2020年9月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:ヨハネ福音書12章12~19節 

 学生時代の話です。友達数名とタクシーを待っていました。私達の前には子供の手を引いたお母さんが並んでいました。ずんだれた格好の私達を見て警戒されたのでしょう、お母さんは「私達が先に並んでいたのだから、順番をちゃんと守りなさいよ」というような目で私達を睨んでおられました。しばらくしてタクシーが2台続けてやって来ました。前の車は見るからに古い車で、後ろの車は新型の車でした。途端にそのお母さんが私達の方を向いて、ニッコリ笑って「先にどうぞ」と言われて、自分達はさっさと後ろの新型の車に乗られました。「エーッ」と驚いたのですが、どうしようもなくて、先に来た古い方のタクシーに乗って帰ったのを覚えています。でも、そういう私がまた色々な場面で同じことをしているのだと思います。宗教改革者ルターは言いました。「人間は、あらゆることにおいて自分の利益を求める」。これが人間の悲しい姿ではないでしょうか。しかし「ヨハネ3章16節」は「神は、実に、そのひとり子をお与えになったほどに、世を愛された。それは御子を信じる者が、ひとりとして滅びることなく、永遠のいのちを持つためである」(ヨハネ3:16)と語ります。神が愛された「世」というのは、そういう人間が生きている「世」なのです。
 今日の箇所は「イエス様のエルサレム入城」を記します。私達はこの記事から、神の愛と恵みを学ぶことが出来ます。2つのことを申し上げます。
 

1:神が私達を受け入れて下さる恵み

 「過越しの祭り」の時期です。エルサレムに入城されるイエス様の周りには、大勢の人がいました。イエス様がラザロをよみがえらせたベタニヤからイエス様と一緒について来た人々もいたでしょう。その人々は「ラザロのよみがえり」を見て興奮しています。また、ラザロの話を聞いて「そんな凄い人がエルサレムにやって来るのか」、そう言ってエルサレムから迎えに出て来た人々もいたでしょう。こちら側の波とあちら側の波が合流して物凄い騒ぎになったのではないでしょうか。その人々の多くは「過越しの祭り」参加するため、エルサレムに来ていた人々だったと思います。
 人々は、棕櫚の木の枝を取ってイエス様を迎えました。棕櫚の枝で迎えるというのは、王を迎える時にすることです。そして讃美しました。「ホサナ、祝福あれ。主の御名によって来られる方に。イスラエルの王に」(13)。「詩篇118篇」、勝利と喜びを表す言葉です。イエスの時代から150年前、当時ギリシャの支配にあったイスラエルを解放し、しばらくの独立国を打ち立てたユダ・マカバイという人を、人々がエルサレムに迎える時に歌ったものだと言われます。民族意識が高揚する「過越しの祭り」の時、人々は、ラザロをよみがえらせたイエスに興奮して、イエスを、ローマを打ち破り、イスラエルの栄光を取り戻してくれる人物として迎えたのです。
 その中で、イエスはどうされたでしょうか。興奮している群衆に「私はあなた方が考えているような者ではない」と言ってみても、このうねりは止められないでしょう。それでイエスは「ロバの子に乗る」という方法で、ご自分がどういう者であるかを示されたのです。ロバの子に乗ることには、2つの意味がありました。1つは、イエスの入城が「旧約」の預言の成就だということを示しました。「旧約」のゼカリヤは言いました。「シオンの娘よ。大いに喜べ…見よ。あなたの王があなたのところに来られる。この方はろばに乗られる。それも、雌ろばの子の子ろばに」(ゼカリヤ9:9)。ゼカリヤは「やがてやって来る『救い主(王)』は、ロバの子に乗ってエルサレムにやって来る」と預言していたのです。だからイエス様の行動は、「私こそ預言された救い主である」と示すことになりました。しかしもう1つは、イエス様はロバに乗ることによって―(王も、平和なことのためには、馬ではなくロバに乗ったのです)―「私は戦いのためにではなく、平和のために来た」ということを無言のうちに宣言することになったのです。
 では「イエスが平和のために来られた」とは、どういうことでしょうか。「平和」とは、ヘブル語で「神が共におられる」ということです。「あなたに平和があるように」と言うのは「神があなたと共におられるように」という意味です。私達にとっての平和とは、神が共におられるということではないでしょうか。どんなことがあっても、そこに神が共にいて下さるなら、私達はそこで神の平和に支えられる経験をするのです。神から来る希望によって立てるのです。問題は「どうやってその『平和』を持つことが出来るのか」ということです。そこに十字架があるのです。「イザヤ書」にこうあります。「主の御手が短くて救えないのではない。その耳が遠くて、聞こえないのではない。あなたがたの咎が、あなたがたと、あなたがたの神との仕切りとなり、あなたがたの罪が御顔を隠させ、聞いてくださらないようにしたのだ」(イザヤ59:1~2)。申し上げたように、私達は、本来罪の者です。元日銀総裁の「速水優」という方がこう言っておられます。「仕事柄、世界中の国の要職にある人と話をしなければならなかった。でもその時『この人もイエス様の救いを必要としている罪人なのだ』と思う時、臆せずに話をすることが出来た」。どんなに立派に見える人でも、神の目から見たら裁かれるべき罪人なのです。全く善である神様は、汚れた私達と、本来一緒にいることは出来ない、逆に言うと、私達は神様と共にいることは出来ない、その意味で「平和」のない者なのです。しかしイエス様が、私達の罪を引き受けて、十字架で始末して下さったので、私と神の仕切りが取り除かれ、私達は神に近づくことが出来る者になったのです。
 しかしそういうことは、この時の群衆も、そして弟子達も分からなかったのです。群衆は、ラザロのよみがえりの奇跡に興奮してイエス様を迎えているのです。しかし、群衆はこの後どうするのか。イエス様は5日後には十字架に架かられます。その時、恐らく群衆の多くは「イエスを十字架につけろ」と叫ぶのです。イエス様もそのことをご存知でした。しかしイエス様は、ここで「お前達は、もうすぐ私を裏切るのではないか。何を白々しいことを言っているのか。お前達の歓迎なんか、受けることは出来ない」とは言われないのです。群衆の歓迎を喜んで受けられたのです。
 私はここに神の愛の深さを感じます。私達の信仰も、上がったり、下がったり、本来持っている自己中心に振り回される信仰だと思うのです。神様に心から感謝したかと思うと、しばらくすると、神に呟いている、不信仰の言葉を並べている、そういうことはないでしょうか。逆もあります。不信仰の道を歩いている時に、神様の恵みを経験して、神様にお詫びして、神様を見上げ直すこともあります。要するに、この群衆のように極端でなくても、私達も、不安定な信仰生活をしていると思うのです。しかし、その私達の信仰を、イエス様は、神様は、受け入れて下さるのです。不安定な私達の信仰を、神様は喜んで受け止め、受け入れて下さるのです。つまり、何度でも、私達を信頼し、私達に望みを置かれるのです。神様がそんな方だから、私達の信仰生活、神様との恵みの生活は、続いて行くのです。神様は、何と忍耐強い、憐れみ深い、愛情深い方なのか、私達は、この個所からそのことを教えられ、感謝するのです。
 

2:私達が主イエスを王として迎える恵み

 神は私達をいつも迎えて下さる、と申し上げました。2番目に申し上げたいことは、私達もイエス様を迎えたい、王として迎えたい、そこに祝福があるということです。申し上げたように、イエスはロバの子に乗ることによって「私こそ預言された救い主である」と主張されましたが、「福音書」を読むと、人々は、イエスの進まれる前に上着を脱いで道に敷き、棕櫚の枝を切って来て道に敷きました。それは王を迎える時にすることです。また人々は「ホサナ…イスラエルの王に」(13)と叫びました。人々は、イエス様を「王」として迎えたのです。そして、その歓迎を、イエス様は「良し」として受けられたのです。ここまで目立たないように活動して来られたイエス様が、初めて「王」になおろうとしておられるのです。この箇所はそのことを伝え、ここを読む私達にも「イエス様を『王』としてお迎えするように」と語るのです。
「『王』として迎える」とはどういうことでしょうか。「王」というのは現実的な意味での支配者です。だからそれは、実生活から離れた、頭だけの神ということではない、現実の生活の中で見上げるべき存在だということです。昨年11月に来て下さった佐藤彰先生は、原発事故で、雪の中、教会員と大変な流浪の旅をしておられる最中にこう言っておられます。「今の状況は正直に言えば苦しみです。でも聖書に『試練を喜べ』と書いてある。だから、確かに本音の部分では苦しいけど、でも信仰を働かせて喜ぶ方を選びとって行きましょう。主が喜べる状況を与えて下さいます」(佐藤彰)。イエス様を「王」として迎えるとは、色々なことが起こるこの生きる現実の中で「王」なるイエスに信頼し、自分の本音を裏切るようにしてでも「王」なるイエスへの信頼、イエスの言葉への信頼に生きようとすることではないでしょうか。そして、そのようにイエス様に向かった時にこそ、イエス様への信仰が生き方に関わるものになるのです。
繰り返しますが、イエスはここでご自分を「王」として主張されました。「王」とは、その意志によって世界を治める存在です。しかもイエスは「私は『神の平和を実現する王』である」と主張されました。その方は、十字架で死なれたけれども、しかし復活して、今も生きて世を支配しておられるのです。その方が私達に「私があなたの王である」と言われる。この箇所は「そのイエスをあなたの王として迎えなさい」と語る。私達がそのメッセージに応え、この方を「王」として迎える時、私達は「私達にどんなに辛いことがあっても、どんない苦しいことがあっても、『お先真っ暗だ』と思えるようなことがあったとしても、この世を支配し、私の人生を支配しているのは、私ではない、誰か他の人の力でもない、運命でもない、私を愛するが故に十字架を負って下さった『王』であり、その『王』が死から甦り、今も生きて、私に神の平和を実現して下さる」という希望を持つことが出来るのではないでしょうか。さらに言えば、15節は「ゼカリヤ書」とは違い、「恐れるな。シオンの娘…」(15)と始まります。このことは象徴的です。「福音書」を書いたヨハネの生涯にも、初代教会のクリスチャン達にも、恐れがあったのです。私達にとっても、人生の最大の敵は「恐れ」ではないでしょうか。私達は、いつも何かを恐れて生きているのではないないでしょうか。「自分の人生はどうかなってしまうのではないか」というような恐れもあると思うのです。そして、その先には、やがて死を迎えなければならない、という恐れもあります。その意味で、イエス様を「王」としてお迎えするということは、「恐れるな」という声を聞き続けることが出来るということでもあると思います。先が見えない、恐れのある人生だからこそ、「恐れるな」と言って下さるイエス様をお迎えする必要があるのです。いずれにしても、イエス様を「王」としてお迎えするところに、神の恵みを経験する秘訣があるのです。
そして、「恐れるな」という声は、死を越えて聞くことが出来るのです。ここで人々は棕櫚の枝を振ってイエス様の前に立ちました。同じ光景が「ヨハネ黙示録」にあるのです。「見よ。あらゆる国民、部族、民族、国語のうちから、だれにも数えきれぬほどの大ぜいの群衆が、白い衣を着、しゅろの枝を手に持って、御座と小羊との前に立っていた」(黙示録7:9)。人生の苦しみを経た人々が天で喜んでいる様子です。イエス様を「王」とする人生の恵みは、死を越えて続いて行くのです。ある女性がある牧師に電話して来ました。「私は、癌のため、あと3か月の命だと言われました。どうしたらよいのでしょうか」。牧師は答えました。「イエス様を信じて、死に対する解決を得て下さい。私も3度の手術を受けましたが、死に対する恐れを感じたことはありません。あなたもイエス様を信じて下さい」。牧師は、神の救いについて話をしました。間もなく、女性から手紙が届きました。「あの日は、思いがけず、イエス様を信じる祈りをさせて下さり、こころまで救って下さいましたことを感謝しております。あと3か月のいのちと言われた時には、本当にショックでしたが、今はとても冷静というか、平穏というか、もう神様のみこころのままにと思っています。イエス様のおかげで…世の中全部が温かく感じ…素直な自分に気づいておりますて…」。「王」なるイエスは、死においても私達を導いて下さるのです。
 
3:終わりに
 2つのことを申し上げました。「神はこんな私達を迎えて下さる」「イエス様を王としてお迎えするところに恵みがある」、そのことを確認して、新しい1週を歩いて行きましょう。 

聖書箇所:ヨハネ福音書12章1~11節 

 「百万人の福音」8月号に「ベサニー・ハミルトン」という人の証がありました。「ソウル・サーファー」と呼ばれている人です。彼女は、サーフィンの練習中に、サメに襲われ、左腕を食いちぎられ、生死の境をさまよい、一命は取り留めるのですが、本当に大変なところを通りました。それでも、事故から一か月後には、またサーフィンのトレーニングを始め、右腕一本で、全国タイトルを獲得するのです。その彼女が一番辛い時に、彼女を支えた聖書の言葉がありました。彼女はこう言っています。「それはエレミヤ書の『わたしは、おまえたちのために立てている計画をよく知っている。それは災いではなく祝福を与える計画で、バラ色の将来と希望を約束する』(29:11)でした。神様は私を愛し、人生に計画をもっていてくださる。納得がいかないことが起きても、すべては神様の計画の中にあり、悪からでさえ善を生み出してくださるということを信じたのです」(ベサニー・ハミルトン)。「悪からでさえ善を生み出して下さる」、この言葉は素晴らしいと思います。彼女は、何があっても主の愛に信頼する、そのことによって、主を愛するという道を生きて行ったのです。
 今日の聖書箇所の背景になっているのは、「過越の祭り」です。この時から1300~1400年ほど前、イスラエルの人々が、エジプトから脱出することになった時、神様は指導者モーセを通して、イスラエルの人々は皆、子羊を屠って、家の門柱と鴨居に子羊の血を塗っておくように、命じられました。夜になって「死の天使」がやって来て家々の長子を撃った時、「死の天使」は、羊の血が塗ってある家は過ぎこしたのです。羊の血が神の民を死から守ったのです。その混乱の中で、神の民イスラエルはエジプト脱出に成功したという、その出来事を記念して祝うのが「過越の祭り」でした。その「過越の祭り」の時に、イエス様は、全ての人を滅びから守る子羊として十字架に架かろうとしておられました。その6日前です、マリヤがイエス様にナルドの香油を注いだという有名な記事を記すのが今日の聖書箇所です。今朝は、この個所を通して「主を愛する」というテーマで、信仰の学びをします。「内容」と「適用」に分けてお話しします。
 

1:内容~マリヤはその信仰によって主を愛した

イエス様は、ベタニヤでラザロをよみがえらせた後、ベタニヤから少し離れたエフライムという所に身を隠しておられましたが、いよいよ最後の「過越の祭り」を迎えるためにエルサレムに上ろうとされます。「過越の祭り」の時、近郊のベタニヤも巡礼客の宿泊所として用いられました。イエス様もベタニヤに留まられました。イエス様がベタニヤに帰って来られた時、人々は、つい先日、イエス様がラザロをよみがえらせた出来事を鮮明に思い出したことでしょう。人々は、イエス様のために晩餐を開きます。
10~11節に「祭司長たちはラザロも殺そうと相談した。それは、彼のために多くのユダヤ人が去って行き、イエスを信じるようになったからである」(10~11)とあります。イエス様がラザロをよみがえらせたことで、権力者達はイエス様を殺すことを正式に決めました。権力者が一番恐れたのは、民衆が暴動を起こすことです。もし暴動が起きれば、ローマの軍隊が鎮圧に乗り出し、権力者は、与えられている自治権を奪われるかも知れません。ラザロをよみがえらせるという奇跡を行ったイエス様を、人々がメシア(救い主)だと信じるようになっている、民衆が反ローマの指導者としてイエスを担ぎ出すかも知れない。だから本気で殺そうとしていました。それだけでなく、イエスの奇跡の証人であるラザロも殺そうとしていました。イエス様を取り巻く状況というのは、そのように緊迫していました。
しかし、ここに権力者達とは全く違う形でイエスの死に備えをする女性が登場します。マリヤです。イエスと弟子達は、ベタニヤのある家に入られました。マルタ、マリヤ、ラザロの家だったかも知れません。イエスがその家で食事をしておられた時、マリヤが高価なナルドの香油の入った壷を持って来て、その香油をイエス様の足に注ぎかけ、そして髪の毛で拭ったのです。問題は、なぜ彼女がこのようなことをしたのか、ということです。ユダは「なぜ、この香油を三百デナリに売って、貧しい人々に施さなかったのか」(5)と言います。「なんでこんなむだなことをするのか」ということです。ナルドの香油というのは、インドから輸入されていた高価な香油のようです。通常、頭に塗ったり、また死体に塗ったりしたそうですが、それでも、壷に入っているものを全部注ぎかけるようなことはしないのです。300デナリ分の香油です。当時の労働者の1年分の賃金にあたる額の香油です。それを注いでしまったのです。しかもユダヤの女性が何より大切にしていた髪の毛でそれを拭いました。ある説教者は、この場面を表現して「異様なことが起きた」と言っています。なぜ彼女は、こんなことをしたのでしょうか。
ユダには―(ユダだけでなく弟子達には)―彼女のしたことが理解できませんでした。だから彼女を責めました。彼らの言う「この香油なら、高く売れて、貧しい人達に施しができた」、それは確かに正論かも知れません。そういう使い方もあるでしょう。特に「過越の祭り」の時は、貧しい人への施しが奨励されました。またその方が、イエスが教えて来られた「隣人への愛」の教えに適っているかも知れない。しかしイエス様は、弟子達とは違う反応をされます。イエス様は言われました。「そのままにしておきなさい。マリヤはわたしの葬りの日のために、それを取っておこうとしていたのです」(7)。イエス様は何を言っておられるのでしょうか。「メッセージ訳」という英語の聖書はこう訳します。「彼女は、私の葬りの日を予期して、栄誉を与えてくれているのです」(メッセージ7)。イエスは「過越の祭り」の時に死のうとしておられるのです。「女がしたことを『異様な出来事だ』と言った説教者がいた」と申し上げましたが、それ以上に異様なのが、イエス様が死のうとしておられることです。しかし、「出エジプト」の時、「過越し」のために屠られた羊の血がイスラエルの人々を死の使いから救ったように、イエス様は「死の力」から人々を守るために、ご自分が子羊として血を流そうとしておられたのです。イエスの十字架によって、十字架の贖いを信じる者は、死の力がその人のところを過ぎ越すのです。「出エジプト」の子羊の砦に勝る、永遠の砦がここに造られるのです。
しかしイエス様の死の時、一体誰がそのことに感謝したでしょうか。弟子達でさえ、イエス様に香油が注がれたことを「無駄遣いだ」と言ったのです。私は、弟子達が後に「十字架と復活」の証人となった時、自分達はイエス様の死の犠牲に応えることが何も出来なかった、そのことを情けなく思ったと思います。でもマリヤは、イエス様の死に感謝するかのように、あるいは昔から神の特別の働きをする人に香油が注がれた、そのように香油を注いでくれた、弟子達はそのことをどんなに救われた思いで思い出しただろうか、語っただろうか、と思います。いずれにしても、イエス様は、彼女が時宜に適ったことをしてくれたことを喜ばれたのです。「マルコ福音書」には「この人はできるかぎりのことをした」(マルコ14:8)というイエス様の言葉があります。確かに1年分の生活費を一瞬で使い果たしてしまうことは浪費かも知れません。でもイエス様は、彼女のためにも命を捨てようとしておられました。彼女は、それに応えようとするなら、こうせざるを得なかった、これが彼女に出来る精一杯のことだったのです。ある神学者はこう言います。「十字架を前にしてイエスが真に出会ったのは、2人の女性だけだった」。1人は神殿に2レプタを捧げた女性です。そのお金は彼女の生活費の全てでした。生活費の全部を神様に捧げてしまったこの女を見て、イエス様はどれだけ励まされたことでしょう。そしてもう1人が、この「出来る限りのことをしたマリヤ」です。この2人だけは、本当の意味で、十字架に向かうイエス様を励ましたのです。
最初の質問に帰りましょう。彼女はなぜこんなことをしたのか。はっきりとは分かりません。直接的には、彼女は、イエス様が兄弟のラザロをよみがえらせて下さったことが、いくら感謝しても、し尽せないくらい、有り難かったのではないかと思います。もう会えない、もう話すことも出来ないと思っていた大切な兄弟を、イエス様は彼女に返して下さったのです。しかし、それだけではなく、マリヤはいつも熱心にイエス様の話に聞き入っていた人です。その信仰によって、イエス様が死のうとしておられることを、しかも人を愛するために、彼女を愛するために、死のうとしておられることが分った、感じたのではないでしょうか。宗教改革者カルバンは言っています。「彼女は聖霊の息吹に導かれて、キリストへの義務を果たさないわけにはいかなくなった」。彼女も、なんで自分がこんなことをしたのか、はっきり分らなかったかも知れません。しかし、イエス様が自分達を愛するために死のうとしておられる、それを感じた時、聖霊に押し出されるように、そのイエス様の愛に応えようとした、応えざるを得なくなったのではないでしょうか。そして彼女は、持っている香油を全部注ぐという仕方で、精一杯イエス様を愛そうとしたのです。イエス様の愛に応えようとしたのです。それがこの行為だったのです。そしてイエス様は、彼女の思いを知って、その愛を、愛の奉仕を、喜んで受け止められたのです。
 

2:メッセージ~私達の信仰も主を愛する信仰でありたい

この個所は私達に何を語るのでしょうか。こんな話があります。ジョン・ウェスレーという英国の有名な説教者、神学者がいます。彼は、英国国教会に対抗してメソジスト教会を創りました。彼がある日、夢を見ました。彼は天国の門の所にいました。そして門番の天使に尋ねるのです。「天国には英国国教会の信者はいますか」。天使は「いいえ」と答えます。彼は「やっぱり」と思います。「では(私の教派)メソジストの信者はいますか」。天使は答えます。「いいえ」。彼はショックを受けるのです。真っ青になっている彼に、天使は言います。「私は、ここに来た人々が、どこの教派に属していたかなど全く知りません。なぜなら天国では教派を問題としないからです」。ウェスレーは聞きます。「そうすると、ここに入れて頂ける人は、どのような人達なのでしょうか」。天使は言いました。「ただ一つ、主を心から愛している人々です」。この個所が私達にチャレンジすることは「あなたはイエス様を愛していますか」ということです。ある牧師がこう言いました。「信仰生活は、なりふり構っていられないものです。マリヤのように、はたの人の思惑などは、全然問題にしないものであると思います。『信仰はあまり熱狂的にならない方がいい』と分別くさいことを言う人がいます。しかし、信仰はただ神のことだけを考える生活です。それならば、時としては、人の目に愚かしいと思われることもあるに違いありません…信仰とは分別を忘れるほどに、人間としてもまことに愚かだとしか思われないようなこともするのです。それほど激しく燃えるものなのです」。もちろん信仰には、「世的な常識」も必要です。世の常識が通用しない世界であってはいけないと思います。しかしまた「信仰の世界」は、「世の常識」だけでもいけないのだと思います。だいたい「愛」ということであれば、計算では割り切れないでしょう。親が子を愛する愛もそうです。計算尽くではありません。親は、計算を土返ししたこともするのです。逆に、計算尽くのものであれば、それは「愛」とは言わないのではないでしょうか。イエス様は、計算尽くでない愛で私達を愛して下さいました。ヨハネは言いました。「私たちが神を愛したのではなく、神が私たちを愛し、私たちの罪のために、なだめの供え物としての御子を遣わされました。ここに愛があるのです」(1ヨハネ4:10)。パウロは言いました。「十字架のことばは…愚かであ(る)」(1コリント1:18)。イエス様も、私達を愛するために愚かになって下さいました。私達はどのような仕方でイエス様を愛しているでしょうか。私達も、主の愛に感謝する時、主に対する愛を愚かなくらいに注ぎ出すことがあって良いのではないでしょうか。
具体的にどういうことでしょうか。「ヨハネ福音書14章23節」に「だれでもわたしを愛する人は、わたしのことばを守ります」(ヨハネ14:23)とありますから、それは「愚かと思われるくらい御言葉に従う」という形を取るかも知れません。主に仕えようとして、誰かに、何かに仕えて行く(奉仕する)ことかも知れません。色々な仕方があるのでしょう。そして実は、弟子達は「イエス様に愛を注ぐよりも、貧しい人に施せ」と言いましたが、イエス様を愛するということは、隣人を愛することと相反することではないのです。マザー・テレサは、インドのコルカタで貧しい人々を愛し、彼らがせめて人の愛に包まれて死んで行けるようにと奉仕を続けました。でも彼女は言いました。「私は社会福祉のためにやっているのではありません。キリストに仕えようとしているのです」。彼女は、主を愛そうとしたのです。それが彼女にとっては、貧しい人に仕えることだったのです。カナダでお会いしたご高齢の兄弟が良く言っておられた言葉があります。それは「私は神に愛された。その愛された愛で誰かを愛し返す、それが私の信仰です」という言葉です。この方は、仕事の中で追い詰められたような状況に置かれた時に、ある本を通して「一遍キリスト教を試して見なさい」という言葉に出会って教会に導かれたのです。そこから人生が変えられ、色々な恵みを経験されたのです。「愛をもらった」と表現されました。それで「キリストの愛に対して、人を愛することで応えたいのだ、それが私の信仰の在り方なのだ」と、そう言われたのです。言葉を換えると「誰かを愛すことで主を愛そうとされた」ということでしょう。あるいは最初にご紹介したベサニー・ハミルトンは、神の愛を証しすることで、神を愛そうとしました。彼女は言います。「神様は、事故を通し、私に忍耐力と力、そしてサーフィンに対する新たな情熱を与えてくれました。事故直後、1人の救急隊員にかけられた忘れられない言葉があります。彼は意識が薄れていく私の耳元で『神様は、決して君を見放したり、見捨てたりしないよ』とささやいたのです。それは本当でした」。また、こんなことも言います。「私の人生には多くのチャレンジが投げかけられました。でも、立ち止まることなく進み続け、自分で想像した以上の多くのことができました。立ち止まらなかったのは、私が完璧だったからではありません。私の強さ、土台、アイデンティティーは、神様が私に与えて下さった信仰にあります。信仰を働かせ、神の真理に根ざして生きようとする時、人生でどんな大きな波や難しいチャレンジが襲って来ても、共にいて下さる神様が味方となり、乗り越える力を与えて下さるのです。だから私は立ち止まらない。神様によって、立ち止まらないのです。そしてあなたにも、神様は同じことを望んでおられます」。彼女は、証しを通して、私達の信仰を励まします。それが彼女の、主を愛する愛し方なのだと思います。色々な形があって良いでしょう。
いずれにしても、マリヤは、出来ることで精一杯、イエス様を愛しました。私達の信仰生活にも、「主を愛する」という視点が必要ではないでしょうか。それは滅私奉公のようなことではありません。聖書は言います。「神を愛する人々…のためには、神がすべてのことを働かせて益としてくださることを、私たちは知っています」(ローマ8:28)。それは結局、私達の信仰生活が豊かに祝福されることに繋がって行くのです。信仰生活に「主への愛、主を愛する」という要素を育てて行きたいと思います。そのような信仰に生きて行けるように祈り求めて行きたいと思うことです。

聖書箇所:ヨハネ福音書11章45~57節 

 カナダの教会で奉仕をしている時―{ちょうど、私がディプレッション(急性鬱症)で入院して、退院した頃のことです}―カウンセラーをしている兄弟が、証し会でこんな話をしてくれました。「ディプレッションというのは、私達の目から見ればあっては困るもの、そう見えます。しかし神様の目から見たらどうなのでしょうか。全てのことは神様の御手の中にあります。ディプレッションもまた、神様の理由があるのではないでしょうか。楽しみよりも、苦しみの中に神の栄光は現れるのではないでしょうか」。私にとっても、ディプレッションで入院したことは、神を経験させて頂く機会になりました。彼の言ったことに頷いたことです。先日も教会からのレターで「神は悪からでさえ、善を生み出して下さる」というベサニー・ハミルトンさんの言葉をご紹介しましたが、いずれにしても、私達を導いて下さる神様を、自分の頭の中で小さくしてはいけない、神の大きさを信じること、そこに信仰生活への励ましの1つがあるような気がするのです。
 今日の箇所は、ラザロがよみがえった後の記事になります。結論から言うと、「ラザロのよみがえり」が権力者を刺激して、彼らにイエスを殺す計画を公に決断させることになります。この個所は、その様子を伝えますが、それだけではなくて、この個所は「私達は信仰を守るために何に目を向けなければならないか、何が私達の信仰を支え、励ますのか」、そういうことを教えてくれる個所だと思います。2つのことを申し上げます。
 

1:神の救いの原点に帰る

ラザロのよみがえり、死んで4日も経った人がよみがえったという、驚くような出来事を見た多くの人々が恐らく「こんなことが普通に起こるはずがない、神が働かれたに違いない」と思ったのではないでしょうか。45節に「イエスがなさったことを見た多くのユダヤ人が、イエスを信じた」(45)とあります。この時、エルサレムは、イエスに敵対する雰囲気に包まれていました。しかし、そのエルサレムからやって来た人々も、この出来事を見てイエスを認めざるを得なかったし、既にイエスに惹かれていた人々は、確信を与えられたと思います。一方「ラザロのよみがえり」のニュースを受け取ったパリサイ人は、祭司長達の所に行きます。パリサイ人は、ユダヤ議会に議席は持っていましたが、いわば野党でした。権力は、祭司階級であるサドカイ人が持っていて、そのトップに大祭司がいました。彼らは「もしあの人をこのまま放っておくなら、すべての人があの人を信じるようになる。そうなると、ローマ人がやって来て、われわれの土地も国民も奪い取ることになる」(48)と言っています。当時のユダヤ社会は、ローマ帝国の支配下、ローマに許された範囲内で大祭司と議会が権力を振るっていました。ローマは、支配地域に対して比較的寛大な政策を取っていましたが、暴動だけは赦しません。暴動が起これば、軍隊が出て来て騒ぎを鎮圧して、自治の責任者である祭司階級、特に大祭司は、その立場を追われるのです。サドカイ人が何よりも恐れたのが、ローマがやって来て、自分達が権力の座を失うことでした。彼らは、人々がイエスを反ローマ運動の指導者に祭り上げ、暴動でも起こしたら困るのです。これまでサドカイ人は、イエスの動きにほとんど関心を示しませんでしたが、ここに来て、自分達の利害に直接の関りが出て来た時、不安の芽になっているイエスを摘み取ろうとするのです。一方、パリサイ人は、信仰のリーダーとして自分達の教えを国民に徹底させることが出来れば、それで良かったのです。しかし、そのためには、ローマに直接支配されることは困りました。何より自分達の信仰に真っ向から対立するイエスが邪魔でした。サドカイ人とパリサイ人は、与党と野党ですから、普段は仲が良くなかったのです。しかし、ここで「イエスが邪魔だ」ということで利害が一致しました。
大祭司カヤパは「あなたがたは全然何もわかっていない。ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが、あなたがたにとって得策だということも、考えに入れていない」(50)と言います。「国民全体が滅びないほうが」と、国民のことを考えているようなことを言いますが、要は自分にとって都合が悪いということです。彼らは、神の民の指導者として立てられていた人達です。メシア(救い主)を待ち望んでいた人々です。なぜ救い主として来られたイエスを認めることが出来ず、殺すことを決めたのか。ある神学者は言っています。「彼らが聖書を読んでいなかったからだ」。祭司は宗教の専門家です。聖書(旧約聖書)も読んでいたはずです。それでも「聖書を読んでいなかった」とは、どういうことでしょうか。
 彼らは、自分達を救ってくれる救い主が現れるのを待っていました。救い主が現れる時、自分達は救い主をサポートして信仰の務めを果たさなければならないと思っていたのです。そのためには、ここで国が滅ぼされ、ローマに蹂躙されては困るのです。そのためにもイエスは邪魔だった。その視点でしか聖書を受け止めなかったのです。その時、ラザロをよみがえらせ、人々に神の愛を語り、貧しい者に福音を宣べ伝え、痛めつけられている者に慰めを語り、罪人を一緒に食事をする、そういう聖書の語る救い主の香りを放っておられるイエスの中に、救い主の姿を見ることが出来なかったのです。彼らは「それが神の御心に適っていることか、どうか」ということで判断したのではない。「自分にとって都合が良いか、悪いか」、「自分の願う通りか、どうか」、そういう基準で救い主を判断したのです。その結果、信仰のリーダー達が神の子を十字架に架けて行くのです。ここに、彼らの恐ろしい罪があります。神の御心を無視して、結果的に彼らは、神に敵対してしまうのです。
 しかし良く考えると、「自分にとって都合が良いか、悪いか、自分の思う通りか、どうか」ということで物事を見、判断して行くのは、彼らだけのことではないと思います。私達の中にも、何でも自分を中心に置いて、「これは、こうあるべき」「神は、私をこう救うべき、こう助けるべき」、そのような立ち位置で、物事を考えて行く面があるのではないでしょうか。そして、自分に都合が悪いと言っては、ブツブツ言っている時があるのではないでしょうか。彼らと相通じる罪を、私達も持っているのではないでしょうか。もしそうなら、私達は彼らの姿を反面教師にして、祝福の信仰生活に軌道修正する必要があるのではないでしょうか。
 私達にも、自分の願う救いがあります。祝福があります。そして、それを神に押し付けようとします。私もそうです。そしてその時、もっと大切な救いを、あたかもあまり意味のないものであるかのように無視してしまうのです。しかし、神の下さる救いの祝福は、何よりも「罪の赦し(贖い)」による「永遠の命」という祝福です。「ディリー・ブレッド」にこんな記事がありました。「『神は長いこと私のためには何もして下さらない』と感じる時が誰にでもあります。神は他の人のためには色々されているのに、私の人生には超自然的なことがほとんど起こらないと。私達はふてくされて、『神はどこかで働いておられるだろうが、私の人生には働かれない』と思ってしまいます。しかし改めて考えれば、もし神が罪から贖う以外には何もして下さらなかったとしても、私達は身に余るものを受けています。罪の贖いだけでも、残りの人生を神の栄光のためにささげる十分な理由です」。「罪の赦し(贖い)」の祝福を与えること、そのためにこそイエスは来られたことを、私達は再確認する必要があると思います。そして私達は、K姉の召天を通して、「罪の赦し」「永遠の命」の祝福がどんなに大きな、そして決定的な、そして永遠の祝福であるか、そのことを教えてもらったのではないでしょうか。
この個所によって、人間的な面では、イエス様の死刑が公に決まってしまいます。もちろん、その裏には、イエス御自身が進んで死んで行かれたという面があるのですが…。しかしいずれにしても、イエスは死なれるのです。十字架に架かられるのです。何のためでしょうか。繰り返しますが、私達が永遠の滅びから救われるためです。それが、神の救いの一番の祝福です。そして、それを私達にもたらす救い主こそ、旧約の預言書が預言している救い主の姿です。
彼らも、その神の御心に砕かれるところに、真の救いがあったのです。私達の信仰生活も同じだと思います。自分の我を通そうとする頑なさを砕かれて、何より私達の永遠の命の救いのためにイエスが死なれたこと、そのことを確認し、イエスの死によって今既に永遠の命を生きていること、その大きな恵みを受け止め、神の前に遜り、感謝すること、そこに、私達の平安と祝福のカギがあるのではないでしょうか。
その意味で、イエス様が私の罪のために死んで下さったということを、何度でも思い返し、
イエス様の十字架の死を自分のこととして受け止めることが大切です。指導者達が、その信仰生活において、もっとも疎かったのは、罪を認めること、悔い改めることです。神の赦しを願い、受け取る姿勢です。「アルファ・コース」のニッキー・ガンベル先生が次のようなことを言っています。「なぜ、人々は『私には神は要らない』と言うのか。それは、人々が『自分は神がいなくても結構幸せだ』と思っているからだ。しかし、問題は、『幸せか、どうか』ということではなく『赦しを受け取るか、どうか』ということだ。しかし、人間のプライドが『赦される』ということを許さない。『自分は赦される必要はない』と思ってしまう」。もし、私達が自分の罪性を認めなければ、私達は神に赦される必要はありません。「なぜ、私が赦してもらわなければならないのか」ということになります。しかし、最後の晩餐でイエス様がペテロの足を洗おうとした時、ペテロは「洗わないで下さい」と言いましたが、イエス様は「もしわたしがあなたを洗わないなら、あなたはわたしとは何のかかわりもないことになる」(ヨハネ13:8)と言われたのです。ペテロとイエス様の関係、それは、イエス様がペテロの罪を洗って下さるという1点に懸かっていたのです。十字架の前と後の弟子達は、別人のように変えられます。もちろん「主の復活」が彼を変えました。しかし、それだけではない。十字架の前と後の弟子達の違いは何かというと、彼らは「私はいざとなったら、自分の都合のためにイエス様を裏切った」という事実を通して「私はイエス様に足を洗ってもらわなければならない、主の赦しを必要とする者なのだ」ということを握っているかどうか、いや「私はイエス様に赦してもらった者だ」ということを握っているかどうか、そこが彼らを全く変える一番のポイントだと思います。私達が自分を見て「いかに自分の都合でしかものを考えられないか、いかに隣人愛に遠いか」、そういうことを認めた時、主の十字架、神の赦しというものが、途方もなく有り難いものになるのです。有り難いものになるだけではない、パウロが「しかし、わたしたちがまだ罪人であったとき、キリストがわたしたちのために死んで下さったことにより、神はわたしたちに対する愛を示されました」(ローマ5:8)と言った、その神の愛が私達に迫って来るのです。
罪深い私達が罪赦され、永遠の命の祝福を得ることが出来るように、イエス様が死んで下さったこと、そこに救いの祝福の原点があること、それを何度も確認したいと思います。
 

2:神の支配に目を向ける

 カヤパは「ひとりの人が民の代わりに死んで、国民全体が滅びないほうが…得策だ」と言いました。ヨハネは解説して「ところで、このことは彼が自分から言ったのではなくて、その年の大祭司であったので、イエスが国民のために死のうとしておられること、また、ただ国民のためだけでなく、散らされている神の子たちを一つに集めるためにも死のうとしておられることを、預言したのである」(ヨハネ11:51~52)と言います。ヨハネは何を言いたかったのでしょうか。
 まず疑問に思うのは、この話し合いは、祭司とパリサイ人の間で行われたものです。なぜ、その話し合いの内容を、ヨハネが知っているのでしょうか。「使徒行伝」の中に次のような言葉があります。「…エルサレムで弟子の数は非常にふえて行った。そして、多くの祭司たちが次々に信仰に入っていった」(使徒6:7)。「パリサイ派の者で信者になった人々が立ち上がり…」(使徒15:5)。イエス様の十字架と復活の後、祭司の中から、またパリサイ人の中からイエス様を信じる人々が起こされます。彼らは、なぜイエス様を信じたのでしょうか。もちろん、弟子達の命がけの宣教があったでしょう。しかし、いみじくもカヤパを通して語られた「国民全体のためにイエス様が死ぬ」というこの言葉が、彼らが十字架の意味を受け止めて行くのに大きな助けになったのではないでしょうか。だから、彼らがやがて信仰に入って来た時、「実は、カヤパがこんなことを言ったんだ」ということを、ヨハネに教えたのではないでしょうか。ヨハネは、それを聞いて「神は、イエス様を信じる人々を通して働かれるだけではない、イエス様の十字架の恵みに最もふさわしくないような人の口を通しても語られ、イエス様に敵対する人々の中に、やがて信仰に入る人たちを既に用意しておられた」ということを感じたのではないでしょうか。そして彼は「神は、カヤパのように神に敵対して、神の子を滅ぼしてしまおうとする者の口さえも用いることが出来る方である。神の支配の下にない所はない。神は、一切のことを支配しておられる」ということを感じて、この記述を加えたのではないでしょうか。
 パリサイ人、サドカイ人は、自分達の力で歴史の流れを動かせると思いました。歴史の支配者である神を無視して、イエス様を殺せば上手く行くと思いました。しかし、ヨハネが教えてくれることは、人の思いの全てを越えて、歴史を支配しておられるのは神である、ということではないでしょうか。先程も申し上げたように、私達も目の前の状況を見ます。そして、自分に起こって来る状況に一喜一憂して、心揺さぶられ、振り回されます。しかし私達は、私達の見えるところを越えて、神が働かれるということ、私達にとって厳しい、辛い現実でさえも、神の御手の中にあるということ、神の御手の届かないところはないということ、そのことをしっかり自分の中に確認すべきではないでしょうか。そして、その神の支配に信頼して、また神の計画の中で私達それぞれに与えて下さる信仰の歩みを感謝して受け取ることが大切ではないでしょうか。
 もちろん「神がおられるなら、なぜこんなことが…」ということがあります。私達の人生にも起こって来るし、私達の周りにも起こって来ます。少し話が大きくなってしまってどうかと思うのですが、私が神学校で勉強する中で、どうしてもこの疑問に納得出来るものが欲しいと思ったことがありました。それは第二次大戦中のナチによるユダヤ人大量虐殺の事実をどう考えるか、ということです。もちろん、神がなさったわけではありません。人間の悪がやったことです。しかし、歴史を神が支配しておられるということを信じるために、どうしても納得がしたいと思いました。私は神学校の先生に「本当に神が歴史を支配しておられるのなら、どうしてあんなことを許されたのですか」と聞きました。神学校の先生は、誠実に「私にも分かりません。しかし、ヨーロッパには長い長いユダヤ人迫害の歴史があったけれど、あの事件の後、もうユダヤ人を迫害してはいけないのだ、という共通の意識がヨーロッパの人々の心を支配するようになったのです」と言われました。またご承知の通り、あの事件が1948年のユダヤ人国家イスラエルの建国、そして国連がイスラエルを承認して行くという、その後の歴史の伏線になって行きます。私はそれで全てが納得出来た訳ではありませんでしたが、「『神の支配』というところに立って良いのだ」という思いを持ちました。
 神が全てを支配しておられるなら、神は私達をも、私達の生涯をも、その御手の中に包んで、私達に責任を持とうとしておられるはずです。私達には、色々なことがやって来ます。喜べないこともあります。その中で揺さぶられたり、投げやりになったりします。しかし、そんな時こそ、神が私達の全てを支配しておられ、私達の全てに責任を持ち、その御手の中で持ち運ぼうとしておられるということに目を向けて行かなければならないのではないかと思います。そして、その神のご支配の前に謙らなければならないのではないかと思います。私達は、偶然の中に生きている訳ではありません。神が世界を支配しておられ、その中で、私達をご自分の祝福の計画に従って持ち運ぼうとしておられることに信頼して行く者でありたいと思います。
  
3:終わりに
 今日、2つのことを話しました。「神の救いの原点に帰る信仰」、「神の支配に信頼する信仰」、この信仰の視点を持って、新しい週を信仰の歩みをして行きましょう。

聖書箇所:ヨハネ福音書11章28~44節

 7月のK姉のご葬儀で、私は「天国の希望」をお語り出来る幸いを改めて思いました。ご遺族の方々に、参列された方々に、確信をもって「K姉は天国で生きておられますよ」と語ることが出来る、その根拠は何かといえば、イエス様の言葉です。聖書の言葉です。その中でも最も力強く響いて来るのが「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んで生きるのです」(ヨハネ11:25)の言葉です。この言葉を握る時、私達は、死の大きな悲しみの向こうに光を見ることが出来るのです。今「ラザロのよみがえり」の箇所を学んでいますが、今日の箇所は、このイエス様の言葉に、力強い証言を与える、そのような個所になります。
 さて、私達もいつか地上の死を迎えます。誰も避けることは出来ません。でも私達は、死は「天国への入り口」だと信じています。そこから本当の喜びの生が始まるのです。CSルイスは「先に行けば行くほど、喜びが増すような世界」と表現しています。その意味では、地上の生涯というのは、天の生涯への備えの期間だと言えます。この期間の大切なテーマは、少しでもイエス様に似た者に変えられることではないかと思います。申し上げた通り、今日の箇所は「ラザロのよみがえり」を扱う個所ですが、この個所は、私達が倣うべき、学ぶべき、真似ぶべき、イエス様の信仰の姿を教える個所でもあります。そこで今朝はここから、私達が倣いたい、真似びたい、イエス様の信仰の姿勢、3つを学んで行きたいと思います。 
 

1:罪と向き合う

 前回は、ベタニヤの村はずれまでやって来られたイエス様を、マルタが迎え、そのマルタにイエス様が「わたしを信じる者は、死んでも生きる…」(25)と語られたという話でした。マルタは、イエス様との交わりを通して、ラザロのことも何もかも全部、イエス様に任せようという思いになったと思います。彼女は、妹のマリヤを呼びに家に帰ります。イエス様が呼んでおられると聞いて、マリヤは家を出て行きます。この時、この姉妹の家には弔問客が沢山来ていました。当時は、最初の1週間、遺族(特に女性)は、出来るだけ機会を作って墓に泣きに行くのが習慣でした。マリヤが出かけるのを見ると、弔問客は、彼女が墓に泣きに行くのかと思って一緒に泣くためについて行きます。しかしマリヤは、墓には行かず、イエス様のおられる所に来て、イエス様の足下にくずおれて泣き出します。その様子を見て、ついて来た人達もイエス様の前で同じように泣き出しました。ところが、それを見たイエス様は、「霊の憤りを覚えて、心に動揺を感じ(られる)」(33)のです。38節にもイエス様が「心の内に憤りを覚え…」(38)とあります。この「憤りを覚え」という言葉は、「怒り」を表す言葉のようです。ですから、ある人は、ここを「イエスの心は、怒りで震え、悲しみに締め付けられた」と訳します。「悲しみで締め付けられた」の方は分かりますが、「怒りで震え」というのはどういうことでしょうか。
 色々な考え方があるところですが、しかし、ここでイエスは「死」そのものについて怒っておられるのではないでしょうか。なぜなら、イエス様の目の前で泣いているマリヤを完全に打ちのめしているのは、「死」という現実です。ラザロの「死」が、マリヤを打ちのめし、マリヤの心を、また大勢の人の心を支配し、彼らに一切の希望を見ることが出来ないようにしているのです。マリヤも、人々も、心の中で既に「ラザロは手の届かないところに行ってしまった、『死』の支配の下に入ってしまった」と彼を葬り去っているのです。イエス様から「わたしを信じる者は、死んでも生きる…」(25)と言われたマルタも、イエス様が「墓を開けなさい」と言われた時、「主よ、もう臭くなっておりましょう」(39)と言って諦めています。もちろん、「死」を前にして私達は無力です。「死」の力は圧倒的です。死んだ人を前にして、私達は何も出来ません。ですから、人々の心を「死」という現実が支配して、悲しませ、ここでマリヤを悲しみに閉じ込めているのです。
 確かに人は皆、死んで行きます。しかし聖書的に言えば「人は死ぬのが当たりまえ」ではありません。聖書に「ひとりの人によって罪が世界に入り、罪によって死が入り、こうして死が全人類に広がった…」(ローマ5:12)と書いてあります。初めの人アダムに罪を犯させたのは悪の力、サタンの力です。その結果、「死」が入って来たとすれば、「死」はサタンの支配する領域だと言うことができるのではないでしょうか。イエス様が「彼をどこに置きましたか」(34)と言われた時、人々は「来てご覧下さい」(35)と言いました。丁寧な言葉です。しかし内容的には「来て、『死』の現実を見てみろ」ということです。「あなたは神の子であるかも知れないが、どうだ、『死』の前には、人間の希望も何も吹っ飛んでしまうのだ。マリヤは立ち上がることも出来ないし、お前だって何も出来ないだろう」。イエス様は、くずおれて泣いている彼女たちの上で、悪の力が、そのように勝ち誇っているのをご覧になったのではないでしょうか。イエス様の怒りとは、その悪の力に対する怒りではなかったでしょうか。イエス様は、私達をダメにしようとしているものに対して怒っておられるのではないでしょうか。
 何を教えられるでしょうか。「死」が罪の結果として起こって来るということであれば、一番の問題は、「死」をどうこう考えるより前に、まずこの罪の問題を考えることではないでしょうか。私達の中にある、私達を「死」へ導く罪の問題をしっかり見つめ、認め、そして罪の問題の解決を願い、そして「あなたの罪の問題の解決のために、私は十字架についた」と言われるイエス・キリストの十字架による罪の赦しを受け取ることこそ、大切ではないでしょうか。「キリスト教は、『罪、罪…』と言うから暗い」と言われるそうです。しかし私達は、例えば「風邪をひいた」と思うから風邪薬を飲もうとするのです。「風邪なんかひいていない、私は元気だ」と思っている人は、風邪薬なんか必要ともしなし、飲もうともしないのです。私達が自分の中に巣くっている罪を認めなければ、「罪の赦し」を願うこともないし、受け取ろうともしなし、だから何よりも大切な、イエス様から「罪の赦し」を受け取るという関係が成立しないのです。私は、自分の中にある罪を真剣に見つめる必要を教えられます。そして「死」によって私達を悲しみに閉じ込める、私達に勝ち誇る、悪に勝利することが大切です。悪の力に向かって「悪よ、退け、私には、イエス様の十字架の赦しがあるのだ」と言えるようにしたいのです。
 しかし、それだけでなく、イエス様が私達を滅ぼそうとするものに対して怒られた、ということに目を向ける必要も感じます。イエス様は、私達を「死」の支配に閉じ込めようとするもの、私達をくずおれさせようとするものに対して、怒られました。でも、どうでしょうか。肝心の私達の方は、私達の罪に対して、あるいは、私達の罪性に巧妙に働きかけてくる悪の力に対して、どれほどの怒りを持っているでしょうか。世にある限り、いつも罪の誘惑と悪の誘いが色々な形でやって来ます。もちろん、自分の力だけで悪の力に勝とうとしても、それは出来ません。必ず失敗するでしょう。しかし「我らを試みに遭わせず、悪より救い出だしたまえ」(マタイ6:13)という祈りを、心を込めて祈ることは出来ます。悪の力に対して敏感でありたいと思います。
 

2:神の栄光を求める

 イエス様は、ラザロの墓に来られました。ラザロは体を布で巻かれて、墓の中に横たえられていたでしょう。イエス様は「石を取りのけなさい」(39)と言われました。マルタは止めましたが、イエス様は「もし…信じるなら…神の栄光を見る…と言ったではありませんか」(40)と言われて、祈られます。「父よ。わたしの願いを聞いてくださったことを感謝いたします。わたしは、あなたがいつもわたしの願いを聞いてくださることを知っておりました。しかしわたしは、回りにいる群衆のために、この人々が、あなたがわたしをお遣わしになったことを信じるようになるために、こう申したのです」(42)。なぜこの祈りをされたのか。イエス様は、もちろんラザロのよみがえりを願い求めておられるのですが、同時に求められたことは、この奇跡的な出来事によって、人々が、イエス様がこのことをした、と思うことがないように、そうではなくて、神様がイエス様を通してこのことを為さったということが良く分かるように、ということです。つまりイエスは、この祈りを通して神の栄光が現れることを願っておられるのです。
 1646年、イギリスで作られた「ウエストミンスター教理問答」は「人のおもな目的は、神の栄光をあらわし、永遠に神を喜ぶことです」と告白します。「神の栄光を表す」ことと「神を喜ぶ」ことを、人の目的とします。私達は「神を喜ぶ」ことはします。神様がおられること、どんな時にも神様の中に希望を見て行けること、そしてこれまで与えられた恵みを思う時、神を喜び、感謝します。しかし一方で「神の栄光を表す」と言うことについて、どれほどの重きを置いているでしょうか。イエス様は、神の栄光を求められたのです。私達もそうありたいと思うのです。
 第二次大戦中のユダヤ人強制収容所での話です。ビクトル・フランクルという人が、どうしても自殺したいという人達を思いとどまらせるために話をして欲しい、と頼まれて、こんな話をします。「私達の人生は、これからの何日間かの苦しみの後に、この収容所で終わるだろう。それなら、その死までの何日間かの人生に一体何の意味があるのか。どうせ死ぬならそんな何日間かの無意味な苦しみはやめにして、一刻も早く死んだ方がいいと考えている人達があなたがたの中にいることを私は知っている。またそこまではいかないまでも、自暴自棄になり、絶望的になっている人も多いだろ。しかしそれは、あなた達が、死ぬまでの苦しみの人生の中から、何をまだ得ることができるか、というふうに発想しているからいけないのだ。そうではない、視点を転換することが必要なのだ。これからの苦しみの人生から何を期待出来るか、という発想をやめて、人生がこれからのあなた達の生涯に何を期待しているのか、という視点に立つことが肝要なのだ…この視点の転換を出来た人が、死に向かっての苦しみの中にも、なおかつその意味を見つけることが出来る人であり、その苦しみを前向きに背負って生きて行くことの出来る人なのだ」。彼が言う「私達の人生が私達に何を期待しているか」という言葉は、言い換えれば、「神様が私達に何を期待しておられるか」と言うことが出来ると思います。もし私達が「神様は私に何を願っておられるだろうか」ということに本気になって目を向けようとする時、私達も神の栄光を表すような信仰生活に、少しでも踏み出せるのではないでしょうか。それは結果として、私達に生きる意味を与え、使命を与え、生きる張りを与えて行くのです。田原米子という方は、お母さんを亡くし、虚しさに捕らえられて電車に飛び込んだのですが、イエス様に救われ、「生きていることは素晴らしい」と証しするようになった方です。彼女は、朝起きて、両足の義足をつける時に祈りました。「神様、今日、あなたが私に出会わせて下さる方のために、私が生きることが出来るように導いて下さい」。その祈り、信仰によって、彼女自身が生き生きと生きて行かれたようです。彼女は、15年前に召天されました。私達もやがて神の前に立つ時が来ます。「よくやった、良い忠実なしもべだ」(マタイ25:21)。そう言って頂けるような生き方を携えて、神の前に出たいと願うことです。
 

3:神の力を信じる

 イエスは、墓に向かって声をかけられました。「ラザロよ、出て来なさい」(43)。すると、死後4日も経って、ユダヤ人の常識でも生き返る望みが全くなかったラザロが、布に包まれたまま墓から出て来たのです。そこにいた人々は、どんなに驚いたでしょうか。マルタやマリヤは、どれほど嬉しかったでしょうか。しかし、ラザロはこの後、どうなったでしょうか。ベタニヤは、現在、ラザロに因んで「アザリヤ」と呼ばれているそうですが、そこには「ラザロの墓」があるそうです。ラザロは、何十年後でしょうか、また死んだのです。ラザロは、結局は死んだ。ではなぜ、イエス様はこの時、ラザロをよみがえらせるということをなさったのでしょうか。
 確かにラザロは死にました。でも、またラザロが死ぬ時、マリヤやマルタが生きていたら、2度目にラザロを見送った時の気持ちはどうだったでしょうか。恐らく1度目と2度目とでは、彼らの気持ちは大きく違ったと思います。彼らの心の中には「わたしを信じる者は、死んでも生きる…」(25)と言われ、実際にラザロを死の世界から命の世界に移した方がおられたはずです。そして今度は、生き返っても、また死んで行く世界によみがえるのではなく、イエス様の待っておられる永遠の国によみがえるという希望が、彼らの中にあったのではないでしょうか。それだけではない、「わたしを信じる者は、死んでも生きる…」(25)という言葉を後の時代に聞く私達にとって、ラザロのよみがえりは、その言葉の力強いシンボルとなる、そのために起こったのです。だからこそ、私達は「ラザロのよみがえり」を通して、今も「死んでもよみがえる」、「死んでもよみがえらせて下さる」神の力に、思いを向けることが出来るのです。
 「天路歴程」という本があります。イギリス人のジョン・バニヤンという人が書いて、1678年に出版された本です。キリスト教世界では、聖書の次に読まれていると言われます。大筋は、「クリスチャン」という名前の主人公が、魂の救いを求めて家を出て、天の都を目指して旅をする話です。途中、色々な困難に遭い、誘惑に遭い、失敗もしながら旅を続けます。そして彼は、ついに天の都の門に辿り着きますが、その時、天の都に辿り着いた「クリスチャン」を無数の天使が出迎えてこう言います。「ここに、世にいた時に主イエスを愛し、主のためにあらゆるものを捨てた人がいます」。そして天の都に大歓声が上がります。また天の都の門には、次のように書いてありました。「王を喜ばせるために生きた人々は幸いである。彼らはこの門を通って天の都に入ることが出来る」。そして彼は、金のように光り輝く衣を着せられ、頭には冠が授けられるのです。物語は、ここでバニヤンが目を覚まして、それが夢だったということが分かったところで終わるのですが、しかしバニヤンは、この話を通して、天国の希望を、彼の中の現実として語ったのです。苦難の中で、最後までこの希望に生かされて行ったのです。現代の高名な学者は、信仰を持ち、人生を変えられ、やがて重病で入院して、もう助からないということが分かった時、見舞いに来た人に「僕は行く所が分かっているから心配はいらないけど…あなたは大丈夫ですか」と、却って見舞いに来た人のことを心配して尋ねた、というのです。彼も、ラザロ、マルタ、マリヤ、またジョン・バニヤンと同じ希望に最後まで生かされ、天に凱旋して行ったのです。
 ラザロのよみがえりは、「死」を前にしてくずおれるしかない私達に、「死」は終わりではなく、「死」の支配から解き放ち、命へ導くことの出来るお方がおられる、「死から命へ」、それは作り話や、単なる希望ではない、現実のことなのだ、ということを教えるための奇跡なのです。しかし、イエス様は神の子だから、ラザロをよみがえらせることが出来たのでしょうか。そう言っても良いかも知れません。しかしイエス様は、神に祈っておられます。先に申しあげた通り、この奇跡をなさったのは神様です。この奇跡は「答えられた祈り」なのです。そして、イエス様は、神様が必ずこのことをして下さると知っておられたのではなくて、信じ切られたのだと思います。私達は、もちろんイエス様のような確かな信仰を持つことは出来ません、しかし、ラザロのよみがえりという歴史的な事件によって、私達に働く神様の力に希望を持つことが出来るようになりました。「死」を恐れなくて良い、漠然とそのことを信じるのではない、本気でそのことを、神の力を信じて、だからこそ、天の御国に向かって、地上の歩みを進めたいと願うのです。
  

最後に

 イエス様の信仰に倣いたい、今日3つのことを申し上げました。「罪(悪)と向き合う」、「神の栄光を求める」「神の力を信じる」、少しでもイエス様に似た者に変えられることを目指して、天国への備えをしたいと思います。