2020年10月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:ヨハネ福音書12章44~50節 

串間の幸島のサルは、イモを洗って食べることで有名ですが、50年程前、若い雌のサルがサツマイモを海水で洗って食べることを始めました。塩味がついて美味しかったのです。やがて島中のサルが真似をするようになりました。皆、塩味のついたイモを楽しみました。しかし、指導者グループの十数頭は、それを認めませんでした。「そんなのは正しいイモの食べ方ではない」と思ったのでしょうか。ところが、指導者グループの中からもイモを海水で洗うサルが現れ、彼らも塩味の効いたイモを堪能しました。それでも、ボスザル以下3頭だけは、最後まで頑として拒否したそうです。そして、ボスはついに塩味の効いたイモを味わうことなく死んでしまったそうです。チャンスはあったのです。しかし、自分からチャンスを拒否してしまった。だから、祝福に与れなかったのです。自分が拒否することによって、結果として祝福に与れないということがあるのです。 
 前回は、ヨハネがイエス様の宣教活動を「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった」(ヨハネ12:37)とまとめている個所でした。「信じる者がたくさんいた…(けれど)…パリサイ人たちをはばかって、告白はしなかった」(42)ともありました。その状況を受けてイエス様が叫んでおられる、それが今日の箇所です。イエス様は何を訴えておられるのか、それは私達にどのような意味があるのか、内容と適用に分けてお話しします。
 

1:内容~主イエスを通して神に繋がる

イエス様は何を叫ばれたのか。44節に「わたしを信じる者は、わたしではなく、わたしを遣わした方を信じるのです。また、わたしを見る者は、わたしを遣わした方を見るのです」(44~45)とあります。イエスを信じることは神を信じること、イエス様は神様に遣わされた方だから、イエス様を通して、人は神様に繋がることが出来るのです。イエス様はそのことを分かって欲しいのです。ご自分を通して神に繋がって欲しいのです。どうして分かってくれないのか、分かろうとしないのか、その迸るような思いが、痛みが、叫びになって出ているのではないでしょうか。
その思いを違う言葉で叫んでおられるのが46節です。「わたしは光として世に来ました。わたしを信じる者が、だれもやみの中にとどまることのないためです」(46)。イエス様と出会う前、私達は、自分の罪の姿も見えなかったし、その罪が私達を希望の源である神から遠ざけていることも分かりませんでした。私は「光」は「希望」と言い換えて良いと思います。イエス様は、その私達が神に赦され、受け入れられる道を造って下さいました。私達は、生きるために希望を必要とします。しかし自分で希望を造り出すことは出来ません。希望は神から来るものです。だから神に繋がる時、光の中(希望の中)を生きることが出来るようになるのです。森下辰衛という先生の講演の中に1人の青年が登場します。子どもの頃、大変な病気をして、それから病気の困難を抱えて「何で僕だけが…」と思いながら生きて来られた方です。しかし、やがて三浦綾子の小説「泥流地帯」で「自分の思い通りにならない所に神の深いお考えがある」という言葉に出会って「これにも『神の深いお考え』があるのかも知れない」という希望を与えられ、前に向かって生きるようになったという話です。人は、神を信じる時、希望という光を持つのです。確かに分からないことも多い。しかし、暗闇ではなく、神に包まれて生きる道があるのです。その神から来る光(希望)は、死の向こうにも輝いている光です。教会からお出しするレターにも書いたのですが、ある牧師先生の奥様の葬儀に出て、衝撃を受けました。司式者がまず「さあ、彼女の人生をお祝いしよう」と言いました。そして始まった讃美は「まもなくかなたの」でした。英語の歌詞を直訳すると「間もなく私達は、輝く川の流れの畔に着くだろう…間もなく私達の心は、平安の歌と共に喜びに震えるだろう。そうだ。私達は天の御国を流れる川の畔で会おう。美しい、美しい…神の御座から流れる川の畔で会おう」。式場は、神への感謝と天国の希望で満ちているように感じました。これこそ光です。イエス様は、全ての人にこの光の中を生きて欲しいのです。だから「ここに光が、命があるのだ」と叫んでおられるのです。
さらに語られます。イエス様は、ただひたすら、人々を救うために、この大きな恵みを与えるために来られた方だから「わたしは世をさばくために来たのではなく、世を救うために来たからです」(47)と言われました。しかし、その後に「わたしを拒み、わたしの言うことを受け入れない者には、その人をさばくものがあります。わたしが話したことばが、終わりの日にその人をさばくのです」(48)と言われます。イエス様の言葉が、私達を救う神の言葉、真理の言葉なら、それを拒むことは、自分の救いを自ら拒むことになるのです。海で溺れかかっている人に、ヘリコプターからオレンジの浮き輪が投げられたとします。「昔から浮き輪は黒に決まっている、だから私は受け取らない」と言ったとしたらどうでしょうか。浮き輪は救いのために投げられたのに、受け取らなかったら、結局沈んで行くしかないのです。譬えはまずいですが、そういうことです。繰り返しますが、イエス様は「世を救うために」(47)来られました。しかし「ここに救いがある」というものを拒否してしまったら、その「救い」が結果として裁きになってしまうのです。だからこそのイエス様の叫びなのです。
そしてイエス様は最後に、まとめのように言われました。「わたしは、父の命令が永遠のいのちであることを知っています」(50)。「父の命令が永遠のいのちである」、難しい言葉ですが、「リビング・バイブル」は「神の命令は人を永遠の命に導きます」(リビング・バイブル)と訳し、「メッセージ訳聖書」は「私は神の命令が生み出すものを知っている。それは本当の永遠の命です」(メッセージ訳)と訳します。いずれにしても、それは「『神の戒め』に生きることは、やがて永遠の命と言う祝福に導く」という意味かも知れませんが、それ以上に「神の戒めに生きる時、私達は永遠の命の世界に踏み込んでいる、永遠の命の世界を既に生きている」ということではないかと思います。私達は、神の戒めを信じ、守ることで、今この時から永遠の命の世界に引き込まれて行くのです。永遠の命を生き始めるのです。だからこそイエス様は、私を、私の言葉を信じて、神様と繋がって欲しい、永遠の命を得て欲しいと、叫んでおられるのです。
 

2:適用~神の言葉に生きる

 適用を考えます。イエスは「私の語る言葉は、神の言葉だから、それを信じて欲しい」と叫ばれました。私達は今、聖書を通してイエス様に聞き、イエス様を通して、神の言葉を、神の戒めを聞くのです。本当に聖書は神の言葉でしょうか。カナダの神学校で学んでいる時、隣の州から来ている学生と話す機会がありました。「卒業後はどうするのですか」と聞いたら、「私の目的は、聖書の翻訳の仕事に携わることだから、まだ聖書がない地域に入って行って、聖書をその人達の言葉に翻訳したい」と答えてくれました。「大変な仕事だと思うけど、どうして聖書翻訳の仕事をしようと思ったのですか」と聞いたら、彼は「分からない、でもそういう思いが与えられた」と言いました。電気もない未開の地に入って行って、長い年月をかけて、その人達の言葉に聖書を翻訳するのです。人間的に見れば、報いられることの少ない大変な仕事です。しかし、それに喜んで一生をかけようとする人が起こされ続けているのです。なぜでしょうか。それは、神様が、聖書を、永遠の命に導く神の言葉を、全ての人が、自分達の言葉で読むことが出来るように働いておられるからです。聖書は神の言葉なのです。
そうであれば、聖書に向き合う私達の態度が重要です。「ヨハネ福音書」は、13章から次のまとまりに入って行きます。私達を永遠の命に引き込む神の戒めが語られて行きます。それらの言葉にどう向き合って行くか、私達の信仰生活を左右するとても大切なことです。
先程、イエス様を信じる者は、光の中を生きて行けると申し上げました。しかし、現実として、私達は、イエス様を信じていながら「光の中にいる」と言い切れないものを持っているのではないでしょうか。光の中にいる時もあるでしょう。しかし依然として闇にも捉えられている。そういう現実があるのではないでしょうか。闇に足を踏み込んだまま生きる時、私達には、呟きが生まれます、文句ばかり言うようになるのです。それによって、希望が覆われてしまうのです。私は、自分が問われます。先日、色々なことが心にやって来て、呟きながら車を運転していました。呟いている時は、希望が見えません。その時―{聖書に「すべての事について、感謝しなさい。これが、キリスト・イエスにあって神があなたがたに望んでおられることです」(1テサロニケ5:18)とありますが}―「感謝しなさい」という声が心に響きました。私はこれまでの歩みを振り返りました。「神は、こんな者を、泥沼のようなところから引き揚げ、恵みを添えて導いて来て下さったな」と思い出しました。そうしたら感謝が出来ました。その時、心がフッと軽くなったのです。神の御言葉の中に飛び込んでしまうところに、恵みを経験する秘訣がきっとあるのです。聖書の言葉を、私を生かす命の言葉、光に導く言葉として、真剣に聞き、御言葉に生きて行くことが大切なのです。そして「父の命令が永遠のいのちである」(50)、神の戒めに生きることは、今ここで、私達を永遠の命に生かすことさえするのです。
水野源三という方のことを思います。水野さんは、小学校4年生の時に赤痢で脳性麻痺になり、手足が動かなくなり、言葉もしゃべれなくなりました。自由に動かすことが出来るのは瞬きだけです。「死にたい」と思って過ごしていた彼が、14歳の時に、1人の老牧師が置いて行った聖書を貪るように読んで、イエス様を信じたのです。聖書を通して神の愛を知った時、「死にたい」という気持ちが消えて、「神に愛されている」ことを喜ぶようになったのです。それから、瞬きで、お母さんに1文字1文字を伝えて詩を書くようになりました。「悲しみよ、悲しみよ、本当にありがとう。お前が来なかったら、つよくなかったら、私は今どうなったか。悲しみよ、悲しみよ、お前が私を、この世にはない大きな喜びが、かわらない平安がある、主イエスのみもとにつれて来てくれたのだ」。現実は、私等の想像を絶する大変なお暮しだったと思います。しかし―{「すべての事について、感謝しなさい」(1テサロニケ5:18)という神の戒めをご紹介しましたが}―その辛さ、悲しみまで感謝しようとしておられる。その中で水野さんは、生を支えられるだけではない、既に永遠を生きておられたのを感じます。こんな詩もあります。「父なる神様に、すべてをよきように、なしてくださるから、すべてをゆだねよう」(水野源三)。4冊目の詩集のタイトルは「御国をめざして」です。水野さんは永遠を生きられたのはないでしょうか。
「父の命令が永遠のいのちである」(50)。聖書の言葉は、私達を永遠の命に導く力を持っているのです。イエス様は真剣です。私達も、聖書の語る神の戒め、イエス様の教えを真剣に聞いて、永遠の命の世界に足を踏み込んで、光の中を生きて行きたいと願います。そのようにして生きた軌跡は、死の向こうの世界においても大きな意味を持つのではないでしょうか。

聖書箇所:ヨハネ福音書12章36b~43節 

 昨年末、私は、ガソリン・スタンドの中で事故に遭いました。以前も申し上げたのですが、警察の方を待っている間、不思議な経験をしました。フトした瞬間、魂がどこかに引き上げられて、そして私は神様の前に立っていました。神様の姿は見えませんでしたが、目の前に明るい光が見えました。しかし、神様の前に立っているということは自覚しました。その時、私は、足がすくみました。「神様の前に立つということは、こういうことか」と思いました。それがどれくらい続いたのか、一瞬のことだったのか、良く分からないのですが、意識が普通に戻った時、「あそこに向かって歩いて行くのだ」と思いました。教会にはご迷惑をおかけしましたが、私にとっては、貴重な経験でした。ラジオ牧師の羽鳥明先生は、夢の中で神の裁きの座につかれたそうです。自分の罪を示され、「もうダメだ」と思った時、遠くから「この男の罪は、私が十字架の上で全部始末しました」という声が聞こえて来た。「イエス様だ」と思った時に、目が覚めたと語っておられました。私達は誰も、やがて神様の裁きの前に立つ、そのことを頭のどこかに持って信仰生活をすることは、大切ではないでしょうか。
 本日の個所は、イエスの公生涯をまとめる個所です。36節に「イエスは、これらのことをお話しになると、立ち去って、彼らから身を隠された」(36)とあります。もう彼ら(民衆)を教えるために活動されることはないのです。イエス様の伝道の生涯がどのようにまとめられているのか。「新改訳聖書」のある版は、ここに「ユダヤ人の不信仰」という小見出しをつけています。イエス様のメッセージを受けて、人々はイエス様を喜んで信じたのではなかったのです。彼らの問題は何だったのか。私達は何が大切なのか、そのような観点で2つのことを申し上げます。
 

1:36~41節「神の前に遜ることの大切さ」

 37節「イエスが彼らの目の前でこのように多くのしるしを行われたのに、彼らはイエスを信じなかった…」(37)。ヨハネは、イエス様の「しるし/奇跡」について沢山記しています。人々は見たのです。それにも拘わらず、彼らは受け入れない。弟子達は「なぜなんだ」と思うのです。
 十字架と復活の後、弟子達は「旧約聖書」の中にイエス様について沢山のことが預言されているのを見つけたはずです。中でも「イザヤ書」の預言、特に53章の預言には、目が開かれる思いだったでしょう。「彼が担ったのは私達の病、彼が負ったのは私達の痛みであった…私の僕は、多くの人々が正しい者とされるために彼らの罪を自ら負った」(イザヤ53:4,11新共同訳)。「そうだったのだ、だからイエス様は、多くの人々の病と痛みを共有され、癒されたのだ。イエス様は、我々を神に受け入れられる者とするために、我々の罪を全部背負って十字架について下さったのだ」と確信したでしょう。その「イザヤ書」53章の1節にあるのが、今日の38節の「主よ。だれが私たちの知らせを信じましたか。また、主の御腕はだれに現れましたか」(38)という言葉です。「彼の言うことを信じる者が誰かいたか、彼に現された神の力を認めた者が誰がいたか…(いない)」ということが預言されていた。それだけでなく、「イザヤ書」6章には、40節の「主は彼らの目を盲目にされた。また、彼らの心をかたくなにされた。それは、彼らが目で見ず、心で理解せず、回心せず、そしてわたしが彼らをいやすことのないためである」(40)の言葉があるのも見つけるのです。イザヤは、神の前に立つ経験をしました。その時、自分の醜さを示され、「聖なる神の前に自分は滅ぼされても当然の人間だ」というところに落ちるのです。でも神は、彼を取り扱い、もう一度立て上げて下さったのです。その時、彼は、自分と同じように罪を抱え、悩み、苦しんでいる同胞にも神の救いに与って欲しいと思うのです。神が言われました。「だれを遣わそう。だれが、われわれのために行くだろう」(イザヤ6:8)。イザヤは言いました。「ここに、私がおります。私を遣わして下さい」(イザヤ6:8)。今日の40節は、その時、神が言われた言葉です。「お前が語れば語るほど、この民はますます頑なになって行って、悔い改め等出来ないような状態になるぞ。『いくら神の言葉を語ってもだめだ』と思うようになるぞ」。それは「神が人を頑なにして、信じさせないようにする」ということではなくて、「人々の頑なさがあまりにも激しいので、まるで神が頑なにしておられるとしか思えない状態になる」ということです。でもイザヤは出て行った。そのイザヤの時代の人々の状況と同じ状況を、イエス様の弟子達は、当時のユダヤ人の中に見て行くのです。そして「頑なな民がいつの時代にもいたし、今もそうなのだ」というところに、答えを見たのです。
しかしなぜ、彼らはイエス様を信じなかったのか。色々とありますが、重要なことは、神の前に自分という人間がいかに罪に塗れた人間か、その罪が、罪を認めようとしない頑なさが、神と自分との間に仕切りを造っていることを分かろうとしなかったことです。だから、罪の赦しを語られるイエス様の前に遜ることをしなかったし、むしろ憎んだのです。
 私達は何を教えられるでしょうか。イザヤのように自分の汚れ、罪深さ、それを神の前に差し出し、それを赦して取り扱って下さる神様を心から見上げることの大切さではないでしょうか。私達が、本当に「私はこんな者です」という砕かれた思いで神の中に飛び込んで行く時―{星野富弘さんの詩があります。「私は傷を持っている、でも、その傷のところからあなたの優しさがしみてくる」(星野富弘)}―その欠けに働かれる、神の赦し、私達を立て上げて行かれる神の恵みの取り扱いが、始まるのです。
 1人の兄弟が牧師に言いました。「先生、私は家内の変わりようを見て、あのように変わりたいのです」。彼は、自分も信仰があるはずなのに、なぜ変えられないのかと思ったのです。特に、信仰を持ったばかりの奥さんの変わりようを見て、ますますその思いに迫られたのです。牧師は言いました。「あなたの奥さんは、こういう風に罪のお詫びをして、そしてイエス様を信じられたのです」。彼は言いました。「私はどうすれば良いでしょうか」。牧師は言いました。「一緒に罪の悔い改めをしましょう。そして主を見上げましょう」。牧師の招きに応じてその人は祈りました。「私はこういうことをして来ました。こんな存在でした。神様、どうぞ、私の罪を赦して下さい」。ひざまずくようにして祈った時、その表情に喜びがやって来たそうです。牧師は、幼子のように砕かれて、神を求める、その姿を見て、「神はこういう人を祝福してくださるのだ」と思ったというのです。
 この個所についてある説教者は「憎しみ」ということを強調していました。「憎しみ」を持ち続けることと神を信じることは相容れない、と言うのです。「憎しみ」だけではない、私達は色々なものを持っています。しかし「神様、私はこんな者です」と、それを神様の前に差し出し、遜って行く時、神は赦し、恩寵を流し込んで下さるのではないでしょうか。そして私達は、神との関係を祝福され、「神よ、この重荷を取り去って下さい、この困難を突破出来る力を与えて下さい」と祈り求めることが出来るのです。祈りが妨げられるような虚しさを覚える時にも「神様、私の魂を喜びで満たして下さい、慰めと励ましを与えて下さい」と祈ることが出来るのです。そこに恵みを持って臨まれる神の顧みを経験することが出来るのです。罪人であるという遜り、砕かれた魂、それが大切ではないでしょうか。
 

2:42~43節「神に喜ばれることを求めることの大切さ」

 人々は不信仰でしたが、それでも42節には「指導者たちの中にもイエスを信じる者がたくさんいた」とあります。彼らは、信仰の良心に従ってイエス様の姿を見て、イエス様のメッセージを聞いて、そこに神的なものを感じたのです。しかし、宗教的な権力者であるパリサイ人は、イエスを信じる者があれば、会堂から追放すると決めていました。ユダヤ社会において、会堂から追放されるということは、「村八分」に遭うということでした。恐ろしいことだったと思います。信仰の良心では、イエス様を信じたい、しかしそれは、指導者としての地位も、何もかも失う覚悟をしなければならないことでした。今のままでいれば、神への敬虔も、学識も、人々の賞賛の的でした。それで彼らは「隠れ弟子」であろうとしたのです。心の中では、イエス様を受け入れ、しかしそれを外に表明することはしなかった。そうすると、大きなものを失うこともないし、信仰の良心も、ほどほどに守れたのです。しかし聖書は、「神の誉れよりも、人の誉れを愛した/神と共に立つよりも、人と共にいることを好んだ」と評価するのです。これは神の評価、永遠の評価ですから、この方が重大です。彼らは目先の報いのために、永遠の報いという大きなものを失ったということです。
 話が大きくなりますが、私は杉原千畝という方のことを思いました。第二次大戦中、彼は、リオアニアでユダヤ人に2000通のビザを書いて、計6000人のユダヤ人を助けたのです。国からは「ビザを出すな」と命令されていた。でも彼は「あの人々を見捨てるわけにはいかなかった。でなければ私は神に背く」(杉原千畝)と言ってビザを出した。神の誉れを愛した模範ではないでしょうか。これはあまりに劇的な話ですが、しかし教えられます。つまり杉原さんは「神に喜んで頂くこと」を大切にしたのです。私達は、ともすると、人からの誉れ、人に良く思われようとすることに目が行って、神に喜んで頂くということが2の次になってしまうことがあるのではないでしょうか。感謝なことに、私達は、迫害の時代には生きていません。だから人に隠れてイエス様を信じなければならないということは、恐らくないと思います。それでも、神に喜んで頂くことを本当に大切にしているか、と問われると、考えさせられるのではないでしょうか。
何度もお話ししていることですが、森繁さんが佐渡島に行って、キリシタン塚という殉教の碑を見た時、彼は考えるのです。「私がこの時代に生きていたら、私もイエス様を否まないで殉教出来ただろうか、それとも、イエス様を否んで転んだだろうか」。そうしたら、彼は神の語りかけを聞くのです。「私は、お前をあの時代に生まれさせていない。今、この時代に生まれさせたのだ」。彼は思います。「そしたら不公平じゃないですか、あの頃の人は命をかけた、私は命をかけていない」。神様がこう言われました。「私に従って来るのは、あの時も今も同じだけ難しい、私に信頼する人だけが出来るのだよ」。「神様に信頼する」、私達は神に喜んで頂けるほど、神様を信頼しているでしょうか。「憎しみ」のことを申し上げましたが、私達は、神に喜ばれないであろう、様々な醜い思いを手放しているでしょうか。あのアーミッシュの人々は、本気になって憎しみを乗り越え、赦しに生きようとした。本気になって神に喜ばれることを大切にしようとしました。私達は、イエス様が一緒に生きて下さる大切な1人ひとりです。神の宮です。だからこそ、神に喜ばれることを大切にしたいと願うのです。やがて、神様の前に立つ時が来ます。その時、神様が「よくやった」(マタイ25:21)と言って下さいます。
 

 
最後に

 今日、2つのことを申し上げました。「神の前に遜ることの大切さ」「神に喜んで頂くことを求める大切さ」。神様に、私達の信仰生涯をまとめて「良い信仰者として生きた」という見出しをつけて頂けるなら、幸いです。

聖書箇所:ヨハネ福音書12章27~36節 

 イエス様を信じるユダヤ人の方の証を読んで驚きました。彼のお父さんは、戦前ポーランドにあったユダヤ人社会でラビ(律法の教師)として働いていましたが、ラビの訓練は凄まじいものだったそうです。ラビになる人は13歳までに「モーセ五書」をヘブル語で暗記しなければならず、18歳までに「旧約聖書」をヘブル語で暗記しなければならず、21歳でテストがありました。そのテストでは、試験官があるページのある文字を指します。例えばそこに針を刺すとして、その針が突き抜けて行く全部のページの文字を言わなければならなかったそうです。ユダヤの人々の神の言葉に対する熱意(執念)、これが「旧約聖書」を3000年、守って来た要因だと思いました。「神の言葉」をいかに大切にするか、教えられる気がします。
 前回はイエス様の許にギリシャ人が訪ねて来た話でした。今日の箇所は、それに続いて為された主のメッセージです。ヨハネはこれを通して、神の御心を歩もうとされるイエス様の姿を伝えます。その意味で今日のテーマは「御心を歩む(主に喜ばれる道を歩む、喜ばれる生き方をする)」ということだと思います。3つ、申し上げます。
 

1:御心を歩む必要

 27節「今、私の心は騒いでいる…『父よ。この時からわたしをお救い下さい』といおうか。いや。このためにこそ、わたしはこの時に至ったのです。父よ。御名の栄光を現わして下さい」(27)。「騒ぐ」、「混乱する」ということです。イエス様は、神性と共に人間性(人間の弱さ)を併せ持って下さった方でした。だとすれば、誰が33歳の若さで死ぬことを願うでしょうか。しかも、神から引き離される恐怖を知っておられたのです。
 CSルイスの「ライオンと魔女」という童話があります。4人の兄弟姉妹がナルニア国という不思議な国に迷い込みますが、その内の1人が魔女の世話になってしまいます。彼は魔女の許からナルニア国の主人公、アスランというライオンの許に逃げて来るのですが、魔女はアスランに「あの子は私のものだ、返せ」と迫ります。ナルニアには「裏切り者は魔女のものであり、裏切りがある度に魔女は1つの命を要求出来る」という掟がありました。結局、アスランが身代わりになって自分を魔女と仲間達(魑魅魍魎)に差し出します。そこで嬲り殺されます。ところが、ナルニアには魔女の知らない更に深い掟がありました。「裏切りを犯したことのない者が裏切り者のために進んで身代わりとなる時、どんでん返しが起こる」という神のお造りになった掟でした。アスランが命を捧げた時、神の掟が働いて、アスランは復活し、男の子も解放するのです。最後には魔女達を滅ぼします。
アスランは、全てを神の掟(御心)と力に預けました。魑魅魍魎に自らを明け渡すのですから、恐ろしい敗北です。でも、主に喜ばれる歩みをする時、神による勝利があることを信じました。十字架は、当時最も残酷な刑と言われた処刑です。しかしイエス様の目は、むしろ神から切り離される恐ろしさ―(CSルイス描く霊的な恐ろしさ)―を見ておられたのではないでしょうか。しかしイエスは「御名の栄光を現わして下さい(あなたの思い通りを為さって下さい)」と祈りを変えられました。「神の御心が十字架であれば、その道を歩みます」と、神に喜ばれる道を選び取って行かれたのです。そして、復活された、最後の勝利を勝ち取られたのです。
私達が神に喜ばれる道を歩もうとするのは、そこに勝利があると信じるからです。「死の谷を越えて」というクワイ川収容所の話を何度もさせて頂いています。連合国捕虜に対する日本軍の過酷な仕打ちに対して、憎しみがあった、しかし彼らは、イエスの「自分の敵を愛し、迫害する者のために祈りなさい」という言葉に従って、傷ついた日本兵の手当てをして上げます。すると、その彼らに、日本兵が何度も何度も「アリガトウ、アリガトウ」と呼びかけるのです。それまで「バカヤロー」しか聞いたことがなかった。でも、その時、彼らは、御心に従う勝利を体験するのです。神に喜ばれる道を歩もうとすることは―(例えば憎しみを手放そうとすることは)―きっと闘いです。しかしその先に勝利があることを信じて、御心を選び取って行く信仰生活でありたいと願います。
 

2:御心を歩むためのツール

 御心(神の喜ばれる道)を歩むためには、どうすれば良いのでしょうか。28~29節で神が答えられます。「私は栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現わそう」。イエス様にはこの声が聞こえましたが、群衆には雷がなったように聞えた、あるいは天使が話しているように聞えたのです。しかしイエスが「この声が聞こえたのは…あなたがたのためです」(30)と言われたように、本当は群衆がそれを聞いて、イエスの背後に神がおられることを悟り、イエス様を信じることができるようになるための声でした。
 なぜ、彼らにはその声が理解できなかったのか。はっきりとは分かりませんが、人々は「神が私に語られる等ということはない」と思っていたのではないでしょうか。だから、初めから神の語りかけを聞こうとはしなかった。聞こうとしなければ、神が語られても聞こえないのではないでしょうか。ある人は「神は昔ほど人に語られない」と言います。しかし、むしろ私達の方が神の語りかけを聞こうとしていないのではないでしょうか。カナダの聖書学校の先生は「7時間、静まって心を神に傾けた時、神の御心がどんどん入って来る経験をした」と言われました。聞こうとすれば、神は今も語られるのではないでしょうか。7時間も御前に静まることは出来ないでしょう、生活が出来ない。そうでなくても、私達には聖書があります。聖書は神の語り掛けです。神が私達に語りたいこと、私達に知って欲しいと思われることが、全部聖書の中にあるのです。
 ある牧師は、辛いところを数知れず通られましたが、その度に神が語られたそうです。「私はここにいる」。「イザヤ書」の御言葉です。「あなたが呼ぶと、主は答え、あなたが叫ぶと『わたしはここにいる』と仰せられる」(イザヤ58:9)。彼だけではない、神は私達にも『私はここにいる』と語っておられるのです。しかし、例えばラジオの電波は私達のところにも届いています。しかし受信機がないと分からない。ラジオで「936」という周波数を受信した時、「世の光」のメッセージが聞こえるのです。同じように「私はここにいる」という御言葉の受信機を心に持った時に、神が発しておられる「私はここにいる」という声を受信出来るのです。私達の心には神の御心が刻まれているから、ぼんやりと分かります。でも「ぼんやり」では、導かれるということにならない。しかし私達が聖書を読んで行く時、確かな神の励ましや、支えや、示唆に出会うのです、受信するのです。恐れがある時、「恐れないで、ただ信じていなさい」(マルコ5:36)という声を聞くのです。聖書を読み続けて行く中で、その時に必要な言葉がその時に与えられる、という経験もします。神が摂理的に働かれて、聖書を通して語られるのです。また祈りの中で心に蓄えていた御言葉を通して神が語られるという経験もあります。神様は、今も聖書の言葉を通して語って下さるのです。大事なのは、私達が聞こうとするかどうかです。御心を歩むために―(神に喜ばれるように生きるために)―「聖書を通して神に聞く」ことをしなければならないと思います。
 そして、聞いたら、それを行いにしたいと願わされます。イエス様の「父よ、御名の栄光を現わして下さい」という祈りに答えて28節、神は「私は栄光をすでに現したし、またもう一度栄光を現わそう」(28)と言われました。「もう一度…現わそう」の方は十字架のことですが、「すでに…」の方は何のことでしょうか。それは「イエス様の御業」のことだと思います。見えない者の目を開き、飢えた者にパンを与え、心の渇きに苦しむ者にいのちの水を注がれた…数え切れない業を為さった、その頂点にラザロをよみがえらせるという業もなさいました。それらの愛の業を通して神は「わたしは栄光をすでに現した…」(28)と言われるのです。私達が神の御心を歩むこと、それは「御名の栄光を現わしてください」(28)という祈りを具体的に生きることなのです。「光の子ども」として生きることなのです。
 

3:御心を歩む祝福

 3番目、イエス様は、御心を歩もうとする者の祝福も語られます。
 1つ目は「裁きからの解放」です。30節「今がこの世のさばきです。今、この世を支配する者は追い出されるのです」(30)。これは「十字架は敗北ではなく、むしろ十字架によって世を支配する悪の力が負けた、負け始めた」ということを言われた言葉だと思います。悪の力は負けました。「サタン」というのは「中傷する者」という意味です。全ての人が立たなければならない死後の裁きの時、私達がそこに立ったら、サタンは我々の罪をあげつらおうとするのでしょう。でも、面白い話があります。死後の裁きの座に着くと、サタンが、分厚い「私の生涯の記録帳」を持ってニタニタしながらやって来るそうです。私の言ったこと、やったこと、あんなこと、こんなことが書いてあるのです。ところが裁判が始まって、サタンが一生懸命にページをめくると、細かく書いてあるはずの私の罪の記録が全部消えている。サタンは言うのです。「おかしいんですよね。何も書かれていないんですよね…」。私達を訴え、責め立てるこの出来る者はもういない。イエス様が十字架で全部を消して下さいました。だから死後の裁きを恐れなくて良い。感謝です。
 しかし「裁き」は、それだけではない。イエスの十字架を信じた時、神は私達を子として下さいます。神が永遠の救いの観点から私達を祝福しようとされる、それが子とされるということです。しかし、私達の方が、神に喜ばれる道に背を向けることによって、神の祝福を拒んでしまうのです。「御心を歩む(神に喜ばれるように生きる)」ということは、日々の生活で「神の祝福を失う」という「裁き」から、私達を解放して行くのです。
 もう1つの祝福は、32節「私は地上から上げられるなら、わたしはすべての人を自分のところに引き寄せます」の言葉にあります。イエス様が己を虚しくして架かって下さった十字架こそが、私達をイエス様に引き寄せました。私達の感動は、神の御子が十字架で私達に仕えて下さったことです。その意味でこの言葉は「自分を虚しくして人々に仕えて行くことにこそ、人を変えて行く力がある」、御心を歩む中に人を変えて行く祝福があるということを教えるのです。以前もお話ししましたが、ある方は、かつてお父さんと激しい確執があったのです。それは、宮崎に住みたくない、実家に帰れないような強いものだったそうです。でも求道していた教会で「あなたの父と母を敬え」(出エジプト20:⒓)という言葉を聞いた。「『父と母を敬え』と命じている方がいる。私に命じておられる、この方が神であるに違いない」。それは彼女の信仰を導く言葉だったそうですが、そこから彼女は、自分を殺すようにしてお父さんに接して行くのです。そうしたら、やがてお父さんの方も心溶かされて、何とお父さんは91歳で彼女を通してイエス様を信じて、洗礼を受けられたのです。考えられないことだったそうです。御心を(神の喜びを)歩む中に、祝福があるのです。
 

4:最後に

パウロは言いました。「キリストの言葉をあなたがたのうえに豊かに蓄えなさい」(コロサイ3:16)。今年の目標聖句です。熱心に神の声を聞こうと務め、御心を歩もうとする、そのような信仰生活を紡いで行きましょう。

聖書箇所:ヨハネ福音書12章20~26節 

 私は大学2年の時に自分の手に負えない問題を抱えました。不安で、どうして良いか分からなかった時、心の中に1つの言葉が浮かび上がって来ました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)。小学生の時に通った日曜学校で覚えた御言葉だったのだと思います。「教会に行ったら何か変わるかも知れない」、そんな気持ちになって、木曜日の午後、教会に飛び込みました。教会には2~3人の人がおられて、短い交わりをしました。何を話したかは覚えていませんが、玄関を出る時、外の景色の色が変わったような気がして、そこから私は7年ぶりに教会に戻ることが出来ました。今日の箇所でギリシヤ人がイエス様のところに来ますが、ここを読んで、自分がイエス様のところに行った時のことを思い出しました。皆さんも、色々な導きでイエス様のところに来られたことでしょう。
 今日の箇所は、イエス様がエルサレムに入城された、その日か、あるいは翌日か、ギリシヤ人がイエス様のところに会いに来たことを伝える個所です。この個所は何を語るのでしょうか。2つのことを申し上げます。
 

1:ギリシヤ人の来訪の意味~イエスの思いを引き継ぐ

 20~21節「さて、祭りのとき礼拝のために上って来た人々の中に、ギリシヤ人が幾人かいた。この人たちがガリラヤのベツサイダの人であるピリポのところに来て、『先生。イエスにお目にかかりたいのですが』と言って頼んだ」(20~21)。ユダヤ教は、その高い倫理性の故に、異邦人の中にもユダヤ教に惹かれる人がいました。彼らは、そのような人達だと思われます。「過越しの祭り」に参加するためにエルサレムに来ていたのです。ではなぜ、イエス様に会いたいと思ったのでしょうか。「宮きよめ」が理由だったかも知れません。エルサレムの神殿で異邦人が入ることが出来る一番外側の「異邦人の庭」は、両替商や犠牲の動物を売る商人達が軒を連ねて商売をしている場所でした。とても祈れる雰囲気ではない。イエス様は「神殿は祈りの家だ」と言って商人達を神殿から追い出されました。このギリシヤ人は、イエス様の行動に感銘を受けたのかも知れません。あるいは、人々は、イエス様がラザロをよみがえらせた話をしていました。彼らも「イエスは死に打ち勝たれた方だ」と聞いて、会ってみたいと思ったかも知れません。いずれにしても、神のことを知ることが出来るかも知れない、生る現実に光が当たるかも知れない、希望が生まれるかも知れない、そんな切実な思いでやって来たのではないでしょうか。ピリポとアンデレはギリシヤ人をイエス様のところに連れて行きました。
 この出来事から何を学べるでしょうか。ギリシヤ人達は、やがては初代教会のメンバーになって行ったと思います。でも、彼らがイエス様のところに来るには、旧約の時代から、神を信じる人々が、神を畏れる生き方を通して、異邦人に神様を指し示したのです。また、初代教会の伝道も、ユダヤ教の会堂から始まります。長い神の民の歴史を土台として初代教会は成長して行ったのです。ここでピリポとアンデレが、ギリシヤ人をイエス様に引き合わせているのは、起こったことが書いてあるというだけではなくて、福音書記者ヨハネは、ピリポやアンデレが、後に異邦人にイエス様を紹介して行ったことを言いたかったのではないかと思います。イエス様の弟子達、そして初代教会の人々、それに続く多くの信仰者、その人々が、遥か私達にまで、信仰を守り、伝えたのです。私達は、自分1人で信仰を持って、神様との関係に入るように思うかも知れません。しかし、私達が神を信じて喜んで生きている、その背後には、多くの信仰者の歩みがあって、私達はその上に信仰生活をさせてもらっているのです。その時代、時代に生きた信仰者が、与えられた信仰を守り、伝えてきたのです。そして今は、私達が、信仰を次の人々にバトンタッチするために、この時代に置かれているのです。神は、この信仰を次の世代に伝えるために、私達に委ねられたのです。だから私達は、譲り受けたこの信仰を、信仰の生涯を、大切に生きたいと思うのです。そして願わくは、私達も、次の世代にバトンタッチできるように、誰かに神を信じて生きる恵みをお分かち出来るような、そんな信仰生活でありたいと願います。それが一粒の麦として死んで下さったイエス様の思いを引き継ぐことになるのではないでしょうか。
 その意味で今日、Nさんが洗礼を受けられることは、教会にとっても、大きな祝福です。
 

2:主イエスのメッセージ

 イエスはギリシヤ人に会われたのか、ヨハネは語りません。それは、ここで語られるイエス様のメッセージが、ギリシヤ人に対してだけ語られたものではなく、この個所を読む全ての人に語られていることを、ヨハネが意識しているからだと思います。イエスは2つのことを語っておられます。
 

1)ご自分の十字架についてのメッセージ~十字架を受け取る

 23節「人の子が栄光を受けるその時が来ました…一粒の麦がもし地に落ちて死ななければ、それは一つのままです。しかし、もし死ねば、豊かな実を結びます」(23~24)。イエス様は、伝道の対象を主にユダヤ人に絞っておられましたが、ここに来て異邦人の中にイエス様の教えを求めて訪ねて来る人が起こされました。これは、イエス様の伝道が射程距離の最大域にまで届いた、これから弟子達が伝道して行くための土台造りが終わった、そのことを意味しました。それでこれまで「まだ私の時は来ていない」と言って来られたのに、「栄光を受ける時が来た」、つまり「十字架に架かる時が来た」と言われたのです。イエスは「十字架に架かる」ことを、「栄光を受ける」と表現され、そして「十字架が豊かな実を結ぶ」と言われました。どういうことでしょうか。
 人々は、神からの救い主がやって来て、ユダヤ社会をローマから解放してくれることを救いだと思っていました。しかし彼らのより切実な問題は、むしろ生きて行く上での苦しみであり、悲しみであり、罪が導き出す重荷であり、その重荷に解決が見当たらないということだったのです。私達の問題もそうでしょう。でも、どこに解決があるのでしょうか。
 ある牧師のところに1人の女性が訪ねて来ました。彼女は、声を振り絞るようにして「取り返しのつかないことをしてしまいました」と言いました。牧師は「取り返しのつかないこと」の内容を聞き出そうとしました。しかし彼女は、それ以上、口を開かずに、教会から出て行ったそうです。牧師は思いました。「彼女は、何か大きな者に自分の悲しみや悩みを注ぎ出したかったのだ…なぜ、どんな絶望さえも受け止めて、それを恵みで包む方の前に2人で立って、共に祈ることが出来なかったのか」。私達にも、日毎の問題があります。私達の問題も、1つ解決すれば、また次のことがやって来る。であれば、私達にとっても大切なことは、問題も何もかも含めて、私達の生きる現実を支えて、励まして、私達を持ち運んで下さる神との交わりに入り、自分の力だけではない、その方の命と力に生かされて生きることではないでしょうか。そして、必ずやって来る死に対する解決を持つことではないでしょうか。しかし、どうすれば良いのでしょうか。それは、イエス・キリストの十字架という橋を渡って神の懐に飛び込むことです。十字架は、ここまで悲惨な死があるのか、というようなものです。しかし、それがなければ、神との交わりの道は出来なかったのです。そしてそれは、独り子をも世に遣わされた神の愛と憐れみ、という神の栄光を余すところなく表すことになったのです。「一粒の麦が…もし死ねば、豊かな実を結びます」(24)。「神の子が代わりに死ぬなら、それを受け取った人々は、神との交わりに入り、神の命に生きるようになる、神の命で死に打ち勝つようになる」。自分に与えられた方法で神の栄光を表し尽くすという意味で、イエス様は十字架を自分の栄光だと言われたのです。その十字架が、命の実を豊かに生み出すのです。
 このことは、何を訴えるのか。それは、私達のためにイエス様が地に落ちて死んで下さったということを、しっかり受け止めることの大切さです。イエスが死んで下った。だから私達は、神と交わりに入れられ、神の恵みを頂いて生きる者とされている。死んだ後に、なお希望を見ることが出来るのです。私達は、イエス様という一粒の麦の実りなのです。大切なのは、イエス様が自分のために死なれたということをしっかりと受け止めることです。私達はイエス様から「あなたのために、わたしは一粒の麦として地に落ちて死んだのだよ」と語られているのです。
 

2)信仰者の生き方についてのメッセージ~イエスの愛に生きる

25節「自分の命を愛する者はそれを失うが、この世で自分の命を憎む者はそれを保って永遠の命に至る」(25)。「自分のいのちを愛する…自分のいのちを憎む」とは、どういうことでしょうか。
「自分のいのちを愛する」というのは「イエス様の愛を無視して、自分を喜ばせ、自分を満足させることを最大の目標にして生きる」、そういうことだと思います。自己中心の自分を愛する、結果として自己中心(罪)に振り回される、イエス様は「そういう生き方を憎め」と言っておられるのです。更に言うと「メッセージ訳聖書」は「自分の命を憎む」という言葉を「愛に置いて向う見ずになる」と訳しています。自分の力だけで生きようとしない、イエス様に愛をもらって、イエス様の愛に生きようとすること、それが、自分の命を憎むことであり、イエス様に仕えることだと、そう言っておられるのではないでしょうか。
渡辺和子というシスターが「自己中心(罪)と闘う」ために「小さい死」ということを勧めます。そしてイエス様に仕える生き方をこう言います。「『小さな死』とは、自分のわがままを抑えて、他人の喜びとなる生き方をすること、面倒なことを面倒くさがらず笑顔で行うこと、仕返しや口答えを我慢することなど、自己中心的な自分との絶え間ない戦いにおいて実現できるものなのです。『一粒の麦が地に落ちて死ねば多くの実を結ぶ』ように、私達の『小さな死』は、いのちを生むのです」。彼女の言う「小さい死」が私達の回りに実(新しい状況)を結んで行くということでしょう。
しかし、そう言われても難しいと感じるかも知れません。だから、イエス様は、励ましと祝福を語って下さいました。「そのように生きることが永遠の命の繋がる生き方だ」と言われるのです。さらに「そうすれば、わたしのいるところに、わたしに仕える者もいることになる」(新共同訳26)と言われます。そういう生き方の中で、私達は、どんな時にもイエス様と一緒にいることになるのです。さらに言われました。「もしわたしに仕えるなら、父はその人に報いてくださいます」(26)。祝福の約束です。
私達のために一粒の麦として地に落ちて死んで下さったイエス様が「わたしについて、来なさい」と言われます。そこに永遠に至る祝福があると言われるのです。感謝と信頼を持ってイエス様に仕えて行きたいと願います。