2023年10月 佐土原教会礼拝説教

HOME | 2023 | 202310

聖書箇所:マタイ福音書6章5~8節 

 私は、車のCDプレイヤーが正常に動いている時、車の中で森下辰衛という先生が三浦綾子さんについて語っているCDを聞いていたのですが、こんな話が出て来ました。三浦綾子さんが前川正さんに導かれて教会に行くようになった時、彼女は礼拝中、一番後ろに立って、礼拝を後ろから「この人達は本当に信じているのか」といような目で眺めていたと言います。「祈り」の時も目を閉じなかった。「この人達は本気で祈っているのか」という眼差しで祈る人達を見ていた。ある人が「綾子さんは『祈り』の時に目を開けて皆を見回していました」と証言したそうです。「それを証言した人も目を開けて見ていた」ということですが…。森下先生は言うのです。「それだけ真剣に本物を求めていたのだ」。その彼女がクリスチャンになると、今度は人に「お祈りしてね、お祈りしてね」と言う人に変わったそうです。彼女は書いています。「私は良く人様に『お祈りしてください』とお願いする…私は、しかし決して気軽にお願いしているつもりはない。この言葉を口から出す時、私の心の中には、キュッと引き締まった厳粛な気持ちが流れている。本気で言っているのだ。祈りを聞いて下さる神がいられる。だから祈りは聞かれる。ゆえに人々に祈って頂きたい…」(三浦綾子)。「祈り」に対する信仰を持って生きられたことが分かります。三浦綾子さんも、祈り、祈られることなしにはやって行けなかったのです。私達の生活にも、自分の力ではどうにもならないこと、あるいは取り返しのつかないことがしばしば生じます。しかし私達には、「祈る」という道があるのです。ある牧師が言いました。「私達がたとえどんな困難な所に立っているにしても、祈ることが出来る限り、道は必ず前に開ける」(小島誠志)。「祈り」はクリスチャンだけの特権ではありません。まだ洗礼を受けていらっしゃらない方の「祈り」も、神は喜ばれます。今日は「祈り」について学びます。
「山上の説教」がずっとそうであるように、イエスは「祈り」についても、パリサイ人や律法学者の間違った在り方を示して、「それは間違っているから、あなた方はこうしなさい」と教えて行かれます。イエスは「祈り」について2つの点を指摘されます。
1つは5節、「祈るときには、偽善者たちのようであってはいけません。彼らは、人に見られたくて会堂や通りの四つ角に立って祈るのが好きだからです」(5)。「祈り」に一生懸命に向かう時にも、偽善が入り込む危険があると言われるのです。しかしこのことは、祈っているからこういうことが問題になるわけです。つまり「祈り」の偽善について考える前に、まず「祈っているかどうか」、そこが問われるのではないかと思います。フォーサイスという神学者が「最悪の罪は祈らないことである」と言っています。シンガポールにいた時、ある姉妹が話してくれました。その姉妹が一寸とした失敗をして随分気にしておられました。ご主人に話したら、ご主人は「君は祈っていたのかい」と言われたそうです。彼女は「祈っていなかったのですよね」と言われました。私は、この話を印象深く覚えているのです。信仰生活は、何があるかないかに拘らず―(失敗するかしないかは別にして)―「祈り」によって支えられ、造り上げられるものではないかと思うのです。フォーサイスの言葉は、「『祈らない』ということは、いくつもある罪の1つということではない。『祈らない』ということが、罪の根になる」という意味ではないかと思います。「祈り」無しに霊的な信仰生活を建て上げることは、出来ないのではないでしょうか。その意味で「祈り」の偽善を問う前に、いや「祈り」の偽善を良く理解するために、「祈り」によって信仰生活を造って行くことを、私達はまず考えなければならないと思います。
しかし、イエスはこの箇所で、「『祈り』は大切だから、絶えず、熱心に祈りなさい」と言っておられるのではありません。例えば「ルカ18章」には「いつでも祈るべきであり、失望してはならないことを教えるために、イエスは彼らにたとえを話された」(ルカ18:1)とあります。絶えず熱心に祈ることも、イエス様は奨めておられます。しかしこの文脈のポイントは、信仰になくてはならない「祈り」が、ともすれば間違ったものになってしまう、その間違いを指摘し、正しい在り方に導くことです。当時のユダヤ人は「祈り」を大切にしました。「祈る人」は尊敬されたのです。羽鳥明先生が晩年、「今は伝道の働きもなかなか出来ないので祈りに専念しています。1日に3~4時間、何百人という人の名前を1人1人上げてお祈りしています」と言っておられました。私は「信仰の人だな」と思いました。しかしユダヤの人々にとって、祈る人に対する尊敬はもっと大きなものだったのです。ですから自分を「宗教指導者」と自認しているパリサイ人や律法学者にとって、「祈ること―(祈りの姿)」で人々の尊敬を得ることは重要なことだったのです。だからそこに「人に見られたくて―(見られようとして)―祈る」という問題が入り込んでいたのです。ユダヤ人には、1日に3度、「祈りの時間」がありました。午前9時、正午、午後3時です。この時刻には、何処に居ようが祈らなければならなかった。逆に言うと、この時刻に人通りの多い通りとか、会堂の入り口にいれば、熱心に祈る姿を多くの人に見せることができたのです。そのようにして人々から「あの人は『祈りの人』だ、信仰的な人だ、敬虔な人だ」という称賛と尊敬を受けて、満足したのです。
しかし、そのような彼らの「祈り」に対して、イエスは「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」(5)と言われました。「報いを受け取っている」という言葉は、「全額受け取りました―(頂くべきものは全部頂きました)」という商業用語です。本来、神様に祈ったはずなのに、「神から来るものは何もない」と言われるのです。こんな話があります。ある人が夢を見ました。夢の中で、天使が彼を大きな礼拝堂の天井に連れて行きました。礼拝堂では聖歌隊の大合唱が行われていました。しかし不思議なことに、彼の耳にはその歌声が聞こえないのです。彼は天使に聞きます。「なぜ、私の耳にはあの歌声がきこえないのでしょうか」。天使が答えます。「それは、あなたが今、神様の耳で聞いているからです。神様の耳には、彼らの讃美は届いていないのです」。パリサイ人が、神様にではなくて、人に聞いてもらおう、聞かせよう、と思って祈ったら―(人に「祈り」を捧げたら)―その「祈り」は、人の耳には届いても神様には届かないのです。神様に届かなければ、祈っても何も起こらないでしょう。人の称賛をもらったとしても、それで「全部」です。何の意味もない。私達は神様だけに向かって、神様に届くようにと祈っているのか、それが問われます。
しかしでは、私達はどのように祈ったら良いのでしょうか。6節「あなたは、祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(6)。これは「人前で『祈り』をしてはいけない」ということではありません。ここで取り上げられているのは「礼拝」や「祈り会」での「祈り」ではなくて、「個人の祈り」のことです。そうすると「自分の奥まった部屋にはいりなさい…戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい」(6)というのはどういうことかというと、それは「人の目とか、人の目を意識している自分の心とか、およそ神との交わりを邪魔するあらゆるものを取り除いて、神と真剣に1対1で向き合いなさい」ということです。「密室の祈り」の大切さが語られるのです。(「密室の祈り」と言っても、特別な部屋が必要ということではありません。1人になって神に集中して祈ることが出来れば、それが「密室の祈り」です)。
こんな話を読みました。上田さんという方は、奥さんがある異端の宗教団体に入ってしまい、3人の子供まで引きずり込まれていました。上田さんが気づいた時には、彼らはマインドコントロールでどうしようもない状態でした。彼は、家族を救出するためにキリスト教会に助けを求め、聖書を学ぶようになります。彼は「マインドコントロールは愛によってしか解けない」と学び、家族を取り戻すための努力を続けます。やがて長女が宗教団体の施設から帰って来ました。ところが、その団体が長女を連れ戻しに来ました。暴力沙汰です。その時、彼の目に聖書の言葉が飛びこんで来ました。「祈るときには自分の奥まった部屋にはいりなさい。そして、戸をしめて、隠れた所におられるあなたの父に祈りなさい。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いてくださいます」(6)。彼は、玄関の騒ぎをよそに、奥の部屋に入って祈り始めました。必死で祈りました。するといつの間にか団体の人達が帰って行きました。それだけではない、長女はその人達について行かないで、「怖い」と叫んだかと思うとマインドコントロールから解放されたのです。そこから家族の回復が始まるのです。(最近の「百万人の福音」にも、お母さんが統一教会から解放された方の証がありました。本当に深刻な問題です)。
特別な話かも知れませんが、私達も信仰生活の土台のところに日毎の「密室の祈り」、神様と本当に1対1になって、真剣に神に向かって祈るような「祈り」が欲しいと思うのです。そしてその「祈り」を通して、「隠れた所で見ておられるあなたの父が…報いてくださいます」というイエス様のこの言葉を体験することが大切なのではないでしょうか。「なかなか祈れない」と仰る方がおられるでしょうか。フォーサイスは「祈りは意思、祈れないのは祈ろうとしないからだ、祈ろうとすれば祈れるようになる」と言っているそうです。「祈ろう」とする意志が大切なようです。「奥まった部屋」と訳されている言葉は「宝がしまってある倉庫」という意味を持ちます。「密室の祈り」をすること、それ自体が宝の部屋に入って行くことなのです。真剣に神様と1対1で向かい合う、そのような「祈り」の中に踏み込んで行きましょう。「祈り」の生活を造って行きましょう。
しかし「密室の祈り」をより良く造るために、イエスはもう1つのことを指摘されます。7~8節「また、祈るとき、異邦人のように同じことばを、ただくり返してはいけません。彼らはことば数が多ければ聞かれると思っているのです。だから、彼らのまねをしてはいけません」(7~8)。「異邦人」とは「本当の神が分からなくなっている人々」という意味で使われているようです。その人々は「同じ言葉をただ繰り返す」ような「祈り」をする。当時の人々―(本当の神を知らない人々)―は、知っている限りの神の名を次々に挙げて祈ったようです。異邦世界には神が一杯いる。でも、どの神が本当に当てにして良い神か分からない。だから知る限りの神の名を呼ぶのです。漫画で「神様、仏様、キリスト様」と祈っている人を見ましたが、そういうことでしょう。そして「この神が効く」ということになると、その名を繰り返し呼んだのでしょう。あるいは良く分からない呪文のような言葉を繰り返して、あたかも自己陶酔のようになったのかも知れません。そしてここがポイントですが、彼らが考えていたのは、そのような「くどい祈り」によって名を呼ばれた神は、必ず出て来て何かをしなければならないということでした。「ことば数が多ければ聞かれると思っている」(7)というのも同じことです。「こんなに祈ったのだから、この『祈り』を聞きなさいよ」と、自分の「祈り」の長さによって、神に自分の言うことを聞かせるような思いで祈る。そういうことがあったのだろうと思います。
しかしイエスは言われる。「彼らのまねをしてはいけません。あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられるからです」(8)。「密室の祈り」をするとして、私達は何を祈るでしょうか。私達が最も必死に祈るのは、困った時、苦しい時、悩みや問題の中にある時、その解決を求めての「祈り」だと思います。その時に、私達は膝を折るようにして祈るでしょう。「長い祈り」を捧げることもあるでしょう。「憐れんで下さい」という言葉を繰り返す、それ以外の言葉が出てこないこともあります。イエス様も、決して「長い祈り」や、そういう「切実な祈り」が悪いと言っておられるのではありません。イエスも「長い祈り」をされました。ただ「あなたがたの父なる神は、あなたがたがお願いする先に、あなたがたに必要なものを知っておられる」(8)、これはどういうことかというと、私達は「『自分の祈りによって、神に自分の言うことを聞かせようとする』、あるいは自分の『祈り』で物事をコントロールしようとする、そういう『祈り』をする必要なない」ということではないでしょうか。「私達に本当に必要なものを神が知っていて下さる」とイエスは言われるのです。
こんな話があります。ある所に1人の農夫がいた。農夫は、天候について自分の願うようにして欲しいと神に直談判しました。神は「やってみなさい」と言われました。農夫は大喜びして、種を蒔き、耕し、ここは雨、この時は日照りと、思う通りにした。種は発芽し、葉を出し、穂をつけ、いよいよ実を結ぶ時になった。ところが、何と穂の中に一粒の実も入っていなかった。農夫は風を吹かせることを忘れていた。花粉が散らず、受粉せず、結実しなかったのです。
私達が願ったことが願った通り適うとして、私達は自分で全てを上手く導くことは出来ないのではないでしょうか。人間の知恵には限界があります。そして私達は、自分の願いが永遠の観点から見た時に本当に良いことなのか、それも分からない。その意味で神が私達の本当に必要なものを知っていて下さることは感謝なことです。だからこそ安心して生きて行けると言っても良いでしょう。繰り返しますが、だからと言って切なる願いを祈ってはいけないということではありません。私達が神に願うことを、神は喜ばれます。しかしポイントは、「祈り」は願いごとを言い続けることだけではないということです。「神が私達に必要なものを知っていて下さる」のであれば、私達に必要なのは、何よりその神様への信頼ではないでしょうか。それほど私達のことを心配して下さる、近くに居て下さる神に気づくこと、神が共にいて下さることを自覚すること、だと言っても良いのではないでしょうか。それこそが「祈り」において必要です。それこそが私達を本当の意味で支えて行くのではないでしょうか。三浦綾子さんが、恋人の前川正を結核で失い、人生の師であった方を失い、自分の脊椎カリエスの病気は重くなり、何もかも失って生きる意味を失くしている時、何が彼女を支えて行ったのか。彼女は祈るのです。その「祈り」の中で、彼女の部屋においてあった椅子にイエス様が座っておられるのを感じるのです。神を近くに感じたのです。そこから彼女は「神は良きことを為さる。いや良きことしか為さらない。前川正の死にもきっと意味がある。私は生きなければならない」という信仰が、生きる力が、生まれて来るのです。
私達は本当に神の前に静まって、神の中に身を浸すようにして、近くにいて下さる神に気づけるように、その神様に信頼出来るように、それを願い求める、そのような「祈り」も大切なのではないでしょうか。イエスはこの後すぐ「主の祈り」を教えて行かれます。「主の祈り」の「最初の祈り」は「御名を崇めさせ給え」です。人間の知恵や考えが終わったと思うところで、神の御旨は終わっていない。神は「終わった」と思うところから新しいことを始めて下さる方です。「その神様を信頼させて下さい」という「祈り」です。そのような「祈り」の積み重ねによって、時に「大変だ」と思うようなことが起こっても、その「大変だ」と思う理性さえも否定するようにして、「神は下手なことを為さるはずがない」という、神に委ねる信仰に導かれて行くのです。「イザヤ」を通して神は言われました。「落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)。そのような「祈り」が私達の信仰生活を支え、豊かなものにするのではないでしょうか。神に信頼しない信仰には力がない。「神は…あなたがたに必要なものを知っておられる」、この主の言葉を握りしめて、主が報いて下さることに信頼して祈る、信頼して委ねる、そのような生きた信仰を持ちたいと願うのです。

聖書箇所:マタイ福音書6章1~4節 

 カナダにいた時のことです。駅の前、モールの前、あちこちに「小銭を恵んでくれ」と言って来る人が沢山いました。私も、出来る時には、僅かな額を恵むことが多かったように思います。それが良いのかどうか、一度、教会の交わりの中でも議論になったこともありましたが…。ある時、何を思ったのか、5ドル紙幣を恵んだことがありました。そうしたら、アパートに帰って来たら、アパートの
1階のゴミ捨てのところに立派な本棚が捨ててありました。そこに捨ててあるものは、誰でも持って行って良いことになっていましたので、私は喜んでその本棚を頂いて部屋に運びました。「神様が5ドルのことを見ていて報いて下さったのかな」と勝手に思ったことでした。今日の箇所を読んで、その時のことを思い出したことでした。 
6章1節に「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」(6:1)とあります。これをある英語の聖書は、「人に見せるために人前で宗教(敬虔)をしないように気をつけなさい」と訳しています。ですからこの「善行」は、「信仰の行いとしての善行」ということになります。当時のユダヤ人には、「施し、祈り、断食」という宗教的三大義務―(信仰の行い)―がありました。それは宗教的な義務という面もありましたが、「信仰生活を営む時に最も大切な行い」とも考えられていました。それでイエス様は、「人に見せるために人前で宗教(敬虔)をしないように気をつけなさい」と言われた後、(2節からは)「施し」について、(5節からは)「祈り」について、(16節からは)「断食」について、取り上げて行かれます。
当時、「あの人は信仰深いか」ということがどこで分かるかというと、この3つの行いで分かったし、またそれで測ったようです。イエス様も、決してその3つの行いを否定してはおられません。今日の箇所でも、「もし施しをするなら」とは言われないで、「施しをするとき」と言っておられます。同様に「祈るときには」(5)、「断食するときには」(16)と、自分の弟子達もこれらの行いをすることを前提として語っておられます。このような具体的な行いを通して神への愛を表して行くことを、イエスは否定されません。むしろ当然のこととしておられます。大事なことだからこそ、その中に生まれる「崩れ(問題点)」を取り上げられるのです。しかも、「その人が信仰深いかどうか」、測られるようなことですから、それが崩れているということは、逆に言うと、信仰の土台が崩れているということを表すことでもあったのです。しかし現実には、それが崩れていたのです。どのように崩れていたのか。本来「神を愛する故の行為、神に捧げるはずの行為」が、「人に見せるためのもの」になっていた、ということです。
今朝の箇所で取り上げられるのは「施し」です。イエス様は「施し」について取り上げて、信仰の核心とも言える問題について教えて行かれます。
ユダヤ人にとって、三大義務の中でも「施し」は最も神聖な義務だと考えられていました。社会福祉等のない時代、現実的にも重要だったでしょう。「『施し』は罪を聖め、人を死から救う」と言われました。それは―(人に対してするわけですが、でも)―「信仰的な行い」として神様に対して捧げられるものでした。ですからその業は、神に見て頂けば良いわけで、その意味で見せびらかすことなく、密かに行うことが勧められました。
ところが、そこに「人に見せるために人前で善行を(する)…」(1)、「人にほめられたくて会堂や通りで施しをする…」(2)ということが入り込んで来たわけです。イエス様の時代、多くの人は、自分が気前良く人に与える様子を他の人に観てもらって、その慈善行為に相応しい賞賛や社会的な地位を得るために、人に見られ易い時間や場所を選んで施しをするようになっていたようです。イエス様は言われます。「施しをするときには、人にほめられたくて会堂や通りで施しをする偽善者たちのように、自分の前でラッパを吹いてはいけません」(2)。人々が―(特にパリサイ人や律法学者が念頭に置かれているのでしょうが)―実際に従者にラッパを吹かせていたのかどうかは分かりません。しかし、ラッパを吹くかどうかは別として、本来、神に見て頂けば良い行為を、人に「信仰的な人だ」と思われること、そのような欲望やプライドを満足させるために、わざと人々の注目を集めるような方法で行ったのです。イエス様は、それを「偽善だ」と言われる。「偽善」とは、元々「演じる」という意味で、それは「人に見せるために善を演じる」ということです。
「施し」、私達の状況に置き換えると、「神を知っているが故に困っている人を助ける行い」、あるいはもっと広く「人への献身的な奉仕」、「愛の行い」、そのように考えることが出来るでしょうか。ある一家が旅の途中、雪のために起こった交通事故に巻き込まれて、車が故障してしまいました。レッカー車が来て故障車が引かれていった後、警官が彼らを近くのマクドナルドに連れて行ってくれました。彼ら(夫婦と子ども達)は、そこで車の修理が終わるのを待っていた。お腹がすいていましたが、お金がなかったので何も注文出来ませんでした。ところが彼らが座っている所に1人の男性が近づいて来て、ハンバーガーとポテトの入った袋を差し出してこう言った。「神があなた方にこれを差し上げるように言われました」。1つの例だと思いますが、いずれにしても、それは聖書の中で一貫して勧められていることです。{私などは、自分を振り返ってみて、「受けるばかり―(助けて頂くばかり)―で、何も出来ていないな」と思わされて心探られますが…。皆さんはいかがでしょうか}。しかし、私等は、何も出来ていないにも拘らず、それでも、例えば「神よりも人を意識する」、「人に自分の行いを認めさせようとする、賞賛を得ようとする」、そのような思いが心のどこかにあるのを感じます。
30年以上も前になりますが、私はシンガポールの教会に集っていました。仕事の関係でワープロを持っていましたので、議長さんご夫妻から「週報を作成して欲しい」と依頼されました。まだ学校でもワープロが普及し始めた頃で、私も慣れない手つきでキーを叩いて、時間をかけて週報を作りました。まず議長夫人から週報に記載する内容を聞いて、それをワープロに打つのです。結構時間がかかりました。ある時は、土曜日の夜に私の住んでいるアパートが停電になって、同僚の先生のお宅に重いワープロを抱えて伺い、ワープロを打たせてもらったこともありました。「なぜ自分がこんなことをしなければならないのかな」と思ったこともありました。日曜日になったら、車で随分走って、一番安いコピー店に行って、週報を印刷して、それを教会に持って行くのです。議長さんは、毎週礼拝の終わりには、前に立って色々とアナウンスをされます。ところが、私がそんなに苦労して週報を作っているのに、そのことを一言もアナウンスされないのです。私は「一言くらい皆に紹介してくれても良いのではないか」と思いました。しかし、何週間経ってもアナウンスされない。私の顔がだんだん歪んで来たのだろうと思います。ついにある日、議長は、私の週報の奉仕についてアナウンスされました。私はやっと満足しました。しかし私は、しばらくして気が付きました。おそらく議長は、今朝のこの御言葉の故に、私が「天からの報い」を損なうことがないように、敢えてアナウンスをされなかったのだろうと気付いたのです。その時にはもう遅かったのですが…。そんな恥ずかしい過去があります。
イエス様の言葉に帰ります。何が問題なのか。もちろん、信仰故の善行、神に捧げられるべき行いが、人に自分を認めさせるための行いとなっている、つまり「偽善」になっているということが問題なのですが―(因みに、それでも、しないよりした方が良いと思います。それで誰かが助かります)―ただその結果として「彼らはすでに自分の報いを受け取っているのです」(2)とイエスは言われるのです。この「報いを受け取っている」という言葉は、当時、商業取引で使われた言葉です。何かを売って、代金をもらった時、領収書に「全額受け取りました」と書いた、その「全部受け取りました」という意味の言葉です。もし人の称賛を得たいと思って「施し―(愛の行い、信仰の行い)」をすれば、確かに人の称賛を受けることが出来るかも知れません。しかしイエスは、「それで全てだ」と言われるのです。6章1節では「天におられるあなたがたの父から、報いをうけられません」(6:1)と言われます。「信仰の行いのであるはずにも拘らず、神に捧げられたものではないから、神からの報酬は期待できない」と言われるのです。ということは―(私達は「全て良きものは神から来る」と信じているはずです。「神の報いこそ何よりも大切だ」と考えているはずなのです。それにも拘らず)―その神様からの報いがない。それは本当に残念なことです。
しかし、残念だというだけではない。その問題の本質は何かというと、もし神からの報いではなく、人からの賞賛、人からの報いを期待するというのであれば、問題は、そこに神様への信仰は本当にあるのか、本当に生ける神様を生ける方として信じて、神様を相手にして信仰生活をしているのか、それが問われるのではないでしょうか。繰り返しますが「私の心の深いところに神への信仰は本当にあるのか」、その信仰の土台のところが問われることなのです。だからイエスは、問題にされるのです。
では、どうすれば良いのか。どんな思いをもって「愛の行い、あるいは信仰の行い」をすれば、神に喜ばれ、神の報いを頂くことが出来るのか。それをイエスは「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい。あなたの施しが隠れているためです。そうすれば、隠れた所で見ておられるあなたの父が、あなたに報いて下さいます」(3~4)と言われます。この「右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」という言葉ですが、「右手のしていることを左手に知らせるな」と言うのですから、「それほど『人に見せるために』という『偽善』に注意しなさい」ということだと考えることも出来ます。せっかく「愛の行い」をしても、大切な神の報いを失ってしまっては残念です。{ただ、あまり神経質になっても、かえって不自由になりますから―(何も出来なくなりますから)―そこはバランスが必要ですが…}。しかしこの言葉は、それだけ―(「人の目」に見せようとすることへの戒めだけ)―を意味しているのではないように思います。「あなたは、施しをするとき、右の手のしていることを左の手に知られないようにしなさい」(3)を繰り返し読むと、「他の人の目に見られないようにする」ということもあるかも知れませんが、むしろ、自分自身の心の問題が取り扱われているのではないかとも思えて来るのです。どういうことでしょうか。
私達の危険は、自分が「何か善行」をした時に、「特別なことをした」と言って、「(皆から)褒められて当然、あるいは(神様から)賞賛を受けて当然」と、自分で自分を誇るような、褒めるような思いを持つことではないでしょうか。あるいは、自分で自分に満足してしまうことではないでしょうか。それが「右の手のしていることを左の手に知らせる」ということではないでしょうか。あるコントに「『海辺で子ども達にいじめられていたカメを助けたのに、カメが何の恩返しもしない。浜辺で3時間待っていたけど、何にもない』と言って、役所に、住民票と印鑑を持って苦情に駆け付ける」という話をYouTubeで見ましたが、彼が叫ぶのです。「助けてやったのだから竜宮城に連れて行かんかい。何もないということはないだろう」。これはコントですが、私達は、こうして自分で自分について誇ってしまう、あるいは不平、不満を持つ危険があるのではないでしょうか。
 しかし、私達が善行をする。それが純粋になされた行いであれば、それは本当に尊いでしょう。しかしそれは「愛の業を受けた人だけが恵まれることなのでしょうか」。三浦綾子さんの「続氷点」の中に「人生の最後に残るのは、集めたものではなくて与えたものだ」と書かれてあったと記憶しています。人が世を去って行く時、後に残るのは、その人を通して為された『愛の行い』だということでしょう。それが「その人の人生の価値」として「尊い」ということです。つまり「他者に愛を行うことが自分を尊く生きること―(自分を本当の意味で大事にすること)」ということではないでしょうか。レオン・モリスという神学者は言いました。「他者を愛さない者は、自分を軽んじている」(L.モリス)。いずれにしても、他者に愛を行うことが、自分を愛することなのではないでしょうか。自分を尊く生きることなのではないでしょうか。そのような思いを持って善行を為すことが出来たら、そしてその善行を、誰でもない、神様に捧げることが出来たら、私達は、もっと自由に愛に生きることが出来るのではないでしょうか。神様と生きることが出来るのではないでしょうか。そして、そのような善行に対して、神様が報いて下さるのです。
 いずれにしても、人に見せるためでもない、自分で誇るためでもない、そのような理想的な姿を描いているのが「マタイ25章」の記事です。長いですが引用します。「そうして、王は、その右にいる者たちに言います。『さあ、わたしの父に祝福された人たち。世の初めから、あなたがたのために備えられた御国を継ぎなさい。あなたがたは、わたしが空腹であったとき、わたしに食べる物を与え、わたしが渇いていたとき、わたしに飲ませ、わたしが旅人であったとき、わたしに宿を貸し、わたしが裸のとき、わたしに着る物を与え、わたしが病気をしたとき、わたしを見舞い、わたしが牢にいたとき、わたしをたずねてくれたからです』。すると、その正しい人たちは、答えて言います。『主よ。いつ、私たちは、あなたが空腹なのを見て、食べる物を差し上げ、渇いておられるのを見て、飲ませてあげましたか。いつ、あなたが旅をしておられるときに、泊まらせてあげ、裸なのを見て、着る物を差し上げましたか。また、いつ、私たちは、あなたのご病気やあなたが牢におられるのを見て、おたずねしましたか』。すると、王は彼らに答えて言います。『まことに、あなたがたに告げます。あなたがたが、これらのわたしの兄弟たち、しかも最も小さい者たちのひとりにしたのは、わたしにしたのです』」(マタイ25:34~40)。
 このような思いで、自由に善行に生きることが出来れば、素晴らしいと思います。いずれにしても大事なことは、私達が、誰を相手に、誰の報いを期待して、信仰生活を送るのか、ということです。人か、神か、それは、私達の信仰の内実を映し出すものという意味で、重大なことなのです。
そしてそのことについても、イエス様がお手本を見せて下さったのです。イエス様は、ご自分が語られた言葉が決して空しい言葉でないことを証しするかのように、ひたすら神様だけを見上げて、神様の御心を生き抜き、最後は十字架に懸かられました。その時、イエス様に感謝する人は誰もいませんでした。しかしイエス様は、甦られました。神様が死から甦らせたのです。神様の報いこそ、本当に素晴らしい報いであることを見せて下さったのです。神様の報いこそ、私達が期待すべき報いであることを教えて下さったのです。神様はいつ、どのように私達の信仰に、信仰の業に、善行に、愛の業に、報いて下さるのか、それは分かりません。報いの中のある部分は―(もしかしたら多くの部分は)―天の御国―(水晶のように光るいのちの水の川のほとり)―で主にお会いする時に与えられるものかも知れません。でも、それはとてつもなく素晴らしい報いであるに違いありません。神の報いこそ本当に期待する、そのようにして神の前に生きて行く信仰生活でありたい、天に宝を積む信仰生活でありたいと願うことです。

聖書箇所:マタイ福音書5章38~48節 

 16世紀、オランダでメノナイトの信者として生きたディレク・ヴィレムスという人は、「アナバプテストである―(幼児洗礼を受けていたのに、成人になってから再び洗礼を受けた)」という罪で捕らえられ、牢獄に閉じ込められていました。しかし運良く牢獄から脱出することが出来たのです。彼は、氷の張っている池を走って逃げました。ところが、彼の脱獄に気付いた官憲が追いかけて来ました。彼は牢につながれて痩せていましたから、池の氷は割れませんでした。官憲は良く食べ、良く飲んで、太っていましたから、官憲が氷を走ったら氷が割れて池には落ちてしまいました。ディレク・ヴィレムスは、官憲が池に落ちたのを見て、喜んだのではなく、そこで「あなたの敵を愛しなさい」(ルカ6:27)というイエス様の言葉を思い出すのです。そして自分を追いかけて来た官憲を助けに行ったのです。「敵を愛すること」は、不可能な空文ではない。私達はこんな先達を持っているのです。この聖書個所でこの話は省けないと思って初めにご紹介しました。
今朝の聖書箇所は、「この教えこそがキリスト教を他のものから区別する」と言われる箇所です。しかし恐ろしく難しい箇所です。聖書で使徒パウロは祈っています。「あらゆる良いわざとことばとに進むよう、あなたがたの心を…強めてくださいますように」(2テサロニケ2:17)。信仰生活の目標は、私達が沢山の恵みを経験することだけではない。実際、豊かな恵みを経験します。日々を支えられ、希望を与えられ…本当に大きな恵みです。しかし恵みが与えられるのは、それによって神への信頼を増し加えられ、神に従うことを覚え、少しでもイエス様に似た者に変えられ、天国に備えるためです。C.S.ルイスは言いました。「来世でも、現世における行いの結果としてのみ生まれるような、そんな人間であることが必要とされる機会は常に存在するに違いない…重要なのは、人々が自己の内部に、そのような品性の少なくとも萌芽をもっていなければ、天国が環境的にどんなにすばらしいところであったにしても、それは彼らにとっては『天国』になりえない…つまり、神が我々のために備えたもう深い、強烈な幸福を、幸福として味わうことができない、ということなのである」(C.S.ルイス)。その意味で、私達は御言葉によって天国向きに変えられて行かなければならないのだと思います。それが信仰生活の目標だと思います。そのような意識で今朝の御言葉にも向かいたいのです。
ここには2つのテーマがあります。38~42節「復讐をしてはならない」ということ、43~48節「敵を愛しなさい」ということです。2つの内容からイエス様のメッセージの内容(ポイント)を考えたいと思います。
38節でイエスは「『目には目で、歯には歯で。』と言われたのを、あなたがたは聞いています」(38)と言われました。「レビ記24章」に「もし人がその隣人に傷を負わせるなら、その人は自分がしたと同じようにされなければならない。骨折には骨折。目には目。歯には歯。人に傷を負わせたように人は自分もそうされなければならない」(レビ24:19~20)とあります。これは一般には「覚えていろ、今に仕返ししてやる」という意味合いで受け取られますが、本来の意味はそうではありません。古代中東世界では「やられたら何倍もの仕返しをする」ことが称賛されました。その中でこの戒めは「傷を与えた人が罰せられるその罰は、自分が与えた傷と同じものでなければならない、それ以上の傷―(何倍もの仕返し)―を負わされることがあってはならない」という、むしろ「憐れみの決まり」だったのです。しかも「あなたは彼に片目を潰されたのだから、彼の片目だったら潰しても良い―(やれ!)」という「被害者が加害者に仕返しする基準」を言っているのではなくて―(当時は既に裁判の制度が整っていて)―「裁判人が裁判において加害者に下す罰の基準」を言っているようです。つまり罰が裁判で決められることによって「被害者による加害者への個人的な復讐を防ぐ」という意味があったのです。いずれにしても「旧約律法」の趣旨は、個人的な復讐を戒めることでした。しかしパリサイ人や律法学者は、その意味を捻じ曲げて、この決まりを、個人の復讐を正当化するために用いました。そこでイエスは、まずこの律法の本来の意味を確認されたのです。それが「悪い者に手向かってはいけません」(39)、「あなたに悪いことをした者に復讐をしてはいけない」という言葉なのです。
なぜ「復讐してはいけない―(仕返しをしてはいけない)」と言われるのでしょうか。先日まで放送されていた「ヴィヴァン」というドラマをご覧になった方、いらっしゃるでしょうか。主人公の父親は、ある国の内戦で溢れかえった孤児達を養うことに尽力していたのですが、内戦に責任のある権力者に向かって言うのです。「憎しみと復讐からは何も生まれない」。心に残る場面でした。世界各地の紛争地域の現実は、報復に対する報復、いつまでも問題は収まらない、そうしている間に人が死んで行くのです。仕返しが結局は解決をもたらさない、だから復讐が禁じられているのか。それは現実的な意味で重要なことだと思います。しかしそれだけではないのです。もっと根本的なことがあるのです。聖書は言います。「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい。それは、こう書いてあるからです。『復讐はわたしのすることである。わたしが報いをする、と主は言われる』」(ローマ12:19)。つまり、復讐(仕返し)は、神様に属することであり、復讐(仕返し)は、神様に任せるべき事柄だからなのです。
しかしイエスは「復讐をするな、仕返しをするな、神に任せなさい」と言われただけではない。「では具体的にどう生きるのか」。39~42節「だれかがあなたの右の頬を打つなら、左の頬をも向けなさい。あなたを訴えて下着を取ろうとする者には、上着をも取らせなさい。だれかが、一ミリオン行くように強いるなら、一緒に二ミリオン行きなさい。求める者には与えなさい。あなたから借りようとする者に、背を向けてはならない」(39~42)。「打たれたら打ち返すのが当然だが、あなたは侮辱に当然でない方法で応えなさい」、「下着を取られたら『返してくれ』と言うのが当然だが、当然でない方法で応えなさい」と言われる。「言われたことを嫌々するではなく、進んで2倍の仕事をしなさい、当然でない方法で応えなさい」と言われる。聖書は「自分で復讐してはいけません。神の怒りに任せなさい」(ローマ12:19)と言った後、こう続けます。「もしあなたの敵がうえたなら、彼に食べさせなさい。渇いたら、彼に飲ませなさい。そうすることによって、あなたは彼の頭に燃える炭火を積むことになるのです。悪に負けてはいけません。かえって、善をもって悪に打ち勝ちなさい」(ローマ12:20~21)。イエスはそのように「キリスト者は、復讐(仕返し)は神に任せ、あなたは相手に復讐するのではなくて、むしろ相手に対して『当然でない方法』、『悪に対して善で応対する』、『相手の頭に炭火を積む』、そのような生き方をしなさい」と言われたのです。
しかしそこにも留まらず、イエスはさらに一連の教えをまとめるようにこう言われます。43節「『自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め』と言われたのをあなた方は聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」(43)。「自分の隣人を愛し、自分の敵を憎め」というのも、人々がパリサイ人や律法学者から聞かされていた教えです。「旧約聖書」には「隣人を愛しなさい」という教えはありますが、「自分の敵を憎め」という教えはありません。ユダヤ人は長い間、外国から苦しめられて来ました。だから人々には「外国の隣人を愛する」という感情より「(敵である)外国人を憎む」という感情の方がぴったり来るのです。それで宗教家は「隣人を愛しなさい」という戒めに「自分の敵を憎むのは当然だ」という教えを加えたのです。私達も、何かにつけて「敵をつくる―(人を嫌う、受け入れない、憎む)」ということがあるのではないでしょうか。(私もそうです)。心の中で誰かを敵(ライバル)にしてしまう思いがあるのです。敵にするから心を閉ざしてしまう、憎むのです。しかし、私達が「愛」と思っているものにも、1つ間違えば、手のひらを返して憎むようなものが含まれているのではないでしょうか。ある牧師は「私達の愛は腐っている」と言っておられました。だからイエスが言われるのは、結局「誰かを敵にするような生き方を止めなさい」、「傷ついた(腐った)愛に生きることを止めなさい」ということではないでしょうか。そうではなく、「自分の回りの人に対して寛大に生きる」、「当然でない生き方をする」、「炭火を積むような生き方をする」、そう奨められるのです。そのことが、言い換えれば「敵をつくるのではなく、むしろ敵と思える人さえ愛する」ということになるのではないでしょうか。「それが真に愛に生きることだ」と主は言われるのではないでしょうか。 
こう申し上げるは簡単ですが、もちろん難しいです。どうしてイエスは、このような厳しい戒めを、難しい生き方を勧められるのでしょうか。「当然」の論理で相手の悪に、悪で報いたら、その流れに何かの変化が起こるでしょうか。そうではない。頬を打たれて打ち返したら、怒りや憎しみを大きくするだけでしょう。この話は先日もしましたが…。ある牧師の家の隣にポチという犬がいて、明け方4時頃になると吠え始める。牧師は目を覚まされ、睡眠不足が続きます。「うるさい、黙れ!」と叫びます。家族からは「牧師でしょ。そんなことを言っても良いの」と言われますが、牧師はポチへの憎しみが湧き、ポチに腹を立てました。ポチの前を通る時には歯をむいて睨みつけました。ポチも吠え返します。礼拝説教の声がマイクを通して隣に洩れるだけで、ポチは吠えます。牧師は神の愛を語りながらイライラします。睡眠不足、苛立ち、怒り、憎しみ、いよいよ限界に達した時、彼は1つの話を思い出しました。「ある人が庭に芝生を植えました。ところが芝生と一緒にタンポポが生えて来ました。抜いても、抜いても生えて来ます。専門家に相談したら言われました。『どうしてもタンポポを退治できないのであれば、タンポポを愛することを学んだらよいでしょう』」。牧師は思いました。「ポチを退治できないのであれば、愛することを学ぼう」。ポチを見たらニコッと笑いかけることを始めました。最初は吠えていたポチが、徐々に様子が変わって来て、尻尾を振りながら近づいて来るようになり、遂に牧師の胸に飛び込んで来るようになった。それ以来、ポチが吠えても気にならなくなった、という話です。牧師は言っておられます。「愛するということは、意志の問題である。愛せないのではない。愛さないから愛せないのである。好悪の感情に支配されずに、愛する決意をして、実際に愛することから、愛が始まるのである」(横山幹雄)。
敵のような人でも、私達が違う反応を示したら、まして「愛」を示したら、何かを感じるのではないでしょうか。そこに違う何かが、違う人間関係が生まれる可能性があるのではないでしょうか。いやそれだけでなく、結局イエスが言われることは、「仕返しすることによって、人を憎むことによって、私達は生きて行けるのか。健全な人生を作って行けるのか、そうではない、私達は、愛によって生きて行くしか道はないのだ」ということではないでしょうか。「百万人の福音」に、ご主人を交通事故で亡くした姉妹の話がありました。難しい裁判でした。でも彼女は、最後に加害者にこう言いました。「事故は起こそうと思って起こすものではないので、これで終わりにしましょう。私はクリスチャンなので、あなたを赦したいと願っています」。加害者は一瞬にして表情を緩め「ありがたいおことばを頂いて感激ました」、そう言って深々と頭を下げたのです。そうやって、人は、1つ1つのことに区切りをつけることが出来て、前に向かって、あるべき道を歩いて行けるのではないでしょうか。
しかしイエス様は、それ以上の理由を語られます。「それでこそ、天におられるあなた方の父の子どもになれる(から)」(45)。これは「敵を愛せるようになったら神の子にして上げよう」ということではありません。「あなた方の父の…」と言われている。イエスを信じることによって私達は(誰でも)「神の子」にして頂けるのです。しかしここで言われていることは、名前だけの「神の子」ではなくて、名実ともに「神の子」になる、中身も「神の子」になる、ということです。ヘブル語で「…の子」というのは、「…に似る者、…のような者」という意味があります。「神の子になる」と言われているのは、「神に似る者になる」ということです。
では、神はどういうお方か。45節「天の父は、悪い人にも良い人にも太陽を上らせ、正しい人にも正しくない人にも雨を降らせて下さる」(45)、「神は悪い人にも良い人にも恵みを与える方である」というのです。「なぜ神は、悪い奴に恵みなんか与えるのか」、私達は抵抗を感じるかも知れません。しかしその時、私達は自分を「正しい人」に置いているのです。でも聖書は言います。「私達がまだ弱かったとき、キリストは定められた時に、不敬虔な者のために死んでくださいました。正しい人のためにでも死ぬ人はほとんどありません。情け深い人のためには、進んで死ぬ人があるいはいるでしょう。しかし私たちがまだ罪人であったとき、キリストが私たちのために死んで下さったことにより、神は私たちに対するご自身の愛を明らかにしておられます」(ローマ5:6~8)。私達は、初めから神の愛に相応しい者だったから神に繋がるようになったのか。そうではありません。森繁昇兄が信仰を持った切っ掛けは、彼が周りのクリスチャン達を見ていて、「バカじゃなかろか。空気に向かって祈って何になるのか」と思って、「聖書の中に必ずバカなことが書いてある、そういうところを見つけて彼らの前で笑ってやって目を覚まさせてやろう」と聖書を読み始めたことでした。ところが聖書に捕えられたのです。彼ほどはっきりした敵対心でなくても、私達も皆、神に背を向けて生きていたのです。私は大学の時、「もう教会には行かない」と決めていました。しかし神様は、そんな私を憐れんで、神を喜ぶようにして下さったのです。今でも私達は―(「私達」と言ってよろしいでしょうか)―神に喜ばれない生き方をしていることも多いと思うのです。しかし神の「にもかかわらず愛そうとされる愛」があるからこそ、私達は信仰生活を続けて行けるのです。ある幼稚園の先生が言われたそうです。「愛されたことのない子は、愛することを知らない」。でもキリスト者は、敵に愛された経験を持っているのです。私達は、敵であったイエス様に十字架で死んでもらって、やっと自分の罪が分かり、やっと砕かれて神の味方へと変えられたのです。世の中には素晴らしい人達が沢山います。「キリスト者である」と言っている自分が恥ずかしくなることがあります。しかしどんなに素晴らしい人でも、その人達ではなく、キリスト者が知っていること、それが「敵に愛された経験」です。神様の「敵を愛する愛」以外に私が生かされる方法はなかったから、そしてその愛で愛された者だから、イエスは私達に「あなたも神を知る者としてそのように生きなさい、それが神に似ることだ」と言われるのです。
しかしもう1つ、大切なポイントがあります。イエス様の言葉は福音です、救いです。救いとは、自由を与えるものです。では、この教えにおける自由とは何でしょうか。日本人の生き方の最も基本にあるのは「損をしないように生きる」ということだそうです。私達はある意味で、損をしないように生きることに汲々としているのではないでしょうか。それは「あの人のお蔭でこんな目に遭わされた、こんな思いをした、いつか仕返しをしなければこっちの損だ」という思いに繋がるのではないでしょうか。しかし、そう思っている間は、相手にずっと縛られて過ごすことになるのです。あのキング牧師のお父さんは、「妻と息子を殺した人たちを憎んでいないか」と聞かれた時、こう答えました。「そんなことをする時間は私にはない。憎むことは過去に生きることであり、すでに行なわれてしまった行為を現在に引きずって生きることだ。憎しみと言うのは、満ち足りた思いから最も遠く離れた感情だ。それはひどいことをした相手に対して、二重の勝利を与えることになる。過去において一度、そしてまた現在にも勝利を与えてしまう。人を憎んでいる限り、あなたは過去に縛られ続ける」。その意味で、イエス様の言葉は、私達を解放する言葉だと思います。それは大きく解釈すれば、「敵のような『辛い運命』を愛する」ことによって私達の人生に対する考え方そのものを解放する言葉かも知れません。
具体的にどうすれば良いのか。それは「祈ることから始める」ことです。主は「迫害する者のために祈りなさい」(44)と言われました。「愛は祈りに始まる」と言われます。神に祈る時、憎いと思う人がいたら、そこにその人の名前を入れる。「ポチの牧師」も言いました。「『神様。私は、あの人を愛します。今、この時から愛し始めます。あなたが私を愛して下さったから、私も愛することが出来ます。あなたの愛を、注ぎ続けて下さい』と祈りつつ、愛を表して行く」(横山幹雄)。この祈りがなければ、私達は敵を愛することは出来ないでしょう。祈り、そして後は体で学んで行くしかない。CSルイスは言いました。「愛しているかのようにふるまっていると、やがてその人を本当に愛するようになる」(SCルイス)。永遠の命に繋がるチャンレジです。イエス様のチャレンジに答えて行きましょう。

 

聖書箇所:マタイ福音書5章33~37節 

 アメリカから日本に来たばかりの宣教師が「日曜日10時から集会をしています。教会に来て下さい」と教会を案内して回りました。そうしたら多くの人が「はい、ありがとうございます」と答えました。彼らは大喜びして日曜日を待ちました。ところが日曜日には誰も来ませんでした。彼らはガッカリしたという話です。日本の文化は、はっきり断らない、一応「はい」とか、「ありがとうございます」と受ける文化です。奥ゆかしい文化なのだと思いますが、突き詰めれば「はい」が「はい」でない、「不真実な言葉の文化」ということになるかも知れません。(ある宣教師は、「『「いつか」遊びに来て下さい』と言われて、『5日』に訪問したらビックリされた」と言っておられました。それは誤解だったのですが…でも「いつか来て下さい」というのも本当に来て欲しいと思っている言葉ではないでしょう)。いずれにしても私達は時に言葉において真実を欠くことがあるのではないでしょうか。しかし問われるのは、「私は、特に神様との関係で、言葉において真実か、誠実か」ということです。
「キリスト教とは生き方です」という言葉があります。「山上の説教」は「キリスト者の生き方」を教えます。今日は「誓い」についてです。
33節:「昔の人々に、『偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ』といわれていたのを、あなたがたは聞いています」。「山上の説教」の背景には、「旧約聖書の律法」と「律法に込められた神の御心を、律法学者やパリサイ人が歪めて教えていた」という前提があります。だから「山上の説教」には「旧約律法に込められた神の本来の御心をイエスが教え直された」という面があります。しかしここにある「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」という教えは、「律法」の精神を反映させたものではありました。「レビ19章12節」、「民数記30章2節」、「申命記23章21、23節」等々にこれに関する戒めがあります―(「週報」裏面に御言葉があります)―が、最も近い言葉は「伝道者の書5章4節」だと言われます。「神に誓願を立てるときには、それを果たすのを遅らせてはならない。神は愚かな者を喜ばないからだ。誓ったことは果たせ。誓ったことを果たさないよりは、誓わないほうがよい」(伝道者の書5:4)。イエスが「あなたがたは聞いています」として引用された「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」という教えは、これらの戒めを用いて律法学者やパリサイ人が人々に教えていた、その要約だったかも知れません。そこで中心的に禁止されているのは、誓いの乱用、不履行、偽りの誓い、といったものであり、誓いそのものではありません。しかしイエス様は、それを踏まえた上で「しかし、わたしはあなたがたに言います。決して誓ってはいけません」(34)と言われます。「決して誓ってはいけません」とは、どういうことなのでしょうか。イエス様は、何を語ろうとしておられるのでしょうか。
「決して誓ってはいけません」の背後には、「誓い」についての当時の乱れた状況がありました。当時、人々は、「誓い」を、「絶対に果たさなければならないもの」と「そうではないもの」に分けていたのです。自分の言うことを信じてもらいたい時、ユダヤ人の気持ちとしては「神の名」にかけて誓いたいのです。しかし「神の名」にかけて誓って、それを守れない時は、自分に裁きを招くことになります。だから「守れない時でも裁きを招くことなく、しかも相手に一定の信用をしてもらえる誓い方」というのが盛んに用いられたのです。それが「私は天にかけて誓う」とか、「私は地にかけて誓う」とか、「私はエルサレムにかけて誓う」…という言い方だったのです。それは、パリサイ人や律法学者が「偽りの誓いをしてはいけない」という律法の戒めを、捻じ曲げて、「間違った誓い方をしてはいけない、間違わないように上手く誓いなさい」と教えた結果でした。それはやがて「神の名を使わない誓い方であれば、守れない時は守らなくても良い、神は関わりを持たれない」ということになって行ったのです。
そこでイエス様のポイントは…。彼らは「神の名さえ使わなければ良い」と思っていました。しかしイエスは言われるのです。「天をさして誓ってはいけません。そこは神の御座だからです。地をさして誓ってもいけません。そこは神の足台だからです。エルサレムをさして誓ってもいけません。そこは偉大な王の都だからです。あなたの頭をさして誓ってもいけません。あなたは、1本の髪の毛すら、白くも黒くもできないからです」(34~36)。何を言っておられるかというと「あなたが神の名を使おうが使うまいが、世界は神のものであり、神はその場所におられるのであり、あなた自身も神のものなのだ。だから神を自分の都合によって口先で閉め出すことは出来ない―(するな)、あなた方は絶えず神の目の前で生きているのだ」ということです。つまり「どんな誓いであれ、それは神を証人として、神の前で為されたものなのだから、その誓いに対して誠実でなければならないのだ」と言っておられるのです。本来「律法」が言う「偽りの誓いを立ててはならない。あなたの誓ったことを主に果たせ」のポイントは、「約束(誓い)に対して誠実でなければならない」ということです。言い換えると「神と人に対して真実、誠実でなければならない」ということです。それに対して「どうやって誓えば守らなくて良いのか」と考えるのは、神の戒めの本質を見失った考え方です。イエスはその間違いを指摘されたのです。
私達はどうでしょうか。神様の前に誠実でしょうか、真実でしょうか。「ミモサ」というインド人女性の話を思います。彼女は少女の時、父親と一緒に町に行き、そこでエミー・カーマイケルという宣教師から、たった1度、神様の話を聞きました。その時、神に触れられて信仰を持ったのです。それ以来、自分の田舎の村でも、17歳で結婚して、嫁いで行った村でも、信仰者の交わりはおろか、神の話を聞く機会もありませんでした。それでも彼女は「神様、私はあなたにつまずきません」と神に約束した、その言葉に生きるのです。どんなに迫害があっても、どんなに試練がやって来ても「私はあなたにつまずきません」と言いつづけ、神を信じ続けます。そして22年後、エミー・カーマイケルと再会する時まで、神様に語った言葉に、誠実に、真実に歩み続けたのです。私達はどうでしょうか。
さてしかし、イエス様の教えはそこに留まらない。イエスはさらに言われました。「あなたがたは、『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい。それ以上は悪いことです」(37)。なぜ「誓う」ということが必要になったのか。それは「基本的に人が人を信用していない、語られる言葉の全てを信じるわけにいかない、だから本当に信用出来る言い方を改めて作らなければならなくなった」、それが「誓う」ということであり、様々な「誓約」の制度です。逆に言うと、相手を完全に信用していたら―(完全に信用されていたら)―「誓う」という発想は出てこないのです。
10年以上前、私達が実家から教会に引っ越してくる時、子供はまだ幼稚園生でした。彼がある店でボールか何かを気に入って「買って欲しい」と言いました。彼がしつこくせがむものですから、私達は根負けをして、「引越しの片付けが済んでから買って上げる」と言いました。そうしたら彼が「紙に書いておいてね」と言いました。私はその口ぶりから「彼は親の言葉をそのまま信用してはいないのだな」と思いました。私達に普段から言葉の不誠実があることを彼なりに感じていた、だから「確証が欲しい、誓いなさい」と言ったのでしょう。反省しました。こんなこともありました。以前の私の説教はもっと長かったのです。「説教をもう少し短くしたいと思います」と言ったことがあります。そうしたらある方が「先生は本気でそう思っているのですか。言うだけじゃありませんか」と言われました。ハッとしました。どれだけ真実、誠実な言葉を語っているか、問われたことでした。いずれにしても私達も心探られるのではないでしょうか。
クェーカーというキリスト教の教派があります。クェーカーの人達は「誓わない」ことで有名だそうです。イエス様のこの御言葉から来ているわけです。しかし誓わない代わりに、「誓わなくても良い生活」をする努力をしているそうです。ジョージ・フォックスという初代のリーダーがいますが、彼がまだ商売をしていた時、取引の中で「…まことに…」とい言葉を使いました。彼は不正をしないことで信用されていましたが、その彼が「まことに」と言ったものですから、「ジョージ・フォックスが『まことに』と言った。それならこれは間違いがない」と皆が言ったというのです。「まことに」の一言が重かったのです。この話を覚えておられるでしょうか。ある会社の社長秘書をしている女性がいました。ある時、社長に電話がかかって来ました。社長は「留守だと言ってくれ」と言いました。彼女は言いました。「ご自分でどうぞ。私は、嘘はつきません」。社長は言いました。「これは業務命令だ」。彼女は言いました。「どんな場合でも、私は、嘘はつきません」。その時は、社長はカンカンになって怒りましたが、しかし、それまで以上に彼女を信用するようになったという話でした。
イエスが言われた「『はい』は『はい』、『いいえ』は『いいえ』とだけ言いなさい」というのは、「偽ってちかうな、誓ったこと果たせ」という教えを一歩進めて、「あなたが正直に生きたら、本当に正直に生きたら、誓う必要がなくなるから、正直に生きてみなさい。『はい』という時は本当に『はい』だけの意味で言い、『いいえ』と言う時には本当に『いいえ』の意味だけで言いなさい。そのように裏表のない真実、誠実な生き方をしなさい」ということです。そして「誓う必要のない、普段から―(言葉において)―誠実、真実な生き方をしなさい」、それが「誓ってはいけません」の意味だと思うのです。それはまた、先程申し上げた「あなたは絶えず神の前で生きている、ということを忘れてはいけない、いつも神の前で誠実に生きなさい」ということの具体的な姿だと言えるのではないでしょうか。 
社会生活をして行く時、私達は色々な形で「誓約」を求められます。もちろんこの御言葉の通り「一切誓わない」という生き方が出来れば、それが良いのでしょうが、聖書の中ではパウロも誓っています―(2コリント1:23、ガラテヤ1:20)。その意味ではイエス様の言葉は―(繰返しになりますが)―「何が何でも一切誓ってはいけない」というよりも、むしろ「キリスト者の生き方として、誓わなくても良い生活、普段から真実、誠実な生活をしなさい」というチャレンジの言葉だと思います。
しかしそれは、信仰生活の本質に関わる問題です。「誓わなくて良い生活」とは、それは、自分の都合によって、自分の生活の場から神を追い出したりする生活ではない。その場、その場によって、言葉や態度や生きる基準を変える生活ではない。本当に、どんな時でも、教会の中であろうが、外であろうが、神様と共に生きる、神様の目の前で真実に、誠実に生きる、そのような結果として生まれて来る生き方―(言葉の生活)―だと思います。言うならば「私達が本当は、普段、神様とどのような関係を持っているのか」、その全てが出て来ることではないでしょうか。具体的に「言葉」について言えば、本当に私達の日常の言葉が、神と人に対する真実な、誠実なものになっているのか、神を知っている者の言葉になっているのか、言葉を通して神を神としているのか、それが問われるのだと思います。「イエス様はこの家の主、すべての食事を共にされる見えないお客様、全ての会話に耳を傾けて下さる静かな聞き手です」という詩があります。私達の言葉は、そのように神に聞いて頂いても良いものとして語られるべきものなのだと思います。あまり敏感になり過ぎると苦しくなりますが、しかし、そのように表裏なく生きる時、私達は心の中で人を裏切らなくて済むのです。
もちろん私達が良く知っているように、「偽り」は何より人間関係を破壊します。しかし「偽り」ということではなくても、例えば事実を事実以上に大げさに言ったりすることも、真実な言葉、誰かを立て上げる言葉ではないと思います。(ただ「何でもそのまま言えば良い」ということでもありません。イエス様の時代、あるグループは、「実際には美しくない花嫁を『美しい』と褒めることをしなかった」と言われます)。「エペソ書」には「愛をもって真理を語り、あらゆる点において成長し…」(エペソ4:15)とあります。「愛の配慮」のある言葉を語ることは大切だと思います。しかし、いずれにしても私達は、言葉においても、神に対して、人に対して、精一杯真実、誠実に生きる、そのような者でありたいと思います。
なぜ、そうあらねばならないのか。もちろんイエス様が戒めておられるからですが、イエスがこのような厳しい基準を語られるのは、イエス様が私達に期待しておられるからです。私達が自分を評価する以上に、イエスは、私達を高く見て下さっているのです。「あなた方は、そのように真実に、誠実に生きることが出来る素晴らしい存在なのだ」と、こんな私達に対して望みを失われないのです。それに応えたいと願うのです。それだけでなく、何よりも「私達が神の真実の中に生かされている」という事実があります。「イエス様が、こんな頼りない、だらしない私のために死んで下さった。イエスは私達に真実を尽くして下さった。神は今も、私のような者にもいつも真実を尽くして下さる」、私達はそれを知っています。私は「世の光」放送の中でも証しさせて頂きましたが、「神を愛する人々、すなわち、神のご計画に従って召された人々のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)、この言葉を何度も経験させて頂きました。ある著名な牧師は「この『すべて』にはあなたの失敗も含まれている」と言いました。その通りのことも起こりました。神は、私達に真実でいて下さいます。その愛に応えたい、その神に相応しい者でありたいと願うのです。
さらに私達は、やがて携挙され、天でイエス様にお会いする望みに生きています。天国で暮らす望みがあります。CSルイスは言いました。「今の世において、神の御心に従う生き方、神の御心に適う行いをした時にだけ身につけることができるような品性を、少なくてもそのような品性の芽を持っていなければ、来るべき世がどんなに素晴らしい環境であっても、私達は、神が備えられた深い、強烈な幸福を十分に味わうことができないだろう」(CSルイス)。その意味でも、今朝の文脈で言えば、言葉において、神に対して、人に対しても、誠実、真実でありたい、そのようにして神の栄光を表して行きたいと願うことです。それは永遠の意味を持つのです。
最後に一言申し上げて終わります。水曜集会で「アメイジング・グレイス物語」という動画を見ました。私にとって印象的だったのは、アメリカの教会で、白人至上主義者が銃を乱射して6人の黒人を射殺した、その追悼礼拝の場面でした。スピーチに立った当時のオバマ大統領は、途中で言葉を失くしました。人間の言葉ではどう言って良いのか分からなかったのかも知れません。彼は「神に恵み」と言って、その後「アメイジング・グレイス」を歌い出しました。そうしたら皆が立って歌い出したのです。それは、「憎しみと復讐ではなくて、神の恵みによって新しい歴史を作って行こう」というメッセージであり、「神の恵みによってそれが出来るはずだ、神の恵みによって何でも出来るんだ」というメッセージでした。そして、1週間後、被害者の母親は、犯人に会って「私はあなたを赦します」と言ったのです。私は、「神の恵み」についての理解を新しくされるような気がしました。「神の恵み」は、私達を新しい行動に押し出し、またそれを助けて行く、そういう「力」でもあるように思いました。
今日のイエス様の言葉は、私達には難しく聞こえます。しかし、私達にも神の「恵み/アメイジング・グレイス」があります。神の恵みによって、私達も、神様と人に対して、より真実な、誠実な、生き方に踏み出せるのではないでしょうか。

 

聖書箇所:マタイ福音書5章21~26節 

 あるクリスチャンのビジネスマンがいました。部下が仕事でとんでもないことをしでかしました。彼はさすがに腹に据えかねました。しかし「『ばか者』と言う者は地獄に投げ込まれる」というイエス様の言葉を知ってしました。それで、とっさに「アホ者」と怒鳴ったということです。「ばか」も「アホ」もあまり変わりないと思いますが…。
前回の箇所でイエス様は「あなたがたの義…(は)、律法学者やパリサイ人の義にまさるものでな…(ければならない)」(20)と言われました。その「律法学者やパリサイ人にまさる義(生き方)」について、21節から具体的に教えて行かれます。ここはその最初の箇所です。21~22節、「昔の人々に、『人を殺してはならない。人を殺す者はさばきを受けなければならない』と言われたのを、あなたがたは聞いています。しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでも裁きを受けなければなりません」(21~22)。「昔の人々に…と言われたのを、あなたがたは聞いています」ということは、律法学者やパリサイ人によって人々がそう教えられていたということです。「殺してはならない」というのは「旧約聖書」の「十戒」の「第五戒」です。「人を殺すな」、それは人間社会が成立する最も基本的な戒めです。だからイエス様も、まずこのことを取り上げられたのかも知れません。しかしその後の「人を殺す者はさばきを受けなければならない」という部分は、律法学者が付け足して教えた部分です。「十戒」を理解するポイントは、「『~しなさい』という肯定命令には『~してはならない』という否定命令が含まれ、『~してはならない』という否定命令には『~しなさい』という肯定命令が含まれている」といことを念頭に読むことです。「殺してはならない」という否定命令には、「隣人の生命を大切にしなさい」という肯定命令が含まれているのです。「殺さなければ良い」ということではないのです。しかし律法学者は、「人を殺す者はさばきを受けなければならない」と付け足すことによって、それを「殺さなければ良い」という「戒め」に変えてしまったのです。
それに対してイエスは、「殺してはならない」という「戒め」が本来持っていた深い意味を語られるのです。それが「しかし、わたしはあなたがたに言います。兄弟に向かって腹を立てる者は、だれでも裁きを受けなければなりません。兄弟に向かって『能なし』と言うような者は、最高議会に引き渡されます。また、『ばか者』と言うような者は、燃えるゲヘナに投げ込まれます」(22)という言葉です。「殺してはいけない」という戒めであれば、私達はどこまでそれを真剣に受け止めるでしょうか。「私は人を殺すような悪い人間ではない」と、私達は思います。でもイエスは、「殺す者」どころか「腹を立てる者(怒る者)」も「裁きを受けなければならない」と言われます。なぜ「怒り」をそれほど重く取り扱われるのでしょうか。
初代教会の頃、既にここを「兄弟に向かって『理由なしに』腹を立てる者は」と条件をつけて読もうとした人々がいたそうです。それほど単に「腹を立てるな」という戒めは厳しく思えたということでしょう。この「腹を立てるな」というのは、瞬間的にムラッと来る怒り、あるいは義憤―(悪に対する怒り)、そのような怒りのことを言っておられるのではありません。ここの怒りは、「根に持つ怒り、忘れようとしない怒り、和解しようとしない怒り」、そのような意味で「怒るな、腹を立てるな」と言われているようです。「正しい怒り」というものもあるのだと思います。親身になるが故に、相手のことを思って怒る、そういうこともあるだろうと思います。だからそういうことも認めた上で、しかし私達が怒る時、私達の心にはどのような思いがあるでしょうか。「怒る者の心を支えているのは正義感だ」という言葉を聞いたことがあります。「自分が悪かった」と思って私達は怒るでしょうか。もし「自分も悪かった」と思ったら、私達の怒りは和らがざるを得ないでしょう。でもそうではない。私達が怒る時、「相手が悪い、自分が怒るのは当たり前だ」という思いになるから怒るのではないでしょうか。つまり、怒る時にはいつも「私が正しい」という「理由」があるのです。「私は正しい、相手が間違っている」と思って怒る訳ですから、「怒る」というのは、「お前はこうだ」と「相手を裁いて決めつけること」です。しかも怒りを口に出すとしたら、なおさらです。「能無し」とは「お前の頭は空っぽだ」、「お前には人間としての価値がない」と言うことです。人との関係における裁きです。「ばか者」というのは「神に呪われた者よ」、「神に呪われよ」という意味です。神との関係における裁きです。そのように相手を決めつけ、しかも呪うなら、「お前なんかいない方が良いのだ」と心の中で相手を殺してしまうことなのです。人間の裁きは「行ったこと」しか裁かないでしょうが、「心を見られる」神からすれば、それは重大な問題です。だからイエスはこう教えられるのです。
そして私達も、私達が「怒り」を戒められる理由がいくつか考えられます。例えば、私達が誰かに対して怒っている、しかし、その相手がしている同じことを自分がすることはないのか、ということです。「姦淫の女」の話の中で、姦淫の現場で押さえられた女に向かって、指導者達は怒りに燃えて「先生、こんな女は石打ですよね」と石を投げつけようとしました。その彼らに向かってイエスは言われました。「あなたがたの中で罪のないものが彼女に石を投げなさい」(ヨハネ8:7)。「あなた方には同じ罪はないのか」と言われました。私達は、自分がして欲しくないことを誰かにしてしまうことはないでしょうか。あるいは、神の憐れみがなければ、同じことをしたかも知れない自分ではなかったのでしょうか。そう考えた時、「怒りに支配されて相手を決めつけ、憎む、呪う」という生き方は正されなければならないのではないでしょうか。あるいは、もっと根本的な問題として、私達が誰かに対して怒る、「その怒りが本当に正しいのか」ということもあると思います。私は、僻地校を出る時に、私と入れ替わりに教務主任になる先生に対して怒りました。次年度の引継ぎ作業の中で、その先生の態度に、私はプライドを傷つけられました。それで怒りました。プライドを傷つけられたり、「低く見られた」と感じた時、私達は「感情的に」怒る。私達の「怒り」は、多分にそういうものを含むのではないでしょうか。こんなこともありました。私はあることである人に対して怒りました。「絶対に自分は正しい、相手が間違っている」と思ったのです。でもしばらしくした時、私は、「私が間違っていました」と神に祈っていました。私達の怒りは、そのような不確かさも持つのではないでしょうか。
さらに、「怒り」は―(いつもそうだという訳ではないかも知れませんが)―人を破壊し、自分を破壊してしまうことがあるのです。「上司が部下を怒鳴り、どなられた部下が家に帰って子供を怒鳴り、怒鳴られた子供が猫を怒鳴り…」とある本に書いてありました。「怒り」は連鎖しながら私達の生活を破壊して行くのです。ある時バスが放火されるという事件があったそうです。人の命を脅かすようなことをなぜしたのか。「怒り」でした。自分が他の人から相手にされない、その「怒り」が爆発したのです。しかし結局、自分を破壊した。しばらく前、キング牧師の話をしました。黒人が公民権運動に立ち上がって行く、それを白人が弾圧する、その時にも、弾圧する人々の中にあったのは「怒り」だったそうです。「黒人が何を生意気な、身の程を知れ」というような「怒り」。それが彼らの生き方を誤らせました。黒人を破壊すると同時に、「自分達に神の裁きを招くようなことをしてしまった」という意味で、自分をも破壊して行ったのです。
ある人が言いました。「人間の成熟の在り方が『怒りを認め、その怒りがコントロール出来ない程になる前に、きちんと取り扱うこと』だとしたら、誰も殆ど成熟していないように見える」。だからこそイエス様は「人の義」の重要なポイントとして、「殺してはならない」という「戒め」を取り上げ、その背後に人間が抱えている大きな問題、「怒り」について、「怒ることが、そもそも人の命を、自分を大切にしていないことなのだ」と、怒りに支配されないことの重要さを語られたのではないでしょうか。
しかし、イエス様の教えはここで終わらないのです。「今日は怒らずに済んだぞ、良かった」という生き方が到達点ではないのです。「〇〇をしなかったから大丈夫」というのは「律法学者、パリサイ人の義」です。イエス様は「キリスト者の義は、律法学者、パリサイ人に優るものでなければならない」と言われます。では「どうしなさい」と言われるのか。それが23節以降の言葉です。結論から言えば「兄弟姉妹に、隣人に対して、『怒らない』というだけでなく、『憎まない』というだけでなく、『その人と和解しなさい、友達になりなさい』」と言われるのです。23~24節、「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」(23~24)。今イエスはガリラヤで語っておられます。ガリラヤからエルサレムの神殿に行きます。そして神殿の祭壇で捧げものをしようとした時に、「そこで兄弟に憎まれていることを思い出したら、捧げものをそこにおいて、3日かけてガリラヤまで帰って来て、兄弟と仲直りして、そしてまた3日かけて再びエルサレムに行って、改めて捧げものをしなさい」と言われる。現実にはあり得ない話です。でもイエスは、大げさな話をすることで、大切なポイントを伝えようとしておられるのです。それは、神の民にとって礼拝することは何より大切、「その大切な礼拝を途中で止めてまで、そうしなさい」と言われるのですから、「兄弟姉妹と、隣人と、和解することが、どれだけ神の前に重要か」ということです。もっと言えば、「兄弟との和解、隣人との和解は、神礼拝に先立つ」と言っても良いかも知れません。
しかし、なぜそうなのか。「今日は怒らなかった、憎まなかった」、それでは本当の解決にならないからです。相手との緊張関係は続く。問題は、心にある「怒り、裁き、憎しみ」は、そのまま残る。そして何より重要なことは「神の前で、兄弟への怒り、隣人への怒りをくすぶらせたまま、憎しみを秘めたまま、それで神に前に出て、神との和解が出来るのか、それを神が受け取って下さるのか」ということだと思います。極端な話ですが、あるクリスチャンが、教会に来て、礼拝の中で「神様、あの人が病気になるか、死ぬかして下さい」と熱心に祈っていたという話があります。私もある時期、心の中である人を恨みながら礼拝をしていた時期があります。神に受け入れられるのでしょうか。例えるなら、イエスはこう言っておられるのです。「教会に集って礼拝する時、あなた方は、まず神に受け入れられることを願う。しかしあなた方の中に、まだ『あいつだけは赦せない』、『この人だけは憎い』と思っている人はいないか…そういう人々への憎しみを心に抱いたままで、神の前に立つことが出来るのか」。いずれにしても、聖書では、神を愛することは、人を愛することとセットです。であれば、神との関係を整えることは、人との関係を整えることなのだと思います。
ジョン・セイルハマーという神学者が「なぜ神は祈りに答えられないのか」というメッセージの中で「神が祈りに答えられない10の理由」を挙げているのですが、その中の3つは「他人に対して恨みを抱いているから。他人を許していないから。ねたみ深く、批判的であるから」というものです。隣人との関係が、私達の神との関係を破壊してしまうと言うのです。だからこそイエスは「ただ兄弟に対して、隣人に対して、怒らなければ良い」ということではなく、キリスト者の生き方として「その人と和解しなさい、友達になるような生き方をしなさい」と言われる。「それこそが、本当に『命を大切にすること』だし、『問題の解決でもある』し、『神との関係を整える方法である』」と言われるのです。
もちろん「和解」は難しい。友達になるのは難しい。特に「私が怒るのは当然だ」と思っている相手と和解するのはもの凄く難しいです。自分が握りしめていた「拠り所」を手放すようなものです。(私は先程の方と和解するのに2年かかりました)。でも、なぜキリスト者はそこにまで踏み出して行かなければならないのか。25節に「裁判官」という言葉が出て来ます。これは「神様」のことです。つまり神がそれを願われる。私達が「主」と仰ぐイエス様が「そのように生きなさい」と言われる。「それが祝福の生き方だ、キリスト者の生き方だ」と言われるのです。そしてイエスご自身が、誰よりも人に対して怒って良いはずだったのに、怒りではなく十字架上で「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)と最後まで和解に生きて見せられたのです。そのように生き抜かれた方だからこそ、「人の命を大切に生きなさい、友達になることを求めなさい、私に従いなさい」と言えるのです。私達はその主の言葉を信じるのです。CSルイスは言いました。「『信ずる』と言いながら、キリストの仰ることに全く注意を払わないというのでは、そんなものは信仰でも何でもない。そんなものは、十字架についての何かの知識を持っているというだけにすぎない」(CSルイス)。チャレンジです。
前にもご紹介した「砕かれて」という「証」を改めて読み直しました。この姉妹は、結婚してご主人のお母さんと同居をしましたが、やがて義理のお母さんとの仲が悪くなるのです。子供が生まれたのを期に、激しいやり取りの末に別居します。ある日、事情があって印鑑を借りるために姑さんのところを訪ねました。しかし姑さんがそれを突っぱねて、嫁と姑のぶつかり合いが頂点に達します。しかしその後、彼女は、夫が養子で、姑が1人で育て上げたことを知ります。また同じ時期、姑さんが「手術をします」と電話をかけて来たけど無視したことで自責の念を感じ始めます。そんな時、誘われて教会に行くようになり、聖書の言葉を聞くのです。「もし人の罪を赦すなら、あたたがたの天の父もあなたがたを赦してくださいます。しかし、人を赦さないなら、あなたがたの父もあなたがたの罪をお赦しになりません」(マタイ6:14~15)。彼女は「神が姑を赦せとおっしゃっている」と感じて祈ります。「主よ、あなたが…私を赦して下さいましたから、私も姑を赦します。姑が私に和解を求めて来たら喜んで和解します」。そうしたら、また御言葉が語られました。「だから、祭壇の上に供え物をささげようとしているとき、もし兄弟に恨まれていることをそこで思い出したなら、供え物はそこに、祭壇の前に置いたままにして、出て行って、まずあなたの兄弟と仲直りをしなさい。それから、来て、その供え物をささげなさい」(23~24)。「主よ。あなたは私が先に赦せとおっしゃるのですか。私から先に和解の手を伸べよ…と」。彼女は、激しい葛藤の末、十字架のイエス様の幻を見せられ、「主よ、御言葉に従います」と言うのです。彼女は、蒲団乾燥機に「いつも平安がありますように祈っています。寂しくなったらいつでもこちらへ来て下さい」というメッセージを添えてお姑さんに送りました。すると数日して姑さんから返事がありました。「身も心も温かい不思議な光に包まれて、生きる力が満ちてくるのを感じます。ありがとう、ありがとう」。やがて姑さんが訪ねて来て、感激に満ちた交わりをします。彼女は感動さえ覚えながら主に心からの感謝を捧げるのです。カナダ・メノナイト教会総会で聞いたメッセージです。「神に従うことは危険な務めです。しかし、そこで見られる光景は驚くような光景です」。
和解は苦しい、友達になろうとすることは難しい。でもそれを可能にするのは、十字架のイエス様を見上げることなのだと思います。主を見上げ、主に従って、一歩踏み出す、私達はそれを期待されているのだと思います。「怒りはないか」、「恨みはないか」、「和解はあるか」、自分の生きている現実をもう一度見つめ直し、主のチャレンジに応えて行きたいと願います。