2020年8月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:ヨハネ福音書13章17~27節

説教題:死が死でない

 30年近く前になりますが、ある親御さんが、生まれた子供に「悪魔」という名前をつけようとして、役所に受理をされず、話題になったことがあります。覚えておられるでしょうか。私は、その問題を信仰的に考えたことはなかったのですが、最近、ある本の中にそのことが触れられているのを見つけました。「神様が愛を込めて地上に誕生させて下さった神の子に『悪魔』等という名前をつけることは許されない」と書いてありました。「神を軽んじることになる」とも書いてありました。やがてその子が地上の歩みを終えた時、その子はどうなって行くのか、親御さんはそんなことは全然考えていなかったと思うのです。「人に受ける名前にしたかった」というのが命名の理由だそうですから。地上のことだけで物事を考えると、間違うのです。地上のいのちを越えたいのち、私達はそれを見据えて物事を考え、また生きて行かなければならないと思うのです。なぜなら、地上を越えたいのちについて、イエス様がはっきり約束して下さっているからです。
 前回は「イエス様と親しい間柄だったマルタ、マリヤ、ラザロの3人の兄弟姉妹のうちのラザロが重い病気にかかってしまって、マルタとマリヤは、イエス様にそのことを伝える使いを送った」という記事から学びました。3人の家のあったベタニヤは、エルサレムから3kmほどの距離にありました。ですからイエス様にとってベタニヤに行くことは、自分を殺そうと狙っているエルサレムの指導者達の懐に飛び込んでいくことでした。しかしイエス様は、知らせを受けて3日後にベタニヤに行かれました。今日の箇所は、イエス一行がベタニヤの村はずれに着いた時、マルタがイエス様を迎えに出て来て、そこでイエス様とマルタの間に交わされた会話が内容となっています。ここでマルタが素晴らしい信仰告白をします。彼女の信仰、特に死を越えるいのちに対する信仰を導いたものは何だったのか。どうすることが私達の信仰を導いて行くのか。3つのことを申し上げます。
 

1:痛みの中で信仰の決断をする

 イエス様がベタニヤにお着きになった時は、ラザロが死んで4日も経っていました。当時のユダヤ社会では、最初の1週間、遺族の所には大勢の人々が慰めのためにやって来ました。ですからイエス様が着かれた時も、マルタとマリヤの家は大勢の人で混雑していました。だからでしょうか、イエス様は、すぐに家に入るのではなくて、村はずれでマルタとマリヤと会って、彼女達に、イエス様しか与えることの出来ない慰めを与えようとされます。マルタは、イエス様を見ると、次のように言います。「主よ。もしここにいてくださったなら、私の兄弟は死ななかったでしょうに。今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは何でも、神はあなたにお与えになります」(22)。この言葉は2つの部分から出来ています。前半の方は、少しイエス様に対する「恨みがましさ」の籠った言葉ではないでしょうか。「私達の知らせを受け取られた時、どうしてすぐにでも来て下さらなかったのですか。今頃来られても、もう遅いのです」。当時のユダヤ人は「死者の魂は、死後3日間は死体の近くにいるので、魂が死体に戻って死者が息を吹き返すことがあるけど、4日目以降は、魂は完全に離れ去ってしまうから死者が息を吹き返す可能性は全くない」と考えていました。イエス様が到着された時、ラザロが墓に入れられて4日も経っていたということは「完全に遅い、もう望みはない」という状況だったのです。彼女達もラザロの回復を願ったでしょう。「こんなに願ったのに、あんなに祈ったのに、その願いは叶えられなかった」、そういう状況だったのです。(イエス様が敢えて出立を2日間延ばされた理由がここにあるように思います)。いずれにしても「あんなに必死になって何日も祈ったのに、どうして神様は願いを聞いて下さらなかったのだろうか」。私達にもあります。でも実は、その時が私達の信仰が試されている時なのではないでしょうか。「願ったことが叶えられた、祈りが聞かれた」という時、それはもちろん大きな恵みです。感謝です。でもその時に、私達は信仰の決断をする必要があるでしょうか。なおも神様を心から信じて、神様に希望を見て行くのか、それとも、神様はどうせ何もされない、神様なんて当てに出来ない、と不信仰を選び取るのか、その決断をする必要があるでしょうか。でも、マルタのように「もう遅い、もう何の望みも残されていない、あんなに祈ったのに…祈りは聞かれなかった」、そのような状況に置かれた時、私達は「なおも神を信じて、神の中に希望を見て行くか」、それとも「神なんか当てにならない、信じられない」という方を選ぶのか、信仰の決断を迫られるのです。
 マルタは「今でも私は知っております。あなたが神にお求めになることは、何でも、神はあなたにお与えになります」(22)と言いました。マルタには「イエス様がラザロを生き返らせて下さる」という思いはなかったと思います。39節でイエス様が「墓の入り口を開けなさい」と言われた時、彼女は反対しています。しかし彼女は、望みが全く絶たれたような状況の中で、イエス様が何かをして下さるに違いない、そこに希望を持ち、そして、イエス様がして下さること、示して下さる愛に満足しようとしたのではないでしょうか。「もう遅い」と言った時、彼女の信仰は消え入りそうです。聖書の言葉を借りれば「くすぶる燈心」です。しかし「旧約」の預言者イザヤは言いました。「彼は傷ついた葦を折ることもなく、くすぶる燈心を消すこともない」(マタイ12:20)。マルタが、それでも私はイエス様の中に希望を見て行くという信仰の決断をした時、イエス様は「くすぶる燈心」を消さずに、むしろ引き上げて行かれるのです。「旧約」のアブラハムもそうです。「ローマ書」にこうあります。「彼は望みえないときに望みを抱いて信じました…」(ローマ4:18)。アブラハムも、人間的な絶望、神への疑いが湧いても当然だと言える状況を経験した人です。しかし彼はそこで、それでも神が何か働いて下さることを信じることを選び取って行くのです。そのような歩みをする彼は、「旧約」の人々の中で初めて、死後のいのち、復活への信仰に導かれて行くのです。
 痛みや悲しみは、時に私達を押しつぶします。できれば味わいたくない。しかし一方で、痛みや悲しみや絶望が、私達に信仰の決断を迫り、私達がなおもそこで神を信じる方を選び取って行く時、その痛みや悲しみが私達の信仰を鍛え、私達の信仰をさらに上に導き、希望を見せ、また少々のことではぐらつかない信仰へと育てて行くのではないでしょうか。苦難の中でなお神を信頼し、望みをかける、そのような信仰でありたいと願います。
 

2:主イエスの言葉を本気で受け取る

 イエス様が「あなたの兄弟はよみがえります」(23)と言われた時、マルタは「終わりの日の復活のことは信じています」(24)と言いました。これは、まだ「新約聖書」を持っていない人々にとって、精一杯の信仰でした。神に望みを置く人々は「終わり日の復活を信じていました」。しかし、ある注解書は「そこに情熱はなかった」と書いています。その信仰は、マルタの悲しみを支えるような現実的な希望ではないのです。いわば、ぼんやりした希望なのです。しかし、そこでイエス様は、マルタの気持ちを本当に内側から励ますような、素晴らしい言葉を語られるのです。「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません。このことを信じますか」(26節)。まだマルタは良く分からない。しかし彼女は、イエス様の言葉を本気で受け取るのです。「信じますか」と言われた時、イエス様の言葉を受け入れ、27節でイエス様を「神の救い主」として信仰を告白するのです。そして、その信仰告白に応えて、イエス様はこの後の箇所で、ラザロをよみがえらせなさるのです。
「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(25~26)。これは同じことを違う言い方で繰り返しておられる言葉です。「イエス様は『よみがえり』だから、イエス様を信じる者は死んでも生きるし、イエス様は『いのち』だから、生きてイエス様を信じる者は、決して死ぬことはない」ということです。もちろん、イエス様は、この肉体の意味で「信じる者は死なない」と言われたわけではありません。キリスト者も死にます。イエス様が言っておられることは「(イエス様を信じる者にとって)死は決して終わりではない」と言うことです。ある神学者が言いました。「この地上は生ける者の地ではない、それは、死につつある者の地である」。一休さんは「門松は、冥途の旅の一里塚、めでたくもあり、めでたくもなし」と詠みました。私達は、1年、1年、決して立ち止まることなく死へと向かっている者です。誰も止めることは出来ません。権力者は、例えばスターリンも、不老不死の研究所を造らせたそうですが、誰もどうすることも出来ないのです。その意味で、正に地上は、死につつある者の地です。でも、同じ神学者は「キリストにある者は、恐れる必要はない。信じる者は、死につつある者の地から、本当に生きる者の地に入って行くのだ」と言うのです。そして、イエス様がここで正にそのことを言っておられるのです。
 私は、ある時、お寺で行われる法要に参加しました。お坊さんが言われました。「亡くなった方は、お浄土へ行かれ、そこで平安に暮らしておられます。私達がやがてお浄土へ行く時、またお会いすることが出来るでしょう」。私はそれを聞きながら、何かキリスト教と同じようなことを言っておられるように思って、一瞬戸惑ったのです。戸惑ったので、私は持っていた「仏教早わかり事典」という本を読み返してみました。そうしたら、そこには次のように書いてありました。「仏教では、そもそも霊の存在はあり得ない…霊が死後、存在するか否かという問題について、釈尊(仏陀)は…『実体や本体の有無が明確でないものについては答えない』という態度を貫いている。仮にあるとしても実際に証明出来ないし、ないとしても証明できないからだ」。さらに「霊の存在は、人間の心が決めるものだ」ともありました。(私は仏教を批判しようとか、攻撃しようというつもりは全くありません。「仏教の中にも素晴らしいものがある、仏教は人間が行き着いた最高の哲学だ」ということも聞いています。しかし、どうしてもこの点をはっきりさせたいので、敢えて仏教の名前を出します)。別の本には「本来の仏教には『地獄/極楽』の考えはなかった」とありました。それらの本によると、私が聞いた「亡くなった方は、極楽浄土で平安に暮らしておられます」という考えは、釈迦が説かれた教えが、様々に発展して行く中で、あるいはインドから中国へ、中国から韓国へ、韓国から日本へと伝わって来る過程において、本来の教えにはなかったものが付け加えられた、ということではないでしょうか。ということは、「浄土へ行く」という思想は、人間が造り出した思想であって、人間の願い、希望に基づいているということではないでしょうか。私は、それが、キリスト教の教える「天の御国/永遠のいのち」と、決定的に違う点だと改めて気付いたのです。
 神学校の「聖書概論」という授業で最初に学んだのは「使徒行伝」でした。「使徒行伝」を学ぶことによって、聖書の記述が、神話や昔話なんかではない、現実の歴史であり、2年とか3年の誤差で、何年に、誰が、何をした、ということが分かる歴史の記録であるということが良く分かりました。「新約聖書」のほとんどの本は、誰が、いつ、どういう状況でそれを書いたかまで分かる歴史的文書です。イエス様の言行が書いてある「福音書」は、早いものはイエス様が昇天されてから30年後くらいに、遅いものでも60年後くらいには書かれています。60年後というと、私達が終戦後を振り返るような感覚です。昨年の大河ドラマは「いだてん」でした。関東大震災や太平洋戦争を経て、東京オリンピックに至る歴史が背景でした。今もご自分の経験として持っておられる方々が沢山おられて、その歴史を捻じ曲げようとすれば、「それは事実と違う」と言う声が上がるでしょう。事実を適当に変えることは出来ないということを、私達は知っています。「福音書」も、もし「福音書」の記者が、イエス様について、自分の好きなように作り変えて、イエス様がしもしなかったこと、言いもしなかったことを書いて、「さあ、これがイエス様だ」と言ったら、どうでしょうか。そんなものが通用するはずがありません。しかも初代の信仰者達は、迫害の中で、命がけで信仰を選び取ろうとしているのです。「これは私の知っているイエス様と違う、これは嘘だ」という声が上がって、そんな文書は歴史の彼方に消えて行ったはずです。しかし実際、「福音書」の記者が、イエス様を知っている人、誰でもが認める事実を書いたから、人々はその「福音書」を受け入れ、そして「聖書」として大事にして行ったのです。「聖書」が事実を書いていて、その中で、イエスが「私は神の許から来た」と言われ、「私と神は一つである」と言われ、「私を信じる者は死んでも生きる」と言われ、それを証しするかのごとく、死んだラザロをよみがえらせ、ご自分も死からよみがえられた。この事実は何を意味するか。イエスが「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです。また、生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」(25~26)と言われたら、それは、人間が希望的に作り上げたものではなく、生も死も、魂も支配なさる方が、責任を持って語られた真実の言葉なのです。そしてその真実を、マルタもここで認めたのです。もちろん、まだはっきりとは分からなかったでしょう。でも彼女は、イエス様を「神の子キリスト」(27)だと認めたのです。そして、それが彼女の信仰をさらに高めて行くのです。
 私達にも、私達の魂を支配することが出来る方が「あなたの死は、それで終わりではない、地上の死の後に、本当のいのちが待っている」と言われる、そして「あなたはこのことを信じるか」と言われる。私達は、そのまだ見ぬ事実を、事実として認めなければならないと思います。いや、認めることが出来る、イエス様の生涯は、それだけのものを備えて下さっています。そしてそれを認めたら、私達の生活を、本気になってその上に立て上げて行きたいと願います。
 

3:今、愛に生きる

 最後に、短く適用についてお話して終わります。今「私達の生活を、本気になって、死後のいのちに向かって立て上げたい」と申し上げましたが、具体的にはどう生きることでしょうか。イエス様は「わたしは、よみがえりです」と言われました。「よみがえりです」ということは「死ぬ」ということです。「死ぬ」から「よみがえる」のです。なぜ死なれるのか。私達に天国への復活のいのちの道を造るためです。つまり私達に対するイエス様の愛、神様の愛の故です。「生きていてわたしを信じる者は、決して死ぬことがありません」。よみがえりのいのちは、死んでから働くわけではありません。イエス様の十字架の贖いによって、イエス様のよみがえりのいのちが、既に信じる者の中に息づいているのです。私達は死なない、死が死でなくなる。そんないのちの中に既にあるのです。その時―(アウグスティヌスという神学者が言いました)―「イエスを復活、またいのちとして信じる者は、愛に生きる」。イエスのよみがえりのいのちを生きる者は、イエスの愛を生きるというのです。イエス様の愛を生きる者の中に、神が留まって下さるのです。神のいのちが留まるのです。聖書には「神の御心を行う人は永遠に生き続けます」(1ヨハネ2:17)とあります。そして「御心」とは「愛に生きることだ」と、私達は教えられています。私達が天国に持って行けるのは、信仰と愛に生きた軌跡だけです。イエス様の愛に生きる時、私達の、死を越えるいのちに対する信仰、復活の信仰は、更に確かなものにされて行くのではないでしょうか。身近なところから、主の愛を生きて行きましょう。