2022年11月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:マルコ福音書12章38~44節 

 私は、作家の三浦綾子さんのお若い頃の講演のCDを最近見つけて、時々聞いています。綾子さんは、講演の終わりで、夫の光世さんのことを褒めます。「彼は『光世』と書いて、逆さに読めば『世の光』です」と言った後、「あぁ、こんなこと言うんじゃなかった」と言い、「しかし本当に彼は『世の光』です」とまた言われるのです。それだけ、彼女の人生にとってご主人の存在、というかご主人の信仰というか、それが大きな救いだったのだと思います。綾子さんが本格的に作家活動に入った時、光世さんに「口述筆記をして欲しい」と頼まれたのです。光世さんは、公務員の仕事を止めて口述筆記に専念することにします。多くの人が、仕事を止めることを反対したようです。「奥さんは身体が弱いんだし、作家なんて、いつ書けなくなるか分からないんだから、止めちゃだめだよ」。しかし光世さんは「綾子の仕事は神様の仕事、神様が養って下さいます」と言って、スパッと止めてしまったのです。私はこの話から、「『信じる』ということは『信頼する』とことである」ということを学ぶのです。
 今日の箇所は、「信じて生きるとはどういうことか」、そういうテーマに光を投げかける個所です。内容、メッセージ、適用、と分けて学びます。
 

1:内容~人の前の信仰か、神の前の信仰か

「イエス様の最後の一週間」の火曜日の話が続きます。12章38~40節でイエスは弟子達に「律法学者(律法の教師)についての警告」を語っておられます。律法学者とは、誰よりも律法に精通し、神の言葉に触れている人々でした。その意味で誰よりも信仰的であるべき人々でした。しかし、実際はどうだったのか。イエス様は、彼らの姿を「彼らは、長い衣をまとって歩き回ったり、広場であいさつされたりすることが大好きで、また会堂の上席や、宴会の上座が大好きです」(38~39)と描写しておられます。彼らは「律法の教師」としての立場を誇っていました。それだけなら良いですが、そのプライドによって、他の人を見下げるようになって行くのです。そして人より上にいること、人から一目置かれることを心地よく思う、そうなって行きます。ある律法学者が、顔を歪めて家に帰って来ました。家人が理由を尋ねたら、彼は広場で挨拶を受けましたが、その挨拶は「あなたに豊かな平安がありますように」という挨拶であり、そこに「私の主よ」という言葉が入っていなかった、それで大いに気分を害したというのです。いかに彼らが人から尊敬されることを期待し、当然のことと考えていたかが分かります。さらにイエス様は「また、やもめの家を食いつぶし、見えを飾るために長い祈りをします」(40) と言われます。律法は「やもめや孤児の権利を守るよう」に教えています。彼らは「あなたの権利を守ってやろう」と言ってやもめの家に出入りしたのでしょう。確かに弁護の務めも果たし、やもめの権利を守ることもしかたも知れません。しかし一方で、その女性たちに「見返り」を求め、利益を貪るようになったようです。イエス様は「彼らのこのような信仰のあり方」を厳しく非難されました。
 しかし、他方41~44節に対照的な「信仰の姿」が描かれます。イエスは神殿の「婦人の庭」と呼ばれる場所に座っておられたのでしょう。「婦人の庭」には、神殿に献金する人々が献金を捧げるためのラッパの形をした献金箱が13個置かれていました。献金箱には、色々な人々が献金を投げ入れていました。金持ちは、これ見よがしに沢山の献金を投げ入れたかも知れません。そこへ貧しいやもめがやって来て、2レプタ(100円ほど)の献金を入れたのです。それは彼女にとって、生活費の全部だったようです。その姿を見てイエスは「この貧しいやもめは、献金箱に投げ入れていたどの人よりもたくさん投げ入れました…この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」(43~44) と言って彼女を称賛されたのでした。
 

2:メッセージ~神は真実の信仰を祝福される

 法学者の問題は何だったのか。イエス様は「山上の説教」―(マタイ5~7)―の中で「彼らのまねをしてはいけません」(マタイ6:8)と言っておられます。彼らというのは、律法学者でありパリサイ人です。その「山上の説教」の中に「人に見せるために人前で善行をしないように気をつけなさい」(マタイ6:1)という言葉があります。ある英語の聖書は「人に見せるために人前で宗教をしないように気をつけなさい」と訳しています。彼らの問題は、「人を相手にした信仰であった」ということです。彼らは、神に仕えるのではなく、人に一目置かれること、人に仕えられることを喜んだ、自尊心が満足されることを喜んだ。しかもそれは、やがては自分の地位を利用して利得を貪るようになったのです。そこに決定的に欠けているもの、それは「神の前に立つ、神を愛する、神に仕える姿勢」です。彼らの信仰には、「生ける神様」が計算に入っていないのです。
 そのことを鮮明に浮かび上がらせるのが、貧しいやもめの姿です。彼女には、宗教を人に見せよう等という思いはない。イエス様が見ておられることすら気づかなかったのです。ここで大切なのは「この女の人は、どうして生活費の全部を献金として捧げたのか」ということです。「福音書」の記述だけでは、良く分かりません。やもめは、人に自分の敬虔を見せようとはしていない。逆に献金額が少ないことを恥ずかしがっている風もありません。恐らく当時の男性優位社会で辛い経験もしていたでしょう。しかし、それを訴えながら悲壮感と共に捧げている風もありません。では、なぜ彼女は生活費の全部を捧げたか。結局、分かりません。分かりませんが、イエス様がなぜ、彼女の献金(信仰の業)をこれほど喜ばれたのか、そこに彼女の献金のことを考えるヒントがあります。
 44節「この女は、乏しい中から、あるだけを全部、生活費の全部を投げ入れたからです」(44)。この「乏しい」という言葉は「貧しいけど、幾らかはある」という貧しさを表す言葉ではない、「何もない」という「貧しさ」を表す言葉のようです。その「貧しさ」の中から生活費の全部を捧げたのです。「生活費」と訳されている言葉(「ビオス」)は、「生涯」とか「命」とも訳される言葉です。そうするとイエス様の言葉は「やもめは極貧の中で命を捧げた」ということになります。どういうことかというと、1人ではやっていけないのです。誰かを信頼し、すがらなければやっていけない。その中で彼女は、誰に信頼を寄せるのか。誰に命を預けるのか。彼女は神を信頼したのです。神に委ねたのです。ある人が言いました。「『愛する』ということは、『愛して下さる方に全てを委ねようとすること』である」。であれば彼女は、命を懸けて神に信頼し、神に委ねることを通して神を愛したのです。イエスはある時言われました。「一番たいせつなのはこれです。『…心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ』…」(マルコ12:29~30)。ある意味で彼女はこの言葉を生きて見せたのです。命懸けで神に信頼する姿を、イエス様の前に見せた。誰が見ていようが、見ていまいが、神の支配している世界にいたのです。
 今日は「信じて生きるとは、どういうことか」というテーマで考えていますが、このテーマで思い出されるのは、デートリッヒ・ボンヘッファーという人です。ナチスが支配していたドイツにあって、ナチスに抵抗した数少ない教会指導者の1人です。優れた神学者でもありました。彼がアメリカに留学していた時、同僚の研究者が「僕は聖人になりたい」と言いました。(カトリック教会では信仰の偉人を「聖人」として列福します)。それに対してボンヘッファーは「僕は信じることを学びたい」と言ったのです。「信仰を持って生きるとはどういうことなのか、それを追求して行きたい」ということです。そして、ナチスの支配するドイツに戻り、大変な社会の中でそれを求め、そして彼が到達した答は、「今日、キリスト者であるということは、祈ることと人々の間で正義を行うこと、その2つのことで成り立つだろう」というものでした。その当時、「真の祈り」と「正義の行い」が、クリスチャン達の間から無くなっていたのかも知れません。さらに次のようなことも言っています。「信じる者は、(主の言葉に)従順である。従順な者だけが信じる」。「主の御言葉に従っていなければ、本当に信じているとは言えない」と言うことでしょうか。ボンヘッファーは、最後は「平和的な方法ではどうにもならない」と判断して、一部の軍人と協力してヒットラー暗殺を企て、終戦の直前に処刑された人です。その人が、未だに全世界のクリスチャンに影響を与えている、その秘訣は何でしょうか。ボンヘッファーの墓には、「兄弟達の間でキリストの証人であった」と刻まれているそうです。多くのクリスチャンがナチスの宗教政策になびいて妥協して行く中で、ボンヘッファーは、「主はクリスチャンに何を願っておられるのか、どう生きることが主を証しすることなのか、神の栄光につながることなのか」、そういうことを真剣に求めたのです。「ヒットラー暗殺計画」については賛否両論あります。それはそれとして、ボンヘッファーは、置かれた時代、置かれた環境で、真にキリスト者たろうとした、主に忠実であろうとした、その信仰者としての生き方が、多くのクリスチャンの心を捉えているのではないかと思います。
 やもめの姿が私達に教えること、それは「宗教のリーダー達でさえ人間的な満足を求め、自分の利益を求めて、神に仕える姿勢を失っていた、宗教が死に掛かっていた、真に神に仕えることが困難な時代だった、しかしその中で、彼女は、ただ神を信じ、神を愛し、神を信頼し、神に委ねた」ということです。生活費を捧げて、彼女はこの後どうやって食べて行くのか…そんなことは(たぶん)「余計なお世話」なのです。というか「なぜイエスが彼女のことを知っておられたのか」、マルコは、それを書きません。でも書かないというよりも、むしろ「神であるイエスが、彼女の献金やその背後の事情について知っていたのは当然のことだろう」と理解していたのではないかと思うのです。つまり彼女のことは神が知っておられた。生活費を全部捧げた彼女を、神が何らかの方法で、誰かを用いて世話をして下さった、そのことが、ここには暗に語られているのではないでしょうか。
 ラジオ牧師だった羽鳥明先生の話を思い出します。アメリカの神学校で学んでおられた頃、学費が高い、先生はアルバイトに明け暮れていた。しかし、ある時に思いました。「私は神に仕えるために学んでいるのに、やっていることと言えば、金儲けだけじゃないか」。それからアルバイトに使う時間を、神を伝えるために使うようにしました。収入は減りました。しかし、ある日学校に授業料を納めに行くと「あなたの分はもう収められていますよ」と言われたそうです。神様が誰かを使って祝福を注がれたのです。神は、そういうことを為さるお方です。
 いずれにしても彼女はここで「私の生きることの全てを御手に委ねます、信頼します」と言って礼拝を捧げたのです。その彼女に、イエス様は大きな励ましを感じられたのではないでしょうか。イエス様は、これから神に全てを委ねて、神の御心に従って十字架につこうとされています。そのイエス様にとって「神だけを見つめて、神に全てを捧げて、神に応答しようとしている彼女の姿」は、(人間的な言い方をしますが)イエス様に信仰者としての励ましを与えたのではないでしょうか。
 

3:適用~置かれた時代、置かれた場所で、真の信仰に生きる

 もう1つボンヘッファーの言葉を紹介します。彼は言います。「1人になることが出来ない人は、交わりに入ることに気をつけなければならない」。交わりは楽しいし、有り難いし、素晴らしいものです。ある人が言いました。「信仰は、知識を積み重ねて行って徐々に成長して行くものではない、それは、神によって、また交わりによって引き上げられて行くものである」。私も兄弟姉妹の信仰の姿から、どれだけ沢山のことを学ばせて頂いているか、どれだけ多くの信仰の励ましを頂いて来たか分かりません。その意味でも教会の交わりは素晴らしい。しかし素晴らしいだけに、うっかりすると「交わりの中に身を置くことで、信仰生活をしているような気になってしまう」危険があると思うのです。「1ヨハネ」に「私たちの見たこと、聞いたことを、あなたがたにも伝えるのは、あなたがたも私たちと交わりを持つようになるためです。私たちの交わりとは、御父および御子イエス・キリストとの交わりです」(1 ヨハネ1:3)とあります。信仰者の交わりの基本は、御父と御子と御霊の「三位一体の神」が持っておられる豊かな交わりの中に、私達1人ひとりが入れられて行くことです。私達にとってまず大切なのは、信仰を「(律法学者ように)人との関係」で行うのではなく、「神との関係」で行うことです。1人で神の前に出て、神との1対1の何にも妨げられないような関係を持つことです。結果として、その人の神への信仰(神との関係に生きる姿)は、横にいる1人1人の信仰を励まして行きます。私達の信仰に力を与え、感化を与え、信仰を学ばせてくれるのは、その人の信仰の姿、神との交わりの姿、神との関係に生きている姿です。
「神との関係において信仰をする」とは、大げさに聞こえるかも知れませんが、要は、神は私に何を望んでおられるのか、どうすることを喜んで下さるのか、それを大切に生きることではないかと思うのです。
「ボンヘッファーは、キリスト者として生きることが困難な時代に道を求めた」と申し上げました。この寡婦もまた、神に仕えることが困難な時代に生きたのでしょう。今の時代はどうでしょうか。私は―(何度もお話ししますが)―森繁昇さんの話を思い出します。彼がサウスダコタをドライブしている時、「ここで生まれて、生活していたら、どうだっただろう」と思っことがあったそうです。その時、神の声が聞こえて来ました。「私は、お前をここに生まれさせていない。日本に生まれさせたのだ」。別の時、佐渡島に行った時、彼はそこで切支丹殉教の碑を見たのです。その時、彼は思うのです。「私がこの時代に生きていたら、信仰を守って殉教できただろうか。それとも信仰を捨ててしまっただろうか」。その時も、彼の心に響く神の声がありました。「私は、お前をあの時代に生まれさせていないのだ。今の時代に生まれさせたのだ」。彼は思いました。「それは不公平じゃないですか。あの頃の人は命を賭けました。私は命を賭けていません」。そうしたらまた声がありました。「私に従って来るのは、あの時も今も、同じだけ難しい。私に信頼する人だけが出来るのだ」。彼は、普段の生活で神に従うことの難しさ、従っていない自分の姿を思い巡らして、神の声に納得するのです。私達が信仰者として生きるように召されているのは、この時代、この場所です。私達はここで「神を信じて生きるとはどういうことなのか」、キリスト者としての道を求め、少しでも神に喜ばれる信仰生活を営んで行きたいと願います。それは結果として私達に、また信仰の仲間に、信仰生活の祝福をもたらすに違いありません。
 

聖書箇所:マルコ福音書12章35~37節 

 アメリカの中間選挙が話題になっていますが、選挙になると、メディアが町に出て「選挙に行きますか」と聞きます。ある人は「行きません」と答えます。「どうしてですか」と問うと、「誰がなっても変わらないからです」という返事が返って来ることが多いと思います。現代日本の政治ではリーダー1人が代わっても、政治・社会が劇的に変わるということはないかも知れませんが、問題が山積している社会にあって、見事に物事を解決して、国を良い方向に導いてくれる、そんなリーダーが現れることを、どこかで期待する思いは、依然としてあるのではないでしょうか。イエス様の時代のユダヤ人は、そのようなリーダーの出現を熱烈に待っていました。
 今日の個所に「キリスト」という言葉が出て来ます。「キリスト」という言葉は、ヘブル語の「メシア」をギリシャ語に訳したものです。ヘブル語の「メシア」とは、元々「油注がれた人」という意味でした。イスラエルでは、王、大祭司、預言者など、神の特別の働きをする人には、その人の頭に香油を注いで職に着かせました。その「香油を注がれた人」のことを「メシア」と言ったのです。ところが、イスラエル人(ユダヤ人)が大国の支配の中で長い苦しみを経験するようになると、人々の中に「ただ『王、大祭司、預言者』、そういう人ではなく、『神から直接送られるような超自然的な力を持ち、超自然的な働きをする人、この世を変えて、人々に祝福を分け与えることが出来るような存在』、そういう存在が現れなければもうどうしようもない、神はそういう存在を送って下さるに違いない」という期待が生まれて来るのです。そして、そのような「超自然的な存在」のことを「メシア」と呼ぶようになるのです。その時、人々の思いは、支配される側ではない、近隣諸国を支配していた側であった時の王、ダビデ王に行くのです。外国から苦しめられれば苦しめられるほど、人々は、ますますダビデ王を理想化し、英雄化し、やがて「我々が待っているメシアはダビデ王のような方であり、それは、ダビデの子孫として生まれて来るに違いない」という考え方が広まるのです。「ダビデ王のようなメシアが、ダビデの子孫から生まれて来る」、その待望の思いが人々の心に溢れていた、それがイエス様の時代であり、今日の個所の背景です。
 前回までの箇所でイエスの答えに参った宗教指導者達は、もうイエスに議論を持ちかけようとはしませんでした。彼らが質問しないので、イエスの方が質問された、そのような箇所です。「内容」と「適用」と学びます。
 

1:聖書の内容~「ダビデの子」を遥かに超えるキリスト

 イエスは問われます。「律法学者たちは、どうしてキリスト(メシア)をダビデの子と言うのですか」(35)。「『メシアとはどういう者か』、そのことについて人々の目を開こうとされる」のです。律法学者達を中心に「メシアは『ダビデの子―(ダビデの子孫、ダビデのような者)』」という考え方が勢いを持っていました。だらか「イエスこそがメシアだ」と思った人達は、イエスのことを「ダビデの子」と呼んだのです。10章でイエスがエリコに入られた時、イエスはバルティマイという目の不自由な人を癒されますが、彼はイエス様に向かって「ダビデの子イエスよ、私をあわれんで下さい」(10:48)と叫びました。イエスはその叫びに応えて彼を癒されました。
 そのように本当に「キリスト(メシア)」であったイエス様は、ご自分が「ダビデの子」と呼ばれることを、拒否はされませんでした。それはつまり「『やがてダビデの子孫からメシア(救い主)が生まれて来るに違いない』と人々が切実に待っている、そこに込められている人々の悲しみ、苦しみ、痛み、切実な願い、それらを受け止めようとされた」ということです。人々の心の中に、イエスは入り込もうとされたのです。そして、実際にイエスは、「ダビデの家系」から生まれて来られました。それは「マタイ福音書」等の系図が示す通りです。そしてそれは、かつて神がダビデ王に「…わたしは、あなたの身から出る世継ぎの子を、あなたのあとに起こし、彼の王国を確立させる…わたしはその…王座をとこしえまでも堅く立てる」(2 サムエル7:12-13)と約束された、その約束が成就したことを意味しました。
 しかしそれでも、イエス様の「メシア」としての働きは、「ダビデの子」という表現では不十分なのです。「ダビデの子」と表現される「メシア」とは、「ダビデ王のように強力な武力で政治的・軍事的にイスラエルをローマの支配から解放してくれる救い主」という意味合いが強かったのです。しかしイエスは、そのような―(「ユダヤをローマから解放する」というような)―目的のために来られたのではありません。
「そのことを人々に理解して欲しい、『メシア』を『ダビデのような政治的な存在』として理解する考え方を変えて欲しい」、そのためにどうすれば良いのか。イエスは、「キリスト(メシア)」を「ダビデの子」以上の存在として示すために、「詩篇110篇1節」を用いられました。「詩篇110篇」は、ダビデが詠んだ詩です。その詩は何を語るのか。36節の「主は私の主に言われた」は、「詩篇」では「は私の主に仰せられる」(詩篇110:1)となっていて、その「最初の『』」は太文字で書かれています。「新改訳聖書」が太文字で「主」と書くのは、原典のヘブル語聖書に「ヤハウェ」と「神の本名(固有名詞)」が書かれている場合です。ですからこの言葉は、「『神なるヤハウェは、私(ダビデ)の主(であるメシア)に言われた』とダビデが言った」ということになります。つまり「ダビデ自身が『来るべきメシア』を『わが主』と呼んでいる」ことになります。「であれば、どうして『メシア』が『ダビデの子孫』であろうか」というのがイエス様のポイントです。「ダビデ自身が本当の『メシア』は、自分を遥かに超えた存在である』ということを知っていたのだ。そして『メシア』とは、そのような者なのだ」、イエスはそう問うて、人々の「メシア観(キリスト観)」を変えようとしておられるのです。言葉を換えれば、「救いとは何か」について、人々の理解を変えようとしておられるということです。
 政治的・軍事的な解放によっても、世の中は変わるでしょう。少なくても外国人による不当な支配から抜けられれば、それは大きなことでしょう。しかし、それで全てが解決するかと言えば、そうではないのではないでしょうか。もちろん、為政者には「良い政治」をしてもらわなければなりません。しかし「国が変わり、支配者が変わり、政治が変われば、それで人間の問題が全て解決するか」と言えば、そうではありません。
 ある時、熱心な浄土真宗の方と話をしたことがあります。浄土真宗の教えがキリスト教の教えと似ているのに驚きました。その方とお話しした後、少し仏教の本を読みました。その本によると、私達が使う「四苦八苦」という言葉は仏教用語のようです。「四苦(四つの苦しみ)」とは、「生・老・病・死:生まれること、老いること、病気をすること、死ぬこと」を言い、それに、さらに「4つの苦しみ」が合わさって「4つの苦しみ(+4つの苦しみ)で8つの苦しみ」ということで「四苦八苦」と言うようです。後の「4つの苦しみ」とは、「①愛する者と別れなければならない苦しみ、②恨みに思う者、憎んでいる者に出会わなければならない苦しみ、③求めているものが得られない苦しみ、④自己に執着するところから来る苦しみ」だそうです。藤井圭子という伝道者が「仏教は人間が到達した最高の哲学です」と言っておられましたが、「なるほど」と思わされました。例えば人間の苦しみがそういうものであるなら、それは政治ではどうしようもないのです。人が生きて毎日の生活をする中で起こって来る様々な問題―{人間関係の問題、心の中の痛みや憎しみや、そういったものによる苦しみ、人間が自分を(回りの人を)苦しめてしまう罪の重荷}―そういったものは、政治が変わっても相変わらずあるのです。私達は、それに苦しむのです。だから真の「救い主」は、私達の生きる現実の問題の中で、私達を支え、慰め、立たせ、取り扱い、生かして下さる存在でなければならないのです。また釈迦が言われたように、愛する人と別れることは苦しみです。死の問題は、人間の最大の問題です。「全ての苦しみは、突き詰めればその根っ子には死の問題がある」と言った牧師がいます。そしてそれは、人間の力ではどうにもならない問題です。しかし、そこに光を当てて下さる方こそ「本当の救い主」なのではないでしょうか。さらに、私達にとってより重要な問題は、もし「メシア/救い主」が「ダビデの子―(ダビデのように政治的・軍事的にイスラエルを解放し再興される方)」であるなら、「そんな救い主は、私達とは何の関係もない」ということです。その救い主は、2000年後の私達を救うことは出来ないのです。私達の「救い主/メシア」とは成り得ない。
 しかし感謝なことに、イエスは「どうしてメシアは、ただ『ダビデのような者』であろうか」と、「もっと大きな存在だ」と言って下さるのです。では、どんな存在か。「マタイ福音書」の平行個所は、次のような言葉で始まります。「イエスは彼らに尋ねて言われた。『あなたたちは、キリスト(メシア)について、どう思いますか。彼はだれの子ですか』」(マタイ22:41~42)。「あなたがたは、『キリスト/メシア』についてどう思うか」、それは言うならば「あなた達は『メシア/キリスト/救い主』をどのような方として見ているのか」ということです。イエスの弟子達も、この質問を聞いていました。しかし弟子達も、この質問に答えられなかったのです。なぜなら、彼らもイエスを「地上の王、イスラエルを解放してくれる王、『ダビデの子』という意味でのメシア」だと考えていたからです。しかしその「メシア像」は、彼らの生きる現実に何の力にもならなかった。なぜなら、彼らは十字架を前にして、クモの子を散らすように逃げてしまうからです。
しかし、その彼らが立ち上がる時が来るのです。イエスの復活を目撃し、聖霊の降臨を受けて、彼らは立ち上がるのです。そして彼らの「メシア理解」は変わります。ペテロは、聖霊を受けた後、それまで恐れていた指導者の陣取る神殿に出て行って、そこで世界で初めてのキリスト教のメッセージを語ります。「神は…イエスをよみがえらせました…神の右に上げられたイエスが…今あなたがたが見聞きしているこの聖霊をお注ぎになったのです。(あなた方が希望を持っている)ダビデは天に上ったわけではありません。彼は自分でこう言っています。『主は私の主に 言われた。わたしがあなたの敵をあなたの足台とするまではわたしの右の座に着いていなさい』。ですから、イスラエルのすべての人々は、このことをはっきりと知らなければなりません。すなわち、神が、今や主ともキリストともされたこのイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(使徒2:33~36)。ペテロは「メシアとはどういう存在か」、その答えが分かったのです。分かったから、イエスが用いた「詩篇」を引用して語ったのです。「人間の王なんかではない。十字架で死なれ、しかし死から復活され、今も生きて、私達をこのように力づける『神の霊・神の力(聖霊)』を送ることの出来る方、このイエスこそがメシアなのだ。メシアとはそんな方なのだ」。ペテロのメッセージを聞いて、「私たちはどうしたらよいでしょうか」(使徒2:37)と応答した人々にペテロは言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくためにイエス・キリストの名によってバプテスマを受けなさい。そうすれば賜物として聖霊を受けるでしょう」(使徒2:38)。これは次のように言い換えることが出来ると思います。「聖霊を通して神と共に生きて行く生き方があるのだ、聖霊によってどうにもならない現実の中を強められながら生きて行く生き方があるのだ。聖霊の命によって死も恐れなくて良い生き方があるのだ。イエスは聖霊を送って『本当の救い』を経験させて下さる方なのだ)」、彼はそう言ったのです。
長く話しましたが、しかし申し上げたかったことは、「『メシア/キリスト』なるイエス」は、ご自身が言っておられるように、単なる指導者や教師や支配者、そんな存在ではないということです。死から甦り、2000年後の今も生きておられ、御言葉と聖霊の働きを通して私達の生きる現実に神の御業を運んで下さる方だということなのです。
 

2:信仰生活への適用~イエスをキリストとして生きる

 ではこの箇所は、私達の信仰生活に何を語るのでしょうか。イエスは問われました。「あなた達は『メシア/キリスト』をどのような方として見ているのか」、この箇所の信仰生活への適用は、「私達が私達の主イエスをどのような方としてとらえているか」ということだと思います。
 イエス様は「私はあなた達の考えている『救い主』よりも、もっと大きな存在だ」と言われました。では、私達はそのイエスを、どのような方として受け止めているでしょうか。「私に神の言葉を聞かせて下さる方、御言葉と聖霊の導きによって、生きる意味と、生きる力と、生きる希望と、生きる道を下さる方、祈ろうとする時には、この方がいるから私は祈ることが出来ると思わせて下さる方、生きることも死ぬことも委ねることが出来る方、私の生きる現実に神の業を見せて下さる方…」、まだ色々な言い方が出来るでしょうが、いずれにしても、本気になってそのような方として理解し、人生に位置づけているでしょうか。なぜこういうことを申し上げるかと言うと、ある神学者が言いました。「日本人クリスチャンは頭と体が別々。頭では信仰をするが、体では信仰をしない。信仰が生きる現実になっていない。頭だけの信仰だから、捨てようと思えばすぐに捨てられる」。「頭だけの信仰」、それがイエス様を捨てた弟子達の「メシア理解」でした。イエス様の方が「私はあなたが考えているよりも偉大な救い主だ」と言われるのですから、私達の方もそのイエス様を、そのような方として受け止めなければならないと思います。(言うならば)イエス様が「私が生きる全ての全て」になることが、私達の信仰の成長ではないでしょうか。
 先日、「アナバプテスト・セミナー」がありましたが、「この絵」は、アナバプテスト・メノナイトとして生きたディレク・ヴィレムスという人のエピソードを記す絵です。彼は、再洗礼を受けたという罪で捕らえられ、牢獄に閉じ込められました。しかし、運良く牢獄から脱出することが出来ました。彼は、氷の張っている池を走って逃げました。ところが、彼の脱獄に気付いた官憲が追いかけて来ました。彼は牢につながれて痩せていましたから、氷は割れませんでした。官憲は良く食べ、良く飲んで太っていましたから、氷の上を走ったら、氷が割れて池に落ちてしまいました。その時、ディレク・ヴィレムスは、官憲が落ちたのを見て喜んだのではなく、イエスの「あなたの敵を愛しなさい」(ルカ6:27)の言葉を思い出したのです。そして彼は、自分を追いかけて来た官憲を助けに行ったのです。その結果、彼はまた逮捕されるのです。それでもイエス様の言葉に生きたのです。(先日召天された兄弟が証しされた神父の話にも通じる話です)。これはあまりにも英雄的な話ですが、彼は「イエス様には命がけで従っても惜しくない」と思ったのです。極端な話です。しかし「キリストをどう受け止めるか」、それは具体的には、このような問題なのではないでしょうか。
私達は、私達の主が、政治的な指導者として来られたのではなく、私達の生きる現実に関わるために来られた方であること、私達を生かすために自ら命を捧げて下さった方であること、復活して今も生きて私の現実に関わって下さる方であること、その方を「私の主」として生きる者として、本当に「主の恵み」に応える生き方をしたいと願います。
イエスは、「私はあなた方の思いを遥かに超えた救い主である」と言われます。私達は、イエス様をそのような方として本気になって受け止め、本気になってイエス様と共に生きて行きたいと願います。
 

聖書箇所:ルカ福音書24章13~35節 

 会堂での礼拝が始まり、教会も復活したような気持ちがします。また新しい気持ちで、皆で教会の歩みを造って行きたいと願います。そのような意味で、今朝は、私達の希望についてもう一度確認して、その希望を胸に、新しい歩みをしたいと願い、復活の記事を御一緒に学びたいと思いました。
さて、以前もお話ししたかも知れませんが…。又吉直樹というお笑い芸人の方がおられます。今は芥川賞作家としての方が有名です。親御さんはクリスチャンで、彼もかつて教会学校に行っていたそうです。その彼が、一昨年でしたか近畿大学の卒業式で、20分程のスピーチをしています。最後の部分で語っていたのは次のような言葉でした。「辛いこと、しんどいことが続く時は、これは次に良いことが起こる予兆だと考えるようにしている。水も喉が渇いている時に飲んだ方が美味しいように、しんどいことがあったら、必ず楽しさが倍増するようなことがあるんだって信じるようにしている。『バッドエンド(悪い終わり)はない。僕達は途中だ』というのが実感です。しんどい夜の先に、続きがある、そのことを思って頂けたらと思います」。親御さんの影響でしょうか、聖書に、もっというと「主の復活」に、通じるスピーチのように感じながら聞きました。
 

1:内容

 今朝の箇所は「エマオ途上」と呼ばれる箇所です。この記事は「聖書の中で最も美しい記事」だと言われます。イエスの十字架から2日後、日曜の午後、エルサレムからエマオという村に向かって歩いて行く2人の弟子がいました。イエスの弟子でしたが、十字架に直面して失望し、何もかも捨てて故郷に帰ろうとしていました。彼らには近寄って来られたイエス様が分かりません。イエスは彼らに聞かれます。「ふたりで話し合っているその話は、何のことですか」(17)。19~21節にある彼らの言葉は暗いです。「あんなに望みを掛けていたのに、結局、彼は死んでしまった。全ては虚しく終わった」、そんな絶望感が伝わって来ます。彼らだけではない。「この人が我々を支配者ローマの圧制から解放してくれる、この人について行けば良い」、弟子達はそう思ってイエスについて来たのです。
ところが、その人が、権力者に逮捕され、鞭打たれ、十字架に掛けられてしまいます。その凄まじい現実の中で、彼らはイエスを裏切って逃げてしまうのです。隠れ家に集まって恐ろしい時をやり過ごすのが精一杯でした。あるいはこの2人のように、故郷に逃げ帰るのが精一杯だったのです。ここにおいてイエスという宗教家がいたことも、イエスを中心に活動していた集団があったことも、歴史の彼方に消えてしまうはずでした。何もかも終わりのはずでした。
ところが2人の弟子がイエス様と食事の席についた時、彼らの目は開かれるのです。イエスの手に釘の跡を見たのかも知れない。彼らも信じられなかった。でも確かに目の前にイエス様がいたのです。そして彼らは「イエスの復活」という事実を理解し始めるのです。理解した時、どうしたのか。(33節)「すぐさまふたりは立って、エルサレムに戻(る)」(33)のです。エマオからエルサレムまでは11kmです。復活のイエス様との出会いによって彼らの心は変えられました。まだ明るい道を暗い気持ちで歩いて来た2人でした。しかし今度は、暗い夜道を希望に支えられて歩くのです。信仰生活を象徴しています。どんな暗闇の中でも、神から来る希望に支えられて夜明けに向かって歩くのが信仰生活です。とにかく彼らは、自分達の経験したことを仲間に知らせたくてしょうがなかった。これが、弟子達が後に復活のイエス様のことを人々に宣べ伝えて行くエネルギーなのです。
 

2:教え

 では、この箇所は、何を教えるのでしょうか。目が開かれる前の彼らはこう言っています。(19~23節の抜粋)「…祭司長や指導者たちは、この方を…十字架につけた…その事があってから三日目になります…仲間の…女たちは朝早く墓に行ってみましたが、イエスのからだが見当たらない…御使いたちがイエスは生きておられると告げた、と言うのです…」(19~23)。彼らは、御使いが「イエスは生きている」と告げたことを知っているのです。墓が空だったことも聞いています。それなのに目の前のイエス様が分からないのです。どうして彼らにはイエス様が分からなかったのでしょうか。イエス様の方にも、以前とは違う何かがあったのかも知れません。しかし彼らの方も、十字架の衝撃、あまりの失望、落胆で、反応出来ない、イエス様の出現を受け止めることは出来ないのです。しかしその一番の理由をイエスは、(25節)「預言者たちの言ったすべてを信じない、心の鈍い人たち」(25)と言われる。つまり「聖書の言葉に対して鈍い、聖書の言葉を信じていないから復活を受け止めることが出来ないのだ」と言われたのです。だからイエスは、彼らにご自身をお示しになるのに「私だよ、見てごらん。手には釘の跡があるだろう。脇には槍の跡があるだろう」という方法を取られなかった。そうではなく(27節)「聖書全体の中で、ご自分について書いてある事がらを彼らに説き明かされた」(27)のです。神が天地万物をお造りになってすぐに人間の罪の歴史が始まりますが、神はその人間を救うためにひたすら努力して来られた、それが聖書の大筋です。そこには「神が犠牲を払って人を救う」という基調があるのです。その救いの御業の頂点にイエスの十字架があるのです。しかしその十字架にぶつかった時、弟子達は、神の御旨が見えなくなって絶望してしまったのです。しかしイエス様は(26節)「キリスト(救い主)は、必ず…苦しみを受けて、それから…栄光にはいるはずではなかった…か」(26)、それが「聖書に預言されていたことではなかったか」と諭されたのです。それが「イザヤ書53章」等の預言です。そして実際イエスは、私達と神を遮る私達の罪の罰を、十字架で始末して下さり、私達が、罪赦されて神の御腕の中に飛び込んで行くことが出来るように、やがて神の御腕に抱かれて天国へ入って行けるように、救いの道(橋)を造って下さったのです。そのためにイエス様は十字架で死なれました。
しかし、十字架で終わりではなかったのです。神様の御心を為し終えたイエス様を、神様は甦らせたのです。それが神の計画でした。それによって私達には「わたしは、よみがえりです。いのちです。わたしを信じる者は、死んでも生きるのです」(ヨハネ11:25)というイエス様の言葉の確かさ、私達に与えられている救いの確かさが分かったのです。 
 

3:メッセージ

 この箇所から2つのメッセージを語られるように思います。1つは「物語を終わりにしてはいけない、終わりにしなくて良い」ということです。この2人はイエスの十字架に直面して「もう終わりだ、何もかも終わった」と思ったのです。弟子達の全部がそう思ったのです。「イエス様の墓が空だった」というニュースも、「天使が『イエスは生きておられる』と語った」というニュースも、彼らを立ち上がらせることは出来なかった、失望の極みだったのです。私は、自分が急性鬱で入院した時のことを思います。失望に打ちのめされて、何と言って励まされても立ち上がることは出来ませんでした。彼らもそうだった。しかし、それは彼らの視点から見た話だった。神様の視点では、イエス様は、苦しみの後に栄光に入ることになっていたのです。出来事の意味も、結末も、全然違うものだったのです。
この物語は「私達に起こることも同じではないか」と語るのです。私達の人生も、順風満帆な時だけではありません。時には悩みがあり、苦しみがあり、悲しみがあり、途方に暮れたり、落胆したり、そんなことが多いのです。その時、私達は先が見えなくなって、神の御心が見えなくなって失望するのです。しかし、それも人間の視点から見た話なのです。神の視点には違うものが映っているのです。私は入院した時、又吉さんが言うように「これにも続きがある」等ということは、考えることも出来ませんでした。しかし、それは私の視点でした。神様にはご計画があって、やがてその辛い出来事を感謝出来る、そのような結末に導こうとしておられたのです。実際、今もあの出来事が私の信仰を支えているのです。私達が神の御腕の中にあるなら、どんなに失望しようとも、失望は失望で終わらない。そこで物語を終わりにしなくて良い。私達が「終わった」と思うところ、しかし神様の方では、その物語は終わっていない、そこにも神の御旨は流れているのです。神に在っては、十字架の苦難は、復活の喜びに繋がっているのです。「あなたの物語、いや、神の物語を、勝手に終わりにするな」と、神は言われるのです。
先週のお話しした話ですが、肝心のことを言い忘れました。ある姉妹が、ご自分が生まれた時、お母さんの産後の肥立ちが悪いというのでしょうか、お母さんはそのまま入院しなければならなくなられ、やがて亡くなってしまわれました。その姉妹は、お母さんに会ったことがないのです。やがてその方は成長して、自分の田舎の村を出て町に行き、キリスト教に出会って、洗礼を受けてクリスチャンになりました。彼女は、家族に信仰を伝えたいと思いましが、「あんな田舎に住んでいる家族がキリスト教を信じるはずがない」と絶望的な気分だったのです。しかしそんな時、1つの事実を知るのです。自分を産んで亡くなったお母さんは、病院で宣教師に導かれて信仰を持ち、病床で洗礼を受けていたことが分かったのです。言葉に出来ないほどの喜びだったそうです。なぜでしょうか。天国で、まだ見ぬお母さんに会えるからです。そしてその事実が分かった時、田舎に住んでいる兄弟が、1人、1人と救われて行ったということでした。お母さんが亡くなったところで物語は終わっていなかったのです。「終わりではない」、「その神の視点に生きて行きなさい」と、この箇所は語るのです。
 もう1つ、この箇所のメッセージは「甦ったイエス・キリストが共におられる」ということです。2人は食事の席で目が開け、イエス様だと分かりました。彼らはそこまで気がつかなかった。しかしイエスは、彼らと共におられたのです。そして31節に「それで、彼らの目が開かれ、イエスだとわかった。するとイエスは、彼らには見えなくなった」(31)とあります。「イエスは、彼らには見えなくなった」、しかし「イエスはいなくなった」とは書いてないのです。見えなくても、イエス様は、彼らと共にいて下さるのです。そしてこの時から、イエス様を信じる者とイエス様が共に歩いて下さる、そのような祝福が始まったのです。教会は、その信仰に生きて来たのです。2人の弟子と歩いて下さったイエス様が、今も私達と共に歩いて下さっている、そのことを語るが故に、この物語は、誰にとっても「美しい物語」なのです。
申しあげたように、私達の人生にも、落胆の道を日没に向かって歩いているように感じる時があるのです。しかし、そのような時にも、実はイエス様が共にいて下さり、私達を支え、励まし、夜明けに向かって歩み出せるようにして下さるのです。「足跡」という詩があります。「ある夜、わたしは夢を見た。わたしは、主と共に、なぎさを歩いていた。暗い夜空に、これまでのわたしの人生が映し出された。どの光景にも、砂の上にふたりのあしあとが残されていた。一つはわたしのあしあと、もう一つは主のあしあとであった。れまでの人生の最後の光景が映し出された時、わたしは、砂の上のあしあとに目を留めた。そこには一つのあしあとしかなかった。わたしの人生でいちばんつらく、悲しい時であった。のことがいつもわたしの心を乱していたので、わたしはその悩みについて主にお尋ねした。『主よ。わたしがあなたに従うと決心したとき、あなたは、すべての道において、わたしと共に歩み、わたしと語り合ってくださると約束されました。それなのに、わたしの人生のいちばんつらい時、ひとりのあしあとしかなかったのです。いちばんあなたを必要とした時に、あなたが、なぜ、わたしを捨てられたのか、わたしにはわかりません』。はささやかれた。『わたしの大切な子よ。わたしはあなたを愛している。あなたを決して捨てたりはしない。ましてや、苦しみや試みの時に。あしあとが一つだった時、わたしはあなたを背負って歩いていた』」(マーガレット・パワーズ)。2人の弟子には分からなかったけど、イエスが彼らと一緒に歩いておられたのと同じです。イエス様が私と共に歩いていて下さった。歩けないような時には、背負ってでも共に歩いて下さった。作者は、そのことを語らずにおれなくて、この詩を書いたのです。それがイエス様を信じる者を包んでいる現実なのです。
 今日、3月に天にお帰りになった兄弟のご遺族の方々が参加して下さっています。兄弟は、昨年、私が鬱だった時、電話で「先生、人生を謳歌して下さいよ」と言って下さいました。それは私にとって、本当に大きな慰めでした。心が軽くなったような気がしました。そして今も、その言葉に生きる糧を頂いています。しかしそれは、ご自身が様々な苦難を経験され、そこを乗り越えて来られた方だからこそ語って下さった重い言葉だと感じています。そしてまた「先生、イエス様がおられるじゃないですか」という言葉としても響いて来るのです。兄弟の人生も、イエス様と共に歩かれた人生だったのだな、としみじみ思うのです。6年前に先に天にお帰りになられた姉妹は、ご結婚式でしたか、「神様の恵みを忘れたらいかんよ」と親戚の方が言われた言葉を、涙を流して何度も話して下さっていました。そして私が忘れられないのは、もう召天される最後の日々でした、ベッドの上で讃美歌を力を尽くして歌われたお姿でした。私は、姉妹のお心に主がおられることを強烈に感じました。そのようにお2人の人生には、大切なお互い、ご家族と共に、主がいつも共におられたことを思うのです。
そしてそれは、地上を生きる時だけのことではない。遠藤周作の「侍」という歴史小説があります。仙台藩の長谷倉という侍が藩の命令でローマに行き、クリスチャンになって日本に帰って来ます。しかし帰って来た時はキリスト教迫害下で、長谷倉は死罪になります。彼にずっとつき従って来た下男が、処刑場で「ここから先はもうお供は出来ない」という場所まで来た時、長谷倉に向かって叫びます。「ここから先はあの方が、あの方が一緒に行かれます」。私達は、どんなに愛していても、死を越えて一緒に行くことは出来ません。しかし死から甦ったイエス様は、生も死も支配しておられる方です。兄弟も、姉妹も、イエス様と一緒に、死を越えて、天国に歩いて行かれたことでしょう。だから今、天で礼拝しておられます。
 イエス様は、甦られました。今生きておられます。誰でも、イエス様を心に迎えるなら、イエス様を通して神様に受け入れられ、御手の中で生きて行くことが出来るようになりました。どんな時にも、天国に至るまで、イエス様が共に歩いて下さるようになりました。これが、私達に与えられている希望です。復活を感謝しましょう。
 

聖書箇所:マルコ福音書12章28~34節   

 先日、こんな話を聞きました。ある姉妹は、ご自分が生まれた時、お母さんの産後の肥立ちが悪いというのでしょうか、お母さんはそのまま入院しなければならなくなられ、やがて亡くなってしまわれたそうです。だからその姉妹は、お母さんの顔を見ていないのです。やがてその方は成長して、自分の田舎の村を出て町に行き、キリスト教に出会って、信仰を持って、洗礼を受けて、クリスチャンになりました。彼女は、家族に信仰を伝えたいと思いましが、「あんな田舎に住んでいる家族がキリスト教を信じるだろうか」と思うと絶望的な気分だったそうです。しかし、そんな時、1つの事実を知るのです。あの自分を産んで亡くなったお母さんが、病院で宣教師に導かれて、信仰を持って、病床洗礼を受けていたことが分かったのです。言葉に出来ないほどの大きな喜びだったそうです。その後、田舎に住んでいる家族が、1人、1人と救われて行ったということでした。「神様は本当に恵み深い方だ」と言われていました。私達が神を愛するのは、神が私達に恵み深くいて下さるからです。
 さて、今日の箇所には律法学者が登場します。「聖書」に書かれてある律法(戒め)は、全部で613です。その律法を研究し、生活の様々な場面に適用する細則を決めていたのが「律法学者」と呼ばれる人々です。第二次大戦前でしたか、ヨーロッパのユダヤ人社会に初めてトマトが紹介された時、「ユダヤ人はトマトを食べて良いのかどうか」、ユダヤ教のラビ(教師)達は、律法に照らして研究したそうです。結果として「トマトは食べて良い」ということになったそうですが、そのように613の律法の下に何千と言う細則がぶら下がっていました。細則はどんどん決められますから、律法は無限に拡大する傾向を持っていました。しかし律法学者の中にも「律法の一番のポイントは何なのか。律法を一言で説明するとどうなるのか」、それを探求する動きがあったのです。イエス様の20~30年前に活躍したヒレルという律法学者は、「あなた自身が、されることを憎む(嫌がる)ことをあなたの隣人にするな。これが律法の全体である。残りは注釈である」と説明しました。ここに登場する律法学者も、同じようなことを求めていたのだと思います。「内容」と「適用」と、お話しします。
 

1.内容~最も大切な戒めとしての愛すること

 受難週の火曜日、神殿でイエス様とパリサイ人やサドカイ人との議論が行われていました。イエス様は、それらの議論で見事な対応をされました。それを見ていたこの律法学者は、「この人なら律法のポイントを見事に答えてくれるかも知れない」、そう思ったのでしょう。彼はイエス様に問うのです。「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」(28)。それは「他のどんな戒めよりも大切な戒めである」とイエスが言われるのですから、「私達にとっても大切な戒めである」と言うことになります。イエスは何と言われたのか。「イエスは答えられた。『一番たいせつなのはこれです。「イスラエルよ。聞け。われらの神である主は、唯一の主である。心を尽くし、思いを尽くし、知性を尽くし、力を尽くして、あなたの神である主を愛せよ」。次にはこれです。「あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ」。この二つより大事な命令は、ほかにありません』」(29~31)。イエス様は「それは愛することです」と言われます。その愛を、2つに分けて言われました。1つは「神である主を愛せよ」、もう1つは「隣人をあなた自身のように愛せよ」です。この2つの戒めは、「旧約聖書」の中に―(「神を愛せよ」は「申命記」に、「隣人を愛せよ」は「レビ記」に)―あります。その2つの戒めを、イエスは1つに結び付けて「愛しなさい、それが大事だ、それが信仰だ」と教えられたのです。
 さてしかし、律法学者は「すべての命令の中で、どれが一番たいせつですか」(28)と聞いて来たのだから、イエス様は1つ答えれば良かったのです。それにも拘らず、なぜ2つの答えを為さったのか。またこれは、「一番たいせつなのは…」と言われた「神を愛すること」が一番上にあって、「次は…」と言われた「隣人を愛すること」がその下にある、というようなことなのでしょうか。いや、「どれが一番たいせつか」という問いに、イエスがこう答えておられるということは、この2つは、「1つの戒め」、セットで考えるべきものなのではないでしょうか。
 話が複雑になりましたが…。イエス様が引用された「レビ記」の記事を見てみます。「レビ記19章」には、隣人を愛することが細かく書いてあります。例えば10節には、「またあなたのぶどう畑の実を取り尽くしてはならない。あなたのぶどう畑の落ちた実を集めてはならない。貧しい者と在留異国人のために、それらを残しておかなければならない」(レビ19:10)と命じられています。それは「畑を持つこの出来ない人がその畑に入って残りを集めることを赦す、いやむしろ勧める」、そういう「神の教える生き方」があるのです。つまり、自分のブドウの実りを他の人に「どうぞ」と分け与える生き方が、「隣人を愛すること」として教えられているのです。しかし問題は、なぜそうしなければならないのか、その根拠となる言葉は、「わたしはあなたがたの神、主である」(レビ19:10)という言葉なのです。14節には「あなたは耳の聞こえない者を侮ってはならない。目の見えない者の前につまずく物を置いてはならない」(レビ19:14)とありますが、なぜ「耳の聞こえない者を悪く言ってはならないのか。目の見えない人の前につまずく物を置いてはならないのか」。そこでも、その根拠として「あなたの神を恐れなさい。わたしは主である」(レビ19:14)と言われているのです。つまり「畑の実りを分け与えること、耳の聞こえない人、目の見えない人を大事にすること」は、そのまま「神を大事にすること」なのです。ここにおいて「神を愛すること」と「隣人を愛すること」とが1つのことになるのです。「神を愛する者」は「隣人を愛する」、「隣人を愛すること」は「神を愛すること」なのです。
 このことを教えるのが、イエス様が為さった「良きサマリヤ人」の譬です。あるユダヤ人がエルサレムからエリコに下って行く途中で強盗に襲われました。そして、半死半生の目に遭わされて、道の上に倒れていました。そこに2人の宗教家がやって来ます。初めは祭司です。ところが祭司は、旅人を見かけると、道の向こう側を通り過ぎて行ったのです。レビ人―(神殿で祭司の下で仕事をする人)―も、同じように通り過ぎて行きました。3番目に来たのはサマリヤ人でした。ユダヤ人にとっては400年来の敵対関係にあった民族です。ところがサマリヤ人は、倒れている旅人を憐れに思い、旅人を助けたのです。イエス様は「3人の内の誰がこの旅人の隣人になったと思うか」と問われ、「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。問題は、見て見ぬふりをした祭司とレビ人です。ある神学者は「祭司やレビ人は、この時聖書を読みながら歩いていただろう」とか、「神殿の行事に遅れまいとして急いでいたのではないか」と言うのです。しかし、「神殿の行事に急ぐために見て見ぬふりをする」、そういう信仰は、イエス様に言わせれば「あり得ない信仰」なのです。この「良きサマリヤ人の譬」は、ある「律法の専門家」が「何をしたら、永遠の命を受け継ぐことが出来るでしょうか」(ルカ10:25)と聞いて来た、それに答える文脈の中で語られた譬です。信仰の大事なポイントとして語られた譬なのです。イエス様にとって「誰かの隣人になって助けて上げることが、神を真に礼拝すること、永遠の命を受け継ぐこと」だったからです。だからある神学者は言います。「イエスにとって宗教は、神を愛し、人々を愛すること、人が神を愛していることの唯一の証明は、人が他人を愛することによる」(Wバークレー)。
 もちろん、神を愛する一番具体的な方法は、唯一の神様を「神」として礼拝することです。しかしそれと同時に、イエスはこうも言われます。「もしあなたがたがわたしを愛するなら、あなたがたはわたしの戒めを守るはずです」(ヨハネ14:15)、その後に「わたしがあなたがたを愛したように、あなたがたも互いに愛し合うこと、これがわたしの戒めです」(ヨハネ15:12)と言われるのです。また「聖書」は言います。「どんな戒めがあっても、それらは、『あなたの隣人をあなた自身のように愛せよ』ということばの中に要約されている」(ローマ13:9)。「神を愛すること」が「神の戒めを守ること」であり、「神の戒め」が「隣人を愛すること」であれば、「隣人を愛すること」が「神を愛すること」になります。
 そして実際、例えばパリサイ人の信仰がおかしくなって行ったのは、彼らは「神を愛する」と言いながら「人を愛する」ことを知らなかったからです。だから「神を愛する」と言いながら、その信仰は人を裁くことに結びついて行ったのです。イエスは「信仰にとって最も大切なのは、神を愛することであり、隣人を愛することだ」と、「その2つは分けることは出来ない、隣人を愛することを通して神を愛して行く、そのような信仰を生きなさい」と言われたのです。ある先生はこう言っておられます。「福音というものは…クリスチャンと呼ばれる人々が身近なところでそれぞれに良き隣人たらんことを、その本来性とするといえるのではないだろうか」(工藤信夫)。もちろん、それが全てではないでしょう。しかしイエスは「善きサマリヤ人の譬」の最後に「あなたも行って同じようにしなさい」と言われました。私達も、「神を愛する故に」という観点で「隣人を愛すること」をもっと考える必要があるかも知れません。
 

2.適用~愛されている者として隣人を愛する

 しかしこの個所は「隣人を愛する」ことを教えるが故に、私達に「深刻は問題」を投げかけます。「あなたの隣人―(あなたに近い人を)―をあなた自身のように愛せよ」と言われても、私なども「自分の愛の無さ」にいつもがっかりする者です。その私が―(「私達が」と言って良いでしょうか)―隣人を自分のように愛せるのでしょうか。皆さんは、どうしても好きになるのが難しい人はいないでしょうか。そのような人のことを考えると、愛することは難しいなと思うのです。人間は神に似せて造られています。だから本来、「愛の神」を映して、私達も「愛に生きる」はずなのです。でも難しい、出来ない。そこに私達の罪があるのです。ある牧師は言いました。「人を愛するのは簡単なことではありません。それは私達の自己中心的な性質と真っ向から衝突する」(Rウォレン)。こう考えると絶望的な気分になります。しかし、そこに留まってもいられません。
 確かに私達は、本来生きるべき生き方を、罪によって歪められた存在です。しかし、だからこそ神の子が、十字架上でご自分の命を犠牲にして、悪の手から―(罪の支配から)―買い取って下さったのです。私達1人びとりは、そんな大事な存在です。神が、私達を諦めておられないのです。その意味で私達は、神に似せて造られた、その本来の姿を回復されたいと思うのです。三浦綾子さんは「人生の最後に残るのは、集めたものではなくて出したものだ」と言いました。人が世を去って行く時、「後に残るのは、その人を通して為された『愛の業』だ」ということでしょう。それが自分を大切に、尊く生きることだと言って良いでしょう。その意味でも隣人を愛することは、大切なことだと思います。
 私達は、何も世界中の人を愛さなければならないわけではない。「善きサマリヤ人」は、傷ついた旅人を求めて歩いていたわけではありません。神の摂理の中で、歩みの道すがら出会った人を愛したのです。私達が隣人として愛する人々、それは、私達の生きる現実の中で関わる人達です。
 しかし「隣人を愛することを通して神を愛して行く、神を愛するがゆえに隣人を愛して行く」、そのためには励ましが必要です。それは何か。聖書が「神を愛しなさい」と言う時、その後にこうあります。「心を尽くし、精神を尽くし、力を尽くして、あなたの神、主を愛しなさい…あなたの神、主が、あなたの先祖…に誓われた地にあなたを導き入れ、あなたが建てなかった、大きくて、すばらしい町々、あなたが満たさなかった、すべての良い物が満ちた家々、あなたが掘らなかった掘り井戸、あなたが植えなかったぶどう畑とオリーブ畑、これらをあなたに与え、あなたが食べて、満ち足りるとき、あなたは気をつけて、あなたをエジプトの地、奴隷の家から連れ出された主を忘れないようにしなさい。あなたの神、主を恐れなければならない。主に仕えなければならない」(申命記6:5,10~13)。「神を愛せよ」という戒めは、神が為して下さった恵みとセットなっている、というか神の恵みが前提になっているのです。初めにご紹介した姉妹の話もそうでしょう。「神が恵みを与えて下さる方だから、あなたも神を愛し、隣人を愛しなさい」と語られるのです。私は、カナダで笑わない赤ちゃんに会いました。複雑な家庭で微笑みかけてもらったことがない。そのためでしょうか、全く笑わない。無表情です。私達は、笑いかけられないと笑わない。愛されないと愛せない。愛されるから愛することが出来るのではないでしょうか。自分の中には愛はない。でも私達には、神に愛されている愛があるのです。
 神の愛は、何よりもイエス様の十字架に現れました。家の子供が生まれる前、教会の友人に赤ちゃんが生まれました。私は聞きました。「子供が生まれると神の愛が分かると聞きますけど、神の愛が分かるようになりましたか」。彼は言いました。「神様がどんな目で自分達を見ていてくれるのか、それは分かって来たように思う。でも神様が僕達のためにイエス様を犠牲にしたように、人のために自分の子供を犠牲にする愛は、僕には分からない」。人間に理解出来ない愛で、神様は、イエス様は、私達を愛されたのです。私達が滅んでしまわないように、天国に行けるように愛して下さったのです。そうして、ヨロヨロとようやく天国にたどり着くような私達を、天使が大歓声で迎えてくれるのです。そして、千葉でお世話になった先生が言われました。「こんな罪深い者が、天国に行った時、神様から『ここに座りなさい』と言われるのですよ。どんなに大きな喜びでしょうか」。
 しかしそれだけではなく、私達は世にあっても色々な恵みを経験して生きて行くのです。私も「これは本当に現実だろうか」と思うような状況に置かれることがあります。しかしその度に、神の恵みでそこを通り抜けさせてもらうのです。「デイリー・ブレッド」には、こんな言葉がありました。「神は…私という存在の門番として、毎日、すべてを計り、私の許容範囲を超えるものが入り込まないように、未然に削除しておられます。私の知らないうちにです…何も感謝することがないと思ったら、あなたの問題が耐えられるものであること、そして致命傷になるものから神があなたを守って下さっていることを感謝して下さい」。ここにも神の愛があります。神は私達を愛して下さっているのです。私達は、神の愛を受けているのです。だから、ある兄弟が良く言われました。「私は神に愛された。その愛された愛で人を愛し返す。それが私の信仰です」。神の愛があるから、私達も神を愛し、人を愛して行けるのではないでしょうか。神を愛し、人を愛する、信仰の最も大切な生き方に、私達も踏み出したいと願うことです。聖霊が助けて下さいます。