2023年6月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:マタイ福音書4章1~4節

カナダで開拓伝道を始めた頃、教会会議の伝道委員会の方々と食事をしながら交わったことがありました。1人の高齢の兄弟が自分のことを話してくれました。彼は、戦後すぐに旧ソ連からカナダに移住して来た人でしたが、旧ソ連では、メノナイトの人達は大変な迫害を経験しました。彼は言いました。「ある日、コミュニストが家にやって来て、私の父を連れ去った。父は2度と帰って来なかった」。しかし彼は、その辛い話をにこやかな表情で話すのです。私はその人の中に「もう何があっても揺れない、『樫の木のような信仰』」を強烈に感じたのを覚えています。
私達の信仰生活の目的(意義)というのは、「神様との関係をどう作って行くのか、それに尽きる」と言っても良いのではないかと思います。「神様との本当の良い関係を作る」、今日の聖書箇所も、そのための大切なポイントを教えてくれる箇所です。ご一緒に学んで行きましょう。
今朝の箇所は「荒野の誘惑」の2回目の話になります。イエス様は、バプテスマのヨハネから洗礼を受けられましたが、その後すぐ「悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれ」(1)ました。この荒野の誘惑はイエス様にとって、神の子として、救い主として、どのようにその公生涯を生き、どのような「救い」を人々に与えるのか、その方向性が確立される大切なテストの時でした。悪魔が最初に仕掛けて来た誘惑は、40日40夜の断食をして、空腹でたまらないイエス様に「これらの石がパンになるように命じたらどうか」というものでした。「人々にパンを与える、人々の当面の飢えを満たす、それが人間救済の道ではないか、あなたはそのような救い主であればよいではないか」という誘いでした。それに対してイエスは「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(4)と言って、「空腹が満たされることだけが『救い』ではない。『救い』とは何より、神に受け入れられ、神との関係で生きることであり、人が神との関係で生きる時、生きるために必要な配慮は神がして下さるのだ、だから、私は人を神と結びつける救い主なのだ」と言って、悪魔の誘惑を退けられたのでした。
5~6節に「すると、悪魔はイエスを聖なる都に連れて行き、神殿の頂に立たせて、言った。『あなたが神の子なら、下に身を投げてみなさい。「神は御使いたちに命じて、その手にあなたをささえさせ、あなたの足が石に打ち当たることのないようにされる」と書いてありますから』」(5~6)とあります。2つ目の誘惑です。「神殿の頂」というのは、エルサレムの神殿の最も高い所のこと―(崖下からは140mの高さにあった)―ですが、当時の人々の信仰によれば、救い主が神からこの世に遣わされた時、そこに姿を現すとされていた所でした。実際に悪魔がそこにイエス様を連れて行ったのではなく、イエス様の幻の中の出来事であったかも知れませんが、いずれにしても悪魔は、そこにイエス様を立たせて言うのです。「あなたは神の子であって、世を救うために来たのだろう。あの待ち構えている群衆に向かって、あなたが本当の救い主だということを納得させてみせなければいけないではないか。納得させる一番の近道は、あなたがここから飛び降りることだ。聖書にも書いてあるではないか。神を信じて疑わない人は、高い所から飛び降りるようなことをしても、神の命令によって御使い達がさっと集まって来て、その人の足を地面に着かないうちに捕らえて支えて下さるはずだ。それが信仰者に与えられている約束だと、聖書に書いてあるではないか」。「詩篇91篇」の言葉を持って、サタンはイエス様を攻めて来ました。当時、自分を「メシア(救い主)だ/キリスト(救い主)だ」と自称する人がたくさんいたのです。その中で、人々はイエス様を簡単には信用しないという状況だったのでしょう。だから―(繰り返しというか、先ほどの続きになりますが)―悪魔は言うのです。「メシアたる者、そういう神の特別の守りの内にあることを民衆に証明して見せなければ、どうして人々があなたを『神の子だ』と言って信用するだろうか。しかし、ここに一度に民衆を信用させる方法があるではないか。ここから飛び降りてみなさい。そうしたら『この人は凄い、この人の神は生きておられる』ということが人々にも分かるではないか」。
この誘惑は、説得力のあるものでした。イエスは「伝道の公生涯―{神を―(神の国を)―宣べ伝える公生涯)」に立たれるわけです。その時、人々にどう宣教して行くのか。途方にくれるような思いもあられたと思うのです。事実、この後、ある場所においては「人々がイエス様を全く信じない。そこでイエス様は何も出来なかった」ということもありました。自分の情けない例で恐縮ですが、随分前のことですが、どうやって外の方に教会に来て頂けば良いか分からなくなったような時、「私の体が講壇から天井まで浮いて昇って行ったら、いや天井を突き破って昇って行ったら、世間の評判になって、伝道がし易いのではないか」と、そんなバカなことをぼんやりと考えたことがありました。今は「特別の癒しの賜物があればな」と切実に願います。いずれにしても、悪魔の言う「てっとり早い道を選ぶことも必要ではないか」という問いを真剣に受け止めた時、それはイエス様にとっても、心揺さぶられる誘惑だったと思います。まして、皆が本当の救い主(メシア)を待っている。そういう人々の中にあって、人々の心を一遍に掴むことが出来るならば、宮の頂上から飛び降りることは、イエス様にとっては何でもないことだったと思います。
しかしイエスは、この2番目の誘いもはっきりと拒否されます。なぜ、拒否されたのか。イエスがその時に言われたのは「『あなたの神である主を試みてはならない』とも書いてある」(7)という言葉でした。イエスは「あなたが言うことは、主なる神を試すことになるから拒否する」と言われたのです。その時、イエスが引用されたのは「申命記6章16節」の言葉です。「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない」(申命記6:16)。「マサで試みたように」とは…。それも―(前回同様)―「出エジプト」の出来事です。イスラエルの民がエジプトを脱出して、シナイ半島を旅していた時、マサ(という場所)で飲み水がなくなりました。民は、水を求めてモーセに詰め寄ります。「私達に飲む水を下さい…いったい、なぜ私たちをエジプトから連れ上ったのですか。私や、子どもたちや、家畜を、渇きで死なせるためですか」(同17:2~3)。そして彼らは「主は私たちの中におられるのか、おられないのか」(同17:8)と叫んだのです。つまり「もし、主が私達の中におられるなら、私達を守って下さるのなら、水を与えてくれるはずではないか。水が与えられないのは、主が私達を守って下さるという約束が嘘だったのではいか。水も与えないような神が本当の神なのか。本当に神なら、水を出して見せてくれ」、そう言ってモーセに迫り、神を試したのです。その出来事を受けて「申命記」に「あなたがたがマサで試みたように、あなたがたの神、主を試みてはならない」(申命記6:16)と記されました。確かにイスラエルの民は「神など生きているかどうか分からないではないか」と言いたくなるところに居たのだと思います。その苦しみの中から出て来た呟き、叫びだったと思います。誰も責められないかも知れない。しかし「申命記」は「この民の行動は間違いだった。これは罪だった」と言うのです。そしてイエス様も、ここでそのことを繰り返されました。
それはどういうことなのか。イエス様は「神を試す、そして自分が納得したら『この神について行こう』と確認する。そういうところに真の意味において神との関係が成り立つのか。『救い』が成り立つのか」、そういうことを言っておられるのではないでしょうか。イエス様に関して言えば「私が身を投げて、父なる神が助けて下さるかどうか試してみて、その上で神を信頼するのではなくて、神が助けて下さろうが、そうでなかろうが、私は神を信頼する」と言われたのだと思います。イエスは、そういう形で父なる神との関係を持とうとされたのです。しかし、それはまた「イエス様と神様との関係」に留まらず、イエスが与えようとされる「救い―(教えようとする信仰)」がどういうものなのか、つまり、私達の信仰の在り方、「私達の救いとはどういうものか」、そこに関わって来るものなのです。
イエス様が不思議なことをして見せて、拍手喝さいで迎えられて、それで多くの人々の心を掴んで、人々にご自分のメッセージを聞かせて、それで救い主然としていられたら、その方がイエス様には楽でいらしたはずです。しかしそれでは、私達の信仰はどうなるでしょうか。私達の信仰の生活で、イエス様が不思議なことをして下さる、困った時、「イエス様、あなたが神の子なら、私のこの状況から救い出すのが神の子ではないですか。神様、あなたが神であるなら、私の状況を変えて下さるのが神ではないですか」。そうして神を試して、そして神が不思議にして下されば、「神を信じて良かった」と思う信仰生活、そういうものが続いて行ったら、どうなるでしょうか。神が私の役に立つから信じる―(極端かも知れませんが)―そういう信仰になって行かないでしょうか。その信仰は「神が役に立たない」と思った時、耐えらない。簡単に捨ててしまうことにならないでしょうか。長年信仰生活をして来られたご高齢の方がおられました。ある日、地震が起こって、両隣の家の塀は崩れなかったのに、自分の家の塀は崩れてしまった。それで信仰を捨ててしまったというのです。これも極端な話ですが、こういう信仰は、本当に救われているということになるのでしょうか。本当に神様との関係を持っていると言えるのでしょうか。
私が最近、ひきつけられて読んだのは「百万人の福音」の中にあった宮本雅代という方の証しです。(読まれた方もいらっしゃると思いますが…)。私と同じ歳の方です。この方のご主人のことは、少し存じ上げていました。ご主人は20年前にALS(筋委縮性側索硬化症)を発病されたのです。(ご主人の信仰の証しの本も出ています)。その中で彼女は、ご主人のお世話をし、4人の子供さん方を育てて行かれました。ある時、ご次男が骨髄性白血病になられます。大変な苦しみでしょう。ご次男は骨髄移植で不通に日常生活を送れるようになられるのですが、そうしているうちに、ご長男とご長女が、いわゆるぐれてしまうのです。ご主人はこう書いておられます。「思春期の揺れは誰にでもあるのですが、揺れ具合が予想をはるかに超えていました。親が近づこうとしてもハリネズミのように針を立てます。毎週のように学校から呼び出され、対応に翻弄されている雅代を見ながら、父親として何ができるか毎日問い続けました」(宮本隆)。大変な状況でいらしたのだと思います。彼女は、信仰の戦いを経験されるのですが、「足跡(フットプリント)」の詩を通して、イエス様と一緒にそこを通って行くのです。彼女は言っています。「神さまはいつも私たちに『謙虚であれ』と教えてくれたではないか。神様の御姿を感じから、祈りを重ねて歩んで行きました」(宮本雅代)。彼女は神様と歩きました。やがて2人のお子さんも少しずつ落ち着いて行かれるのですが、本当に試練につぐ試練という感じです。ご主人は、後援会に呼ばれたりしておられたのですが、昨年、家族旅行の途中、体調を崩し、急遽自宅に帰った翌日、車椅子に座ったまま、突然死のような形で天に召されるのです。ご主人が最後に見つめておられたのは「キリストの愛が私たちを取り囲んでいる」(2コリント5:14)という銘板に刻まれた御言葉だったそうです。彼女は言っています。「それは『キリストの愛を信じて、神様の教えに向かって生きる』という夫婦の目標に通じる言葉だった」(宮本雅代)。そして、彼女は最後にこう結んでおられました。「私自身、今も悲しみは癒えていませんが、隆のメッセージをかみしめながら地上の平和を求めて歩み続けていきたいと思います」(宮本雅代)。
長く引用しましたが、本当に大変な人生です。しかし、神様が不思議なことをして下さらなければ倒れてしまう信仰ではないのです。その都度、神様と一緒に試練を乗り越えて行かれる信仰なのです。それこそ神様との真の関係を持っている信仰ではないでしょうか。そして、その時のポイントは「キリストの愛を信じて」ということです。つまり、私達の信仰を支えて行くのは、イエス様の愛なのです。
イエス様は、不思議なことをして見せて、人々の心を掴んで、それで救い主然としている救い主の道を取られなかったのです。そうではなく、私達が、罪を赦され、神様の御手の中に入り、どんな時にも神様に希望を見て生きて行けるように、そして、やがて死んでも天国に入って永遠のいのちを生きて行くことが出来るように、不思議なことをするのではない、十字架に架かって死んで下さることを選ばれたのです。私達を本当に愛するからです。私達が、本当に神様の御手の中で生き、神様に抱かれて天国に入って行く道は、それしかなかったからです。
もちろん、神様は、私達の人生において不思議なことをして下さいます。恵み深い御業も見せて下さいます。ある方がしみじみと言われたことがあります。「神は凄いなー」。そうです。信仰生活は素晴らしいです。他の何も与えることが出来ない恵みの生活です。しかしそれは、不思議を次々に経験するからではない。私―(「私達」と言って良いでしょうか)―という取るに足りない存在が、神の御手に入り、天国に入って行くために、神の子が死んで下さった、それほど私達を愛して下さった。その愛の中で生きることが出来る生活だからです。そして、大切なことは、そこまで私達を愛して下さったイエス様を、神様を、何があっても心から信じることです。信頼することです。「神が神なら、こうして見せてみろ」ではなく、「神様、この状況の中で、私を持ち運んで下さい」と委ねて行く、恵みを信じて行くことです。その時に、道は開かれて行くのです。
まとめます。第2の誘惑の出来事を通してイエス様が示されること、それは、「『信仰とは、いつも私にとって都合の良い神、都合の良いしるしを見せてくれる神を信じること』ではない」ということです。イエス様は、そんな形で信仰を与えようとはされないのです。なぜなら、もしそうであれば―(繰り返しますが)―「どうして自分はこんな目にあうのか」と私達が問う時、その信仰は試練に耐えられないからです。また、不思議を為して下さるばかりの神様は、その時、私達に答えることが出来ないのです。私達の苦難の時、その神様は、私達の側に立つことは出来ないのです。でも私達の神様は、イエス様は、時に私達に都合の良い神ではないかも知れないけれど、私達がどんな状況に置かれても、私達を愛し、私達の傍らにいて下さり、深いところから確かに私達を支えることの出来る神様なのです。私達に与えられている信仰は、その神様、そのイエス様を信じる信仰なのです。時に「神のしるし」が見えない時もあるでしょう。弱い私達は、神様を疑いたくなるかも知れません。しかし私達は、神様が「都合の良い神」だから神様を信じ、神様を愛するのではない。神様が神だから、私達のために死んで下さった主だから、間違いなく世の終わりまで私達の神でいて下さる神だから、時に分からことがある時にも、この神様を信じ、神を愛し、神に仕える、そのような信仰でありたいと願います。
 

聖書箇所:マタイ福音書4章1~4節

「百万人の福音」に「方言聖句」というページがありますが、家の子供が小さい時、何かの集会で「宮崎弁の主の祈り」をもらって来たことがあります。「主の祈り」の第5の祈りは「我らの日用の糧を今日も与えたまえ―(私達の日毎の食物を今日もお与え下さい)」という祈りです。宮崎弁では「おれたちん、毎日ん食いもんを、いつもくんない」となっていました。そこには「食物を日毎に求めなさい」と勧められています。「神が御手を伸ばして日毎に私達に食物を与えて下さる。それを日毎に受け取りながら生きる」、そのようなイメージを大切にして、1日1日を生きて行く―(とりあえずこの1日を生きて行く)、そういう歩き方も大切ではないかと思ったことです。
しかし「聖書」は、「食物を求めることと同じように大切なことがある」と教えます。それが「人はパンだけで生きるのではない、人は主の口から出るすべてのもので生きる」(申命記8:3)という言葉です。今朝はその御言葉が語られる箇所を学びます。「内容」と「適用」に分けてお話しします。
 

1:内容~神への依存と信頼を大切にする

前回、イエスは洗礼を受けられました。洗礼の後、4章1節に「イエスは、悪魔の試みを受けるため、御霊に導かれて荒野に上って行かれた」(1)とあります。「悪魔の試みを受けるため」とありますから、直接に誘惑を仕掛けて来たのは悪魔です。しかしすぐ後には「御霊に導かれて荒野に上って行かれた」とあります。つまり、御霊(神様)がイエス様を悪魔と対決させるために荒野に導かれた、ということになります。悪魔はそう思っていないでしょうが、この出来事を背後から支配しておられるのは神様だということです。しかしなぜ、御霊はイエス様を誘惑に遭わせようとされたのでしょうか。どうしてイエス様はこの経験をしなければならなかったのでしょうか。「人生を導く5つの目的」という本の中に次の言葉があります。「人格というものは、試されることによって成長し、真価が問われていきます…神は、日々あなたにふさわしいテストを用意され、あなたがどのように物事に反応するかをご覧になっておられます」(リック・ウォレン)。「人格は、試されることによって成長する」というのです。
およそ30歳になられて伝道の公生涯に立たれたイエス様には、2つの準備がありました。1つは「洗礼」です。「罪人の身代わりとなるために、罪人として洗礼を受ける」、それは、罪人の罪を自分の身に引き受けて死んでしまう、死ぬことによって神の御心を成し遂げる、そのような救い主の在り方を方向付けするものでした。それに続くこの「荒野の誘惑」は、イエス様がその方向に歩み出そうとされる、その「救い主としての在り方」がテストによって確立される、そのような時だったのです。
具体的にはどういうことだったのか。悪魔の第一の誘惑は、40日40夜断食をして空腹でたまらないイエス様に「これらの石がパンになるように命じたらどうか」という誘惑でした。イエス様は、空腹の中でご自分の周りにいる人々のことを思われたはずなのです。イエスの周りに集まって来た人々は、ほとんどが貧しい人々、飢えの中にいる群衆でした。イエス様は、その貧しさを、飢えを思われる。その時に悪魔は言うのです。「あなたがこの世に来た神の子なら、しかも飢えの苦しみを知っておられるなら、なぜこれらの石をパンに変えることが出来ないのか。そのようにして飢えを追放して下されば、どんなに多くの者が救われるであろうか。これこそ人間救済の道ではないか」。そういう誘惑なのです。イエスはこの問いの中に「自分か神の子であるとはどういうことなのか。人を救うとはどういうことなのか」、その根本的な問いを聞いておられ、自問しておられるのです。しかも、飢えという人間にとって最も切実な欠乏の現実を、飢えた人々と共に苦しみながら自問しておられるのです。それは、人を愛して止まないイエス様の愛が揺すぶられるような問いでした。パンを分けて上げることが出来れば、ある意味で人々は救われるでしょう。しかもイエス様は、やろうと思えばお出来になったでしょう。いや、そちらの方が十字架で死ぬより、イエス様には楽な救いの方法でした。それだけに、悪魔が仕掛けて来た誘惑は恐ろしい誘惑でした。それにどう答えるのか。それは正に、イエス様の「救い主」としての在り方を決定づけるものでした。
しかし、イエスは言われました。「『人はパンだけで生きるのではなく、神の口から出る一つ一つのことばによる』と書いてある」(4)。「旧約『申命記』」8章の言葉です。そこにはこうあります。「主が導かれたこの40年の荒れ野の旅を思い起こしなさい。主はあなたを苦しめ、飢えさせ、あなたも先祖も味わったことのないマナを食べさせられた。人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたに知らせるためであった。この40年の間、あなたのまとう着物は古びず、足がはれることもなかった。あなたは、人が自分の子を訓練するように、あなたの神、主があなたを訓練されることを心に留めなさい」(申命記8:2~5)。「出エジプト」の40年の荒野の旅において、イスラエルの民は激しい飢えを経験しました。その時、神は天からマナを降らせて、この民を養われました。飢えは現実でした。しかしその苦しみの中で、神は民を養われたのです。そして、それは「人はパンだけで生きるのではなく、人は主の口から出るすべての言葉によって生きることをあなたがたに知らせるためであった」(申命記8:3)とあるのです。
「『人はパンだけで生きるのではなく…主の言葉によって生きる』のだから、飢えを耐えなさい」、そう言われたのではないのです。神は、人々の飢えをご存知でした。だからパンをお与えになりました。パンを与えただけではない。「この40年の間、あなたのまとう着物を古びず、足がはれることもなかった」(申命記8:4)とあります。文字通り「着物が古びなかった」ということではありません。着物は取り替えたでしょう。でも振り返った時、「着物は古びなかった、足もはれなかった」と告白せざるを得ないような神の守り、現実的な神の守りがあったのです。(私は、以前お話ししましたが、神に導かれて養子に引き取った子を育てられたご夫妻が、「あの子を育てるのに何も困らなかった、神が全部して下さった」と言われた言葉を思い出します)。「飢え」はあった。しかしパンは与えられた。その「飢えの現実」と「神の養い」の中で、彼らは何を学ぶべきだったのか。子供の病気で苦しんだお母さんが、こう証ししています。「初めは『なぜうちの子をこんなひどい目にあわせるのですか』と神様に抗議したこともありました。でも辛い経験をしたおかげで、人間の力には限りがあること、生死は全て神様が握っておられること、最後に頼れるのは神様しかいないことを知りました」。イスラエルの人々も「人は自分の力だけでは生きられない、いや生きようとしてはいけない。父なる神に導かれて、支えられて、担われて生きるべきなのだ」、それを学ぶように期待されたのです。そして実際、「神が世話して下さる」、それが、彼らが経験したことでした。「パンだけで生きる」、それは神と生きようとしないことです。そうではなく「神への依存、神への信頼―{それは何より「神の戒め(言葉)」に対する信頼です。神の言葉に聞き従い、神と共に生きること}―それを第一とすること、そこに生きる道がある」、それを学ばなければならなかったのです。
教会の本棚の本に、こんな証しがありました。「台所には、空になった米びつを前にしながら、ひざまずき祈る父母の姿があった…あの台所の祈りがない日は1日もなかった。しかしわが家の大黒柱は、イエス様の十字架。決して折れることも、倒れることもなかった…イエス様が与えて下さった祝福は、私達が流した涙の分だけ、今我が家に溢れている」。色々な奇跡を見せられたのだと思います。「申命記」8章16節にはこうあります。「それは、あなたを苦しめて試し、ついには幸福にするためであった」(申命記8:16)。「神は、ついには私達を幸福にするために様々な取り扱いをもって私達を導いて行かれる」というのです。神と共に生きて行こうとすること、そこに私達にとって「ついには幸福に」という道があるのです。
しかし、この神への依存と信頼の関係がない時、そこにパンがあっても、「ついに幸福に」という道はないのです。ある神学者が日本の現状をこのように書いています―(古い情報ですが、言おうとしていることは分かって頂けると思います)。「戦後の日本は、政治も経済も科学技術も教育も産業も、すべて物質的な豊かさを求めて努力を続けて来た。今や一応の目標は達成し、経済大国となって繁栄を誇り、パンはあり余っている。しかし、大きな犠牲も払わなければならなかった。貴重な自然や環境は破壊され、公害に生命を脅かされている。道徳や社会秩序は荒廃し、青少年は非行や暴力に走り、弱者は相変わらず泣かされている。そのうえ、貿易問題などによって日本への風当たりはますます強くなり、日本は国際的にも孤立してしまいそうである。また軍備の増強を強いられるなど、第三次世界大戦のうわさは現実味を増して、世界平和もようやく均衡が保たれているような状態である。神の言葉が重んじられて第一とされない時の悲劇は、現在私達が見る通りである」。「パンだけで生きようとすること」、それは決して私達を幸福に導く道ではない。今の様々な問題は、人が「パンだけで生きようとする」ところから、神との関係を見失っているところから、起こっているのではないでしょうか。そして何より、「パン」は私達に、最後の勝利、天国への凱旋、永遠の命の希望を与えません。永遠の命の希望がないということは、この世を生き抜いて行く希望がないということです。
だからイエス様は、人が神への依存と神への信頼の中で生きて行けるようにする、そして人々を「ついには幸福に」という道に導く、それこそがご自分の為すべき「救いの道」であることを確認されたのです。そして「石をパンにする」という悪魔の誘惑を拒否されたのです。それは、人々を神と結びつけるために、「十字架にかかる道を選び取る」ということを確認する時でもありました。このテストによってイエス様に、「十字架にかかる救い主」としての道が確かにされたのです。
 

2.適用~神の御言葉と共に生きる

この個所から私達は何を学ぶのか。それは、私達の信仰生活にも、このイエス様の闘いがあるということです。「石をパンに」、それはイエス様の「救い主の在り方」を決定づける誘惑だったと申し上げました。一方、人間としてイエス様にとってこの誘惑は、「神が神なら、この石をパンに変えて与えてくれても良いではないか」という誘惑だったのではないかと思います。そのようにして神を疑わせる、そのような誘惑だったのではないでしょうか。イスラエルの民は、飢えと渇きの中で「主は私達の中におられるのか、おられないのか」(出エジプト17:7)と叫んだのです。
私達はどうでしょうか。このように呟くことはないでしょうか。「なぜ神は、この石をパンに変えて下さらないのか」。つまり、問題に、不幸に、悲しみに、ぶつかった時、「神はなぜ、この問題を見事に解決して下さらないのか」と、神が自分にとって便利な神でないことに腹を立てることはないでしょうか。そこで不信仰になることはないでしょうか。イスラエルの民は、神によって奴隷の地から導き出されました。しかし荒野の放浪の中で、主に対する依存と信頼に生きることに何度も失敗するのです。「苦しい時の神離れ」と言葉を聞いたことがあります。神に背を向けてしまうのです。しかし主の方は、民を訓練しようとしておられたのです。神の民として、信仰者として、更に先に進ませようとしておられたのです。
家内が産後鬱で入院した時、家内は「ディリーブレッド」から神の語り掛けを聞いたようです。ある日のページに「地リス」という話がありました。筆者の家の近くに住んでいる地リスは、ゴルフ場のフェアウェイに穴を開けるので、ゴルフ場のトラクターが毒性のあるガスを地中に散布して、地リスを駆除してしまうのです。それを知って筆者はこう書いています。「出来ることなら、この可愛い動物を遠くへ逃がしたいと思います。巣穴をグチャグチャに壊して、強制移住させられれば、と思います。多分、彼らは怒るでしょうが、それは彼らのためになることです。同じようなことが、神についても言えます。私達の快適な暮らしは、神によって壊されることが時にはあるかも知れません。しかし、変化を強いる辛い状況の背後には、神の愛と、永遠につながる神の目的があります。神は残酷でもなければ、気まぐれでもありません。最終的には最善をなして下さいます(ローマ8:28)。神は、私達が御子と同じ姿になり、天国で栄光ある喜びを永遠に享受するようにと望んでおられます。不変の愛で包んでくださるお方が起こされる変化を、恐れる必要があるでしょうか」。そしてそこには「ヨブ記」の御言葉がありました。「私は安らかな身であったが、神は私を打ち砕き…」(ヨブ16:12)。家内はここを読んで「神様は愛のゆえに私を砕かれたのだわ」と言ったのです。その日から回復して行きました。「人生を導く5つの目的」の中にも次の言葉があります。「神があなたの人生に対して持っておられる最終目標は、あなたが快適な生活を送ることではなく、あなたが人格的に成長することです。神の願いは、あなたが霊的に成長してキリストに似た者になることです」(リック・ウォレン)。私達が知っていることも、人生の試練や困難や悲しみが私達を成長させ、私達の信仰を成長させ、その信仰が、私達を様々な場面で支えてくれるような信仰へと変えられて行くということではないでしょうか。もちろん全てがそんな簡単に割り切れるわけではないでしょう。答が出ない、見つからない、どうしても納得出来ない、そんなことも信仰生活には沢山あります。しかし、私が申し上げたいのは、私達は、イスラエルの民が失敗したように、様々な試練や問題の中で神に背を向けてはならないということです。誘惑の中で、神の深い御旨を疑ってはならないということです。神への信頼、神への依存、そこに「ついには幸福に」という道があることを信じて、信仰生活を送って行きたいと願うのです。
神への信頼、神への依存、それは何より「神の言葉を慕い求める」という形になって現れるのではないでしょうか。「神の口から出る1つ1つのことばによる」(4)、この御言葉に生きようとすることだと思います。ある人がキリストに出会って、それがきっかけでキリスト者の経営する会社で働き始めました。ところが30代後半になった頃、奥さんが病気になり、治療費の都合でもっと給料の良い職を求めて転職をしました。しかし力仕事を続ける中で無理がたたって身体を壊してしまいました。45歳の時、奥さんは亡くなりました。50歳になった時には、その人も病に倒れてしまいました。妻を失い、仕事を失い、健康を失い、独り病院のベッドに横たわっていました。「もう自分の人生も限界ではないか」と思って失望の中にいたのです。しかし、彼はそのような中でも日毎のデボーションを続けていました。その中で次のことに目が開かれて行くのです。「目の前の事態がどうこういう以前に、自分は御言葉によって本当に養われて行かなければならない。そうでなければ本当の意味でクリスチャンとして生きて行けないのだ」。そして「これからは神の御言葉の約束にしがみついて生きて行こう」と思うのです。そんな中で彼が出会うのが「イザヤ書」の御言葉です。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る…それゆえ、主はあなたがたを恵もうと待っておられ、あなたがたをあわれもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」(イザヤ書30:15、18)。彼はこの言葉に信頼して、かつて勤めていたキリスト者が経営する会社に手紙を書くのです。そうしたら、その会社が、病み上がりの、まだフラフラしている彼を雇ってくれて、そこから彼の人生が開けて行くのです。私達も、御言葉にしがみつかなければならないと思います。そのようにして、「人はパンだけで生きるものではない」という信仰を生きて行きたいと願います。
 

 

聖書箇所:マタイ福音書3章13~17節

 カナダにいる時に、ある英語の教会の先生と2人で話す機会がありました。その教会は「洗礼は『浸礼―(ズブンと頭まで水の中に浸かる形式の洗礼)』でなければならない」という教会だと聞いていましたので、良い機会だと思い聞いてみました。「なぜ洗礼は『浸礼』でなければならないのですか」。その先生は言われました。「イエスも頭まで水の中に浸かっておられるだろう。だから洗礼の時は頭まで水の中に浸からなければダメなんだよ」。そう聞くと、「滴礼」で洗礼を受けた私としては、素直に「そうですよね」と言えないものがありました。今日の個所を読むと、イエスが水の中に入られて、そこで洗礼を受けられたことが分かります。しかし、ズブンと頭まで浸かられたかどうかは、はっきりしません。原文は「バプティゾー」という言葉の変化形で、「バプティゾー」は「水に浸す」という意味ですが…。またある英語の「スタディー・バイブル」は、「『水から―(「川から」ではない)―上がられた』と言うのだから、ズブンと浸かったことは明らかである」と説明していましたが…。しかし、何かの絵で見たことがありますが、「イエス様が川の中に腰まで浸かって頭から水をかけてもらった可能性もあるのでは…」と言いたくなります。(「滴礼」で洗礼を受けた者の僻みでしょうか…)。というより、洗礼の形は色々あって良いのです。イエス様がどういう形で洗礼を受けられたかも、それほど拘る必要はないと思います。大切なのは、「イエスが洗礼を受けられた」という事実であり、そこにある意味(メッセージ)です。今朝も「内容」と「適用」と、お話しします。
 

1:内容~主イエスの受洗の意味

バプテスマのヨハネがヨルダン川で人々に「悔い改め」を語り、洗礼を授ける、その信仰覚醒運動を始めてから、どれくらい経った頃でしょうか、ガリラヤのナザレでひっそりと生活しておられたイエスが、ヨハネのところに現れなさいました。イエス様は、ヨハネの噂を聞き、「自分が立つ時が来た」と思われたのかも知れません。ヨハネの許に現れたイエス様は、群衆の中に混じってヨハネから洗礼を受けようとされました。ヨハネには、イエスこそが待っていた「私のあとから来られる方―(裁き主)」(11)であることが分かりました。「神の裁き主」であれば、イエス様に罪はない。実際にイエス様は、「神の子」として罪のない方でした。ヨハネが呼びかけたのは「罪の悔い改め」であり、「悔い改めのしるし」としてのバプテスマでした。そうであれば、イエス様は、バプテスマを受ける必要はない。いや、そんなことがあってはならない。だからヨハネは、戸惑って言いました。「私こそ、あなたからバプテスマを受けるはずですのに、あなたが、私のところにおいでになるのですか」(14)。なぜイエス様は、バプテスマを受けようとされたのか、いや、受けられたのでしょうか。
ユダヤ人は、「神の裁きが為され、『今の世』が終わって、『来るべき世』が始まる時」を「主の日」と呼んで、一方で恐れ、一方で「自分も『来るべき世』に入って、そこで生きること」を、期待もしていました。ヨハネは「『私のあとから来られる方(イエス)』が現れる時が、その『裁きの時』だ」と考えました。その「裁きの時」、「御心に敵う歩みをしていない全ての人は、その裁きに耐えられない」、だから「悔い改めよ」と叫んだのです。(しかし実際は、その「裁きの時」は、イエス様が2回目に現れる「主の再臨の時」だったのです。その時こそが、地上の全てのことが裁かれる時です。しかしこの時、ヨハネにはそのことが見えていません)。イエスが現れたことで、その「裁き日」がいよいよ近づいたと思ったのです。
ヨハネは、人々に「聖人君主になれ、完全無欠になれ」と言ったのではないのです。「人として神の前に正しく立て」と説いたのです。「神の前に正しく立つ」とは、例えばそれは「本当に神を畏れること。神を畏れて自分の罪を恥じること。もし罪を犯したら、それを告白して悔い改めること、神の御言葉に歩もうとすること、死に怯える時には、そこで死を超える神との永遠の命の交わりを確信すること…」そういうことだったのではないかと思います。しかし、誰がその「神の前の正しさ」に生きているのか。だからヨハネは「裁き」に備えるように、叫んだのです。
しかしそんな中、イエス様は、ヨハネの思いとは、全く違う形で登場されたのです。イエスの洗礼の申し出に戸惑うヨハネに、イエスは言われました。「今はそうさせてもらいたい。このようにして、すべての正しいことを実行するのは、わたしたちにふさわしいのです」(15)。この「わたしたち」というのは、第一義的にはイエスとヨハネのことです。そこで、この言葉を、ある神学者は、こう言い換えています。「ここで私に洗礼を受けさせることで、あなたと私とで神の意志を成就するのです」。イエスは、ご自分が洗礼を受けることで、「神の御心が成就される」と言われるのです。では、「神の御心」とは何でしょうか。
イエスが水から上がられた時、天から声がしました。「これは、わたしの愛する子、わたしはこれを喜ぶ」(17)。この言葉は、「旧約」の2つの箇所から取られている言葉です。「これは、わたしの愛する子」、これは「詩篇2篇」の言葉です。「主は私に言われた。『あなたは、わたしの子…』」(詩篇2:7)、これはイスラエルで王が立てられる時に歌われた詩です。つまり、イエスが洗礼を受けられた時、ここでイエスは、神から「真の王」として任命を受けられたのです。しかし、その「王」は、どのような「王」であったか。もう1つ「わたしはこれを喜ぶ」、これは「イザヤ書42章」の言葉です。「見よ。わたしの支えるわたしのしもべ、わたしの心の喜ぶわたしが選んだ者…」(イザヤ42:1)。神に選ばれた「神のしもべ」を描く詩です。この詩はやがて53章に至って「神のしもべ(子)が、苦しみの中で『罪人の1人』に数えられて、そして罪人の罪を自分の身に引き受けて死んでしまう、しかし死ぬことによって神の御心を成し遂げる、自らも喜んでそれを引き受ける」、そのような姿を描くのです。
ヨハネは、神の裁きの時、「人は本当に神の前に、あるべき姿として立つことが出来るのか、裁きに耐えられるのか、いや出来ない」と(いわば)絶望しながら、それでも必死に悔い改めを叫び、悔い改めのしるしとしてのバプテスマを授けました。しかし、やって来られた「私のあとから来られる方」は、ヨハネが考えていたような「激しい裁き主」ではなかったのです。神に任命されたその方は、罪人の側に立ち、人々が結局成し遂げられない「あるべき正しい姿で神の前に立つ」というその「成し遂げられない部分」を補うために、人の罪を背負い、人に代わって裁きを受け、人に救いの道―(神の裁きを通り抜けて天国に入って行く道)―を造って下さる「救い主」だったのです。「裁き主」ではなく、「救い主」だったのです。そのために罪人になり切り、罪人として―(罪人の代わりに)―「悔い改めのバプテスマ」を受けるところから、その公生涯を始めなければならなかったのです。だからイエス様は、洗礼を受けられたのです。それを神は喜ばれたのです。
 

2:適用~悔い改める

この箇所は、私達に何を教えるのでしょうか。イエス様が公生涯で人としての歩みを始められた時、人を救う歩みの最初になさったことは、「悔い改め」のバプテスマを受けることでした。つまり「悔い改めること」だったのです。つまり私達も、信仰生活の第一のこととして、悔い改めることを大切にしなければならないということではないでしょうか。
「ある方が初めて教会に行った時、牧師に『あなたも罪人です』と言われ、それから2度と教会に行かなかった」という話を聞きました。わざわざ教会に行って、「あなたも罪人ですよ」と言われて、喜びに溢れるはずがありません。だから私もあまり強調したくはないのです。しかしイエス様は、公生涯を、私達の罪を背負うようにして悔い改めのバプテスマを受ける、まずそこから始めて下さったのです。そうであれば私達は、自分の罪を問わないわけにはいかないのです。
確かに私達は、自分の罪を悔い改め、それを赦され、神に迎えて頂きました。感謝です。しかし、赦しては頂きましたが、罪から全く解放されたわけではありません。相変わらず、罪の生活を続けているのではないでしょうか。しかし、赦されたことの恵みが大き過ぎて、自らの罪の姿を、イエス様ほど深刻に考えなくなってしまっている面はないでしょうか。
先週も申し上げたように、人と比べると自分の罪の姿はあまり分からないかも知れません。「世の中には酷い人もいる。私なんか善人の部類ではないか」と思ってしまいます。しかしヨハネも、問題にしたのは神の前の姿です。私自身が個人的に示されているのは、神に対する不信仰です。自分にとって嬉しくないこと、納得のいかないこと、辛いことが起こると「神は私を見放されたのか、私には関わって下さらないのか」と思ってしまうことが多いのです。「神は、私の神であることを止められることはない」、その恵みの真理に逆らう不信仰です。あるいは時には、神様の恵みよりもサタンの力の方が強いのではないか、そう感じてしまうこともあるのです。鬱の時がそうでした。神に対する不信仰、それもヨハネが戒めた罪です。
神様は私達に、本来どのような姿を求めておられるのでしょうか。「マタイ5章」に「八福の教え」というイエス様の教えがあります。イエス様は言われました。。「心の貧しい者は幸いです…悲しむ者は幸いです…柔和な者は幸いです…義に飢え渇いている者は幸いです…憐み深い者は幸いです…心のきよい者は幸いです…平和をつくる者は幸いです…義のために迫害されている者は幸いです」(マタイ5:3~10)。言い換えれば「『あなたは、ただ神の恵みと憐みにすがる他にないという自覚を持っているか』、『あなたは、罪を悲しんでいるか』、『あなたは、あなたの心を神に支配して頂くことを願っているか』、『あなたは、神に感謝し、少しでも神の御心に応えようとしているか』、『あなたは、神に憐れまれている者として他の人の弱さに対して憐み深くあるか』、『あなたは、一つ心で神に対して誠実であり、人に対して誠実であるか』、『あなたは、本当の赦しと和解を造り出そうとしているか』、『あなたは迫害されるくらいまで、それらの生き方に打ち込んでいるか』」。そういうことを、私達は問われているのではないでしょうか。いかがでしょうか。あるいは「1コリント13章」には有名な「愛の教え」があります。「愛は寛容であり、愛は親切です。また人をねたみません。愛は自慢せず、高慢になりません。礼儀に反することをせず、自分の利益を求めず、怒らず、人のした悪を思わず、不正を喜ばずに真理を喜びます。すべてをがまんし、すべてを信じ、すべてを期待し、すべてを耐え忍びます」(1コリント13:4~7)。私達に、この品性があるのでしょうか。そう考えて行くと、神様の求めに生きていない自分の姿が見えて来るのではないでしょうか。いかがでしょうか。
さらに私達に罪の姿を教えてくれるのは、罪を大きなテーマとして小説を書き続けた三浦綾子さんの言葉です。「自分は正しい、自分は偉い、自分はいい人間だと、自己を絶対化していることのいやらしさ、それがわれわれなのだ」、「私達は常に、尺度を2つ持っている。『人のすることは大変悪い』、『自分のすることは、そう悪くない』、この2つのはかりが心の中にある。つまり『自己中心』なんだ。『自己中心』の尺度でものごとをはかる限り、自分は悪くないのである。なぜなら、それは『自分のすることは、そう悪くない』というものさしなのだから。それどころか『自分のすることはすべて良い』というものさしを持っている人さえいる」、「正しい言葉は人の耳に痛い。親にでも、兄弟にでも、また友人、職場の同僚にでも、ちょっと注意されただけでカッとなり、憎くなるのが人間である」、「9つまで満ち足りて、10のうち1つだけしか不満がないときでさえ、人間はまずその不満を真っ先に口に出し、文句を言い続けるものなのだ」、「私達人間は、本来、自分が損をしないように生きようとする存在だ。快く生きたい。楽をして生きたい。得をするように生きたい。これが大方の人間の姿なのである」(ルターは「人間はあらゆることにおいて自分の利益を求める」と言いました)。「人間とは誰しも底意地の悪いものだ。外には出さなくても、棘を含んで生きているものだよ」。「人間というものは、言ってみれば、存在そのものが罪なんだ。今天使のような心を持っていたとしても、1分後にはふっとよからぬ思いが胸をかすめる。そうしたどうしようもない存在だからこそ、神の子であるキリストが、僕たちの罪を背負って、代わりに死んで下さったのだ」。
私は、人間の罪の姿を描いて悦に入っているのではないのです。私達が罪の中を生きていることを再確認したいのです。なぜなら、罪を自覚する時、私達はヨハネのように絶望するのではなくて、イエスがおられるから、神の前のそんな大きな罪も赦されたこと、赦されていることを、改めて感謝出来るからです。私達から感謝がなくなっている時、それは赦しの大きな恵みの中にいることを忘れてしまっている時ではないでしょうか。
私は、洗礼を受ける時でさえ、自分が罪人であることが分かっていませんでした。口では言いました。しかし、本当に自分の罪を悲しみ、心から悔い改めるということはなかったのです。問題の中で「助けて欲しい」と思って教会に飛び込み、助けてもらった、そこから始まった信仰生活でした。そこに留まっていた信仰生活でした。だから、信仰生活に喜びがありませんでした。しかし就職して、大きな失敗をしました。同僚にも挨拶もしてもらえない、避けられている感じでした。その中で私は、その原因が自分の中にあったこと、その状況は自分が造り出していることがやっと分かりました。苦しくて誰かに赦して欲しかったのです。でも人の心はどうすることも出来ませんから、とにかく神様に赦しを求めました。初めて真剣に悔い改めの祈りをしました。その時、神は教会を通して「赦し」を語って下さいました。そして、そこから神の恵みが分かり始めました。キリスト教が言っていることが分かり始めました。「悔い改め」が私達を神に近づける、そのことが、理屈よりも、むしろ経験的に分かります。
だから今朝、私達が相変わらず持っている罪を自覚したいのです。そしてその私達を―(あなたを、私を)―救うために、イエス様が公生涯を始めて下さったこと、その最初に私達のために「悔い改めのバプテスマ」を受けて下さったこと、そのようにして私達と1つになろうとして下さったこと、私達の身代わりになる歩みを始めて下さったことを感謝したいのです。そして私達のその大きな罪が、それでも赦されるために、やがて十字架に架かって下さったことを感謝したいのです。その十字架のゆえに、私達がどんなに罪深い者であっても、今日も、赦されて―(過去も赦されて)―在れることを、その恵みを感謝したいのです。そして、その赦しの恵みがあるからこそ、「悔い改め」において鈍くならないようにしたいのです。
私は、申し上げたように、個人的に不信仰を悔い改め続けたいと思っています。神は「わたしはあなたがたのために立てている計画をよく知っている…それはわざわいではなくて、平安を与える計画であり…将来を希望を与えるためのものだ」(エレミヤ29:11)と言われました。「私達の将来は―(自分の中にではない)―恵みの神の御手の中にある」、それを信頼する、「神が私を見放されることはない」、その信仰から外れたら、悔い改めを続けたいと願うことです。皆様は、今、どういうことを示されておられるでしょうか。お互いに「悔い改めること」を大切にして行きましょう。それが私達を、神様に、神様の恵みに近づけます。
 

 

聖書箇所:マタイ福音書3章1~12節

 富弘さんの本の中に、身体が動かなくなった星野さんが口にペンを銜えて字を書く練習をするために書き写ししていたある本の一節が掲載されていました。大変良い文章ですので、ご紹介したいと思いました。
「ヘレン・ケラー―(三重苦の聖女)―は、耳も聞こえず、目も見えず、暗黙と沈黙の中でその生涯を始めた。彼女はその幼児期を回顧して、『暗黙の中にも自分を受け入れる柔らかな膝があり、抱く手があり、口にふくませられる乳房があり、自分を愛する誰かがいることは分かるが、1つの耐え難い不満は、なぜその者が自分を示さず、また語ってくれないか、ということであった』と言っている。親としては、生み落としたただ1人の愛児、世にも哀れな子に、どれだけ自分を示したかったであろう。どれだけ語りかけたかったであろう。神は無限の愛を持って、私達をも愛しておられる。ところが、その愛を感じない無感覚状態に私達がある時、その愛の御心はどれだけ痛むことであろう。私達は石ころのように無感覚な者であった。ただ世を愛し、楽しみを愛し、自分を愛して、その奴隷として世を過ごした者。神への愛など露ほども持ち合わせなかった者である。神がまず私達を愛してくださったからこそ、そこに救いがある。『あながたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだのです』(ヨハネ15:16)。罪人でない者がどこにいるだろうか。人は眠っている罪人か、めざめた罪人かのどちらかである。自分は罪人であると悟っている者よりも、罪はないとうぬぼれ他人を卑しめる者は、さらに大きな罪人である。『罪人の友である主イエス』こそ滅びゆく人類のただ1つの望みである」。「『神の愛』と『それを意識出来ない人間の現実、人間の罪』、それでも『なお注がれる神の愛』」、そのようなものを良く表現している文章だと思いました。今日のメッセージは、この文章を念頭に聞いて頂けると、良いのではないかと思います。
前回の箇所で、イエス様はエジプトから帰還されて、ガリラヤのナザレに住むことになりました。その後は、ナザレの村で「大工ヨセフの子」として育てられました。伝承によれば、ヨセフは早く死んだので、長男としてのイエス様はヨセフに代わって家系を支えなければならなかったようです。しかし30歳になられた頃、イエスは突然ユダヤの荒野に姿を現して、洗礼を受けて、「伝道の公生涯」に入られます。イエス様に洗礼を授ける人物こそが、バプテスマのヨハネという人です。今日はバプテスマのヨハネの活動を中心に信仰の学びをして行きます。
バプテスマのヨハネとは、どういう人物だったのか。ヨハネは、当時大きな評判を呼んだ「信仰覚醒運動」を展開した人です。4節「このヨハネは、らくだの毛の着物を着、腰には皮の帯を締め、その食べ物はいなごと野蜜であった」(4)。このスタイルは「旧約」の預言者エリヤと同じ格好です。「旧約」の最後の預言書「マラキ書4章5節」に「見よ、わたしは、大いなる恐るべき主の日が来る前に、預言者エリヤをあなたたちに遣わす」(マラキ4:5)という預言があります。その意味で彼は「主の日の前に登場する預言者エリヤ」として活動しました。また「主の先駆け」としての意識も持っていたでしょう。いずれにしてもヨハネがここで「悔い改めなさい。天の御国が近づいたから」(3:2)と語っているように、彼は「天の御国が近づいたこと」、それはつまり「神の支配が近づいた、神から送られる王が来られて、世を裁き、世を治める時が来た」ということを示されて、自ら「預言者、エリヤ、主(王)の先駆け」として活動を始めたのだと思います。
彼は何をやったのか。彼は人々に「悔い改め」を説きました。そして「罪の告白」をした人に洗礼を授けました。当時、「洗礼」は、異邦人がユダヤ教に改宗する時に受けました。ユダヤ人は「自分達はもともと『神の民』だから―(聖いから)―洗礼を受ける必要はない」と考えていました。しかしヨハネは、ユダヤ人に「悔い改め」を迫りました。それは「神の民だ」と自認しているユダヤ人に、その「神の民だ」と自認しているところに問題を感じたからでしょう。ユダヤ人の問題とは何だったのでしょうか。
ヨハネの許には、パリサイ人やサドカイ人と言った宗教指導者までやって来ます。(彼らが、本当にヨハネの呼びかけに応じて、悔い改めてバプテスマを受けようとしたのか、あるいは様子を観察に来たのか、それははっきり分かりません)。パリサイ人というのは、皆が不信仰になって行く時代の中で「神を信じて生きて行こう」と語った人達です。ある意味で「悔い改め」を知っていた人達です。でもその彼らに、ヨハネは語るのです。「まむしのすえたち。だれが必ず来る御怒りをのがれるように教えたのか。それなら、悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(3:7~9)。「悔い改めにふさわしい実を結べ」、逆に言うと「実を結ぶような悔い改めをせよ」と言ったのです。「あなた方は『悔い改め』を知っているかも知れないが、それは真の『悔い改め』になっていない。だから実を結べないのだ」と言ったのです。
「悔い改め」とは何なのか。なぜ彼らの「悔い改め」は実を結ばないのか。聖書が教える「悔い改め」とは、「何か間違いを犯したから後悔する」ということではないのです。問題は1つ1つの表に出る事柄ではない。そのようなものを生み出す(いわば)「心の一番深いところになる心根―(心の向き)」が問題なのです。心根が間違っていたら―(言葉を変えると信仰が間違っていたら)―良い実は結べないのです。(新興宗教が色々な問題を引き起こします。あれは信仰が間違っているからです)。「悔い改め」とは、その「心根―(心の深いところにある心の向き)」を変えることです。ある人は「つまみ洗い」ではなく「丸洗いをすることだ」と表現しました。
では、パリサイ人やサドカイ人の「心の深いところにあった思い」とは何なのか。それはヨハネが「『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない」(9)と言っているように「私達の先祖はアブラハムだ、私達はアブラハムの子孫だ」ということだったのです。どういうことかというと、アブラハムは「信仰の父」と呼ばれる人です。実際に素晴らしい信仰に生きた人です。だから「それほどアブラハムの信仰の徳が深いから、アブラハムの子孫はアブラハムの徳を幾ら使っても使い尽くすことは出来ない」と考えていたのです。彼らは天国(来るべき世)を信じていました。そこに入り、生きることを熱望していました。しかし「神の裁き」も信じていました。しかし彼らによれば、「神に裁かれて地獄に行くことになっても、地獄の門まで行くと、アブラハムが地獄の門に待っていて、そこでユダヤ人なら天国に送り返してくれる」、そう考えていたのです。そうすると、どうせアブラハムが助けてくれるのだから、「神の前に自分の本当の姿―(真実の在り様)―を問う」思いはなくなるでしょう。
しかしヨハネは言った。「一方に『私はユダヤ人だ、アブラハムの子孫だ』という思いを持って悔い改めをしているからダメなのだ」。実際、なぜユダヤ全土から大勢の人々がヨハネのところにやって来たのかというと、申し上げたように、ユダヤ人は「やがて主の日―(主の裁きの日)―が来る」という思想も持っていました。そして荒野に預言者が現れて「主が世を裁く時―(世を支配する時)―が近づいた」と言った。そのことを本当に深刻に受け止めた人々は、「もし『神の裁き』があるとすれば、今の自分の状態ではその裁きに耐えられない」と思ったのではないでしょうか。「アブラハムの子孫だ」等ということではどうにもならない「自分の生き方の中にある罪」の現実を感じたのではないでしょうか。だから「天国―(来るべき世)―に入って行きたいのだ、そのためには、どうすれば良いのか」、その導きを求めてヨハネのところにやって来たのだと思うのです。
それに対するヨハネのメッセージは何だったのか。彼は言いました。「『われわれの父はアブラハムだ』と心の中で言うような考えではいけない…神は、この石ころからでも、アブラハムの子孫を起こすことがおできになるのです」(9)。何を言っているのか。もちろんアブラハムは素晴らしい信仰に生きた人です。ある神学者は言いました。「『モーセ五書』―(色々な律法が613も書いてある『モーセ五書』)―のテーマは、『アルバハムの信仰のようであれ』ということだ」(J.セイルハマー)。それほど素晴らしい信仰者でした。しかし、アブラハムがもともと立派な信仰を持っていたから、神はアブラハムを選ばれたわけではないでしょう。神は、ご自分の自由な意思によってアブラハムを選ばれ、自由な意思によってその子孫であるユダヤ人を神の民として選ばれたのです。ユダヤ人が神の民として選ばれるにおいて、ユダヤ人に何かの功徳があったわけではないのです。だから神は、為さろうと思えば、パリサイ人達が「何の価値もない石ころのような者」として軽蔑していた人々からでも、真に悔い改める人を起こして、その人々を救うことがお出来になるのです。であれば、アブラハムの子孫とされている彼らの持つべき心根は何だったのか。それは、ただ「選ばれたことへの感謝」です。何の功徳もない自分達が、神の民として、神に守られここまで歩んで来られ、今も、神に希望を置いて生きて行ける、そのことに対する心からの感謝ではないでしょうか。
最近出た「百万人の福音」のテーマは「ありのままで愛されているから、ありのままではいられない」というものでした。神様にただ選ばれて、神の民にして頂いている、そのことを本当に感謝して生きて行く時、その生き方は、自ずと神への態度、隣人への態度、生き方として表れて来るのではないでしょうか。その意味で、ヨハネは「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(8)と言ったのではないでしょうか。
ヨハネは、ある意味で「旧約」の時代を生きた人です。しかしイエス様が伝道の生涯に入られた時の第一声も―(「マルコ福音書」によれば)―「時は満ち、神の国は近づいた。悔い改めて福音を信じなさい」(マルコ1:15)という言葉でした。イエスも「悔い改めなさい―(自分の真実の姿を見つめて、罪を認め、心の向きを変えなさい)」と言われたのです。その意味でヨハネのメッセージは、私達へのメッセージでもあると思います。私達は「私にはアブラハムがいる…」というような思いは持たないでしょう。でも、その代わりに私達が誤魔化してしまうのは…。日本は「どこまでも人間中心の考え方」を持っている文化だと言われます。何でも人が基準です。何でも人と比べる。しかし人と比べると、自分のことを「罪人だ」とはあんまり思わないのではないでしょうか。「世の中には酷い人は沢山いるじゃないか。私なんかはまだ良い方―(善人の部類)―ではないか」ということになるような気がするのです。クリスチャンでもそうかも知れません。
でも、人は関係ない。人生の裁きも、人生の祝福も、私と神様との関係ですから。「私が神様の前にどうか」ということが問題なのです。しかし、私達の真実の姿はどうでしょうか。星野富弘さんがこんな詩を作っています。「飾りのない正直な文章でなければならないが、胸のなかのものをそのままさらけ出してならべるとなると、読んだ人が吐き気をもよおすほど、私の心はみにくくきたない」(星野富弘)。私達も思い当たるのではないでしょうか。私達の心の中にあるものを、このスクリーンに映し出すとしたら、どうでしょうか。恥ずかしくて立っていられないのではないでしょうか。しかし神様は、それをご存じなのです。知っておられるのです。その神様の前に、私達は1人で立つのです。使徒パウロは、後にコリント教会の人々にこう書き送りました。「わたしたちは皆、キリストの裁きの座の前に立ち、善であれ悪であれ、めいめい体を住みかとしていたときに行ったことに応じて、報いを受けねばならないからです」(2コリント5:10)。
私達も、真の悔い改めが必要です。悔い改めの実を結ぶことが必要ではないでしょうか。でも「悔い改める」と言っても、どうすればよいでしょうか。もちろん、示される罪があれば、そこから方向転換をすることも大切です。しかし、それは何か「つまみ洗い」のような気がするのです。大事なことは、私達も、ユダヤの人達と同じではないでしょうか。
最初にご紹介した詩にこんな言葉がありました。「私達は石ころのように無感覚な者であった。ただ世を愛し、楽しみを愛し、自分を愛して、その奴隷として世を過ごした者。神への愛など露ほども持ち合わせなかった者である。神がまず私達を愛してくださったからこそ、そこに救いがある。『あなたがたが私を選んだのではない。私があなたがたを選んだのです』(ヨハネ15:16)」。私達も、神の恵みと憐れみによって、自由に選んで頂いた者です。自分が神を信じるようにして頂いたことにおいて、私達には、何の功徳もなかったはずです。なぜ私を選んで下さったのか、私達には不思議ですが、でも選んで下さったのです。そのことを、とにかく神に感謝すること。そして、ここまで導いて来て下さったことを感謝すること、そこから私達の悔い改めの実は、始まるのではないでしょうか。「百万人の福音」に星野富弘さんがこんな文章を書いておられます。「キリスト教の信仰を持ってからは…『こういう自分でも生きていていいんだな。生きて立派なことをする、いい仕事をする、そういうことは人間にとっていちばん大切なことではなくて、とにかくこの世に生を受けて生き続ける、それを神様に感謝して生きる、そのことが非常に大事なことなんだ。生きていること自体が、不思議で有り難いことなんだから』と思えるようになりました」(星野富弘)。ある研究者が言いました。「言葉は人である」。星野さんの紡ぎだす詩、彼らの生き方、そのベースは、神様への感謝から出ているのではないかという気が、私はしています。
 私達の心が「こんな者が神様に選んで頂いた、頂いている」。そのことを生きる価値の中心に据える時、私達の心根は、そこから出る言動は、生き方は、自ずと変わって来るのではないでしょうか。しかも、私達にはさらに感謝があります。それは、「ヨハネのあとから来られた方」は、ヨハネが考えていたような「実を結ばない者は焼き払う」ような方ではなかったのです。神様が選んで下さったにも拘わらず、神様の愛に対して不十分な、欠けのある生き方しか出来ない、そんな私達のために、私達の知らない内に、十字架に掛かって下さった方なのです。その十字架によって、さらに私達は、神の子にして頂いたのです。これも、私達が何かをしたわけではない。私は自分の歩いて来た道を思うと、そして自分の醜さや弱さを思うと、自分が今、神様を喜ぶ者として生きることが出来ることを本当に有り難く思います。ただ恵みです。その恵みを思う時、私達は感謝して生きるしかないのではないかと思うのです。そして、感謝するからこそ、真剣に悔い改める、感謝するからこそ神に喜ばれるように生きようとする、そうやって私達も「悔い改めにふさわしい実を結びなさい」(8)というヨハネのメッセージを受け止めることが出来るのではないでしょうか。  
何度もご紹介しますが、カナダで出会った高齢の兄弟は良く言われました、「私はキリストに愛された、だからその愛された愛で誰かを愛し返す、それが私の信仰です」。キリスト教と言うのは、裁きに対する恐れからではない、神の選びに対する感謝から、イエス様の十字架に対する感謝から、「悔い改めの実」を実らせて行くものではないでしょうか。「あなたがたがわたしを選んだのではありません。わたしがあなたがたを選び、あなたがたを任命したのです」(ヨハネ15:16)。この言葉を、心に刻みたいと思います。