たして下さるのです。罪を赦して、何度でも「正しい」として下さるのです。私は、神が赦しを語って下さった時の喜び、衝撃を忘れることが出来ません。今も神は、私達に聖霊の働きを与えて、飢え渇きを、神との関係を、満たし続けて下さるのです。
であれば―(初めに戻りますが)―私達が、自分の「義」だけではない、自分の回りの問題、社会の問題、神の支配が見えないような状況で、「神様、これで良いのですか」と「神の義」に飢え渇く時、神はそれも満たして下さるという希望を持つことができるのではないでしょうか。私達は、「神の支配」が見えないような問題の中でも「神の義」に飢え渇き、希望を持って祈り続けて行くことが出来るのではないでしょうか。 
 イエスご自身が「不義」な世(社会)にあって「神の義」を求めて生きられました。最後には「わが神、わが神、なぜわたしをお見捨てになったのですか」(マタイ27:46)と、「これで良いのですか」と、「神の義」に対する飢え渇きの叫びを上げて死なれました。しかし、そのイエスの叫び、飢え渇きに答えるかのように、神はイエス様を甦らせたのです。人の世の一番外側には「神の支配」があるという現実を見せて下さったのです。イエス様の飢え渇きは、満たされました。やがてイエス様を殺したローマはキリスト教国になって行くのです。「義」に飢え渇き、「義」を求めて生きたイエス様は、神によって満たされました。それは「義に飢え渇く者」はやがて必ず満たされる、その保障を与えているのではないでしょうか。問題に対する飢え渇き、それがいつ満たされるのか、それは分かりません。キング牧師の運動のように、地上で満たされるかも知れない。もしかしたらそれは、天国で主にお会いする時なのかも知れない。それでも良い。何よりイエス様が「(その人は)幸いです」と、「そこに幸いがある」と約束されるのです。私達はその言葉を信じるのです。信じて、身の回りの問題に対しても、「神様、これで良いのですか」と、「神の義」に飢え渇き、祈り続け、祈りの中で示された「正しい」道に生きるのです。ルターは言いました。「『義』のために、あなたの手を、あなたの足を、あなたの体を捧げよ。為すべきこと、為せることは、全て為せ」。マザー・テレサは言いました。「私達の行いは大河の一滴かも知れない。でも何もしなければ、その一滴も生まれない」。神に「あなたは良し」と認めてもらっている者として、精一杯、神に喜ばれるように、生きて行きたいと願います。
 

聖書箇所:マタイ福音書5章5節 

 私は学生時代、子供会研究会というサークルに所属していました。子供会のサークルですから、子供の遊びも研究します。ある時、紙で作った刀で相手を叩くようなゲームを皆で練習したことがありました。私も何の気なしに参加したのですが、相手から叩かれた時、瞬間的に「叩かれっぱなしはない」と思って、我を忘れて相手を叩き続けまし。相手は後輩でしたが、「吉行さん、止めて下さい」と、驚いた表情で私を見ました。非常に恥ずかしい経験ですが、でも私の本性でしょう。今日の御言葉は「柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐから」(5)という御言葉です。私は「柔和」な性根は持っていないようです。皆さんはいかがでしょうか。
「柔和な人」とは、どういう人でしょうか。「柔和」、国語辞典には「性質や態度がものやわらかいこと、厳しくなく穏やかなこと…」とあります。対人関係で言えば「ギスギスすることのない温和な人」、「人間関係の中で感情や行動を穏やかに制御できる人」、「どこかでゆったりしている人」、そういう人だと言えるかも知れません。「新約聖書」はギリシャ語で書かれましたが、ギリシャ人は、この言葉の意味をこう考えたようです。「『人との交わりで粗野なこと、怒りっぽいこと、力ずくで押しまくること』、そういうことをしないこと。したくなる心が起こっても、それを抑えることが『柔和』だ」。あるいは「人とのつき合いで不愉快なことをされても、すぐに怒りに燃えて仕返しをしないこと、ゆっくり反応することが出来る、それが『柔和』だ」と考えました。
私達はどうでしょうか。例えば、私達は神様の前で「神様、私は惨めな罪人です」と告白をすることが出来ます。では、この礼拝が終わった後、ある人があなたのところにやって来て、「あなたは本当に惨めな罪人ですね」と言ったとしたら、私達はどうでしょうか。穏やかにしていることが出来るでしょうか。「柔和さ」というものが良くテストされるのは人との関係だと思います。神との関係では認められることを人との関係では認められない。そこに私達の罪というか、自分が「柔和でない」ことに気づかされるということがあるのではないでしょうか。
聖書は「柔和」について、どのように語るのでしょうか。例えばモーセという人がいます。イスラエル民族を奴隷の地エジプトから脱出させて、40年間に渡る困難極まりない砂漠の旅を導いたのがモーセです。「聖書」はそのモーセについて、「モーセはその人となりの柔和なこと、地上のすべての人にまさっていた」(民数記12:3)と記します。人々を導いた困難の中の強い意志、そこに伴う忍耐、怒りのコントロール、人をひきつける謙遜や寛容。恐らく「聖書」の言う「柔和」は、単に「柔らかい」というだけではなく、そのような「人としての成熟した姿」を指すのだと思います。
しかしそれだけではない。「詩篇」の中に「柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐから」(5)、この御言葉の下敷きになったような御言葉があります。「詩篇37篇11節」:「貧しい人は地を受け継ごう」(11a)。この「貧しい人」という言葉ですが、「口語訳聖書」は「柔和な者は国を継ぎ…」(11a)と訳しています。「イエス様が『柔和な者は』と言われた時、その言葉の背後にも『貧しい者は』というニュアンスがあり、イエス様のお心には『詩篇37篇』があったであろう」と学者は教えてくれます。
では「詩篇37篇」の「貧しい者―(柔和な者)」とは、どういう人なのでしょうか。この「詩篇」を生み出したユダヤの人々は、大国によって脅かされ、国に攻め込まれ、しばしば翻弄されました。人々は激しい憎しみに駆られました。しかし「詩篇37篇」は、そこで「柔和」について語るのです。ここの「貧しい者―(柔和な者)」は、「彼に敵対する者がいて、彼に悪をしかけて来る。しかもその敵対する者が繁栄していて、神の民が苦しい経験をしている」状態です。彼は欠乏しています。時には「なぜ彼の方が―(あの国が)―繁栄するのか」と妬みが起こるような状況もあるのです。逆境にある。その信仰者に対して「詩篇37篇」は「腹を立てるな、妬みを起こすな、憤りを止めよ、善を行え」と語ります。それで信仰者は、逆境の中でじっと耐えるのです。しかし「詩篇」は、じっと耐えることを教えるだけでなく、何よりも大切なこととして、「貧しいが故に、欠乏がある故に、逆境故に、しかし自分は耐えて、善を行い、そして神を待ち望む」、そのような生き方を教えます。「5節」には「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)とあります。そのように生きる時、「37篇9節」には、「しかし主を待ち望む者、彼らは地を受け継ごう」(9)とあり、「11節」には「しかし、貧しい人―(柔和な人)―は地を受け継ごう。また豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう」(11)と語るのです。さらに「37篇」の最後には「正しい者の救いは、主から来る。苦難のときの彼らのとりでは主である。主は彼らを助け、彼らを解き放たれる」(39~40)と教えられています。つまり、そのような生き方をする時に、やがて「主が地を受け継がせて下さる―(主が祝福して下さる)」と言うのです。「柔和な生き方」がこのような意味として教えられ、勧められ、そしてその祝福が語られます。イエスも、「詩篇37篇」で語られている信仰者の生き方の原則を語っておられるのだと思います。「弱く、貧しく、時に理不尽と言えるような状態に置かれ、怒りたい、腹が立つ、腹を立てたい、あるいは『なぜあの人ばかり…』と妬みのような感情さえ起こって来る…たとえそのような様々な逆境の中にあっても、腹を立てずに、耐えて、善を行なう、善を生きる、そして神を待ち望む、『貧しさ』の中で、なお神に望みをおいて生きる人こそが、地を受け継ぐ、主の祝福に与るのだ」と、そう語られたのだと思います。
なぜそうなのか。それは、そのような生き方こそ、正にイエス様が見せて下さった生き方でした。「マタイ11章28~30節」にこうあります。「疲れた者、重荷を負う者は、だれでもわたしのもとに来なさい。休ませてあげよう。わたしは柔和で謙遜な者だから、わたしの軛を負い、わたしに学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる。わたしの軛は負いやすく、わたしの荷は軽いからである」(マタイ11:28~30)。ここに「わたしは柔和…だから…わたしに学びなさい」とあります。「柔和な生き方を私から学びなさい」、「そうすれば…安らぎが得られる―(癒される生き方が得られる)」と言われるのです。この御言葉は、私達に「イエスの柔和さを学ぶように」と強く勧めるのです。そしてその通り、イエスは柔和な方として生きられた方でした。イエス様が生きられた当時も、ユダヤの民は、外国人に国を支配された悲しみや憎しみの中に生きていました。その中で、ある人々は、力ずくで国を回復しようとしていました。そして人々は、宗教家として知られるようになったイエス様にも、そのような力ずくのリーダーであって欲しいと願い、イエス様をそのようなリーダーに仕立てようとしました。しかしイエスは、力に―(暴力に)―生きようとはされなかったのです。「柔和」に生きる道を選ばれました。神の御心にかなう国は、暴力では、力ずくでは造られないからです。イエスは、力を捨てて、神に信頼し、神を待ち望んで、善を行ない―(愚直に善を行ない)―「柔和」に生きられました。また、重荷を負い、呻くような生活をする者には、その魂に平安を与えるような生き方をされました。その「柔和」に生きるイエス様を、力ずくの世の中は、受け入れることが出来ませんでした。イエス様を潰してしまった、殺してしまいました。しかしそのイエス様を、神様が甦らせたのです。神様は、イエス様を潰した力ずくを、暴力を、全く虚しいものとされました。そしてイエス様は、神によって「柔和に生きる者の勝利」を得られたのです。神が勝利させて下さったのです。
神に信頼し、神を待ち望み、逆境に耐えて、善を行なう、善を生きる、イエス様は、私達に「その生き方を学べ」と言われます。その時に「地を受け継ぐ」と言われるのです。この「地を受け継ぐ」という言葉がどういうことなのか。主の再臨によって「新しい天と新しい地」(黙示録21:1)が現れる、その時に「新しい地」において豊かな報いを受ける、豊かなものを受け継ぐ、そのような意味もあるかも知れません。「それが本質だ」と書いている注解書もあります。しかし同時に、「詩篇37篇11節」には「柔和な人は地を受け継ごう。また豊かな繁栄をおのれの喜びとしよう」とあるのです。つまり、私達の現実の生活、私達が悩んだり、呻いたりしているその生活の具体的な場において祝福を受ける、そういう意味でもあるのではないでしょうか。だから「柔和に生きる、それは現実の生活を生きる上での祝福の生き方」でもあるのです。
私はここまで学んで、マーチン・ルーサー・キング牧師の姿を思い出したのです。ご存知の通り、かつてアメリカ社会は、白人による黒人差別という病気に病んでいました。キング牧師は、その差別の撤廃運動に立ち上がります。人種差別の撤廃を求める「公民権運動」を指導しました。世に正義を訴えたのです。困難な戦いでした。しかしキング牧師の運動が、どうして成功したのか。白人は権力にものを言わせて、力で、暴力で黒人を抑えつけようとします。キング牧師自身も家に爆弾を投げ込まれたりしました。でも彼は、怒りに身を任せません。彼は言います。「正義の闘いは、正義の方法によらなければならない」。彼は、逆境に対して善を行なう、暴力で対抗しないのです。むしろ白人に対する愛さえもって運動して行くのです。その姿に、やがて白人が良心を呼び覚まされて行きました。黒人差別の撤廃を求めるデモに、白人が参加して行くのです。白人と黒人が手を取り合って歩くようになります。黒人が怒りに駆られて「反白人」という運動をしたら、こうはならなかったと思います。ワシントンで行われた有名な演説でキングは言いました。「私には夢がある。将来いつか、幼い黒人の子ども達が幼い白人の子ども達と手に手を取って兄弟姉妹となり得る日が来る夢が…」。そして「この信仰を持って私達は南部へ帰ろう」と言いました。「夢」は、神がおられる時に「希望」になるのです。聖書に「だれに対してでも、悪に悪を報いることをせず、すべての人が良いと思うことを図りなさい」(ローマ12:17)とあります。その御言葉を生きるのです。柔和を生きる。彼の中には「神の御心に適った道であれば、それは神が為し遂げて下さる」、その思いがあったのだと思うのです。だから「柔和」を生きました。その結果、1964年、人種差別を禁止する「公民権法」が成立しました。今もアメリカには、人種差別があるようです。しかし一方で「世界で一番人種差別に敏感な国民はアメリカ人だ」という言葉も聞きます。彼らの運動が「地を受け継ぐ」のです。生きる現実において、彼らは祝福を経験しました。いずれにしても、「柔和」に生きる、それこそが祝福の原則であることを教えられます。
しかし「私達の現実の生活、私達が悩んだり、呻いたりしているその、生活の場において祝福を受ける」ということは、逆に言うと、どういうことかというと…。良く「サンデー・クリスチャン」等という言葉が使われることがあります。日曜日には教会用の顔になり、いわゆる「クリスチャン」になり、月曜日から土曜日にはまた別の顔になる。「日曜日だけのクリスチャン」、そのような意味の言葉です。私も―(随分前ですが)―「夫婦喧嘩はウィークディにしよう」と考えていた頃があります。日曜とウィークディを使い分ける自分がいたのです。
もちろん実生活を営んで行く中で、「力」を用いないで生きて行くことは難しい、現実の人間関係の中で柔和な顔ばかりをしてはいられない、そういう現実もあるでしょう。しかしイエスが「柔和な生き方」を説かれた時、「柔和であれ」と言われた時、「地上の生活で祝福を受ける」と言われた時、それを聴く私達-(イエス様を信じ、イエス様に従おうとする私達)―は、「柔和さ」を日常化―(月曜日から土曜日化)―することが期待されていると思うのです。場所によって、状況によって使い分けるのではなくて、生活全般の中で、生き方を通して、「柔和」を、具現化する必要があるのだと思うのです。それがこの箇所のチャレンジだと思います。 
しかし、そのために大切なこと。それは、イエス様が生きて見せて下さったように、信仰的な柔和さは、神を信じるところから、神を信じ切る―(神に結果を任せる)―ところから来るということです。逆に言うと、私達が「柔和さ」を失うのは、「神になんか任せていられない」と思う時ではないかと思います。それである注解書にこうありました。「柔和さの問題は、私達の度量の問題、心が広いとか、狭いとかの問題ではない。信仰か不信仰かの問題である」。モーセは、神と共に歩んでいました。だから神に委ねることが出来たのです。神の前に無力な罪人であるのに赦される恵みを知り、自らの罪深さを悲しむ者を受け入れて下さる神の憐みを思う時、私達は神に委ねるようになるのではないでしょうか。そして「柔和」を生きることが出来るようになるのではないでしょうか。
「柔和」に生きることを選んだがために、損をしたり、悔しい思いをしたりすることがあるかも知れません。「これは…こうするのが、こう言い返すのが当たり前ではないか…」と思うようなことでも腹を立てない、善を行なう、そういう苦しい戦いをしなければならないこともあるかも知れません。でも、そこで私達はイエス様の言葉を聞き続けるのです。「柔和な者は幸いです。その人は地を受け継ぐから―(その人はやがて神の祝福を経験するから)」(5)というイエス様の言葉を聴き続ける。「わたしの軛を負い、わたしに(柔和さを)学びなさい。そうすれば、あなたがたは安らぎが得られる」(マタイ11:28~29)という言葉を聴き続けるのです。「柔和」に生きようとして味わう辛い思いは、主が慰めて下さると信じるのです。「柔和」に生きる、その結果は、神が祝福で仕上げて下さると信じるのです。その信仰の闘いの中で、私達も「柔和な者」として生きる恵みを少しずつ経験する者とされて行くのではないでしょうか。この地を治めておられるのは神様です。私達の祝福は、地―(全世界、私達の全て)―を支配しておられる神から来るのです。その神から来る祝福にこそ期待し、主を待ち望む、それこそが私達の信仰です。お1人びとり、生きる現実に逆境があると思います。悲しみがあり、試練があり、また腹が立つことがあると思います。しかし、この言葉を語られた主は、生きておられます。だから、そこで私達は「柔和な者」として生きて行きましょう。忍耐し、神に期待して、善を行ない、やがて「地を受け継ぐ」―(「その場を支配する」、「祝福がある」)―と約束して下さる神の祝福を経験させて頂きましょう。
最後に、マザー・テレサの詩をご紹介して終わります。
「人は不合理、非倫理、利己的なものです。気にすることなく、人を愛しなさい。あなたが善を行うと、利己的な目的でそれをしたと言われるでしょう。気にすることなく、善を行ないなさい。目的を達成しようとする時、邪魔立てする人に出会うでしょう。気にすることなくやり遂げなさい。善い行いをしても、おそらく次の日には忘れられるでしょう。気にすることなく、し続けなさい。あなたの正直さと誠実さがあなたを傷つけるでしょう。気にすることなく、正直で誠実であり続けなさい。あなたが作り上げたものが壊されるでしょう。気にすることなく、作り続けなさい。助けた相手から恩知らずな仕打ちを受けるでしょう。気にすることなく、助け続けなさい。あなたの中の最良のものを世に与えなさい。けり返されるかも知れません。でも気にすることなく、最良のものを与え続けなさい」(マザー・テレサ)。