2023年7月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:マタイ福音書5章4節 

 カナダの教会で、礼拝後の交わりをしている時、1人の方が日本で通っておられた教会の話をされました。その教会では喜びが強調されていたというのです。しかし彼は言われたのです。「『喜び、喜び』と言うけれど、人生には、喜びばかりではない、悲しみがあるんだ、でもその悲しみこそが、信仰には大事なんだ」。今日は「悲しみ」がテーマです。
水野源三という方がおられます。水野源三さんは、1937年、長野県で生まれました。小学4年の時、村に発生した集団赤痢で脳性麻痺になり、それ以来、首から下の体の自由、言葉の自由を奪われて、生涯(47歳で亡くなるまで)その状態で過ごされた方です。でも1冊の聖書を通して神に出会い、信仰を持ち、その後は、瞬きで家族に言葉を伝え、短歌や詩を書いて素晴らしい証の人生を全うされました。生涯に4冊の詩集も発行され、その詩集の発行は「現代の奇蹟」と呼ばれました。今朝の御言葉は「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(4)という一節ですが、水野さんのことを引用しながら、この御言葉の学びをしたいと思います。 
前回「『山上の説教』には一見非常識に見えるような言葉がある」と申し上げましたが、この言葉も世の常識に反する言葉です。深い悲しみにある人に「幸いですね」等ということは、私達には出来ないことです。普通は「悲しまない人が幸い」だと言うでしょう。悲しみは不幸、少しでも悲しみ少なく生きることが幸い、ということになります。しかしイエス様は「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(4)と言われる。なぜ悲しむ人が幸いなのか。3つのことを考えましょう。
 

1.悲しみが神の慰めに導く

なぜ悲しむ者が幸いなのか。「旧約『イザヤ書』61章」にやがて救い主(メシア)が来た時のことが預言されています。「主の霊が…わたしを遣わされた…すべての悲しむ者を慰め…悲しむ者たちに、灰の代わりに頭の飾りを、悲しみの代わりに喜びの油を、憂いの心の代わりに賛美の外套を着けさせるためである」(イザヤ61:1~3)。やがてメシアが来られた時、悲しむ者が慰められると預言されているのです。「ルカ福音書」でイエスは「イザヤ61章」を引用して「きょう、聖書のこのみことばが、あなたがたが聞いたとおり実現しました」(ルカ4:21)と言われました。イエスが来て下さったことによって、悲しむ者が慰められることが現実になったのです。
イエス様のこの言葉を「人間の言葉」で見事に表現しているのが水野源三さんの「悲しみよ」という詩です。「悲しみよ、悲しみよ、本当にありがとう。お前がいなかったら、強くなかったら、私は今どうなったか。悲しみよ、悲しみよ、お前が私を、この世にはない大きな喜びが、かわらない平安がある、主イエス様のみもとに連れて来てくれたのだ」。水野さんは、「悲しみ」が自分をイエス様の御許に連れ行ってくれたという。そしてイエスの御許に「喜びと平安があった」と言うのです。イエスが言われた「その人は慰められる」というのは、正に「神(主イエス)によって慰められる」、「悲しみが私達に神の慰めを経験させる」ということだと思うのです。「メッセージ訳」という英語の聖書は、この箇所を次のように訳しています。「あなたにとって最も大切なものを失ってしまったように感じる時、その時こそが、あなたは、あなたの最も大切な方から取り囲まれることが(抱き留められることが)出来るのです」(メッセージ訳)。水野さんは何を失ったでしょうか。彼は健康な体を失いました。言葉を失いました。外の世界を失いました。人とのコミュニケーションを失いました。失ったものを上げれば切り無くあるでしょう。それは、私等がはかり知ることも出来ないほどの大きな「悲しみ」だったと思います。しかし彼は、「その悲しみが、私をイエス様のところに連れて行ってくれた」と語るのです。そしてイエス様に出会うことが出来たことは、自分がかけがえのないものを失った、それに優る慰めであった、喜びであったと語っているのです。イエス様を知ることの慰め、それがどれほど大きな慰めであるか、私達は、与えられている恵みを、改めて感謝すべきかも知れません。
インターネットで、麻薬中毒とアルコール中毒でボロボロになっていた女性の証しを聞きました。
どうにもならない悲しみの中で、「パッション」の映画を通して、イエス様の声を聞いたのです。「私を求めなさい。私があなたを救う」。映画を観終わった後もその言葉が響きました。そうやってイエス様と出会ったのです。そしてイエス様の慰めの素晴らしさを「こんな私をそのまま愛して下さった」と涙を流しながら訴えていました。「悲しみ」は、一方で辛い現実です。出来れば経験したくないことです。しかしまた一方で、そのようにして私達を神に導き、神の慰めに導くのです。
神に導かれることが、どんなに素晴らしいことか。「敵をもてなす」という証しでは、南米のある村を襲撃した軍隊の隊長が、1人クリスチャンを通してキリスト教に興味を持ち、村の礼拝に出て、自分が襲撃した村の人々に「よくいらっしゃいました」と歓迎され、驚いてこう言うのです。「ここにいる人達は、皆、神を知っているのですか。もしそうなら、どんな時でも、神にすがりついて下さい。神を知るということは、この世で一番素晴らしいことに違いないと思う…私もいつかは『神を知っている』と言えるようになりたい」。神に導かれるということは、何ものにも代えがたい素晴らしいことなのです。だから、私達を神の慰めに、導いてくれる「悲しみ」を、私達は「幸い」と呼べるのではないでしょうか。
また私達には、「家族を失う」という激しい「喪失の悲しみ」もあります。その時、本当に私達を慰めることができるのは、主イエスだけではないでしょうか。マルタとマリアが、兄弟ラザロを失った時、彼女達は、主の「わたしは復活であり、命である。わたしを信じる者は、死んでも生きる」(ヨハネ11:25)という言葉を聞いたのです。私達がイエス様を知るなら、その悲しみの中で、生も死も御手の中に治めておられる方に希望を見い出し、全てを委ねることが出来る、その慰めを思います。だからクリスチャンの葬儀は、悲しみはある、でも確かな希望がその場を覆うのです。
「悲しみ」は、私達を、本当の慰め、尽きない慰めの主である神に導く。そして、私達に神の慰めを経験させる。だから「幸い」なのです。そして神に出会った者は、その後やって来る様々な「悲しみ」の中でより深く神を知り、神の慰めを経験して行くのです。さらに言うと、「慰められるから」、この言葉は未来形です。「黙示録」に新しい天と地で「神ご自身が彼らとともにおられて、彼らの目の涙をすっかりぬぐい取ってくださる」(黙示録21:3~4)とあります。私達が地上で悲しんだ分、それを補って余りある慰めが私達を待っているのです。だから「幸い」だと言われるのです。
 

2.悲しみが救いに導く

「八福の教え」は全て「関節的な勧め(命令)」として受け止められる言葉です。ですから「悲しむ者は幸いです」(4)という言葉は「悲しむ者であれ」という言葉だと受け取ることも出来ます。つまりイエスは「悲しみなさい」と言われたことになる。何を「悲しめ」と言われたのでしょうか。
「聖書」の中でイエスが涙を流されたのは、ラザロの死を際して「人間の死の現実に涙された涙」と、もう1つは、都エルサレムに入る時に「神に背いている滅びる人々のために涙された」、その2回です。それは人間の罪に対する「悲しみ」だったのです。使徒パウロもこう言って悲しみました。「私は、ほんとうにみじめな人間です。だれがこの死の、からだから、私を救い出してくれるのでしょうか」(ローマ7:24)。彼は、罪人の自分を悲しんだのです。「ヤコブの手紙」の中にも「悲しみ、嘆き、泣きなさい」(ヤコブ4:9)という言葉がありますが、それも「自分の罪を悲しみ、罪を嘆き、自分の罪を泣きなさい」ということなのです。「聖書」は、「罪を悲しむように」と語ります。ですからイエス様が「悲しむ者は幸いです」(4)と言われた時、それは私達の人生で経験する様々な悲しみのことも言われているわけですが、中心となっているのは、「自分の罪を悲しむ」ということではないかと思われます。
水野源三さんの詩にも、自分の罪を見つめた詩があります。「①御神のうちに生かされているのに、自分ひとりで生きていると、思いつづける心を、砕いて、砕いて、砕きたまえ。②御神に深く愛されているのに、ともに生きる人を真実に愛し得ない心を、砕いて、砕いて、砕きたまえ。③御神に罪を赦されているのに、他人の小さなあやまちさえも、赦し得ない心を、砕いて、砕いて、砕きたまえ」。水野さんも、神を知る中で、自分の罪を示され、自分の罪を悲しんだのです。私達は「砕きたまえ」と祈るほど、自分の罪を悲しんでいるのか。探られます。
しかしイエスは、「(罪を)悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(4)と言われたのです。イエス様が伝道生涯の最初に言われたのは「悔い改めよ。天の国は近づいた」(マタイ4:17)という言葉でした。罪を悲しむことがなければ、悔い改めることは出来ないのです。罪を悔い改めることがなければ、「天の国(『神の国』)」が自分のものにならないのです。
私は「(罪を)悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(4)、この「慰め」を上手く説明することは出来ませんが、自分の体験をお話しすることは出来ます。しばらく前もお話しましたが…。私は、学生時代、人間関係の問題で行き詰まって恐れていた時、「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)の言葉に導かれて、助けを求めて近くの教会に飛び込みました。教会の玄関を出た瞬間、私の心に「神が守って下さる」という思いがやって来て、実際守られました。それで7年ぶりに教会に通い始めました。しかし私にはキリスト教信仰がよく分かりませんでした。助けを求めて教会に行った。そして助けられた。ではその後、何があるのか、それが分かりませんでした。そして神と個人的に結びついている実感がない、天国の実感がない、恵みが分からない、そういう感じでした。そんな時、私は仕事の上で失敗をして沢山の人に迷惑をかけました。そうやってやっと「自分は罪人だ」ということが分かった、というより分からせてもらったのです。それは本当に悲しい、苦い出来事でした。その「悲しみ」を持って神様に赦しを請うて祈りました。その時、私は、教会を通して「神の赦し」を体験したのです。その時から「神の恵み」が分かるようになりました。神様を、神様の恵みを、身近に感じるようになったのです。本当に幸いな、人生にとって決定的な出来事でした。
皆さん、それぞれに経験をお持ちだと思うのですが、私は自分の貧しい経験から、私達を決定的に神に結びつけ、「神の国」に結びつけるもの、それは「罪を悲しみ、悔い改めをなし、その中で神の赦しを受け取る」ことだと思っています。先程の麻薬中毒の女性も、「イエス様にあなたの罪を告白して下さい。イエス様が愛して下さいます。救いがやって来ます」と訴えていました。「包帯を巻くつもりがなければ傷に触るな」という言葉を聞いたことがあります。イエス様は「十字架の苦しみによって私達の罪を贖う」という方法で私達の傷に包帯を巻くつもりがあったから、人間の一番の問題に向かって「罪を悲しむ者であれ、そして悔い改める者であれ」と声を上げられたのです。その時に、人は神と和解することが出来るのです。生涯、神の慰めを頂いて生きることが出来るようになるのです。「イザヤ書では『慰め』と『救い』と同義語」です。その時、「慰めが来る」、「救いがやって来る」、「天国への道が開かれる」のです。
そしてそれは、「私はもう赦されてキリスト者になったのだから、それで良い」ということではないでしょう。「ちいろば先生物語」という本の中にこんなエピソードがあります。神学校で学んでいた主人公の榎本先生は、先輩の牧師から「君には罪が分かっていない」と言われます。彼は怒ります。「信仰の一番の基本ではないか。それが分かっていないとは言い過ぎではないか」。牧師は言います。「君は、誰にも知られたくない罪を人に告白出来るのか」。牧師は「人に知られたくない罪を告白しなさい」と言っているのではないのです。罪は神に告白すれば良いのです。しかし「罪は神にだけ告白すれば良い」ということを安易に考えて、自らの罪の深さ、罪の恥ずかしさ、それと真剣に向き合うことを、どこかでいい加減に考えていた榎本青年に「神に罪が赦されるということがどれほど重大なことなのか」、それを理解して欲しかった。「そうでなければ本当の新生は出来ない」ということを言いたかったのです。榎本青年は悩みに悩んで、結婚を申し込んでいた女性に「自分が戦時中に中国でどんなことをしたのか」、「結婚お断り」の返事が来ることも覚悟で手紙を書きました。返事が来ました。「母が『ほんまにキリストの赦しを喜んでいるお方や』と言って励ましてくれました」。その時、榎本先生は畳にひれ伏して心の底から神の名を呼ぶのです。その時、「子よ、汝の罪、赦されたり、安らかに行け」(マタイ9:2)という神の言葉を聞くのです。神の慰めを経験するのです。
私達は自分の罪を誰かに告白するようにして、そんな思いで罪を神に告白し、悔い改めをしているのか。イザヤは言いました。「先の事どもを思い出すな。昔事どもを考えるな。見よ。わたしは新しい事をする。今、もうそれが起ころうとしている。あなたがたは、それを知らないのか。確かに、わたしは荒野に道を、荒地に川を設ける」(イザヤ43:18-19)。この言葉を新約の光で見るなら「かつて救われた時の経験にしがみつくな。主は何度でも、あなたに新しい救いの(慰めの)経験を与えて下さるのだ」という意味です。お互い、信仰を持っていても、神の目から見たら罪にまみれた生活だと思います。聖なる神の前の不完全さ、汚さ、そのことに目を向け続けるべきです。そして悲しむべきです。その時、神は、罪を悲しむ者に、「赦し」を、「慰め」を、新たに語って下さるのです。
 

3.悲しみが愛に導く

 水野源三さんの「悲しみよ、ありがとう」というビデオの中に小学3年の「一秀君」という少年と水野さんとの出会いが描かれていました。彼は小さい時から色々な病気に悩み、水野さんに出会う少し前も辛い状況にありました。クリスチャンであるお母さんから源三さんのことを聞いた一秀君は、「水野さんに会いたい」と言って、お母さんに連れられて水野さんを訪ねました。以下、ビデオを紹介する本から抜粋します。「源三さんは、訪ねて来た小さなお客さんに語りかけることは出来ない。だが一秀君の持つ苦難の意味を一番良く知っているかのように、慈愛に満ちた目で一秀君を優しく迎えた。ジッと食い入るように源三さんを見つめる一秀君。その一秀君に、源三さんは、瞬きで、こう語りかけた。『他の人と、比べないようにして、生きて行って下さい』」。
イエスは「悲しむ者は幸いです。その人たちは慰められるから」(4)と言われました。「悲しむ者」という言葉には「悲しむことが出来る者」というニュアンスがあるのです。イエス様は「人のために悲しむことが出来る人は幸いです」とも語られたのではないでしょうか。いや、そのような「悲しみ」に私達を招いておられるのではないでしょうか。確かに人の悲しみを自分の悲しみにすることは難しいです。愛の貧しさを嘆かざるを得ない者です。それでも、私達も、自分の経験した悲しみを通して、同じような悲しみを悲しんでいる人を心から慰めることが出来るのではないでしょうか。「泣く者と一緒に泣きなさい」(ローマ12:15)。私達がもし「他の人のために心から悲しむ」ことが出来るならば、その「悲しみ」を通して、私達はイエスの願われる「愛の生き方」に踏み出すことになるのではないでしょうか。その意味で「悲しみ得る者」でありたいと願いますし、その私達を、イエス様は「幸いです」と言って下さるのです。私達自身の悲しみは、やがて主が、その悲しみを補って余りある慰めで包んで下さるにちがいありません。
 

聖書箇所:マタイ福音書5章1~3節 

 私が、まだ若い頃、それなりに自分のことで悩んで、人生訓、処世術のようなことが書いてある本を読み漁ったことがあります。「大きな人間」とか、「道は開ける」とか、そういう題名の本だったように覚えています。確かに中には、色々な調査や経験談に基づく、説得力のあるものもありました。「問題にぶつかったら、最悪の状態を考え、覚悟を持つ」とか、そういったことです。しかしある時、私は思いました。これらの本に書いてあることを私が実行したとしても、その著者達は、私に対して何の責任も取ってくれない、そう感じたのです。そして、そこが「聖書」の言葉と決定的に違うところだと思いました。「聖書」の言葉というのは、生きておられる神様が、イエス様が、言葉の背後におられ、責任を持って下さる、そういう言葉だと感じたのです。特にイエス様の説教には、そういうことを感じます。
さて、今朝からいよいよイエス様が心血を注いで語って下さった「山上の説教」を学んで行きます。どの教派のクリスチャンもそうだと思いますが、メノナイトも―(その前の『アナバプテスト』と呼ばれた時代から)―「山上の説教」を大切にして来ました。「聖書」の中で最も大切な箇所だと位置づけて来たと言っても良いでしょう。なぜなら、5章1節に「イエスは山に登り、おすわりになると、弟子たちがみもとに来た…イエスは口を開き、彼らに教えて、言われた」(1)とありますが…。「山に登り」というのは、「旧約」の律法が山の上でモーセに与えられたことと対比されています。「旧約」の律法に代わる、「新約」の律法―(祝福の戒め)―がこの山の上で与えられたことを強調します。「おすわりになると」、これは当時のラビが正式に教える時の姿勢です。イエス様の正式な教えだということです。「口を開き…教えて、言われた」、この書き方も「重大なことを語られた」ということを言い表す書き方なのです。つまり「山上の説教」の中にはイエス様がその伝道生涯で語りたいと思われたメッセージが凝縮されているのです。だから多くの教派が「山上の説教」を特に大切に考えるのです。
今日は第1回なので、初めに「山上の説教」のイントロダクション的なお話を少しして、それから本日の御言葉の学びに入ります。
 

1:イントロダクション~

「山上の説教」はそれを生きる者を「神の国」へ引き入れる

イントロダクションとして申し上げたいのは、「『山上の説教』とはどういうものか」ということです。こんな話を読みました。「音速の壁を初めて破ったテスト・パイロット」の話です。音速(マッハ)の壁を破る挑戦は、何度も何度もなされたそうですが、沢山の失敗がありました。機体が爆発したりもしたのでしょう。その沢山の失敗を通して1人のパイロットがある現象を発見しました。「音速の壁が破れようとする時、色々なことが反対に作用する」ということでした。それまで音速の壁を破ろうとする時、パイロット達は、機体の機首を上に向けようと操縦桿を引いていたそうです。しかしも彼は、機首を上げるためには操縦桿を逆に押し下げるようにしなければならないのではないかと思ったのです。そして実際に飛行機に乗ってやってみました。その結果、彼は世界で初めて見事に音速の壁を破り、その先の世界を見たのです。ある神学者が「『山上の説教』とは、正にそれと似たような話ではないか」と言うのです。「イエス様は、イエス様に従う人々を、音速の壁を越えて、その向こうに広がる世界に連れて行こうとしておられる。その壁を破る方法は、一見非常識に見える方法なのだ」と言うのです。確かに「山上の説教」は、一方で非常に美しい言葉です。しかし他方で、一見非常識に見えるような―(「とてもそんなことは出来ない」と思えるような)―言葉が沢山あります。しかしそれこそが、私達を壁の向こう側―(「神の国」)―に引き入れる言葉なのです。
私は時々、神様を遠くに感じることがあります。先日もどうして良いか分からずに、後ろのテーブルの回りをグルグル歩き回りながら神様に呼ばわりました。「神様を経験させて下さい」。
しかし実は、「山上の説教」こそが、私達を―(壁を破って)―「神の国」の中に引き入れる―(神を経験させる)―不思議な言葉なのです。私達の側から言えば、その言葉に従うことを通して、私達が「神の国」の中に入り込める、「神の国」を経験出来る、そのような言葉なのだと思います。その意味で、テーブルの回りをグルグル歩き回りながら神様の名を呼ばわるよりも、「山上の説教」を生きようとすることの方が良いかも知れません。
さらにもう一言言えば、その一見世の常識と合わないように見える言葉は、その言葉を通してイエス様が「わたしの弟子は、回りの人々の真似をして、回りの人々と同じ価値観で生きてはいけない。わたしの弟子は、世の価値観に対抗する独自の価値観を持って生きていきなさい」と言っておられる言葉であるとも言えます。ですから私達が「山上の説教」を学び、そこに生きる時、世に在って「神の民」として生きるための独自性を持つことが出来るのです。いずれにしても私達の信仰生活にとって大切な学びになります。ご一緒にしっかりと学んで行きたいと思います。
 

2:内容~心の貧しい者は幸い

内容に入って行きます。「山上の説教」は、「八福の教え」と言われる、イエスが「八つの祝福(幸い)」を語られた言葉から始まります。私達が使っている聖書だと、今朝の御言葉は「心の貧しい者は幸いです」(3)と静かな調子の言葉ですが、昔の「文語訳聖書」は、これを「幸福なるかな、心の貧しき者」(3)と訳していました。実は、こちらの方が原文に近い訳なのです。イエス様は「幸いなるかな…」と、まず宣言をされました。それが「八福の教え」です。文語訳ではこうなります。「幸福なるかな、心の貧しき者…幸福なるかな、悲しむ者…幸福なるかな、柔和なる者…幸福なるかな、義に飢ゑ渇く者…幸福なるかな、憐憫(あわれみ)ある者…幸福なるかな、心の清き者…幸福なるかな、平和ならしむる者…幸福なるかな、義のために責められたる者」と「8つの幸い」が語られる。ですから私達も8つをまとめて学んだ方が良いのかも知れませんが、しかし、1つ1つの意味がとても深いので、今日はその最初の1つ「心の貧しい者は幸いです、天の御国はその人たちのものだから」(3)という、この言葉から学び始めます。
「心の貧しい者は幸いです」、なぜ「心の貧しい者」が幸いなのか。いや、その前に、「心が貧しい」とはどういうことなのでしょうか。
「ルカ福音書」には、「山上の説教」に似た「平地の説教」―(イエス様が「平らな所」で語られた説教)―という箇所があります。「平地の説教」も「貧しい者は幸いです」(ルカ6:20)という言葉から始まります。イエス様の説教は、「貧しさの祝福」を語ることから始まります。ただし「貧しければ良い」と語られているわけではありません。「貧しさ」は、それ自体、大変なことです。ただ、イエス様は、「マタイ福音書」の「山上の説教」においては、「心の貧しい者は…」と言われました。ここでは「心の貧しさ」が問題にされています。しかし「心の貧しさ」が問題にされていますが、それは「平地の説教」の「貧しい者は幸いです」という言葉と、その生き方において深く結びつくのではないかと思います。(詳しいことをお話しする機会があればと思いますが…)。
いずれにしても、では「心の貧しい者」、「心が貧しい」とは、どういうことなのでしょうか。「心の貧しい者」と訳されている言葉は、原文では「霊において貧しい者」という言葉です。「霊」というのは、人間の中で「神と関わり合う部分」です。だからそれは、「神様との関係において貧しい」ということになります。それはどういう意味でしょうか。
この「貧しい」という言葉は、文字通り「徹底的な貧しさ、惨めな貧困」を意味する言葉だと言われます。同じ言葉から「うずくまる」とか「縮こまる」という言葉も生まれているそうです。つまり「人を苛んで萎縮させてしまうほどの貧困」を指します。ですから「心が貧しい者」とは、「神との関係において極度の貧しさの中に生きる者」ということになり、「そういう人が幸いだ」とイエスは言われるのです。言葉の解説のような話が長くなってしまいますが、この「貧しい」という言葉は、今申し上げたような意味で、その使われ方―(意味するところ)―が、次のように変化したようです。①それは最初に―(申し上げたように)―「極度に貧しい」という意味でした。しかしそれが②「貧しい故に、勢力も、権力も、名誉もない」という意味に変わり、さらに③「勢力がない故に、他人から踏みつけられ、圧迫される、援助もない」という意味に変わり、そして、そこからさらに④「この世から完全に見放されているが故に、全ての希望を神に賭ける人」という意味に変わったのです。ですから「神との関係において貧しい人」というのは、「欠け多い者であることを知る故に、無力であることを知る故に、ひたすら神に寄り頼む人、ひたすら神が助けて下さることに寄り頼む人」という意味で使われるようになったようです。ということは、イエス様が「神との関係において貧しい者は幸いです」と言われた時、それは「自分が全く無力であることを知って、欠けた者であることを知って、だからこそ、ただひたすら神に寄り頼む人、神に助けを求める人は幸いである」と言われたことになります。
では、なぜ、そのような人は幸いなのでしょうか。イエス様は「天の御国はその人達のものだから」と言われました。ここで言われている「天の御国」とは、「死んでから行く天国」のことではありません。今ここにある「神の国―(神の支配の現実、神が力を持って臨んで下さる現実)」のことです。その人たちは「神の支配」「神の現実」を経験する、その中に入って行く、そういうことを、イエス様は言っておられると理解出来ます。
私達が「欠け」、「無力」を感じるのは、どのような領域でしょうか。もちろん物的な欠乏も、時には感じるわけですが、キリスト者として生きる時、一番深刻な欠乏は、「愛の領域」の欠乏ではないでしょうか。マザー・テレサは、来日した時に「日本人は経済的には豊かだが、心が貧しい」と言ったそうです。彼女に言われるまでもなく、私達は決定的に愛に欠けていると言っても良いかも知れません。欠けているというか、愛に生きることが難しい、出来ないという現実があるのではないでしょうか。自分を見て、そう思います。愛に生きようとする時、自分の貧しさを思い知らされるというか、自分の愛が身勝手な、自己中心的な愛でしかないということを思い知らされます。皆様はいかがでしょうか。人が自分に良くしてくれる時はいいですけど、そうでない時はもう愛せない。ちょっとしたことでも愛なんかどこかに飛んでしまう。人間界関係は、みなそうではないでしょうか。
「愛というのは、人の傍らに立つことだ」と言った人がいます。例えば「苦しんでいる人の傍らに立つ」。でもどうでしょうか。自分の力で人の傍らに立つことが、立ち続けることが、出来るでしょうか。三浦綾子の「塩狩峠」という本の中で、主人公の長野信夫は、犠牲を覚悟して、問題を起こした同僚の隣人になろうとします。しかし、実際にその同僚と関わる中で彼にやって来た思いは、「怒り」であり、「憎しみ」であり、どうしても「上からその人を見下ろす思いで」であったり、結局相手を受け入れられないという思いでした。そこから彼は、「自分の罪」ということを深く自覚して行くわけです。そして、神の前に悔い改め、自分の力ではなく、神の赦しと神の力を真剣に求めて生きるようになります。繰り返しますが、私達は―(「私達は」と言って良いでしょうか…)―多くの場面で愛において乏しいのではないでしょうか。{私は生きる中にある種の恐れがあります。それは、自分の愛が貧しい―(愛に生きられない、犠牲を覚悟出来ない)―というところから来る恐れなのです。自分でも自分にガッカリしますが、それが人に見透かされるのではないかというような、愚かな恐れの中にいることを感じることがあるます}。
しかし、本当に自らの貧しさを知る者は、何よりまず神を求める、神に愛を求めるはずなのです。そうであるべきなのです。三浦綾子さんの話ですが、彼女がこんな文章を書いています。「三浦は―(ご主人の光世さんですが)―13年伏せっていた私と結婚してくれたが、その結婚を決意するにあたって『愛を下さい』と祈り求めたという。これを聞いて私は、三浦は私を好きではないのかと寂しく思ったものだが、『愛』とは『好き』などという甘いものではない。真の愛は…神から与えられなければ持ち得ない意思なのである…愛は神に祈り求むべきものなのである」。光世さんの祈りは、本当に自分の愛の貧しさを知っている人の祈りではないかと思いました。しかし、彼は神に「愛」を祈り求め、そして大変な病気の中を生きる綾子さんを支えて行かれました。彼は言われます。「私の中には愛はない…ない袖はふれない…愛は『愛なる神様』から頂くより仕方がない」。その神から頂いた愛で、彼はその生涯を綾子さんと生きられたのだと思う。自分の欠乏を本当に知る者は、真剣に神に求める、神に求める以外にない、神に必死に求めて、それ故、神の力を経験して行くのではないでしょうか。
「天の御国」とは、今ここにある「神の国―(神の支配の現実、神が力を持って臨んで下さる現実)」だと申し上げました。愛に限らず、自分の貧しさを、無力を本当に知らされ、それ故に神の助け、神の支配を必死に求める者は、それを経験して行くのではないでしょうか。ある方が、どうしてもお金が必要だったのです。神様に必死で祈って、その中で親戚の人に借りようという思いに導かれたそうです。しかし、その人の家にお金を借りに行くことは、どうしても出来なかったそうです。そんな時、たまたまバスに乗ったら、その親戚の人が、そのバスに乗っていたというのです。あり得ないことでした。でもそれがあったのです。(神様は凄いです)。世間話から始まったのですが、その会話の中で自然とお金の話をすることが出来て、借りることが出来たのだそうです。神様にどれだけ感謝したことかと、証しをして下さいました。「キリスト教は、あり得ないことが、あり得る世界です」と言った人がいますが、神の支配の現実を経験されたのではないでしょうか。
「山上の説教」を語られたイエス様は、やがて十字架に掛かって死んで下さるイエス様です。そして神様は、そのイエス様を甦えらせなさいました。十字架と復活によって何が起こったか。「神の国」が現実になったのです。聖霊が神の力を私達に及ぼして下さることが、聖霊が私達の周りで様々な業を為さる時代が到来したのです。イエス様は、自分の十字架に賭けてこの言葉を語っておられるのです。今も、ご自分の言葉に責任を持って、言葉の後ろに立っておられるのです。私達も、本当に自らの無力、自らの欠けを知り、心の貧しさを知り、心から神に求めて祈り求める時、そして、例えば「愛を下さい、神の御心に生きさせて下さい」と自らを神の前に差し出す時、「神の国」の現実の中で生きて行けるのではないでしょうか。自分では「とても出来ない」と思っていた、愛に生きることさえ、出来る者として、生かされて行くのではないでしょうか。「心の貧しい者は幸いです、天の御国はその人たちのものだから(です)」(5:3)。自らの貧しさを心底知り、心から一心に神にすがって行く、そのような信仰生活を歩みたいと願います。
 

聖書箇所:マタイ福音書4章18~25節 

 前にもお話したかも知れませんが、1986年のことですが、ガリラヤ湖の水位が大変に下がったことがありました。ガリラヤ湖は、南北が21km、東西が13kmの湖だそうですが、その北西部の底の泥に中から、1隻の舟が見つかりました。それを丁寧に掘り返して、詳しく調べたところ、何とイエスと同時代の漁船であることが分かりました。それは「ジーザス・ボート」として知られるようになりました。今もイスラエルに行くと、博物館に展示してある「掘り出された本物の舟」と、「それを基に再現された舟」を見ることが出来るそうです。長さ約8m、幅約2m、高さ約1mというサイズの舟です。イエス様の当時、ガリラヤ湖には、そのような漁船が沢山浮かんでいたのです。今日の箇所で、シモン・ペテロやアンデレが乗っていた舟、ヤコブとヨハネが残して行った舟、それらの舟は、掘り出された舟と同じ型の舟だろうと思われます。この話に、聖書の歴史をまた身近に感じたことでした。
今朝の箇所は、イエスが最初の4人の弟子達を召される場面と、多くの人々がイエスの許にやって来る場面、2つの場面が内容になっています。この箇所が終わると、「マタイ福音書」は「山上の説教」に入ります。この箇所は「山上の説教」の序説とも言える箇所だと言われます。22節には「(弟子達が)イエスに従った」(22)とあり、25節には「(群衆が)イエスにつき従った」(25)とあります。その「イエスに従った」人々に、「イエスに従って生きる者の道」を説かれたのが「山上の説教」ということになります。ですからこの箇所は、「山上の説教」の序説という意味でも大切な箇所ですが、同時に「信仰生活の全体像」のようなものを教えてくれるという意味でも、大切な箇所です。この箇所を通して「信仰生活とはどのようなものなのか?」、それを学びましょう。
 

1:信仰生活の始まり~主に招かれて

イエス様の宣教によってイエス様に従う人が起こされて行く、その様子を描くこの箇所は、まず「信仰生活はどのようにして始まるのか」、そのことを教えます。順序が前後しますが、23節から後に、「イエスはガリラヤ全土を巡って、会堂で教え、御国の福音を宣べ伝え、民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」(23)とあります。イエスは、ガリラヤ中を巡って会堂で説教をされました。当時の会堂には、専門に説教する人はいませんでした。会堂管理者に許可をもらえば、誰でも説教出来たのです。後のパウロがそうであったように、イエス様の初期ガリラヤ伝道においても、会堂が大きな役割を果たしたようです。しかしイエス様は、説教をされただけではなく―(ここに「民の中のあらゆる病気、あらゆるわずらいを直された」とありますが)―説教と癒しによって評判が高まり、イエス様の許には様々な病気や悩みを抱える者がやって来ました。
大勢の人々がイエス様の許にやって来た理由、ひどく大雑把に言えば、それは人々に悩みがあったからです。人々は、病や色々な悩みを抱えていたのでイエス様の許にやって来ました。あるいは、近しい者が病や悩みを抱えていたので、御許に連れて来ました。イエスは、そのような人々を迎え入れられるのです。時には、そのように悩みの中からイエス様を呼び求める人に、「あなたの信仰があなたを直したのです」(マタイ9:22)というようなことも言って下さいました。その人達は、イエス様について特別な知識があったわけではありません。ただ悩んだのです、そして解放者としてイエス様に期待したのです。イエス様は、それを「信仰」と呼んで下さいました。
私達は、どのようにして信仰生活を始めるのでしょうか。もちろん事情は、1人1人皆違うと思いますが、しかし色々な悩みの中でイエス様(神様)を求める人も多いのではないでしょうか。(私もそうでした)。もちろん、「病の癒しを求める」、それがここに書いてあるように起こらないこともあるでしょう。しかし、それでも間違いないことは、それがどのような悩みであれ、主に期待し、主に助けを求める私達を、主は決して軽んじられないということです。いや、むしろその私達を正面から受け止めて下さり、私達を信仰生活へ―(イエス様に従う歩みへ)―導いて下さるのです。そうやって私達の信仰生活が始まる場合が多いのではないでしょうか。
しかし信仰生活は、(例えば)「悩みがある、だからイエスを求めた」、それによってだけ始まるのではありません。いや、それも含めて、もっと別の要素、もっと大切な要素があります。18~25節でイエス様は、4人の弟子を呼んでおられます。漁をしていた彼らです。舟の中で網の手入れをしていた彼らです。彼らは自分の舟を持っている漁師でした。カペナウムは、行きかう人の多い所です。良い市場があって、彼らの魚は良く売れたでしょう。贅沢は出来なかったでしょうが、生活して行くのには不自由はなかったと思います。その彼らがなぜ、イエス様に呼ばれただけで、網を捨てて、舟を捨てて、父親さえも捨てて従ったのでしょうか。
もちろん、彼らは、ここで初めてイエス様に会っているわけではないと思います。「ヨハネ福音書」によると、彼らのある者は、バプテスマのヨハネのグループにいて、イエス様のことについて、ヨハネから推薦も受けています。またイエス様の話を聞き、イエスというお方について彼らなりに考えて、「イエスこそ我々が待っていたメシア(救い主)だ」という結論を持っていたのかも知れません。しかし「マタイ福音書」は、彼らの側の理由を一切書きません。彼らの側の理由には、全然興味がないような感じです。なぜ書かないのか。それは「彼らの側の理由」以上に大切なことがあるからです。それは、「イエス様が彼らを招かれた」という事実です。
ウィクリフ聖書翻訳協会という団体があります。世界中で、聖書の翻訳をしている団体です。もう「国語」というレベルの翻訳は全部終わって、今なされている翻訳は「部族語」だそうです。ジャングルの中に入って、そこの住民と一緒に電気も水道もない暮らしをしながら、色々な危険を覚悟しながら、文字を作って上げるところから始めて、聖書を彼らの言葉に翻訳して行くのです。私等から言わせると、この世的には報われることの少ない大変な仕事です。私はカナダの神学校で、「ウィクリフで働きたいと思っている」という2人の人に会いました。私は2人に聞きました。「大変な仕事だと思うのだけど、どうしてその働きがしたいのですか」。そうしたら2人とも「分からない」と答えました。「分からないけど、それを自分の奉仕として取り組むようにという思いが与えられた」と言うのです。私はそれを聞いて、「神様が彼らを呼ばれたのだ」と思いました。弟子達もそうだったのです。イエス様に呼ばれた、ということが決定的なことでした。
私達の信仰生活はどうやって始まるのか。色々理由も説明出来るでしょう。でも、決定的なことは、イエス様が私達を招かれたということです。どんな理由があっても、どんな悩みがあってイエスの許に来たとしても、それでも決定的なことは、イエス様が、その人を招かれたということです。私は、学生の時に大きな悩みを抱えて、助けを求めて水曜日の午後に近くの教会に飛び込みました。しかし今思うと、それも神様が招いて下さったとしか思えないのです。いや、もっと前、小学生の時に友達のお母さんに誘って頂いて、英語の学びのために教会に通ったのも、神様が招いて下さったとしか思えません。
私達の信仰は、最終的には「私達の側の理由」を土台としたものではないのです。なぜ、あなたなのか、なぜ、私なのか、それは分かりません。しかし、イエス様が私達を招かれたのです。その招きに、私達はただ応えたのです。私達がここにいるのは、神に呼ばれたからです。イエスは言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(ヨハネ15:16)。神様(イエス様)が私達を呼んで下さり、私達の信仰が始まったのです。「私はイエスから『私について来なさい』と呼ばれた者である」、そのことをしっかりと心に留めたいと思います。
 

2:信仰生活の内容~主に遣わされて

 神様(イエス様)に呼ばれて始まる信仰生活ですが、では信仰生活とは、いったいどのような生活、何をする生活なのでしょうか。
先程も触れましたが、イエス様に呼ばれた弟子達は「イエスに従った」(22)とあります。イエス様のところにやって来た群衆も「イエスにつき従った」(25)とあります。ここに書かれている人々は皆、イエス様に従ったのです。信仰生活とは、信仰とは、「イエス様に従うことだ」と言って良いのではないでしょうか。「献身者」という言葉があります。牧師とか宣教師とか、何かそのような仕事に就いている人のことを指す場合が多いと思うのですが、でも本当は、信仰者は、「イエス様に従って歩いている」という意味で、全ての人が献身者だと思います。
では「従う」とは、「献身する」とは、どういうことでしょうか。イエス様が弟子達を招かれた時、彼らは祈っていたのではありませんでした。イエス様は、彼らが働いているところをご覧になって、「従いなさい」と声を掛けられたのです。もちろん、弟子達の場合は、その生活の資を置いてイエス様の後をついて歩くことが求められたのですが、そして今日でも、いわゆる「直接献身」に招く声を聞く人もいると思うのですが、でも注目すべき点は、「イエス様は、彼らの日常の生活の中に入り込むようにして彼らに声を掛けられた」ということです。それは、今日私達に対しても、「日常の生活の中でイエスに従うように」と、「日常生活の中で献身するように」と、イエスは声を掛けられているのだと思います。
「日常生活の中でイエス様に従う」とは、どういうことでしょうか。もちろん、それは日常生活の中で、イエス様の言葉の回りに生活を建て上げて行くことでもあるでしょう。しかし、ここで私が言いたいことは、もう少し別のこと、というか、もう少し具体的なことです。ある神学者がこう表現しました。「信仰に生きるということは、遣わされて生きることである」。私達が日常生活の中でイエス様に従う、それは自分の生きる場―(仕事の場、生活の場、その他生かされている場)―において「私はイエスに遣わされて生きているのだ」と、そのような意識を持って生きることではないでしょうか。そこには、自分の為すべきことがあり、役割があります。そこで接する人がいます。そこに共に生きる人がいます。私達はその人達に、役割に、誠実に関わることによってイエス様に従って行くのです。共に生きる人に愛をもって、心を注ぎだして、関わることで、イエスに従って行くのです。マザー・テレサが自分の活動について聞かれた時、彼女はこう答えています。「私は社会福祉のためにやっているのではない。キリストに仕えようとしているのです」(マザー・テレサ)。彼女は特別な人です。しかし彼女も、イエス様に従い、イエス様に遣わされて人々の許に行き、心を込めて関わる、そういう意識を持って奉仕をしたのです。イエスに遣わされた場で、イエスを見上げながら人と関わる、与えられた役割を果たす、それが日常生活の場でイエスに従うことではないでしょうか。
カナダ人のカルビン・シルベルドという人が父親について書いた次のような文章があります。「魚屋という商売を通して、父はフルタイムで、王なるイエスに仕えている。店に来る客は、それを感じるのだ。この店が街で一番安く魚を売っているわけではないし、忙しい金曜日の朝なんか勘定を間違えることもある。罪を犯さないわけじゃない。でも、あの店は、ただ清潔で笑顔の店員が良い魚を良心的な値段で売っている店なんかじゃない。そこには、買い物をする人をハッとさせるほど生き生きとしたスピリット、笑い、楽しさがある。父の手――私の2倍はありそうな節くれ立った指で、鮮やかにサバをさばくのを見ていると…そして、1930年代の苦しい時期にも魚の内臓を取って、自転車をこいで、魚を売り歩いていたことを思うと…文句一つ言わず店で輝き、誘惑にも耐え、信仰を持って主の御顔の前に自分を捧げ、魚をさばき続けて来たことを思うと――神の恵みは、人間の手の上にも、きらりと光る刃こぼれした魚包丁の上にも、降ってきてくださることを私は知る」(カルビン・シルベルド)。「与えられている場で、自分の役割を果たしながら、心を込めて人と関わりながら、イエスに仕えて行く、その生き方の中に、私達の生き方を輝かせる秘訣、生きることに意義を見出す秘訣、神に豊かに生かされる秘訣、そのようなものがあるのではないか」、そのようなことも教えられるのです。
私は、こんな証を聞いたことがあります。ある方が仕事のことで大変困って助けを必要としておられました。その時、1人のクリスチャンが仕事の手伝いをされました。助けてもらった方がそのクリスチャンの仕事の様子を見ていて、「何か天を仰いで、神様を相手に仕事をしているようだった。クリスチャンというのは、こんな風にして生きるのか、と非常に印象的だった」という証をして下さいました。イエス様は弟子達に「わたしについて来なさい。あなたがたを、人間をとる漁師にしてあげよう」(19)と言われていますが、そのように生きることがまた、人々にイエス様を証しすることに繋がるかも知れません。
私達は、それぞれの生活の場で人と関わりますが、その人々にイエス様によって遣わされています。その遣わされた場で、イエス様を見上げながら生きる、与えられた役割を果たして行く、そのことを通して、私達はイエス様に従って行くのです。時にその中で、神が私達に「何かをするように」特別な呼び掛けを為さるかも知れない。その時はその声に従うのです。
信仰生活とは、そのようにしてイエス様に従う生活ではないでしょうか。
 

3:信仰生活の支え~主に担われて

そのようにして歩む私達の信仰生活は、何によって支えられて行くのでしょうか。それは、まず御言葉でしょう。「あなたのみことばは、私の足のともしび、私の道の光です」(詩篇119:105)。御言葉を離れたら、生きた、実を結ぶような信仰生活を送ることは出来ません。「神の言葉を握って祈る」ということも出来なくなり、祈りさえも貧しくなって行きます。
しかし、同時に私達の信仰生活を支えて行くものがあります。最初に「私達の信仰生活は、神の招きによって始まる」と申し上げました。神様は、私達をご自身が招いた故に、私達の信仰生活に責任を持って下さるのです。神は「イザヤ書」を通して私達に語られます。「あなたがたが年をとっても、わたしは同じようにする。あなたがたがしらがになっても、わたしは背負う。わたしはそうしてきたのだ。なお、わたしは運ぼう。わたしは背負って、救い出そう」(イザヤ46:4)。 信仰生活は、私達がイエス様の袖につかまって「イエス様、私を捨てないで下さい」と言って、頑張って成り立つのではない。イエスの後をついて行こうとする私達を、神ご自身が担って下さるのです。そうでなければ、ここで召された弟子達は、信仰生活を全とうすることは出来なかったでしょう。彼らは、皆が一度イエス様を完全に捨てます。でも、その彼らのことを、イエスは責任を持って下さいました。一度捕らえた者には、イエスが責任を持って下さる。「あなたは私が招いた。そのあなたを私が捨てることはない」と言って担って下さいます。この神の守りが、私達の信仰生活を守って、支えて行くのです。
 

まとめ

 信仰生活は、神の招きによって始まる。その信仰生活の中で、私達は遣わされた場所でイエス様に従って行くのです。その歩みを神が担って下さるのです。天地万物を造られた神とこのような関係に生きて行けることは大きな特権です。その特権に生かされ、イエスに従う者として、これから「山上の説教」を通してイエスに従う生き方を学んで行きたいと思います。
 

聖書箇所:マタイ福音書4章12~17節

 ある宣教師の方から聞いた話です。数十年前のことですが、日本に来て、日本語の学びを終えて、いよいよ日本語で説教をすることになりました。時間をかけて準備をしたけど、どうしても自信がない。そこで祈られたそうです。「神様、今日の礼拝に誰も来ないようにして下さい」。半分冗談で話されたと思うのですが、宣教師の方々はそうやって必死で働かれたことでしょう。しかし、言葉も不自由な中で伝道を続け―(「『神様は人間を愛しておられます』と言うつもりで『神様はニンジンを愛しておられます』と言ってしまった」という話も聞きました)、その結果、教会が生まれて行ったのです。私はそこに、「神様の働き」があったことを思わずにはおられません。神様ご自身が豊かに働いて下さる「神の国」の現実の中で、宣教の働きが続けられ、実を結んで行ったのです。「ここに教会がある」、それだけでも、「神の国」が既に地上に来ている、その現実を見せられる思いがします。また、私達の信仰もそうではないでしょうか。お1人びとり、それぞれの歩みを経て神を信じるようになられたと思いますが、神の働きの中で導かれた、それは否定出来ないのではないでしょうか。そこにも、既に地上に来ている「神の国」の現実を思わせられる気がします。
今朝の箇所は、イエスがいよいよ「宣教の公生涯」に入られることを伝える箇所ですが、それはまた、目には見えない、しかし地上に既に来ている「神の国」を豊かに生きるために大切なことを教える箇所です。「神の国」を豊かに、祝福を頂いて生きるために大切なこと、2つを学びます。
 

1.神に委ねる

12節に「ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた」(12)とあります。イエスは、その活動の初めの一時期、バプテスマのヨハネのグループに所属して、ヨルダン川沿いのペレヤにおられたのではないかと思います。そこでバプテスマのヨハネは、洗礼運動を展開していました。しかしイエスは、グループから離れて荒野で「悪魔の誘惑」に遭われました。時を同じくしてバプテスマのヨハネは、ペレヤとガリラヤの領主であったヘロデ・アンティパスに捕らえられてしまいます。ヘロデ・アンティパスという領主は、ヘロデ大王の子供で、ヘロデ大王が死んだ後、ローマに許されてガリラヤとペレアを支配していました。ところが、自分の兄弟の妻を好きになってしまい、自分の妻を追い出して、兄弟の妻を横取りしてしまいます。バプテスマのヨハネは、それを公に避難しました。それで、ヘロデの怒りを買って捕らえられてしまいました。
「悪魔の誘惑」に勝利され、「宣教の公生涯」に立ち上がる用意が整ったイエス様は、ヨハネが捕らえられて、神の言葉を語ることが出来なくなった、それを1つの「きっかけ―(神の時)」と理解されたのかも知れません。ペレヤからガリラヤに行き、そこで伝道の公生涯に入られるのです。
ガリラヤは、もともとイエス様が育った場所です。でもイエスは、同じガリラヤでも、ご自分が育ったナザレを離れてカペナウムに移り、そこで宣教活動を始められた。ナザレは、人口500人~1000人程のあまりにも小さな村です。そこでガリラヤ宣教に当たっては、交通の要所であり、人口の多い―(5万人程)―カペナウムに拠点を置かれたのだと思います。これ以降、カペナウムは、イエス様の初期ガリラヤ宣教の中心地になります。
イエスがガリラヤに帰られ、そしてカペナウムで伝道を始められた、「マタイ」は、そのことの中に「旧約」の「イザヤ書9章2節」の預言の成就を見ました。「ゼブルンの地とナフタリの地、湖に向かう道、ヨルダンの向こう岸、異邦人のガリラヤ。暗やみの中にすわっていた民は偉大な光を見、死の地と死の陰にすわっていた人々に、光が上った」(15~16)。そこは、かつてイスラエルがエジプトから脱出してカナン(パレスチナ)にやって来た時、イスラエル12部族の内、「ゼブルン族」と「ナフタリ族」が相続して住んだ土地でした―(カペナウムはゼブルンとナフタリの境に在りました)。それで「ゼブルンの地、ナフタリの地」と呼ばれました。そこはガリラヤ湖に向かう道であり、都エルサレムに住んでいる人達からすれば、ヨルダン川を越えて行かなければ辿り着けない片田舎でした。そこは、イスラエル人の国の北方に位置していたので、絶えず異邦人の攻撃に真っ先にさらされ、異邦人に支配された地でした。辛い歴史を通った地であり、イエスの時代も、人々は様々な苦しみの中にいました。イエスは、そのような場所で活動を始められました。イザヤの預言の通り、「暗黒の中に住んでいる民」は、イエスを通して光に照らされるのです。イエスによって導き入れられた「神の国」の現実の中で、様々な神の業を見て行くのです。イエスを通して、神に語りかけられて行くのです。
しかし、私がここで注目したいのは、12節の「ヨハネが捕らえられたと聞いてイエスは、ガリラヤへ立ちのかれた」(12)という、この「立ちのかれた」という言葉です。「新共同訳」は「退かれた」と訳しています。なぜ、「ガリラヤへ行かれた」とか「帰られた」とかではなくて、「立ちのかれた」、「退かれた」なのでしょうか。「マタイ福音書」は、この言葉を使うことによって、何を語ろうとしているのでしょうか。
人々の常識からすれば、イエスがメシア(神の救い主)であるなら、メシアは、都エルサレムで活動するはずなのです。「悪魔の誘惑」でも、悪魔はイエス様を「聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて…」(4:5)とあります。そこがメシアの現れる所でした。しかしイエスは、そのような世の権力から逃れるようにして、ご自分がメシアとして力を振るうことから逃れるようにして、拒否するかのようにして、田舎のガリラヤへ行かれました。それが、「立ちのかれた」と表現されている意味かも知れません。
しかし15~16節の「イザヤ書9章2節」の預言の言葉は、9章6節で「ひとりのみどりごが、私たちのために生まれる。ひとりの男の子が、私たちに与えられる」(イザヤ9:6)という、クリスマスで有名な言葉に繋がって行きます。クリスマスに生まれたイエス様は、ヘロデ王から追われて「エジプトに立ちのき」(2:14)、またエジプトから帰って来ても、ユダヤではなく「ガラリヤ地方に立ちのいた」(2:22)。イエス様の誕生にまつわる出来事についても、「マタイ福音書」は、「立ちのく」という同じ言葉を使うのです。「立ちのく」とはどういうことでしょうか。その意味は「逃げる」ということです。どこに逃げるのか。具体的にはエジプトであり、ガリラヤですが、いずれも神の戒めによって「立ちのく」、つまり神の御旨の中に「立ちのく」、神の中に「立ちのく(逃げる)」、そういうことだったと思います。「マタイ」が12節で「イエスは、ガリラヤへ立ちのかれた」(12)と書く時、それは、「イエスは、伝道の公生涯を、まず神の中に逃れることから始めた、神の御手にご自分を委ねることから、行く先を委ねることからその活動を始めた」と言いたいのではないでしょうか。
私はここに、私達が「神の国を豊かに生きる」、その大切な在り方があると思います。それは「神の御手に委ねる」という生き方です。ある時、私はあることを先に見て、不安でどうしようもなかったことがあります。その時に、聖書から語られた言葉がありました。「あなたの道を主にゆだねよ。主に信頼せよ。主が成し遂げてくださる」(詩篇37:5)の言葉です。私は、もう一度、行く道を主に委ねる、主に信頼する、そのことを思い出させてもらいました。「(そうすれば)主が成し遂げてくださる」というのです。「箴言」16章3節には「あなたの業を主にゆだねれば、計らうことは固く立つ」(箴言16:3)という言葉があります。ある先生が、この御言葉に寄せて次のようなことを言っています。「人間の能力には限界があります。どんな働きであれ、はじめから終わりまで、全部をなしとげることはできません。手を放して神にゆだねなければならない部分があるのです。ゆだねる部分のない仕事は、たぶん、よい仕事ではありません」(小島誠志)。
イエスが、その公生涯で初めに為さったことは、自分の歩みを神に委ねるということでした。であれば、私達の信仰の生涯にも、「神に委ねる」という部分が大切なのではないでしょうか。「委ねる」、それは「何もしない」ということではありません。委ねるためには、神への信頼が必要です。精一杯、神への信頼を働かせて、「神にお願いする部分」と「自分の為すべき部分」を教えられ、自分の為すべきことは誠実に実行して行くことだと思います。でも、最後は「神の大きな御手にお願いする(お任せする)」、そのような思いが大切なのではないでしょうか。信仰を働かせて、神に任せようとする姿勢、神に期待しようとする姿勢、それが、私達が地上において「神の国」を豊かに生きて行く上で、大切な在り方だと思います。
 

2.悔い改める

しかしこの箇所は、「神の国を生きる」、さらに積極的な姿勢も教えます。公生涯に立たれたイエスは、何を為さったのか。「この時から、イエスは宣教を開始して、言われた。『悔い改めなさい。天の御国が近づいたから』」(17)。この言葉は、バプテスマのヨハネが語った言葉と同じです。ヨハネも叫びました。「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(3:2)。この言葉からも、イエスが「ヨハネの逮捕を受けてヨハネの活動を引き継ごうとされた」ということを感じることが出来ます。しかし「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(17)、この言葉はどういう意味なのでしょうか。
「天の御国は近づいた」、これは「死んでから行く天国が近づいた」という意味ではありません。ユダヤ人は、「神」を畏れ敬い、「神」という言葉を使いませんでした。「神」の代わりに「天」という言葉を使いました。ですから、「天の御国が近づいた」とは、今日のテーマである「神の国が近づいた」ということです。さらに「国」というのは、「支配」とも訳される言葉です。ですから、それは、「神の国が、神の支配が近づいた、神が現実に力を及ぼされる時が近づいた、いやもう来ている」、そういう意味になります。(それで、「『神の国』は既に来ている」と申し上げています)。イエスは「その現実があるから、その現実を豊かに、祝福に与りながら生きられるように『悔い改めなさい』」と言われるのです。
「悔い改めなさい」、これも2つの意味を持つ言葉です。1つは、私達が良く使う意味での「悔い改める」ということです。北九州でホームレスの人々の自立支援の活動を続けておられる先生の話です。先生は、ホームレスの人達がもう一度立ち直ることが出来るように、素晴らしい活動を展開しておられます。今までに1000人近い方々を自立に導いて来られました。でも、こんな話をされました。例えばアパートを求めている人が100人いたとして、しかし自分達の力だと5人分のアパートしか提供出来ない。この5人を誰にするのか。もしかしたら、5人の中に選ばれなかったために数日後には死んでしまう人がいるかも知れない。先生はそこで「自分達の活動は、人を助けようとする活動なのに、その一方で人を死に追いやってしまう活動でもあるのではないか」と悩むのです。そして結局、「自分達は罪人なのだ。罪人である自分達が罪を犯しながら続けて行くのがこの活動なのだ」と納得するところで逃れの道を見出すのです。善意の象徴のような活動の中で、人は自分の罪を見せられるとするなら、私達は、普段一体どれ程、神の前に罪を犯しながら―というか、神に喜ばれない生き方を繰り返していることだろうか、心探られる思いでした。しかし、それはある意味でどうしようもない現実だとも思います。ちょっと気をつければ何とかなる、というようなことではないでしょう。私達は、どうしても御心に適うように生きられない罪の現実があります。(私には、どうしても赦せないこと、赦せない人がいて、自分の弱さを思わせられます。その故に「神の国」の祝福をミスしていると思います)。だからこそ、神の前に「悔い改める」ということが必要なのです。
「悔い改める」とは、後悔することではありません。神の御心に敵う歩みが出来ない事実を認めて、「赦し」を求めて神を見上げることです。神に向き直ることです。「神の国」を生きるために、何度でも「悔い改める―(赦しを求めて神に向き直る)」ということ、大切なことだと思います。
しかし、「悔い改めなさい」には、もう1つの意味があります。当時ユダヤは、ローマ人に、異民族に支配されていたのです。ユダヤ人にとっては、屈辱であり、痛みでした。特に信仰的にそうでした。彼らは考えました。「もし世界を造った神がいるなら、そしてユダヤ人が神の特別の民なら、異教徒がユダヤ人を支配することが神の御旨であるはずがない。聖書の中で、神はいつかユダヤ人を救い出し、全てを正しくするという約束をしているではないか」。ユダヤ人にとって、その神こそが唯一の王、ユダヤ人に力と正義と平和をもたらす王でした。彼らは、その「王の国」が世にもたらされることを祈り、そのために働き、そのためには命さえ捨てようとしました。具体的には暴力による革命です。当時のユダヤ人にとって―(全ての人がそうだったわけではないでしょうが…)―「天の国(神の国)」という言葉は、そのままローマを倒す革命と結びついていた、暴力革命によって勝ち取るべきものだったようです。
そのような状況の中でイエスが「悔い改めなさい」と言われた時、その言葉は「向きを変えなさい」という意味を持ったのです。「暴力革命によって、破滅のがけっぷちに行くのは止めなさい。あなた方は、神の民として、神の赦しと、神の平和に向かって歩むべきなのだ。あなた方は、神の光と、神の赦しと、神の平和を世にもたらすために招かれているのだ。その方向に生きる向きを変えなければならないのだ。あなた方が神に向かって生きるなら、神の支配の現実を経験するのだ」。イエス様は、そのように人々に「生き方を変えるように」叫ばれたのです。それが「悔い改めなさい」のもう1つの意味でした。しかし結果として、多くのユダヤ人は生き方を変えない、その延長線上でユダヤ人の国は滅亡を迎えるのです。
「神の国を生きるために悔い改める」、それは、赦しを求めて悔い改めを捧げ、赦しを頂きながら生きることでもありますが、同時に「生き方を変えること」なのです。私達にとっても、それは「『神の支配』の現実に信頼して、神の御言葉に信頼して、御言葉に添うように生きようとすること」、「御言葉を基準にして生きようとすること」、それが求められていることではないでしょうか。私達の信仰生活の祝福のために―(「神の国」の現実を豊かに経験するために)―そのような歩みを重ねて行くことが大切なのではないでしょうか。
私自身も、どれだけ神の御言葉に生きようとしているか、心探られます。三浦綾子さんがこんなことを言っています。「わたしはよく、人様に、『お祈りしてください』とお願いする…わたしは、しかし、決して気軽にお願いしているつもりはない。この言葉を口から出す時、わたしの心の中には、キュッと引きしまった厳粛な気持ちがある。本気で言っているのだ。祈りを聞いて下さる神がいられる。だから祈りはきかれる。ゆえに、人々に祈って頂きたい…イエス様は『もし、あなたがたのうちのふたりがどんな願いごとについても地上で心を合わせるなら、天にいますわたしの父はそれをかなえて下さるであろう』とマタイ伝18の9で約束してくださっている。わたしのような者でも約束は守ることが多い。ましてイエス様の約束である。きっと、心を合わせて祈るなら、きいてくださるにちがいない」(三浦綾子)。この言葉が心を打つのは、三浦綾子さんが「イエス様の約束を本気で信じている」ということです。御言葉に生きようとしていることです。
先日も紹介しましたが、あるクリスチャンが、様々な困難に遭い、「もう自分の人生も限界なのではないか」と思ったのです。でもそんな時、祈りの中で「目の前の事態がどうこういう以前に、自分は御言葉によって本当に養われて行かなければならない。そうでなければ本当の意味でクリスチャンとして生きて行けないのだ。これからは神の御言葉の約束にしがみついて生きて行こう」という思いに導かれて立ち上がった、そして神の恵みを経験したという話があります。私達も御言葉を求め、身近なことから御言葉に生きる、御言葉によって生き方を吟味する、そのような歩みに挑戦して行くことが「神の国を豊かに生きる」ことではないでしょうか。
 

聖書箇所:マタイ福音書4章8~11節

 24~25年前ですが、インターネットで色々検索するのが面白くなった頃、「サタン」の画像を検索したことがあります。目の釣りつり上がった細長い顔が現れました。その頃は、それほど真剣でもなかったのですが…。先日、ある牧師とお交わりして、最後は悪魔(サタン)の話になりました。私もここ数年、サタンの攻撃と思えるものを受けていることを感じていました。彼も「サタンの攻撃を感じている」と真剣な表情で言っておられました。「エペソ書」に「わたしたちの戦いは…暗闇の世界の支配者、天にいる悪の緒霊を相手にするものなのです」(エペソ6:12)とありますが、少しこの御言葉の重みが分かって来たような気がしています。しかし感謝すべきことは、私達の主は、その悪魔(サタン)に勝利して下さった方であるということです。その方が私達を守って下さっている、そのことは大きな祝福ですし、安心でもあります。「神が私たちの味方であるなら、だれが私たちに敵対できるでしょう」(ローマ8:31)とあります。感謝なことです。
イエス様が悪魔の誘惑と戦われた「荒野の誘惑」、今日は3つ目の誘惑の記事です。「パッション」というイエスの十字架を描いた映画がありますが、イエス様の十字架が成った時、悪魔が「ワーッ!」と敗北の叫びを上げるシーンがありました。悪魔は、私達の魂が欲しいのです。だから何としても私達の魂を天国に入れる道を拓く十字架を阻止したいのです。逆にそれは、イエス様にとっては、神の子として、救い主として、どのようにその公生涯を生き、どのような「救い」を人々に与えるのか、その方向性が、この誘惑を経ることによって確立される大切なテストの時でした。
すでに悪魔は、2つの誘惑を仕掛けて、「何も十字架という苦しい道を歩まなくても良いではないか」と、イエス様を「十字架の道」から離そうとしました。イエス様は、それらを御言葉をもって退けられました。そこで悪魔が3つ目に仕掛けて来たのが、8節からの「今度は悪魔は、イエスを非常に高い山に連れて行き、この世のすべての国々とその栄華を見せて、言った。『もしひれ伏して私を拝むなら、これを全部あなたに差し上げましょう』」(4:8~9)というものでした。どんな高い山に登ろうが「この世の全ての国々とその栄華を見る」ということは出来ないわけで、この誘惑も、幻の中で悪魔がイエス様に見せた誘惑だったかも知れません。いずれにしてもこの誘惑は、イエス様にとってどんな意味を持っていたのでしょうか。私達にどんな意味を持つのでしょうか。
「ルカ福音書」には、もう少し詳しく記されています。「悪魔はイエスを連れて行き、またたくまに世界の国々を全部見せて、こう言った。『この、国々のいっさいの権力と栄光とをあなたに差し上げましょう。それは私に任されているので、私がこれと思う人に差し上げるのです。ですから、もしあなたが私を拝むなら、すべてをあなたのものとしましょう』」(ルカ4:5~7)。一連の誘惑の中でイエスは、ご自分が人々に与えようとする「救い」の方法について問われています。そしてその闘いの中で、イエス様が確認された「(人々に与える)救い」とは、「人々を神と結びつける、そして天国への道を拓く、そのために自分は十字架にかかる」というものでした。しかし神の子とはいえ、人としてのイエス様にとって、それは苦しい選択に違いなかったと思います。十字架、暗い道です、悲惨な道です。
その時に悪魔は、この世の栄華―(権力と栄光)―を見せるのです。そして、こう言っているのではないかと思います。「この世界の最も深い悲しみは、政治がおかしくなっていることではないか。権力者がおかしくなっていることではないか。もし私を拝みさえすれば、私はあなたに全世界を与えると約束する。全世界が与えられたその時、あなたはメシアとして君臨して、正義と公平による支配を確立して、邪悪と不正を追放して、人類に幸福をもたらすことが出来るのではないか。そうすれば、十字架で死ぬ等という苦難を味わわなくても良いではないか。そのために、ただ私にちょっと頭を下げれば良いのだ。何でもないことではないか」。イエス様にとっても激しい闘いだったと思います。この世の繁栄は、私達にとっても魅力的です。私達も、そんなに大それたことでなくても、この世でもう少し富があり、もう少し楽な生活が出来て、心配なく生きて行けたら…そんな思いはあるのではないでしょうか。悪魔は、そのようにしてイエスを十字架の道から離そうとしたのです。
しかしイエスは、これもはっきりと拒否されました。「引き下がれサタン。『あなたの神である主を拝み、主にだけ仕えよ』と書いてある」(10)。この御言葉は、どういう意味でしょうか。ある牧師が言っていました。「人がどういうところで信仰を失うのか。信仰の熱心を失わせるもの、それは、その人がこの世の栄光の中に立つことである。その時に、今まで忠実に続けて来た信仰の生活を続けることが困難になる」。イエス様が引用された御言葉は「申命記」6章10節ですが、その続きの11~12節に次のようにあります。「あなたの神、主が、あなたの先祖…に誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった堀り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて…主を忘れないようにしなさい」(申命記6:11~12)。祝福に満たされる時に「あなたは気をつけて…主を忘れないようにしなさい」と語られているのです。神から与えられた祝福でさえも、その時、私達は祝福だけを見て、良きものを与えて下さる主御自身を忘れてしまうというのです。そうやって神から離れてしまう、信仰が片手間になってしまう、そういうことがあるのだと思います。ですから、悪魔が言うようにはなりません。栄華と権力の中にいて、神への思いが片手間になったところで、人々に真の「救い」を与える等ということは出来ないことです。イエスは、そのことをご存知でした。まして、悪魔を拝むことによって手に入れた世界で、神の御心を行うことなど出来ない。そして何よりも、それでは、人々を真の意味で神と結びつけることは出来ないのです。いくら世の中が変わり、政治が変わろうが、人々の心が内側から変えられないところに真の「救い」はないのです。いずれにしても、「主にだけ仕える」、そこから離れた時、もう神の御心を行うことは出来ない。イエスは、そのことを良くご存知であったと思います。
この誘惑は、私達には何を教えるのでしょうか。私達は世の権力や栄華を求めるような誘惑に遭うことはないかも知れません。しかし、悪魔がイエスに「人々に救いを与えたいのなら、良い方法がある、手っ取り早い方法がある、私をちょっと拝めば良いのだ」と言った、それは「私と妥協しなさい」、つまり「信仰生活を上手くやって行くためには、世と妥協しなさい」という誘惑だったと考えることも出来ます。私達は、例えば世の中を生き易くするために世と妥協することはないでしょうか。それが問われるのではないかと思います。その意味でこの世は、私達に様々な誘惑や戦いを仕掛けて来るのです。
例えば、日本の教会も辛い経験をしています。日本は、戦前から戦中に掛けて「天皇崇拝」ということで国民をまとめて、戦争に向かおうとしました。その中で教会は、国から迫害されました。(宮崎市内にも投獄された牧師先生がおられました)。キリスト者は、激しい信仰の闘いを迫られました。しかし、全体として日本の教会は、教会を守るために世と妥協して行きました。「天皇を礼拝することと、神を礼拝することは矛盾しないのだ」と言って天皇崇拝を受け入れて行きました。真の神以外のものを神とした。しかし一度そうやって妥協して行くと、消極的な妥協に終わりません。ずるずると妥協の道を進んで行くのです。驚いたのは、キリスト教会がある大きな団体を組織した時、その代表が、伊勢神宮に行って、そのことを神道の「神様」に報告し、感謝したというのです。辛い経験です。
私達にも、様々な妥協の誘惑があるかも知れません。しかし、私達が神として信じる方は、天地を支配しておられる真の神様です。私達を守って下さるのではないでしょうか。私は、千葉でお世話になった先生のお話から、そのことを思いました。先生が羽田空港の空港次長をしておられた時、空港長の代わりに、ある会社が空港内に建設するビルの起工式に出なければならなくなったことがあったそうです。組織を代表して出るのです。順番に名前が呼ばれて、呼ばれたら前に出て玉ぐしを捧げなければならない。先生は、本当に困って、必死になって導きを祈られたそうです。いよいよ順番が来ました。ところが名前を呼ばれる順番が来たのに、自分の名前は飛ばされて、次の人の名前が呼ばれ、起工式はそのまま終わってしまったそうです。式が終わった後、その会社の担当者が飛んで来て謝ったそうです。「申し訳ありませんでした、名前を飛ばしてしまいました」。先生は、にこやかに「良いんですよ」と言いながら、「でも、どうして名前を飛ばしたのですか」と聞いたら、担当者が「その時、名前が見えなった」と答えたそうです。先生は、神様に感謝されたそうです。いつも、いつもこういうことが起こるわけではないかも知れませんが、しかし私達は、この神様に信頼して、「主にだけ仕える」ということを確認したいと願います。
しかし妥協の誘惑は、「神以外のものを一寸神の位置に置く」という妥協だけではなくて、色々な形でやって来るかも知れません。ある注解書にこう書いてありました。「悪魔はイエスにこう言っている、『私と妥協しなさい。そんなに高い理想を掲げない方が良い。人々に向かって、そんなに高いことを要求しない方が得策ですよ。悪いことや、怪しいことをしても、ちょっと大目に見てやれば、人は群がってついて来ますよ。神の要求を、割引せずに世に伝えるのを止めて、世と妥協して教えなさい』」。私達はキリスト教の信仰そのものを、自分の中で世と妥協させていないでしょうか。
ある本に次の文章がありました。「人を傷つけないこと、人をがっかりさせないことは日本社会の鉄則なので、このルールに基づいて私達は本当のことを言わないことが多いのです。その場の人々の許容量を見極めながら繰り返す私達の優しさは…全能者の意見を介入させることを許しません。罪人は永遠の苦しみに至ること。救いは他の神々や宗教にはなく、キリストにのみにあること。憎むべき人を赦し、祝福することが、人が罪から解放される最も顕著な経験であること。救われた者は変えられてゆく祝福を生きるべきであり、全生涯を全く神に明け渡さなければならないこと…すべては良く聞かされて来た信仰生活の基本。しかし、これらの真理に対して『正論はそうだけれど現実は…』と考えてしまう心の中で、万軍の主は何と小さくされてしまっていることでしょうか」(安藤理恵子)。私達は、このように少しずつ神を小さくする、脇へ押しやる、そういうことがあるのではないでしょうか。この文章はこう続きます。「すでにキリストを信じた人々の間でも、人を驚かさないこととキリストの御心を正しく語ることを天秤にかけたら、とりあえずキリストに遠慮してもらって、いつも通り穏やかに会話を終えることを選びがちではないでしょうか…正論が正論として受け入れられない理由の1つに、それを語っている人が人格的に尊敬されていないということがあります。偉そうに語るわりにはその通りに生きていないので、聞く耳を持ってもらえないのです。真理を話すことの難しさは、話すことそれ自体にではなく、言ったことを自分がそれなりに実践していなければ説得力がないと誰もが知っているところにあります。私達は、真理だと信じたことを信じた通りに生き始めることが必要です。それは悔い改める必要のない完璧な生活をすることではありません。この世の苦しみを1人で経験しつくすことでもありません。迷い多い自分を認めて、全てをキリストの贖いの上に置き、悔い改めと感謝と献身によってキリストに繋がり続けることなのです」(安藤理恵子)。長く引用しましたが、要は「何よりも神を仰ぎ続けなければならない、そこから始めて信仰を真摯に生きなければならない」ということではないでしょうか。
一番の問題は、妥協して神を小さくするところで、私達は「神の救い」も小さくしてしまうことです。「荒野の誘惑」に照らして考えれば、「試みに向かう力を神が与えて下さる」ということを小さくしてしまう、「物事が上手く行かない時に、神の助けがある」ということを疑ってしまう、「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである―(十分に発揮されるのだ)」(2コリント12:9)という神の約束を忘れてしまう、そういうことではないでしょうか。だから私達は、神だけを正しく神の位置に置く、神だけを仰ぎ続ける、真摯に信仰を生きる、その戦いを続けて行かなければならないのではないでしょうか。
さて、最後に考えておかなければならないことがあります。それは、悪魔はどうやって私達のところに来るのかということです。本棚に「人にはどれだけの土地がいるか」というトルストイの本があります。ある農夫が土地を求めました。「土地さえあれば悪魔だって怖くない」と言います。それを悪魔が聞いています。彼の前に色々な人が次々に「さらに良い土地を得ることが出来る」という情報を持ってやって来ます。彼は「さらに良い土地」を求めて、次々にその人達の話に乗せられて行くのです。最後の土地は「日が暮れるまでに歩いて回って来た土地は全部彼のものになる」という土地でした。彼は欲張って歩きに歩きました。でもあまりに遠くまで行ってしまったものだから、出発点に戻ることが難しくなって、走りに走って命からがら出発点に戻った時、息絶えて死んでしまうのです。最後には2mの長さの土地に埋められました。「最後に必要だったのは、それだけの広さの土地だった」という話ですが、彼が死ぬ直前に知るのは、彼に情報を持って来た人達が、実は悪魔が化けた人達だったということでした。
つまり人―(人の欲、人の罪)―が悪魔を呼び込んでしまうということがあるということをこの話は教えています。悪魔は、人の姿をとり、世の力を借り、いろんな方法で私達に近づいて来るかも知れない。しかしその中で、悪魔が私達にやって来るという面より、私達が神以外のものを神としてしまう時、この世と妥協して行こうとする時、あるいはまた私達の様々な罪によって、私達の方が悪魔を呼び込んでしまう、あるいは悪魔に足元をすくわれる、踊らされる、そういう面もあるのではないでしょうか。
だからこそイエス様は、ここで、「悪魔と」と言うより、その「人間の罪と」激しく闘われたのではないかと思います。人間がどんなところで信仰を失ってしまうのか、どんな風にして罪を犯すのか、そのことと闘って下さった、そして勝利して下さいました。だから「ヘブル書」4章15節にこうあります。「この大祭司(イエス様)は、わたしたちの弱さに同情できない方ではなく、罪を犯されなかったが、あらゆる点において、わたしたちと同様に試練に遭われたのです。だから、憐れみを受け、恵みにあずかって、時宜にかなった助けをいただくために、大胆に恵みの座に近づこうではありませんか」(ヘブル4:15~16)。私達は、時には悪魔さえ呼び込んでしまうことのあるような者です。だからこそ私達は、悪魔から逃げるために、悪魔に勝利されたイエス様の中に逃げ込まなければならないのです。繰り返しになりますが、遜って、真摯に、愚直に、主イエス様だけを見上げて行きましょう。その中でこそ、私達は、この世の中で輝くこと、本当の意味で世を楽しむことが出来るのです。