2023年4月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:マタイ福音書1章1~17節   

 カナダの神学校で日系3世の先生に教えて頂きました。「マタイ福音書5~7章・111節」の「山上の説教」を全部暗記しておられた先生です。そして色々な小道具を使って「山上の説教」を「説教」する方でした。「右の手があなたをつまずかせるなら、切って、捨ててしまいなさい」(5:30)と説教しながら、手の玩具が飛んで行くのです。凄い説教でしたが、昨年末、その先生が亡くなったと聞いて、ショックを受けたことでした。まだお若かったのですが…。その先生が教えて下さったことで、特に印象深く覚えていることの1つは、私達の霊的な祖先であるアナバプテストの聖書の読み方です。先生によれば、アナバプテストは「聖書」の中でも「山上の説教」を特に大事にしたそうです。昨年11月の「アナバプテスト・セミナー」でそのことを参加者の方々にお話ししながら、佐土原教会でも、もう1回、「山上の説教」をじっくり学びたいと思ったことでした。それもあって、今朝から「マタイ福音書」をまた学んで行きたいと思います。
 

0:イントロダクション

初めにイントロダクション的な話をします。「マタイ福音書」は、12弟子の1人マタイによって書かれた「福音書」です。特徴は「ユダヤ的な色彩が強い」、もっと言うと、ユダヤ人に「イエスこそがユダヤ人が待ち望んでいた『メシア(救い主/キリスト)』であることを確信させるために書かれた」と言われます。だから「マタイ福音書」には「旧約聖書」の引用も多いし、「(これは)主が預言者を通して言われていたことが実現(成就)するためであった」(マタイ1:22)という言葉が何度も出て来ます。しかし一方、「マタイ福音書」は、「四福音書」の中で唯一、「教会」という言葉が出て来る「福音書」でもあります。だから「教会の福音書」とも呼ばれます。教会に語られているということです。そしてまた「マタイ福音書」は、「『ユダヤ人の王』としてのイエス…というか『真の王としてのイエス』を描こうとしている」とも言われます。その意味では、ユダヤ人だけではない、教会だけでもない、この世界に生きる全ての人に向けて書かれている「福音書」だということになります。今朝は、1章1~17節を学びます。「内容」と「適用」に分けてお話しします。
 

1.内容

「新約聖書を読もうとする人が一遍に読む気を無くしてしまう」と言われるのがこの箇所です。なぜマタイは、「福音書」をこのような系図から始めたのでしょうか。この系図は何を伝えようとしているのでしょうか。
 

  • 主イエスは『旧約』に預言された救い主である

なぜ系図から始まっているのか。それは、ユダヤ人は、その人がどのような人なのか、どのような背景を持った人なのか、それを系図で示そうとしたからです。そのような背景の下に「マタイ福音書」も系図から書き始められているのです。私達には意味がないように見える系図ですが、「旧約」の歴史を知っていたユダヤ人にとっては、大きな意味を持ったのです。
系図の最初に「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリストの系図」(1:1)と表題がついています。マタイは、この系図を通して「救い主であるイエスは、アブラハムの子孫であり、ダビデの子孫であること」を示そうとしていることになります。では、イエスがアブラハムの子孫であり、ダビデの子孫であるとは、どういうことでしょうか。
アブラハムは、「創世記」に登場する、ユダヤ人が「民族の父、信仰の父」と慕い、誇っていた人物です。素晴らしい信仰に生きた人です。そのクライマックスは、息子のイサクを神様に捧げる場面です。神の命令に従い―(それはテストだったのですが)―待ち望んで与えられた息子でも神に捧げようとするのです。そんな彼をご覧になって、神は彼の信仰を喜ばれるのです。アブラハムは、その経験を通して「主の山に備えあり」(創世記22:14)、「神に従う時、神が備えて下さる」という信仰を得るのです。彼は、その信仰によって、神を喜ばせた人です。しかし、アブラハムについてより重要なことは、神がアブラハムと「祝福の契約」を結ばれたということです。神はアブラハムに言われました。「地上のすべての民族は、あなたによって祝福される」(創世記12:2~3)。「あなたの子孫によって、地のすべての国々は祝福を受けるようになる」(創世記22:18)。神学校で受けた「モーセ五書―(『旧約』の最初の5つの本)」の授業の教科書には「『モーセ五書』のテーマは『アブラハムのようであれ!』ということである」とありました。神は彼の信仰を喜び、「アブラハムの故にアブラハムの子孫を祝福する」と言われ、「アブラハムの子孫によって地の民は祝福を受ける」と言われたのです。ユダヤ人にとって「神の救い主(メシア/キリスト)」が登場するなら、「アブラハムの子孫」から出なければならなかったのです。
さらにアブラハムから1000年後、神はアブラハムの子孫に祝福の再確認をされます。その子孫がダビデです。ダビデはユダヤ人にとって「イスラエルに繁栄をもたらした理想的な王様」でした。しかしダビデについても重要なことは、神がダビデに「祝福の契約」を与えられたということです。「わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる…わたしはその王国の王座をとこしえまでも堅く立てる…」(Ⅱサムエル7:12~14)。神は、アブラハムからダビデへと続く流れを選び、「ダビデの子孫を永遠の王として立てて祝福する」と語られました。イスラエルの人々にとって、アブラハムは「信仰の父」であり、ダビデは「理想的な王」でした。やがて国が2つに分裂し、さらには外国によって滅ぼされる。しかしその中で預言者は語りました。「その日、わたしは、ダビデに1つの正しい若枝を起こす。彼は王となって治め、栄えて、この国に公義と正義を行う。その日、ユダは救われ、イスラエルは安らかに住む…」(エレミヤ23:5~6)。そして人々は、やがて「アブラハムへの祝福の約束」が実現し、「ダビデへの神の約束と預言」が実現すること、つまり「アブラハムの子孫として、ダビデの子孫として、民を苦しみから救い出す救い主(王)が登場する」ことを待ち望んでいました。そのような中で、実際にイエスは「アブラハムの子孫、ダビデの子孫」として生まれて来られたのです。この系図は、ユダヤ人に「イエスこそが、『旧約』に預言された、ユダヤ人が長い間待ち望んでいた救い主である―(真の王である)」ということを証言しようとするのです。そのことをユダヤ人に示そうとするなら、系図を示すことが最も相応しい方法だったのです。
 

2)人には主イエスという救い主が必要である。

しかしこの系図には、本来ならば名前が出てこないはずの人達が出て来ます。3節の「タマル」、5節の「ラハブ」と「ルツ」、6節の「ウリヤの妻―(バテ・シェバ)」の4名の女性です。本来ユダヤ人の系図には、女性は登場しないのです。この4人はどういう人達だったのでしょうか。
タマルは、娼婦の姿に身を窶して自分の舅を騙すようにして舅との間に子供をもうけた人です。ラハブは、異邦人の遊女―(娼婦)―だった人です。ルツは、「ルツ記」に登場する人ですが、これも異邦人―(モアブ人)―です。モアブ人は、ユダヤ人がもっとも忌み嫌った民族の1つです。さらに「ウリヤの妻」とは、ご存知の「バテ・シェバ」です。ダビデと姦淫の罪を犯し、やがて自分の夫が戦争で死ぬと、ダビデの妻に納まった人です。さらにユダヤの伝承では、「タマル」も「バテ・シェバ」も異邦人です。要するにこの4人はいずれも、救い主の系図を飾るに相応しいとは言えない人々なのです。なぜマタイは、敢えてこの4人の名前を入れたのでしょうか。
ユダヤ人は「自分達はアブラハムの子孫である」、「神に選ばれた民である」という血筋を誇っていました。そして異邦人を激しく蔑視していました。しかしマタイは、「約束の救い主」に至る系図に、既に異邦人がいることを示し、「ユダヤ人が純粋な民族だから救われる、その血が人々を救う」という考え方を否定しようとしているのだと思うのです。
そしてそれ以上に、4人の女性の登場によってクローズ・アップされるのは、この系図の中にある乱れです。「タマル」の出来事にしても、「バテ・シェバ」の出来事にしても、女性達の罪というよりも、むしろ女性達を取り巻く男達の罪なのです。系図の中心にいるのはダビデです。後の人々は、約束の救い主を「ダビデの子」と呼んで待ち望みました。確かにダビデは、一面ではそのような人です。しかしここには「ダビデはウリヤの妻によってソロモンをもうけ」(6)とあるのです。ウリヤの妻(バテ・シェバ)は、ウリヤの死後、正式にダビデの妻となります。彼女がソロモンを生むのは、正式にダビデの妻になってからです。だからダビデは、「ウリヤの妻」と書かれることに納得がいかない、「バテ・シェバは、私の妻になったのだ」と言いたいところでしょう。しかし、マタイは言うのです。「いや、バテ・シェバは、あなたの妻ではなかった。別の男の妻だった。それをあなたは奪ったのだ」と。それが「ウリヤの妻によって」と言うことです。
系図の中心的な存在であるダビデ。しかしここではむしろ、人間の罪の現実を示すのに中心的な役割を果たすのです。最初の14代は「ダビデの登場」まで、次の14代は「ダビデの後の王達の歴史」です。しかし「旧約聖書」を読むと、その歴史は、罪にまみれた歴史です。その「罪の刑罰」として「バビロン捕囚」があるのです。そして3つ目の区分になると、もう「旧約聖書」の中に名前を探すことさえ出来なくなります。言い換えれば、罪の中に沈んでしまうのです。その意味でこの系図は、「人の罪の歴史」を語るのです。「人間の歴史が―(ユダヤ人が誇っていたアブラハム、ダビデに続く歴史も)―どんなに罪にまみれたものであるのか」、「結局、自分達の力では立つことが出来ない歴史であったこと」を語るのです。
私達も、そうではありませんか。自分の力で祝福の人生を歩むことは出来ない。自分1人の人生さえ、様々に汚しながら、罪を重ねながら、自分自身も、そしてある場合には周りの人をも傷つけながらでなければ歩めない、それが私達ではないでしょうか。しかしだからこそ、自分達では立つことが出来ないからこそ、人間は「救い主」を必要とする、私達は「救い主」を必要とするのです。そのことをこの系図は語ろうとするのです。
この系図(歴史)における救いは、「アブラハムに与えられた『神の祝福の約束』の故にアブラハムの子孫がそれでも守られている」ということです。「ダビデに与えられた『神の約束』の故に、ダビデが罪の男でも、その生涯が守られ、その子孫が守られている」ということです。「神の祝福」だけが、人間の「希望」として描き出されるのです。その意味で、人は神に―(神の祝福に)―結びつかなければならないのです。それが救いです。しかしそれは、ユダヤ人が考えていたように、ユダヤ人の血が人を神に―(神の祝福に)―結びつけるのではないのです。人が立派に生きるから、神に結びつくのはないのです。人は罪に沈んで行くのです。しかしその人間のために、神が備えて下さった方法は、「その人間の罪の歴史を―(私達の罪の歴史も)―引き受けるかのように、低く生まれて下さったイエス・キリストを信じる」という方法なのです。ある牧師が1章23節の「インマヌエル、神われらと共にいます」(マタイ1:23)という御言葉について次のようなことを言っています。「わたしたちが神のもとに登るのではありません。神がわたしたちのところにくだられたのです。神の愛はわたしたちに向けて身をかがめるものです」。人間の歴史の一番低いところにイエスが下って来て下さった。私達の歩みの一番醜いところに、イエスが来て下さったのです。(私も泥沼の中から引き上げてもらいました)。そして私達に神の赦しを取り成して下さったのです。そのイエスを「『私の救い主―(私の罪を赦し、私を神と結びつけて下さる方)』と信じる」という方法、それによって私達は神とつながり、神の祝福に繋がることが出来るのです。それが神の備えて下さった方法でした。イエス様を信じることによって、私達も、アブラハムの子孫に与えられた神の祝福の約束に与る者となるのです。そして、私達がどんな者であっても「神の祝福の約束」が必ず私達を守って行くのです。そのような生涯を歩むことが出来るのです。
 

2.適用~主イエスを王とする

今「私達はイエスを信じる信仰によって、神と結びつき、アブラハムの祝福に与る者になって行く」と申し上げました。では、「主イエスを信じる」とはどういうことなのでしょうか。「『マタイ福音書』は、イエス様を『預言された救い主』として描くと同時に、『ユダヤ人の王―(いや全ての人の真の王)』として描く」と申し上げました。その意味で「マタイ福音書」における信仰とは、「イエスを王として迎える」ということなのです。「王として迎える」とはどういうことでしょうか。
「イエスを『王』とする信仰」、1つだけ…。水曜集会で「創世記」を学んでいますが、5章に「エノク」という人が登場します。「エノクは神とともに歩んだ」(創世記5:24)、「彼(エノク)は神に喜ばれていることが、あかしされていました」(へブル11:5)と記されています。私はこれらの言葉を読んで、この前もご紹介した三浦光世さんの話を思いました。そして「イエス様を『王』として生きる」、その生き方を教えられる気がしました。
三浦綾子さんが、一千万円懸賞小説に応募するために一年がかりで「氷点」を書いていました。小説の締め切りが迫って来た年末、恒例の近所の子供達を家に呼んでのクリスマス会の準備の時期になって、「今年だけはクリスマス会を延期しましょう」と言う綾子さんに、光世さんは言いました。「神の喜び給うことをして、落ちるような小説なら、書かなくても良い」(三浦光世)。「原稿は返って来ない応募規定なの、コピー―(手書きのコピー)―を取らなければならないの」と反論する綾子さんに、光世さんは言いました。「入選するに決まっている原稿のコピーなど要らない」。実は光世さんには、御言葉が与えられていました。「祈って求めるものは何でも、すでに受けたと信じなさい。そうすれば、そのとおりになります」(マルコ11:24)。この言葉を本気で信じたのです。クリスマス会は予定通り行われ、「氷点」は12月31日未明に完成し、2人は神様に感謝を捧げました。「もしこの作品をよしと見た給うならば、世に出してくださるように」。結果的に「氷点」は一等入選しました。光世さんは綾子さんに言いました。「綾子。神を畏れなければならないよ。この土の器も、神が用いようと思われる時には、必ず用いて下さるのだよ」(三浦光世)。
イエス様を「王」として迎え入れるとは―(私も、自分がどれだけそこに生きることが出来るか、自信はないのですが、しかし)―「現実は現実、信仰は信仰」、そういう生き方ではない、現実の問題の只中で「王」の御言葉に信頼して、本気で受け止め、身を低くして聞き従って行く、そういうことなのではないでしょうか。その時に、王だけが、イエス様だけが、与えることが出来る祝福が私達にやって来るのではないでしょうか。私達もイエス様を信じることによって、神の祝福に繋がる者とされる(た)のです。ある牧師が言いました。「イエスをあなたの『王』として生きることを求めなさい。そして人生の中に、問題の中に王なるイエスを迎え入れて歩みなさい。そうすれば王なるイエスがあなたを祝福して下さる。あなたに神の祝福を与えて下さる」。私達も「アブラハムの子孫、ダビデの子孫、イエス・キリスト」を「私の王」として迎えて、その「王」が下さる真の祝福を経験させて頂きましょう。
 

聖書箇所:マルコ福音書15章42~47節  

 「カナダの伝道の様子も聞きたい」というお話を頂きました。少しずつお話しする機会があればと思いますが…。これは先週もお話ししたのですが、私達がカナダで開拓伝道を始めようと決めた時、具体的な見通しは何もありませんでした。そのような中、神様が送って下さった兄弟姉妹方に支えて頂き、家庭集会から始めて一歩一歩前に進んで行きました。しかし依然として、「これからどうなるのか」、はっきりした道筋は見えなかったのです。しかし実はその時は、カナダの教会会議が「これからは協会会議も開拓伝道に力を入れて行こう」と決めた時だったようです。教会会議の「伝道と教会成長委員会」の委員長が私達の前に現れて、私達を励まし、様々に手を貸してくれ、私達の進むべき道筋を導いてくれました。そして2年後、家庭集会から始まった集会は、教会会議の35番目の教会として迎えられ、公教会として活動が出来るようになりました。彼のことを思うと、神様が私達のために送って下さった神の器だったな、と思います。  
神様は、私達に様々な慰めや励ましを与えて下さいますが、しばしば人を通してそれらの御業を為さるのではないでしょうか。そして今日の箇所でも、神様は、イエス様の十字架で悲しみにくれる女性達を励ます器を送っておられます。アリマタヤのヨセフという人です。
 先々週、先週とイエス様の甦りの記事を学びましたが、実はその前に書かれてある「イエス様の葬り」の記事を取り上げることが出来ないままでした。そこで、時間的には前後するのですが、今日は「イエス様の葬り」の記事を学びたいと思います。「内容」と「メッセージ」とお話しします。
 

1.内容:主イエスを埋葬するアリマタヤのヨセフ

 十字架のイエス様が息を引き取られたのは、金曜日の午後3時でした。ユダヤの1日は日没―(午後6時)―から始まります。「モーセの律法」によれば、処刑された人の体が木につるされていたならば、その体は、その日の内に取り除かれ、埋められなければなりませんでした。ローマ占領下では、その律法は十字架刑に適応されました。しかし多くの場合、犯罪人は共同墓地とも言えないような所に投げ入れられるのが関の山でした。それ以下の酷い仕打ちを受けることもありました。
しかしイエス様のお体を、そのような惨めな取り扱いから救う人物が現れます。それが申し上げたアリマタヤのヨセフです。47節に、埋葬の様子を見ていた婦人達のことが書いてあります。本当は彼女達こそがイエス様の埋葬をしたかったことでしょうが、それは出来ませんでした。議員であったアリマタヤのヨセフのように、総督ピラトに直談判して、「死体の引渡しを願い出て、聞き届けられる」等という力は、彼女達にはありませんでした。何よりガリラヤからやって来た彼女達は、ここに墓を持っていませんでした。アリマタヤのヨセフは、エルサレムの近くに墓を持っていたのです。彼は、アリマタヤという所の出身でした。アリマタヤは、エルサレムから西に40~50kmの所にあった町のようです。しかし、彼は議員になってからでしょうか、その前でしょうか、エルサレムに移り住んでいたのです。そして高齢になった彼は、自分のために墓を造っていたのでしょう。「マタイ福音書」には「…岩に掘った自分の新しい墓の中に納め…」(マタイ27:60)とあります。その新しい墓に、引き取ったイエスのお体を納めたのです。通常、死体には、香料と香油で埋葬の処置が施されますが、安息日の始まる日没が迫っていたので、それは後に延期されたようです。それでも「ヨハネ福音書」によれば、同じく議員であった―(隠れ弟子の)―ニコデモが、香料を持って駆けつけています。その香料で応急処置をして、イエス様のお体を墓に納めたのでしょう。
しかしヨセフは、なぜ、このようなことをしたのでしょうか。「ヨハネ福音書」には、「…イエスの弟子で…あった…」(ヨハネ19:38)とあります。彼は、どのような形だったのか、イエス様の弟子だったのです。イエス様の言葉を、自分を生かす言葉、自分を愛して下さる神様の言葉として聞いていたのではないでしょうか。そのようにしてイエス様を慕っていたのです。43節に「ヨセフは、思い切ってピラトのところに行き、イエスのからだの下げ渡しを願った」(43)とあります。「新共同訳」は、「勇気を出してピラトのところへ行き…」(43)と訳しています。そのように彼の行為は、勇気の要る行為でした。十字架に架けられた者の遺体は、ローマ政府のものでした。その遺体を下げ渡してもらうことが出来るのは、原則として身内だけだった、と言われます。ヨセフのような身分のある人でも、ピラトからイエスの遺体を下げ渡してもらうためには、自分とイエスとの関係を「私もイエスの弟子でした」と説明しなければならなかったと思います。イエスは、ユダヤ社会全体から寄って集って十字架に架けられた人です。だからその人との関係を告白し、遺体を引き受け、自分の墓地に葬ることは、きっと彼の社会的な名誉や、地位を傷つけることだったと思うのです。しかし彼は、犠牲を覚悟して、勇気を振り絞ってこのことを行ったのです。
しかし一方で、先の「ヨハネ福音書」には、「…イエスの弟子ではあったがユダヤ人を恐れてそのことを隠していたアリマタヤのヨセフが…」(ヨハネ19:38)とあるのです。議員という社会的な立場が邪魔したのかも知れません。表立って弟子としての活動は出来なかったのでしょう。「ルカ福音書」には「…同僚の決議や行動には同意しなかった…」(ルカ23:51)とあります。「彼は、議会で行われた『イエスの死刑判決』に賛成はしなかった」と言うのです。しかしだからと言って、議会において反対の声を上げたかと言うと、そうではなかっただろうと思います。議会は「全会一致」でイエスの死刑を決めているようです。彼は、心の中では反対を呟きながら、しかし何も発言しなかったのかも知れません。あるいは判決に加わることを避けて、議会を欠席したかも知れない。いずれにしても「命をかけてイエス様を守った」というようなことをした訳ではないのです。
ではなぜ、この時、彼はこのようなことが出来たのでしょうか。「マルコ福音書」は、「みずからも神の国を待ち望んでいた人であった」(43)と説明しています。彼は当時の社会に在って、自分の無力さを思うこともあったでしょう。社会の不正に耐え難い思いをしながら、しかし、何も出来ない自分に歯がゆい思いをしていたかも知れない。しかし、だからこそ「神の国」を待ち望んでいたのです。それはつまり、やがて神が全てを支配なさる時が来ることを信じ、待望しつつ、「今、自分の為し得る限りにおいての正しさ、優しさ、神への愛」に生きようとしていたということではないかと思います。そのヨセフは、恐らくこの時、既に神様の支配の中に入り、神様の御腕に支えられていたのです。支えられていたからこそ、この場面で勇気を出すことが出来たのです。そしてここにいる女性達、特に我が子の悲惨を見つめ続けて来た母マリヤの悲しみを受け止め、彼女達を慰めるような業を為すことが出来たのです。ヨセフの登場によって、彼の為した業によって、女性達は、どれほど慰められたでしょうか。
 

2.メッセージ:主イエスの埋葬が語る希望

この個所から2つのことを学ぶことが出来ると思います。

1)葬られる時にも主にお会い出来る

この箇所からはヨセフの姿から受けるメッセージが大きいのですが、その前にこの箇所が伝えたい一番のメッセージ、実はそれは「イエスが葬られた」ということです。この箇所は「イエスの葬り」を報告するのです。
「イエスが葬られた」ということは何を意味するかというと、「イエスが確かに死んだ」ということです。色々な形で教会が攻撃される時、繰り返し持ち出されたのが「イエスの復活」を否定することでした。その中には、「イエスは、実際に死んだのではなくて、気絶していただけだったのではないか」とか、「半死にだったのではないか」というような意見があったのです。ある人は「気絶していたイエスが墓の中で意識を取り戻したのだ」と言いました。しかし「福音書」は、「イエスは葬られた、完全に死んだのだ」ということを、この箇所を通して語るのです。
それは、私達にとって何を意味するのか。それは「イエス様が私達と同じように葬られて下さった」ということを意味するのです。イエス様は、私達と同じ「人」となって下さいました。しかしイエスのご生涯は、あまりにも崇高で、私達の生涯とは基本的に違うような気がします。いや、違うでしょう。「イエス様に従い、ついて行く」と言っても、「距離があり過ぎて、とても出来ない」という印象を持つことが多いのではないでしょうか。イエス様と私達と重なる部分が見えないように思うのです。
しかし「イエスが死んで葬られた」、これだけは私達の誰にでも無条件に重なることです。CSルイスが言っています―(少し短く言い換えてご紹介します)。「神であるイエスは、本来死ぬ必要のない方である。あえて言えば、死ぬことが出来ない方であった。でも人間になれば死ぬことが出来る。イエスは、私達が死に際してもイエスの御跡を見ることが出来るように、イエスと会うことが出来るように、死んで下さった」。イエスは本当に死んで、葬られて下さったのです。私達も皆、やがて死ぬ時が来ます。私達は、天の御国の復活に希望を置いていますが、その前に必ず葬られるのです。死の時に「一番恐ろしいのは孤独だ」と聞いたことがあります。しかし、イエス様が葬られて下さったから、私達はそこでも恐れる必要がない。そこででもイエス様とお会いすることが出来るに違いないのです。イエス様と一緒に葬りを通ることが出来るのです。イエス様がきっと手を引いて下さることでしょう。「イエスも死んで葬られて下さった」、このことの中に、私達は慰めを見出すことが出来るのです。葬りの中でもイエス様が待っていて下さるのです。何と感謝なことでしょうか。
 

2)神の国を待ち望む生き方に希望がある

2番目のメッセージはヨセフの姿から教えられることです。
ヨセフは、為し得る限りの勇気を振り絞ってイエス様を葬りました。彼の話は特別かも知れませんが、しかしそれは、神様が彼を支えておられ、彼に勇気を与えて下さったからでした。しかしそれは、彼の側から言えば「神の国を待ち望んで生きていた」ということになると申し上げました。43節の「みずからも神の国を待ち望んでいた人であった」(43)を、「新共同訳」は「この人も神の国を待ち望んでいたのである」(43)と訳します。「この人も」ということは、「マルコ福音書」を書いたマルコも、マルコの背後にあった教会も、同じ思いであったということです。つまり、「それが信仰者の生き方だ」と言おうとしているのではないでしょうか。
では、「神の国を待ち望む」とはどういうことなのでしょうか。それは、世の中は、神様の具体的な働きが見えないように感じることがあります。身の回りの問題は、なかなか解決しません。無力感に襲われます。しかしそれらは、決してそのまま終わるものではない、やがて全ての問題に本当の解決が与えられる時が来るのです。「神が大いなる御力をもって世を支配なさる国」が来るのです。「神の国を待ち望む」とは、先にも申し上げたように、それを待望しつつ、ヨセフのように、自分の出来る範囲で、精一杯の正しさに、優しさに、愛に、そして何より神様への信仰に生きることではないでしょうか。その時、弱い私達も、神の御手の中で、神様の力に生きる恵みに与ることが出来るのではないでしょうか。
話が飛躍しますが、先日、何気なく「百万人の福音」をめくっていたら1つの言葉に目が留まりました。「キベヘイトロ、コロび申さず候」、「ペトロ岐部は決して信仰を捨てなかった」という言葉です。ペトロ岐部のことは以前も少しお話ししましたが、大分の国東半島の出身のキリシタンです。日本が徐々にキリスト教迫害の波にもまれて行く中、彼は日本を追放された宣教師と共にマカオへ渡り、インドのゴアに行き、さらにパレスチナに行き、聖地エルサレムを見て、そしてローマまで行き、ローマで司祭に叙階されました。司祭に叙階されると、キリスト教迫害の嵐が吹き荒れる日本に、日本のキリシタン達のために帰ることを希望し、苦労して迫害下の日本に帰って来ます。そして長崎から東北まで、あちこちに潜伏しながらキリシタン達を励まして歩きます。ついに仙台で捕らえられ、江戸に送られ、江戸で穴吊るしの刑に処せられます。穴吊るしに処せられている間も、同じように穴吊るしで苦しんでいるキリシタン達を一生懸命励ましました。あまりにも励ますものだから、彼は穴から引きずり出され、処刑されるのです。彼の取り調べに当たった井上筑後守が記録した言葉が先にご紹介した「キベヘイトロ、コロび申さず候―(『ペトロ岐部は決して信仰を捨てなかった』)」という言葉でした。ペトロ岐部への畏敬の念さえ感じさせる言葉です。
私は前から不思議でした。なぜ彼は(彼ら)は殉教することが出来たのか。しかし、このメッセージを準備して少し分かったような気がします。「神の国の到来を待ち望み」、置かれた場所で、精一杯の正しさに、愛と優しさに、神様に対する信仰に生きようとした彼は、既に神の御手の中にあり、神が彼を支えられ、励まされていたのではないかと思うのです。それで彼は、あのような生き方が出来たのではないか、そんなことを思ったのです。
話が大きくなりましたが、出来る範囲で良い、「神の国の到来を待ち望み」、精一杯の正しさ、優しさ、神への愛に生きようとする者は、神が御国の中に引き入れ、力に与らせて下さるのではないでしょうか。
こんな話もあります。あるところに1人の神を信じる男の子がいました。その子の妹があるとき重い病気にかかりました。女の子が助ける唯一の道は、同じ病気にかかった誰かから、つまりその病気に対する免疫を持つ人から血液をもうことでした。男の子は、2年前に同じ病気にかかって、癒されていました。2人の血液型は特殊なものだったため、理想的な血液提供者は、この男の子でした。医者が尋ねました。「妹のメアリーに君の血をくれないか」。男の子はためらいました。顔は青ざめ、下唇が震えています。でも次の瞬間、彼は笑顔で言いました。「いいよ、妹のためだもん」。間もなくして、2人の子供はストレッチャーに乗せられ、治療室に運びこまれました。2人とも黙ったままでしたが、目が合った時、男の子はニコッとしました。でも、彼の腕に看護婦が注射針を差し込んだ瞬間、少年の顔から笑顔が消えました。男の子は、細い管の中を流れて行く自分の血液をじっと見つめていました。やがて震える声で尋ねました。「先生、ぼくいつ死ぬの」。この男の子は、自分の血を妹にやることは、自分が死ぬことだと考えたのです。それにも拘わらず、血を上げることを決断したのです。
私は、この話の背後にも、神様の励まし、支えを感じます。神様は人を用い、その人を御手の中に引き入れ、励まし、勇気を与え、力を与え、神の業に用いられる、誰かを慰める器とされるのではないでしょうか。
私達も「神の国を待ち望む」生き方がしたいと願います。つまり、難しいですが、置かれたところで、精一杯の正しさに、愛に、優しさに、神への愛と信仰に、生きる、そんな歩みが出来れば、と願います。その歩みの中で、信仰において弱い私達も、神が御業のために―(誰かを慰め励ます器として、神様の栄光を表す器として)―用いて下さるのではないでしょうか。そのように生きる者を、神は祝福して下さるのではないでしょうか。
アリマタヤのヨセフは、主の葬りをしました。彼の墓は、イエス様の復活の舞台となり、そしてその同じ墓にアリマタヤのヨセフは、やがて身を横たえて眠りについたのです。彼こそが、「甦り」に対する、誰よりも強い希望と確信を持って眠りにつくことが出来た人であったと思います。
 

 

聖書箇所:マルコ福音書16章9~20節  

 カナダにいる時のこと、ある問題で私は混乱していました。そんな時、珍しい方から電話を頂きました。その方は、開口一番こう言われました。「先生の一番好きな御言葉は何ですか」。突然の質問に一瞬詰まったのですが、思い浮かんだのは「イザヤ書」の言葉でした。「恐れるな。わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ41:11)。「この言葉が好きです」と申し上げました。そうしたら「なぜ好きなのですか」と言われました。それで私は「この御言葉によって励まされて来ました」とお話ししました。しかし電話を切った時に「まるで神様が『わたしが共にいる』ということを教えるために掛けて下さった電話のようだったな」と思ったのです。
私達には、いつも何らかの悩み―(問題)―があるのではないでしょうか。しかし、そこを乗り越えて行く力は、「『復活のイエス様が私と共に生きていて下さる。イエス様が働いて下さる』ということを信じることに懸かっている」と言えるのではないでしょうか。そのように信じるためには―(もちろんそれは「聖霊の働き」に拠るわけですが、しかし私達の側の問題としては)―「主を経験し、信仰が強められることを願」そのことが大切ではないかと思います。今日も、「内容」と「適用」とお話しします。

1.内容~主の復活を信じなかった弟子達

復活のイエス様に初めて会っているのは、マグラダのマリア(達)です。しかし、マリヤがそのことを弟子達に伝えたのに、11節「ところが、彼らは、イエスが生きておられ、お姿を見た、と聞いても…信じようとはしなかった」(11)。「ルカ福音書」では、イエスの十字架に絶望して故郷のエマオに帰り行く2人の弟子が、その途上でイエス様に出会っています。イエスに出会った彼らは、急いでエルサレムの弟子達の隠れ家に取って返し「イエス様に出会った」と言います。しかしこの13節「彼らはふたりの話も信じなかった」(13)。しかし、そこへイエス様が現れなさったのです。
何度かお話ししていますが、私は「Heaven Must Wait-(天国は待っているに違いない)」という映画を見たことがあります。イギリスの田舎の村にある使われなくなった教会に1人の不思議な少年が住んでいました。その村に1つの事件が起こるのですが、その少年の存在が村の人々の心に働いて、その事件が無事に解決します。村の皆も喜んで、村全体が幸せな気分に包まれます。ところが、皆が喜んでお祝いの準備をしている時に、1人の嫌なお爺さんとその孫が教会の地下にもぐって財宝探しをしていました。ところが地盤が緩んで、孫が生き埋めになってしまいます。そこに、教会に住んでいる少年が駆けつけて、土砂の合間をぬって向こう側にもぐり込み、孫をこちら側に押し出して助けます。しかしその時に再び土砂が崩れて、今度はその少年が生き埋めになってしまいます。大人達が駆けつけて、必死になって彼を助け出しますが、すでに彼の呼吸は止まっています。救急隊員が来て人口呼吸を繰り返しても、結局、息を吹き返さずに、彼は遺体を入れる黒いビニールのバッグの中に入れられてしまうのです。彼は、村人にとって大きな存在でした。村人は「息を吹き返すのではないか」とバッグを見つめ続けます。でも何も起こりません。村中が喜んでいたのに、彼の死は、村の人々に何とも言えない悲しみを与えます。村中が意気消沈しています。映画を見ていた私も本当に悲しい、「これで終わるのだろうか」という感じでした。しかしその少年は、実は天使だったのです。彼は死んで、天使長に会います。天使長が聞きます。「このまま天使に戻りますか。それとも人間として生き返りますか」。少年は答えます。「彼らが僕を必要としているから、僕は彼らの所に帰ります」。そう言って天使長と別れた瞬間、黒いビニールに覆われていた彼の体は、黒いカバーを突き破って生き返るのです。それを見た村人の喜びがどれ程大きかったか、見ている私も感動と興奮に包まれました。私は復活のイエス様に出会った時の弟子達の衝撃、その一端に触れた感じがしました。14節はさらっと書いてありますが、弟子達にはきっと大きな衝撃だったと思います。
しかし、なぜ彼らは―(イエス様が現れる前)―マグダラのマリヤの言うことも、2人の弟子の言うことも信じなかったのでしょう。それは、絶望が彼らの心を閉ざしていたからです。「死の力―(死の現実)」の方が「イエスのどんな約束の言葉」よりも強いように感じられたからです。今もそうです。全ての人を捕らえて、抑え付けているのは「諦めの力」です。彼らは絶望に縛られていました。「諦めの力」に捕われている時、きっと私達は「主」を認めることが出来ないのです。
しかし、彼らの前に現れたイエスは、「あなた方の不信仰は分かる」とは言われなかったのです。14節を言い換えると、「あなた方の不信仰は間違っている、信じる者になれ」と言われたのです。イエス様を見捨てて逃げた弟子達でした。彼らは弱かった。しかしイエスは、彼らの弱さを良く分かった上で、でも「弱いから不信仰でも良い」とは言われなかった。尚も彼らに期待して「信仰に生きるように」と招かれたのです。
しかし平行個所である「マタイ28章」には「11人の弟子たちはガリラヤに行き、イエスが指示しておかれた山に登った。そして、イエスに会い、ひれ伏した。しかし、疑う者もいた」(マタイ28:11)と書いてあるのです。「復活のイエス様に会い、イエス様を見たのに、(尚も)疑う者がいた」と言うのです。彼は何を疑ったのでしょうか。恐らく「イエス様が甦ったと言っても、我々といつまでもいて下さるわけではないだろう。天に帰ってしまわれる。後はもう仕方がない」、そういう意味での「疑い」だったのではないでしょうか。つまり「復活のイエスの力に生かされて生きる現実がある、見えないイエス様と共に生きて行ける現実が始まる」、そういうことを疑ったのではないかと思います。それは、丁度私達が「イエス様を信じると言いながら、『今日、イエス様が私と共に生きておられる、今もイエス様が働いて下さる』、それを疑う」、それと同じだと思うのです。私達も、神が今、私に働いて下さることを信じなければならないと思います。
しかし「見ても疑う」ということは、「『見れば信じられる』というものでもない」ということではないでしょうか。言い換えれば、「生ける主を(神を)信じる」ということは、もっと深い関わり、「本当に神に頼って生きる、神の言葉を握って生きる」、そういった関わりの中で生まれて来るものではないかと思うのです。だから、疑いの中にいる彼らにイエス様は、「全世界に行って、すべての造られたものに福音を宣べ伝えなさい」(15)と宣教命令を与えられるのです。イエス様の戒めに生きてみる、その深い関わりに生きることを促されたのです。イエスはさらに言われます。「信じてバプテスマを受ける者は、救われます。しかし、信じない者は罪に定められます。信じる人々には次のようなしるしが伴います…病人に手を置けが病人はいやされます」(16~18)。「信じる者には…しるしが伴う」と語られます。そして20節に「そこで、彼らは出て行って、至る所で福音を宣べ伝えた。主は彼らとともに働き、みことばに伴うしるしをもって、みことばを確かなものとされた」(20)とあります。イエス様の「戒め」に生きる中で、イエスが約束されたことを、ペテロが、パウロが、初代教会が経験して行ったのです。「使徒行伝」をドラマ化した「AD」というドラマにこんな場面があります。イエス様は、会堂司ヤイロの娘を癒される時、「タリタ・クミ―(少女よ…起きなさい)」(マルコ5:41)と言われました。後にペテロが、ヨッパという町で「タビタ」という女性を癒す時、ペテロはイエス様のことを思いながら「タビタ・クミ、タビタ・クミ」と呼びかけるのです。そうすると「タビタ(ドルカス)」が生き返るのです。そういうことを彼らは経験して行ったのでしょう。
この個所のポイントは、まず「イエスの復活」を伝えようとしたことです。「イエスは死の力を打ち破られた。イエスは今生きておられる」、そう語り、「試練の中にある人々に『主に在って望みに、信仰に生きるように、諦めに捕われないように』と励まそうとした」ということがあります。しかしもう1つのポイントは、「不信仰な弟子達に、イエスが宣教の働きを委ねられた」ということです。16節に「信じない者は…」(16)とありますが、弟子達は「私達は信じている、あなた達は信じていない、だから滅びるのだ」と、そんな高ぶった思いは持てなかったと思います。むしろ「信じない者とは、誰よりも自分達であった」という思いを持って語ったはずなのです。「そんな私も、主の憐れみによって神の恵みを経験する者にされているのだ」、「だから、あなたにも信じる心が与えられる。あなたも神の恵みに与れるのだ」、そう語ったはずです。いずれにしても信仰の弱い弟子達は、イエス様の宣教の命令に従うことによって主の働きを、「しるし」を経験し、信じる者になって行ったのです。ある神学者は言います。「信仰は服従の行いによって生まれ、伝道の過程において確かにされる」。
 

2.適用~復活の主を信じ主と共に生きるために

この個所の信仰生活への適用は2つあると思います。

1)諦めを生きない

この個所は、弟子達が主の復活を信じようとしなかったことを強調しています。弟子達は、望みを持つことが出来ませんでした。だから心を閉ざして信じなかったのです。それは逆に言うと「信じて生きるとは、希望に生きること、諦めの虜にならない」ということではないでしょうか。「主がおられる、だから主に在って道は開ける」ということを信じることです。神は聖書を通して「あなたが歩む一歩一歩、わたしはあなたの前に道を開く」(詩篇37篇23節)と言われます。それを信じるのです。私達が信じるならば、「信じる者は『しるし』を見る」と主は言われる。私達は、蛇はつかまない。そんなことをする必要はないからです。
しかし、私達もすでに「しるし」を見ています。17節に「新しいことばを語り」(17)とあります。原意は「新しい舌で語る」です。「ヤコブ書」は「人間が最もコントロールが出来ないのが舌だ」と言います。しかし「ヤコブ書」はまた「私達は新しい舌を与えられたのだから、その新しい舌に生きよう」と呼びかけます。時に人を傷つけ、人を不快にするもの、そのような本来「罪の器」である舌で、私達は神を賛美するようになっているのです。主に在って慰めを語り、祝福の言葉を語りかけるようになっているのです。そこに、すでに神の「しるし」が私達にも現れているのです。しかしそれだけではなく、私達がイエスを信じて、神の中に希望を持って生きるなら、人生の様々な場面で神の介入を見せられて行くはずです。
インターネットで読んだ話です。「ある教会の長老(役員)の奥さんが80歳を越えてから教会に来られるようになりました。長老は既に亡くなっていました。ご夫妻には子供がなく、養女に養子を迎えて、その方々が家を継いでいました。養女も、養子の方も教会員でした。長老の奥さんは「死んだら教会で葬式をされることになるから、それなら信仰を持ちたい」と言って教会に来られたそうです。しかし、彼女の祈りは、「寝たきりにならないように」ということでした。なぜなら「寝たきりになれば仲の悪い養女の世話にならなければならない。それだけは金輪際お断り」ということでした。しかし数年後、彼女は脳梗塞で寝たきりになりました。養女の方は、食事から下の世話まで実によくお世話されました。だんだん認知症が進んで行った奥さんは、ある日、養女の方に言われたそうです。「すまないね。私は年をとってボケてしまって、あんたを産んだ時のことを思い出せないんだよ」。神様は、同じ家に住みながら40年も仲良く出来なかった2人に、本当の親子になるという素晴らしい和解を与えて下さったそうです。「しるし」です。
私の話ですが、がカナダで開拓伝道をしようと決めた時、何の見通しもありませんでした。しかし神に望みを置きました。ところが神様は、その私達を知っておられたのです。直ぐに教会会議の伝道委員長を送って下さり、彼が私達の歩む道筋を全部作ってくれました。家庭集会が公教会になって行った歩みを思う時、奇跡を経験させてもらったように、今でも思います。
確かに私達には問題が尽きません。しかし聖書は語ります。「それゆえ、主はあなた方に恵もうと待っておられ、あなた方をあわれもうと立ち上がられる…幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」(イザヤ30:18)。問題の中、悩みの中で諦めに捕われない、御言葉を握りしめ、「しるし」を期待して歩いて行く、それが主と共に生きる在り方だと思います。
 

2)主の宣教命令を生きる

第2番目に「主の宣教命令を生きること」、それが私達の信仰を確かにする方法だと、この個所は語ります。なぜそうなのでしょうか。イエス様は「全世界に出て行き、すべての造られた者に、福音を宣べ伝えなさい」(15)と言われました。以前、水曜集会で勉強した「人生を導く5つの目的」にはこうあります。「神が最も気に懸けおられるのは、ご自身がお造りになった全ての人々の救いです。神を愛する者は、そのことに関心を持つべきです」(リック・ウォレン)。神が願っておられること、つまり「福音を宣べ伝えなさい」という「主の戒め」に参加して行く時、私達は神様の「同労者」になって行くのです。私達も、一緒に苦労してくれる人を有り難く思い、心を分かち合って行くのではないでしょうか。神様も同じだと思うのです。「私達が神の同労者になって行く時、神のことがもっと分かる、神を経験する、信仰が確かにされて行く」というのは、そこに理由があると思うのです。森繁昇さんも、困難はあったそうですが、「伝える中で信仰が強められて来た」と言いまいた。その意味で私達は、信仰深いから伝道して行くのではないのです。イエス様は不信仰な弟子達を宣教に送り出されたのです。ある意味で私達も、神を経験するために伝道するのです。
「全世界に出て行き…」(15)と言っても、私達が全世界に出て行き、全ての人に福音を伝えるのではありません。私達は、身近な人、手を伸ばすことの出来る人にイエス様を伝えて行けば良いのです。「伝える」と言っても難しく考える必要はないと思います。ある牧師が次のように言っておられます。「現実のうっとうしいあれこれの出来事に足をつっこみながら生きている信仰が『証し』です。苦しいと言ってうめき、悲しいと言って泣き、自分の弱さに何回もつまずきつつ、神によりすがって生きていく、それが私達の信仰生活です…それはしばしばカッコ悪いことです。それで良いのです。どんなにカッコ悪く、つまずこうが叫ぼうが、その人の支えられている土台というものはあらわれてくるのです」(小島誠志)。私達が、本当に神様に信頼と希望を置いて生きて行く時、あるいは神に感謝して生きて行く時、神様のことが証しされるのです。そして示された時には、自分が憐れまれたこと、赦されたこと、助けられたこと、そういう恵みを語る用意が出来ていれば良いのではないでしょうか。昨年、召天された兄弟が、ある方の悩みを見て「教会に来て見ませんか」と声をかけておられたと、葬儀の時に、関係者の方に伺いました。自然体で証しをしておられたのだな、と深く教えられました。
「人生を導く5つの目的」は言います。「もしあなたが…与えられている使命に全力を注ぐなら、ほとんど誰も経験したことのないような神の祝福に与ることが出来るのです」(リック・ウォレン)。「神を経験する」というのです。楽しみではありませんか。そして、天国に行った時は、誰かがあなたのところにやって来て「あなたがイエス様を伝えてくれたから、私もここに来ることが出来ました、本当に有難う」と言ってくれて、一緒に喜ぶことが出来たら、私達は自分の人生の軌跡(足跡)にどれだけ満足するでしょうか、私達の喜び(祝福)はどれだけ大きいでしょうか。
まとめます。主は甦られました。今私達と共に生きておられます。それを信じて、諦めに生きるのではない、主に在る希望に生きましょう。そして希望を語って行きましょう。そこに主と生きる生き方があるはずです。
 

 

聖書箇所:マルコ福音書16章1~8節  

 ご一緒に「主のご復活」をお祝い出来ること、感謝致します。 
教会の本棚に「キリストと出会う」という本がありました。色々な方が、どのようにしてキリストに出会ったかが書かれていましたが、印象的だったのは、先日召された加賀乙彦という方の話でした。既に信仰には惹かれておられたようですが、洗礼を受けるかどうか迷っていた時、神父さんに相談したら「あなたがキリスト教とイエスについて抱いている疑問を、すべて私にぶつけてごらんなさい」と言われ、3日間、朝から晩までずっと疑問をぶつけたそうです。3日目に「もう質問することがなくなった」と思った時、曇っていた空が裂けて、日差しが庭をパッと明るくしたかと思ったら、光が心の奥底まで照らし、心も体も軽くなってフワフワ浮き上がるような気がしたそうです。彼は神父さんに言いました。「何だか、気持ちがすっかり軽くなりました。嬉しくてなりません」。それを聞いた神父さんが、「洗礼を受けて良いですよ」と言ったそうです。それがキリストとの出会いだったと書いてありました。イエス様が生きて、働いておられますから、私達も色々な出会いを経験させて頂けるのだろうと思うことでした。
今日の箇所は、イエス様の復活の箇所です。イエスは金曜日の午後3時頃、十字架上で息を引き取られました。ユダヤの1日は、日没から始まります。安息日(土曜日)の始まりが3時間後に迫っていました。アリマタヤのヨセフの配慮によって、イエス様は応急処置のような埋葬の処置を受けて、ヨセフの墓に葬られました。「15章47節」には「マグダラのマリヤとヨセの母マリヤとは、イエスの納められる所をよく見ていた」(マルコ15:47)と記されています。その女性達が16章にも登場します。「さて、安息日が終わったので、マグダラのマリヤとヤコブの母マリヤとサロメとは、イエスに油を塗りに行こうと思い、香料を買った。そして、週の初めの日の早朝、日が上ったとき、墓に着いた」(16:1~2)。女性達の名前が繰返し記されているのは、証人の名前をしっかりと記して、「確かにイエスは十字架で死なれた。葬られた。しかし、その死なれた、葬られたイエスが、確かに復活されたのだ」ということを伝えたいからだと思います。
彼女達は、土曜日の日没後、安息日が終わるのを待って、店が開くとすぐに香油を買い求めたのでしょう。そして―(安息日が終わったと言っても、夜に墓に行っても真っ暗で何も出来ませんから)―日曜日、夜明けと共に墓に急いだのです。彼女達の切なる願いは「イエス様の体に香油を塗って丁寧に葬りたい」ということだけでした。だから墓の入口に大きな石が置かれていることも、行く途中で気づいた、そこまでは意識していなかったのだろうと思います。ところが墓に行ってみたら、すでに石は脇に転がしてありました。そして中に入ってみたら「真白な長い衣をまとった青年―(天使)」が居て、メッセージを伝えました。「十字架につけられたナザレ人イエス…はよみがえられました。ここにはおられません…行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます…そこでお会いできます』とそう言いなさい」(6~7)。
ところが、ここには、その次に「女性達は喜びに溢れて、万歳、万歳と言いながら墓を出て行った」とは書いていないのです。「墓…から逃げ去った。すっかり震え上がって、気も転倒していた…そしてだれにも何も言わなかった。恐ろしかったからである」(8)とあるのです。私達には、なぜ彼女達が喜びに溢れたのではなかったか、なぜ恐怖に捕らえられたのか、はっきりとは分かりません。ただ、想像することは出来ます。
今は遺体を火葬にしますが、私の子供の頃は、まだ土葬でした。丸い桶型の棺(座棺)に遺体を座らせて、蓋を釘で打って、墓場に掘られた穴の中に埋めました。例えば、次の日に何かの理由で穴を掘って棺桶を開けてみたら、遺体が無くなっていたら、やはり恐れるでしょう。でも、彼女達の場合、それだけではなかったと思うのです。墓の入口の石について「あれほど大きな石だったのに、その石がすでにころがしてあった」(4)とあります。これは「神が石をころがして下さっていた」ということを間接的に表現した言葉です。彼女達は「神の超自然的な働き」の世界に自分達が踏み込んだのを感じたのではないでしょうか。そして天使との出会い。「十字架で死んだイエスが甦った」とのメッセージを聞いたのです。そして実際に遺体がなくなっていたのです。死が打ち破られた、自分達の理解出来ないことが起こった、神がそれをされたのではないか。そのようなことを肌身に感じた時、喜びもあったかも知れないけれど、全身を揺さぶられるような衝撃、驚き―(ある種の恐れ)―に捕われたのではないでしょうか。
ある本にこんな話がありました。1人の女の子が大きなバイクの近くで遊んでいました。ところが何かの拍子でそのバイクが彼女の上に倒れて来ました。バイクの部品が彼女の頭に食い込んでいるのが見えました。血が噴き出します。クリスチャンの両親は、助けを求めて神様に叫びました。「助けて下さい!」。女の子が病院に担ぎ込まれて検査を受けた後、医者が言いました。「お子さんが生きておられることは驚くべきことです。この傷があと髪の毛数本分深かったら、脳に穴が空いていたことでしょう」。少女は13針縫いましたが、その日の内に家に帰ることが出来たのです。両親は言っています。「私達は、主のご臨在と御力を経験して、絶対的な畏敬の念に打たれ、言葉を無くしていた」。本当に人間の思いを越えた神の御業に触れた時、私達は言葉を失うのかも知れません。しかも、人にとって絶対的なもの、もうどうしようもないもの、そう思われていた死が打ち破られたというのです。「驚きを越えた畏れ」が大きかったかも知れません。「ここに書いてある、女性達の『恐ろしかった』も、『畏れ―(畏敬の畏の「畏れ」)』 のニュアンスだ」とある学者は言います。
しかし、私達にとって重要なのは、「恐れの理由」よりも、8節が「恐ろしかったからである」で終わっていることです。どういうことかというと、聖書をお持ちの方は、「マルコ福音書16章」を開いて頂くと、今日の箇所の次の箇所、16章9~20節は〔かぎ括弧〕で括られているのがお分かりになると思います。なぜ〔かぎ括弧〕で括られているかというと、「この部分はおそらく『マルコが書いたオリジナル』にはなかったであろう。後からマルコの弟子によって―(あるいは初代教会の指導者か誰かによって)―書き足された部分であろう」という意味で〔かぎ括弧〕で括られているのです。(もちろん、「だから9~20節は大事でない」ということでは決してありません。神様の摂理の中で書き足され、「聖書の大事な言葉」として「マルコ福音書」に保存されたのです。だからこの部分も大切な聖書の御言葉です。しかし、オリジナルにはなかっただろうと思われます)。では、なぜ書き足されたかというと、8節の「恐ろしかったからである」で「福音書」が終わるのは、「復活のイエス様が弟子達の前に現れる場面」がなければ、終わり方として落ち着きが悪いと思われたからでしょう。
しかし問題は、「なぜマルコは、8節で自分の『福音書』を終えたのか」ということです。私達が読んでも、「恐ろしかったからである」で終わるのは落ち着きが悪い。ある人は「ルカが『ルカ福音書』と『使徒行伝』を自分の本の『前半』『後半』として書いたように、マルコも『後半』に当たる本を書こうとしていたのではないか」と考えます。そうかも知れません。あるいは、何らかの理由でこれ以上書けなかったのかも知れません。だから、そういう可能性も残した上で、しかし、もしマルコが8節で自分の「福音書」を終えようとしたのであれば、彼は何を意図したのでしょうか。どういう思いで、ここで自分の「福音書」を終えたのでしょうか。
それを考えるために、天使が語ったメッセージに注目したいと思います。天使は言いました。「行って、お弟子たちとペテロに、『イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます…そこでお会いできます』とそう言いなさい」(7)。この天使の言葉は、何を意味するのか。1つは「イエスの甦りの意味」を示唆します。つまり、「お弟子たちとペテロに…言いなさい」、ペテロがこの天使のメッセージを聞いた時、どれだけ慰められたでしょうか。彼は、イエス様を裏切った、そのことにどれだけ苦しんでいたでしょうか。しかもイエスが本当に神から遣わされた方であったならば、その方をものの見事に裏切ってしまったのです、なおさらそうでしょう。しかし、甦ったイエス様は、そのペテロに真っ先に会おうとされました。つまりイエス様の十字架は、復活は、「裁き」のためではなく「赦し」のためであること、そのことを何よりも表しているのです。
しかし「イエスは、あなたがたより先にガリラヤへ行かれます…そこでお会いできます」(7)とは、どういうことでしょうか。ガリラヤは、弟子達がイエス様と最初に出会った場所です。「その場所でイエス様との新しい関係が再び始まる」、そういう意味があったのではないでしょうか。しかし彼らが、イエス様との関係を改めて始めることにおいても、イエスが弟子達に先立って行かれるのです。だから、そこで弟子達はイエスにお会い出来るのです。それはガリラヤだけのことではない。この後の弟子達の歩みは、いつもイエスが先立って行かれ、そこで弟子達はイエスにお会いするのです。映画「クオ・ヴァディス」では、クリスチャン達に説得されて迷いながらローマから逃げて行くペテロは、街道の向こうからローマに向かって近づいてくる太陽の輝きの中を歩いておられるイエス様に出会います。ペテロはイエス様の足を抱くようにして言います。「主よ。どこにおいでになるのですか」。イエスは言われます。「あなたが私の民を捨てる時、私は再び十字架にかけられるためにローマに行く」。ペテロは、起き上がると、踵を返してローマに向かって歩き始めるのです。そしてローマのクリスチャン達に、イエス様にお会いしたことを語り、皆を励まし続けるのです。これはフィクションですが、そういう出会いが色々な形であったのではないでしょうか。「ガリラヤへ行け、そこでお会い出来る」というのは、そういうことが意図されているのではないでしょうか。
なぜマルコは、途中で終わるような形で自分の「福音書」を終えたのか。それは、これから弟子達の前に現れて下さるイエス様のこと、いやこれから弟子達に先立って行かれるイエス様のことを、これ以上、自分の小さな本に書くことが出来なかったからではないでしょうか。女性達は、落ち着いてから、弟子達に天使のメッセージを伝えたでしょう。そして弟子達はガリラヤに行きます。そこでイエスにお会いします。でも、そのことも含めて、これからイエスが為さる様々な働きについて、弟子達のイエス経験について、マルコは、自分の小さな本に閉じ込めようとは思わなかった。いや、それだけではなく、先立って行かれるイエとの物語は、「福音書」を読む読者が、それぞれに自分で経験して行くことである、そのことを彼は確信していた。だから、それぞれが自分のこととして、この物語の続きを経験するように、「あなた方自身がこの続き―(先立つイエス様との物語)―を書くのだ、だから私はこのイエスの物語を閉じることは出来ない」、そう言いたかったのではないでしょうか。これが、マルコが8節の一見中途半端な形で自分の「福音書」を終えている意味ではないでしょうか。
それはつまり、私達も先立って行かれるイエスにお会い出来るということです。私は、私達の希望は、自分がイエス様の御手の中で生かされている―(星野富弘さんが「立っていても、倒れても、ここはあなたの手のひら」という詩を作っておられますが)―そのことを信じることに懸かっていると思います。「どうして自分にこういうことが起こるのか」、そう思う時もあります。しかし、そこも主の御手の中である、そこにも先立つイエスがおられる、それを信じる、それがキリスト者の生きる姿勢であるし、そこにこそ、私達は希望を見出せるのではないでしょうか。
ニュースキャスターであられた山川千秋という方を覚えておられるでしょうか。山川さんは、番組の録画中に突然声が出なくなりました。精密検査の結果は、喉の癌でした。医者は奥様を呼んで癌であることを告知しました。奥様は後に述懐しておられます。「ガツンと頭を叩かれたように、突然目の前が真っ暗になり…身体がこなごなに打ち砕かれたような感じでした。家の中では子ども達に涙を見せることが出来ませんでしたから、夜、家を抜け出して街をさまよいながら、泣きながら考えました。ところが考えれば考えるほど、残された子ども達と生きるよりも、主人と一緒に死にたい、ここまま車に撥ねられて死んでしまいたい、ということばかりでした。結局、家に戻り、祈り続けました―(奥様はクリスチャンでした)。するとイエス・キリストの声が聞こえてきました。『わたしが、力を与えます』。その言葉に、私は2人の子どもと生きて行く決心をしたのです」。
奥様は、入院中の山川さんを訪ね、癌であることを伝えました。山川さんは55歳、子ども達は中学生と小学生です。山川さんは、悩むだけ悩み、苦しむだけ苦しみました。そして奥様の通う教会のドイツ人宣教師の訪問を受けました。山川さんは言いました。「先生、私は死の準備がありません。どうか私を救って下さい」。そして山川さんは、宣教師を通してイエス・キリストの十字架による罪の赦しと復活による永遠の命の救いを信じ、病床洗礼を受けました。その後、アッという間に召されて行きました。
しかし、山川さんは素晴らしい希望に溢れた手紙を家族に遺しました。ご長男宛の手紙です。「…お父さんは病に倒れたが、そのことによって主イエス・キリストを知った。それは、素晴らしいことだと思わないか。父親を亡くした君の人生は、平坦ではないが、主イエス・キリストにたよって生きれば、素晴らしい人生が与えられる…また天国で会おうぜ…」。
奥様に宛てた遺書にはこうありました。(抜粋です)。「私はあなたにめぐり逢えたことに、あなたに…永遠に感謝します。このように計画された神に感謝します…私に、主に対する信仰をうえつけてくれたことで、あなたに感謝します…私は、主の愛の中に新しく生き、あなたを待ちましょう…ありがとう…心からありがとう。二人の息子を残されて、これからのあなたの人生は、決して平坦ではないことを知って、つらい思いでいますが、道は必ず開けます…なによりも、あなたがた三人には、主イエス・キリストの衣があるではありませんか。感謝と、励ましと、愛をこめて」。
55歳で死を突き付けられた山川さん、しかしその遺書は、神を呪うでもない、人生を呪うでもない、運命を呪うでもない、怒りも絶望の叫びもなく、感謝と励ましと愛に溢れていました。希望の輝きがありました。なぜでしょうか。山川さんもまた、先立つイエス・キリストに出会われたのです。イエス様から、励ましを、希望を与えられたのです。
私達も、色々な形で先立つイエスを経験出来るのではないでしょうか。それを信じて待望するように、それがこの箇所の、マルコのメッセージではないでしょうか。申し上げたように、私達の現実には、困難の中で生きておられる主を感じられないこともあるでしょう。弟子達もそうだったのです。しかし神様の計画は、弟子達が十字架で絶望するところでは終わっていなかったのです。神の計画には、絶望の向こうに主の復活があり、新しい使命に生きる弟子達の姿があったのです。私達に対する神のご計画も、きっとそうです。絶望するところでは終わっていないのです。聖書は「希望は失望に終わることがありません」(ローマ5:5)と語ります。神の計画は、私達の思いより遥かに深い。私達はそのことを信じるのです。先立って行かれるイエス様を信じて、主の導きを信じて、主との出会いを待望して、この信仰生活を歩んで行きましょう。主が生きておられます。

 

聖書箇所:マルコ福音書15章33~41節  

「キリスト者として長い信仰生活をされた方が、いよいよ亡くなる時、『南無阿弥陀仏』と言って亡くなられた」という話を聞いたことがあります。結局、新生されていなかったということでしょうか…。いずれにしても、死の時に、もしかしたら心の深いところにある本音が出て来るのかも知れないと思うことです。認知症になられてからも「主よ、日本にリバイバルを!」と叫んでおられた方の話も聞いたことがあります。願わくは「信仰の証しをしながら世を去って行くことが出来れば…」と思います。死の時に本音が出るとしたら、だからこそ、イエス様の時代も、死の直前に語られた言葉、処刑される者が瀕死の状態で語る言葉は、重要視されたのです。
今日は「棕櫚の聖日」です、ある意味で「喜びの聖日」ですが、この週の金曜日には、イエスは十字架に架かられます。そこで続けて受難の記事を学びます。今朝の箇所で、イエス様はいよいよ十字架上で息を引き取られます。その時にイエスが言われた言葉は「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)という言葉であったと、「マルコ福音書」は記します。そして「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)と語りながら亡くなって行かれるイエス様を見て、十字架刑を執行していたローマの百人隊長が「この方はまことに神の子であった」(15:39)と言ったのです。その告白を導くのは、おそらくイエス様の「わが神、わが神。どうして…」(15:34)の言葉です。この言葉は、どのような意味を含む言葉なのか。私達にどのようなメッセージを語るのでしょうか。「内容」と「メッセージ」に分けてお話しします。
 

1:内容~私達の代わりに神に見捨てられる主イエス

「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)という言葉は「詩篇22篇」の言葉ですが、「エロイ、エロイ、ラマ、サバクタニ」というのは、イエスが話しておられたアラム語の言葉です。「マルコ福音書」は、イエスが語られたそのままの言葉を保存したのです。「詩篇22篇」は、不思議な詩です。そこには十字架の光景が描かれています。「22篇1節」が、イエス様が十字架上で叫ばれた言葉です。「22篇7~8節」:「私を見る者はみな、私をあざけります。彼らは口をとがらせ、頭を振ります。『主に身を任せよ。彼が助け出したらよい。彼に救い出させよ。彼のお気に入りなのだから』」(詩篇22:7~8)は、イエスの十字架を見た人々がイエスをバカにして言った言葉そのものです。そして「22篇18節」:「彼らは私の着物を互いに分け合い、私の一つの着物を、くじ引きにします」(詩篇22:18)は、「マルコ15章24節」で兵士達がしていることです。それで「詩篇22編」は、「十字架を預言した詩篇」とされて来ました。しかし、「詩篇22篇」は、例えば「4節~5節」で「わたしたちの先祖はあなたに依り頼み、依り頼んで、救われて来た。助けを求めてあなたに叫び、救い出され、あなたに依り頼んで、裏切られたことはない」(詩篇22:4~5「新共同訳」)と、神の救いを褒め称えるようになるし、貧しい者に勝利を与える神の力、神の勝利を讃美する、そのような調子に変わって行くのです。それである人々は「イエスが十字架の上で叫ばれたのは『絶望の言葉』ではなくて『勝利の言葉』だ。勝利を確信して歌った『勝利の讃美』の最初の言葉が、たまたま『わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか』(15:34)という言葉だったのだ」と言います。「ここに『絶望』を読み取ってはいけない」と言うのです。(私はかつて遠藤周作の本を読みあさっていたことがあるのですが、彼もそういう立場からイエスの本を書いていたのを覚えています)。
しかし私には、何か違和感があります。神の勝利を歌いたいのであれば、そのような「詩篇」は、他にも沢山あります。わざわざ「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てに…」(15:34)という言葉で始まる詩を選ぶ必要はない。ある教会の献堂式に伺った時、プログラムに印刷してあったのは、「詩篇127篇1節」「主が家を建てるのでなければ、建てる者の働きはむなしい」(詩篇127:1)の言葉でした。また星野富弘さんがご自分の結婚式で配った色紙に書いたのは、「詩篇119篇71節」「苦しみに会ったことは、私にとってしあわせでした。私はそれであなたのおきてを学びました」(詩篇119:71)の言葉でした。それぞれ、その時のご自分方の心境を代弁する「詩篇」の言葉を選んで、いわば信仰を告白しておられるのです。「詩篇」というのは、そのように信仰者の思いを代弁する不思議な本です。イエスも「詩篇」に親しんでおられました。最後の晩餐で歌われたのも「詩篇」でした。まだガリラヤで伝道活動をしておられた時、会堂の礼拝においても、会衆と共に「詩篇」を歌われたことでしょう。その中で「詩篇22篇」は、それが会堂で読まれる―(歌われる)―時、それは「他民族に支配されて『私達は見捨てられたのだろうか』と嘆きながら、しかしなおも『将来に主の勝利を信じて讃美したい』、そのような思いで歌われただろう」と言われます。この時、イエス様は、十字架の苦しみの中でご自分の深い思いを「詩篇」の言葉に載せて告白され、祈り、語られたのだと思うのです。
であれば「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)とは、どういうことなのか。もちろん、この詩がやがて勝利の讃美に変わることを、イエスはご存知でした。だから先に望みを見ておられたでしょう。しかし、十字架に架かっておられる正にこの時、イエスは、神に捨てられるという絶望的な深い痛みを覚えておられたのだと思うのです。「神に捨てられる経験」をしておられるのです。人々はイエス様を嘲りました。「彼は他人を救ったが、自分は救えない。イスラエルの王さまなら、今、十字架から降りてもらおうか。そうしたら、われわれは信じるから。彼は神により頼んでいる。もし神のお気に入りなら、いま救っていただくがいい。『わたしは神の子だ。』と言っているのだから」(マタイ27:42~43)。しかしイエスは、十字架から降りて来られません。では、神は、何も為さらないのか、何も働いておられないのか。そうではありません。神は、イエスに働かれたのです。どういう形で働かれたのか。神は、イエスを突き放す、イエスを見捨てる、そういう形で働いておられるのです。イエス様は、ここで父なる神様に見捨てられているのです。
随分前ですが、最高裁判所の判事かどなたかが、「人は死んだらゴミだ」と言われたそうです。要するに「人は死んだら何も無くなってしまうのだ」ということでしょう。私はそれを聞いて、「『人は死んだらゴミだ』と思いながら生きて、死んで行くとしたら、あまりにも虚しい」と思ったのを覚えています。しかし「人は死んだらゴミだ」と言う人達は、どこかで「死」というものを甘く見ているのかも知れません。「死」とは何か。それは、愛する人達との関係を絶たれることです。突き放されることです。あるいは、自分が自分でなくなること。色々な形容が出来るでしょう。しかし、根源的な問題として、「死」というのは―(キリストがなければ、十字架がなければ)―神に裁かれ、神から捨てられることを意味するのです。それがどんなに激しい痛みなのか、どんなに恐ろしいことなのか、私達には分らないのです。「神から切り離されたその状態が正に地獄である」という意見があります。その意味で、正に今、イエス様がそのような状態―(地獄)―を経験しておられるのです。それが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)という絶望の言葉なのです。
しかしなぜ、「神の子」であるイエスが、神に見捨てられ、神から突き放されなければならないのか。それは、イエスがここで人になり切って下さっているからです。この苦しみは、本来、神の子イエスではなく、私達が経験すべきことなのです。神の御心に背いて生きている私達が、その当然の報いとして、神から捨てられる経験をするはずだったのです。しかし、ここでイエスは、人になり切って、私達の身代わりに神に捨てられる経験をして下さっているのです。地獄に落ちておられるのです。私達の罪を背負って私達の代わりに地獄に落ちて下さった、それが「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)の言葉なのです。十字架の言葉で最も有名なのは、「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)でしょう。しかし、イエスが人々の赦しを執り成しておられるということは、人々の罪を背負って神から見捨てられる経験を為さる、ということとセットなのです。
では百人隊長は、イエス様の叫びをどのように聞いたのでしょうか、何を感じ取ったのでしょうか。「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)。この言葉は、そのように絶望の叫びでした。しかし、イエスは絶望の只中にありながら、しかし、なおも神だけに向かわれるのです。「わが神、わが神。どうしてわたしを…」(15:34)、「詩篇」のこの言葉は、「祈りの言葉」でもあります。ですからある人は「イエスは、十字架の上で神を礼拝していた」と表現しました。イエスを嘲る人々、イエスを苦しめる人々がいる。しかしイエス様は、沈黙を守られる。沈黙を守るということは、神に聞こうとしておられたということです。「礼拝しておられた、神の働きを待っておられた、神の為さることを喜んで受け入れる姿勢を取っておられた」と言っても良いかも知れません。苦しみの中、絶望の中で、なおも神に向かって、神との関係に生きておられた。そして「37節」で「大声をあげて息を引き取られた」(15:37)。この「大声」というのは、おそらく「ヨハネ19章30節」にある「完了した―(成し遂げられた、終わった)」(ヨハネ19:30)という言葉です。イエスは、ご自分が神の御心に従い、人々の罪を背負い、人々の代わりに裁かれた、それによって贖いが成し遂げられた、人が神と和解出来る道が備えられた、そのことを理解されたのではないでしょうか。
百人隊長は、詳しいことは良く分からなかったでしょう。しかし、こんな風に死んで行く人を見たことはなかったのです。多くの人は、人を呪い、人生を呪い、恨みをぶちまけながら死んで行くのです。しかし、イエスは、民衆を呪うでもない。ローマ兵を呪うでもなかった。どこまでも、ただ神に向かおうとされる、どこまでも礼拝を続けようとされたのです。人間には表現出来るはずがない神との関係、それを見て百人隊長は、「イエスの父なる神」の存在を信じずにはいられなくなった、イエスが神の特別の存在であることを認めざるを得なくなったのではないでしょうか。その意味で、私達が礼拝をするということ、それは、神の存在を証しする大切な行為なのです。だから主も、私達の礼拝を喜ばれるのです。いずれにしても、イエスが私達の代わりに苦しんで下さった、それが、この箇所が伝える話なのです。
 

2:メッセージ~主イエスの苦しみ故に神に見捨てられない私達

イエスは、人間の深い絶望を経験して下さいました。それは何を意味するのでしょうか。私達に具体的にどのように関わるのでしょうか。
「いのちの電話」の活動をしておられた江見太郎という方のお証しを読んだことがあります。1人の日本人女性の話です。彼女は、戦前、満州に渡っていましたが、ソ連軍の侵攻によって広大な満州を逃げ回らなければならなくなり、敗戦国民の悲惨を味わいます。身も心もボロボロになりながら、そして飢えと病気で這うようにしながら、それでも子供達の手を引いて釜山に辿り着きます。やれやれと思ったのも束の間、体力のない末娘が目を開けたまま死んでしまうのです。子どもの不運を思うとたまらない。「悲しみもここまで来ると涙さえ出てこない」と言っておられます。ようやく釜山から博多について、同船した女性に荷物を託してトイレに行ったら、その女性は荷物を持ったまま消えていました。込み上げる怒りに絶叫するのです。「祖国だけは、同胞だけは」と信じていた気持ちが裏切られ、人間不信に陥ってしまいます。食べるために無我夢中で働きましたが、栄養失調と不衛生のために、今度は次女が亡くなります。次女は、かつて満州で教会学校に通っていました。だからでしょう、「母さま、また天国で会いましょう」と言って亡くなるのです。必死の看病のかいものなく次女が亡くなり、気丈なこの女性も完全に打ちのめされるのです。そして自殺の名所、和歌山県白浜の三段壁に来て、そこで江見牧師に出会ったのです。牧師は、その悲惨な半生を聞いて、何にも言う事が出来ませんでした。ただ「聖書」を開いて「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)の言葉を見せたのです。その言葉を見た女性に驚きの色が走り、彼女は泣き出したのです。江見牧師は言っておられます。「計り知れない悲しみの人であるイエス・キリストの十字架の上での叫びは、彼女の心を激しく打たずにはおかなかった。絶望の果てに見出したキリストとの出会いは、彼女の否定的な人生観の終わりを告げた」。
私達も、苦しみの時、同じ苦しみを味わった人のことを思うだけでも慰められます。この女性は、十字架のイエス様に、自分の絶望を受け止めて下さる方、自分よりもさらに深い絶望と悲しみを知っている方、それを見たのだと思います。そのような神だからこそ、自分の全てを、悲しみも嘆きも全てを預けることが出来たのではないでしょうか。私達が経験するどんな苦しみよりも、イエスはさらに深く、さらに大きな絶望を苦しんで下さった。私達の苦しみの外側には、いつも私達のために苦しんで下さったイエス様の苦しみがある。それはつまり、イエスが関わって下さらないような私達の苦しみの経験はない、ということではないでしょうか。私達が神に見捨てられたように思うことがあったとしても、そこでイエスは私達に言われるのです。「私があなたに代わって神に見捨てられる経験をしたから、あなたは神に見捨てられることはない」。「わが神、わが神。どうしてわたしを…」、この祈りは「わたしが苦しんだのだから、あなたは神に見捨てられることはない」というメッセージとして聞こえて来るのです。
さらに言えば、私達が神の助けを最も必要とする時、それは「死」の時ではないでしょうか。「『死』において、最も恐ろしいのは、孤独になることだ」と、聞いたことがあります。だからこそ、神様に共にいて欲しいのです。しかし本来、神様には「死ぬ」ということがないのです。言い方は悪いかも知れませんが、神様は、私達の死を共有出来ない。しかしイエスは、死んで下さった方だから、死んで甦って下さった方らだから、私達は、私達が死を通る時も、イエス様が共に居て下さって、私達を天国に導いて下さることを信じることが出来るのです。きっとそこでもイエス様は、「あなたは神に見捨てられることはない」と語って下さるに違いなのです。
「わが神、わが神。どうしてわたしをお見捨てになったのですか」(15:34)、私達は「イエスが私のために苦しんで下さった、私のどんな嘆きよりも深い嘆きを味わって下さった」、そのことを忘れてはならないと思います。それを忘れると「私が神に見捨てられる苦しみを苦しまなくて良いように、主が既に苦しんで下さった、私はいつも主の苦しみに支えられてある、私は御手の中にある」ということを忘れ、神の臨在を見失ってしまうことになると思うのです。私達は、試練の時、嘆きの時こそ「わが神、わが神。どうしてわたしを…」(15:34)というイエス様の叫びを思い出したいと思います。そして「私は神に見捨てられることはない、今も御手の中にいる」ということを確認したいと思います。同時に、イエス様も「詩篇22篇」を通して最後の勝利を信じておられたように、私達も「私のために苦しんで愛して下さった主が、最後に勝利を下さらないはずがない」と、望みを見て行きたいと願うことです。