2022年2月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:マルコ福音書4章21~25節 

 今日はタイトルを「神の国を大らかに生きる」としました。「マルコ福音書」4章は、イエス様が「神の国」について一生懸命に「譬え」を使って語っておられる個所です。前回の「種を蒔く人」の譬えもそうです。「神の国」とは何かというと、2000年前、イエス様が地上に来られたことによって、人が神の恵みに触れることの出来る領域が生まれました。どこに生まれるかというと、それはまず、イエスを信じる人の心に生まれます。「心の中に」と言いましたが、同時にその人を包むように存在すると言っても良いと思います。目には見えません。でも確かに存在する。その領域を「神の国」と呼びます。「神の恵みの支配」の領域と言っても良いでしょう。
「分かり易い譬えはないか」と考えて思いついたのが、「『神の国』とは『冷戦時代の西ベルリン』のようなものだ」ということです。東西冷戦時代、ドイツは東と西に分断され、西ドイツは西側自由主義圏に位置し、東ドイツは東側社会主義圏に位置しました。東ドイツの首都はベルリンでしたが、ベルリンは、西ベルリンと東ベルリンに分けられていて、西ベルリンは、東ドイツにありながら西ドイツ領でした。西ドイツ本国と西ベルリンの間には、直通の列車(高速道)が走っていて、ある時期、東ドイツの人々は、西ベルリンに入れば、そのまま西ドイツ(自由主義圏)に入れたのです―(詳しいことは分かりません)。だから東ドイツ市民が西ベルリンに入るのを阻止するために造られたのがベルリンの壁です。私の中でそのイメージです。東ドイツにありながら、西ベルリンに入れれば、自由世界の保護下に生きることが出来る。この世に在っても、「神の国」に入れば、私達は天国と繋がり、神と繋がり、神の恵みの保護下に入って生きて行ける。そして直通列車が国境を越えて自由主義圏へ入って行ったように、「神の国」に入っていれば、死の壁を越えて永遠の御国へと私達は運ばれて行くのです。(下手な譬えですが、精一杯の譬です)。
イエス様が伝道生涯で語られたことは「『神の国』が来ている。その『神の国』に、皆に入って欲しい」ということです。「あなたが自分をどんな風に思おうが、神はあなたの魂を愛しておられるのだ。あなたも『神の国(神の保護下)』に入り、そしてそこからそのまま『永遠の世界』に入って欲しい」、それが、イエス様が語られたことだと、私は理解しています。
今日の箇所も、その文脈にあります。イエス様は「神の国」についてここでも熱心に語られます。21~25節は、23節の「聞く耳のある者は聞きなさい」(23)という言葉によって2つに分けられます。21~22節は「あかり」の譬えであり、24~25節は「量り」の譬えです。その2つの譬えを「良く聞いて欲しい」ということなのですが、イエス様は、「神の国」の何を、どのように話し、どう聞いて欲しい、と言われるのでしょうか。
 
まず21~22節ですが、「あかり」とは何でしょうか。「新共同訳」は「ともし火」と訳しますし、「リビング・バイブル」は「灯をともしたランプ」と訳しています。小さな水差しのようなものに油が入っていて、芯が浸してあって、芯の頭に火が灯されている、そういう物のことでしょう。その「あかり」を持って来た人が、それを枡の下や、寝台の下には置きません。「燭台の上に置くのではないか」と言われます。「枡の下」というのは、その「あかり」を消す時に、枡を被せたようです。そしてそれを寝台の下にしまったのでしょう。何を話しておられるのでしょうか。
 これは、イエス様の招きの言葉、あるいは―(イエス様は「ヨハネ8:12」で「わたしは世の光である。わたしに従う者は暗闇の中を歩かず、命の光を持つ」(ヨハネ8:12)と言っておられます。イエス様は人生の闇に「光」をもたらすために来られた。その)―イエス様という光を受けて生きる弟子達、そして私達の生き方、信仰生活のことが言われているのではないでしょうか。イエス様は22節で「必ず現われるためであり」(22)、「明らかにされるためです」(22)と言われます。「神の国」は、見えないのです。しかし「種を蒔く人」の譬えでも、イエス様は「御言葉を良く受け入れる良い土地になれば、豊かな実を結ぶことが出来るようになる」と言われました。それは「神の国」、「神の恵みの支配」という現実が来ているからです。その中で「豊かに生きなさい」という励ましを、ここでも続けて語っておられるのです。そしてここでの励ましというのは、「イエス様という光を受けた者、『神の国』を生きる者は、それを隠してはいけない、その光が、その恵みの支配が明らかにされるように生きて行って欲しい」ということではないでしょうか。
尼僧からキリスト教の伝道者になられた「藤井圭子」という先生がおられます。色々な場所でご自身の証しをしながら、信仰の恵みを語っておられます。先生は、ご主人が入院をされた時、「本当に病院に行きたくなかった」と言われるのです。ご主人との関係が良くなかったのでしょう。車に乗ると「行きたくないな」という思いで心が一杯になる。しかし、妻だから行かなければならない。病院に行くと優しい良い妻を演じる。しかし心の中は乱れている。そのどろどろした偽善に苦しまれるのです。解決の道がない。そんな時に教会に導かれるのです。かつて尼僧として修行をされましたが、「『仏教は人間が辿り着いた最高の哲学だ』ということは分かったけど、仏教の中に私の求めていたものはなかった」と言われます。キリスト教の中に一縷の希望を持って救いを求めるのです。そして、家の隣にある教会で行なわれた特別集会に参加した時、絞り出すようにして「私も信じたい。信じて救われたい」と手を上げたのです。牧師が祈ったそうですが、何もなかった。ところが翌日、車に乗って病院に行こうとしたら、「行きたくないな」という気持ちが起こって来ないことに気付くのです。それは先生にとって大きな、大きなことでした。先生は「『解放』というか『救い』というか」、それを経験されるのです。先生は、現実に働かれる神を見出されて、そこからクリスチャン生活が始まるのです。
イエス様の「『神の国』に入って欲しい」というメッセージは、言い換えれば「あなたも闇の中で苦しむのではなくて、光の中で生きて欲しい」というメッセージでもあるのです。藤井先生も、医者として出発したばかりのご長男を亡くされたり、大変なところを通られます。しかし、平安は奪われない。それが「光に照らされて生きる」ということでしょう。先生は、その私達を支える恵みの世界があることを語っておられるのです。
 
さてしかし、イエス様は21節で「あかりを持って来るのは、枡の下や寝台の下に置くためでしょうか」(21)と言っておられます。言い換えれば「あなた方は、あかりを枡の下に入れて消そうとする、ベッドの下に置いて見えないところにしまおうとする」ということです。どういうことでしょうか。今、イエス様の目の前にいる弟子達が、イエス様の光に照らされて生きる生き方、「神の恵みの支配」の中を生かされている現実を、隠そうとしている、ということなのではないでしょうか。弟子達は、イエス様に信頼を置いてついて歩いていました。イエス様の言葉に、為される業に感動もしたでしょう。しかし一方、イエス様と共に生きることに戸惑いもあったのではないでしょうか。例えば、他の宗教家は「安息日を守ってどんな仕事もしてはならない」と言っている。イエス様は、安息日だろうが何だろうが、病に苦しむ人がいると癒される。目立つわけです。目立つだけなら良いのですが、反発を感じる人もいる。それだけでなく、潰しに掛かる人もいるわけです。そうすると弟子達は一方では感動しながら、もう一方では不安になるのです。
私は昔から「人並み」ということを言われて育ちました。「何事も人並みにする―(世間の人と同じようにする)。そうすると波風が立たない」。一般に日本人はそうではないでしょうか。「人がどうするか」、それを見て自分の行動を決めるところがあります。それは、良い面でもあるかも知れません。強制されなくても、皆がコロナ禍に気をつけるというような形で現れています。だから、まだ今の数字で収まっているのだと思います。しかし私達は、信仰についても「人並み」で行こうとするところがあれば、それはイエス様が「気をつけなさい」と言っておられることだと思います。日本ではキリスト者は、圧倒的に少数派です。その中で「人並み」に生きようとすると、信仰は隠れてしまいます。いや―(極端かも知れませんが)―やがてはクリスチャンなのかどうなのか、分からなくなってしまう、そういうことになるのではないでしょうか。
イエス様は言われました。「聞く耳のある者は聞きなさい」(23)、それは「分かる人だけが分かれば良い」ということではありません。「聞いて、分かって欲しい」というイエス様の訴えです。24節に「聞いていることによく注意しなさい。あなたがたは、人に量ってあげるその量りで、自分にも量り与えられ、さらにその上に増し加えられます」(24)とあります。これは後半の御言葉に入るのですが、しかし「リビング・バイブル」はこの言葉を「また、聞いたことは必ず実行しなさい。そうすればするほど、わたしの言ったことがわかるようになります」(LB24)と訳します。イエス様の教え、イエス様の光に照らされて生きる生き方、歩みを隠さないで生きて欲しい、そのような生き方でこそ、信仰生活が祝されるのだ、と言っておられるのではないでしょうか。私達が「信仰を生きよう」とする時、イエス様の御言葉の真実、神の恵みの支配の真実、それが良く分かるように、神様が祝福して下さるのではないでしょうか。
以前もご紹介した「神の恵みの支配」の現実を教えてくれるこんな話があります。この方は、45歳で妻を亡くし、やがて健康を害して、職も亡くし、「もう自分はダメなのではないか」という絶望の中で次のような思いに導かれるのです。「目の前の事態がどうこういう以前に、自分は御言葉によって本当に養われて行かなければ生きられないのだ」。そして「これからは、神の御言葉の約束にしがみついて生きて行こう」、そう思うのです。闇の中で光は見えなくても、まだ解決は与えられていなくても、聖書を通して魂に響く神の声がありました。「立ち返って静かにすれば、あなたがたは救われ、落ち着いて、信頼すれば、あなたがたは力を得る…それゆえ、主は、あなたがたを恵もうと待っておられ、あなたがたを憐れもうと立ち上がられる。主は正義の神であるからだ。幸いなことよ。主を待ち望むすべての者は」(イザヤ30:15,18)。彼は「主は、あなたがたを恵もうと待っておられ、あなたがたを憐れもうと立ち上がられる」という御言葉に信頼して、知り合いの会社に手紙を書くのです。やがて1人のクリスチャン・ビジネスマンの配慮で、彼は職を与えられ、人生を立て直して行くのです。そして「神が私のような者にも心を留めていて下さった…感謝しても、し尽くせない」という恵みを経験されるのです。彼はこう言っておられます。「今、人生の嵐の只中にいる方に申し上げたいことは、神様は生きておられるということです。神様は、善なる方で、善を成されるお方ですから、必ず良き道をあなたのために開いて下さいます。一人ひとりの願いや思いをはるかに勝ることをして下さる方であることを知って頂きたい。自分の力や実力だけで切り開いていかなければならない、というのではなく、信仰者はそこで、天の父への信頼を働かせることが許されています。様々なところを通っても、最終的に、ああ、やはり神は良き道を開いて下さったということが、私達に分かるようにして下さいます」。長く引用しましたが、「神の恵みの支配」は来ています。その中を、疑わず、信仰を隠さず、大らかに生きて行きたいと思うのです。
 
しかし、そのために大切なことを最後にイエス様は語って下さいました。イエス様は、24~25節で「正しい量りを持ちなさい」と言っておられます。「正しい量り」を持てば、「神の恵みの支配」の現実が、ますます与えられる、と言われるのです。例えば、小さな枡という量りを持っていたら、少ししか恵みが入りません。しかし、正しい量りが、大きな枡だったとしたら、もっと多くの恵みが入ります。ある説教者が、この箇所の説教の中で「エレミヤ書」の言葉を引用していました。「主の名を口にすまい、もうその名によって語るまい、と思っても、主の言葉は、わたしの心の中、骨の中に閉じ込められて、火のように燃え上がります。押さえつけておこうとして、わたしは疲れ果てました。わたしの負けです」(エレミヤ20:9)。預言者エレミヤは、もう主の言葉を語るまいと思ったのです。語れば語るほど、皆から憎まれるからです。しかしエレミヤは、神様の言葉が自分の中で燃え上がり、語ることを止めたままでいることは出来なかった、と言うのです。私も、イエス様が言っておられるのも、そういうことではないかと思いました。きっと、その「量り」を持てば、私達は、もっと神様の恵みの支配の現実を明らかに現しながら生きて行けるのだと思います。その「量り」とは何でしょうか。これもある説教者が「それは『悔い改め』だ」と言っていましたが、私も心から同意します。
 自分の拙い経験ですが、私は神の助けが欲しくて教会に行きました。苦しい時、子どもの頃に覚えた御言葉―{「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)}―が甦って来たのです。それで、ずっと離れていた教会に戻ることが出来ました。そこから教会生活が始まりました。しかし、教会で語られることが良く分からないのです。日本語としては分かります。しかし、腹に落ちないのです。自分との距離があるのです。そんな時、私は職場での経験を通して「自分も罪人だった」ということがようやく分かりました。それまでは、人と比べて「人よりはましだ」とか、むしろ「良い人間だ」と思っていました。しかし、罪が分かりました。私は、神様に赦しを願い求めました。そして教会を通して、神の赦しの言葉を聞きました。そこから、神の恵みが自分のこととして分かるようになったのです。
 罪人というのは、人と比べてどうのこうの、という問題ではないし、犯罪を犯した等ということでもないのです。自分も神に赦してもらわなければならないものを持っている、と認めることです。そして悔い改めるとは、神様は、こんな私がなおも神の御手の中で、神の恵みの中で生きて行けるように、イエス様を十字架に架けて下さったのだ、ということを認めることです。そして感謝することです。その感謝が、私達を「神の国」の証人として生かすのではないでしょうか。そして、イエス様の灯りを映し出して生きて行けるようにするのではないでしょうか。そしてそれが私達の中に、神の恵みがさらに入って来るように、するのではないでしょうか。
 「アメイジング・グレイス/驚くばかりの」を作ったジョン・ニュートンは、嵐の中で神に祈り、「あなたを赦す、あなたを憐れむ」という声を聞き、「こんな者を恵んで下さるのですか」と感謝し、悔い改め、信仰に生きました。最晩年にこう言ったそうです。「私の記憶はほとんど薄れてしまった。しかし2つのことだけは覚えている。1つは私がとんでもない罪人であったこと。もう1つは、キリストはとんでもない救い主であったことだ」。人生の最後にこんなことが言える生涯は、素晴らしいのではないでしょうか。「この心と体が朽ち果て、そして限りある命が止むとき、私はベールに包まれ、喜びと安らぎの命を手に入れるのだ」。「アメイジング・グレイス」英語の歌詞の5番です。彼は豊かに与えられました。そして、地上の「神の国」から「天の御国」へと凱旋して行きました。私達も「悔い改め」という「量り」をしっかり持って、「神の国」、「神の恵みの支配」の中を、願わくは、「神の恵みの支配の現実」を映し出しながら、大らかに歩いて行きましょう。イエス様がさらに豊かに、恵みに与らせて下さるに違いありません。

 

聖書箇所:マルコ福音書4章1~20節

 先日、郵便局に行きました。駐車場には、車が10台近く駐車出来ますが、その日は一杯でした。ようやく1台が出て、私は停めることが出来ました。郵便局で用事を済ませて駐車場に帰ってみたら、やっぱり駐車場は一杯でした。それでもまだ入って来る車があります。私が車に乗り込むと、1台の車が私の車に近づいて来ました。明らかに私が出て行くのを待っておられる様子でした。私はその時、「この人のために早く出て上げよう、どうぞ、どうぞ」とは思わなかったのです。そう思う時もありますが、その時は、せっかく苦労して確保した駐車スペースを出て行くのが何か惜しいような、一瞬ですが、少しじらして上げたいような、そんな気持ちがスーッと過ったのです。後になって自分でもビックリというか、ガッカリしました。心根が曲がっていると言うか、どこまで行っても罪人だな、と思わされました。こんな者を、神様は良く愛して下さるな、と改めて感謝したことです。だからこそ、日々、悔い改めが必要だと思いました。そうでないと、罪の積み残しが溜まってしまいます。
さて、聖書の学びに入りましょう。「新改訳」の小さい聖書は、この個所を3つの部分に分けて、それぞれ小見出しを付けています。「1~9節:『種が蒔かれた地面のたとえ』」、「10~12節:『たとえで話す理由』」、「13~20節:『種が蒔かれた地面のたとえの説明』」。その分け方、小見出しに従ってお話しをしたいと思いますが、「1~9節」、「13~20節」が中心になります。
 

1:種が蒔かれた地面の譬えと説明①…薦め

 4種類の土地は「『神の言葉』という種を蒔かれた人の心の状態」を表しているとイエスは言われます。同じ御言葉を聞いても,受け止める心の状態によって結果は違って来るのです。だからそれは「私の心はどんな状態にあるのか」、そのことを吟味するように、という薦めでもあります。
聖書の舞台であるパレスチナでは、土地を耕す前に種を蒔いて、蒔いてから土地を耕したそうです。種は4種類の土地に落ちました。①ある種は「道ばた(畦道)」に落ちました。畦道は踏み固められていますから、種から出た根が土の中に入って行きません。土の方が種を受け付けない。そうしているうちに、悪い者が来て奪って行くのです。それは閉ざされた心の状態を表現しているかも知れません。閉ざされた心には、御言葉は入って行くことが出来ないのです。人の心を閉ざしてしまうものは、何でしょうか。私は、ある時、ある方と信仰について話し合う機会がありました。信仰を持って欲しいと思ってお話したのですが、その方は「必要を感じない」と言われました。もちろん、信仰がなくても生きて行けます。しかし、先週もお話したのですが、「デイリーブレッド」に人種差別の話がありました。「メキシコ系アメリカ人のお母さんと黒人のお父さんの間に生まれた子供に対して、アイスクリーム屋の店員さんが冷たい態度を取った、その家族に声を掛けなかった」という記事でした。
しかしお母さんは、そこで「恨みがましくなりませんように」と祈るのです。私はその記事を読んだ瞬間、全ての人がイエス様によって心砕かれ、教えられ、遜ることを学ばなければ、こういう問題はなくならないと思いました。私達は、人種差別のような問題に直面することはないかも知れませんが、人の底意地の悪さで辛い、嫌な思いをすることがあります。私は、どんなに素晴らしい人でも、人は皆イエス様を必要としていると思います。また「人生には自分の力ではどうにもならないことがある」という経験を、私達は持っているのではないでしょうか。その意味でも神が必要ですし、究極的に、人は誰も死んで行きます。森繁昇さんが「君は死んで行く。用意は出来ているか」という歌を歌っていますが、死に向かう私達は皆、神を必要としない人はいないと思います。しかし、心を閉ざしていたら、せっかくイエス様のことを聞いても、心に入って行かない、消えてしまうのです。
②ある種は「土の薄い岩地―(石だらけで土の少ない所)」に落ちました。薄い土の層でも、根は出ます。しかし深く根を張ることが出来ませんから、日照りが続けばすぐに枯れてしまうのです。「神との関係が、結局表面的なものに過ぎなった」ということでしょうか。
③ある種は「いばらの中」に落ちます。この地方では雑草を根から抜くということをしないそうです。表面の草を刈り取っても土の中には根が残っていますから、すぐに雑草が成長して種の成長を阻みます。「優先順位の間違っている信仰生活」でしょう。あるいは、思い煩いや誘惑の中で「神の言葉によって生きてなんかいられない。現実の生活があるのだ。その方が重大だ」と思う心かも知れない。
しかし、④ある種は「良い地」に落ちます。その人は「みことばを聞いて受け入れ(た)」(20)。その種は育って「30倍、60倍、100倍の実を結(んだ)」というのです。そして、もちろんイエスは、この譬を聞く人達に「『御言葉を聞いて悟る良い地』になるように、そのようにしてこの現実の中で―(天の国に備えて)―豊かな実を結ぶように」と言っておられるのです。では、「良い地」になるためには、何が大切なのでしょうか。
その前に、イエス様はどうして神を説くのに、キリスト教信仰を説くのに、御言葉の種を蒔く人の譬えを語られたのでしょうか。それは聖書に「あなたがたが新しく生まれたのは…朽ちない種からであり、生ける、いつまでも変わることのない、神のことばによるのです」(1ペテロ1:23)とあるように、私達が神を経験するのも、多くの場合、神の言葉によるからです。FEBC放送でアルコール依存症に苦しんだクリスチャンのお証を印象深く聞いたことがあります。この方は、家族も失いました。自分の人生が崩れて行くのが分かりました。「これじゃいけない」と思って助けを求めたのです。そんな時に聖書の言葉を聞くのです。「ペテロは彼にこう言った。『アイネア。イエス・キリストがあなたをいやしてくださるのです。立ち上がりなさい。そして自分で床を整えなさい』。すると彼はただちに立ち上がった」(使徒9:32)。彼は、「この御言葉は自分に語られている」と思いました。そして「癒された」と感じたのです。それから立ち上がって、台所にあった一升瓶を全部割って捨てました。そして本当に癒されるのです。神の言葉には、それを受け入れるなら、心の中でエネルギーを発電するような力があります、神の力で生きて行けるのです。だからイエス様は、神の言葉を受け入れ、御言葉を通して神と繋がり、神を経験する、そのような信仰を望まれたのです。
しかし、ここでイエスが譬えておられる4つの土地―(4つの心の状態)―は、全て神の御言葉に触れました。しかし最初の3つは、正しく受け入れなかったのです。4番目の土地と前の3つの土地との一番の違いは何でしょうか。12節に「『聞くには聞くが悟らず、悔い改めて赦されることのないため』です」(12)とあります。これは旧約の「イザヤ書」からの引用です。神は、民がイザヤの言葉を聞いて、悔い改めてイザヤの言葉を受け入れることを願っておられました。しかし、民が悔い改めないことも知っておられました。だから「お前が私の言葉を語れば語るほど、まるでお前の語る言葉によって、民の心が頑なにされているように見えるぞ、そういう状況に直面するぞ」と言われた言葉でした。しかしイザヤは、「私もそうでした。でもあなたは、そんな私を悔い改めに導いて下さいました。だから私は出て行きます」と言って出て行きました。イエスは「私が人々に語っても、語っても、分かってもらえない、しかし悔い改めて神の赦しを受け取って欲しいのだ、だから『譬え』を使って語るのだ」と言っておられるのだと思います。ポイントは「悔い改めること」です。「悔い改め」はどこから来るのかと言うと、罪の自覚から来るのです。
以前、イラン人で、日本で牧師をしている人の話を聞きました。彼はイランで生まれました。家庭環境が辛かったのです。父親とは0歳の時に死に別れ、母親は、毎日違う男の人を家に連れ込むような状態でした。それで、いたたまれなくなって10歳で家を飛び出しました。そして道路や橋の下で、同じような境遇の子供達とグループを組んで生活しました。喧嘩が強くなければならない。「どうやって相手をやっつけるか、どうやって人より得をするか、どうやって物を盗むか」、そんなことばかりの生活だったそうです。20歳の時に軍隊に取られて、イラン・イラク戦争の前線に出ました。今まで話をしていた隣の人が爆弾でバラバラになる、そんな生活でした。そこで1人のアルメニア人移民のクリスチャンに出会うのです。そのクリスチャンは、軍隊の給食係でした。イラン人の青年は、どうやって人のものを盗むか、そういう生き方でしたが、そのクリスチャンは、給食の配膳を本当に誠実にやるのです。自分の分まで人に分け与えようとするのです。イラン人青年は、彼に聞いたのです。「どうしてあなたは、そんなことが出来るのですか」。クリスチャンは言いました。「僕が良い人間だからではない。僕の中にイエス様が生きているのだ」。青年はキリスト教に興味を持ちました。しかし、散々悪いことをして来ています。イスラム教徒でしたから、「神」という概念はある。しかし「よほど努力をして、色々なことをしなければ、神に近づくことは出来ない、神は自分を受け入れてくれない」と思っていました。ところが聖書を読んで行くと、キリスト教の神は「赦す神」だと書いてあるのです。過去を赦す。罪を赦す。イエス様が十字架で語られた言葉も「赦し」の言葉でした。「父よ。彼らをお赦しください。彼らは、何をしているのか自分でわからないのです」(ルカ23:34)。イエス様の教えは、徹底して「神が赦して下さる」ということでした。彼は、自分の過去を赦されたいと思いました。そして祈るのです。私の過去を赦して下さい。その時、彼の心の中に響く言葉がありました。「しっかりしなさい。あなたの罪は赦された」(マタイ9:2)。その時、彼の中に過去の重荷を赦された喜びがやって来るのです。そして、彼は神との交わりを持って生きるようになるのです。罪を自覚した時に、それを赦されたいと願う時に、神に詫びる時に、それが私達を神に近づけるのです。それが私達の心を「良い地」にするのです。
聖書は「義人はいない。ひとりもいない」(ローマ3:10)と語ります。先日の報告の時、兄弟が「人は罪を犯さずには生きて行けない」と証しして下さいました。重い言葉だと感じながら伺いました。人間には原罪があるからです。しかし、そこが神との接点です。私達に罪があるからイエスが十字架に架かられたのです。だから私達は、十字架を喜べるのです。
いずれにしても、私達が自らの罪を自覚すること、悔い改めること、それが私達の心を耕された「良い地」にするのではないでしょうか。この譬えの勧め、それは、私達が悔い改めること、悔い改め続けることです。それが私達を、豊かな実りを結ぶ「良い地」として、生かすのです。
 

2:種が蒔かれた地面の譬えと説明②…励まし

 この個所は、私達に「悔い改め」を勧めるだけではなく、励ましも与えてくれます。私達が「良い土地」になるなら、祝福にも与ることが出来るということです。
この人は、大事な種を一生懸命に蒔くのですが、しかし4分の3は成長しない、種を蒔いたことは無駄だったと思われるような状況があるわけです。失敗に失敗を重ねるのです。しかし、失敗に失敗を重ねるようなこの農夫の蒔いた種が、しっかり根を下ろせる所も確かにあったのです。そして、その時、その種は、30倍、60倍、そして100倍の実を結んで行くのです。「励まし」というのはここです。イエス様は言われます。「あなた方が私を選んだのではない。私があなた方を選んだ。あなた方が出かけて行って実を結び、その実が残るようにと、また、私の名によって父に願うものは何でも与えられるようにと、私があなた方を任命したのである」(ヨハネ15:16)。私達が信仰生活を整え、「悔い改め」の柔らかい心を持って、神の赦しを感謝しつつ生きて行く時、私達も「実を結ぶ」ことが出来るのです。それは自分の力ではない、神がそうさせて下さるのです。
「実」とは何でしょうか。信仰の結ぶ実には色々な形があるでしょう。イエス様は、私達が「命」を豊かに持つためにおいで下さいました。「ガラテヤ書5章」には「御霊の実」のリストがあります。「愛、喜び、平安、寛容、親切、善意、誠実、柔和、自制」(ガラテヤ5:22~23)。私達も、主に在って、様々な「人生の実」と言えるようなものを結ばせて頂けるのです。あるいは、ある神学者は言いました。「どうぞ祈りの中で幻を見て下さい。大きな神の業を期待して下さい。『神様、どうぞ私は今、こういう状況にありますが、あなたのお役に立ちとうございます。私を祝福して下さい。私の事業を、商売を祝福して下さい。私の健康を与えて下さい。私によい職業を与えて下さい』と…恐れ惑わないで求めなさいと神はおっしゃいます」(小林和夫)。そういう実を実らせて頂けるかも知れません。
しかし、同じように教会に期待されている「実」は、神を信じる「新しい命」を生み出し、共に育って行くことではないでしょうか。そのようにして「御国建設」に貢献して行くことではないでしょうか。ある教派の指導者が言ったそうです。「我々は、伝道しないで会議ばかりして来た。また自分達が恵まれることばかりを考えて来た。そして振り返った時、後について来る人々がいなかった」。教会が生きるということは、「福音を生き、福音を伝える」ということです。伝道はまた、一人びとりの信仰生活の命です。イエス様が復活された朝、女の弟子達に天使は言いました。「さあ、行って、弟子たちとペトロに告げなさい。『あの方は、あなたがたより先にガリラヤへ行かれる。かねて言われたとおり、そこでお目にかかれる』と」(マルコ16:7)。ある先生はこう解説しています。「ガリラヤ―それは弟子達が召された地です。イエス様と共に「神の国」の福音を伝え巡り歩いた地です。『がリラヤに行け』―それは『宣教の原点に、宣教の現場に帰りなさい。そこで君達は復活の主にお会い出来るだろう。宣教の労苦を担い続ける中で主の臨在に触れられるだろう。『神の国』の現実に触れられるだろう』ということです」(小島誠志)。私はカナダで「開拓伝道者セミナー」に何回か出席しました。そこで「教会には寿命がある」と聞きました。北米の教会の平均寿命は60年だそうです。なぜでしょうか。新しい命を生み出さないからです。しかし伝道は難しい。見えないものを伝えるのです。それは霊的な働き(戦い)だからです。人間的な業だけではどうにもならないのです。しかし、どんなに失敗に失敗を重ねるようなことがあっても、種が蒔かれ続ける以上は、その中の幾つかは「良い地」に落ちるのです。いや、神が「良い地」を用意しておられるのです。「涙とともに種を蒔く者は、喜び叫びながら刈り取ろう。種入れをかかえ、泣きながら出て行く者は、束をかかえ、喜び叫びながら帰って来る」(詩篇126:5-6)という御言葉があります。これは、「祈りの種を蒔く人」を譬えた言葉だそうですが、「御言葉の種を蒔く人」にも言えることでしょう。私達は、イエス様の働きに加わって行く中でイエス様に出会うのです。「私には何もできない」と言わないで下さい。伝道は礼拝を抜きにしては成り立ちません。私達が礼拝を厳守し、祈りをもって主にお仕えして行くなら、主が働き出して下さるのです。いずれにしても、私達が本当に神に頼って生きる時、必ず「私達が何に生かされているのか」、それが表に出て来ます。だから、砕かれた思いで神の御言葉を受け止めつつ、「良い土地」になることを目指して、30倍、60倍、100倍と豊かな実を結ばせて頂く、豊かな命を生きる、そのような信仰生活を目指しましょう。私達の思いを越えて、神が働いて下さいます。
 

聖書箇所:マルコ福音書3章31~35節

 千葉の神学校時代、「牧会学」の授業だったと思いますが、先生が突然、「父たちよ。あなたがたも子どもを怒らせてはいけません」(エペソ6:4)、この御言葉を読んで、私に質問をされました。「吉行さん、あなたはこの言葉をどう読みますか」。「どう読みますか」と聞かれても、その頃の私は、その言葉が聖書のどこに書いてあるかさえはっきり知らなかったのです。とにかく前後の文脈を見ようと思って、どこに書いてあったか、と聖書のあちこちを開いているうちに、先生が痺れを切らして、「私は、この言葉は服従することの大切さを教えていると思います」とご自分のお考えを言われました。
今日の聖書個所から「イエス様は(肉の)家族を軽視しておられる―(『それで良い』としておられる)」と受け取る人もいるそうですが、そうではありません。聖書は、家族のこと―(家族の中における在り方)―について色々と教えています。因みに家の子どもは、もうすぐ高校3年になるのですが、親として苦労して育てたという思いがありません。むしろ、何も出来ていないという感じです。子どもが生まれた時、ある方が1枚の紙切れを渡して下さいました。そこには「育てて下さるのは神様です」と書いてありました。第1コリント3章6節に「成長させてくださったのは神です」(1コリント3:6)とあります。「リビングバイブル」は「成長させたのは神であって、私たちではありません」(1コリント3:6)」と訳しています。信仰の成長のことを言っているのですが、自分達のことを思って、子どもの成長もその通りだと思っています。私達は本当に無力な親です。しかし、神様を仰ぐ時、家族の関係も、導かれて行くのではないでしょうか。そんなことも思います。
いずれにしても神様は、私達に、家族を軽視するようには決して教えておられません。では、この個所は、何を教えるのでしょうか。「内容」と「メッセージ」、2つ、申し上げます。
 

1:内容~イエスを主とする

イエス様は、カペナウムのペテロの家で群衆に語っておられました。そこに家族がやって来ます。21節に「イエスの身内の者たちが聞いて、イエスを連れ戻しに出て来た。『気が狂ったのだ。』と言う人たちがいたからである」(21)とあります。今日の個所は「家族のその行動に対してイエス様がどのように応答されたのか」を記します。
31節に「さて、イエスの母と兄弟たちが来て、外に立っていて、人をやり、イエスを呼ばせた」(31)とあります。21節の「イエスの身内」という言葉が、さらに「イエスの母と兄弟達」と詳しく記されています。イエス様の弟達が母マリヤと一緒に、兄イエスを連れ戻そうとやって来たのです。しかし、彼等は家に入らない。人をやってイエスを呼ばせます。なぜ入ろうとしなかったのでしょうか。群集にとってイエス様は「主」であり、イエスも「主」として対応しておられます。弟子達にとってもイエス様は「主」です。私達が神様に用いる「主」という概念とは違うと思いますが、いずれにしてもイエス様は「主」として群集に相対しておられます。一方、家族の者は、イエス様を「我が子、我が兄」としては捉えることが出来ます。しかし「主」として捉えることは出来ない。だから群衆とは違う近づき方をするのです。身内の気安さで裏から近づくようなことをしました。当然イエスが席を立って自分達の所に来る、と思っていたと思います。でもイエス様は、そうされなかったのです。イエス様は「わたしの母とは、わたしの兄弟たちとは、外に立っている人達のことではなく、今、わたしの回りにすわっている人たちである。神のみこころを行なう人がわたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(33~35意訳)と言って応じられるのです。家族に対して冷たい感じがします。しかしイエス様の肉親も、「身内の気安さ」的な感覚でイエス様を捉えてはいけなかった。彼等も、新しい見方でイエス様を受け取り直さなければならなかったのです。イエス様の言葉を介して、イエス様と新しい関係を築かなければならなかったのです。その時に本当の意味でイエス様の家族―(霊の家族、永遠の家族)―になるのです。そして事実、十字架と復活の後、マリヤや弟達が原始教会の中に居て、重要な役割を演じるようになるのです。彼らがイエス様を「肉の家族」としての愛情以上に、「主」として愛するようになった時、彼等は本当の意味でイエス様との深い関係―(永遠の関係)―に入って行ったのです。
 

2:メッセージ~みこころを行うとは?

 内容は申し上げた通りですが、イエスは「イエス様の家族となるのは『みこころを行う人』だ」と言われました。その意味でイエス様を「主」と仰ぐ私達にとっても、この箇所から教えられる大切なメッセージは、「みこころを行う」とはどういうことか、ということです。2つ、申し上げます。
 

1)主イエスの話を聴く

イエス様が「神のみこころを行う人はだれでも、わたしの家族です」と言われると、私達は「はたして私は、神のみこころを行っているだろうか」と心配になるのではないでしょうか。しかしこの個所を読むと、イエス様は「自分の回りにすわっている人たちを見回して…『ご覧なさい。わたしの母、わたしの兄弟たちです』」(34)と言われたのです。そして「神のみこころを行なう人はだれでも…」(35)と続くのです。その「わたしの兄弟、姉妹、また母なのです」(35)と言われた人達は、何をしているかというと、イエス様の話に聞き入っている人達です。他に何か具体的なことをしている訳ではありません。その意味で「神のみこころを行う」ことの基本は、そして最も大切なことは、「イエス様の話を聴くこと」なのです。
「ルカ10章」に有名な「マルタとマリヤ」の話があります。イエス様がマルタとマリヤの家に来られました。姉のマルタは、イエス様をもてなそうとして忙しく立ち働きました。一方のマリヤは、イエス様の足下にすわってイエス様の話に聞き入っていました。マルタは、そのうちマリヤのことが腹立たしくなって、イエス様に文句を言います。「主よ。妹が私だけにおもてなしをさせているのを、何ともお思いにならないのでしょうか。私の手伝いをするように、妹におっしゃってください」(ルカ10:40)。それに対してイエス様は言われます。「どうしても必要なことは…一つだけです。マリヤはその良いほうを選んだのです」(ルカ10:42)。イエス様が何よりも私達に願っておられるのは、私達がイエス様の話を聴くことなのです。その意味で、今、聖書を通してイエス様の話を聞いておられる皆さんは、みこころを行っておられるのです。どうぞ「私はイエス様の家族なのだ」と安心して下さい。
そして願わくは、普段に聖書に聴き、イエス様の話を聴けると良いと思います。そこから始まるのです。そうでなければ…。イエス様に一生懸命仕えようとしたマルタは、結果的にイエス様に文句を言ってしまうことになったのです。私達の人間的な常識で、みこころを生きようとしても、上手く行かないことが多いのではないでしょうか。まずイエス様に聴くこと、それが土台、いや、最も大切なことなのです。
前にもお話したと思いますが、カナダにいる時、親しくして頂いた韓国人の先生が「弟子訓練」という言葉を盛んに使われましたので、私は伺いました。「『弟子訓練』とは、何をすることですか」。その先生は言われました。「御言葉を学ぶことです。御言葉が入ると、その人は変えられます」。ここでイエス様の家族だと言われている人々の中には、もしかしたら、エルサレムに都上りをしていて、イエス様の十字架の時、「十字架につけろ」と叫んだ人がいたかも知れません。その可能性もあるのです。しかし、その人達に対する神様の、イエス様の愛は変わらない。だから、イエス様の言葉が入っていた人達は、御言葉が働いて、またイエス様への信仰に帰って行ったのではないでしょうか。私自身がそうなのです。小学生の時、3年間、教会学校に通いました。しかし、中学生の時に教会から離れ、大学に入った頃は「もう教会に行くことはない。私はキリスト教とは関係のない人間だ」と決めていました。ところが、ある問題の中で、御言葉が甦って来て、私の心の中で働きました。「すべて重荷を負うて苦労している者は、わたしのもとにきなさい。あなたがたを休ませてあげよう」(マタイ11:28)。このみ言葉に導かれて、私は教会に戻って行ったのです。
いずれにしても、「みこころを行う」とは、神の御言葉を聴くこと、それが何よりも大切なことだと思います。
 

2)愛に生きる

「みこころを行う」、2つ目は、愛に生きるということです。「『みこころを行う』とは、イエス様の話を聴くことだ」と申し上げました。しかし、イエス様の話を聴いてそれで終わり、でもないのです。
先日の「デイリーブレッド」にこんな話がありました―(読まれた方もいらっしゃると思いますが…)。アメリカの話です。メキシコ系アメリカ人の女性が、子どもを連れてアイスクリーム屋さんに入りました。すると店員は、子どもに差別的な言葉を投げかけました。彼女は、子どもを抱き寄せると、後から入って来たご主人の方を見ました。ご主人は黒人でした。注文をすると、店員はしかめ面で返事もしませんでした。彼女は、このような差別を受け続けて来たのです。しかし彼女は、恨み心を悔い改め、「赦す心を下さい」と祈るのです。私は、この話を聴いた時、人間の心の中にある罪を痛烈に思いました。そして、皆がイエス様に教えられ、イエス様に導かれるようにならなければ、世界に本当の和解も、平和も来ないと、強く思いました。アメリカは、キリスト教国だと言われます。人口の10%の人が、毎週、教会に通っているのです。この店員の人がクリスチャンだったのかどうか、分かりません。しかし、ここで教えられるのは、差別を受けた女性が、イエス様の言葉に従い、「赦す心を下さい」と祈ったということです。そこに、社会が変えられて行く秘訣を感じます。
話が少し逸れましたが、私達は、イエス様の話を聴いて、そして出来るならば、神様の、イエス様の助けを頂いて、イエス様の愛に生きること、それが必要ではないでしょうか。返事もしない人ではなくて、祈る人になること、それが必要ではないでしょうか。その時、私達がイエス様に聴いたということが、本当に生きて来るのではないでしょうか。
「昨年、『鬱』になった」という話を何度かしましたが、私は「鬱」を通して神様から1つの語りかけを頂きました。それは「自分のためだけに生きることを止めなさい」という語りかけでした。「それが人生を張りをもって生きる秘訣だ」ということでした。聖路加病院の院長でいらした日野原重明さんと星野富弘さんとの対談の本を、改めて読み直しました。気づいたことがありました。ある個所で、お2人が同じようなことを言っておられるのです。日野原先生は、赤軍派の「よど号ハイジャック事件」に遭遇しておられます。命の危険があったのです。その経験に触れて、こう言っておられます。抜粋します。「私のいのちは与えられたものなのだとつくづく感じました…その経験が、私の生き方を変えたのです。今までの自分は、有名な医者になり、いろいろな仕事をやることが目標だったけれど、こうして助けられたんだから、これからは自分中心でない、もっと外に向いた、人のためになるような生き方に転換をしたいと強く思うようになりました」。星野さんは次のように言っておられます。「いろいろと経験してきて、自分のためにだけ生きようとした時は、これはほんとうの意味で自分のいのちを生かしているのではないなと思いました。いくら自分で欲しいものを手に入れ、うまいものを食べても、それはそこで終わってしまうんですね。いちばん喜びを感じるのは、人のために、他者のために何かできた時や、自分のやっていることが他の人に喜んでいただけた時なんです。何か人の役に立てた時、いのちがいちばん躍動していると思うと同時に、自分自身の中にも感謝の気持ちが出てきます。いのちというのは、自分だけのものじゃなくて、だれかのために使えてこそ、ほんとうのいのちではないかと思いました」。私は、遅ればせながら分からせてもらったことに、お2人から「それで良し」という確認を頂いたような気がしました。
イエス様の話を聴いて、聖書の言葉に聴いて、家族に、隣人に、誰かに対する愛に生きる、その時、私達は、本当の生きる満足というものを得ることが出来るのではないでしょうか。そしてその時、
私達は、「イエス様に聴く」からもう一歩踏み込んだ「みこころを行う人」になることが出来るのではないでしょうか。
 

3:最後に

初めに、イエス様を見上げるところで、家族の関係も導かれるのではないか、と申し上げました。1つの話をして終わります。戦後すぐの話です。
この女性は、お母さんが亡くなって、お父さんが再婚するのですが、新しいお母さんに心を赦すことが出来なかったのです。お父さんの愛を独占したかったのです。それが反発となって現れ、事あるごとにお父さんとぶつかり、ある日、新しいお母さんの前でお父さんから強く叱られたことで爆発するのです。「お父さんは忘れたの、お母さんに後妻はもらわないって約束したじゃないの。お母さんは呪っているわ。私も呪ってやる。お母さんといっしょに…」。知っている限りの呪いの言葉を両親にあびせかけました。お父さんは言いました。「出て行け。娘でもない、親でもない。どこへでも行ってしまえ」。
彼女は、トランク1つをもって出て行くのです。それから仕事を転々とします。しかし、上手く行かないし、満たされません。さらに、自分が結核に罹っていることも分かりました。彼女は行く所がなくなり、修道院に入るのです。しかし、そこにも安住の地を見つけることは出来ませんでした。しかし、東京の米軍の病院で働き始めた時、1人の米兵と友人になり、その米兵の帰国直前、彼に引っ張られて教会に行きます。しかし、自分はここに相応しくない、と拒否的な態度を取りました。その
彼女を見て、友人の米兵は、彼女のために涙を流して祈ってくれたのです。「肉親はあなたを捨てたかもしれない。しかしイエスはあなたのために死んで下さったのですよ」。彼女は、いつの間にか道に跪いて罪の赦しを求めていました。その時、心に響く声がありました。「この我が子、死にてまた生き、失せてまた得られたり」(ルカ15:24)。魂の故郷に帰った彼女は、神の御手の内に初めて安らぐことが出来たのです。しかし神は語られました。「汝の父母を敬え」(出エジプト20:15)。「汝の呪う時、汝も呪わるべし」(詩篇109:17)。彼女は、苦しい葛藤の時を過ごしますが、ついに言いました。「帰りましょう。主が私にして下さった大きな御業を父に見て頂きます」。そして、故郷に帰って行くのです。両親は、涙を流して喜んで、彼女を迎えてくれるのです。
 イエス様の家族になる、そして聴いたことを行う、それは、私達の人間関係にも祝福をもたらすのです。「みこころを行う」、それは祝福の方法ではないでしょうか。

 

聖書箇所:マルコ福音書3章20~30節

しばらく前の「百万人の福音」は、悪魔(サタン)を特集していました。面白い悪魔の格言もありました。「いつまでもあると思えよ。この世と命」。悪魔が私達にそう思わせて、天国に備えることを怠らせようとするのです。私と悪魔、悪霊との出会いは、千葉の神学校で学んでいる時のことでした。宣教学の授業の中で悪霊の話になりました。その頃の私には、悪霊は遠い存在でしたし、一部の特別の人が語っていることだと思っていました。ところが、「博士号(ドクター)」を持つ先生が、「悪霊の働きはあるよ。悪霊の働きで色々なことが起こっているよ」とさらりと言われました。その先生の言葉で、私には悪霊の存在が現実的なものになりました。悪霊というと、何か空想の世界のような、現実味のないものに感じられるかも知れませんが、そうではありません。悪霊は人間が創造される遙か以前に堕落した天使です。サタンと言う大天使に従って一緒に堕落した天使達が悪霊です。サタンの働き、悪霊の働きは、今も現実です。私は(いわゆる)自然悪というものを考える時、そこにサタンの働き、悪霊の働きを思います。悪霊は、人々の心を必死になって神から引き離そうとします。「神がいるならどうして…」と思わせようとします。しかし神様の働きは、それを遙かに越えものであることを覚えたいと思います。「創世記50章20節」に「あなたがたは、私に悪を計りましたが、神はそれを、良いことのための計らいとなさいました」(創世記50:20)とあります。悪霊は、人に働きかけて悪をさせるかも知れません。しかし神は、それさえも良いことの計らいとして下さるのです。それが私達の希望です。
今日の箇所は、サタン、悪霊について教える個所です。「内容」と「適用」と、2つに分けてお話しします。
 

1:内容~サタンを縛り上げる主

20節に「イエスが家に戻られると」(20)とあります。この家は、おそらくイエス様の伝道の拠点、カペナウムにあったシモン・ペテロの家です。イエス様はそこでペテロの姑を癒されました。それ以来、ペテロの家族は、家庭をイエス様に開放して、イエス様はここを新しい家と定めておられたようです。そこに群集が詰め掛けて来て、イエス様も、イエス様の助け手として活動するようになった弟子達も、食事をする暇もないほど忙しい思いをしていました。そこに2つのグループの人々がやって来ます。「イエス様の身内の者たち(家族と親類)」、そして「エルサレムから下って来た律法学者たち」です。この2つのグループは、2つとも、イエス様に対する見方、接し方を間違うのです。
「身内の者たち」は、イエス様を連れ戻しにやって来るのです。なぜなら、イエス様について「気が狂ったのだ」という噂をする者達がいて、その噂がナザレの家族の許にも聞こえて来たのでしょう。彼らには、非常な事態から普通の生活を取り戻させてやりたいという、彼らなりの愛情があったかも知れません。しかしそれだけではなく、「新共同訳」は「取り押さえに来た」(21)と訳していますから、親類一同の評判に関わる、飛び上がったことをしてもらって迷惑している、そんな思いもあったかも知れません。いずれにしても、イエス様を自分達の手の中に置いておこうとしたのです。イエス様をそのような存在として考えたのです。ナザレで30年間の生活されていた時はともかく、イエス様は伝道に立たれて以来、神の子、神の救い主として、神の業を行い、人々を神との交わりに引き入れる、そのために十字架に向かいながら、働きをしておられたのです。家族の理解しているイエス様を遥かに超える大きな方として存在しておられたのです。彼らは、そのことが分かっていなかったのです。
私はここから教えられるのです。私達もイエス様を、小さく、小さく、考えてしまう面があるのではないでしょうか。そのことについて、さらに教えてくれるのが、2つ目のグループ、律法学者達のイエス様への理解と、それに対するイエス様の応答です。
律法学者達は、身内の者達とは違い、明らかな敵意をもってイエス様を攻撃して来ました。エルサレムの最高議会(サンヘドリン)は、ガリラヤで評判になっているイエスを探らせるために律法学者を派遣していました。彼らの務めは、「イエスの活動が容認できるかどうか」を見極めることです。しかし事の重大さを見てでしょうか、イエスへの攻撃を始めるのです。イエス様は、悪霊に憑かれた者から悪霊を追い出しておられました。当時、「悪霊払い」は広く行なわれていました。干した木の根や、動物の肝臓や、色々なものを用いてやっていたらしいです。しかしイエス様の場合は、権威を持って、間違いなく悪霊を追い出して行かれました。それに人々は驚き、歓迎していました。律法学者にしてみれば、安息日を守らないような者に人気が集まっては困るのです。そこで彼らが言い出したのが22節「彼は、ベルゼブル(悪霊)に取りつかれている…悪霊どものかしらによって、悪霊どもを追い出しているのだ」(22)ということでした。彼らは、信仰について良く知っているはずの専門家でした。彼らにすれば、その専門家である自分達に理解出来ないようなことをする者、しかも自分達の側に立っていない者、そういう者は「悪魔の虜になった者」に違いなかったのです。
それに対してイエスは応答されます。もし悪霊の力で悪霊を追い出しているとすれば、悪霊の世界に分裂があることになります。それでイエスは言われます。「内輪もめをしていれば、その組織は立ち行かない。サタンだって身内が乱れていては困るだろう。だからサタンの内輪もめではない」。イエス様がおっしゃるように、どんな国でも社会でも、内輪もめをしていたら立ち行きません。内戦をしている国の状況は悲惨です。いずれにしても、内輪で争っていては、どんな組織も社会も立ち行きません。だからイエスは「あなた達がいうように、サタンの力によって悪霊を追い出しているのではない」、そうではなくて「27節」「強い人の家に押し入って家財を略奪するには、まずその強い人を縛り上げなければなりません」(27)と言われるのです。何を言っておられるかというと「そうではなく、人々の心に巣くっている強い力(悪の力)を縛り上げ、心の家からその悪の力を追い払ってしまう真の支配者が来たのだ。私が人々の心の家から悪霊を追い出しているのは、そういうことなのだ」と言われたのです。「私こそ人の心に真実の平和の支配をもたらす者なのだ」と言われたのです。
私は、昨年の3月~6月頃、鬱状態でした。息苦しく、落ち着きがなく、食欲もないのです。お医者さんに行って分かったことですが、ある一定以上のストレスが精神にかかると、セロトニンという私達の気持ちを安定させ、幸いを感じさせるホルモンがストレスに負けてしまうようです。私は、気に病むことがあって、それがストレスになってしまったようです。そういう身体の中の変化もあったのですが、信仰的には、イエス様がサタンより強い、ということを信じられなくなっていたのが一番の原因でした。普通ではない精神状態の中で、サタンの働きが迫って来るように感じられたのです。しかしそんな時、聖書は「イエスは、サタンの働き、悪霊の働きよりも強い」ということを語ってくれました。
振り返って見れば、私達が神を信じる前、私達の心の中にも、神を信じさせないもの、「神なんかいない、いても自分には関係ない」という思いがあったのではないでしょうか。私は、小学生の時、教会学校に通っていたのに、大学生になった頃、「自分はキリスト教とは関係のない人間なのだ」と思ったことを覚えています。そんな心の中に神が入って来て下さり、神に逆らうものを縛って放り出して下さったのです。皆様も、神様が、色々な形で、皆様の心にあった神に背を向けるもの、神を否定するもの、そのようなものを縛って、ご自分の許へ引き寄せて、ご自分のものとして下さったのではないでしょうか。自分の力で、神様を信じることができる人はいないのです。イエス様が、私達の心に入って来て下さったのです。私は先日、虫垂炎で入院しましたが、その時、本当に祈られてある幸い、神の御手の中にある幸いを思いました。痛かったのですが、本当に平安でした。そして術後、どんどん癒されて行くのに驚きました。
私事を申し上げ恐縮でしたが、イエス様によって私も、神の祝福の中に置いて頂きました。皆様もそうでしょう。サタンは、私達の祝福が悔しいので、私達を何かと苦しめ、がっかりさせ、希望を失わせ、神から引き離そうとします。私自身はその中で怯えてしまいましたが、イエス様はサタンよりも強い、この個所はそのことをはっきりと教えます。イエス様はサタンより強い。またイエス様は、身内の者達が考えたように、私達の理解の中に納まるような小さい方でもないのです。私達はイエス様の捉え方を間違えないようにしたいと思います。イエス様は、サタンさえ、悪霊さえ、縛り上げて仕舞われる方だということ、そのことを心に刻みたいと思います。
 

2:適用~主を真に覚える

この個所が私達にチャレンジすることが2つあります。
 

1)罪の赦しを本気で信じる

1つは、罪の赦しを本気で信じることです。28節「まことに、あなたがたに告げます。人はその犯すどんな罪も赦していただけます。また、神をけがすことを言っても、それはみな赦していただけます」(28)。イエス様は、ご自分の御力によってサタンを縛り上げるだけではないのです。サタンは「中傷する者」です。神の前で私達の罪をあげつらうのです。そして私達は、過去に色々なことを犯して今がありますから、無罪の主張が出来ないのです。(因みに、自らの罪を認めなかったのが律法学者達です)。私達が心を柔らかくして、素直に見つめれば、自分の歩いて来た道に罪を認めないわけにはいかないはずです。古島和徳という方の証を思います。それは酷い環境の中で育たれました。こんな厳しい人生があるのかと思うような人生、その中で一生懸命生きて来られました。しかし、その方が言われるのです。「(ある日)神が静かに語りかけて下さった。『あなたは父親の心の悲しみを理解しようとしたことがあるのか…その悲しみ、苦しみを考えたことがあるのか…死んだ姉にもなぜ優しくしなかったのか…』」。そんなに苦労して、頑張った人でも、自分の歩みを振り返る時、自分の中に罪を認めざるを得なかった、という証しに触れる時、私達は皆、過去に傷がある、ということを教えられるのです。
サタンは、私達に、私達の罪を思い出させ、「お前はこんなことをして来たではないか」と言って来るのです。「百万人の福音」にサタンのこんな格言がありました。「自らを赦さず、ずっと責め続け、赦しの恵みの、持ち腐れかな」。そして私達は、サタンの計略にはまってしまうのです。
しかしイエス様は、私達に攻撃を仕掛けて来るサタンを縛り上げて下さるだけではありません。「『私達の罪』となって」、その罪を十字架で処分して下さったのです。だからこそ「人はその犯すどんな罪も赦していただけます」(28)と言って下さるのです。それを本気で信じることです。その時、福音が本当に力を発揮するのです。私達を新しく生かすのです。三浦綾子さんが次の勧めをしています。「自分自身に愛想のつきた人でも、そのままでいい。罪深いままでいい。聖書にあるとおり、キリストは我々罪人を救うためにこの世に来られたのだ。ああ、私が悪かった、おゆるしくださいと言う人を、神は喜んで迎えようとしておられるのだ。だまされたと思って、あなたもイエス・キリストの神を信じてください。全く別の人生があなたの行く手に待っていることを、わたしは断言してはばからないのです」。神の赦しを本気で信じて、福音の力に生かされたいと思います。
 

2)主の深い御心を信じる

もう1つのチャレンジは、29節です。「しかし、聖霊をけがす者はだれでも、永遠に赦されず、とこしえの罪に定められます」(29)。律法学者達は、イエス様において働く聖霊の働き、神の恵みの働きを、無視しました。無視したどころか、それを「サタンの働きだ」と言って冒涜しました。ある神学者が言いました。「聖霊を汚すこの言葉も祈りになり得る」。聖霊は、イエス様において働き、私達に罪を教え、私達を悔い改めに導き、神の御手の中に導いて下さるのです。先の言葉は、聖霊の働きをバカにする、その言葉も「祈り」になって神の耳に届くということです。そのような祈りをしているなら、その通りになる。だから、神の恵みの働きが、その人にとっての恵みになることはないのです。救われないように祈っているのですから、救われようがないのです。聖霊の働きを受け取れない状況を、自分で作っているのです。それが「赦されない」ということです。
私はこの言葉から「私達も聖霊の働きを受け取りそこなうことがないように」、というチャレンジを受けます。聖霊は、私達にも色々な形で働いて下さいます。私達は、聖霊の働きをバカにしたり、聖霊を汚すようなことはないでしょう。しかし、神の深い御旨を考えずに、聖霊の働きを汚すことはあるのではないでしょうか。
「昨年の一時期、鬱状態だった」と申し上げましたが、牧師をしていながら、神が恵み深い方であるということを見失い、随分と神様に文句を言い続けたのです。本当に恥ずかしいことです。しかし、教えられる証しに出会いました。この方は大阪で会社を経営しておられたクリスチャンの方です。裁判で、色々辛い思いをしている時に、阪神大震災が起こりました。その中で5歳の息子さんを亡くされるのです。「祈ったのですが、だめでした」という言葉がありました。どんなにお辛かっただろうかと思うのです。私だったら「神様、なぜですか、なぜ子供を取られたのですか」と食って掛かると思うのです。その方も「『何でこんなことが…』と思った」と言っておられます。しかしこの方は、後になって、信仰によって導かれて来たご生涯を思い、そこから感謝を紡ぎ出し、こんなことを言っておられるのです。「信仰を持つということは、どんな状況でも、自分には思わしくない状況に思える時にも、必ず背後で神様が事を行って下さっている、と考えられることでしょう。それが何でも、今の自分にとって最善のことを神様はして下さっている、と思えることが信仰でしょうし、今までを振り返ってみて、確かにそうだったと思えることは感謝なことです」(宮原寿夫)。私は、本当に励まされました。私達の信仰は、どんな時にも、神は私に最善をして下さっていると信じる信仰であり、それがまた、聖霊の良き働きを受け取ることのできる信仰なのだと思います。
 

終わりに

 今日、2つのことを申し上げました。サタン、悪霊の働きは現実です。私達は、悪霊に勝つことはできません。しかしイエス様は、サタンより、悪霊より強い方です。であるからこそ、主に祈ることが大切です。羊が羊飼いによって安心して暮らして行けるように、私達も主によって、悪霊の働きがあっても、安心して暮らせるのです。そのためにイエス様は「我らをこころみにあわせず、悪より救い出したまえ」(マタイ6:13)という祈りを教えて下さいました。祈りの中で、私達の魂は十字架に導かれて行くのではないでしょうか。そこに私達の立つところがあるのです。祈りつつ、祈りつつ、恵みの中を歩いて行きたいと願います。