2020年12月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:ルカ福音書2章22〜38節 

 清水町教会のかつての牧師であられた吉間磯吉先生の書かれた「牧会漫談」という本を久しぶりに読み直しているのですが、色々と教えられます。あるページにこんな文章がありました。
 「大正14年11月28日(金)午前4時5分起床、4時10分より7時15分迄祈る。気力なく祈祷中、夢幻の中に陥りつつあること数度。11月29日(土)4時35分起床、同40分より8時15分まで祈る。主の愛の故に、サタンとの戦いに死を賭して出て行くべきを示される…11月30日(日)4時17分より7時30分まで祈る。12月1日(月)4時15分起床、8時15分迄、押入れの中で祈る。度々眠る。サタンを打つため目覚めて切に祈る必要を痛感した。自己の霊魂のため、教会のために更に祈れ…」。
 祈ることと格闘しておられる様子が伝わって来ました。「サタンは、私達が祈るのを一番怖がる」と聞いたことがあります。今年、皆様はどのような祈りの生活を為さったでしょうか。吉間先生の文章を読むと、私自身、祈りの足りなさを痛感します。悪い者に神様から来る祝福を邪魔させないように、祈ることの大切さを思わされることです。
 今朝の箇所は「シメオンの讃歌」として有名な箇所です。初めに記事の背景を確認します。
イエス様が生まれてから40日が経った頃でしょうか、ヨセフとマリヤは赤子のイエス様を連れてエルサレムの神殿に詣でました。目的は「マリヤの産後の聖め」のためと「イエスを神に捧げる」ためです。ユダヤの女性は、子供を産んでから40日が過ぎた時、聖めの儀式を行いました。また生まれた子供は、長男は神に捧げるものとされました。でも本当に捧げてしまったら、家に子供がいなくなりますから、通常は長男を捧げる代わりに、5シェケルというお金を捧げて、
子供を贖った(買い戻した)のです。それが律法の定めでした。それが22~24節です。この部分は交差対句法という書き方がしてあります。22節に「きよめの期間が満ちたとき」とあります。「聖め」です。その次の「両親は幼子を主にささげるために」は「奉献」です。続く23節は「奉献」の記事、24節は「聖めの犠牲」の記事です。「聖め、奉献、奉献、聖め」という書き方がしてあります。いずれにしても、そのためにヨセフとマリヤ、赤子のイエス様が神殿に行きました。するとそこにシメオンとアンナいう老人がいました。アンナは84歳、シメオンも高齢だったと思われます。そのシメオンがイエスを見て語った言葉が、この個所の主な内容です。それは私達に何を教えるのでしょうか。結論から言うと、祈りの大切さです。
 25節から、「そのとき、エルサレムにシメオンという人がいた。この人は正しい、敬虔な人で、イスラエルの慰められることを待ち望んでいた。聖霊が彼の上にとどまっておられた…シメオンは幼子を腕に抱き、神をほめたたえて言った。『主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます。私の目があなたの御救いを見たからです』」(2:25,28~30)。イスラエルは長く外国の支配下で惨めな状態でした。その中で人々は、様々な仕方で「神の慰め(救い)」が現れるのを待っていました。その人々の中に全身全霊を打ち込んで「神が何かを始めて下さる」ことを祈り続ける人々がいました。シメオンやアンナもそのような人でした。シメオンはイエスを見て喜びます。彼はイエス様を見た時、その赤子が神から送られた{主のキリスト(救い主)}であることが分かりました。つまり、神がイスラエルの民に―{あるいは31節では「万民(全ての民)」が視野に入っていますが}―いよいよ癒しの業を、救いを始めようとしておられる、そのことが分かったということです。彼はそれを喜んだのです。 
 しかし、なぜシメオンは、赤子のイエス様を見ただけでそのようなことが分かったのでしょうか。25節に「聖霊が彼の上にとどまっておられた」(25)とあり、26節には「聖霊のお告げを受けていた」(26)とあり、さらに27節には「御霊に感じて宮に入ると」とあります。何よりも
聖霊の示しによることだったのです。しかしなぜ、彼はそれほど御霊に満たされていたのか、神の近くにいたのでしょうか。彼の側の理由もあったのではないでしょうか。それは、彼が祈っていたということです。「待ち望んでいた」(25)というのは「祈りつつ待っていた」ということです。ある英語の聖書は「祈りに満ちた期待に生きていた」(メッセージ訳25)と訳しています。
 三浦綾子文学館の森下先生の話を聞きました。先生が大学の教授の椅子を捨てて文学館の研究員として働き始めた時、彼は「北海道各地で読書会を増やしたい」と思ったのです。札幌の読書会には5人しかいなかったそうです。先生は、祈って、祈って、市内の150の教会に案内のチラシを送りました。ところが当日、会場に来たのは1人でした。先生はショックを受けました。しかし祈っていたからでしょう、神の語り掛けを受けるのです。「読書会は、沢山人が来ることが大切なのか。三浦綾子が懸賞小説に応募するために『氷点』を書いた時、『読まれずに没になることはない。必ず1人は読んで下さる。その1人のために書かせて頂こう』と書いたのではなかったのか」。先生は「1人を大切にする」という神の御心を理解したのです。そしてそこから本当の意味で先生の働きが広がって行くのです。
 シメオンも、イスラエルが慰められること、救われることを祈っていました。何年も、何年も祈ったのです。「神の慰めは、救いはどこにあるのか」と言いたいような辛い日々の中で祈った、祈りつつ待ったのです。それは、どんなに人間的な知恵があっても、制度が整っても、繁栄しているように見えても、神が関わって下さらなければ、神の救いが来なければ、本当の祝福は来ない、全ては虚しいからです。以前、「クリスマス休戦」の話をしました。神が関わって下さるなら、戦場の真っただ中で和解が起こるのです。私達の教会でも、クリスマス祝会の直前にプロジェクターが壊れて、私は大慌てをしたことがありました。しかし、神が関わって下さるなら祝福の集会が出来ることを経験しました。神が関わって下さるかどうか、それが全てだと思います。彼はそれを分かっていたから祈ったのです。祈って、祈って、神の救いを待ち望み、祈りの中で神様に近づいたのです。だから赤子のイエス様の中に―{イエス様は何も語らない、何もしない。しかし神様は独り子を人の世に、人の子として生まれさせたのです。この何もしない、何も語らない幼子イエスの存在そのものの中に、神様の人間に(私達に)対する憐れみ、私達を救うという熱い、揺るがない意志が現れていた、その}―神の救いの思いをシメオンは見ることが出来たのです。さらにシメオンは、イエス様の受難、イエス様の受難の故のマリヤの苦しみ、そこまで見せられているのです。いずれにしても、その意味でこの箇所は、祈ることの大切さを語るのではないでしょうか。アンナもそうです。彼女は84歳の今日まで、神殿で「祈り…に明け暮れ」(リビングバイブル2:37)て、過ごしていたのです。だからイエス様のことが分かり、喜ぶことが出来たのです。祈ることによって私達は、自分で気づこうが気づくまいが、神に近づくのです。祈りに生きたこの2人こそが、最初のクリスマスに救い主の誕生を理解して喜ぶことが出来た人達なのです。
 神学者ヘンリ・ナーウェンは言いました。「どんなにキリスト教的な言葉を語っていても、キリスト教的な行いをしているように見えていても、祈っていない人がいる。祈らなかったら全てが空しい。それは信じていることにならない…信仰とは祈りである」。「祈りを通してどのように神と交わっているか」、それが問われるのです。
 ただ、ここでもう一歩踏み込んで考えたいのは、祈りの内容です。シメオンは、イスラエルの慰められることを祈っていました。つまり―(自分のことだけでない)―同胞のために祈っていた、同胞のために祈ることを生きることにしていたのです。アンナもそうです。おそらく23~24歳でやもめになって、60年間、女1人で生きて来たのです。当時、それは大変なことだったと思います。女性には仕事などないのです。しかし彼女の関心は、自分のことに始終していません。同胞の上に神の贖いの出来事を待ち望んだのです。そのことは私達に対するチャレンジです。私は、どれだけ心を砕いて執り成しの祈りをしているか、それが問われます。「世の光」の放送を通して多くの人々に福音を語り伝えられた羽鳥明先生も、祈りの人だったようです。ある人がこう言いました。「羽鳥先生が『祈っていますよ』という時は、社交辞令でなく、本当に祈っておられた。私も、自分がもう解決して忘れてしまった出来事を、随分後になって『東さん、お祈りしていたあの件はどうなりましたか』と先生から尋ねられて、驚嘆し、恐縮したことがありました」。「世の光」の働きを受け継いだ村上先生が羽鳥先生の病床を訪ねた時、羽鳥先生はベッドから降りて、床に跪いて「どうか日本にリバイバルを与えて下さい、日本を憐れんで下さい」と泣きじゃくりながら祈られたそうです。「現代のシメオン」という感じです。
 私達の信仰生活もそうではないでしょうか。「愛は祈りから始まる」という言葉があります。私達は愛することを大事に考えます。それが人間関係の祝福の原則だと信じます。でも信仰者が「愛する」という時、それは、まず祈ることから整えられて行くのではないでしょうか。聖書に「ある人々が中風の人をイエスのいらっしゃる家に運び、群衆で中に入れないので、外から屋根に上り、屋根をはがして中風の人をイエス様の前につり降ろした」という記事があります。その祈りに答えて、イエス様が中風の人に業を為さるのです。シメオンも、悲しむ人、苦しむ人々を祈りの中で神の許に運んだのです。その祈りに神が応えて下さったのです。もちろん私達は自分のことも祈ります。その祈りは切実です。ある神学者は「最大の罪は祈らないことだ」と言いました。自分のことも熱心に祈りましょう。でも「祈るということの大切な一面は、誰かのために執り成すことではないか」ということも教えられるのです。先週のメッセージの中で「私は急性鬱症で入院中に、神に出会い直す経験をさせて頂いた」と申し上げました。私は落ち込むばかりで何もしていないのです。祈って頂いていたからだと、心底思います。今も祈って頂ける幸いを感じています。私達には、自分では祈る力もないということがあります。でも誰かに祈ってもらっている、神の祝福を取り次いでもらっている、それは本当に感謝なことです。教会の交わりは一見淡泊です。しかし、毎日の祈りの中で教会の仲間を覚えて祈る、あるいは、そのご家族の必要を覚えて祈る、祈りの中で誰かを神様の許に運ぶ、神の祝福を執り成す、そこにこそ、教会の交わりの意味はあるのではないでしょうか。
 そのように祈りに生きた結果、シメオンは言いました。「主よ。今こそあなたは、あなたのしもべを、みことばどおり、安らかに去らせてくださいます」(29)。シメオンは、祈りに励んで来たからこそ、祈りの生活がいよいよゴールにたどり着いた、目的を果たしたという満足感で満たされたのではないでしょうか。ある牧師が言いました。「祈りの中に年老いて行く、それが信仰者の姿だ」。祈りに生きるということ、そこに人生を満たされたものとして仕上げる秘訣があるのではないでしょうか。
 新しい年が始まります。新しい年、祝福もあるでしょう。でも闘いもあるかも知れません。がっかりすることがあるかも知れません。しかし「詩篇」の作者は歌いました。「わがたましいよ。なぜ、おまえはうなだれているのか…神を待ち望め…」(詩篇42:5)。祈って神の御業を待ち望みましょう。神から来る希望と恵みに生きて行く1年にしたいと願います。

聖書箇所:ルカ福音書2章8〜20節 

 クリスマス、おめでとうございます。今「ルカ2章8~20節」をお読み頂きました。1~7節にイエスが生まれたという記事があります。イエス様は、紀元前6年頃、ベツレヘムで生まれました。その時、その地方で羊の番をしながら野宿していた羊飼いの許に天使が現れます。羊飼いは恐れます。しかし主の使いは言います。「恐れることはありません…私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます…」(2:10~12)。天使は「すばらしい喜びを知らせ」ようとしたのです。では、クリスマスは、どんな喜びを語るのでしょうか。
まず、なぜ天使は羊飼いに現れたのか。ある本にこうありました。「真夜中に羊の番を仕事としなければならないような、当時の社会の底辺層の人々…」。羊飼いは野宿を続け、体には獣の臭いがこびり付いています。また宗教の決まりを―(例えば「この日は出歩くな」という安息日を)―守ることが出来ません。それで人々からは「あの連中は神様から遠い連中だ」と言われ、自分達もそう思わされていたのです。その彼らに喜びの知らせが告げられたのです。その意味で天使が告げる喜びは、どんな人にも語られる喜びなのです。だから天使は「この民全体のため(『全ての人』のため)の素晴らしい喜び」(10)だと言いました。この喜びの与えられない人はいないのです。だからこれは、私達にも語られている喜びなのです。
9節「主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた」(9)。彼らは「自分達は神に相応しくない」と思っていたから神を恐れたのです。日本人も後ろめたいことがあると「罰が当たる」と言って神を恐れます。でも私は、彼らの恐れは、色々なことを恐れながら生きている人間の姿を象徴していると思うのです。チューリップというバンドをご存知でしょうか。彼らの「もう笑わなくっちゃ」という歌の中に「人はみんな、何かに怯え、生きて行くのか、それが定めなら…」という歌詞があります。私達は皆、色々な不安や恐れを感じながら生きているのではないでしょうか。子供さんが登校拒否になって、不安に襲われたお母さんが、子供を追い込んで行った、という話を読みました。不安や恐れは私達を様々に追い込んで行くのです。でも天使は言いました。「恐れなくて良い、私は喜びを告げに来たのだ」。その喜びは「不安や恐れさえ追いやるような喜び」だと言うのです。では、繰り返しますが、その喜びとは何なのでしょうか。イエス様の誕生が、どういう意味で喜びの知らせなのでしょうか。
何度もお話ししますが、私は15年前のクリスマスの時期を総合病院の精神科病棟で迎えていました。教会の働きをして行く中で「失敗した」と思うことがあって、自分が責められて、耐えられませんでした。そして、「これからどうなるのか」と恐れました。自責の念と、恐れと、絶望のような思いが重なり、急性鬱症になりました。もらった病名は「希望なし」というものでした。生きる気力がない。10mが真面に歩けない。その鬱状態からどうやって回復したかと言うと、薬も効いて来たと思いますが、ある日、「今まで沢山の失敗をして来たけど、いつも神が助けて下さったな」と考えていたら、神の細い声が心に響いた気がしました。「私が何かをする」。私はそういう形で「恐れるな」という声を聞いたのです。それが希望になりました。「希望なし」の私に、希望が見えたのです。希望によって私は、廃人のような状態から快復したのです。
私は自分の拙い経験からも思うのです。私達は「1人で全てを抱えて恐れている」のではないでしょうか。ある本にこんな文章がありました。「私たちの生活には、自分の努力ではどうにもならないこと、取り返しのつかないことなどがしばしば生じます。自分の能力で解決できないこともたくさんあるのです」。神にすがるしかないことがあります。助けて欲しいことがあります。その時、神に希望を持つことが出来れば、神が何かをして下さると信じることが出来れば―(ある人は「神は、悪からでさえ善を生み出してくださる」と言いました。それを信じることができれば)―それは大きな救いではないでしょうか。
それは、羊飼いも同じだったのではないでしょうか。その彼らに天使が語ったのです。「救い主がお生まれになりました」。「救い主」、救い出してくれる者、守ってくれる者、助けてくれる者、命を与えてくれる者、そういう存在です。それは、ユダヤの人々にとっては「祝福の源である神の御手の中に入れてくれる者」という意味でした。しかもここで天使が讃美したのです。それは、神が喜ばれたということです。イエス様の誕生をまず喜ばれたのは、神様だったのです。それは、人々がイエス様を通して神様の御手の中に入り、神様の救いに与ることが出来るようになったからです。そのことを神が喜ばれたのです。どいうことでしょうか。
神は、恐れを抱えた私達に神が必要だと知っておられたから、「旧約」の時代から「私があなたと共にいる」と言って来られたのです。「恐れるな、わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ41:10)。「誰が傍らにいなくても、神が共にいて下さり、最後は責任を取って下さる」と思うことが出来れば、慰めです、力です。いずれにしても、神は人と生きようとして来られました。
しかし問題が2つありました。1つは、人の側にそれが分からなかったことです。神が大き過ぎる方だから、人には神の思いが分かりませんでした。だから、むしろ神を恐れたのです。しかし、だからこそ神の子イエスは赤子として地上に来て下さったのです。考えれば恐ろしいことです。赤子は、お世話してもらわなければ死ぬしかない。でもそんな姿で人間の世界に
入って下さったのです。それは赤子ならどんな人でも恐れなく近づくことが出来るからです。
羊飼い達も「みどりご」と聞いて「会いに行こう」と恐れることなく神に近づこうとしました。長じたイエスは「父の許を出て行き、他所の町で身を持ち崩しボロボロになって帰って来た息子を喜んで迎える父の話」を教えて下さいました。この父はボロボロの息子に走り寄るのです。私達が神様の方を向くこと待ち、私達に走り寄ろうとされる神様、イエス様によってそんな
神様の真実が分かるようになったのです。人が神に手を延ばそうとするようになったのです。
しかしもう1つの問題は、人には、人を神から隔てる仕切りがあったということです。ある時、イエスの許に姦淫の現場で捕まった女が連れて来られました。指導者達は石を振り上げて「こういう女は…石打ちですよね。あなたはどう思うのか」とイエス様に迫りました。イエスは言われました。「あなたがたのうちで罪のない者が、最初に彼女に石を投げなさい」(7)。「聖書」は「年長者たちから始めて、ひとりひとり出て行き、イエスがひとり残された」(9)と語ります。「私には何の罪もない」と言える人はいなかった。それは私達も同じではないでしょうか。「人を憎むことは人の死を願うことと同じだ」とイエスは教えて下さいました。でも私達も人を憎むのではないでしょうか。そんな罪ある私達と、聖い神様とは、本来一緒にいることは出来ないのです。私達の罪が神様との間を隔てるのです。しかし、だから神の御子は人となって地上に来て下さり、私達を神から隔てていた私達の罪の一切を、その身に背負って、十字架上で始末して下さったのです。イエスは、私達と神様との間の仕切りを取り除いて、神様との間に橋を架けて下さったのです。それによって私達は、神の御手の中に入ることが出来て、神と共に生きて行けるようになったのです。
神様はずっと、私達を助けたい、救いに与って欲しい、と願って来られたのです。それが
イエス様の誕生で現実になったのです。だから、誰よりもまず、神が喜ばれたのです。私達は、神の救いに与ることが出来るようになったのです。
ある方のお兄さんが交通事故に遭って、10年間、寝たきりの状態で回復しなかったのです。ご家族、特にお母さんにとって絶望的な苦しい時でした。しかし10年経って快復が始まり、やがて普通の生活が出来るようになりました。後にお母さんが言われたそうです。「あの絶望的な状況で、なぜが『きっとこの子は良くなる』という希望が与えられて、それであのところを通って来ることが出来た。そうでなければとても通って来ることは出来なかった。私は神様に背負われていたんだね」。神様が私達を背負って歩いて下さるようになったのです。昨年、来て下さった佐藤彰先生はこう言っておれます。「神の御手の中にいる、その希望があるから我慢出来ます。希望があるから待つことも出来ます。希望があるから私達は諦めません、希望があるから挫けることは出来ない」。先生はまた、ご自分の苦しみの経験から「神の奇跡はある」と語っておられます。神の御手に入ること、それは神の恵みと、神から来る希望によって支えられ、神様に生かされて生きることが出来るということです。
しかし、それだけではありません。イエスは十字架に架かって身代わりに死なれましたが、
3日目に甦られたのです。そして「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と言われました。イエスを通して神に迎えられた者は「天国で永遠に生きる」という約束をして下さったのです。私達は必ず死にます。今年、私達も3人の方を天にお送りしました。しかし神の御手の中に入るということは、たとえ地上の命が終わろうとも、御手に抱かれて天国に凱旋出来るということです。カナダである方の葬儀の司式をしている最中にふと会堂の天井を見上げた時、その方を天に運ばれる神の腕が見えた気がしました。私は圧倒されました。子供を亡くされて「神なんかいない」と言って過ごして来られた方が、末期ガンでキリスト教病院に入院し、亡くなる前に洗礼を受けてクリスチャンになりました。亡くなる時、「道が見える、天国への道だ」と言って亡くなられたのです。DLムーディーという伝道者は亡くなる時に叫びました。「今、私はあまりにも美しい光景を見ている。これが死だったらあまりにも素晴らしい。神が私を呼んでおられる。私は行かなければならない」。私達は、死にさえ希望を持って向かうことが出来るようになったのです。「救い主が生まれた」という知らせは、「あなたも神様の御手の中に入ることが出来るようになった、神と共に生きて行けるようになった」という知らせであり、それは私達にとって、生きるにも、死ぬにも―(静かなものかも知れない、しかし)―素晴らしい喜びの知らせなのです。
さて、羊飼い達が天使のメッセージをどれだけ受け止めたのか、それは分かりません。でも「神が自分達に関わろうとして下さっている、自分達も神様に望みを置いて生きて行けるようになったのだ」、それは感じたのではないでしょうか。だからベツレヘムに急いだのです。そして「布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけ…」た時、「本当だった」と喜んだのです。その後、彼らの生活は、特に何が変わったわけでもないでしょう。でも、彼らは、救い主が来て下さった、今からは御手の中で神様に望みを置いて生きて行ける、その喜びに生かされて行くのです。
生きるにも、死ぬにも、神様が私に責任を持って下さるようになった、私の前にも天国の門が開かれた、このクリスマスのメッセージを感謝して、イエス様のご降誕を心からお祝いしたいと思います。

聖書箇所:マタイ福音書1章18〜25節 

 大淀教会の牧師をしておられた本間正巳という先生の奥様が高齢になられてアルツハイマーを病まれました。別人のように変わってしまった。でも、その奥様がある日、突然祈り始めたそうです。「色々なことが分からず、物事が上手に出来ない自分の不甲斐なさを赦して下さい…それでも、こんな私を愛して、導いて下さるイエス様に感謝します…これからの私の降りて行く道を、なだらかな道として下さい」。お嬢さんは、このお母さんと神が共にいて下さる、そう気づかれたそうです。神は共にいて下さる方であることを教えられました。
今日の箇所も「神は共におられる」というクリスマスのメッセージを語ります。主人公は、イエス様の父親となるヨセフです。ヨセフの話を通してクリスマスへの備えをしたいと思います。 
 

1:クリスマスの語りかけ(1)~「神の恵み」

この個所の中心的な出来事は「ヨセフが夢を見る場面」です。夢というのは私達の心の深いところにある心理を反映していることが多いそうです。ヨセフにも、夢にまで見るようになっていた深い悩みがあったのです。それは「婚約者のマリヤが子供を宿している」ということでした。ヨセフは、誰にも言えずに苦しんでいたのです。19節「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」(19)。「正しい人」、「掟に従って結婚までは体の関係を持っていなかった」と言うことです。それにも拘らず婚約者が子を宿した。どんなにマリヤを愛していても、そのまま結婚するにはあまりにも大きなことでした。ヨセフは「夫」と呼ばれています。ユダヤでは婚約は結婚と同じ重みを持っていて公に宣言されました。婚約を解消する時も、通常は理由を公にして離縁を宣言するのです。そうするとマリヤは「婚約中の夫がいながら姦淫の罪を犯した」として石打の刑です。ヨセフは傷つきながらもマリヤの命だけでは守ろうとした。理由を公表しないで「私の勝手で婚約を解消します」ということにしようと決めました。「子供を宿らせておいて落ち度もないのに離縁するとは何事か」と世間から非難されます。その非難を受けてでもマリヤの命を守ろうとした、それがヨセフでした。後にイエス様が「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」(マタイ9:13)と言われましたが、憐れみに生きたのです。しかしそれは、悩んで苦しんだ果ての決断だったでしょう。だからこそ、夢にまで見たのです。しかし彼の夢に天の使いが現れて事の真実を告げるのです。言うならば、彼は悩みの中で神と出会うのです。ある神学者が言いました。「人は誰も、他の人に知らせることが出来ない心の片隅を持っている。そこには、誰にも言えない秘密があるかも知れない、恥じていることがあるかも知れない、辛い罪責感があるかも知れない、深い悩みがあるかも知れない、悔しさがあるかも知れない。しかしその誰にも知らせることの出来ないような心の片隅で、人は神に会うのだ」。誰はばからず人前で言えるようなことにも神は働かれるでしょう。しかしヨセフは、一人で悩んで苦しんでいる、そこで神に会ったのです、そして神の導きを受けた、このことは私達に何を語るのでしょうか。
ストラボーという学者が世界中の民族を調べて回りました。その結果「世界中のどの民族も『神』を持たない民族はない。人間は何者かを拝もうとしている」、彼はそう言いました。旧ソ連にブレジネフという指導者がいました。ソ連が「神を信じない」思想を謳っていた絶頂期です。でもブレジネフが死んだ時、奥さんは彼の遺体の上で十字を切ったのです。思想や哲学ではどうしようもないものがあるのです。「神なんか信じない」と言っている人も、イザとなったら「神様!」と叫ぶと聞きます。人は神を求めるのです。それにも拘わらず、どうして人は神をもっと近くに感じることが出来ないのでしょうか。聖書は「人の罪が私達を神から遠ざけるのだ」と言うのです。具体的な罪もそうですが、人間には妬みや自己中心があります。「原罪」というどうしようもないものがあるのです。その罪が私達を神様から遠ざけるのです。ここでイエスは「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(21)と、「罪の問題を『イエスが解決して下さる』」と言われているのです。どうやって解決して下さるのか。20~21節に「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(20~21)とあります。これは神がヨセフに「マリヤの産む子を自分の子として迎えて欲しい」と頼んでおられるということです。その意味でイエス様は、確かに神様の子ですが、一方でヨセフに「自分の子」として迎えられた方なのです。「ヨセフに迎えられた」とはどういうことでしょうか。1章1節~17節に「アブラハムから始まる系図」があります。系図の最後に「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた」(16)とあります。そのヨセフにイエス様は迎えられます。言うならばイエス様は、ヨセフに繋がるところの人間の歴史に入り込んで下さったのです。その系図は、名君と謳われるダビデ王さえ家臣の妻を奪ってしまったことを記す、人間の罪深さを描く系図なのです。イエスはその人間の罪の歴史に入り込み、人間の罪の全部を引き受けて十字架に掛かり、私達の罪に下るはずの罰をご自分が受けて、私達の罪の問題を解決して下さったのです。神様と私達の間に橋を架けて下さったのです。私達と神様との間の仕切りは取り除かれました。誰でもイエス様を信じるなら、その人は神様と繋がることが出来るのです。苦悩の中で神に会える(神に触れられる)ようになったのです。いや、苦悩の時だけではない、「神われらと共にいます」、神がいつも私と(あなたと)共にいて「あなたを強め、助け、守って下さる」、そういう時代がイエス様の誕生で始まったのです。それがヨセフの夢が語ることです。
藤井美和という方は、マスコミの仕事に夢中になっていた28歳の時、突然、難病に襲われました。全身の神経障害、麻痺が呼吸筋まで広がり、呼吸が出来なくなった、死に直面したのです。これまで人を押しのけてでも仕事に邁進する生き方をして来た。神様から「お前はそれでよいのか」と問われていたのです。そんな時の病気です。自分は神が招かれた時には「ハイ、ハイ」と言って天国に行けると思っていた。ところが、現実に死に直面した時には「今死んだら何もならない、死にたくない」と叫んでいる自分がいるのです。彼女は涙を流して祈りました。「神様、どうかもう一度いのちを与えて下さい。そうしたら今度は、喜んで天国に行けるような生き方がしたいのです」。祈りは聞かれ、奇跡的に呼吸が出来るようになりました。しかし医者からは「一生寝たきりの生活を覚悟して下さい」と言われます。でもそんな中で、なぜか生きる意欲が甦るのです。神様の御業です。リハビリに励んだ結果、手足の麻痺は奇跡に回復し、5か月後には杖をついて歩けるようになります。彼女は、病気の人の抱える精神的な悩みがいかに大きいかを知って、快復した後、そういう人の心を支えるソーシャルワーカーの道に進むのです。彼女は言います。「人生は一寸先に何が起こるか誰にも分かりません。しかし…行き詰まったように見えても…神様に祈り求めるなら、次の道は既に備えられていることが分かるのです…あの朝、私に再起のいのちを下さった神様は、どんな状況の中でも共におられ、『私がついているよ』と語りかけ、励ましてくださるのです」(藤井美和)。「『その名はインマヌエルと呼ばれる』(…神は私達たちとともにおられる、という意味である)」(23)。誰の人生にも、自分の力ではどうにもならないことがあります。でも人は、苦悩の中で神に出会い(神に触れられ)、神と共に生きて行くことが出来るようになったのです。悩みの中で神に会えるということは、どんな時にも望みを捨てなくて良いということではないでしょうか。イエスの誕生によって、本当に神が共にいて下さるようになった、それがクリスマスの語りかけです。
 

2クリスマスの語りかけ(2)~「神の招き」

 クリスマスにはもう1つの語りかけがあります。「神の招き」です。
 この後ヨセフはどうしたでしょうか。イエスを自分の子として身に引き受けました。ベツレヘムに行き、イエスの生まれる宿を探して歩いたのです。イエスがヘロデ王に狙われた時には、エジプトへの長い旅を、身を挺して守ったのです。何の権力もない大工です。神はその彼に「私の子を守ってくれ、引き受けてくれ」と委ねられた。そしてヨセフは「神と共に働く者」とされたのです。神の方から始めて下さった恵みの歴史です。しかしヨセフはそのようにして、その歴史を荷う人間として神の恵みの歴史に入り込むことが出来たのです。クリスマスは私達に「あなたも神と共に生きて行けるようになった」と恵みを語ります。それだけではなくて、私達をも「あなたにも神の恵みの歴史を荷って欲しい」と招くのではないでしょうか。言い換えると「神と一緒に働いて欲しい」ということです。
 「神の恵みの歴史を荷う」、色々な形があると思います。お一人びとりが既にそれぞれ示されたことを通して恵みの歴史を荷っておられることでしょう。色々あると思いますが、昨年来て下さった佐藤彰先生が下さった冊子の中にある姉妹のことをお分かちして終わりたいと思います。
この姉妹は、70歳を過ぎてから乳癌の大手術を受けた後、「まだ動く指をもって主に仕えたい」とワープロを購入して、それで教会の奉仕を始めたそうです。その姿が痛々しいので役員会が助言をしました。「姉妹、あなたは病身です。奉仕をせいずに療養して下さい」。その姉妹は涙を流して「私から奉仕を取り上げないで下さい」と訴えたそうです。佐藤先生も「この人は倒れる瞬間まで奉仕をするつもりなのだ」と悟って、もう何も言わなかったそうです。その生き方には色々なご意見があると思いますが、でも、恵みの歴史を荷おうとする思いが伝わって来るのです。「神の恵みの歴史を荷う」ということには、クリスマスに始まった神の恵み御業を何か分かち持つという働きもあるのではないでしょうか。同じ姉妹の話です。亡くなる半年ほど前、彼女は自分を導いてくれた宣教師に再会するためにアメリカの田舎町の教会を訪問しました。そこでこう語ったそうです。「皆さん、この先生を日本に遣わして下さって本当にありがとうございます。私は様々な辛いこともありましたが、今は福音の力をしみじみと実感しています。私の体内には4つの癌があります。けれども死ぬことが全く怖くありません。それは先生が私にキリストの福音を伝えて下さったからです。皆さんも、もしイエス様の本当の力を知りたいとお思いなら、癌になってみて下さい」。佐藤先生はその宣教師の涙を見て「このたった1人の日本人に会うためにでも、日本に行ってよかった」、そう語っているのを感じたそうです。その姉妹から、家族へ、隣人へと、福音は伝わって行ったのです。神の恵みを証しすること、それも恵みの歴史を荷うことではないでしょうか。色々な形があると思います。無理をする必要は何もありません。どんな形でも良い、私達も神の恵みの歴史を荷わせて頂きたいと願います。そこに、生きる意義、張りのようなものもあるのではないでしょうか。
聖書には「イエスがもう一度、地上に来られる」という「再臨」の約束が預言されています。
クリスマスは、再臨を待望する時でもあります。やがてイエス様が、空の扉を開けて入って来られるのです。その時、イエス様から「よくやった。良い忠実なしもべ(として生きたな)」(21)と言って頂けたら、どんなに幸いでしょうか、大きな喜びでしょうか。

聖書箇所:イザヤ書7章1~14、8章1~8節、マタイ福音書1章23節 

 今朝は「待降節第2聖日」です。お読み頂いたように「マタイ福音書」はイエスの降誕について「『見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)」(マタイ1:23)と記します。イエス様のことが「インマヌエル」という名前で紹介されます。その「インマヌエル」という言葉が初めて聖書に登場するのが「イザヤ書」のこの個所です。「インマヌエル」という言葉に代表されるように、聖書の中心的な思想は「神は神の民と共におられる」ということです。神はヤコブに言われました。「見よ、わたしはあなたと共にいる。あなたがどこへ行っても、わたしはあなたを守り…」(創世記28:15)。「イザヤ書」には「恐れるな。わたしはあなたとともにいる…」(イザヤ41:10)とあります。イエスは言われた。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。「神が(私達と)あなたと共におられる」、それが聖書の一貫した教えです。しかしイザヤは「神は私達と共におられる方だ」ということを初めて「インマヌエル(『人と共におられる神』)」という固有名詞で紹介したのです。そして聖書は「それはイエスの誕生において(最終的に)実現した」と語るのです。クリスマスが「神が私達と共におられる」と語るのであれば、私達はクリスマスを前に何を心備えすれば良いのか。一言で言えば「共におられる主に信頼する」ということです。3つのことを申し上げます。
 

1:救いのしるしとしての「インマヌエル」~主に信頼せよ

イザヤの預言は最終的には「イエス誕生」を指していたのですが、その700年前にイザヤがこれを語った直接的な状況があります。紀元前735年、南王国ユダに北王国イスラエルとその北にあるアラムが連合して攻めて来ました。ユダは小さな国です。そこに2つの国が攻めて来ることになり、ユダの人々は恐怖に陥り、慌てふためき、神に頼ることを忘れてしまうのです。恐れは私達を混乱させます。その時、イザヤは神の言葉を語りました。「気をつけて、静かにしていなさい。恐れてはなりません…(まず何より神により頼め…神が守って下さる)」(7:4)、「もし、あなたが信じなければ長く立つことはできない」(9)。「神に頼れ、神を信頼せよ」と語ったのです。しかし時のアハズ王は、神ではなく人に頼りました。更に北にあるアッシリヤという大国に助けを求めたのです。しかしそれは、自国の独立を犠牲にしてアッシリヤに隷属することでした。だからそのアハズに向って神は(更に)「私が共にいて守るから、そのことを信じなさい。もし信じられないのなら、今ここでしるしを求めてみなさい」(11節意訳)とまで言われたのです。アハズ王は、口先では「私は(しるし)を求めて、主を試みることをいたしません」(12意訳)と信仰的なことを言いますが「神など初めから頼りにしていない」のです。だから今度は「憐み深い神」の方から「…あなたがたに一つのしるしを与えられる」(14)と言われる。それが「見よ。処女がみごもっている。そして男の子を産み、その名を『インマヌエル』と名づける」(7:14)の言葉でした。「処女がみごもって…男の子を産む」。究極的には、イエス様についての預言なのですが、直接的には「この後、イザヤの妻となる女性が身籠もって男の子を産む」ことを指していると思われます。つまり「イザヤの妻になるおとめが身籠って男の子を産む…神が共におられ、やがて北イスラエルとアラムの連合軍からユダが守られる、そのしるしとして男の子が誕生するのだ」と言われたのです。大分教会を開拓された宣教師の先生が、教会を開拓して直ぐ奥さんが妊娠されたのです。奥さんが神様に「どうしてこの時期に子どもが出来たのでしょうか」と尋ねたら、神様が「開拓伝道が祝福されるというしるしに新しい子どもが生まれます」と心に語られたそうです。そういうことです。そして実際にイザヤに男の子が生まれ、アハズの不信仰にも拘わらず、アラムとイスラエルはユダを攻め取ることはなかったのです。いずれにしても「処女が身籠って男の子を産む」というのは、神が民に「私が共にいる」ということを知らせるために用いられた「しるし」でした。「神に信頼する時、神が助け、支えて下さる、神が戦って下さる、それが『神が共におられる』という意味である」、この出来事は人々にそう教えたのです。
私達も切羽詰ったような時、困難を抱える時、「これからどうなるのか」という恐れに身を置いてしまいがちです。そうやって(かつて)私も急性鬱になりました。しかし、その時に信仰はどうするのか。「気をつけて、静かに(していなさい)」とあります。神の前に静まるのです。そして「もしあなたがたが信じなければ、立つことはできない」(9)と言われています。静まって「神は私に決して下手なことはなさらない」というところに身を置くのです。もちろん、それで何もしないということではありません。出来ることがあれば、ベストを尽くすのです。しかし、それだけでは乗り越えられない困難も多いのです。だから根源的なところにおいて神に信頼を置くのです。祈って、神の業を待つのです。いずれにしても「神は生きておられる、私と共にいて、私を強め、助け、支えて下さる」、それを信じて神に頼るように、この個所は語るのです。
 

2:「インマヌエル」による救い~主に信頼せよ

 30年後、今度はアッシリヤがユダに攻めて来ました。この時、王はヒゼキヤに変わっていました。アハズの影響を受けていた家臣たちは、今度は南のエジプトに助けを求めようとしました。その時もイザヤは立ち上がって「そうではない。エジプトに信頼することは止めなさい、神に信頼しなさい」と言いました。ヒゼキヤも揺れました。しかし彼は、籠城に耐えられるように水路を掘らせたり、砦を築かせたり、防備も固めますが、何より信仰に立つのです。強大に見えるアッシリヤの軍隊、とても防ぐことが出来ないように見えるユダ。しかし彼は、主なる神に拠り頼むことに腹を括り、神殿に行き、泣きながら祈るのです。「主よ。どうか今、私たちを彼の手から救ってください…」(2 列王19:19)。エルサレムの都は、アッシリヤによって二重、三重に取り囲まれました。発掘されたアッシリヤの宮廷日誌(粘土板)にも、そのことが書いてあるそうです。ところが、二重、三重に取り囲んでいた兵は、一夜の内に全滅してしまうのです。歴史の事実です。歴史家は「疫病だろう」、「食中毒だろう」と言いますが、いずれにしても、ヒゼキヤの祈りに答えて、神の介入によってエルサレムは守られるのです。
この出来事は37章に詳しく書いてあるのですが、その出来事を予め預言したのが「イザヤ書8章7~8節」です。30年前、ユダ国は神を頼らずアッシリヤを頼った。しかしその頼りにしていたアッシリヤが仇となって攻め込んで来た。しかし今回は、ヒゼキヤが静まって神の前に出ました。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(30:15)、イザヤが教えたこの御言葉を握って、泣きながら「神よ、この試練から私達を救い出して下さい。あなたが『静まれ』と言われましたから御前に来ました」と祈った。その祈りを神は聞いておられました。アッシリヤの攻撃の流れがみなぎって首にまで及んで、もはやこの神の国は全滅だという時、「インマヌエルよ、その広げた翼はあまねく、あなたの国に満ちわたる(あなたの国土を覆い尽くす)」、「『インマヌエルなる神』が、めんどりがその翼のもとに雛を抱くように、翼を広げてユダの国を覆っておられた」というのです。地上では、そんなことは見えません。見えるのは、二重、三重に囲まれた絶望的な状況です。しかし天の神の視点においては、共におられる「インマヌエルなる主」が、翼を広げて神の民を守っておられたのです。
 私はカナダで出会った高齢の兄弟のことをいつも思い出します。彼は「『どうしてもこの家で暮らしたい』と泣く施設の子供を養子として迎えるかどうか、この年齢で本当に育てられるのだろうか、その不安と恐れ、迷いの中で『主に信頼しよう』と決めて、施設に子供を引き取りに行って、玄関を出た時、西の空から東の空までキリストが両手を広げて立っておられるのを見た」と言われました。主が翼を広げ「私が守る」と言われたのです。私達にも時に恐れがあります。しかし、神は共におられる方です、そこにも「インマヌエルなる主の翼」があるのです。それは往々にして見えないことが多い。でも見えないからこそ、その「主の翼を信じるように」、神の御言葉をしっかり握って「主に信頼するように」、この個所も、私達に「主に信頼せよ」と語るのです。
 

3:イエス・キリストによる「インマヌエル」の成就~主に信頼せよ

 「おとめが(処女のまま)身ごもって男の子を産(む)」という預言は、イザヤの時代には起こりませんでした。それはイエスの誕生によって遂に成就するのです。イザヤは遠くイエスの誕生の出来事まで見せられていたのです。「見よ、処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる」(マタイ1:23)。マタイは「マリヤの処女懐胎」を他ならぬマリヤから聞いたはずです、そしてマタイは「イザヤの預言は、実はイエス・キリストの誕生を預言した言葉だったのだ」と分かったのです。
今から2000年前、神が人となって生まれて下さったのです。イエスは、本来、神に近づけない私達の罪を背負って十字架で死んで下さいました。私達の罪の始末をして下さり、私達と神との間に架け橋を造って下さったのです。イエスを通して「罪ある私達が本当に神と一緒にいることの出来る恵み」が最終的に実現したのです。そしてアラムやアッシリヤから神の民を守られた神は、私達の生きる現実に関わり、私達を悪の働きから守って下さるのです。それだけではない、悪は私達を永遠の滅亡に追いやろうとします。しかし共におられる神は、永遠の滅びから私達を救い出して下さるのです。「死」を思う時、誰も何も出来ないのです。そして人間の苦しみは、言うならば、全て死の滅びと結びついているのです。人は皆、死にます。でもたった1つ、イエスを信じることによって、私達は神と本当に結びつき、死の滅びから救われるのです。十字架の時、傍らの罪人はイエス様にすがりました。「イエス様…私を思い出してください」(ルカ23:42)。イエスは言われました。「まことに、あなたに告げます。あなたはきょう、わたしとともにパラダイスにいます」(ルカ23:43)。藤本満という先生がこんな話をしておられました。中米コスタリカのキンチという選手は、ノルウェーの競技会でクロスカントリーに出場し、途中で転んで尾骶骨を折ってしまいました。それでも何とか制限時間5時間以内にゴールしようとして必死になって滑った。彼は、ゴールには誰もいないだろうと思いました。ところがゴールでは、ノルウェー国王が制限時間内にやって来る選手のために、表彰式が終わっても動かなかった。国王が動かないので、観客も帰れない。6万人がそのまま残っていました。そこに最下位のキンチ選手がやって来ました。ゴールには誰もいないだろうと思ったのに、6万人の観衆が待ち構えていて、盛大な拍手が送られました。藤本先生は言っておられました。「私達も、転んだり、躓いたりしながら、最後尾から天国に行くような者だろう。でも天の大観衆が私達の到着を待っていてくれて、盛大に迎えてくれるのです」。神が共にいて下さるなら、私達は希望を持って死にも向かえるのです。恐れなくて良い。「神が共にいて、共に生きて下さり、やがて死を前にして滅ぶしかない私達が永遠の命にまで導き入れられる」、それが「インマヌエル」の最終的な意味であり目的なのです。「『処女がみごもっている。そして男の子を産む。その名はインマヌエルと呼ばれる』。(訳すと、神は私たちとともにおられる、という意味である)」(マタイ1:23)、この言葉は「その神に信頼してイエスと共に生きて行きなさい」ということです。「神が私と共にいて下さる」ということを受け取り直し、「神に信頼して生きる」ことを再確認する、それがアドベントの大切な心備えだと思います。「神様、共におられるあなたを分からせて下さい、信頼させて下さい」そう祈りつつ、クリスマスを待ち望みましょう。