2022年12月 佐土原教会礼拝説教

HOME | 2022 | 202212

聖書箇所:ルカ福音書2章8~20節 

 クリスマス、おめでとうございます。ご一緒にクリスマスをお祝い出来ることを神様に感謝致します。
 激しい戦いが繰り広げられていた第一次大戦中のことです。(先週も「クリスマス休戦」の話をしましたが、YouTubeで少し違うバージョンを見つけましたのでご紹介します)。寒いクリスマスの夜、長い戦いに疲れ果てた兵士達は、塹壕の中で、銃を置いて温もりのあるクリスマスの思い出に耽っていました。すると一人の兵隊が歌い始めました。「きよしこの夜、星はひかり、救いの御子は…」。いつしかそれは、夜空をゆるがす大合唱となりました。男達は、涙を流して大声で歌いました。繰り返し、繰り返し歌いました。その時です。はるか闇の中から、もう1つの歌声が聞こえてきました。敵の塹壕から、こちらの塹壕の讃美歌に応えて、もう1つのクリスマスの歌がわき上がったのでした。そしてその夜、銃声が止み、大砲には夜露が降りました。翌朝、兵士達は、おずおずと塹壕を出て行きました。1人、2人…やがて大勢の兵士になり、皆が塹壕から出て行って、敵である相手に近づき、互いに握手を交わし、食べ物を交換し、家族の写真を見せ合い、サッカーに興じることまでしました。こうして誰も予想することが出来なかった感動的なクリスマス休戦が、筋書きなしで実現したのです。その時、一発の砲弾が着弾して、兵士達は慌てて自分達の塹壕に帰りました。しかしドイツ兵の手には、イギリス兵からもらったチョコレートがしっかり握られていました。そのチョコレートが大写しになりました。実は、それはチョコレート会社のCM用ビデオだったのです。しかし、感動的なものでした。実際、そういうことがあったのでしょう。
 この話は、何を教えるでしょうか。カナダの教会を助けて下さった韓国人の先生は、何度も戦場を経験された方ですが、一度しみじみと言われました。「どんなことがあっても、戦争はするもんじゃない」。彼らはそんな中にいたのでしょう。混乱があったでしょう。恐怖があったでしょう。憎しみがあったでしょう。しかし彼らの心に、2000年前、家畜小屋で生まれたイエス様が宿った時、恐怖が平和に変わったのです。憎しみが溶かされたのです。そして思いもかけないことが起こったのです。戦場は、恐怖と混乱の世界でしょう。(今年、ウクライナ戦争を通して、私達もその酷さの一端を知らされました)。しかし恐怖と混乱の世界に生きているのは、戦場の兵士だけではありません。「恐怖と混乱」という言葉は相応しくないかも知れませんが、平和な世界に生きている私達も、皆それぞれに、健康のこと、家族のこと、生活のこと、仕事のこと、将来のこと、色々な不安や恐れを抱えて生きているのではないでしょうか。皆さんは今年、どのようなところを通ってここまで来られたでしょうか。私達も、様々な問題を抱えます。でも聖書は、その私達にグッドニュースを語るのです。
今「ルカ2章8~20節」をお読み頂きました。イエスは、紀元前6~7年頃―(一般に紀元元年と言われますが、少しズレがあるようです)―イスラエルのベツレヘムでお生まれになりました。その時、その地方で羊の番をしながら野宿していた羊飼いのところに、天使が現れます。羊飼いは恐れます。羊飼いというのは、野宿を続け、体には獣の臭いがこびり付いています。当時、社会の底辺の人々だ、と言われました。また宗教の決まりを―(例えば「この日は出歩くな」という安息日の決りを)―守ることが出来ません。「『羊飼いはならず者だ』と思われていた」という人もいます。それで人々からは「あの連中は神から遠い連中だ」と言われ、自分達もそう思わされていたのです。9節に「主の使いが彼らのところに来て、主の栄光が回りを照らしたので、彼らはひどく恐れた」(9)とあります。だから羊飼い達は、ひどく恐れたのです。しかし主の使いは、その彼らに「喜びの知らせ」を告げたのです。「恐れることはありません…私はこの民全体のためのすばらしい喜びを知らせに来たのです。きょうダビデの町で、あなたがたのために、救い主がお生まれになりました。この方こそ主キリストです。あなたがたは、布にくるまって飼葉おけに寝ておられるみどりごを見つけます…」(2:10~12)。羊飼いは、私達の代表です。その意味で天使が告げる喜びは、どんな人にも語られる喜びなのです。だから天使は「この民全体のため―(『全ての人』のため)―の素晴らしい喜び」(10)だと言いました。この喜びの与えられない人はいない、この喜びから洩れる人はいないのです。だからこれは、私達にも語られている喜びなのです。そして天使の「恐れることはありません」という言葉が象徴しているように、その喜びは「言わば私達の恐れさえ追いやるような喜び」だと言うのです。では、クリスマスは、イエスの誕生は、どんな喜びを語るのでしょうか。
私達は今年3月、長年良い交わりをして頂いた兄弟を天の御国にお送りしました。最後に礼拝に来られた時に証しをして下さいました。「自分の命を犠牲にして人を助けた神父の姿に神の愛を感じて、信仰を持ったこと、それ以来、肉親との別れ、仕事のこと、病気のこと、色々と辛いこともあったけど、神に守られて恵みの内に生きて来きたこと」等々、そのご生涯の一端に私達も触れさせて頂きました。その兄弟が昨年、私が鬱を患っていた時、鬱のことはご存知なかったのですが、こう言われました。「先生、人生を謳歌して下さいよ!」。私は、その言葉の背後に、兄弟が歩いて来られた人生の重さを感じました。そしてその言葉が、その時の私には「先生、
イエス様が先生と共におられるじゃありませんか。神様が守って行かれるじゃありませんか」という言葉として響いて来たのです。そしてギリギリに絞られていたような私の心に、ポッと光が灯ったような気がしたのです。
私は思うのです。私自身がそうだったのですが、私達は、1人で全てを抱え込んで、不安になり、恐れているのではないでしょうか。ある本にこうありました。「私たちの生活には、自分の努力ではどうにもならないこと、取り返しのつかないことなどがしばしば生じます。自分の能力で解決できないこともたくさんあるのです」。自分ではどうすることもできないことがあります。誰かに助けて欲しいことがあります。しかしその時、「イエス様が共におられる、神が守って行かれるではないか」と思うことが出来れば―(そして、サメに左腕を食いちぎられた女性サーファーは事故の中で神を経験して言いました。「神は悪からでさえ善を生み出して下さる」。それが本当なら)―それは真の希望であり、救いではないでしょうか。
いずれにしても神は、不安や恐れを抱えて生きる私達に神様が、神の助けが、神の希望が必要だと知っておられたから、「旧約」の時代から「私があなたと共にいる」と言って来られました。「恐れるな、わたしはあなたとともにいる。たじろぐな。わたしがあなたの神だから。わたしはあなたを強め、あなたを助け、わたしの義の右の手で、あなたを守る」(イザヤ41:10)。「誰が傍らにいなくても、わたしが共にいる」。神はそう言われ、人と生きようとして来られたのです。
しかし問題がありました。それは、人の側にそれが分からなかったことです。神が大き過ぎる方だから、人には神の思いが分かりませんでした。だから、羊飼いが神を恐れたように、むしろ神を恐れたのです。しかし、だからこそ救い主イエスは、赤子として地上に来て下さったのです。赤子は、お世話してもらわなければ死ぬしかない。そんな姿で人間の世界に―(人の悪意と醜さが渦巻いている世界に)―入って下さったのです。それは、赤子ならどんな人でも恐れなく近づくことができるからです。羊飼い達も「みどりご」と聞いて、しかも「飼葉おけ―(家畜の餌を入れる桶)―に寝ておられる」―(「そんなに貧しい姿でおられる」)―と聞いて「さあ、ベツレヘムに行って、主が私たちに知らせてくださったこの出来事を見て来よう」(15)と恐れることなく神に近づこうとしたのです。
岩淵まことさんというゴスペル・シンガーがおられます。彼の亜希子さんというお嬢さんは、小学校2年生で脳腫瘍のために天に帰って行かれるのですが、危篤の状態になった時に、岩淵さんは亜希子さんに聞くのですね。「アッ子、イエス様が見えるかい」。亜希子さんは、もう言葉はしゃべれませんでしたが、大きく頷くのです。そして、しばらくしてイエス様に抱かれて天に帰って行かれたのです。イエス様が人として、赤子として地においで下さったから、人は、どんなに小さい者でも、恐れなく神様に近づける、神の許に帰れるようになったのです。
そして長じたイエス様は、「父の財産を無理やりもらって、父の許を出て行き、他所の町で身を持ち崩して、ボロボロになって帰って来た息子を、喜んで迎える父の話」を教えて下さいました。父親は、ボロボロの息子に走り寄って、抱きしめて歓迎するのです。それは、私達が神の方を向くこと喜び、私達に走り寄って歓迎しようとされる神様の姿です。そんな神の真実を教えて下さったのです。またイエスは言われました。「すべて、疲れた人、重荷を負っている人は、わたしのところに来なさい。わたしがあなたがたを休ませてあげます」(マタイ11:28)。それは、正に神様の私達へのメッセージでした。イエス様によって人々に神の真実が分かるようになったのです。人々が神様に手を延ばすことが出来るようになったのです。イエス様は、そのようにして私達を神様に結びつけて下さったのです。
しかし、それだけではありません。3月に召天された兄弟は「人は罪を犯さずには生きて行けないんですよ」と絞り出すように言われました。それは「仕事のために不本意なこともせざるを得なかった、そんな私も、キリストの十字架によって赦され、神の御手の中に生かされてここまで来たのです」という感謝の言葉だと思って伺ったことでした。そのようにイエス様は、その最期には、私達の神の前の罪を全部背負って、十字架に架かって下さったのです。そして神様と
私達の関係回復を完成させ下さったのです。イエスは十字架に架かるために生まれて下さった、と言っても良い。
天使は歌いました。「地の上に、平和が、御心にかなう人々にあるように」(2:14)。「御心にかなう人々」とは、「立派な人」ということではありません。「『イエス様、私のために人の世に生まれて来て下さり、ありがとうございます』という人」ということです。それで私達は、神と共に生きて行けるようになったのです。神は、ずっと私達と共に生きたい、私達を助けたいと願って来られたのです。それが、時が来てイエスの誕生で現実になったのです。本当に神と共に生きることが出来るようになったのです。
しかも、9節の「主の使いが彼らのところに来て…」(9)という言葉は、「彼らの傍に立つ」という意味の言葉です。そんなに近くに来たのです。それは、神様が、私達が思う以上に近くにいて下さるようになったということです。作り話ではありません。聖書が語る真実です。ある女性の証しです。彼女は、仕事のために訪れたフランスである青年と出会い、やがて結婚しました。5年目に子供が与えられますが、妊娠7カ月の時、ご主人が末期の食道がんだと診断されました。ご主人は冬の寒い朝、息を引き取りました。彼女は暗闇の中で泣き崩れ、生まれた息子を抱え、5年間も引きこもって泣いていたのです。ある日、クリスチャンの友達がメッセージのテープを持ってやって来ました。そのテープには「恐れるな、恐れるな」という神のメッセージがありました。彼女はそれに心惹かれ、繰り返し、繰り返し、聞いたのです。しかし悲しみは癒えず、「今日こそ死のう」と玄関で泣きじゃくっている時、クリスチャンの友達が訪ねて来て、彼女のただならぬ様子を見て抱きしめました。その時、彼女の心の中に、あの「恐れるな」という声が響いて来ました。その声は、彼女の中で渦巻くようにリフレインし、次の瞬間、彼女の心に大きな喜びが湧き上がって来たのです。彼女は友達にしがみついて叫びました。「どうしよう、どうしよう、嬉しくって、つかまっていないと飛んで行ってしまいそう」。友達は、彼女が頭がおかしてなってしまった、と思ったそうです。しかし神のメッセージに心を開いた彼女に、神が語られた声だったのです。彼女は、誘われるまま教会に通い、聖書を通して「安心しなさい。もう大丈夫だよ、わたしがあなたと共にいるから」という神の語りかけを受け、そこから力をもらって生き直すのです。神と共に生きて行ける、それは私達を生かす力です。
しかし、それだけではありません。イエスは十字架に架かって死なれましたが、3日目に甦られたのです。そして「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)と言われました。イエスを通して神と共に生きる者は「天国で永遠に生きる」という約束をして下さったのです。私達は誰も必ず死にます。しかし神の御手の中に入るということは、たとえ地上の命が終わろうとも、神の御手に抱かれて天国に凱旋出来るということです。召天された兄弟のご遺族が、先日、礼拝に参加されました。礼拝後、お嬢さんが話して下さいました。「イエス様が背負って下さったから、父はあんなに平安に召されたのですね」。そして兄弟が天国に凱旋されたことを確信しておられました。私達は、死にさえ希望を持って向かうことが出来るようになったのです。
「キリストが生まれた」という知らせは、「恐れるな、あなたは神と共に生きることが出来るようになったのだ、生きるにも、死ぬにも、神の中に希望を、力を見ることが出来るようになったのだ」という知らせであり、それは私達にとって素晴らしい喜びの知らせなのです。
英語で「クリスマス」は、「Christ-Mas(s)/キリストのミサ」と書きます。つまり「キリストを礼拝する」という意味です。羊飼い達がイエス様のおられる家畜小屋に出かけて行ってイエス様を礼拝した、それが2000年前のクリスマスでした。2000年後の家畜小屋は教会です。ここに、赤子ではない、十字架に掛かられ、甦られ、今も生きておられるイエス様がおられます。私達がここで「神様、イエス様を送って下さったことを感謝します」と言って礼拝する時、私達は本当のクリスマスを経験するのです。
戦いで苦しんでいた兵士達がイエス様を見上げた時、そこに思いもしない素晴らしいことが起こりました。新しい年が始まりますが、私達にも、問題の中でイエス様を見上げる時に何かが始まる、私はそれを信じます。クリスマスの祝福が皆様の上にありますように、心よりお祈り致します。
 

聖書箇所:ルカ福音書2章1~7節  

 学校の歴史の授業で「BC」「AD」という記号が出て来たのを、皆さんも覚えておられるかも知れません。「BC」「AD」とは何の略だろうと、ぼんやりとは疑問に思っていたのですが、ある時、何かのことで「BC」は「Before Christ/キリスト以前」の略であることが分かりました。分からなかったのが「AD」。先生に聞けば良かったのでしょうが、学生の頃は、そこまでの思いはありませんでした。信仰を持ってから疑問が膨らんで来ました。「『AD』もイエス様に関係したものだろう」とは思ったのですが、分かりません。そんなある時、ある教会の外壁に「Anno Domini」という言葉を見つけました。「あっ、『AD』はこれだろう」と思ったのですが、今度は「Anno Domini」の意味が分かりません。その時は、牧師先生に聞きました。そうしたらラテン語で「主の世」という意味だと、教えてもらいました。つまり「イエスが支配しておられる世」ということです。歴史はイエス様の誕生の時を、歴史の時を計る(刻む)基準としているのです。実際には6~7年のズレがあるのですが…いずれにしても、それだけでもイエス様が歴史的な存在でいらっしゃることが分かります。
 今日の箇所は、イエス様の誕生の出来事を記す個所です。初めに内容を確認して、その後、この個所のメッセージを考えます。
 

1. 内容~イエスは歴史の中に生まれた

 1~2節に「そのころ、全世界の住民登録をせよという勅令が、皇帝アウグストから出た。これは、クレニオがシリヤの総督であったときの最初の住民登録であった」(1~2)とあります。皇帝アウグストは、帝政になったローマの最初の皇帝で、その長い在位期間に、ローマ帝国各地では住民登録が行われたようです。その皇帝の権威を背景にローマ帝国の各地でそれぞれに行われた住民登録を、ルカは「『全世界の住民登録をせよ』という勅令」と表現したようです。さらに、ルカは「クレニオがシリヤの総督であったとき」と書きます。クレニオという人は、ユダヤをその中に含むシリヤ州で軍事行動を起こして、権力を掌握したことがありました。その時にも住民登録が行われました。1節の「住民登録」というのは、その時の住民登録だと考えられます。
 当時の住民登録の命令は、それぞれ自分の本籍地に帰って登録をする、そのような命令だったようです。ヨセフは、偉大な王であったダビデの家系に属していましたので、その本籍地は、ダビデが生まれた町であり、またこの時から500年前、バビロン捕囚からユダヤ人達が帰還した時、ダビデの家系の者が多く住むようになったベツレヘムだったのだと思います。ある人は「ヨセフはそこに自分の土地を持っていたのではないか」と言います。それは分かりませんが、もしそうだとすると、その住民登録は、人頭税と固定資産税を納めさせられるためのものであったことになります。
 いずれにしても、自分達が生活していたナザレの村から120kmの距離、3日の道のりのベツレヘムに、ヨセフは身重のマリヤを連れて出かけました。マリヤにとっては、大変な旅だったと思います。何とかベツレヘムに着いたのですが、そこでマリヤは出産することになります。しかし「宿屋には彼らのいる場所がなかった」(7)とあります。当時のベツレヘムに旅人の宿泊施設がどの程度あったのか、分かりません。もしかしたら、住民登録のために、既に大勢の人々がベツレヘムに来ていて、それで彼らの滞在する場所がなかったのかも知れません。「マリヤ」という映画には、今にも子供が生まれそうなマリヤを心配して、ヨセフが滞在場所を探して必死になって1軒、1軒、家の戸を叩いて訪ね歩く場面が描かれていました。そしてようやくたどりついたのが家畜小屋です。「家畜小屋」は「飼葉おけ」(7)という言葉から類推されたことです。ある学者は「それは洞窟のような所だっただろう」と言います。ある学者は「人の住居スペースに家畜小屋がくっついているような場所だったのではないか」と言います。いずれにしても、子供を産むには、あまりにも辛い、お粗末な場所で、マリヤは男の子を産むのです。しかも「それで、布にくるんで、飼葉おけに寝かせた」(7)という表現は、「マリヤ自身がそれをなした」というニュアンスで書いてあります。恐らくお産を手伝ってくれる人もいなかったのではないでしょうか。そんな状況でイエス様は、お生まれになったのです。これが、私達の主、神の子イエス・キリストの誕生の様子なのです。
 ルカは、ここから何を伝えようとしているのでしょうか。それは何より、イエス様の誕生は、歴史の中に起こった歴史的事実であったということではないでしょうか。お伽噺は「昔々、あるところに」です。しかし、イエス様の誕生は違います。まだ「西暦」という暦はありませんが、時代も場所もはっきりしています。歴史的事実なのです。そしてそれは、誕生の時がそうであったように、イエス様の生涯も、そして十字架も歴史の中で起こったことなのです。さらに、復活も歴史の中で起こったことなのです。歴史は英語で「history」ですが、これは「His story/彼の物語」が1つになった言葉だと言われます。すなわち歴史とは、キリストの物語、キリストの摂理の物語なのです。私達が主と仰ぐイエス様は、2000年前、神でありながら人間の歴史の中に入って下さったのです。しかも貧しく、低き者として入って下さったのです。そのことは次に触れますが…いずれにしても、それがクリスマスです。そしてその時から、イエス様が歴史の主として、世を治め、また、私達1人ひとりの人生をも治めておられるのです。私達の信仰は、この歴史の事実の上に立っている信仰なのです。
 

2.メッセージ

 この個所は、私達にどのようなメッセージを語るのでしょうか。私は、2つのことを語りかけられるように思います。

1)神の御心は成る

 1番目は、神の御心は成るということです。イエスがベツレヘムでお生まれになったのは、マリヤがヨセフと一緒にベツレヘムに行ったからです。しかし、ある学者は、登録だけならマリヤは行く必要がなかったのではないか、と言います。それは、実際どうだったのか、分かりません。しかし、もしそうなら、なぜマリヤは、ベツレヘムに行ったのでしょうか。マリヤの懐妊については、聖霊によって身ごもったということを、ヨセフも疑って、悩み、苦しんだくらいですから、ナザレの村でも、マリヤに対する様々な噂話がなされ、誹謗中傷がなされていたはずなのです。ヨセフは、それが分かっていたから、マリヤを1人、村に残しておくことを避けて、一緒に連れて行ったのだろうと思います。
 また、そもそも、なぜヨセフがベツレヘムに行かなければならなかったかというと、ローマ皇帝の権威を背景に「住民登録をするように」という命令が出されたからです。ローマの権力者も、そしてヨセフ達さえも、自分達の行動がどのような結果につながるか、分からなかったと思うのです。しかし、聖書はこう言っています。「ベツレヘム・エフラテよ。あなたはユダの氏族の中で最も小さいものだが、あなたのうちから、わたしのために、イスラエルの支配者になる者が出る。その出ることは、昔から、永遠の昔からの定めである」(ミカ5:2)。世界を治める本当の支配者(王)がベツレヘムから出る、ベツレヘムに生まれる、と預言するのです。つまり、それが神の計画だったのです。そして神様は、色々な人を用いて、ご自身の御心をなして行かれるのです。噂好きの人々も、ローマ皇帝さえ、神の御心が成るために用いられた器に過ぎないのです。ある牧師は言いました。「神は人間の支配者の悪意さえ用いて、ご自分の業をなさる」。私はこの箇所から、「神の御心は成る」ということを確認したいのです。神は、あらゆるものを用いて御心を為されるのです。
 ところで、イエス様の誕生に込められた神の最も重大な御心とは、何でしょうか。それは、イエス様を「私の救い主」と信じる全ての人を、神が滅びから救い、天の御国に迎えて下さる、ということです。
 イエス様のお誕生が、あまりに辛い、貧しい境遇、悲しい状況であったということを申し上げました。しかし、そこに神様のメッセージがあるのです。神の子であるイエス様が家畜小屋で生まれ、飼葉桶に寝かされたのは、「どんな小さな者、弱い者、貧しい者でも、あるいは苦しんでいる者でも、イエスは共にいて下さる、決して見捨てられない、必ず救われる」という神様の御心の表れだったのではないでしょうか。そのために、ここに生まれたイエス様は、人々の苦しみと共に生きて、そして最後は十字架に架かって、私達の救いを為し遂げて下さいました。そんなイエス様だから、その救いのメッセージは、どんな境遇にある人の心にも届くのです。そのイエス様の十字架の救いでカバーできない人は、1人もいないのです。それが、神の御心であり、その神の御心は成るのです。
 私は、先日、右手に注射を打ってもらった後、右手(手の指)が麻痺のような状態になったのです。「2~3時間は力が入りませんよ」とは言われたのですが、4時間経っても、5時間経っても、右手がおかしいのです。私は一瞬、「医療ミスではないか、このまま治らないのではないか」と心を騒がせました。そんな状態で説教の準備をしていたのですが、色々証しを読んでいて、一番心に響いたのは、やはり水野源三さんの話でした。
水野さんは元気な子供だったのです。それが小学4年生の時に村に発生した赤痢に罹り、42度の熱が続き、脳性麻痺で手足の自由も、言葉も奪われるのです。12歳の時に一時的に片言を話せる時期があったのですが、その時口から出る言葉は「死ぬ、死ぬ」という言葉だけだったそうです。その水野さんが14歳のある日、教会の老牧師が訪ねて来て、聖書を置いて帰ったのです。水野少年は、その聖書を貪るように読んだのです。手が動きませんから、お母さんにページをめくってもらいながら読みました。聖書を読み、牧師の導きでイエス・キリストの救いを知った水野少年の心に、真実に愛されているという実感が湧き上がったそうです。「死ぬ」という言葉は、いつしか、水野さんを生かす神様への感謝の言葉に変わったと言うのです。私は、世の中の一体何が、水野さんに、感謝を、喜びを与えることが出来ただろうか、と思ったのです。しかし、馬小屋で、貧しさと、悲しみの中に生まれたイエス様、十字架で苦しまれたイエス様は、確かに苦しみの中におられた水野さんを救われたのです。水野さんだけではありません。子供の頃に視力を失って絶望していた人が、今、神の恵みを讃美しつつ、福音歌手として素晴らしい働きをしておられます。中途失明の方が、牧師となって、神の恵み、神に在る平安を語っておられます。イエス様は、どんなに苦しい思いで生きている方をも救うことがお出来になる、生きる現実の中で救うことがお出来になる、そんなことを思わされます。神の救いの御心は成るのです。
 そして、「神の御心は成る」と申し上げましたが、この誰も見向きもしないような最低のところに生まれて下さったイエス様を、今、23億人の人が「私の主、私の王」として礼拝しているのです。当時の権力者は、皇帝アウグストも、どんなに大きな権力を持っていたとしても、歴史の中に埋もれて行きました。しかしイエス様は違います。イエス様の福音は、確実に広がっているのです。その意味でも「神の御心は成る」のです。
イエス様は、今も生きて、私達を様々な場面で、助け、救って行かれるのです。神の御心を為して行かれるのです。私はそのことを思う時、神様に、イエス様に、委ねた人生こそ、一番確かな人生ではないかと、そんなことも思わされます。
 

2)主イエスを迎える

 この個所の2つのめのメッセージは、イエス様を心にお迎えする、といことです。2章7節に「宿屋には彼らの泊まる場所がなかった」という言葉があります。ベツレヘムにはイエス様の家族が泊まる場所がなかった。だからイエス様は洞窟のような家畜小屋でお生まれにならなければなりませんでした。しかし、それはある意味でイエス様の生涯を象徴していたとも言えます。イエス様は、当時の社会の中で居場所のないような人々のために生きられたからです。
 しかし、それにしても、ベツレヘムには本当にイエス様の家族が泊まる部屋はなかったのでしょうか。誰かがその気になれば、1つの家族が泊まれるぐらいの余裕はどこかにあったのではないでしょうか。しかし結局、誰もそれを提供しなかったのです。誰かが提供した家畜小屋が当時の人々が示した最大の親切だったのです。もし私達が2000年前生きていたら、そしてベツレヘムに住んでいたら、どうだったでしょうか。
私達は、イエス様の誕生によって大きな祝福を頂きました。こんな自分の罪が全部赦され、神の子とされ、永遠の滅びから救われ、天国に引き上げられるという祝福です。何があっても、神の中に希望を見ることが出来るという祝福です。それは、あまりに大きすぎて、実感がないほどの祝福です。そんな祝福を頂いた私達です。神様の恵みに応えて、心にイエス様のためにスペースを開けるようなことができると、良いなと思うのです。
 前もお話ししまたが、1914年、第一次大戦中のフランスでイギリス軍とドイツ軍が睨み合っていました。その夜は、クリスマス・イブでした。1人の兵士が「きよしこの夜」を歌い出しました。そうしたら、それはいつしか、夜空を揺り動かす大合唱となりました。男達は力一杯歌いました。繰り返し歌いました。そして、ふと気づくと、敵の塹壕からも、「きよしこの夜」が聞こえて来たのです。そして、クリスマス讃美歌の交換があり、両軍の男達は、おずおずと塹壕から顔を出し、身体を出し、そしてお互いに敵に向かって歩き出したのです。そしてお互いに顔を見合わせ、握手をし、持ち物の交換をし、家族の写真を見せ合い、やがてサッカーまで始まったのです。短い間の出来事でした。しかし、男達が、心にイエス様を迎えた時、イエス様に心のスペースを開けた時、憎しみが溶かされたのです。敵意が赦しに変わったのです。素晴らしいことが起こったのです。
「詩篇」の詩人は詠いました。「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」(詩篇116:12)。私達は、このクリスマス、改めてイエス様を「私の主、私の救い主」として心にお迎えしたいと願います。そして、何でも良い、私達のために生まれて下さったイエス様のために、イエス様の御心を為すために、心のスペースを開けるような、そんなことが出来れば、と願うのです。恥ずかしい話ですが、私は、手が治らないかも知れないと本気で心配した時、「神様、癒して下さい、癒して下さったら、神様に文句を言うのを止めます」と申し上げたのです。神は癒して下さいました。その約束を、イエス様の誕生を思い、精一杯守り、そのようにして、イエス様のために心のスペースを開けたいと思っています。皆様は、どのような形でイエス様のために心のスペースを開けられるでしょうか。
 

聖書箇所:マルコ福音書13章14~27節  

 しばらく前ですが、1人の方とお会いして、ある集会のお話を伺う機会がありました。ある施設の館長さんが「現在は、第二次世界大戦の戦後ではなくて、第三次世界大戦の戦前です」と言われたそうです。ウクライナ戦争に関して、「核の使用」について盛んに論じられます。核が使われるような状態になれば、どうなるのか、危機感を持ちます。ウクライナ戦争が、早く、良い形で集結して欲しいと願います。館長さんは「平和のために祈り、行動して下さい」と言われたそうです。「自分には何が出来るのか」と思うことですが、平和のために祈ることは出来ると思いました。しかし、たとえ世の平和が破壊され、世界が滅びるように思えるようなことがあったとしても、私達には希望がある。今日の個所は、そのことを語ります。
 受難週の火曜日(でしょうか)、神殿での論争を終えたイエスは、神殿を出て行かれましたが、神殿を出るに当たり、神殿に見とれていた弟子達に、「終末」について語り始められました。場所をオリーブ山に移し、神殿を見下ろしながらイエスは、「終末」について語り続けられます。今日の箇所は、その第2のまとまりです。
 先週も申し上げましたが、「キリストの十字架と復活」の後、キリスト教の歴史観では、世界は「終末時代」に入っています。「いつ世の終わりがあってもおかしくない時代に私達は生きている」ということです。その「終末時代の最後」に何が起こるのか、イエスは語られました。37節で「わたしがあなたがたに話していることは、すべての人に言っているのです」(37)と言われ、また15節には「読者はよく読み取るように」(15)という言葉も加えられています。イエス様は、全ての人(私達)に語られるのです。
 しかし、この個所が複雑なのは、特に14~23節ですが、イエスは、2つの出来事を1つの話で預言されるのです。2つの出来事というのは、1つは、この時から40年後(紀元70年)に起こる「ローマ軍によるエルサレムと神殿の破壊」の出来事です。もう1つは「終末時代の終わり(世の終わり)」の出来事です。イエス様は、その2つのことを、1つのこととして重ねて語られます。私達にとって、紀元70年の出来事は、既に起こった過去のことです。しかし、イエス様の預言が紀元70年に現実になったことによって、将来のことも必ず起こることが保証されると言えます。そのような位置づけで、イエス様のメッセージをしっかり受け止めたいと思います。
 

1.紀元70年の出来事

 14節に「『荒らす憎むべきもの』が、自分の立ってはならない所に立っているのを見たならば(読者はよく読み取るように)」(14)とあります。「荒らす憎むべきもの」の出現は、「旧約」のダニエルが預言しました。紀元前167年、当時ユダヤを支配していたシリアのアンティオコス・エピファネスという人が、エルサレムの神殿にギリシャのゼウスの神を祭り、ユダヤ人にそれを拝むように強要し、祭壇にはユダヤ人の忌み嫌う豚を捧げて神殿を汚すという事件がありました。ユダヤ人を苦しめたのです。ですから「荒らす憎むべき者」という言葉を聞いて(読んで)、人々がまず思い浮かべたのはその事件だったと思います。イエスは「そのような事件が再び起こる」と言われたのです。それが、この時から40年後に起こる「ローマ軍によるエルサレムの破壊、神殿の破壊」でした。ローマ軍は、カイザルの像をつけた軍旗(偶像)を神殿に立てるのです。
 一方でイエスは、その時が来るのを預言して、その時にどうすれば良いかを語られます。「ユダヤにいる人々は山へ逃げなさい」(14)。「ローマと闘おうとするな。逃げなさい」と言われるのです。「屋上にいる者は降りてはいけません」(15)。屋上には外の階段を使って上ります。だから階段を使って降りて逃げるのです。「降りてはいけない」というのは、「1階の部屋の中に降りるな」ということであり、「家から何かを取り出そうとして中にはいってはいけません」(15)と同じことです。「畑にいる者は着物を取りに戻ってはいけません」(16)も同じ意味です。要するに「何も持たずに逃げなさい」ということです。「だが、その日、悲惨なのは身重の女と乳飲み子を持つ女です」(17)。逃げるのが困難だからです。しかし実際は、その時、多くの人々は山へ逃げるのではなくて、エルサレムの町(神殿)を目指して集まって来たのです。ローマ軍はエルサレムを包囲して、人々を飢餓に陥れる方法を取りました。エルサレムでは悲惨な状況が生まれたのです。
 しかしその時、エルサレムにあった教会は、伝承によれば、「山」へ逃れた。ユダヤ(都)を離れ、ガリラヤ湖の下にある、デカポリスのペラという所に避難するのです。それでもパレスチナ全域に対するローマ軍の掃討作戦によって、パレスチナのどこにも危険が及びました。でもイエスは「もし主がその日数を少なくしてくださらないなら、ひとりとして救われる者はないでしょう。しかし、主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです 」(20)と言っておられます。教会にとっても危機的な状況の中で、ローマ軍は、ローマで起こった政治的混乱のためにパレスチナを引き上げて、教会は生き残るのです。21~22節にあるように、その時には色々な人が立ち上がって、ある者は「私こそメシアだ。私のやり方について来い」と言って人々を自分達の仲間に引き入れようとしました。でも教会は、イエス様の再臨に望みを懸けていましたから惑わされることはなかったのです。そしてペラに、ユダヤ人と異邦人を含む教会が生き残り、再び主の証しに生き始めることになるのです。
 

2.終末の出来事

 2000年後に生きる私達は、この個所をどう受け止めれば良いのか、イエスは私達に何を語られるのでしょうか。アンティオコス・エピファネスが神殿を汚したように、ローマの軍隊は、神殿を破壊し、ユダ人国家を滅ぼし、大変な悲惨を招きました。しかし、申し上げたように「『荒らす憎むべき者』が、自分の立ってはならない所に立(つ)」(14)の言葉は、これから終末時代の終わりに起こって来ることでもあります。それが、どのような形で歴史に登場して来るのか、良く分りません。イエスは(21~23節で)「そのとき…にせキリスト、にせ預言者たちが現われて、できれば選民を惑わそうとして、しるしや不思議なことをして見せます。だから、気をつけていなさい。わたしは、何もかも前もってはなしました」(21~23)と言われます。現代でも「私が真のキリストだ」と主張する人がいて、その人を―(後継者を)―中心にした信仰集団があります。終末の混乱の中でキリスト者も、惑わす者に知らず知らずのうちに惑わされてしまうのかも知れません。
 しかし、いずれにしても聖書は「やがて大患難時代―(混乱の時代)―が到来する」ことを告げています。「いまだかつてなかったような、またこれからもないような苦難の日」(19)が到来するのです。しかしそれは、神様の側から見れば「裁きの時」なのです。私達は感じています。この世には不正があり、恐ろしいほどの悪があります。特に今、独裁政治の酷さを感じます。その不正や悪ゆえの涙、嘆き、叫びがあるのです。信仰ゆえに迫害されるクリスチャンも沢山います。人間の歴史はそういったものを抱えながら流れています。しかし、それに対して何の決着もつけられないで、いつまでもズルズル流れて行くわけではないのです。必ず神がそのような出来事の全てに決着をつけられる時が来るのです。コロナ禍の前、私達も毎週「使徒信条」を通して「主は…かしこより来りて、生ける者と死ねる者とを審きたまわん」と告白しました。その「裁きの時」が世界にやって来る時―(それがどのような形なのか分りませんが)―イエスは「その激しい裁きの時に信仰者は逃げろ」と言われます。「何も持たずに逃げなさい」。
 それは逆に言うと、信仰者には逃げるところがある、ということです。どこに逃げるのか。神の中に逃げるのです。何も持たずに。「私にはどうすることも出来ません。神様、助けて下さい」と言って、信仰だけを持って逃げるのです。イエスは「神が天地を創造された初めから…」(19)と言っておられます。それは、私達には思いもよらない苦難の時代、患難の時代であっても、それを司っておられるのは私達の神様だ、ということです。歴史は、大国の指導者がその行方を決定するわけではありません。歴史を支配し、裁きの時を支配しておられるのは神様です。私達は、何があっても、何も持たず、いや信仰だけを持って、その神様の中に逃げるのです。 
 さらにイエス様は、「…主は、ご自分で選んだ選びの民のために、その日数を少なくしてくださったのです」(20)と言われました。22節にも、「選民」とあり、27節にも「選びの民」と出て来ます。かつてイエスは言われました。「あなたがたがわたしを選んだのではない。わたしがあなたがたを選んだ」(ヨハネ15:16)「神が責任を持って選んで下さった者達」だから―(繰り返しますが)―何があっても、私達は神の中に逃げ込むことが出来るのです。
 終末の大患難時代に、キリストも遭遇するのか、しないのか、はっきり分りません。「キリスト者は、大患難時代は通らない」という理解もありますし、私もそう考えています。しかし、もし「神の裁きの時」に遭遇するにしても、その「裁き」に見える出来事は、イエス様を信じる者には、救いの出来事だと思うのです。その「裁き」に見えるものを通して、イエスは、私達に本当の贖い(解放)を与えて下さるに違いないのです。また「信仰は苦難を通して聖められる」とも言います。私達の中の取り除かれるべきものが燃やし尽くされ、天の御国に生きるに相応しい者へと整えられる機会に違いありません。さらに私達にとって救いの言葉は27節の「そのとき、人の子は、御使いたちを送り、地の果てから天の果てまで、四方からその選びの民を集めます」(27)の言葉です。患難時代はイエス様の再臨に続きます。再臨のイエス様が、選びの民を、私達を、呼び集めて下さるという約束の言葉です。そして―(先週も紹介しましたが)―その時のことをCSルイスがこのように表現しています。「その時、全宇宙は夢のように溶け去り、何かが―われわれがかつて思い浮かべたこともないような何かが―すさまじい勢いで押し寄せてくるのである。それは、ある人達にとってはあまりにも美しく、他の人達にとってはあまりにも恐ろしいものであって…それは、あまりにも圧倒的なものなので、すべての人間に、抵抗しがたい愛か、さもなければ抵抗しがたい恐怖を叩きつけずにはおかないだろう」(CSルイス)。私達は「待降節」を通してイエス様の再臨を待望していますが、やがてイエスが空の扉を開けて入って来られるのです。イエスを信じる者にとっては、私達の涙が拭われ、死も、悲しみも、叫びも、苦しみもなくなる、あまりにも美しく、素晴らしい世界が展開する時なのでしょう。私は、高齢の兄弟が話して下さったイエス様をイメージします。その方が、神様だけを頼って「施設の子供さんを引き取ろう」と決めて、施設に迎えに行った時、イエス様が西の空から東の空まで両手を広げて立っておられるのが見えたのです。主は、私達をも両手を広げて受け入れて下さるのではないでしょうか。だから私達は、これから先のことにも、恐れではなく、希望を持って、向かうことが出来るのです。感謝なことです。
 

3.今の信仰生活

「過去の出来事」、「将来の出来事」と日常生活から離れたことを話しましたが、3番目にこの個所を、私達の日常生活に引き寄せて考えたいと思います。終末の時、私達は、信仰だけを持って神に頼るのです。しかしそれは、その時になって急に出来ることではないと思うのです。今、どのような信仰生活を送るのか、それが大事になって来るのではないでしょうか。
 CSルイスがこんなことを言っています。「世界は100%クリスチャンである人々と、100%クリスチャンでない人々で出来ているのではない。だんだんとクリスチャンでなくなりながら、まだ自分をクリスチャンだと言っている人達が実にたくさんいる。その中には若干の牧師達も含まれている。また、まだ自分をクリスチャンと呼んではいないが、だんだんクリスチャンになりつつある人たちもいる…キリストに非常に強く惹かれているために、本人が考えているよりも、はるかに深い意味でキリストに属している、というような人びともいる」(CSルイス)。どのように聞かれるでしょうか。色々な意見のある言葉だと思いますが…心探られる言葉です。いずれにしても、普段の信仰生活をより良く積み重ねて行くこと、だんだんと神に近づいて行くこと、それが大切だと教えられます。祈りも、普段から祈りを積み上げておくことが大切です。そうでなければ、イザという時に、祈りによってそこを通って行くことは難しいのではないでしょうか。
 ちなみに20節には「あなたがたの逃げるのが、冬や安息日にならぬよう祈りなさい」(20)とあります。終末の時、それは「それがいつ起こるか」、人間の手には届かないことのように思います。にもかかわらず、この大変な時期の決定を、なお人が動かすことが出来るかのように「冬や安息日にならぬように祈りなさい」とイエスは言われる。私達の小さな祈りは、神の前に決して小さくはないのだと思う。いずれにしても、普段の信仰生活が大事だということでしょう。自分の信仰が、イザという時に耐えられる信仰に育てられて行くことを願いながら、しかし具体的には何をするのか。
 アメリカ建国の前の話です。日食があり、ある州の議会の議員達はパニックに襲われました。そして何人かの議員は、議会の休会の動議をしました。しかし議員の1人が言いました、「もし世の終わりでないのに我々が休会にするとしたら、我々は愚かだということが明らかになるでしょう。もし世の終わりだとしたら、私はむしろ自分の義務を果たしているところを見出されることを選びたく存じます」。信仰が育てられることを願いつつ、私達は、日々を神の前に誠実に生きて行く、地道に信仰に生きて行くのです。ルターは「たとえ世の終わりが明日来るとしても、私は今日リンゴの木を植える」と言いました。それが終末を迎えるための良い生き方です。
 もしかしたら私達には時々、「私は信仰の弱い者だから、大丈夫だろうか…」とイエス様の言葉が遠くに聞こえるようなことがあるかも知れません。しかしイエス様は、これらの言葉を、直接的にはこの数十時間後にはイエス様を裏切って行く弟子達に語っておられるのです。彼らはそんなキリスト者だったのです。しかし、彼らは「選ばれた者」だった。(繰り返しますが)―私達も「私は選ばれたのだ、神様はこんな者を選んで下さっているのだ」というところに立つのです。皆さんは、例外なく、選ばれた民です。どのような悲惨があろうとも、たとえ地が滅ぶように見えることに出会っても、私達には、主に在って望みがあります。イエス様の再臨の前に私達が死ぬことがあったとしても、私達には「死を越えて甦る」という望みがあります。その望みを握りしめながら、地道な信仰生活を大切に生きて行きましょう。そのように「再臨の幻」に生きて行きましょう。
 

聖書箇所:マルコ福音書13章1~13節 

 私は、若い頃から痛風を病んでいます。痛風の困るところは、激しい痛みが突然やって来ることです。以前、ある教会の礼拝に招かれて、証しをする日曜日の朝に、痛みがやって来て、慌てたことがあります。その時は、家内に鎮痛剤とシップ薬とを買って来てもらって、何とかその場を切り抜けたようなことでした。それ以来、尿酸値を下げる薬を飲み続けています。おかげで、近年は、痛風の痛みに襲われることはなくなりました。
突然やって来るものについては、2つの対処法があります。1つは、痛風のようなものは、薬を飲み続けることによって、それがやって来ないようにする方法です。もう1つは、「やって来ないように出来ない」ものについては、いつやって来ても良いようにしっかりと心備えをしておくことです。
 

1:イントロダクション

 イエス様は、ここで、その後者のことをされるのです。どうしてもやって来るものがある。そうであれば、弟子達の心をそれに向けて備えさせなければならない。「1節」に「イエスが、宮から出て行かれるとき、弟子のひとりがイエスに言った。『先生。これはまあ、何とみごとな石でしょう。何とすばらしい建物でしょう』」(1)とあります。高校の友人が初めて東京に行って、高層ビルの真下に立って上を眺めていたそうです。そうしたら、通りかかった人から「首が痛いでしょう」と言われたと言っていましたが、ガリラヤの田舎から出て来た彼らにとって、神殿の荘厳さは目を見張らせるものがあったのでしょう。そこに用いられている石は、一辺が5mもあるようなものでした。世界の不思議に数えられた建築物です。
しかし、神殿は、「祈りの家」ではなく「強盗の巣」になっていました。だから、神殿の大きさに目を奪われている弟子達の目を、イエスは正されます。「この大きな建物を見ているのですか。石がくずされずに、積まれたまま残ることは決してありません」(2)。言い換えると「この大きな建物に目を奪われているのか。1つの石も、ここで崩されずに他の石の上に残ることはない。神殿が、やがて必ず崩れる」、そう言われるのです。これを聞いて弟子達は心配になりました。「そんなことがあるとしたら、それは『世の終わり』に違いない」と思いました。「世の終わり」、それは当時のユダヤ人にとってポピュラーなテーマでした。
場所は、オリーブ山に移ります。オリーブ山からは神殿を見下ろすことが出来ました。弟子達の心には、イエス様の予告が響いています。「神殿が壊れるということは、『世の終わり』の出来事であるに違いない、本当にそうなったら、私達はどうなるのか、どうすれば良いのか」。だから「『世の終わり』が来た時に、それがすぐに分るように、『どんな兆候があったら「世の終わり」だ』と理解したら良いのか、イエス様、あなたならそれをご存知のはずです、教えて下さい」と尋ねたのです。
その質問に対してイエス様の答は、5節から37節まで、33節に渡って続いて行きます。その中でイエス様は、「間もなく始まる迫害の時代」のことから「ずっと先に待っている『世の終わり』の時」のことに至るまで、これから起こることを語られます。その中で今朝は「1~13節―(特に5~13節)」を学びます。「5~13節」は、内容的には2つのことが語られます。「5~8節」では「『世の終わり』の前兆」について語られ、「9~13節」には「混乱に向かって行く世の中でキリスト者はどう生きれば良いのか、キリスト者の在り方」が語られます。時間的には「9~13節」の方が、より近い将来に起こることです…というか「マルコ福音書」を最初に呼んだ人々にとって、それはすでに身近に起こっていること、経験したことだったかも知れません。その延長線上には「世の終わり」が待っているのです。
「終末」とか「迫害」とかいうと、私達には縁遠いテーマのような気がしますが、キリスト教の歴史観では、イエス様の十字架と復活の後、世界の歴史は「終末/世の終わりの時代」に入っていると理解します。私達も「終末」を生きているのです。そして、歴史は間違いなく「世の終わり」に向かって進んでいます。最近、インターネットで「エゼキエル戦争」という言葉を聞きます。「『「世の終わり」に、ロシアがイランやトルコと同盟をして、イスラエルに攻め入る』という預言が聖書にある」と主張されます。今の世界情勢を見ると、そうなりつつあるような気がしていることですが、いずれにしても、この個所は私達にも語りかけられています。ここに何が書いてあるのか、それは私達にどんなメッセージを語るのか、学びます。
 

2:内容とメッセージ

イエスはここで何を教えておられるのか。要約すると次のようなことです。「人を惑わす者が現れる。そして戦争につぐ戦争、混乱が起きる。『しかし、終わりが来たのではありません』(7)。『「この世の終わりか」と思うような出来事に心を奪われるな、そのような人々の声に惑わされるな、恐れるな』」。要するに「世界に、世の中に何があっても、慌てないで、しっかり立って、信仰生活を守って行くように」と励ましておられるのです。さらに具体的に、次の2つのことを語られます。
 

1)終末を生きるキリスト者の生き方としての「証」

 1番目は、「キリスト者の生き方としての証」ということです。「7~8節」にあるように、惑わす者が現れ、地震があり、飢饉があり、戦争があり、様々な混乱が起こるのでしょう。しかしイエス様は「終わりが来たのではありません」(7)と言われます。ただ確かに「産みの苦しみの初め」(8)であるに違いない。何を生み出す苦しみでしょうか。「神の計画における世の完成―(新しい世界の再創造)」です。ここに、私達の、世の中に対する見方があるのです。世界は、今でも混乱していますが、ますます混乱して行くのでしょう。今も「私こそそれだ―{『自分こそキリストだ』(リビング・バイブル6)}」(6)と名乗る者が、身近に現れている時代です。日本の社会にとって現実的な問題です。苦しみです。このように世の中はますます混乱して行くのでしょう。
しかし、私達は教えられます。世の終わりは、混乱が極みに達して起こるというものではないのです。最終的には、イエス様が再臨されることによっておこるのです。ということは、私達にとって、「世の終わり」は、決して悲惨な出来事ではないのです。CSルイスは言いました。「その時、全宇宙は夢のように溶け去り、われわれがかつて思い浮かべたこともないような何かが、すさまじい勢いで押し寄せてくるのである。それは、ある人達にとってはあまりにも美しく、他の人達にとってはあまりにも恐ろしいものであって…それは、あまりにも圧倒的なものなので、すべての人間に、抵抗しがたい愛か、さもなければ抵抗しがたい恐怖を叩きつけずにはおかないだろう」(CSルイス)。私達にとって、あまりにも美しいものなのです。むしろ私達は、世の終わりに対して希望を持つことが出来るのです。
だからこそ、イエス様は「あなたがたは、気をつけていなさい」(9)と言われるのです。「自分自身に目を注ぎなさい。他のものに目を奪われてはならない」、そういうことでしょう。自分の何に気をつけるのか。「10節」に「こうして、福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」(10)とあります。「気をつけるべき自分」とは、「喜びの訪れ(福音)」を担わされている自分です。「大混乱が来た時に、大混乱の中で信仰のために弁明をしなければならなくなる時があるだろう―(世界中の多くのキリスト者が直面していることです)。しかしそこで、自分自身に目を留め続けなさい。自分を生かしている喜び(福音)に目を留め続け、立ち続けることが出来るように、自分に気をつけていなさい」とイエスは言われるのです。言葉を換えると「あなた方は、福音を、喜びの知らせを、語り伝えるのです、それがあなた方の立つべきところです」と言われたのです。
 アメリカで同時多発テロが起こった時、「彼らは彼らの信じる神のために命を賭けた」というような報道がありました。私は一瞬「それではキリスト教と一緒ではないか」と思って混乱しました。その時、ある本に「命をかけて人を殺すか、命をかけて人を愛するか、その違いだ」と書いてあるのを読み、スッキリ整理してもらった気がしました。私達は、隣人を愛するからこそ、福音を、真の喜びを、伝えるのです。私達の生きるべき一筋の道は、救われている今を喜び、これを宣べ伝えることです。だから迫害の中で「マルコ福音書」を読んだ人達は、伝道に勤しんだのです。自分の信仰だけを大切にして生きるようなことをしなかったのです。いつでも伝道したのです。「私達を生かす喜び、あなた方を生かす喜びがここにある」と告げたのです。「10節」の「福音がまずあらゆる民族に宣べ伝えられなければなりません」(10)の「…ねばなりません」は、人を救おうとされる神の御心を示す言葉です。だから彼らは、その御心に生きたのです。2000年後の日本に生きる私達も、同じメッセージを受け取らなければならないと思うのです。
 先日、アナバプテスト・セミナーが開かれましたが、8年前に東京でセミナーが行われた時、私は忘れられない言葉を聞きました。アナバプテストは、メノナイトは、多くの殉教者を出した群れです。先日もディレク・ヴィレムスの話をしました。彼は、敵を愛するために殉教して行くのです。しかし私は、殉教と今を生きる自分が結びつかなかったのです。(皆さんはどうでしょう)。東京で聞いた言葉とは「現代の殉教とは、地方で福音を宣べ伝えることである」という言葉でした。伝道は難しいです。皆さんも、それを経験して来られたことでしょう。先日も救霊祈祷会で1人の姉妹が「最近知り合った女性の救いのために、教会に誘ったりしているが、難しいのでとにかく祈っている」と証しをしておられましたが…とにかく難しい。しかし、難しい、困難があるからこそ、「現代の殉教とは、地方で福音を宣べ伝えることである」と表現されるものなのだろうと思うのです。
 日本は、世界でも稀なクリスチャンの少ない国だと言われます。キリスト教に対して最も敵対的だと言われるイスラム教を国教とする国にも、3%くらいのクリスチャンがいると言われるのです。日本は、1%と言われて久しい。なぜこんなにクリスチャンが少ないのか。分りません。教会の働きが足りないのかも知れません。牧師の私などは、反省しきりです。しかし一面から言えば、日本のクリスチャン人口は、増えはしませんが、極端に減りもしない。私は、神様が日本のクリスチャンに期待して、恵みの御手で日本のキリスト教を支え続けておられるのだと思うのです。であればこそ私達も、この時代に、この国で「福音を語る、証に生きる」、その一点に固く立たなければならないと思うのです。それが御心を生きることです。私達も、一緒に伝道に励みましょう。そこが私達の立つところです。
「福音を語る、証に生きる」というと、とても難しいことを負わされたような気がします。しかし、ここでイエス様は「彼らに捕えられ、引き渡されたとき、何と言おうかなどと案じるには及びません。ただ、そのとき自分に示されることを、話しなさい。話すのはあなたがたではなく、聖霊です」(11)と言われます。私達は捕らえられるような状況にはありませんが、申しあげたように、福音を語るということには、恐れが伴います。しかしイエス様は「案じるには及びません」と言われます。なぜなら「聖霊がすでに私達の中にあって、私達の言葉さえ作って下さる」と言われるのです。ある牧師が次のように言っておれます。「『言うべきことは、その時に示される』のです。『話すのはあなたがたではなく、聖霊です』。人間が頑張って、証はなされるものではないのです。証ししてやろうと決心して出来るものではありません…語るべきことは『授けられる』のです。いや、そもそも語るのは私達ではなく、『父の霊』なのです…証しはさせて頂くものだ、そう思いたい」(小島誠志)。私達がすることは、「機会が与えられたらいつでも救いの証し、神の恵みの経験、与えられた言葉を語ろう」、そう心備えをすることではないでしょうか。あとは、神がして下さるのです。
さらにこの先生は、「証に生きる」ことについて次のような励ましも語っています。「『証』というものは特別な行為であってはならないのです…現実のうっとうしいあれこれの出来事に足をつっこみながら、生きている信仰が証しです。苦しいと言って呻き、悲しいといって泣き、自分の弱さに何回もつまずきつつ、神によりすがって生きて行く、それが私達の信仰生活です。それは…しばしばはなはだカッコ悪いことです。それで良いのです。どんなにカッコ悪く、つまずこうが叫ぼうが、その人間の支えられている土台というものは現れてくるのだと思います」。プロゴルファーの中島常幸さんの弟の篤志さん、彼はお父さんが亡くなって、ゴルフ場経営の重荷をいっぺんに負わされ、心を病んで入院するのです。でもその時に兄の常幸さんからもらった聖書と三浦綾子さんの本で立ち直って行くのですが、彼に決定的な影響を与えたのは、テレビで見た兄常幸さんのプレーしている姿でした。中島常幸さんも、信仰によってカムバックを果たした人ですが、篤志さんは兄を見て、理屈抜きで「神が兄を生かしている、兄は神の力によって生かされている」と強烈に感じるのです。そして「ここにしか自分の生きる道はない」と確信させられて、信仰の道を歩み始めるのです。
 私達が神にすがって生きること、そこに既に「証」がある、福音のメッセージがあるのです。終末に生きる私達も、主の御心を生きたい。身の丈にあったもので良い、「証」に、神の御心に、生きて行きたいと願います。
 

2)終末を生きるキリスト者の生き方としての「忍耐」

 この個所のもう1つのテーマは「忍耐」です。(短く話します)。「12~13節」「また兄弟は兄弟を死に渡し、父は子を死に渡し、子は両親に逆らって立ち、彼らを死に至らせます。また、わたしの名のために、あなたがたはみなの者に憎まれます。しかし、最後まで耐え忍ぶ人は救われます」(12~13)。「耐え忍ぶ」、それは「しっかり立つ」という意味の言葉でもあります。イエス様は「しっかり立ちなさい。最後までしっかり立ち続けなさい」と言われます。申し上げたように、「世の終わり」、それは、信仰者にとっては、「天国への凱旋」を意味します。しかも、「天国に凱旋するまでしっかり立つ」、その天国の幻はイエス様が与えて下さった目標です。だから、イエス様が支えて下さる、イエス様が立たせて下さるのです。
 私は、水野源三さんについての文章を思います。瞬きしか出来なかった水野さんにとって、そのご生涯そのものが大混乱の中にあられたことでしょう。でもこう書いてありました。「大人も子供も、源三を支えているのは、神以外の何ものでもないことを知っていた。それは何か大きな出来事を通してということでなく、日常の落ち着いた迷いのない彼の生き方を見て、そう思わずにはいられないようにされていたのだ。源三は…信仰によって人は変えられ、神によって豊かにされることを、まのあたりに実証して見せた。それは源三の力ではない。神の力であることを、人々は信じた」。ここに聖書の語る「忍耐」が成り立つのです。神が支えて下さるのです。 
 確かにこの世的には、私達にも、今も、様々な困難があります。大なり小なり、皆さんが何がしかの戦いの中におられると思います。その延長に「終末」がある。しかし、私達も主のものです。最終的には、私達は救われるのです。そして、その時まで、神が私達の信仰を支えて下さるのです。私達はそのことをしっかり見据えて、どんな困難があったとしても、どれもこれも主の支配の中で起こっていることであり、永遠の勝利に結びついていることを信じて、忍耐を持って信仰をしっかり守って行くこと、願わくは証しに生きること、それが大切なのだと思います。そのように生きる私達にイエス様は言って下さいます。「わたしは、世の終わりまで、いつも、あなたがたとともにいます」(マタイ28:20)。感謝です。