2023年2月 佐土原教会礼拝説教

HOME | 2023 | 202302

聖書箇所:マルコ福音書14章53~65節 

 作家の三浦綾子さんが次のように言っています。「人はみな。自分を測る物差しと人を測る物差しをもっています。同じことでも人がすると怒るけれど、自分の場合は『仕方がない』と思ったり、悪いとさえ感じなかったりします。それどころか、『自分のすることは全て良い』という物差しを持っている人さえいる」(三浦綾子)。言われている通り、だいたい自分を測る物差しは甘いと思います。(メモリが大きく刻んであります)。いずれにしても、心の物差しで人を測り、自分を測る、そして測った結果で考え方や対応が決まるということでしょう。であれば、どんな物差しを持つか、それは非常に重大なことだと思うのです。そしてそれは、神様についても、信仰についても、言えることではないでしょうか。今日も「内容」と「適用」に分けてお話し致します。
 

1:内容~最高議会が主イエスを裁く

ゲッセマネの園で逮捕されたイエス様は、大祭司の屋敷に連れて来られました。53節の「祭司長、長老、律法学者たち」というのは最高議会のメンバーですが、最高議会の議場は本来、神殿の中にあったのです。ところがここでは、大祭司の屋敷に議会のメンバーが集まって、異例の即席の議会を開くのです。しかも55節には「死刑にするために」とあります。初めから「死刑にする」ことが決まっていたのです。「死刑にする」とは…。ローマは、ユダヤ最高議会にある程度の自治を与えていましたが、人を死刑にする権限は与えていませんでした。それは、ローマからユダヤに遣わされた総督が持っていました。だから彼らは、イエスをローマ人によって死刑にしてもらおうとしているのです。それは、「十字架刑にされる」ということです。「旧約聖書」に「木につるされた者は、神に呪われた者」(申命記21:23)とあります。十字架に架かるということは、神に呪われるということを意味しました。「そういう恐ろしい死の中にイエスを放り込んでしまいたい」と思ったのです。それほどイエスを憎んだのです。当時の人々は、神が送られる「救い主」を待っていました。それなのに、(いわば)「私こそ神の救い主だ」と言ったイエスを殺してしまうのです。しかし最高議会の人々は、極悪人の集まりではなかったはずです、神を信じる民の代表者です。信仰もあり、人望もあったでしょう。その彼らがなぜ、イエスを激しく憎み、殺してしまうのでしょうか。
この即席の裁判では、多くの証人が呼ばれて、色々と証言をします。裁判では、複数の証人の証言が一致しなければならないことになっていました。しかし、その証言は食い違っていました。伝説によれば、イエスに癒されたことを感謝する証言もあったというのです。指導者達は、それでは困ります。その時、数人の者が立ち上がって証言をします。祭司長達から金で雇われた証人だったかも知れません。彼らは「私たちは、この人が『わたしは手で造られたこの神殿をこわして、三日のうちに、手で造られない別の神殿を造ってみせる』と言うのを聞きました」(58)と言います。なぜ「神殿」を持ち出すのでしょうか。
当時のユダヤ教は、神殿を中心とした宗教でした。「律法」も宗教の中心でしたが、人々にとって神殿とは「神とユダヤ人とを結びつける」、「『自分達は神に選ばれた民である』ということを見える形で確認させてくれる」、そういう存在だったのです。「福音書」の中に「イエス様が中風の人を癒す」記事があります。「4人の友人が中風の人を担架に寝かせたままイエス様のところに連れて来た。でもイエスのいらっしゃる家は人だかりで、イエスに近づくことが出来ない。そこで屋根に穴を開けて、そこから担架をイエス様の前に吊り下ろして癒しを願った」という記事です。その時イエスは、中風の人に「子よ、しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」(マタイ9:2)と言われます。ところが、それを聞いていた律法学者が呟くのです。「この人は…神をけがしている…神おひとりのほか、だれが罪を赦すことができよう」(マルコ2:7)。「神のほか、だれが罪を赦すことができよう」、具体的には何を言っているのでしょうか。「神殿で犠牲の動物を捧げて、大祭司に『赦し』を宣言してもらう」、それが当時「罪が赦されるための仕組み」でした。ある学者によれば、「神おひとりのほかに…」というのは、「神殿の『赦しのシステム』のほかに…」という意味だそうです。つまり「神殿」と「神」が、同義語のように使われているのです。この神殿理解、これが当時の、特に宗教指導者の信仰だったのです。それほど神殿が神聖化されたのです。
しかし、その神殿が出来た時―(最初の神殿はソロモン王によって造られ、奉献されました)―ソロモンは祈るのです。「神は果たして地の上に住まわれるでしょうか。実に、天も、天の天も、あなたをお入れすることはできません。まして、私の建てたこの宮など、なおさらのことです」(1列王8:27)。「このような神殿にあなたを閉じ込めようなどとは考えていません」と祈ったのです。最高議会の議員達もその祈りを知っているのです。しかし、実際の信仰生活の中では、神殿で礼拝し、そこで自分達の信仰生活が確立したものになったと思った時、それにしがみつくのです。それを越える―(異なる)―信仰を受け入れることが出来ないのです。
イエス様は「神殿の赦しのシステム」を(いわば)無視して、「赦し」を宣言されました。(いわば)ご自分が神殿として活動されたのです。神殿が「神と人を結びつけるもの」であれば、イエス様は、実際に神と人を結びつけるために―(真の神殿となるために)―来られ、そのように行動された方です。イエス様は、誰でも―(大祭司に仲介してもらわなくても)―イエス様の教えを基にして「神様を『お父さん』と呼んで良い」と教えられました。そして―(58節の証言通りかどうかは別として)―神殿を中心とした宗教ではない、もっと自由な、イエスの言葉―(神の御心)―を中心とした信仰を、「神殿の行事宗教を越えた信仰」を、教えられました。おまけに神殿のあり方を批判して、「宮聖め」まで為さいました。
神殿を神聖化している最高議会の人々は、そんな信仰を受け入れることが出来ないのです。しかも最高議会の人々は皆、何らかの形で神殿と結びついて、神殿から恩恵を受けて生きているのです。だから受け入れることが出来ないばかりではない、放っておけないのです。なぜなら、そんな声が大きくなったら、彼らの願う秩序が壊れます。神殿と結びついている自分達の立場がおかしくなります。今までの自分達の生き方、信仰のやり方が根底から揺さぶられるのです。つまり自分達が変わらなければならなくなるのです。彼らは何も変えたくないのです。変わりたくないのです。その思いこそが彼らを突き動かしているのです。自分達の立場を、足下を危うくするような者を赦せない。その思いがイエス様を憎ませているのです。さらに、神殿を侮辱したということなら、民衆をある程度、納得させることも出来ます。それがここでの裁きです。
 

2:適用~信仰生活を深める

 この個所から2つの信仰生活への「適用」を学ぶことが出来ると思います。
 

1)自分が変わる必要があれば変わる

「彼らは自分を変えたくなかった」と申し上げました。しかし、彼らの思いは、形を変えて私達の心にもあるのではないでしょうか。私達は、例えば「イエス様の救いとはこういうものだ」という信仰の物差しを持つのです。その物差しで、聖書の言うことも測るのです。そして、その物差しにピッタリ合ったもの―(私の気に入ったもの)―は受け入れるけれど、その物差しに合わないもの―(物差しを代えなければならないもの、つまり自分が変わらなければならないようなこと)―は捨てるのではないでしょうか。なぜなら、自分よりも本当に大きなものを受け入れたら、自分が変わらなければならないからです。私達も変わりたくないのです。
例えば「赦し」は、信仰の大きなテーマです。聖書は「赦し」を語ります。しかし、私達は赦したくない。あるいは、私達の自我は、人を憎み続けたいのではないでしょうか。それはどうしようもない私達の罪かも知れない。しかし、本当に「赦す」ことを願えば、祈れば、難しいけれども、「赦し」に踏み出せるかも知れない。それは多くのキリスト者が証しすることです。でも、踏み出さない。繰り返しますが、私達も、本音の部分では変わりたくないのではないでしょうか。そう考えると、イエス様を十字架に架けるもの、それは私達の心の中にあるものと無関係ではないのではないでしょうか。私達は、神様を、キリスト教を、自分の小さな物差しに合わせてはいけない。大きな神の前に本当に謙り、自分が変わらなければならないのなら、本気で自分が変わろうとする、そこから、いや、まずそう祈り始めるところから、キリスト教の救いは、救いの力は、私達の生活の中に現れて来るのではないでしょうか。
何度かご紹介している話ですが、この女性は結婚して姑さんと同居をしました。ところがやがて姑さんとの仲が決定的に悪くなり、子供が生まれたのを期に激しいやり取りの末に別居をします。その後も色々あって、嫁と姑のぶつかり合いは頂点に達します。しかしそんなある時、彼女は、実は夫は養子で、姑が1人で夫を育て上げたことを知ります。同じ時期、姑が「手術をします」と電話をかけて来たけど、無視したことで自責の念を感じ始めていました。そんな時、誘われて教会に行くようになり、聖書の言葉を聞きます。「もし人の罪を赦すなら、あなたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(マタイ6:14~15)。さらに聖書が語られました。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したらなら、供え物はそこに、祭壇の前においたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」(マタイ5:23~24)。「主よ。あなたはまず私が先に赦せとおっしゃるのですか。私から先に和解の手を伸べよ…と」。彼女は、激しい葛藤の末、自分を変えることを選びます。姑に「いつも平安がありますように祈っています。寂しくなったらいつでもこちらへ来て下さい」と手紙を書いて蒲団乾燥機と一緒に送るのです。姑さんからは「生きる力が満ちてくるのを感じます。ありがとう、ありがとう」という返事が来ます。やがてお姑さんが訪ねて来て、彼女は姑の喜ぶ姿に感動さえ覚えながら、主に心からの感謝を捧げる。そういう話です。
自分より神様を大きくし、自分が変わることが信仰生活の祝福に繋がっていることを教えられます。

2)信仰の幻に生きる

信仰生活への「適用」、2番目は「信仰の幻に生きる」ということです。
大祭司は、証言が食い違うのに業を煮やして、ついに自分からイエス様に尋問します。誘導尋問です。「お前はほむべき方の子、メシアなのか」(61新共同訳)。イエス様は、この偽りに満ちた裁判を終わらせる時であると感じられたのでしょう。「わたしは、それです」(62)と答えられます。原文では「エゴー・エイミ/私はある」という「神の自己紹介の言葉」を使って返事をしておられます。神でない者が使えば、最高議会において「涜神罪」で死刑に当たる言葉でした。しかし、イエス様は、「神の救い主」として死のうとしておられたので、そう宣言されたのです。それだけではなかった。イエスは言われます。「人の子が、力ある方の右の座に着き、天の雲に乗って来るのを、あなたがたは見るはずです」(62)。今イエス様は、祭司長達によって逮捕され、この後、警備兵によって嘲弄され、そして鞭打たれ、十字架に掛けられて行く。それが目に見える現実です。しかしイエス様の目は、そんなことを見てはいなかったのです。イエス様の目は「ご自分が人々の罪を背負って呪われて死ぬ時に、人々に救いの道が開かれるのだ」と、「神の愛と義が実現するのだ」と、その幻を見ておられた。そして「神の御心に忠実に従って行く時に、自分は全能の神の右に座ることになり、やがては天の雲に囲まれて再臨するのを、人々は見ることになるのだ」と、そのような幻を見ておられたのです。
この時のイエス様が、どのように神であられたのか、どのように神であることを止めておられたのか、どのように人間であられたのか、良く分かりません。しかしイエス様は、確かに人になり切ろうとしておられた。そして人としてのイエス様は、そのような「信仰の幻」に生きておられたのです。言葉を換えて言うなら「現状がどうであろうとも、誰が何をしようとも、神の御心は必ず成る。神の愛と義は必ず勝つ」、そういう幻を見ておられたと言い換えても良いかも知れません。
私は、信仰生活とはまた、「幻を見る生活」だと思うのです。「百万人の福音」に西村隆さんという方のお証しがありました。この方は、37歳の時にALS(筋萎縮性側索硬化症)と診断されました。お医者さんから「全身がだんだんと麻痺して行って、話せなくなる、食べることが出来なくなる、呼吸困難がやってくる、余命5年」と告げられたのです。信仰は持っておられました。しかし、自分を支えるのが難しくなられるのです。突然涙が溢れて来たり、不安に襲われたりされるのです。未来に不安しかないのです。実際に次第に箸が持てなくなる、牛肉を喉に詰まらせて救急車で運ばれる、車の運転を諦める、歩くこと、話すことなど、諦めざるを得なくなって行くのです。どんなにお辛いかと思います。しかし、生まれて来た息子さんとの交わりの中で、この方は変えられて行くのです。息子さんはダウン症で生まれて来ました。しかし、屈託なくお父さんの足の上で遊び、何の不安もなく健やかに眠っているのです。その姿を見て、この方も人生に抗うのを止めようとされました。そうしたら、神様が近づいて来て、支えて下さったというのです。今も多くの方に支えられながら過ごしておられます。しかし最後の言葉が心に残りました。「十字架につけられたイエスも『エロイ、エロイ、レマ、サバクタニ―(わが神、我が神、どうしてわたしをお見捨てになったのですか)』と悲痛な叫びをあげました。でもそれは、やがて神へのゆるぎない信頼へと続きます。大切なことはただ一つ、自分を神様にゆだねきる信仰さえあれば、不条理を前にたちすくむことはありません」(西村隆)。現実は厳しい。しかし「神に委ね切る人生を、神が悪くされるはずはない、神が責任を持って下さる」、そういう信仰の幻に生きておられると思いました。
繰り返しますが、信仰生活とは、小さな物差しを捨てて、「幻を見る生活」ではないでしょうか。どのような幻を見るのか。何を信じるのか、それが大切なのではないでしょうか。私達は「神の御子であるイエスが、人間となって死んで下さった。それによって私の一切の罪は赦され、私は神に受け入れられ、神の子とされている」、そう信じています。でも「神様の大きな愛の中にいる、神様の私に対する愛は変わらない」、その幻をしっかり見ているでしょうか。神様の愛が具体的にどのような形をとって現れるのか、私達には分りません。時には、とても「神の愛」だとは思えない形をとって来ることもあるかも知れない―(「祝福は祝福の顔をしては来ない」と言われる通りです)。でも「神様の私に対する愛は、全てに勝って強く、必ず勝つ」、そういう幻に私達も生きて行きたいと願うことです。その神様に「ゆだねきる」、信仰を持ちたいと願うことです。
 

3:終わりに

信仰の正しい物差しを持ちましょう。その物差しは、自分が変わらなければならないのなら変わろうとするように、私達に教える物差しです。その物差しは、神の愛の大きさを正しく測り、私達に「信仰の幻」を見せてくれる物差しです。そのような物差しを持って、信仰生活に励みましょう。
 

聖書箇所:マルコ福音書14章43~52節  

 海外の人同士は、良く頬をくっつけるような挨拶をします。政治家同士の挨拶でも見ることがあります。外国の人がやると自然な感じですが、日本人には難しいと思います。そういう挨拶の仕方をする文化があるのです。「新約聖書」に「あなたがたも、聖なる口づけをもって互いのあいさつをかわしなさい」(ローマ16:16)という言葉があります。「聖書」に書いてあると言っても、私達には出来ないでしょう―(もしそれをやったら、教会に誰も来なくなってしまうのではないでしょうか)。そういう文化があるのです。東欧等もそうではないかと思います―(旧ソ連のブレジネフ書記長と東ドイツのホーネッカー書記長が抱き合って口づけしている写真は有名です)。「福音書」の舞台となっているパレスチナは、当時―(今は分りません)―口づけをして挨拶をしたのです。特に尊敬する律法の教師には、その挨拶をしたようです。それが愛情や尊敬の表現だったのです。今日の箇所は、そのような文化的背景の中で起こっています。
前回、ゲッセマネの園でイエスが祈られた記事を学びました。イエス様に「目を覚まして祈っていなさい」と言われながら、弟子達は何度も眠ってしまいました。最後にイエスは言われました。「時が来ました。見なさい。人の子は罪人たちの手に渡されます。立ちなさい。さあ、行くのです。見なさい。わたしを裏切る者が近づきました」(14:41~42)。イエスがそう語っておられるところに「祭司長、律法学者、長老達」の遣わした「群衆」―(神殿警備の兵士達、そして彼らに加わった群衆)―がやって来るのです。先頭には、12弟子の1人イスカリオテのユダがいました。
ユダは、「最後の晩餐」の途中までは、イエス様達と一緒にいたのです。恐らく「その晩イエス様がどこに野宿をするのか」、その場所を突き止めると晩餐の席から姿を消して、祭司長達の許へ走り、神殿警備兵達を引き連れてやって来たのだと思います。しかし暗闇の中です。イエス様の顔を良く知らない兵士達が、間違いなくイエス様を捕らえることが出来るように、ユダは、敬愛の挨拶の習慣に従ってイエス様に口づけをする。その行為をもってイエス様本人を捕り手に知らせるのです。{44節のユダの激しい言葉を読むと、彼はやはり、イエス様が超人的(神的)な力を発揮しなければならないような状況をつくろうとしたのかも知れないという気がします}。いずれにしても、そのようにユダの裏切りと手引きによって、イエス様は逮捕されます。では「イエス様逮捕」のこの個所は、私達に何を語り、どのような霊的なレッスンを教えるのでしょうか。
この箇所には、不思議な記述があります。「ある青年が、素はだに亜麻布を一枚まとったままで、イエスについて行ったところ、人々は彼を捕えようとした。すると、彼は亜麻布を脱ぎ捨てて、はだかで逃げた」(51~52)。彼は一体誰なのか。「マタイ福音書」と「ルカ福音書」は、「マルコ福音書」をベースに書かれたと言われます。それで、「3つの福音書」には共通して書かれていることが多いのです。ところが「マタイ」にも「ルカ」にも、この青年のことは出てきません。つまり彼のことは、「マルコ」には関心事でも、「マタイ」と「ルカ」には関心がなかった、ということです。それで、多くの学者が「この若者は『福音書』を書いたマルコ本人だ」と考えます。では、なぜここにマルコが登場して来るのか。なぜ彼は裸で逃げたのか。
恐らくこういうことだったのでしょう。「素はだに亜麻布を一枚まとったまま」、これは今日風に言えば「寝巻きを着たまま」と考えて良いようです。その晩、イエス様と弟子達は、「最後の晩餐」を摂り、そしてゲッセマネの園に出かけて行きました。その晩餐の会場(二階座敷)を提供したのが、マルコの家だったのではないかと思います。{「使徒の働き」に次のような記述があります。「ペテロは、マルコと呼ばれているヨハネの母マリヤの家へ行った。そこには大ぜいの人が集まって、祈っていた」(使徒12:12)。マルコの家が、初代教会の集会所になっています}。まだ10代であったマルコは、もう眠るつもりで寝巻きに着替えて床に入っていたかも知れません。ところが、その晩、イエス様と弟子達は一緒に出て行ってしまう。「何事が起こったのだろう」と後からついて行った。ゲッセマネの園におけるイエス様の祈りと弟子達の対話も、物陰に隠れて一部始終を聞いていたかも知れません。そうでなければ、弟子達も眠っていたのですから、ゲッセマネの園におけるイエス様の祈りの内容等、伝える人がいなかったはずです。いずれにしても、そこに逮捕劇が始まりました。弟子達は、一目散に逃げました。若者は、逃げそこなったのかも知れないし、「自分は傍観者に過ぎないから大丈夫だろう」と思っていたかも知れない。でも人々がマルコ目掛けてやって来たのです。そして「お前もあの仲間ではないか」と言われました。彼は、慌てふためいて逃げました。逃げた時に亜麻布(寝巻き)を掴まれたのを振り払ったために、素っ裸で逃げることになりました。恐らくそういうことだったのだろうと思います。
しかし51~52節は、いかにも回りの文脈から浮いている感じがします。なぜ彼は、わざわざ書いたのでしょうか。恐らくマルコは、イエス様逮捕の記事を書く時に、自分の情けない姿を黙っていることが出来なかったのだと思います。確かに自分もイエス様を捨てた。そして一目散に逃げてしまった。その悔い改めの思いを込めて、その事実をここに書かざるを得なかったのだと思います。
しかしなぜ、彼は逃げたのでしょうか。もちろん恐ろしかったからです。しかしこの時、恐れていたのは、彼だけではありません。弟子達も恐ろしかった。ここで弟子の1人が大祭司の手下に斬りかかっています。これは「勇敢に立ち向かった」ということではないでしょう。恐れです。相手は大勢です。1人に斬りかかってどうなるものでもない。でも恐れのために、ほとんど本能的に剣を抜いて討って掛かってしまったのでしょう。そして、結果的に弟子達は皆、イエスを見捨てて逃げてしまうのです。14章31節では「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」(14:31)と、皆が誓ったのです。しかし、そんな誓いはどこかに吹き飛んでしまって、逃げて行くのです。恐ろしかったのです。
さらに、恐れているのは、イエス様側の人間だけではありません。捕り手も、12人の貧弱なグループに対して、剣や棒で武装して大勢でやって来るのです。なぜでしょうか。彼等も恐ろしかったのです。イエスが不思議なことをするかも知れない、どこかにそういう思いもあったかも知れません。いずれにしても、皆が恐れているのです。ある人が言いました。「全ての人間に共通の最大の弱点は恐れである」。全体主義の国家では、権力者は「恐怖」を与えて人々を支配しようとするのです。私達は「恐れ」の前に沈黙してしまうのです。逃げてしまうのです。しかし私達の現実には、絶えず色々な「恐れ」があるのではないでしょうか。それは、「暴力を受ける」とか「逮捕される」とか、そういうものではないでしょう。それでも「大きな恐れ」、「小さな恐れ」、「色々な恐れ」が私達の心を支配してしまう、「恐れ(不安)」が私達の平安を奪ってしまう、それが現実ではないでしょうか。私が鬱になった原因の1つも、「恐れ」でした。
しかし、その「恐れ」の世界で、ただ1人、イエス様だけは、「恐れ」に捕われていないのです。強力な武器を持っているわけでもない。ここではあっさりと逮捕されてしまいます。しかしこの箇所は、「恐れ」に捕われていないイエス様の、平然とした姿を描くのです。なぜイエス様は、1人、平安の中におられたのでしょうか。
49節でイエス様は「こうなったのは聖書のことばが実現するためです」(49)と言っておられます。「神の御心が実現するためです」ということです。イエス様は、この直前まで祈っておられました。祈りに祈り込んで、その中で「人の子は必ず多くの苦しみを受け、長老、祭司長、律法学者たちに捨てられ、殺され、三日の後によみがえらなければならない」(8:31)、これが神の御心であると確認されたのです。「確認された」とはどういうことか。この逮捕劇は、「恐怖」が支配しています。権力者が支配しているように見えます。しかしイエス様は知っておられた。いや、人間としてのイエス様は、「知っておられた」というよりも、堅く信じておられた。それは「目に見える現実の外側に神の支配があり、神が本当の支配者として全てを支配しておられる」ということを信じておられたと思います。だから、その神に全てを委ねておられた。全てのことの真の支配者である神様を信頼し、神様に全てを委ね切った姿、それがここでのイエス様の姿なのだと思います。
私達は、ここからどのような霊的レッスンを受け取ることが出来るのでしょうか。「51~52節」に帰ります。この部分は、なぜ書かれたのか。申し上げたように「マルコは自分の過去を振り返って書かざるを得なかった」ということもあったでしょう。しかし「マルコ福音書」は、「福音書/喜びの知らせ」です。「マルコ」は、この記事を通しても、喜びと希望を語っているはずなのです。それは、どのような喜びであり希望でしょうか。
マルコは成長した後、パウロとペテロに仕え、最後にはペテロやパウロと同じようにローマで殉教したと伝えられています。それだけではありません。ここで弟子達は皆、「恐れ」のために逃げてしまいますが、しかし後には、全員がイエス様を宣べ伝えるために命を懸けるようになり、ほとんど全員が殉教するのです―(皆が死に至るまで忠実であり続けたのです)。「マルコ福音書」を最初に読んだ人達は、すでにマルコが変えられたことを、弟子達が変えられたことを、知っていました。その意味で、51~52節は、「弱く情けなかった彼らが変えられた」ことを証しする箇所なのです。
何が彼らを変えたのか。もちろん「彼らがイエスの復活を目撃した」ということがあります。そして「ペンテコステの時に彼らに降り注いだ聖霊を受けた」ということがあります。しかし、「イエス様の復活を目撃した」、あるいは「聖霊を受けた」、それはどういうことかというと、彼ら自身が、目の前にどんなに「恐れ」があろうとも、その外側には、人間の思いを越えて、人間の力を越えて、「イエス・キリストを死から復活させた父なる神の支配がある」、そういう信仰に生き始めた、その信仰が彼らを解放した、ということではないでしょうか。もちろん、マルコも、他の弟子達も、依然として自分の弱さに悩むのです。私達が、信仰を持ち、聖霊を頂いても、弱さに悩むのと同じです。それでも彼らは、神の支配を見、経験しました。イエス様の復活を目にし、聖霊の降臨を経験しました。また、吹けば飛ぶような生まれたばかりの教会が、迫害の中で守られて行く、絶大な権力者の前に弱さを嘆かざるを得ないような状況なのに、教会の働きが広がって行く、そのようなことを経験し、彼らは「神の支配」があることを心から信じたのだと思います。「神の支配」を信じ、そこに生きる、それが彼らを変えて行ったと思うのです。
しかし、それはさらに、次のように言い換えることが出来ると思います。生きる主人公―(人生の主人公)―を、「自分」から「神」に換えてしまったということです。彼らは、神を主人公にして生き始めたということです。
高鍋出身のキリスト者に石井十次という人がいます。「日本の社会福祉の先駆者、孤児の父」と呼ばれる人です。十次について次のような話が残っています。東北で大凶作があり、彼の運営する岡山孤児院に沢山の孤児達が送られて来た時のことです。心労も重なったのでしょう、彼は腸チフスに冒されて1か月の闘病をします。その病の床で夢(幻)を見ます。その夢(幻)の中で、イエス様が大きな籠を背負っていて、その籠の中には既に200人くらいの子供が入っていました。ところが籠に手を掛けている大人達は、まだまだ次々に子供達を籠の中に入れるのです。やがて子供達が皆入ってしまうと、イエス様は「もう済んだのか」と言って立ち上がり、十次も籠に手を掛けて手伝って運んでいました。十次は、その幻からイエス様のメッセージを受け取ります。「お前は自分が孤児院を背負っていると思って心配しているけど、孤児院を背負っているのは私だ。お前は孤児院が狭くてもう子供達を入れることは出来ないと思っているが、今見た通りいくらでも入る。お前は心配せずにありたけの力を出して手伝いさえすれば良いのだ」。「手伝いさえすれば良いのだ」、この言葉が十次の心に刻まれました。彼は、自分が全てを背負って行かなければならないと思っていました。でも示されたのは、孤児院も、実はイエス様が主人公として背負っておられた、自分はイエス様の働きを手伝っていたのだ、ということです。
この話は、そのまま私達の人生(生活)にも言えることではないでしょうか。私達は、自分が必死になって信仰生活をしている、自分で全部を背負って悪戦苦闘している、そのように感じているのではないでしょうか。だから自分の信仰生活を振り返って、「あれもしなければ、これもしなければ」と思うと同時に、「あれも出来ていない、これも出来ていない」、そんな風に思ったりもする。下手をすると、信仰生活と言いながら、肝心のイエス様が見えなくなってしまうのです。ある人がこんな説明をしています。「信仰生活の主人公はイエス様である。私達の信仰は神に招かれて始まったのです。そして招かれた私達のために、イエス様は十字架に架かって下さった。いわば私達の信仰生活のために一人で闘って下さったのです。そして、イエス様に十字架を止めさせようとするサタンに勝利して、十字架を成し遂げ、死にも勝利して甦って下った。私達のために勝利して下さったのです。そして今も、闘って下さっているのです」。聖書は言います。「罪に定めようとするのはだれですか。死んでくださった方、いや、よみがえられた方であるキリスト・イエスが、神の右の座に着き、私たちのためにとりなしていてくださるのです」(ローマ8:34)。イエス様が、今私達を執り成していて下さるというのです。あるいは、こうも言います。「しかし、主は、『わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである』と言われたのです。ですから、私は、キリストの力が私をおおうために、むしろ大いに喜んで私の弱さを誇りましょう。ですから、私は、キリストのために、弱さ、侮辱、苦痛、迫害、困難に甘んじています。なぜなら、私が弱いときにこそ、私は強いからです」(2コリント12:9~10)。イエス様が私達の弱さのところで働いていて下さるのです。これらの言葉が語るのは、イエス様が今、私達のために闘っていて下さるということではないでしょうか。それは、私達個人を立て上げるためのイエス様の闘いかも知れない。教会を立て上げ、その働きを前に進める闘いかも知れない、いずれにしても、イエス様が中心にいて、私達のために闘っておられる、私達はそれを手伝わせて頂くのです。
私達には「恐れ」があります。「大きな恐れ」、「小さな恐れ」があります。しかしそのような私達を、神が選んで下さった。その私達のために、イエス様は十字架で闘って下さった。そして今、イエス様は、私達の信仰生活の主人として戦い、勝利し続けて下さっているのです。だから私達の信仰生活は―(サタンにやられたらひとたまりもないような私達の信仰生活は)―保たれているのです。私達は、私達の信仰生活の王座にイエス様に座って頂きましょう。イエス様を私達の人生の主役に据えて、信仰生活をさせて頂きましょう。ある牧師が言いました。「人生の主役はイエス様で、一切の責任も主役であるイエス様が負って下さると知ると、肩の荷が下りて、気が楽になりました。脇役人生が楽しみになります」(横山幹雄)。ここに、私達が「恐れ」から解放される秘訣があるのではないでしょうか。
 

聖書箇所:マルコ福音書14章32~42節  

 昨年12月、私達は、最長老の姉妹を天にお送りしました。皆さんもご存知の通り、とにかく祈りの器であられました。お祈りを拝聴していると、普段どれだけ良く祈っておられるのか、それが良く伝わって来るように、私は感じましたが、皆さんもそうでいらっしゃったのではないでしょうか。「教会は祈られた祈りによって進んで行く」と言われます。この教会が歩みを進めるために、姉妹の祈りは大きな力だったことと思います。施設におられても、きっと教会のことを祈っていて下さっていたことでしょう。姉妹を天にお送りした今、姉妹の祈りを、残された私達が皆で手分けして受け持たなければならないような気がしています。日々の祈りの中に「これは姉妹が祈っておられた分」として、祈りを加えて頂ければと願います。
 

0.イントロダクション 

 さて、イエス様と弟子達は、エルサレムのある家の二階座敷で「過越しの食事」を取られました。それは「最後の晩餐」であり、また「聖餐―(聖餐が象徴する『新しい契約、新約』)―が制定された食事」でもありました。その後、イエス様と弟子達は、エルサレム市街を出て、20~30分歩いて、エルサレムの東にあるオリーブ山の「ゲッセマネの園」と呼ばれる所にやって来ました。おそらくこの園は、イエス様が祈るために頻繁に行かれた場所だったのだろうと思います。エルサレムのお金持ち達は、オリーブ山に自分の庭園を持っていました。あの二階座敷を提供してくれた同じ人が、自分の園をイエス様と弟子達には、いつも開放していたのかも知れません。園についた時、イエス様は、ペテロ、ヤコブ、ヨハネという中心的な弟子を伴って、祈りの場所に入って行かれました。そこで祈られるイエス様と3人の弟子達の様子が、この個所には記されています。
ではイエス様と3人の弟子達の姿は、私達に何を教えるのでしょうか。「内容」と「適用」とお話しします。
 

1.内容~主イエスの祈り

33~34節に「イエスは深く恐れもだえ始められた。そして彼らに言われた。『わたしは悲しみのあまり死ぬほどです…』」(33~34)とあります。イエス様は「死ぬばかりに悲しい」と言われました。何を死ぬばかりに悲しんでおられるのでしょうか。「イエスは深く恐れもだえ始められた」(33)と書いてあるところから察すると、それは「恐れのため」だったようにも思えます。36節では「この杯をわたしから取りのけてください」(36)と祈っておられます。「杯」、それは「十字架」のことでしょう。イエス様は、およそ33歳です。人間的に言えば、十字架が嬉しいはずがありません。しかし、ある人はこう言うかも知れない。「神の子ともあろう方が、こんなに恐れもだえて、『死にたくない』と言うのはおかしいじゃないか」。確かに、神の子がこんなに恐れるのは、おかしいと思えるかも知れない。イエス様より、後の殉教者の方がよほど堂々としているようにも思えます。しかし、聖書がイエス様の弱々しい姿をあえて書くのは、理由があるからです。
イエス様がこれほど恐れておられるのは、どういうことかと言うと、イエス様は、(いわば)ここで「神の子」ではない、「人間」になり切っておられる、ということではないかと思います。ある人は「イエスはここで神であることを止めた」と表現しました。この恐れは、神であることを止めて、人間になり切って下さった、その故のイエス様の恐れだったと思います。
しかし、ではなぜイエス様は、神であることを止めて人間になり切らなければならなかったのか。それは、人間の―(私達の)―身代わりになられるためです。私達の身代わりになり切って、私達の代わりに十字架で罰を―(裁きを)―受けて下さるためです。ではなぜ、「人間の罰」を身代わりに受ける必要があったのか。それは、人が―(私達が)―本来あるべき生き方が出来ないからです。私達は、神に喜ばれるようには生きることが出来ない。いや、それどころか、人間には激しい罪への傾向があるのです。
その私達の中にある罪性が、どこに現れるのか。それが、イエス様の「悲しい」という言葉に表れているのです。イエス様は、やがてやって来る十字架を恐れて「悲しい」と言っておられるのではないのです。いや、それもあったかも知れない。しかし、それ以上にイエス様が悲しんでおられるのは、イエス様が十字架につかなければならないほどの「人間の罪」です。そしてその罪の故に、本来あるべき生き方が出来ない、神様の御心にそむいた生き方しか出来ない、だから神に裁きを行わせてしまう、その人間の状態を、イエス様は神様と一緒に悲しんでおられるのです。神様の「人間を思う悲しみ」を写し取っておられるが故に、「悲しい」と言われ、十字架に向かわれるのです。
私は、近頃、良く夢を見ます。その夢は、自分が通って来た何らかの場面が下敷きになっています。それが奇想天外な場面として展開するのですが、しかし夢を見る度に自分の過去が思い出されます。過去の出来事が、重くて、重くて、そして恥ずかしくて、どうしようもない思いになることもあります。イエス様は、1人の罪どころではない、同時に私の罪、あなたの罪、何億、何十億、何百億、気の遠くなるほどの多くの人の罪を負って、執り成しておられるのです。本当に私達の罪のために苦しんでおられるのです。私達の罪を悲しんでおられるのです。
それは、何を意味するかというと、イエス様は私達のために、私達の罪のために、本気で悩み、悲しみ、苦しみ、そして私達の罪の一切を背負って下さったということです。神の子がそのように苦しんで下さったということ、そして執り成しを完成するために、命を投げ出して下さったのです。   
人としてのイエス様は、こうも言われました。「父よ。あなたにおできにならないことはありません。どうぞ、この杯をわたしから取りのけでください」(36)。「神様。この人々の罪を贖う方法は、私が十字架に架かる以外にないのですか」、そのように「他の方法はないのですか」と祈られたのです。この数多の罪を背負って、その人々の身代わりに死ぬということは、神から切り離されるということです。ある人は言いました。「本当に死の恐ろしさ、神から切り離される恐ろしさを知っていたのは、イエスだけだった」。それ故の恐怖だったかも知れません。だからイエスは、苦しまれました。しかし、神もご自分の独り子を見殺しにするのです。自分の子供だけには、なるべく苦しみを経験させたくないと思うのが親心でしょう。子供の命が助かるなら、何だってするのが親でしょう。それを神様は、最も残酷な仕方で、独り子を死に至らしめるのです。神と神の子が苦しみ抜いて実現して下さったのが、私達の救いです。だからこの救いは本物なのです。この救いで救われない人、神の御許に迎えられない人は、いないのです。
受付にあるトラクトに、こんな話がありました。この方は、17歳で家を飛び出し、ヤクザの世界に飛び込んで17年が経っていました。多くの人を傷つけ、家族を捨て、一方で何千人というヤクザの人達から命を狙われて逃亡生活をしていました。その中で少しずつ心が壊れて行ったのです。人を見れば、自分の命を狙っている殺し屋にしか見えない。家から一歩も出られない状態になって、自殺しようとしても、怖くて出来ず、「誰か助けてくれー、助けてくれー」と叫び続けていたのです。そんな時に、1人の牧師に出会います。牧師は言いました。「世界中の誰も、あなたを愛してくれないとしても、『わたしの目には、あなたは高価で尊い、わたしはあなたを愛している』(イザヤ43:4)とイエス・キリストが言っていますよ」。「あの十字架の手足に打ち抜かれた釘の跡は、あなたがその手で犯した、またその足で行ってはいけない所へ行き続けた罪のため。脇腹の槍の跡は、あなたが心で犯した罪のため。いばらの冠は、あなたが頭の中で犯した罪のためなんですよ。イエス・キリストの十字架の死と復活は、あなたに新しい力を与え、あなたが心を開いて自分の罪を認め、イエス・キリストをあなたの心に迎えることが出来たなら、あなたは救われ、もう一度やり直せるんですよ」。牧師はそう導いたのです。そして彼は、イエス様を心に迎え、そこから人生をやり直すのです。今、伝道者として豊かに用いられています。
父なる神様と子なる神イエス様の苦しみから生まれた福音は、力があり、この福音は本物であること、イエス様の苦しみはそれを語ります。
 

2.適用~主イエスの祈りを祈る

 この個所は、私達の信仰生活に2つのことを語ると思います。

1)罪を知る

なぜイエス様は、祈りの場所にペテロ、ヤコブ、ヨハネを連れて行かれたのでしょうか。イエス様は、これまでの活動の中でも、この3人を引き連れて出かけておられます。5章では、会堂司ヤイロの娘を癒す場面で、9章の「変貌山」の出来事でも、この3人を連れて行かれました。それは「この3人にそれらの出来事を見せておきたい」と思われたからでしょう。見せておきたいイエスのお姿があったからでしょう。では、ここでイエス様が見せておきたいと思われた姿は、どのようなお姿だったのでしょうか。おそらく、それは「祈り」の姿です。イエス様は、苦しんで罪を執り成す姿を弟子たちに見せておきたいと思われたのではないでしょうか。そして同時に「神の悲しみ、イエス様の悲しみ」を彼らに共有して欲しいと願われたのではないかと思うのです。イエス様の、人の罪を思う悲しみ、それを全身で受け止め、その悲しみを「自分の悲しみ」にして欲しいと願われたのではないでしょうか。
しかし弟子達は、寝てしまうのです。イエス様の悲しみを共有しない。もちろん疲れていたのでしょう。でも私達は、自分の罪のために、どんなに肉体が疲れていても、眠れないほどに神の前に罪を思い悩むことがあるでしょうか。イエス様ほど深く、自分の罪を、そしてあの人、この人の罪を、悲しみ、そのために祈り抜くことがあるでしょうか。私達は、自分の罪について眠りこけている面があるのでないでしょうか。三浦綾子さんは言っています。「罪の意識がないのが最大の罪ではないだろうか」。もちろん私達は自分の罪を知っています。罪の自覚があるからこそ、罪を告白して、神の赦しを感謝して、信仰を持たせてもらいました。しかし、信仰を持っていても、神の前に罪を犯し続けます。星野富弘さんが信仰を持つきっかけになったことの1つに、クリスチャンの看護師さんの言葉があります。「教会に行っている人ってどんな人達ですか?」。看護師さんは答えました。「普通の人達ですよ。ただ1つだけ違っているとしたら、それは自分が罪人だと知っている人達だということです」。これは信仰者の特徴を良く表している言葉だと思います。「罪を知っている」、それが決定的にクリスチャンをクリスチャン足らしめていることです。でも、その罪を普段どれだけ悲しんでいるのか、そのことを問われるのです。罪赦されたことを喜ぶことも、もちろん大切です。でもその裏側に、罪を悲しむ思いを持たなければならないのではないでしょうか。イエス様のゲッセマネの悲しみを共有しなければならないのではないでしょうか。そうでなければ、私達は今日、十字架の苦しみを、「私のためであった」と心から喜び、感謝することは出来ないのではないでしょうか。
しかし私は、この個所を学んでいて、ある本に教えられました。先ほど申し上げましたが、イエスは、多くの人の罪を背負い、それが赦されるために執り成しをしておられるのです。その中には、イエス様を十字架に架けるために画策した人々、イエス様を嘲笑した人々、イエス様を直接殺して行く兵士達も含まれるのです。私達は、自分に罪を犯す人に対してどうでしょうか。私は恨みます。心の中で裁きます。イエス様が「我らに罪を犯す者を我らが赦す如く、我らの罪をも赦し給え」という祈りを教えて下さいましたから、聖霊の助けを請い願い、「赦そう」とすることが精一杯です。しかしイエス様は、ご自分の姿を弟子達に見せようとなさった。そこには、自分に悪を為す人々を執り成す祈り、その人の罪の赦しを願う祈り、があったのです。私には、自分に悪を為す人のその罪が赦されるように神に執り成す、等という発想はありませんでした。しかし、そこにキリスト教信仰の赦しの真髄があるのかも知れない、と思わされることです。大きなチャンレジです。しかし、そこに踏み出すことが出来れば、色々なしばりから解放されるような気がしました。
いずれにしても、イエス様は私達の罪を悲しんで下さったこと、その悲しみを分け持って欲しいと願われたこと、それを私達は、心に刻みたいと願うことです。
 

2)御心に備える

祈りのもう1つの大切な働き、それは、御心に備えるということです。
イエス様は言われました。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(38)。この「心は燃えていても」という言葉を、「メッセージ訳聖書」は「神にあってどんなことにも備えていても」も訳しています。「備えていても…肉体が弱いから、その備えが崩れて行く」のです。
しかし、イエス様はどうであったか。イエス様は祈りの中で、その備えをつくられたのです。神に「他に道はありませんか」と尋ねならが、その祈りの闘いの中で「神の御心はこれしかない」ことが明らかになった時、イエス様は「あなたのみこころのままをなさってください」(36)と言われ、神が命じて、求めておられるなら、喜んでそこへ行くと言われ、「時が来ました…立ちなさい。さあ、行くのです」(41~42)と立ち上がり、捕り手に向かって行こうとされたのです。ここが教える「祈り」とは、まさに「備え」ではないでしょうか。御心に生きようとする備えだと思うのです。「御心に生きる」、それは祈り無くしてはあり得ません。私達が祈ることが難しいとしたら、それはそのまま「神の御心に生きるための備えることが出来ない、備えようとする姿勢が無い」ということを意味するのではないでしょうか。だから私達は、御心に生きたいという願いはあっても、願うだけで実行出来ないことが多いのではないでしょうか。御心に生きようとするなら、祈ることが、祈って備えることが、大切なのではないでしょうか。
田原米子という方は、お母さんの死を通して人生に絶望し、電車に身を投げ、両足と片手を失い、右手も3本の指しか残らなかった、その本当に絶望のどん底から、福音を聞き、神に生きる力をもらい、やがては「生きるって素晴らしい」と証しをして、多くの子供達を励まして回った方です。以前、教会の集会でその方のビデオを見た時、ハッとしたことがあります。彼女は、両足がありませんから、起きるとまず義足を付けます。義足を付け終わると、そこで祈るのです。「神様、今日一日、あなたが会わせて下さる方のために生きることが出来ますように、今日一日、御心に生きることが出来ますように」、そう祈って、一日を始めるのです。私は「『御心を生きることが出来ますように』と祈って一日を始めたことがあっただろうか」、と心探られました。そして、この個所を学び、改めて彼女の祈っているお姿が思い出されたことでした。その祈りの意味、大切さを教えられる気がしました。私達は、信仰生活をより良く生きるために、もっと祈りによって備えなければならないのではないでしょうか。
 

終わりに

ある人が言いました。「神様がもう一度人生をやり直させて下さるなら、色々なことに使った時間を、今度は祈りに使うだろう」。祈りの大切さを教えられる言葉です。私達も、もっともっと祈りたい、願わくは、深く祈りたいと思います。
 

聖書箇所:マルコ福音書14章27~31節  

 「人は、成功を通しては驚くほど学ばない」という言葉を聞いたことがあります。「失敗を通してこそ学ぶ」ということでしょうから、慰めの言葉ですが、私は、あることを通して、本当に恥ずかしい、情けない思いをして、落ちこんだことがあります。具体的に言えないほど情けない話なので、「あること」ということで流して下さい。そのような時に出会い直したのが「イザヤ書」の言葉でした。「わたしは、高く聖なるところに住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ57:15)。この言葉をある神学者が次のように解説してくれています。「『砕かれる』というのは、粉々にちりぢりにされるということです。また『へりくだる』という言葉は、日本語の謙遜などというような言葉では間に合わない、全く自分が辱められて苦悩を通って低くされるという意味です…心砕けてへりくだるというのは、めった打ちにされた者という意味です。神は…その心がずたずたに切り裂かれて…最もみじめだと、自分を自覚できるそういう人と共に住み、そういう人の霊を生かし、そういう人の心を生かしてくださるというのが…本当の意味です」(小林和夫)。この言葉を読んで「情けない思いをして落ち込んでも、それも意味のあることなのだ」と慰められました。もっと積極的に言うと、「砕かれる」ということは、神の御霊に近づくことの出来る恵みだと思います。
そういうことを、そのまま生きて見せたのが、イエス様の弟子のペテロだと思うのです。
イエス様の十字架と復活と昇天の後、ペテロは「大使徒」と呼ばれ、初代教会をリードし、迫害の中を生きるクリスチャン達を励まし、支え続けました。その偉大なリーダーが、しかし、イエス様の十字架に際して、本当に情けない姿を曝します。弱さが暴露されます。「福音書」が書かれたのは、すでにペテロが「大使徒」として人々をリードしていた時代、あるいはその後の時代です。しかし「福音書」は、教会の偉大な指導者の、その情けない姿を隠すことなく書いています、そこに「聖書」の真実さを改めて教えられる気がします。
その「十字架に際してのペテロの弱さ」を具体的に描き始めるのが今日の個所です。今日も、「内容」と「適用」と2つに分けてお話し致します。
 

1:内容~つまずきさえ祝福に

イエス様の一行は「過ぎ越しの食事」を終えて、「讃美の歌を歌ってから、みなでオリーブ山へ出かけて行」(14:26)きました。因みにイエス様達が「過ぎ越しの食事」の時に歌った讃美は「詩篇115~118篇」だっただろうと言われます。それが「過ぎ越しの食事」で歌われる歌でした。イエス様は十字架上で「詩篇22篇」以降、数篇の「詩篇」を語っておられます。ある学者は言いました。「イエスは『詩篇』の中にあり、『詩篇』と共にあった」。私達は「詩篇」を読むことを通して、イエス様の御心に近づくことが出来るかも知れません。さて、一行が「過ぎ越しの食事」を取ったエルサレム市街地からオリーブ山までは、歩いて20分ほどの距離だそうです。その道を上りながらイエスは言われたのです。「あなたがたはみな、つまずきます。『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』と書いてありますから」(27)。「旧約聖書『ゼカリヤ書』」の預言の言葉ですが、この言葉を切っ掛けにして、イエス様とペテロの掛け合いが始まります。そのやりとりの中で―(ペテロは、この時点ではまだ、イエス様を裏切っているのではありません、しかし)―彼は、私達に、人間の罪の姿―(弱さ)―を見せてくれるのです。
ペテロは言います。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」(29)。これは、何を言っているのでしょうか。彼は「私達は、誰もつまずきません」と言っているのではないのです。「たとい全部の者がつまずいても、私はつまずきません」とは「他の連中は知りませんが、私はつまずきません」と言っているのです。「他の連中と私は違う」と言っているのです。つまり、仲間の信仰を裁いているのです。極端に言うと、仲間を仲間だと思っていない。この段階でイエス様の弟子グループは、既に崩れ始めているのです。それに対してイエス様は「あなたは、きょう、今夜、鶏が二度鳴く前に、わたしを知らないと三度言います」(30)と言われます。ペテロは「そんなことは絶対にない」と力を込めて言ったのでしょう。「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」(31)。そして「みなの者もそう言った」(31)とあります。みんなが「私だけは大丈夫」と思っていたのです。
しかし、現実はどうだったのか。イエス様が言われた通りのことが起こるのです。ペテロについて言えば…。「今日、今夜」という言葉ですが、ユダヤのカレンダーでは、日没から「新しい一日」が始まります。「過ぎ越しの食事」が済んだこの時刻は、もう新しい日(金曜日)に入っていました。鶏は、明け方、夜明けに鳴くそうです。鶏が鳴く前にペテロは、3度―(つまり『完全に』)―イエス様を『知らない』と言うのです。そして、他の弟子達もみんな、我先に逃げ出してしまうのです。
何が問題だったのか。それは、ペテロも、他の弟子達も、自分の本当の弱さを知らなかったということです。自分は、恐れの前にどんなに弱いか、本当は自分を守るためには、先生であるイエス様でも捨ててしまうような者であったこと、そういった本当の姿が見えていなかったのです。どうしなければならなかったのでしょうか。イエス様は、この後のところでこう言っておられます。「誘惑に陥らないように、目をさまして、祈り続けなさい。心は燃えていても、肉体は弱いのです」(14:38)。本当に真剣に祈らなければならなかったのです。自分は弱い、だから自分に頼るのではない、自分の力を誇るのではない、神様を頼ることが出来るように、
神様に頼る自分であり、神様に支えて頂く自分であるために、祈らなければならなかったのです。韓国の教会の話を聞いたことがあります。毎朝5時30分から集まって早天祈祷会をして、金曜日の夜には徹夜祈祷会をしているのだそうです。私は教えられます。何か願いがあるから祈るのではない。いや、それも大事です。私達の祈りの大部分は願いでしょう。それはそれで大事な祈りの内容です。しかしその前に、自分で立つのではない、神様に頼って神様に立たせてもらう、そのような自分であるためには、祈る必要があるのではないでしょうか。「祈っていたから…祈られていたから…」という不思議、祝福を、私達も経験させて頂くことが多いのです。
さて、しかしなぜ、イエス様はこのような予言(予告)をなさったのでしょうか。「あなたがたのうちの一人」ではなく、「あなたがたはみな」(27)です。「弟子達はみんな、わたしにつまずく」と告げられたのです。例外はないのです。イエス様は「『わたしが羊飼いを打つ。すると、羊は散り散りになる』とかいてありますから」(27)と言われました。申し上げたように、これは「ゼカリヤ書13章7節」の引用ですが、イエス様が言おうとしておられることは、はっきりしています。「羊飼い」はイエス様でしょう。「羊」は弟子達のことです。「わたし」とは、父なる神様ということになります。神様がイエス様を打たれる。つまり十字架にお架けになる。すると、弟子達は散ってしまう。イエス様を見捨てて逃げてしまう。そう告げられたのです。イエス様は、御自身が十字架にお架かりになった後、何が起きるのか、正確にお語りになったのです。そして実際、その通りになりました。繰り返しますが、なぜこのような予言を為さったのか。
それは、ペテロが、そして弟子達が、この経験を通して、信仰的に大事な成長をするためだと思います。これほどはっきり予言(予告)をされたので、ペテロも弟子達も、このイエス様の言葉を忘れることはなかったでしょう。ペテロの場合は、本当に3度目に「そんな人は知らない」(14:71新共同訳)と言った時、鶏が2度目に鳴いたのです。そして泣き出すのです。自分はイエス様を裏切ってしまった、という自責の念も持ったことでしょう。「自分は決して裏切らない、つまずかない」と言っていたのに、あっさり裏切ってしまったのです。しかし、彼らの心に迫って来たのは、それだけではなかったと思います。大切なこと、それは、何もかもイエスの言われた通りだったこと、に気づいたであろうことです。イエスが言われた通りだったことがはっきり分かった、ことです。ということは、自分の弱さ、情けなさ、そういったものを、イエス様はご存知であった、自分は知らなかったけど、イエス様はご存知であった、それに気づいたということです。
しかしその時、彼らの心には、イエス様のもう1つの言葉があったのではないでしょうか。「しかしわたしは、よみがえってから、あなたがたより先に、ガリラヤへ行きます」(28)。「先に…行きます」とは、どういうことでしょうか。それは、「またあなた方の先頭に立って、あなた方を導きます」ということではないでしょうか。つまりイエス様は、彼らの弱さも、彼らの裏切りも、全部をご存知でありながら、それを既に赦しておられた、それを彼らは知るのです。そして実際、イエス様は復活して、彼らとガリラヤで会われました。そしてイエス様は、彼らをまた召されたのです。「ヨハネ福音書」に印象的な記事があります。イエス様はペテロに聞かれます。「ヨハネの子シモン、あなたはわたしを愛しますか」(ヨハネ21:16)。3回聞かれます。イエスが3回聞かれたのは、「3回裏切った」というペテロの罪責感の1つ1つを拭い去るためではなかったかと思います。イエス様がみんなの前で3回「あなたはわたしを愛するか」と聞かれて、ペテロが絞り出すようにして「あなたは、私があなたを愛することを知っておいでになります」(ヨハネ21:17)と言った時、「あなたの3回の裏切りは、全て赦され、拭い去れた。安心して立ち上がれ」と言うがごとく「わたしの羊を飼いなさい―(私の教会の牧者としてあなたを任命する)」(ヨハネ21:17)と、イエスは言って下さるのです。
そして、ここにおいて弟子達は、何よりも大事なことを理解するのです。それは、「『福音』とは何か」ということです。弟子達は、それまでイエス様を信じて、頑張ってイエス様に従って来ました。そしてイエス様の地上的な勝利に与ろうとしました。自分の力でイエス様について来たのです。そしてそれは、「他の誰がつまずいても、私はつまずかない、たとえイエス様と一緒に死ななければならないことがあっても、私は裏切らない」、そういう信仰へと導かれて行ったのでしょう。それは本気だったと思います。しかし、結局、そうは出来なかったのです。恐れの前にあっさり裏切ってしまったのです。しかしイエス様は、それを全部承知で受け入れ、赦し、そして裏切りの後、復活されて後、再び彼らを召して下さったのです。この赦しが、ただ赦されて神様との、イエス様との関係に入れて頂く、それが「福音」なのです。ペテロは知ったはずです。イエス様の十字架は、イエス様を裏切ってしまうような自分のためであったことを、自分の中には、神様、イエス様に、喜んで頂くようなものは何もないということを、骨身に沁みて分かったはずです。
しかし、だからこそ彼らは、「福音」を宣べ伝えることが出来たのです。そうでなければ、
彼らは『福音』を語ることは出来なかったのです。キリスト教とは、神の憐れみによって赦され、一方的に愛され、神との関係に入れて頂き、神と生きて行くことです。その「福音」を、彼らが宣べ伝えてくれたから、今も私達は、ただ赦されて、神の御手の中に入れて頂く、その祝福、良い知らせを、「良い知らせ」として喜ぶことが出来るのです。
ここにおいて、イエス様が「ゼカリヤ書」の預言の言葉を引用された意味も分かります。
彼らの裏切りが「旧約」に預言されていたということは、神がそれを知っておられた、ということです。それは辛い出来事でした。しかし神は、その辛い出来事を通して、彼らに素晴らしいことをして下さった、素晴らしい経験を、理解を、与えて下さったのです。だから、このことさえ神の御心の内にあったことだったのです。「聖書」の言葉を思い出します。「あなたがたは私に悪を謀りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとしてくださいました」(創世記50:20)。神様は、私達のつまずきさえ、御手の中で祝福(益)に変えて下さるのです。感謝です。
 

2:適用~つまずいた時が大切

短く適用を考えたいと思います。私達も、信仰生活においてつまずくことがあるかも知れません。いや、あるのではないでしょうか。「なぜ神は、私にこんなことが起こることを許されたのか」。時々、私達は、自分の弱さゆえのことでも、神のせいにして、神様を非難することはないでしょうか。私は一昨年、鬱になり、何かも否定的に見えて、病気に背中を押されて、自分がこんな風になったその原因、状況を許しておられる神を非難しました。神様を責めました。神様につまずいたのです。しかし、まだはっきりと分かった訳ではありませんが、その前―(15~16年前)―に鬱になった時のことを思いました。あんなに絶望していたのに、神様はやがて「あれがあって良かった」と思えるようにして下さった。「あのことがなければ、何を立つ瀬に牧師をしていただろうか」と思うようなことにして下さったのです。だから神様は、今回のこのつまずきも、その同じ経験として持たせて下さるに違いない、そう信じることが出来るようになって来ています。
つまり、つまずきの経験―(神につまずく、人につまずく、あるいは自分の情けなさにつまずく、いずれにしても)―神がそれを許しておられるのは、それは私達の信仰にとって大切な時だからです。それは、私達の頑なな何かが砕かれる時かも知れない、信仰の真理に目が開かれる時かも知れない、神様に委ねることを身に付ける時かも知れない、いずれにしても、大切な時なのです。だからこそ、大切なのは、そのつまずきの中で、信仰に、神様に、背を向けてしまわないことだと思います。出来ることなら、いや「立ち直ったら」と言った方が良いかも知れませんが、聖書を読み、祈り、集会に集い、そういう歩みを続けることではないでしょうか。その時、そのつまずきの時は、やがて感謝の時、恵みの時になるのではないでしょうか。神がそのように変えて下さるのではないでしょうか。私はそう信じます。