2020年11月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:ヨハネ福音書14章1~7節 

 もう12~13年前になりますが、当時私が通っていた教会の役員会で、顧問の先生が次のような話をされました。「私は今、深刻な問題にぶつかっていて、ここ2~3週間、心配で右往左往していました。しかし、そんな中で、この言葉が示されました」。そう言って「イザヤ書30章15節」の言葉を読まれました。「立ち帰って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)。そして言われました。「私が今、為すべきことは、自分の力で何とかしようとして右往左往することではなくて、静まって神様に信頼することでした」。今日の聖書箇所を読んで、あの時の先生のお話しを思い出したことでした。
イエス様の告別の説教が続きます。イエス様の目の前で話を聞いている弟子達は、この時、大きな混乱の中にいました。イエス様は「私が行く所に、あなた方はついて来ることが出来ない」と言われます。彼らは、何もかも捨ててイエス様について来ました。ところが「ついて来ることが出来ない」と言われます。ペテロの裏切りの予告もされます。「これからいったい何が起きるのか、いったいどうなるのか」。しかもイエス様の十字架がそこまで迫っていました。彼らを待っている状況の中で、彼らにとって何が一番大切なのか、それをイエス様は「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、また私を信じなさい」(1)と言われたのです。なぜ「心を騒がせないで良いのでしょうか」、ここから3つのことをお話しします。
 

1:父の家には住まいがたくさんある

 2節に「わたしの父の家には住まいがたくさんあります。もしなかったら…あなたがたのために…場所を備えに行くのです」(2)とあります。「父の家」というのは天国のことだと考えて良いでしょう。つまり、恐れなくて良い、むしろ神を信頼しなければならない理由は、彼らにこれから何が起ころうとも、彼らには天国の約束があるということです。私達の回りでも、お元気だった方が旅立って行かれます。しかし私達にも、いつ何があるか分かりません。本当に確かなものはないように思うのです。しかし、そんな中で、天国の約束だけは、あらゆるものを越えて、私達を何が襲おうとも、私達に確かな安心と励ましをくれるのです。
 私達にとって「天国の約束」は、当たり前になっているかも知れませんが、それがどんなに価値のあるものか、教えられる話があります。1573年、オランダのロッテルダムで1人のお母さんが処刑されました。彼女は、キリストに従うことを選び取るがゆえに処刑されるのですが、処刑の前に幼い子供達に手紙を書きました。「愛する子ども達へ。主が、あなた方を祝福して下さるように。私は、あなた達から離れて行かなければなりません。私は、あなた達に、金も、銀も、この世の何の宝も残すことは出来ません。でも、何よりも大切なものを残します。それはキリストの戒めです。隣人を愛しなさい。主に喜ばれるように生きなさい。あなた達の人生をキリストの福音の上に立て上げなさい」。彼女には、4人の子供達を残して死んで行かなければならないことに、何とも言えない思いがあったと思います。「母親の務めの方が大事ではないか」という声もあったかも知れません。でも、彼女は「本当に天国に繋がる信仰」を全うする方を選ぶのです。それは、愛する子供達にとって何が一番大切か、そこに目を向けたからではないかと思います。やがて子供達も、母親が命懸けで伝えようとしたもの、「天国の祝福」を自分のものにして行くでしょう。
 イエス様の言われた「天国の約束」は、この時点ではまだ、弟子達の現実にはなっていません。だからこの後、身の危険を感じて逃げ出します。しかし、やがて彼らがイエス様に本当の信頼と希望を置いた時、「天国の約束、天国の祝福」は現実となるのです。そして、そうなった時、もう何をどう脅されても、恐れは「天国の約束」にかき消されて行くのです。
 

2:イエスが迎えに来て下さる

 3節に「行って、あなたがたに場所を備えたら、また来て、あなたがたをわたしのもとに迎えます」(3)とあります。「わたしが行って、場所を用意したら、戻って来る」とは、どういうことでしょうか。1つには、おそらく再臨のことが言われていると思います。聖書には、イエス様の初臨(クリスマス)以上に再臨のことが預言されています。初臨があったのであれば、再臨も必ずあるのです。やがて、私達の主が、本当の王としてこの地に帰って来られるのです。その時、この混乱し、矛盾と悲惨にあふれた地上が、全く造り変えられるのです。あまりにも美しい光景が広がるのです。その時、私達はイエス様に迎えられるのです。私達の歴史は、間違いなくそこに向かって進んでいるのです。
しかし、ここで言われている「また来て」は、再臨だけのことを言っておられるのではないようです。それは、やがて弟子達に、そしてそれ以降の信じる者1人1人に、聖霊という形でイエス様が戻って来られる、そのような意味での「また来て」を教えておられると思います。イエス様は、14節の後の部分で「もう一人の助け主(聖霊)が与えられる」ということを繰り返されます。同時に「わたしは、やって来てその人とともに住む」ということも言われるのです。14章18節にはこうあります。「わたしはあなた方を…孤児にはしません。わたしはあなた方の所に戻ってくるのです」(14:18)。そして神学者は「聖書の教えは、聖霊の助けが前提とされている」と言います。イエス様は弟子達に「心を騒がせなくていい、神を信じなさい、わたしを信じなさい」と言われますが、それは、やがて彼らに聖霊が与えられ、聖霊が彼らを助けて行くという前提があったからだと思います。だから大事なのは、聖霊に働いて頂くために、主に信頼することです。
「敵をもてなす」という話を良くします。1人のアメリカ人女性が、仲間と共に南米のある国の村でキリスト教奉仕団として奉仕活動をしていました。彼女達を敵視する兵隊達が、奉仕団と村の人全員を逮捕するように命令を受けてやって来ました。女性は神に「あなたを信頼できますように」と祈った後、兵士達を家の中に招き入れ、隊長に「神があなたを愛しているので、私もあなたを愛します」と言って、イエス様のことを証しするのです。やがて隊長が、彼女を通して、村人を通して「神を知るということは、この世で一番素晴らしいことに違いないと思う…私もいつかは『神を知っている』と言えるようになりたい」とまで言うように変えられるのですが、彼女がこう言っています。「あの隊長を愛することなど、自分だけの力で、できるはずがありません。けれども、そういう人を愛する神の愛が、私の心に与えられたことを感謝します」。聖霊の働きです。
弟子達のその後の歩みを思う時、私達は、彼らが自分の力で宣教が出来たわけではない、聖霊の助けを受けながら、励まされながら、導かれながら活動して行ったことを疑うことが出来ないのです。そして、私達の中にも、私達がイエス様を信じると決めた時から、聖霊が共に住み、私達の中で働いておられるのです。それは、私達が何かを感じるとか、感じないとか、そういうことではない。信じて行く中で私達の現実となるのです。
 
3:主イエスを通して神に至る
 ここが適用になります。6節に「わたしが道であり、真理であり、いのちである」(6)とあります。イエスは「私が道だ」と言われます。どこへ行く道なのか。続けて「わたしを通してでなければ、誰ひとり、父のみもとに来ることはありません」(6)と言っておられます。イエス様を通しでなければ、父なる神様の許に行くことは出来ない。しかし、イエス様を通してであれば、私達も、天地を造られ、私達を造られ、私達の人生も、生も死も御手の中に納めておられる神様のところに行くことが出来る、神様と確かに結びついて生きることが出来るのです。だからイエス様は「どんなことがあっても、心配したり、あわてたりしてはいけません」(リビングバイブル14:1)と言われるのです。その神様は、私達にも「立ち帰って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る」(イザヤ30:15)と語って下さり、助けて下さるのです。
 先日、ハンズマンに行きました。コルクボードを探しましたが、とにかく広くて見つけることが出来ませんでした。店員さんを見つけて「コルクのボードはありますか」と聞いたら、その方は、仕事を置いて、私をボードのあるところまで、結構な距離を案内して下さいました。その方の後をついて行ったら、目的地にたどり着いたのです。その方が私にとって道になって下さったのです。イエス様が道であるということは、イエス様の後をついていったら、神様のところに間違いなくたどり着くということです。
では、イエス様について行くとは、どういうことでしょうか。それは、私達の生活をイエス様の言葉に近づけて行く、あるいはイエス様の言葉の上に生活を立て上げて行く、自分の生涯をかけてイエス様に近づく旅を続けて行くことではないでしょうか。学校に務めて2年目、私は地域の若い教師が集まる研修会に参加しました。私はその研修会のことをいい加減に考えていました。事前に授業実践をして、その結果をレポートにまとめて持って行かなければならなかったのですが、私は簡単なレポートを作って行きました。行ってみたところが、同じグループの12~13人の先生達は、立派なレポートを作って来ているのです。気合が違うのです。私は、自分の考えの甘さに気づかされて一瞬白くなりました。1人ずつ発表が回って来るので「説明の時に立派なことを言って、それでカバーしよう」と考えました。しかし、そんな付け焼刃でどうにもなるものではありませんでした。本当に恥ずかしい思いをしたのを、今でも覚えています。
 天国に行った時、神様は私達の何を見られるのでしょうか。天国に着くまで、私達がどのような歩みをしたか、ではないでしょうか。神様を前にして「ちょっと補足説明をさせて下さい」と言って、取り繕ってみても、どうにもならないと思うのです。確かに私達は、恵みによって、信仰によって救われます。私達の業ではない。でも、私達が本当にイエス様の救い、イエス様の十字架を感謝するなら、恐らくイエス様を信頼し、イエス様に従って行くことを通して感謝を表すのではないでしょうか。あるユダヤ人の人が、あるクリスチャンに言ったそうです。「なぜキリスト教徒は、自分達のラビ(イエス)から学ばないのだ」。彼に言わせると「クリスチャン達はとてもイエス様から学んでいるようには見えない」らしいです。信仰生活にとって一番大切なのは何でしょうか。恵みを受けることでしょうか。それもとても切実です。でもそれは神様に見て頂くものではないでしょう。私達が見て頂けるのは、どのようにイエス様に信頼し、希望を失わず、祈りを捧げ、イエス様の言葉に歩いたか、ではないかと思わされています。イエス様の御言葉にしっかり歩いて行くなら、私達は、間違いなく神様の許に辿り着くのです。いや、辿り着くというより、今この現実の生活において、神の恵み、祝福に与り、神の御国が既に地上に来ているという、その現実を、神の不思議を味わって行くのではないでしょうか。
「あなたがたは心を騒がせてはなりません。神を信じ、また、わたしを信じなさい」(1)。新しい週、心騒がせるようなことにぶつかるかも知れません。その時こそ、主の言葉に励ましを頂きて、歩んで行きましょう。

聖書箇所:ヨハネ福音書13章36~38節 

「人は、成功を通しては驚くほど学ばない」と聞いたことがあります。私も失敗ばかりしているので、実に慰められる言葉なのですが、「人は失敗を通して学んで行く」ということなのでしょう。あるいは「神が用いられる人は、一度、徹底的に砕かれた人である」という言葉も聞いたことがあります。人は本当に砕かれなければ、信仰の実を豊かに実らせて行くことは難しいのかも知れません。そして多くの場合、私達は失敗を通して砕かれるのではないでしょうか。「砕かれる」については、「イザヤ書」に素晴らしい御言葉があります。「わたしは、高く聖なる所に住み、心砕かれて、へりくだった人とともに住む。へりくだった人の霊を生かし、砕かれた人の心を生かすためである」(イザヤ57:15)。「心砕かれて」という言葉は「めった打ちにされて、心がズタズタにされて、弁解も自分の主張も何も出来ないほど『私は惨めだ…』と思う」、そういう心の状態を言う言葉のようです。「砕かれる」ことは辛いことですが、しかし、それはまた神に近づくことの出来る恵みでもあると思わされます。そういうことをそのまま生きて見せたのが、弟子のペテロだと思います。やがてペテロは「大使徒」と呼ばれ、初代教会を導き、迫害の中を生きるクリスチャン達を励まし、支え続けました。その彼が、しかしイエス様の十字架に際して、情けない姿を曝します。「ペテロの弱さ」を具体的に描き始めるのが今日の個所です。今日は、ペテロの姿を通して「砕かれることの祝福」、そのような学びをします。 
 前回は、イエス様が、最後の晩餐の席で、弟子達に「互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(13:34)という「新しい戒め」を与えられた個所を学びました。イエス様は、この戒めを与える前に、弟子達には真意の良く分からないことを語っておられたのです。「わたしはいましばらくの間、あなたがたといっしょにいます。あなたがたはわたしを捜すでしょう。そして、『わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない』とわたしがユダヤ人たちに言ったように、今はあなたがたにも言うのです」(13:33)。弟子達には、良く分からないながらも、重い言葉でした。この言葉が気になって「新しい戒め」の方は心に留まらなかったのではないかと思います。
そこで、今日の箇所です、ペテロが聞きます。「主よ、どこにおいでになるのですか」(36)。この時点で弟子達は、イエス様の十字架を理解することは出来ません。それでイエス様は「わたしが行く所に、あなたは今はついて来ることができません。しかし後にはついて来ます」(36)と間接的に言われます。しかしペテロは納得しません。「これまでもずっとついて来たではないですか。これからもついて行きます。なぜ『ついて行けない』と言われるのですか」、そういう思いが強かったのではないでしょうか。だから、その思いを伝えるために「あなたのためにはいのちも捨てます」(37)と言うのです。彼の心の中に嘘はなかったと思うのです。本当にイエス様のためだったら命も捨てることが出来ると思ったと思うのです。
 しかし、彼はイエス様についていけない。2つの理由があります。イエスは十字架に向かっておられました。十字架とは、イエス様が私達の罪を背負って、私達の代わりに私達の罪の罰を受けて下さるものです。十字架においてイエス様は、神の愛の業を為さるのです。「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)。この御言葉が十字架で実現するのです。十字架は、イエス様が神の御子、いや、愛の神であることが明らかにされるところなのです。そこに弟子達はついて行くことは出来ない。神だけが行かれるところなのです。
 しかし、もう1つは、人間世界の現実として、弟子達はイエス様について行くことは出来ませんでした。申し上げたように、ペテロは、イエス様のためならいのちも捨てられると思いました。しかし、イエス様が逮捕され、鞭打たれ、自分にも危険が及んで来るのを肌で感じた時、彼は、イエス様のそばに立ち続けることが出来なかったのです。彼は、心ならずも「イエスなんて知らない」と言って逃げるのです。彼は、自分がそんなに弱いとは思わなかったのです。しかし、その現実に打ちのめされて泣きます。初めて自分の本当の弱さを知らされるのです。
注目したいのは、なぜ、そんな彼が、ローマ帝国中のクリスチャンの支えとなるような人物になったのかということです。ペテロが失敗を反省して「もう2度と失敗はしない。精一杯、失敗を償いながら頑張ろう」とそう決心したからでしょうか。皆さんは、何か「2度とこんなことはしない。これからはこうこうする」と決心をされたようなことがあるでしょうか。ある人が友達に言いました。「俺は今禁煙をしているよ」。そうしたら友達が言いました。「お前はまだ1回目じゃないか。威張るんじゃない。俺なんか、もう13回も禁煙してるんだぞ」。13回の禁煙をしているということは、12回失敗しているということです。いくら重大な決心をしても、私達は弱いのです。私も、決心がいとも簡単に崩れる、その繰り返しです。私達の卑近な例とペテロの例を比べたらいけないかも知れませんが、しかし根っ子のところは同じだと思うのです。ペテロも、立派な反省をしたから―(反省もしたと思いますが)―それだけの理由で立ち直ったのではないのです。
では「復活」を見たからでしょうか。それは大きなことだったでしょう。ペテロは、大失敗をして、落ち込みもしたでしょう、故郷に帰り、漁師に戻っているのです。しかし、そこに復活のイエス様が現れ、「あなたはわたしを愛しますか」(21:16)と聞かれ、ペテロが本当に砕けた心で「愛します」と言うと、「わたしの羊を牧しなさい」(21:16)と、またイエス様の働きをするように招かれるのです。復活のイエス様に一切を赦され、もう一度イエス様の働き人に任命してもらった。この経験は大きかったと思います。いや、決定的だったと思います。この時、イエス様は、ペテロに殉教の予告を為さいます。普通は嫌でしょう。でも、徹底的に砕かれていた彼は、それを受け止めるのです。私は、人が砕かれることの意味が、ここにもあるような気がします。砕かれていなければ、前向きに受け止めることは出来なかったと思います。
 しかし、さらに重要なことは、立ち上がったペテロに、復活のイエス様は「聖霊が臨むまで待ちなさい」と言われたということです。「聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」(使徒1:8)と言われたのです。ペテロは、自分は弱い、自分の力ではイエス様について行くことは出来ない、と分かって砕かれます。謙遜にさせられます。でも、その謙遜は、弱いからこそ神の力を仰ぎ、神の力を待ち望む、というところに結びつかなければならなかったのです。彼は、聖霊によって歩むようになるのです。そしてイエス様はここで「しかし後にはついて来ます」(36)と言われますが、彼は、本当にイエス様について行くようになるのです。
「クォ・ヴァディス」という映画を見ました。ローマのクリスチャン達に対するネロの迫害が熾烈を極めて来て、ローマのクリスチャン達は、何とかペテロだけはローマから逃がして、他の場所で伝道を続けてもらおうとします。ペテロは皆に説得されて、街道を供の少年と一緒に逃げます。ところがペテロは、向こうからローマに向かって近づいてくる太陽の輝きを見ます。良く見ると、その輝きの中を復活のキリストが歩いておられるのです。ペテロは地に跪いてイエス様の足を抱くようにして言います。「主よ。どこにおいでになるのですか/クォ・ヴァディス・ドミネ」。36節の言葉と同じ言葉です。イエス様は言われます。「あなたが私の民を捨てる時、私は再び十字架にかけられるためにローマに行く」。しばらく地面にうずくまっていたペテロは、起き上がると、踵を返してローマに向かって歩き始めるのです。そして、ローマに帰り、イエス様に出会ったことを皆に話しながら、皆を励ますのです。そして最後は、逆さ十字架に架かって、信仰を全うして殉教して行くのです。彼が十字架に架かった場所に、今のバチカンのサン・ピエトロ大聖堂は建っていると言われます。ペテロは、見事にイエス様の後について行くのです。
 私は、ペテロが聖霊によって生かされ、最後まで支えられたことの重みを思います。私達は、信仰生活が、神に喜ばれるものから遠いのではないかとしばしば迷います。そして、神様に誠実でありたいと、喜ばれる信仰生活でありたいと願います。しかし、ある人が言いました。「しかし、意外に祈りが少ないのに気づかされる」。弱いと言いながら、神に頼っていない姿があるのではないでしょうか。聖霊に生かされようとしていない現実があるのではないでしょうか。
 もう40年も前になりますが、1人の先輩と話をしたことがあります。その方は、クリスチャンではありませんでしたが、信仰について真面目に考えている人でした。私は洗礼を受けていましたが、いい加減な信者でした。その人は、私にこう言いました。「クリスチャンになっても、聖書に書いてあることをとても実行出来ないと思う。クリスチャンとして生きて行こうと思ったら、修道院にでも入って、一生を神様に捧げるしかないのではないでしょうか。だから、私は今、とてもクリスチャンになれる気がしません」。私は、自分がいい加減に考えていたので、そんなに真剣に考えている人に、何も言えませんでした。でも、今ならこう言うでしょう。「自分の力だけで聖書の御言葉を実行しようとすれば苦しいし、自分には出来ないというところに落ち着くだろうけど、神の助けがあれば、神の助けを真剣に信じて、真剣に期待して行けば、私達は、変えられて行くのではないでしょうか。そして、何度でも失敗しながら神の助けを頂くことを学んで行けば良いのではないでしょうか」。「祈りが少ないことに気づかされる」という言葉の通り、私達は、神の力によって始まった信仰を、ついつい自分の力で為して行こうとするのではないでしょうか。神の力を求めない、聖霊の満たしを求めない、神の力によって私達の心が変えられて行く、心の方向が変えられて行くことを信じて求めることをしないことが多いのではないでしょうか。ペテロが変えられたのは、彼の力ではない、神が、聖霊が、彼を変えられたのです。そして、私達の心を、「神なんか分からない」と言って生きていた私達を、変えて下さったのも神です。であれば、神様は、聖霊は、これからも私達のことを変え続けて下さるに違いないのです。私達は、本当に自分の中に神の力が働いて下さることを信じて、求め続けて行かなければならないと思います。
 ゴードン・フィーという神学者が、出版社から、パウロについての注解書の執筆を依頼され、編集会議に出席したのです。行ってみたら、何百ページもある本の中で、聖霊について割り振ってあるページが5ページしかなかったというのです。彼は言いました。「聖霊は、パウロにとって、たった5ページのリップサービスじゃない。パウロの信仰の大きなポイントなのだ。聖霊について5ページしか述べないで、パウロのことを書けるはずがない」。ペテロについても、同じことが言えるのではないでしょか。そしてそれは、私達についても言えることではないでしょうか。聖霊に生かされる生き方、神の力に導かれて歩む生き方、それこそがキリスト教の大きな特徴であり、また祝福であると思います。

聖書箇所:ヨハネ福音書13章31~35節 

 「百万人の福音」が「差別とキリスト教」という特集を組んでいました。アメリカでは人種差別に反対するデモが起こっています。キング牧師が「私には夢がある」という演説をしたのが1963年、公民権法が成立したのが1964年です。それから56年になりますが、人種差別の根深さを思わされます。ところで、キング牧師の運動がどうして成果を上げることが出来たのか。「私には夢がある」のメッセージで彼はこう言っています。「私には、将来いつか、幼い黒人の子供達が幼い白人の子供達と手に手を取って兄弟姉妹となり得る日が来る、という夢がある」。彼は、黒人に差別と暴力を為す白人を憎んだのではないのです。「やがては愛し合うようになる人達」として捉えて、既に愛していたのです。その姿勢がやがて白人の心さえ変えて行くのです。愛が悪に勝利して行くのです。教えられます。
 さて、前回の箇所で、イスカリオテのユダが最後の晩餐の席から出て行きました。彼はそのまま大祭司の所へ行って、イエス様逮捕の手引きをすることになります。イエス様の逮捕が秒読みに入ったのです。そこでイエス様は、ここから弟子達に向かって「別れの説教」をされます。今日の箇所はその初めの部分です。中に「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい」(34)という有名な言葉を含みますが、全体としては「キリスト者の生き方」について教えます。自分の弱さを覚えますので、自分自身に語るようなつもりで、2つのことをお話しします。
 

1:神に忠実・従順であること

 イエス様はまず「今こそ人の子(イエス)は栄光を受けました」(31)と言われます。「ヨハネ福音書」がイエス様に関して「栄光」と言う時、それは十字架を意味します。イエスは「栄光を受けました」と過去形で言っておられますから、イエス様の中では、既に十字架が始まっていたのです。さらにイエス様は「神は人の子によって栄光をお受けになりました」(31)と言われます。これは「神はイエスの十字架によって栄光を受けた」と言い換えることが出来ます。私達は、十字架がイエス様だけの業ではなく、イエス様を送られた神様の業であることも知っています。なぜ私達は神様を愛するのでしょうか。神様が全地全能で、天地万物を造られた方だからでしょうか。そうではないと思うのです。「旧約」の人々は、天地万物を造られた神を、愛するというより、むしろ恐れたのです。彼らの目に映る神様は、裁きの神でした。しかしイエス様の十字架を通して分かったのは、神は、裁く方ではなく、赦す方であり、弱さを責める方ではなく、憐れむ方であり、愛される何の資格もない者を、宝物のように愛される方である、ということです。その神の愛が分かったから、神の赦しを経験したから、私達は神の愛を感謝し、讃えるのではないでしょうか。そして神は、私達のような者が、十字架の故に神様を慕い、「ありがとうございます」と言うことを、ご自分の栄光だと言われるのです。だからイエス様は「神は十字架によって栄光を受けた」と言われたのです。
 十字架が神様に栄光を与えました。しかしイエス様は、ゲッセマネで「できますならば、この杯をわたしから過ぎ去らせてください」(マタイ26:39)と祈られました。人としてのイエス様には、私達の罪を背負って死ぬということが、どれほど恐ろしいことか、ご存知だったのです。にも拘わらず、なぜ十字架は立ったのか。それは、イエス様が「しかし、わたしの願うようにではなく、あなたのみこころのように、なさってください」(マタイ26:39)と祈り、最後まで神に忠実であろうとされたからです。イエス様の忠実が、従順が、神に栄光を与えた、ということになります。
 「ウエストミンスター信仰問答」という問答書は「人の…目的は…神の栄光を表し、永遠に神を喜ぶこと」だと宣言します。私達にとって、神の栄光を表すことこそ大事な生き方だということでしょう。神の栄光を表す。色々な形があるでしょう。ある人は、喜びを生きること、感謝を生きることだと言います。それもあるでしょう。「敵をもてなす」という話では、自分達の村を襲った兵隊の隊長が教会に来た時、村人が「神があなたを愛しているので、私達も歓迎します。よくいらっしゃいました」と歓迎した。隊長は「神を知るということはこの世で一番素晴らしいことだ」と言った。
神の栄光が現れた。しかし、ここででは、そのカギは、イエスが神に従順であられたように、私達も神(御言葉)に従順であることだと思うのです。
 イエス様は32節で「神が、人の子(イエス)によって栄光をお受けになったのであれば、神も…人の子(イエス)に栄光をお与えになります」と言われました。十字架もイエス様の栄光ですが、さらに大きな栄光である復活、昇天のことを言っておられると思います。十字架は、復活、昇天に繋がるのです。「天路歴程」の中で、主人公が天の都に辿り着いた時、都の門にはこう書いてありました。「王を喜ばせるために生きてきた人々は幸いである。彼らは、この門を通って天の都に入ることができる」。私達の小さな忠実は、素晴らしい栄光に繋がっているのです。
 忠実、従順、特別なことではないと思います。カナダでお会いした高齢の姉妹がおられます。ご高齢になられてからも、色々な悲しみやご苦労があったのです。しかし、ただ神様を真っ直ぐに見上げ、コツコツと聖書を読み、祈りを捧げ、集会に黙々と参加しておられました。私はその姉妹のこと思う度に「忠実という言葉が歩いておられる」ように思ったものでした。もう天国に帰られましたが、天国で「よくやった。良い忠実なしもべだ」(マタイ25:21)と声をかけられ、大きな祝福を経験しておられることを疑うことが出来ません。何があっても、神の愛に信頼し、神の下さる状況を感謝して受け入れ、神に期待し、神と共に歩んで行く、それが忠実ということではないでしょうか。そんな信仰でありたいと願うことです。
 

2:互いに愛し合うこと

 イエス様は「わたしが行く所へは、あなたがたは来ることができない」(33)と言われます。別れの言葉です。そして別れに当たって「これだけは言い残しておきたい」と、34節の「あなたがたに新しい戒めを与えましょう。互いに愛し合いなさい。わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合いなさい…」(34)の言葉を語られました。イエスは「新しい戒めを与える」と言われますが、しかし「互いに愛し合いなさい」という戒め自体は「旧約」の中にも見られます。「レビ記19章18節」に「あなたのとなり人をあなた自身のように愛しなさい」(レビ19:18)とあります。なぜ「新しい戒め」なのか、何が新しいのでしょうか。
イエス様はここで「わたしがあなたがたを愛したように」と言われます。つまり「イエス様が弟子達を愛された、そのイエス様の愛を映し出すような愛し方で隣人を愛する、お互いに愛し合う」という、その「愛し方」がこの戒めを新しい戒めにしているのです。では、イエス様が弟子達を愛された愛し方とは、どのような愛し方でしょうか。2つだけ申し上げると、1つ、それは「ありのままを愛する愛」でした。イエスは3年間、弟子達と寝食を共にされました。そうすると、弱い部分、悪い部分も出て来て、イエス様もため息をつきたくなることがあられたのではないでしょうか。しかしイエス様の弟子達に対する愛は変わらない。イエスが膝を屈めて足を洗われたその弟子達は、嫌な面、弱い面を色々と持っている人達でした。その弟子達を、イエス様はありのまま愛されたのです。ドストエフスキーの「カラマーゾフの兄弟」の中で教会の長老が言うそうです。「皆さん、人間の罪を恐れてはならない。罪あるがままの人間を愛しなさい。なぜなら、これはすでに神の愛に近い」。もう1つは「赦しをもって愛する愛」でした。イエスはペテロに言われます。「シモン、あなたは私を裏切るけれど、私は、あなたの信仰がなくならないように、あなたのために祈ったよ。だからあなたは、立ち直ったら、兄弟達を力づけてあげなさい」(ルカ22:31~32意訳)。すぐそこに裏切りを見ながら、イエス様は既に赦しておられるのです。そしてペテロのために祈っておられるのです。彼らは、最後まで無理解でした。最後は逃げました。しかしイエス様は、彼らを赦しながら愛されました。十字架の最初の言葉も「父よ。彼らをお赦し下さい」(ルカ23:34)でした。弟子達がそのことを聞いた時、彼らはイエス様のことが分かり始めるのです。イエス様の愛はそのような愛でした。そのような愛で「あなた達もお互いに愛し合いなさい」と言われたのではないでしょうか。難しいです。だからそこには励ましもありました。イエスは14章21でこう言っておられます。「わたしの戒めを保ち、それを守る人は、わたしを愛する人です。わたしを愛する人は…わたしもその人を愛し、わたし自身を彼に現わします」(14:21)。イエスの言われた愛を行う時、私達はイエス様にお会い出来る、イエス様が助けて下さるということです。主の助けがある、そのこともこの戒めを「新しい戒め」にしているのです。
 イエス様は35節で「もし互いの間に(そのような)愛があるなら、それによってあなたがたがわたしの弟子であることを、すべての人が認めるのです」(35)と言われました。初代教会の時代、キリスト者でない人々が、あるいは教会を迫害している人々が、その愛を認めないわけにはいかなかったそうです。ある迫害者は言いました。「彼らは、ほとんど知り合う前から愛し合っている」。初代教会は、イエス様が言われた愛に生きたのです。そして、迫害の中、彼らはその愛で世に打ち勝って行くのです。
 私達も、イエスが教えて下さった愛に生きる者になりたいと願わされます。しかし、そのために大事なことがあります。お子さんの不登校で大きな戦いを経験されたお母さんの証しを読んだことがあります。お母さんは、自分の子供が不登校だという事実をどうしても受け入れることが出来なかったのです。そして「子供を何とかしなければ」と思うと、愛するというより、自分の気持ちを押し付けるような格好になっていたのです。その中で自分の弱さや醜さも嫌というほど見せられるのですが、しかしある時、そんな自分を神様が受け入れて下さっている、という思いを持てた時に、自分を、自分の状況を、受け入れることが出来て、そして子供に対する思いが「この子を何とかしなくちゃ」から「何かしてあげたい、私に何がして上げられるだろうか」に変ったと書いておられました。そこから問題の解決が始まるのです。愛を行うために、神様に赦され、愛されている自分を確認すること、それが大切なのではないかと思わされます。
 初めにキング牧師の話をしましたが、彼より100年前に奴隷解放を行ったリンカーンについて次のような話があります。アメリカ合衆国から南部諸州が離反して、南北戦争が起こりましたが、北軍が勝った時、ある人が北軍の指導者リンカーン大統領に聞きました。南軍(南部)の人々をどうしますか。リンカーンは答えました。「私は、離反など全くなかったかのように彼らを扱うつもりです。なぜなら神ご自身が私達をそのように扱われたのですから」。イエス様の話された「放蕩息子」の話を引き合いにこう言って、北部と南部の亀裂の傷を癒して行ったのです。イエス様の愛に生きることは、私達の小さな生活にも祝福をもたらすに違いありません。
 

終わりに

 今日、信仰者の生き方として2つのことを申し上げました。「神に忠実であること」「イエスの愛に生きること」、実際、難しいでしょう。しかし、イエス様の、聖霊の助けがあります。信仰の歩みを進めて行きましょう。

聖書箇所:ヨハネ福音書13章18~30節 

 カナダのメノナイトの聖書学校で英語を勉強していた頃の話です。プログラムの中には、「ヨハネ福音書」をザーッと読んで行くという授業もありました。13章を勉強していた時、先生も疲れていたのでしょう、「自由にディスカッションしなさい」ということで、皆が思い思いに好きなことを言い出しました。1人のクリスチャンの青年がこう言いました。「僕はユダがかわいそうだと思う。全てが神様の御手の中にあるのなら、ユダは、イエス様を裏切る役割を与えられて、それを演じたのではないか。彼は損な役回りを受け持たされてかわいそうだ」。私は、普段は何も言えずにボーッとしていたのですが、聖書のことなので、黙ってもいられず、「彼にはイエス様を裏切らない自由があったはずだ。だけど、彼は自分で裏切ることを選んだのだ」、そのようなことを言いました。しかし彼は「僕は納得出来ない、ユダが可哀そうだ」と言い続けていました。今朝の箇所を読んで、その時のことを思い出しました。
なぜユダはイエス様を裏切ったのか、聖書に書いていない以上、詳しいことは分かりませんが、信仰を捨てて行く彼の姿は、反面教師として、信仰をしっかり保って、育てて行くためのポイントのようなものを教えてくれます。2つのことを申し上げます。
 

1:どんな時も神を信頼すること

 ユダはこの時、既に祭司長のところに行き、銀貨30枚をもらって、大きな騒ぎにならないようにイエスを捕まえられるチャンスが来たら知らせる、という話をつけていたようです。しかし彼も、イエス様に、12弟子の1人として選ばれた人です。そして、仕事も何もかも置いて、イエス様に着き従って来た人です。また、会計を任されていたようですから、皆からも信頼され、良い働きをして来た人だと思うのです。なぜ、その彼が、イエス様を売り渡して行くのでしょうか。 
 1つの推測があります。イエス様の進む方向とユダの願いとが違って、ユダはイエス様に失望して反発したのではないか、という推測です。当時、ユダヤ人は、神からの救い主が現れて、ローマを追い出して、ユダヤの栄光を取り戻してくれることを願っていました。ユダも、その夢をイエス様に託したのかも知れません。そうであれば、イエス様が奇跡を為さった時、彼は喜んだと思います。「この人ならやってくれる」。ところが、彼が徐々に分かって来たのは、
イエス様にはローマと戦う等という意図はない、ということでした。だからユダは、強硬手段に訴えて、どうしてもイエス様が力に、武力(奇跡的な、天的な武力)に、訴えなければならないような状況を造り出そうとしたのかも知れません。あくまでも推測ですが、いずれにしても、彼の中に、イエス様に対する苛立ち、失望、反発があり、そこにサタンが働いたのではないでしょうか。
 何を教えられるでしょうか。私は「難しい時こそ、神を信頼しなければならない」ということを教えられます。伝道生涯におけるイエス様の姿に、教えに、行為に、納得出来なかったのは、ユダだけではなかったと思います。他の弟子達も、どこかにそのようなものを持っていたのではないでしょうか。しかし、他の弟子達が、なぜユダのようにならなかったのか。それは、彼らには「分からないことがあってもイエス様を信頼する、イエス様に委ねる」、そういう思いが、少なくても途中まではあったからだと思うのです。例えばペテロは「ご一緒なら、牢であろうと、死であろうと、覚悟は出来ております」と言いました。イエス様に委ねようとしたのです。しかしユダは「自分の願いとは違う」と反発したのです。
 「サタンが彼(ユダ)に入った」(27)という言葉を読む時、私は、使徒パウロのことを思い出します。パウロは何らかの持病―(激しい痛みの伴う病気であったと思われますが)―を持ちながら伝道しました。彼は「これを私から去らせてくださるようにと、三度も主に願いました」(2コリント12:8)と言っています。「3度願った」というのは、「繰り返し、長い期間、祈った」ということです。彼は「サタンの使いだ」と言いました。それほど辛かった、それほど彼の信仰を揺さぶったのでしょう。「こんな病気を抱えていては働きは出来ない。なぜ神様はこの病気を取り去って下さらないのか。神様は本当に最善を為さるのか」、それは厳しい信仰の戦いだったと思います。しかし、主は彼に言われたのです。「わたしの恵みは、あなたに十分である…わたしの力は、弱さのうちに完全に現れるからである」(2コリント12:9)。「弱いところが取り去られることはない、しかし、その弱さを神の恵みが担っていく」ということでした。そして確かに彼は、良さを抱えたまま働きを続けていたのです。彼は言いました。「私は…大いに喜んで私の弱さを誇りましょう」(2コリント12:9)。彼の願いの通りにはなりませんでした。しかし、彼は神のやり方に信頼し、委ねたのです。そして神の恵みに支えられながら、素晴らしい働きを続けたのです。
 ユダにも分からないことがあった。しかし彼は、イエス様に委ねること、神が最善を為して下さることを信頼しなかったのです。その結果、彼は、最後には絶望に至ってしまうのです。私達の日々の生活にも「なぜ私にこんなことが起こるのか」、あるいは「結局、神様は何もしないのだ」というような思いに襲われる時もあるかも知れません。しかし、実はその時が、私達の信仰にとって大切な時なのです。詩篇の詩人は言いました。「民よ。どんなときにも、神に信頼せよ」(詩篇62:8)。
アメリカの同時多発テロの時、ピッツバーグに墜落した旅客機は、国会議事堂に突っ込む予定だったけれど、4人の乗客が阻止して、結果として地上に死者を出さずに済んだのです。4人の内の1人がリサ・ビーマーという人の御主人でした。夫は亡くなりました。幸せの絶頂から地獄に突き落とされる感じだったそうです。「なぜこんなことが」、泣きながら神に問うたのです。長い信仰の闘いがありました。でも彼女は立ち上がりました。「私は、なぜ、と問わないことにしました。そうではなく、私は子供達のために前進することが必要です…私は神を信じる道を選びました。なぜか。その理由を知りたいとは思いません。でも私はその道を日々選び取ります」。そうやって失意の中にいる人々を励まして回ったのです。それで彼女自身も生きたのです。
 難しい時、困難な時こそ、神への信頼の道を選ぶか、不信の道を選ぶか、それが問われるのではないでしょうか。神に信頼する方を選び取ること、それが、私達の信仰を保たせ、育て、やがて祝福に導く道なのです。
 

2:神の前に遜り、主を見上げる

 ユダの裏切りを知っておられたイエス様は、ユダが自ら悔い改めることが出来るように、繰り返しユダの心に訴えかけられます。「洗足」もそうです。ユダは自分の足を洗われるイエス様を見て、良心の痛みを感じなかったのでしょうか。18節でも「詩篇」を引用してユダに訴えておられます。名前を言われません。「今、心を変えれば、まだ間にあうのだ」という訴えです。そして「最後の晩餐」ですが、レオナルド・ダ・ビンチの絵とは違い、人々は左肘で体を支えて横になり、テーブルを囲み、右手を使って食事をしました。21節でイエスが「あなた方の一人がわたしを裏切ろうとしている」と言われた時、ペテロはイエス様の右にいた弟子(ヨハネ)に「だれのことを言っておられるか聞くように合図を」します。ヨハネはイエス様の右に居て、胸元に頭があるような状態でしたから小声で話をすることが出来ました。イエス様も小声で「パン切れを浸して与える者です」(26)と言われたのでしょう。小声なので他の弟子達には分からなかったようです。イエス様はパン切れをユダに与えられます。この体勢でイエス様がパン切れを与えることが出来るのは、イエス様の両側にいた人物です。右側がヨハネなら、ユダは左側にいたことになります。当時、主人の左隣の席というのは、主人にとって最も大切な人に座ってもらう席でした。イエス様は、その大切な場所にユダを招かれたのです。そのようにイエス様は、ユダが自らの思いでイエス様に立ち帰ることが出来るように訴えかけをなさったのです。しかしユダは、もう応えることが出来ない。パン切れを渡されるのは、イエス様のぎりぎりの招きでした。しかし彼はそれを逆手にとって、最後の決心をしてそこを立ち去るのです。闇に消えるのです。
 何を教えられるでしょうか。私は、神様の忍耐を尽くした悔い改めへの招きを思います。ユダは、際立った悪者ではなかったと思います。29節を見ると、弟子達は、ユダがイエス様に頼まれた愛の奉仕をしに行くのだと思ったくらいです。真面目にイエス様に従っていたのだと思います。しかし、申し上げたように、イエス様が自分の思い通りにしてくれないことに反発して、サタンに導かれたのです。佐藤彰先生の本にこんな文章があります。「クリスチャンは、苦しくなるとなぜか…神を疑ったり、神から離れたりするようです」。ということは、誰もユダのようになる可能性がないとは言えないのではないでしょうか。だからこそ私達は、信仰をしっかり保つために気を配らなければならいと思うのです。
どうすれば良いでしょうか。ここで、神はどうしてユダが裏切らないようにされなかったのか、という疑問があります。それは、イエス様が最後の最後までユダを愛し、ユダの自由を尊重されたからです。自由を尊重しながら、しかしご自分の許にその魂が帰って来るように呼びかけられたのです。私は、私達にとって大切なのは、その呼びかけに答えることだと思うのです。同じようにイエス様を裏切ったペテロは、どん底から立ち上がり、やがて指導者になって行くのです。ペテロとユダの違い、ペテロは主の赦しを信じ、悔い改めて、再び主を見上げたのです。先日「第二歴代誌」を読んでいて、1つの文章が迫って来ました。「彼らがへりくだったので、わたしは彼らを滅ぼさない。間もなく彼らに救いを与えよう」(2歴代12:7)。さんざん不信仰な行いをした王様、民が、遜り、悔い改めて、もう一度主を求めた時、主はそのことを喜び、大きく取り上げ、答えて下さったのです。この不信の民も、神様に対する反発のようなものがあったのだと思うのです。でも、そこに祝福はないのです。(1番目とある意味、重なりますが)神の前に遜って神を見上げるところに祝福はあるのです。心を低くして主を見上げることです。更に言えば祈りです。「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」、この祈りが私達を守って行くと思います。
「アメージング・グレース/驚くばかりの」という讃美歌を作ったジョン・ニュートンは奴隷船の船長でした。酷いこともしました。彼のお母さんは彼のために熱心に祈りました。でも、彼は思っていました。「神がいたとしても、俺のような奴は受け入れてもらえるはずがない」。でも、ある日、彼は嵐に遭い、死ぬかも知れないと思った時、祈ったのです。「神様、助けて下さい」。その時、彼は神の声を聞くのです。「あなたを愛している。あなたを助ける」。彼はびっくりしました。「俺のような者を愛しておられるのですか。神様の愛ってそんなに大きいのですが」。彼は、神の招きに答えて神に帰りました。神と共に生きました。そして亡くなる時、こう言いました。「私は、2つのことだけは覚えている。1つは私がとんでもない罪人であったこと。もう1つは、キリストはとんでもない救い主であったということだ」。
私達も信仰が揺れます。神に反発すること、呟くこともあるでしょう。神から心が離れることもあるかも知れない。でも、そこに祝福はない。私達の信じる神は、私達の思いを越えて憐れみ深い神です。何度でも、私達の不信を赦し、受け入れて下さいます。この神に立ち帰り、神と共に生きること、そこに祝福はあるのです。

聖書箇所:ヨハネ福音書13章1~17節 

 50年近く前になりますが、「浅間山荘事件」という事件がありました。連合赤軍のメンバーが浅間山荘に立て籠もって、警官隊と銃撃戦を繰り広げました。この事件が衝撃的だったのは、彼らが銃撃戦を繰り広げたということよりも、その前に、彼らが自分達の仲間14人をリンチによって殺していたということでした。なぜ殺したのか。「裏切り」に対する憎しみのためだったと言われます。信頼していた仲間が裏切って逃げて行きます。そうすると彼らは「こいつも裏切るのではないか」と疑うようになって、裏切る可能性のありそうな者を殺して行ったというのです。信頼していればこそ、裏切りに対する憎しみは強いのだと思います。そして、裏切られた傷というのは簡単に消えるものではないでしょう。しかし、裏切りに対して全く違う対応をされたのがイエス様です。今日の箇所は―(「主の洗足」として有名な個所ですが)―そのイエス様の様子を記す個所です。
 弟子達は気づいていませんが、イエス様の十字架が目の前に迫っていました。イエス様と弟子達は「最後の晩餐」のために、ある家の二階座敷に上がりました。当時の人々の履物は、薄っぺらい革の靴底に紐のついたサンダルです。道路は舗装されていませんから、道を歩けば、埃で足が汚れました。雨が降れば、泥だらけになりました。それで家に入る時には、その家の奴隷がお客の足を洗いました。しかしこの時、イエス様一行の足を洗う奴隷がいませんでした。それで、彼らは、そのまま二階座敷に上がって行きました。二階座敷には、タライと手ぬぐいがありましたが、足を洗う奴隷はいません。だから誰かが、足を洗う役を買って出なければならなかったのです。しかし誰もそれをしません。それで足を洗わないまま食事を始めたのです。やがて食事の途中、イエス様が立ち上がって、弟子達の足を洗って、手拭いで拭かれた、というのが「洗足」の出来事です。
 「洗足」は何を教えるのでしょうか。内容と適用をお話しします。
 

1:内容~「洗足」に表された主の愛

 1節「この世を去って父のみもとに行くべき自分の時が来たことを知られたので、世にいる自分のものを愛されたイエスは、その愛を残るところなく示された」(1)。悲惨な十字架の直前も、イエスは弟子達を愛しておられました。しかしイエスが愛しておられた弟子達はどういう状況だったのでしょうか。この後、ゲッセマネに行くと、そこでイエス様は逮捕され、十字架に架けられて行きます。その時、弟子達は、イエス様を捨てて逃げるのです。ペテロは「あなたのためにはいのちも捨てます」(37)と言いますが、危険を感じると「そんな人は知らない」(マタイ26:27)と、3度も否定するのです。イスカリオテのユダは、悪魔に動かされてイエス様を売り渡します。イエス様は、それらのことご存知でした。イエスが弟子達を愛されたというのは、その彼らの裏切りを見ながら極みまで愛されたということです。その愛が形になったのが「洗足」です。イエス様は、上着を脱いで僕の姿を取り、弟子達の足を1人1人洗い、手拭いで拭って行かれました。ペテロは「決して私の足をお洗いにならないでください」(8)と言いました。「イエス様に足を洗ってもらう等、とんでもない」と思ったのです。しかしイエス様は「もしわたしが洗わなければ、あなたはわたしと何の関係もありません」(8)と言われました。どういう意味でしょうか。
 ある本にこうありました。「夫婦の関係でも、隣人との関係でも、私達は自分の過ちについては、何とかそれを適当に逃れようとする。しかし他の人の愚かさや、小さな過ちに対しては、容赦出来ない」。他者の過ちを赦せないということでしょう。イエス様は、赦すこと、赦し合うことを教えられました。しかし私達は、その御心に生きることが難しいのです。「赦し」1つをとっても、神に喜ばれるように生きることは出来ない。三浦綾子さんは言いました。「人間は生涯の内に様々の罪を犯します…心の中に人をなじり、侮辱し、驕り、高ぶり、情欲を抱き、人を羨み、はては人の死を願うことさえあるのではありませんか…自分の罪はこれだけだと、自分の中から取り出せるものではないのです。人間の存在そのものが罪なのです…」。私達は大なり小なり自己中心、裁き、妬み、そういうものを抱えているのではないでしょうか。その罪が、私達を神の前に聖くない者にしているのです。聖書にあります。「人間には、一度死ぬことと死後にさばきを受けることが定まっている」(ヘブル9:27)。つまり私達は、裁きの場の有罪判決に向かって歩いているのです。有罪ならば、その先には永遠の滅びが待っている、それが聖書の語る真実です。しかし自分の罪を自分でどうにか出来るでしょうか。私の友人は「清くなりたい」と思って1年間水を被りました。「何も変わらなかった」と言いました。自分ではどうにも出来ないのです。イエス様はその人間を救おうとされたのです。イエス様と私達の関係、それは、イエスが私達の罪を十字架の血によって拭取り、洗い聖めて下さる、そういう関係なのです。「洗足」はその象徴です。弟子達は、数時間後にイエス様を捨てて逃げてしまうのです。その彼らの罪を拭って行かれる、それがイエス様の愛です。 
私達も、イエス様に相応しく生きているわけではありません。罪を抱えて生きているのです。しかし弟子達を極みまで愛されたイエス様は、そんな私達をも極みまで愛して下さるのです。なぜなら私達もイエス様のものだからです。キリスト教の核心は「私にも罪がある、しかしその私が赦され、神に裁かれる者ではなく、受け入れられる者になるように、イエスが十字架で血を流して私の罪を拭い去って下さった」ということです。誰でも「私にも罪があります。辛い過去があります。私の罪を赦して下さい」と言うなら、イエス様が「神に受け入れられる者」にして下さるのです。
だから大事なことはイエス様の愛を拒否しないことです。「私はイエス様に足を洗ってもらう必要はない、私には罪はない」と言ったり、あるいは―(教会で罪の話を聞いて「自分の罪ぐらい自分で何とかするわよ」と怒って教会を出て行かれた方があったそうですが)―私達がそう言うなら、イエス様の愛を受け取れないのです。
 神に受け入れられる祝福、それはもちろん、日々の現実にもあります。私がかつてお会いしたご高齢の兄弟は「先生、キリストは凄いな」と言っておられました。沢山の神の恵みを経験されたのでしょう。しかしその祝福は何より、私達の最後の、最大の試練である、死の時にはっきりするのです。ある先生が入院中の女性実業家の方を訪問しました。その方は「先生、私は死ぬのです。恐ろしい。助けて下さい」と言われたそうです。一方、ご高齢の兄弟は亡くなる直前「病の喜び、まことのいのちを信じる。死ぬことの喜び、よみがえりの…二倍のものを主の手から受ける。何と言う信仰の喜び」と走り書きして、天国の命を確信して、天に帰って行かれました。何という違いでしょうか。十字架を「私のためでした」と受け取りさえすれば、生きるにも、死ぬにも、神が私達を恐れから解放して、希望と平安を与えて下さるのです。天の御国に永遠に生きる者にして下さるのです。
 

2:適用~「洗足」が語る仕える祝福

この時、誰も他の人の足を洗おうとしなかったのは、自分を僕の立場に置くのが嫌だったからです。プライドが許さなかったのです。イエス様はかつて言われました。「人の子が来たのが、仕えられるためではなく、かえって仕えるためであり…」(マタイ20:28)。「私も仕えるために来たのだ」と言われたのに、彼らは分かっていなかった。それでイエスご自身が僕になり、弟子達の足を洗われたのです。足を洗い、拭き上げた後でこう言われました。「主であり師であるこのわたしが、あなたがたの足を洗ったのですから、あなたがたもまた互いに足を洗い合うべきです」(14)。
 私達は皆、自我を持っています。その自我は、仕えるより、仕えられることを喜ぶ、心地よく思うのです。ある先生の本にこうありました。「九州男児の私は、女性は男性に尽くしてくれると信じ、結婚すれば簡単に幸せになれると確信していました…家内の父親は、朝一番に起き、家事を手伝うのが日課でした。当然、家内は、私もそのように手伝うと信じていました…結婚後、私は仕えない家内に驚き、家内は手伝わない夫に驚きました。お互いに自分が正しく、相手が悪いと思い込んでいたから、大事件の勃発です」。お互いに相手に仕えて欲しかったのです。でも、それが私達を苦しくしているのではないでしょうか。「仕えられたい」と思っても、人が仕えてくれないと不満が出る、あるいは「自分はこれだけして上げたのに、あの人は分かってくれない」という不満が出て来る。イエス様は「主であり師であるこのわたしが…」(14)と言われました。「師である」ということは、私達はイエス様の弟子であるということです。弟子は「師」の真似をして生きるのです。イエス様が僕だったら、私達はもっと僕にならなければならない、もっと仕える者にならなければならないということでしょう。そして、「あなたがたがこれらのことを知っているのなら、それを行なうときに、あなたがたは祝福されるのです」(17)、そこに祝福された人間関係があると言われます。確かに難しいです。しかし先程の先生の言葉はこう続きます。「次第に私は正義を振りかざすよりも、受容し、愛することを学びました…九州男児の私が、喜んで家内のために食後の片づけをし、ゴミ捨てまでも出来るようになりました。ついに…私は幸せな人生を手にいれました」。仕えるとこで祝福を見出したと言われるのです。
もちろん「仕える」というのは、何でも「ハイハイ」と人の言うことを聞くことではありません。それはその人の祝福を考え、愛と忍耐を持って誠実に関わって行くことです。親に、子供に、家族に、隣人に接して行く時も、「仕える」という意識は大切なのではないでしょうか。少なくても私達を謙遜にしてくれます。新しい動機づけをしてくれます。但し、難しいです。しかし、私達自身がイエス様に足を洗って頂き、拭って頂き続けている者です。「私はイエス様の弟子だから…」というところに立つ時、私達も、仕える祝福に向かう力を頂けるのではないでしょうか。
イエス様に極みまで愛されたペテロは、やがてどうなったでしょうか。「クォ・ヴァディス」という映画では、ローマのクリスチャン達に対するネロの迫害が熾烈を極めて来て、クリスチャン達は何とかペテロを逃がして、他の場所で伝道してもらおうとします。ペテロは説得されて街道を供の少年と逃げます。ところが彼は、向こうからローマに向かって近づいてくる太陽の輝きを見ます。その輝きの中を復活のイエスが歩いておられるのです。ペテロは跪いてイエス様の足を抱くようにして言います。「主よ。どこにおいでになるのですか」。イエスは言われます。「あなたが私の民を捨てる時、私は再び十字架にかけられるためにローマに行く」。しばらく地面に蹲っていたペテロは、起き上がると、踵を返してローマに向かって歩き始めるのです。ローマに帰り、イエス様に出会ったことを語りながら、皆を励まします。仲間に仕えたのです。自分もイエス様に極みまで愛されたので、自分もまた主を愛し、隣人を愛し、仕えて行ったのです。私達も、同じように愛されている者です。大きなことは出来ない、でも身の周りの小さな人間関係から、イエスの教えて下さる、約束して下さる、祝福の経験に踏み出す者でありたいと願います。