2023年11月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:コリント人への手紙第二12章8~11節

皆様、特別讃美礼拝にようこそお出で下さいました。
早速ですが、水野源三という方をご存じでしょうか。水野源三さんは、1937年、長野県で生まれました。元気な子供でした。ところが1946年、小学4年の時に、村に発生した集団赤痢で脳性麻痺になり、それ以来、首から下の体の自由、言葉の自由を奪われて、瞬きしか出来ない、47歳で亡くなるまで、生涯、その状態で過ごされた方です。体が不自由になった時、当時まだ声が出ていた彼の口から出るのは「死ぬ、死ぬ…」という言葉だったのです。その口もやがて利けなくなりました。水野さんは、少年にして、全くの絶望の中に置かれたのです。お母さんはパン屋をしながら水野さんの介護をしました。
そのパン屋にある日、高齢の牧師がパンを買いに来て、家の奥に人の気配を感じ、水野さんのことを知るのです。彼は、水野さんに1冊の聖書を置いて帰りました。水野さんは、その聖書を読んだのです。聖書は漢字に全部ルビが振ってありますから、12歳の水野さんにも読めたのです。水野さんは生きるための水を求めていました。その彼に、いのちの水が注がれました。水野さんは、聖書を通して神に出会い、信仰を持つのです。そして13歳でキリスト教の洗礼を受けました。「本当に源ちゃんはパッと変わった」と家族が言うほど劇的に変わったのです。その後、お母さんの持つ五十音版で瞬きで言葉を伝え、神を称える短歌や詩を書いて素晴らしい証しの人生を全うされました。生涯に4冊の詩集も発行され、詩集の発行は「現代の奇蹟」と呼ばれました。
 なぜ、水野源三さんのお話を紹介したかと申しますと、今朝、中姉妹が、水野さんの詩を歌にした讃美も歌って下さると聞いたからです。なぜ中姉妹が水野さんの歌を取り上げられたのだろうか、私なりに考えてみました。それは、絶望的な状況の水野さんに、生きる喜びを与え、そのご生涯を希望に生かし続けられた神様の恵みを、お集いの皆様に紹介したいと思われたのではないかと、思ったのです。
 先ほど、「聖書」を読んで頂きましたが、あの中にあった「わたしの恵みはあなたに十分である」という言葉は、水野さんの最初の詩集のタイトルの言葉です。「わが恵み汝に足れり」とつけられています。水野さんはどういう思いをこのタイトルに込められたのでしょうか。
 「新約聖書」の半分くらいを書いたパウロという人がいます。歴史家が「イエスとパウロによって世界の歴史は変わった」と言う人です。しかし彼は、どうにもならない慢性的な病気を患っていたのです。目の病気か、マラリヤ熱か、良く分かりません。パウロは神様に「神様、この病気を何とかして下さい」と何度も何度も祈ったのです。しかし、その時、神様の答えは「わたしの恵みは、あなたに十分である。というのは、わたしの力は、弱さのうちに完全に現われるからである」(2コリント12:9)。つまり神様は「その病は取り去られることはないかも知れないが、しかし、その弱さに耐える力、その弱さを遥かに覆う恵みを与え続けよう」と言われたのです。パウロは、体の弱さがあるからこそ神に頼り、神に頼る時、彼を守り、支え、様々な困難に勝利させてゆく神の力、神の恵みを経験して行くのです。パウロは、その神の力、神の恵みを語りたかったのです。
 水野さんが、この言葉をご自分の詩集のタイトルにつけたのも、正にその思いからだったのではないかと思います。かつて「死にたい、死にたい…」と死ぬことしか考えていなかった自分がいた、生きて行く何の望みもなかった自分がいたのです。彼は詩に書いています。「キリストの御愛に触れたその時に、キリストの御愛に触れたその時、私の心は変わりました。喜びと希望の朝の光がさして来ました」。その自分が、現実には瞬きしか出来ない体だけれども、しかし心には、神に愛され、神に生かされている喜びが沸き上がって来るのです。神が共に生きて下さるところから来る希望が沸き上がって来るのです。生かされていることが感謝なのです。彼はこうも言っています。「神を讃えても、讃えても、讃えつくせなき」。
 神様という方は、何という方かと思います。また彼は、自分の苦しみの意味も見出しました。「苦しみを通してキリストを、神を知ることが出来た」、それで満足したのです。それほど、キリストを、神を、十字架を、天国を知ることは、彼にとって素晴らしい恵みだったのです。
水野さんを主人公にしたビデオの中に小学3年の「一秀君」という少年と水野さんとの出会いが描かれていました。彼は小さい時から色々な病気に悩み、水野さんに出会う前も失明するかも知れないという状況にありました。クリスチャンであるお母さんから水野さんのことを聞いた一秀君は、「水野さんに会いたい」と言って、お母さんに連れられて水野さんを訪ねました。水野さんは、一秀君に語りかけることは出来ません。しかし一秀君の持つ苦難の意味を一番良く知っているかのように、慈愛に満ちた眼差しで一秀君を優しく迎えたのです。一秀君は、
ジッと食い入るように水野さんを見つめます。その一秀君に、水野さんは、瞬きでこう語りかけました。「他の人と、比べないようにして、生きて行って下さい」。こうやって、水野さんは、人を励ます人になって行ったのです。「一秀君…苦しい時、悲しい時に…愛の御神を仰げよ」という詩も捧げています。
私は水野さんの生涯を思う時、神様の素晴らしさ、神様の恵みの素晴らしさを疑うことは出来ません。そして私自身も、それまでの人生で一番苦しい時、病院で「死にたいですか」と聞かれるようなところを通った時、神の恵みで立ち上がらせてもらった1人です。神の恵みは、皆様にも与えられ、注がれる恵みです。苦しければ苦しいほど、問題が大きければ大きいほど、「私が十分な恵みよってあなたを支え、守り、生かして行く」と語って下さる恵みです。今朝、お出で下さった皆様に、その恵みをご自分のものにして頂くことを心からお勧め申し上げます。
さて今朝、中姉妹は、水野さんの歌ばかりでなく、色々な讃美歌を歌って下さいますし、また皆様とご一緒に歌いたいと願っておられます。水野さんの詩の中に「天のお父様と、声を出して、お呼びしたい」という言葉があります。水野さんも色々な讃美のテープを聞いておられたようです。きっと声に出して思いっきり讃美歌を歌いたくていらしただろうと思います。水野さんの分まで、今朝、恵みの神様を歌う讃美歌を、皆様とご一緒に歌いたいと願っております。
「聖書」に「わが神…あなたは聖であられ、イスラエルの賛美を住まいとしておられます」(詩篇22:1,3)という言葉があります。讃美歌を歌う時、私達は、そこに臨在される神に触れることが出来ると信じます。讃美歌を聞いて頂き、ご一緒に歌って頂くことで、水野さんに喜びを与え、生きる希望を与え続けた神様に触れて頂ければ幸いです。そして、繰り返しになりますが、恵みの神様を、ご自分の神様としてお考え頂ければ幸いです。

聖書箇所:マタイ福音書6章9節b

 先日「なぜ『旧約聖書』には戦いの記述が多いのか」という大学教授を引退された先生の講義をインターネットで聞きました。詳しい内容をご紹介する時間はありませんが、簡単に言うと次のようなことです。「『旧約』の時代、戦いの時代を生きた『旧約』の聖書記者達が神様のことを語ろうとすると、どうしても、戦いの中で助け、守り、勝利をさせて下さった神様のことを書くことになる―(もちろん霊感を受けてですが)。神もそれを許された、その意味で『旧約』は、神様の全体像を書いたものではない。だからこそ、イエス様が愛の神様を人間に教えるために地に来られ、十字架の道を歩いて下さった」。そういう話でした。まだ講義は続くようですが、イエス様は、神様の姿を明らかにするために命を懸けられたというのです。それは、今朝の「聖書」の内容と重なる部分があるように思ったことでした。 
さて「主の祈り」、今朝は2回目で、「第1の祈り」、「御名があがめられますように」(マタイ6:9)という祈りの言葉について学びます。この言葉は、イエスが「主の祈り」を教えて下さった理由を教えます。私達は、祈る時、まず「神の御名が崇められますように」というような祈りをするでしょうか。まず自分の願いを祈るのではないでしょうか。その意味でも、「主の祈り」を通して「神が何を願っておられるのか」、御心に近づく必要があります。「御名があがめられますように」ですが、私達が覚えている「祈り」の言葉は少し違います。それは「御名をあがめさせたまえ―(御名をあがめさせて下さい)」です。「御名があがめられますように」と「御名をあがめさせてください」とではニュアンスが違います。原文のギリシャ語は「あなたの御名があがめられますように」、厳密に言うと「あなたの御名が聖なるものとされますように―(聖なるものとして取り扱われますように)」という言葉です。「あなたの御名が聖なるものとされますように」とは、どのような意味なのでしょうか。なぜそれが「あなたの御名をあがめさせて下さい」という言葉に訳されたのでしょうか。実はこの2つの訳語が、この「祈り」の意味を語ってくれるのです。
 

1:「御名があがめられますように」

 第1番目に「あなたの御名があがめられますように―(御名が聖なるものとされますように)」とはどういうことでしょうか、「あなたの御名があがめられますように」と祈る時、私達は何を祈っているのでしょうか。
まず「御名があがめられますように(御名が聖とされますように)」と祈らなければならないということは、そこに「神の御名が聖なるものとされていない」という状況があるということです。つまり「神の御名が汚されている」ということです。「エゼキエル書」にこうあります。「イスラエルの家が、自分の土地に住んでいたとき、彼らはその行ないとわざとによって、その地を汚した…それでわたしは…彼らを国々に追い散らし、彼らの行ないとわざとに応じて彼らをさばいた。彼らは、その行く先の国々に行っても、わたしの聖なる名を汚した…わたしは、イスラエルの家がその行った諸国の民の間で汚したわたしの聖なる名を惜しんだ」(エゼキエル36:16~21)。何を言っているかというと「神を信じない人々が神をバカにして、神の御名を汚した」というのではない、「神の「御名」を掲げていた神の民イスラエル人(ユダヤ人)がその御名を汚した」というのです。「御名」というのは、名前のことではありません。「詩篇」に「ある者はいくさ車を誇り、ある者は馬を誇る。しかし、私たちは私たちの神、主の御名を誇ろう」(詩編20:7)とあります。これは「困難の時、私達は神がどんな方であるかを思い出して、神によって勝利しよう」という意味です。「聖書」で「御名」とは、それは「神がどういう方か」ということを表現する言葉です。ということは「神の民が『神がどういう方であるか』、それを諸国の人々に表すことに失敗している」ということが言われているのです。しかしそれは「旧約」時代だけの話ではありません。使徒パウロはローマのクリスチャン達に向かって言いました。「…『神の名は、あなたがたのゆえに、異邦人の中でけがされている』と書いてある…」(ローマ2:24)。「あなた方も同じだ、クリスチャンを通して神の御名が汚されている」と言うのです。私達はどうでしょうか。私達は、神が聖なる方、素晴らしい方であることを表すのに失敗していないでしょうか。私は、新卒で学生気分のままそこの小学校で仕事を始めて、色々な失敗をしたのです。そして神の「御名」を汚したように思います。今でもこの辺りは顔を上げて歩けない思いなのです。皆さんはいかがでしょうか。「私は神の素晴らしさを表している」と思われるでしょうか。
 しかしポイントは、「あなたの御名が聖なるものとされますように」と祈る、では誰が神の「御名」を聖なるものとするのかということです。「エゼキエル書」の続きです。「わたしは、諸国の民の間で汚され、あなたがたが彼らの間で汚したわたしの偉大な名の聖なることを示す。わたしが彼らの目の前であなたがたのうちにわたしの聖なることを示すとき、諸国の民は、わたしが主であることを知ろう…わたしはあなたがたを諸国の民の間から連れ出し、すべての国々から集め、あなたがたの地に連れて行く」(エゼキエル36:16~24)。神の民によって汚された神の「御名」を、民が聖なるものとするのではなくて、神ご自身が聖なるものとすると仰る。どうやってそれをされるのか。捕らわれて国々に散らされた人々をもう一度集め、国を再興するという業を行う。つまり彼らの罪を赦し、立ち上がらせ、新しくやり直しをさせる、そのような恵みの中に神の民を引き込むことによって、他の人々がその様子を見て「神は凄い」と神の名を崇める、そういう形で「ご自身でご自身を『聖なるもの』とする」と言われる。この御言葉は、直接的にはバビロン捕囚からの帰還を預言するのですが、同時にイエス様による救いを預言するのです。
神の名を汚さざるを得ない、そういう生き方しか出来ない人々が―(私達が)、イエスの十字架の業によって罪赦され、立ち上がらせてもらって、新しく生き始める。その人々には、神様が父として働いて下さる。その人達を見て、人々が「神は凄い」と言うと言われるのです。私も神に赦され、やり直しをさせてもらいました。私を見て「神は凄い」という人はいませんが、でも「神に一切を赦された―(赦されている)」、その思いがあるからここに立てるのです。
カナダで出会ったご高齢の兄弟は、かつては、商売がなかなか上手く行かなくて、いつも金策に追われていたそうです。夜はビールを飲んで憂さを晴らしていた。でも心配で眠れない。ある時、本屋で「眠られぬ夜のために」という本が目に留まりました。その本に「一遍キリスト教を試してみなさい」とあって、彼は近くの教会に行ったのです。その時に「何か」が心に入って来たそうです。それから教会に行き始めました。やがて煙草が欲しくなくなり、あれだけ酒に逃げていたのに、ビールが欲しくなくなったそうです。「今日はビールは要らない」と言ったら奥さんがビックリしたのです。「一体何がこの人を変えているんやろ」と、奥さんも教会に行き始め、イエス様に捕らえられたのです。この兄弟が良く言っておられました。「先生、神は凄いな」。私も心から言いたいです。「神は凄いですね」。いずれにしても、初めから終わりまで神がして下さることです。私達はイエス様を知ることにおいても、罪赦されて恵みの中に生きるようになることにおいても、何もしていない。ただ恵みに預かるのです。神に働いて頂くのです。そして、神様が神様として、私達の父として豊かに働いて下さる時、私達も恵まれるのです。
 そこで「御名があがめられますように」と祈る時、何を祈っているのか。それは、「神がご自身の御名を聖なるものとされる、奇しい御業を為さる、その御業がますます豊かに行われ、1人でも多くの人々が、神の御業に触れて、十字架を仰ぎ見て、神様を崇めることが出来ますように」と祈るのです。誤解を恐れずに言えば、神様が「私の御名の聖なるために祈って欲しい」と私達に頼んでおられるのです。これは祈らなければならない。しかしそれだけではなく、ある先生の本にこうありました。「この本では、ひとりのズッコケ牧師の姿をご披露することにより…キリストに取り扱われ、叱られ、導かれ、守られ、変えられる様子を紹介しよう。そして、このズッコケ牧師の背後におられる大いなる陶器師に、読者の目が向くように祈りつつ書こう」(横山幹雄)―この祈りです。「こんな私が、神の御手の中で生かされているのを見て、人々が神様の素晴らしさを認めることが出来るように」、つまり「この私が、神の素晴らしさが現れるために役立ちますように」という祈りでもあるのです。
 

2:「御名をあがめさせたまえ」

 第2番目に「御名をあがめさせたまえ―(私にあなたの御名をあがめさせてください)」です。神の「御名」を聖なるものとされるのは、神ご自身です。私達は「神の業が豊かに行われますように。私も神の素晴らしさを表す器として役立ちますように」と祈るのですが…。「イエス様の十字架によって、神はご自身が聖であることを表された」と申し上げましたが、初めに申し上げたように、そのために―(神の栄光が輝き出るために)―イエスはご自身を捧げられました。「ヨハネ福音書12章」では、ご自身を十字架に差し出す決断をするために信仰の格闘をされた後、「父よ、み名があがめられますように」(ヨハネ12:28)と、「そのために十字架の道を歩みます」と祈られるのです。その意味では「神様の素晴らしさが現れるために、私も役に立ちますように」というのは、より積極的に言えば、私達が神様の「御名」が聖なるものとなるために生きる、そのような積極的な部分もあるのだと思います。今申し上げたその生き方の部分を理解して、私達の先達は「御名をあがめさせたまえ―(私にあなたの御名をあがめさせてください)」、「私が、あなたの御名が聖なるものとされるために生きることが出来るようにさせて下さい」と言い換えて祈ったのです。では、どうやって私達が、神の「御名」が聖なるものとされるために生きることが出来るのか、私は2つのことを教えられます。
 

1「神を信頼する」こと

それは、何よりも、まず神様を信頼することです。例えば、イエス様が「主の祈り」を教えて下さらなければ、私達の祈りは、どういうものでしょうか。私達が熱心に祈るのは、自分が困ったから、自分が苦しいから、問題の解決のために祈らずにおれないから、そういう祈りが多いと思うのです。ある人は、極端に次のように表現しました。「私達の祈りに現れる信仰の姿勢は、どうしても自分が上手く行くように、自分が成功するように、自分が栄誉を受けるように、生活の無事、家族の無事、仕事の成功…そういう性格を持っているのではないでしょうか」(小島誠志)。それはそれでとても大事だと思います。しかし、祈っても何も変わらないように思える時もあります。物事が失敗することがあるかも知れません。願ったことが願った通りにならないこともあるでしょう。問題は、その時にどう思うか、どうするか、ということです。
しかし、神を信頼するとは、私達に見えるところの奥に隠されている、神の御思い、神の知恵を信じることではないでしょうか。何も変わらないように見える、願ったことが願った通りにならない、しかしそこで「神の御旨は私の願い求めるところより高い、深い」と信じるのです。失敗したからお終い、つまずいたから絶望、それは人間的な考えです。人間の知恵や考えが終わったと思うところで、しかし神の御旨は終わっていないのです。私達が否定的にしか見ることが出来ないところに、神の恩寵が隠されていることがあるのです。それを信じるのです。その隠された神の御旨に目を向けなければ、行き詰まったその場所が終点になってしまいます。しかし神を信頼するとは、そこで神の摂理が終わったとは考えないのです。いやその先に希望を見るのです。私は鬱で入院した時、「もう何もかも終わりだ」と思いました。神様も遠く、遠く、自分とは関係のない存在のように感じました。しかし、終わりではなかったのです。ある意味で、そこからが第2ステージの始まりだったのです。
「AD」という「使徒行伝」を描くドラマは、イエスが架かられた十字架が取り壊されるところから始まります。暗い場面です。しかし、その場面に「始まり」という字幕が出るのです。弟子達は「もう終わった」と思ったのです。しかし神の摂理の中でそこは終わりではなかった、始まりだった、そこから教会も始まって行くのです。同じように私達も「つまずいたことも、行き詰ったことも、すべては『良かった』のだと分かる日がやがて必ず来る」、そのことを信じるのです。良く見えることも見えないことも「神は良きことをして下さるに違いない」と委ねるのです。ある方が言っておられます。「信仰を持つということは、どんな状況でも、自分に思わしくない状況に思える時にも、必ず背後で神様が事を行っていてくださっている、と考えられることでしょう。それが何であれ、今の自分にとって最善のことを神はしてくださっている、と思えることが信仰でしょうし、今までを振り返ってみて、確かにそうだったと思えることは感謝すべきことですね」(宮原寿夫)。それが信頼するということではないでしょうか。その信頼を生きようとする時、私達も神の「御名」を聖なるものとする、そのような生き方をさせて頂くことが出来るのではないでしょうか。
 

2)「御言葉に従う」こと

この話は何度もしているのですが、「神の御名が崇められる」ということを思う時、どうしても思い出す話です。
南米のある村を襲撃した軍隊の隊長が、「クリスチャンは敵を愛するのだ」と言った1人クリスチャンを通してキリスト教に興味を持ち、村の礼拝に出て来ます。村の礼拝では、新しい人が来ると全員がその人を抱擁して歓迎することになっていました。司式者が「この隊長達は村の人々にとって、自分の夫や息子、兄弟を捕らえて連れて行った張本人だ。彼らを歓迎することはとても出来ないだろう」、そう思って歓迎のプログラムをとばそうとした時、村人の方からそれを始めたのです。最初に近づいた人が言いました。「兄弟、あなたが私達の村にしたことは間違っていると思います。けれどもここは神の家です。神はあなたを愛しています。だからあなたを歓迎します。良くいらっしゃいました」。村の人々は、夫を連れ去られた人も、兄弟を連れ去られた人も、皆が次々と歓迎の言葉を述べました。最後の人が歓迎の挨拶を終えた時、隊長が話をさせて欲しいと言いました。「村を襲撃してその村にやって来たのに、兄弟として歓迎されるとは考えもしなかった。今朝、この目で見たことはほとんど信じられないくらいです…教会の礼拝に来たのはこれが初めてです。今まで神がいる等と思ったことは一度もなかったけれど、私は今、不思議な感動を味わっています。生きている限り、神の存在を疑うことはもう決してないと思う…ここにいる人達は、皆、神を知っているのですか。もしそうなら、どんな時でも神にすがりついて下さい。神を知るということは、この世で一番素晴らしいことに違いないと思う…私もいつかは『神を知っている』と言えるようになりたい」。
神を信じるとは思えないような人が、村人の信仰の業で神の「御名」を崇めたのです。もちろん、私達の現実とは、かけ離れた話です。でも本質は同じだと思います。私達もそれぞれ置かれている場で、御言葉に従うことによって、神の素晴らしさを表すことが、「御名」を聖とさせて頂くことが出来るのではないでしょうか、いや、神がそう用いて下さるのではないでしょうか。

最後に

ある神学者は言いました。「祈らないということは、ただ信仰生活のひとつの奨めを守らないということに留まらない。神を信用していないという心の表れである」。私達は、何よりも、祈りたいと思います。

聖書箇所:マタイ福音書6章9節 

 前のオバマ大統領が大統領に就任した時の就任式の様子を伝えるインターネットの番組を、私はある種の興奮をもって見ました。就任式で祈ったのはリック・ウォレンという牧師でした。(以前「水曜集会」で彼の本を学びましたが…)。彼は長い「祈り」をしましたが、最後に祈ったのは「主の祈り」でした。私は改めて「主の祈り」がキリスト教の中で持っている重要な地位を確認させられる思いでした。
私達が良く祈る「天にまします我らの父よ」という「祈り」の言葉は、今の聖書の言葉ではありません。1880年(明治13年)に日本語に翻訳された「聖書」の中で使われた言葉です。しかし一旦それが覚えられると、言葉を変えるのは難しくて、日本の教会はそれ以降、「明治訳聖書」の「主の祈り」を祈り伝えて来ました。いずれにしても、どの国であれ、およそキリスト教会は「主の祈り」を大切に祈り続けて来ました。なぜかというと「ルカ11章」にこうあります。「さて、イエスはある所で祈っておられた。その祈りが終わると、弟子のひとりが、イエスに言った。『主よ。ヨハネが弟子達に教えたように、私達にも祈りを教えてください』」(ルカ11:1)。「ルカ福音書」では、この後でイエスが「主の祈り」を教えておられます。当時、ユダヤ教には幾つかのグループがありましたが、それぞれのグループが、その信仰の特色を表す独自の「祈りの言葉」を持っていたようです。その中でイエスがこの「祈り」を弟子達に教えられたということは、「この祈りそのものがイエスのグループ、つまりキリスト教会の特色を表す」と言うことになります。「キリスト教のエッセンスを表現する」と言っても良い。だから大切にされて来たという面があると思います。
今朝は、その「主の祈り」の最初の言葉、「天にいます私たちの父よ」という言葉を学びます。イエス様は、「祈り」の始めの言葉としてこの言葉を教えて下さいました。この言葉の凄いところは、この言葉をもって祈る時、私達の祈りが神様の許に通じるということです。神様の携帯電話の番号のようなものです。その意味でも大切な言葉です。
しかしそれだけではなく、古代のテリトゥリアヌスという人は「『主の祈り』は福音の要約だ」と言いましたが、現代のある神学者は「『天にいます私たちの父よ』の呼びかけこそは、福音の要約の要約だ」と言ったそうです。それほどこの短い呼びかけの言葉に、キリスト教信仰のエッセンスが込められているということでしょう。この短い言葉は何を教えるのでしょうか。「天にいます私たちの父よ」、ギリシャ語では「父よ、私達の、天におられる」という順番になっています。そこでこの3つの言葉についてそれぞれ考え、「天にいます私たちの父よ」という祈りの言葉の理解を深めたいと思います。

1.「父よ」

「主の祈り」は、まず「父よ」と呼びかけるのです。この教会でゴスペルコンサートをしてくれた森繁さんに初めてお会いした時―(30年以上前になりますが)、驚きだったのは、彼は祈り始める時、「天のお父さん」と祈ったのです。私には新鮮な言葉でした。私は「ご在天の父なる御神様」という畏まった言葉で祈り始めることが多いのですが、でもイエスご自身は「アバ―(パパ、お父さん、お父ちゃん)」という言葉で神に呼びかけて祈られたようです。そしてここでも(恐らく)「お父さん(お父ちゃん)」というような親しいニュアンスで呼びかけるように教えて下さったのだと思います。「主の祈り」は、申し上げた通りイエスのグループの信仰を特徴づけるという意味がありました。その意味では「私達の信仰の告白」という意味もあります。つまり私達は、神様に向かって「父よ(お父さん)」と呼びかける中で、「私達の頂いている信仰は、天地万物の創造者なる神を『お父さん』と呼ぶ、呼べる、そのような信仰である」ことを告白するのです。
「旧約」の中にも、神様を「父」と呼ぶ例がないわけではありません。しかし稀なことです。「旧約」時代は、神は畏れ多い方だった。あの信仰の父アブラハムでさえ、神様に向かって「お父さん」と呼びかけることはありませんでした。しかし私達は、「お父さん」と呼びかけることが出来るのです。なぜ、そう呼ぶことが出来るのか。それは、イエスご自身が「そう呼んで良い」と言われたし、また私達が神様を「お父さん」と呼べるように―(「お父さん」と呼べるということは、その子供になっているということです―つまり私達が「神の子供」になれるように)―イエスが十字架に懸かり、私達に「神の子供」となる道を開いて下さったからです。「ヨハネ福音書」は言います。「しかし、言葉(イエス)は、自分を受け入れた人、その名を信じる人々には神の子となる資格を与えた」(ヨハネ1:12)。イエス様によって、私達は「聖なる神」を「お父さん」として持っている、それが私達の祈りの根拠だし、私達の信仰の核心でもあります。
しかし、「お父さん」と呼べるということはどういうことかと言うと、私達は「お父さん」と呼びかけながら、神様に親しみを持たせて頂くと同時に、信頼を捧げて行くということではないでしょうか。神様を「お父さん」と呼ぶ、その信仰とは、子が親の愛を信頼して、委ねて生きるように、「本当に神様を信頼する」、「私の信仰は、そのような信仰なのだ」と告白していることになるのではないでしょうか。
ある姉妹が、障害を持つ弟さんの熱心な誘いで教会の礼拝に参加するようになりました。しかし義理で参加しているだけで、熱心に求めてはいませんでした。彼女は、お母さんのことを、弟に人生を捧げさせられた被害者だと思っていたのです。ところがそのお母さんが亡くなり、お母さんの葬儀で牧師は語りました。「神様は障害者の博文さんを、目的を持って、神様の目からは最高の作品としてお造り下さいました。そしてお母さんは、この女性ならこの子をまかせても大丈夫だと、多くの女性の中から選ばれた、強くて素晴らしいお母さんです」。彼女が、神様に対する見方を変えられるきっかけになる出来事でした。その後、彼女は障害を持つ人のお世話をする仕事に就きますが、その人達に心から愛を持って接することの難しさに悩むようになります。愛することが難しいのです。愛せない自分が見えるのです。そんな時、ある集会で、「放蕩息子」の話が語られ、自分と重なりました。父に財産を分けてもらい、自分勝手に生きて財産を食い潰し、ボロボロになって帰って来た息子を、温かく迎えてくれた父(神様)の話です。その話に聞き入っているうちに、彼女の心は神に触れられました。彼女は言っています。「走り寄って抱きしめて下さった神様の御手の感覚が体中に感じられました。私は子供のように泣きじゃくり、神様の胸に飛び込んで行きました」。彼女は、この時から本気で神様を求めるようになり、やがて洗礼を受けるのです。
申し上げたいのは、神様を「お父さん」と呼ぶ、その信仰とは、神様の胸の中に飛び込む信仰だと思うのです。ボロボロになって帰って行った息子のように、泣きじゃくりながら神の胸に飛び込んだ彼女のように、神に委ねて、「本当に神様を信頼する、私の信仰はそのような信仰なのだ」と告白していることになるのではないでしょうか。神に心からの信頼を捧げる信仰、それがまず「主の祈り」でイエス様が教えて下さった信仰です。

2.「天にいます」

そのことは、次の「天にいます」という言葉の中で更に告白されます。神様のことを「天にいますお父さん」と呼びかける、その「天にいます」という呼び掛けには、どのような思いが込められているのか、どのような思いを込めるのか。
多くの人は「天は我々の手の届かないところ、その天が地を支配している。しかもその天の支配は、人間の自由にはならない」。そういう意味で「天のことは、諦めながら受け入れるもの」と考えているのではないでしょうか。「運を天に任せる」という言葉は、それを本気で言っているとすれば、正にそういうことでしょう。何か、私達の手に負えない力が私達の人生を振り回す。その時は諦めるより他に道はない、と考える。しかし、私達が「天にいます父よ」と呼ぶ時、私達は「全てを支配するのは天におられる私達の父である」と言い切るわけです。「私は、訳の分からない運命の力というようなものに支配されているのではない」と告白するのです。
私は、東日本大震災のことを思わずにはおれません。震災の時というのは、キリスト者が「天にいます…父よ」と、心から神の支配を告白出来るのかどうか、内なる戦い、疑いとの戦い、諦めとの戦いの時だったと思うのです。神が天におられ、一切を支配しておられるなら、「なぜこういうことが起こることを、神は許されたのか」と、多くのクリスチャンが心揺すぶられたと思います。もちろん、この世界はまだ悪の力が働いている世界です。震災の背景にも、そこに人間を苦しめ、人間を神から引き離そうとする悪の働きがあったことが考えられます。
でも、そういうことよりも、私は、私達があの震災の中で見るべきことは、大変な災害の中で起こった信仰者の奇蹟だと思うのです。私達も間接的に支援させて頂いた気仙沼の印刷所の阿部克衛さんがこんな文章を書いておられます。「今回の津波の体験は、私に対する神様からのチャレンジだと思います。それは、全財産を失ったという現実を前に、自分でここまでやったという自負もプライドもリセットされ、『ゼロからの出発でも本気でわたしを信じ、従い、ビジョンを達成する意志があるのか』という神様からのチャレンジでした…旧約聖書に出て来るヨブは…生活は一変して悲惨な毎日となりました。このような試練の中でも神を恨まず、神に対して罪を犯すこと無く『主は与え、主は取られる。主の御名はほむべきかな』と告白しました。神はヨブの信仰の故に以前に勝る2倍の祝福を与えました。私はヨブのようなものではありませんが、神様は真実な方であると信じてこれまでの人生を歩んで来ました。きっとヨブのように『主の御名はほむべきかな』と言える日が来ることを信じ、日々、天を見上げて希望を持ってこの大震災の試練を…乗り越えて行きたいと思います」(阿部克衛)。一番、疑いの中にいるはずのクリスチャン達が、疑いと闘い、諦めと闘い、絶望と闘う闘いをしたのです。その闘いの中で神の恵みによって立たされたのです。試練の中で信仰を生きたのです。励まされます。  
数年前のクリスマス、「愛はあきらめない」というトラクトをお配りしましたが、横田早紀江という方は、お嬢さんが行方不明になり、その絶望の中で、聖書に出会います。彼女も「ヨブ記」を読んで、最後まで神に目を向けて苦難の時を通り抜けるヨブの姿、どんな苦難の中でも神を信頼するヨブの姿に感動し、「人を越えた深く大いなるもの、真実の神の存在を感じ」、そして信仰告白に導かれるのです。「『神様、私は本当に罪深い、生まれながらのわがままな者です。人知の及ばないところにあるあなたが、この世の悲しみ、苦しみ、全てのものを飲み込んでおられることを信じます。めぐみの悲しい人生も、この小さな者には介入できない問題であることを知りました』。こうして、私は神を受け入れました」(横田早紀江)。またこう言っておられます。「『神は愛です』と聖書にあります。神はきよくて、正しい愛にあふれたお方だということを、そして私達は、その方の手の中に包まれて生かされているのだということをいつも思わされます。私が人生の意味がわからなくても、神が私の人生に意味をもって下さっていると信じます…神が私を諦めないで愛して下さっています。だから、私は諦めないでいられるのです」(横田早紀江)。
彼らは「自分がどんなに不幸を経験していても、どんなに辛い思いを経験していても、神が自分の父であることに変わりはないこと、この父なる神こそ、私が生涯を賭けて信じて良い、支配者なる神であること」、それを言い切る、それを生きて見せて下さっているのです。であれば私達も、生かされている日々を感謝出来るし、神が全てを支配しておられることを感謝出来るのではないでしょうか。「天の父よ」という信仰に生きることで、お互いを励まし合うことが出来るのではないでしょうか。
2004年、スマトラ島沖で地震が起こり、津波が起こり、多くの人が被害に遭いました。その被害に遭った当事者の牧師がこう言っています。「どのような状況にあっても、神に信頼するところに希望は生まれたのだ」。私達は「天にいます父よ」と祈り、「天におられる父が、それでも、全てを支配しておられるのです。その神の支配に、私は信頼するのです」と告白することによって、信仰を生きたいと願います。そして、たとえ自分にどんなことが起こっても、神を信頼し、神に拠りすがって、絶望と闘うこと、諦めと闘うこと、神の中に希望を見て行くこと、そのような生き方の備えもして行きたいと思うのです。

3.「私達の」

3つ目の言葉は「私達の」という言葉です。確かに「マタイ福音書」の文脈では、「主の祈り」は「密室の祈り」として教えられたものです。それでもイエスは、「私の」とは教えられず、「私達の」と教えられました。「私達の…」という言葉は、何を教えるのか。 
それは「私達は同じように神を『お父さん』と呼びかける兄弟姉妹を持っている」ということです。「お父さん」と呼ぶ兄弟姉妹の長兄は誰か。イエス様です。イエスが先頭に立って「天にいます私達のお父さん」と呼んで下さる。だから私達は、何よりもイエス様の声に合わせて―(イエス様に続けて)―「天にいます私達のお父さん」と呼ぶのです。そして私達がイエス様の声に続けて「天にいますお父さん」と呼ぶ時、同じように声を合わせる兄弟姉妹がいるのです。私達がカナダで奉仕していた時、私達は韓国のクリスチャンに本当にお世話になりました。戦前、戦中の日帝時代が残した傷は、今も日韓関係に深い溝を残しています。でも「主に在って」、韓国のクリスチャン達は、愛を持って私達に接して下さいました。ある時、韓国系の教会が私達に礼拝場所を貸してくれました。最初の礼拝には、その教会の牧師先生と長老の方々が出席して下さいました。大きな花輪まで送って下さった。私は「ありがとうございました」とお礼を言いました。そうしたら長老の1人の方が言われました。「私達にお礼を言わないで下さい。お礼は神様に言って下さい」。同じ神様を「私達の父よ」と一緒に見上げている、素晴らしいことだと思いました。私達はこの祈りの中で「私は1人ではない」ということを確認し、告白するのです。
しかし「主の祈り」が「祈り」のモデルでもあり、私達に「キリスト教の祈りとは何か」を教えるものであるとするなら、私達が「私達の父よ」と呼ぶ時、その「祈り」は、共に神を「お父さん」と呼ぶ兄弟姉妹への配慮を心のどこかに持った「祈り」であることを、決して独善的な信仰ではないことを、告白して行くのではないでしょうか。良く言われます。「信仰生活で一番難しいのは、練られた交わりを造り上げて行くことだ」と。練られた交わりというのは、1人ひとりが悩みながら、心を砕きながら、問題を信仰的に捉えて、信仰的に解決しようとして行く、お互いに信仰を働かせて、柔和、寛容、愛、平和を分け合おうとする、そのような結果として造り出されて行くものではないでしょうか。私達が信仰を働かせることができた時、信仰の業は美しいです。私達は「私達の父よ―(私達のお父さん)」と祈ることによって、共に神に「お父さん」と呼びかけている兄弟姉妹に対して、「祈り」の中で心を開くのです、心を砕くのです。そう教えられるのです。

4.最後に

「天にいます私たちの父よ」。イエスは、ご自身が使っておられた「祈り」の言葉を、私達に明かして教えて下さいました。感謝なことです。「『祈り』は、祈ることによってしか学ぶことが出来ない」と言われます。神に向かって祈る時にしか至ることが出来ない境地があります、恵みがあります。「天にいます私達のお父さん(お父様)」、色々な言い方があるでしょうが、いずれにしても、「お父さん」と呼びかけつつ、「お父さん」と祈りつつ、神への信頼を捧げ、日々の生活を造って行きましょう。