2022年3月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:マルコ福音書5章21~43節 

 神学校にいる時に、色々と面白い神学生の方の話を聞きました。「ハレルヤおじさん」という方もおられました。私達は寮で暮らしたのですが、朝5時頃になると、どこからか「ハレルヤ、ハレルヤ!」という声が聞こえるというのです。それは1人の神学生が、毎朝、外に出て叫んでいる声だと分かって、私達は「ハレルヤおじさん」と呼んでいました。女子寮にも面白い方がおられたそうです。朝、起床時刻になると、自分で自分に向かって「タリタ、クミ。少女よ。起きなさい」と言って、自分で「はい」と返事をして、起きている方がおられるということでした。まだ20歳前なのに「祈りの器」のような方もおられました。色々な方から刺激を頂いた神学校生活でした。
さて「タリタ、クミ」、これは「少女よ。起きなさい」というアラム語です。アラム語は、イエス様が話しておられた言葉です。イエス様が少女を生き返らせなさる時に言われたこの言葉を聞いた弟子達は、その出来事と同時に、「タリタ、クミ」と言われた言葉が強烈に心に残ったのでしょう。だから、「新約聖書」はギリシャ語で書かれましたが、ペテロの語ったことをマルコが書いたと言われる「マルコ福音書」は、イエス様の言われた「タリタ、クミ」の言葉をそのまま書き記したのだと思います。
この個所は「2つの癒しの物語」から構成されています。「12年間も治らなかった漏出の病気が癒される女の物語」と「死んだと思われた12歳の少女が生き返る物語」です。この2つの話が、というか「長血の女」と「会堂管理者ヤイロ」の姿が私達に、「信仰とは何なのか、どのようなものなのか」、そのようなことを語ってくれます。2つに分けてお話しします。
 

1.信仰の媒体としての御言葉

 初めに登場するのは会堂管理者ヤイロです。ヤイロはイエス様の所に来て、ひれ伏して「自分の家に来て娘を助けて欲しい」と頼みました。それでイエス様は彼と一緒に出掛けられるのですが、すぐに「長血を患った女」が現れて、話はイエス様と「長血の女」とのやり取りに移ります。
この女性は、12年間も長血を患っていました。誰も治すことが出来なかったのです。病気が苦しいだけではありません。当時の律法は「漏出のある人は宗教的に汚れている」と定めていました。だから「社会生活の中心」である会堂からも締め出されていたと思います。「なぜ自分だけ、こんなに長く苦しまなければならないのか」、そう思いながら生きていたはずです。そんな時に「イエスという人は病気を癒す力を持っているらしい」と聞いて、藁にもすがる思いでやって来たのでしょう。ところがイエスの所に来てみたら、群集で一杯でした。「宗教的に汚れている」とされていたこともあったでしょう、正面切ってイエスの前に出て「癒して下さい」と言うことは出来ないのです。しかし「『お着物にさわることでもできれば、きっと直る』と考えて」(28)、イエス様の着物(の房に)触れるのです。
イエス様は、誰かが癒しを求めて着物に触ったことに気付かれます。そして「わたしにさわったのは、だれですか」(45)と、その人を探されます。弟子達は「大勢の群集が押し迫っているのに、誰が触ったかもないでしょう」と言いますが、イエス様は女が癒されたことで満足されませんでした、必死に探されました。女の方は「とんでもないことになった」と思ったでしょう。イエス様の服に触れたら、その場をそっと立ち去るつもりだったと思います。しかし「イエス様の様子を見て観念して」というか、イエス様の前に出て「自分の背負って来たもの、切なる願いを込めて触ったこと、そして癒されたこと」、全てを告白するのです。人前で話したくないことです。しかし、誠実さと勇気を振り絞ってありのままを告白するのです。そこにイエス様と彼女の「1対1の関係」が生まれたのです。そしてその時にイエスは「あなたの信仰があなたを直したのです」(34)と言われたのです。これは「口語訳」の「あなたの信仰があなたを救ったのです」(口語訳34)の方が言葉の意味を良く伝えています。ここで起こっているのはイエス様と女との「1対1の人格的な交わり」です。 最初にイエスに触った時、彼女には「イエスがどのようなお方なのか」関係がなかったと思います。「病が癒されるかどうか」、それだけが問題だった。でもそれでは、彼女は「癒された」かもしれないが「救われた」ことにならないのです。「これからも神の御手の中で、神の顧みを受けながら生きて行く」ということに、「神の中に希望を見て行く」ということにならないのです。だからイエス様は彼女を探されたのです。彼女は、この後どうやって生きて行ったのでしょうか。それは分からない。しかし、イエス様から「あなたの信仰があなたを救ったのです」(口語訳34)と言って頂いて、さらに「安心して帰りなさい。病気にかからず、すこやかでいなさい」(34)と言って頂いています。「すこやかでいなさい」という言葉は「今の癒された状態でいなさい」という言葉です。「私との交わりの中で生きなさい」と理解しても良い。その言葉は、彼女にとって、「病が癒された」だけではない、神様による「受け入れ」の宣言だったのです。そのことを可能にしたのは、彼女とイエス様との「1対1の人格的な交わり」です。その交わりを、イエス様は「信仰」と呼ばれたのです。信仰とは、イエス様との1対1の人格的な交わりではないでしょうか。
では、私達はどうやって「神様(イエス様)との1対1の関係」を求めて行けば良いのか、何がそれを可能にするのか。それを教えてくれるのが「イエス様とヤイロの物語」です。ヤイロはどのような思いで「イエス様と『長血を患った女』とのやりとり」を見ていたのでしょうか。「何でもいいから早くしてくれ」と叫びたいような気持ちだったのではないでしょうか。しかしイエス様に任せ、イエス様を信じるしかなかったのです。ところが、そこへ家から絶望的な知らせが届きます。彼はくず折れそうだったでしょう。誰にぶつければ良いか分からない絶望(怒り)の気持ちだったでしょう。しかし、その彼を支えたものがあったのです。イエス様の言葉です。「恐れないで、ただ信じていなさい」(36)。「ルカ8:50」には「恐れないで、ただ信じなさい。そうすれば、娘は直ります」(ルカ8:50)とあります。親でもなければ、誰がこんなことを信じられるでしょうか。しかしヤイロは、イエス様の言葉に支えられるのです。そしてイエス様と共に娘の遺骸が横たわっているはずの家に向かって歩くのです。
ヤイロも、「娘の癒し」を求めてイエス様の許に来た時、「癒しをする人、癒しの力を持った人」という見方しかしていなかったと思います。しかし、「『長血の女』とイエス様とのやりとり」を経て、「イエス様の言葉を信じること、身を委ねる」ことを学ばされるのです。ヤイロにとっては「恐れないで、ただ信じていなさい」(36)というイエス様の言葉だけが、ただ1つの望みだったのです。人間的に考えれば愚かな望みです。でもイエス様のその言葉に支えられ、励まされ、その言葉を握ってイエス様と一緒に歩む中で、彼はその言葉を通して取り扱われるのです。
横田早紀江さんという拉致被害者のお母様のことについて以前もお話しましたが…。彼女が信仰を持つ切っ掛けになるのは「ヨブ記」の言葉ですが、彼女の「神様への信頼」を深め、歩みを支えているのは「イザヤ書」の言葉です。「…横暴な者に奪われた物も奪い返される。あなたの争う者とわたしは争い、あなたの子らをこのわたしが救う」(イザヤ49:25)。めぐみさんが帰って来た訳ではない。しかし、この言葉を握り締めて歩く中で、彼女は神様との人格的な信頼関係を築いて行かれるのです。そして今も神様の御力に支えられて、希望を与えられて、生きておられるのです。
「長血の女」と同じように、ヤイロもイエス様との「1対1の人格的な関係」を経験しました。その「1対1の関係」において大切な役割を果たしたのが「イエスの言葉」だった。「イエス様の言葉に身を委ねる。御言葉を握り締める」ということだったのです。ここに私達が「イエス様(神様)との1対1の関係」を持つために何よりも大切なこととして「神の言葉に触れる」、「神の言葉を握る」ということが教えられているのです。
ヤイロの家に着いた時、イエスは言われました。「子どもは死んだのではない。眠っているのです」(39)。人々はあざ笑いました。しかしその人々は、主の御業を見ることは出来なかったのです。愚かになってイエス様の言葉を握り、イエス様の言葉にすがったヤイロは、主の祝福を見るのです。「長血の女」をその後、死の間際まで心健やかに生かしたのも、イエス様の言葉―(イエス様との人格的な交わり)―であったに違いないのです。
私は初期アナバプティストの様子を映像化したビデオを見たことがあります。官憲に追われながら、隠れ家のような家に4~5人で集まっているのです。そこにもう1人がやって来て「昨日、誰々が逮捕された」、「誰々が処刑された」というニュースをもたらす。その時に、彼らが何をするか。樽の中に隠し持っていた聖書を出して、1人が宝石でも扱うように開いて読んで聞かせます。「求めなさい。そうすれば与えられます。捜しなさい。そうすれば見つかります。たたきなさい。そうすれば開かれます」(マタイ7:7)。そして皆で御言葉を喜ぶのです。聖書を読む―(神の言葉に聞く)―ことが迫害の中で彼らの信仰を支えたのです。私は「あんな思いで御言葉に向かっているだろうか」と問われました。
私達の信仰は、「1対1で神様と交わる」、「神様の言葉を通して神様(イエス様)と交わる」、それを抜きにしてはあり得ないと思います。「哀歌」にこんな御言葉があります。「主のあわれみは尽きないからだ。それは朝ごとに新しい…主はいつくしみ深い。主を待ち望む者、主を求めるたましいに」(哀歌3:22~25)。「朝ごとに新しい、恵みと憐れみ」、これを豊かに経験するためには、「御言葉を通して神様との1対1の関係を求め続ける」ことではないでしょうか。そうでなければ、今生きて働いておられる神を豊かに経験する信仰生活には、ならないのではないでしょうか。
ある方が、次の証しをしておられます。彼女は弟さんが難病を持って生まれましたが、その弟さんが成長して、やがてある大きな教会の作業所で働き始めます。弟さんはイエス様を信じて、彼女を教会に誘うようになりました。彼女は弟さんに誘われるまま、礼拝に出るのですが、信じることが出来ない彼女は、居眠りをしながら、後ろの席に隠れるように座っていました。しかし、時々聞えて来るメッセージには、涙がこぼれることがあるのです。そんな時、弟さんのこともあって、福祉関係の仕事に就職するのですが、隣人を愛せない、愛を持って接することが出来ない自分に悩むのです。そして、自分がボロボロになるような感じになるのです。そんな時に、ある集会でイエス様の為さった「放蕩息子の譬え」の話を聞いたのです。自分勝手に生きて、財産を食いつぶし、ボロボロになって帰って来た息子を、走り寄って抱きしめ、温かく迎えてくれた父の話です。イエス様は「神様はこんな方だ」と語って下さいましたが、彼女は言っています。「走り寄って抱きしめてくださった神様の御手の感覚が体中に感じられました。私は子どものように泣きじゃくり、神様の胸に飛び込んで行きました」。
私達に信仰を与えるのは「神様(イエス様)との1対1の関係」です。その関係のために大きな役割を果たすのは、神の言葉です。私達は神の言葉を通して神様との豊かな交わりを求めて行きたいものだと思います。
 

2.信仰の方法としての遜り

 この箇所は、信仰の方法についても語ります。ヤイロは、ひとり娘が死にかかっていました。12歳というと、当時のユダヤでは、嫁にやっても良い年齢だと考えられていました。ヤイロにすれば「これからという時になぜ」という思い、深い絶望があったはずなのです。「長血の女」の方は、その12年間を病気に苦しみ、全財産を使い果たし、それでも誰にも治してもらえずにいました。彼女もまた絶望の中にいたのではないでしょうか。ある神学者は「2人とも力尽きていた」と表現しました。
しかし、ここでその力尽きた2人が、それぞれに見事な信仰を言い表し、イエス様の祝福に与っているのではないのです。ヤイロは「どうか、おいでくださって、娘の上に御手を置いてやってください」(23)としきりに願いました。しかし「あなたは本当に神の子ですから、私達を救って下さる方です。それを信じます」というような信仰を言い表しているわけではありません。ただ自分の悲しみ、絶望をイエス様の許に置いただけです。それなのに「お嬢さんはなくなりました」(35)という知らせが届くのです。イエス様は「恐れないで、ただ信じていなさい」(36)と言われました。ということは、彼は恐れたのです。信じることは難しかったのです。イエス様がヤイロの家に着いた時、イエス様が「子どもは死んだのではない。眠っているのです」(39)と言われた時、人々は嘲笑いました。ヤイロも、どこかでそういう思いがなかったでしょうか。「これまで精一杯やったのに、神も仏もない」、そんな気持ちもあったのではないでしょうか。「長血の女」の方も、本当に苦しかったと思います。その苦しみ、悲しみを、イエス様の着物の房に触るということで表したのです。「だれがわたしの着物にさわったのですか」(30)と問われた時、「私が信仰を持って触りました。だから癒されました」と胸をはって人々の前に出て来たわけではないのです。2人の信仰は、そんな信仰だったのです。
 ただ、この2人に共通していることがあります。それは、2人がイエス様の前にひれ伏していることです。私達は、信仰生活の中で苦しい時があります。この2人のように絶望的な思いに追い込まれる時、「これからどうすれば良いのか」と力尽きたように思われる時もあるのではないでしょうか。「神様はどうしておられるのか」と、皮肉や怒りをぶつけたくなることもあるかも知れない。しかし、この箇所から学ばされるのは、イエス様は、決して私達に立派な信仰を求めておられるのではないということです。私達の力尽きたところから出て来るような、本音丸出しの信仰さえ、受け止めて下さるのです。それを受け止め、引き上げ、信仰として認め、励まして下さる方なのです。ただ、私達が求められるのは、そこで主の前にひれ伏す思いを持つことではないでしょうか。しかし、私達が案外忘れてしまうのも、主の前にひれ伏す思いではないでしょうか。
カナダにいた時、家内の友人が若くして癌に冒されました。私達も癒しを祈りましたが、癒されませんでした。しかし彼女は、最後の最後まで「父なる神様、父なる神様」と、神様の名を呼び続けました。意識が朦朧とする中でも呼び続けました。それこそは、神様の前にひれ伏す信仰の姿ではないでしょうか。日本から駆け付けて来たご両親が、その彼女の姿に触れて、神の存在を認めたのです。彼女は家族の救いを祈っていました。でも彼女の力を超えたところで、神がご両親の心を開かれたのです。ご両親は、もちろん悲しい、辛い、でも神の御手の中で彼女が召されたことに、本当に慰めを感じておられました。私にそれを切々と語られました。
私も、何かあると神様に皮肉や文句を言ってしまう者なのです。食ってかかる者なのです。先日も、そのような自分の姿に戦慄を覚えました。だから自戒を込めて申し上げるのですが、神様の前にひれ伏す姿、その中にこそ、信仰者のあるべき姿があるのではないでしょうか。私達は、神様に、イエス様に、ひれ伏すことを忘れてはならないと思います。
 

最後に

 最初に申し上げるべきことが最後になってしまいましたが、マルコがこの箇所を通して一番伝えたいことは、「イエス様は自然界を治めておられるだけではない、病も、死をも支配する権威(力)を持っておられる」ということです。私達の主は、そういう力の主であり、また憐れみの主なのです。何よりもこの主を信頼して行きましょう。
 

聖書箇所:マルコ福音書5章1~20節 

 20年ほど前、「パッション」という映画が話題になりました。イエス様の最後の12時間―(ゲッセマネから十字架まで)―を克明に描いた映画です。ご覧になった方もおられると思います。私にとって印象的な場面は―(「悪魔」は何とかしてイエス様の十字架を止めようとした、でも出来なかった、そして)―十字架が成し遂げられた時、「悪魔」が「ギャー」と絶望の叫びを上げる場面です。イエスの十字架が成ったことで、人が―(人の魂が)―天国に入って行く道が開かれたのです。「悪魔」はそうさせたくなかった。しかし、十字架の御業が成ってもうどうしようもない。今、神を信じる魂は天国へ帰って行くのです。だからキリスト者の葬儀は、もちろん悲しみは大きいですが、しかし希望がある、セレブレーション(お祝い)なのです。では、あと「悪魔」に出来ることは何か。「悪あがき」です。あの手この手で人々に絶望を与え、神を信じさせないようにする、それを一生懸命やっているのです。(因みに「悪魔」は、天地創造の前に堕落した天使達の長です。その「悪魔」の下に多くの「悪霊」がいる。それが聖書の教えるところです)。今日の箇所は「悪魔/悪霊」について考えさせる箇所です。喜びに溢れるテーマではありません。不安にもなります。しかし初めに申し上げたいのは、確かに聖書は「悪魔/悪霊は現実的な存在である」と教えますが、同時に「悪魔/悪霊はすでに負けている」と教えるのです。それを確認したいと思います。
 前回は、イエスと弟子達がガリラヤ湖を渡ろうとして、突風に出遭い、イエスが突風を静められた記事を学びました。その後、一行がたどり着いたのが「ゲラサ人の地」(1)でした。そこは、ガリラヤ湖の対岸、異邦人の町でした。そこに一行が着いた時、イエス様の前に「悪霊」に憑かれた男がやって来るのです。この個所は、イエス様と「悪霊」に憑かれた男―(あるいは「悪霊」)―とのやりとりを中心に展開します。結論から言えば、マルコがこの箇所を通して言いたいことは、「イエスは『悪霊』をも支配なさる権威(力)を持っておられる」ということです。「そのイエスが今も生きておられる」ということです。しかし、私はこの箇所を「悪魔/悪霊の働きと私達との関係」から考えたいのです。2つのことをお話しします。
 

1.悪霊の存在の現実

 「悪霊」に憑かれた男は、「衣服を着ていない。墓場に住んでいた。鎖に繋がれ、足枷をはめられ、時に『悪霊』の力によって鎖や足枷を引きちぎって墓場や山をさまよっていた」、そういう悲惨な状態でした。家族から引き離され、人間社会からも追放され、訳の分からないものに突き動かされているのです。その状態を一言で言えば「破壊」です。「人間性の破壊、人間関係の破壊、平穏な生活の破壊」、全てが「破壊」に向かっているのです。「悪霊」の働きは「破壊」であり、「悪霊」に憑かれた者にもたらされるのは「破壊」です。それは、この後、「悪霊」が入り込んだ豚が湖に落ちて滅んでしまう―(「破壊」されてしまう)―ことからも言えます。
私達の社会では、「悪霊に憑かれた人」がウロウロ歩き回っているという形では、「悪霊」は働いていないように思えます。しかしこの社会では、「悪霊」はもっと巧みな方法で私達に働いているように思うのです。少し話が大きくなりますが、例えば私は、ある宗教団体の事件を考えるのです。(敢えて名前は出しませんが…)。1995年、その宗教団体が、様々な問題を起こし、最後には地下鉄の中で毒ガスをまいて、多くの人を殺傷するという事件を引き起こしました。事件に関わって14名が命を落とし、6000名以上の方が何らかの被害にあったのです。あの事件で日本人の宗教に対する否定的な見方が一般化しました。教祖は、信者を支配し、更には世の中に対しても影響力―(支配力)―を持とうとしたのです。その過程で邪魔な者を殺すことまでしたのです。私は、事件の背後に「悪霊」の存在を感じるのです。ある雑誌が教祖について述べていました。彼がそのような問題を起こして行く一番の原因がどこにあったかというと、彼を近くで見て来た人は「彼には人間そのものを破壊してしまうような『憎しみ』を感じた」と言うのです。その「憎しみ」の感情はどこから出て来たのか。それは、少年時代、彼は貧しさと障害―(目が不自由だった)―のために沢山の差別を受け、その差別を屈辱として感じて、それがやがて人に対する「憎しみ」、世の中に対する「憎しみ」という感情に結びついたのではないかということでした―(ある意味で不幸な出来事です)。しかし、その記事にはこうもありました。「憎悪がサリンに行きつき、その憎悪が、程度の差こそあれ人間だれしもが持ち得る感情であることに『問題』の根深さがある」。
現代社会では、「悪霊」は、私達、誰の中にもある「憎しみ、恨み」、あるいは「妬み」、そのような感情を利用して私達に働きかけ―(この事件のような大きなことでなくても)―様々な破壊の業―(自分を破壊し、人を破壊し、関係を破壊する業)―を為しているのではないかと思うのです。「ヤコブ書」は言います。「もしあなたがたの心の中に、苦いねたみと敵対心があるならば、誇ってはいけません…そのような知恵は、上から来たものではなく、地に属し、肉に属し、悪霊に属するものです。ねたみや敵対心のあるところには、秩序の乱れやあらゆる邪悪な行いがあるからです」(ヤコブ3:14~16)。私も自分の通って来た道を振り返って「苦い思いや利己心を『悪霊』に利用されたのかな」と思うような経験が幾つもあります。その時には分かりませんが…。私は、社会にある様々な問題の背後、世界中の紛争や暴力の背後にも、人間の憎しみや敵対心を利用して破壊を起こそうとする「悪霊」の働きがあるような気がして仕方がないのです。
 いずれにしても、「悪魔/悪霊」はもう決定的に負けている、しかし一生懸命、悪あがきをしている、だから私達は「悪魔/悪霊」の存在を軽く考えてはならないと思うのです。CSルイスの「悪魔の手紙」の中で「叔父さん悪霊」は「甥の悪霊」に指導して言います。「君の担当している息子と母親とが互いに嫌がらせをし合い…(それが)すっかり習慣となって身につくようにしなさい」。彼らは、私達の様々な否定的な思いを利用して、私達に「破壊」を経験させようとします。そして私達を絶望させ、神から引き離そうとします。「悪魔/悪霊」の働きがあるということ、まずそのことを認めることが、自らを「悪魔/悪霊」の働きから守って行くために大事なことだと思います。
 

2.悪霊からの解放

 「『悪霊』の存在を認め、利用されないように気をつける」、それがまず大事なことです。しかし、それだけでは何とも頼りない話です。まるで、ゲラサの人々がこの男を恐れて鎖で繋ぎ止めておこうとしたようなものです。彼らは結局、「悪霊に憑かれた男」と、いや「悪霊」と共存して、何とかやって行こうとしたのです。しかし、それは本当の解決にはならなかったのです。何が解決をもたらしたのか。彼は、イエス様の権威(力)によって「悪霊」から解放されて行くのです。
 この箇所から、イエスと「悪霊」との関係についてはっきりと知ることが出来ます。イエスが「悪霊」に「この人から出て行け」(8)と言われると、「悪霊」はイエス様に向かって「いと高き神の子、イエスさま、いったい私に何をしようというのです。神の御名によってお願いします。どうか私を苦しめないでください」(7)とお願いします。並行個所の「ルカ8章」によれば、「悪霊」は「底しれぬ所へ行け、とはお命じになりませんように」(ルカ8:31)とイエスに願います。(「底知れぬ所」とは、終末の時に『悪霊』が追いやられる場所です。そこに追いやられると二度の人間世界へ戻って来ることは出来ないのです)。そこで「ではどこに行こうか」ということになり、「豚…に乗り移らせてください」(12)と願い、イエス様に許可をもらって豚の中に入りました。確かに「悪霊」は、人間を超えた超人的な存在かも知れないし、人間世界に「混乱と破壊」をもたらしている存在かも知れません。しかし、イエス様の権威の前には、彼らは、お願いして許可をもらわなければならない存在なのです。だから、私達が「悪霊」の働きから守られる最良の方法は、イエス様に頼ることなのです。ゲラサの男は、イエス様の前に出て来たのです。彼の人間的な面が、助けを求めて来たのでしょう。それで救われて行くのです。
 「ルカ22章」でイエス様は、ペテロに言われました。「シモン、シモン、サタンはあなたがたを、小麦のようにふるいにかけることを神に願って聞き入れられた。しかし、わたしはあなたのために、信仰が無くならないように祈った。だから、あなたは立ち直ったら、兄弟たちを力づけてやりなさい」(ルカ22:31~32)。なぜ、神が「サタン(悪魔)」の願いを赦されたのか、もっと言うと「悪魔」の存在自体を許しておられるのか、それは分かりません。しかし、今日の箇所の最後の部分が教えるのは、イエス様を見た沢山の人々の中で、イエス様に目が開かれたのは「悪霊」に苦しめられた男だけだったということです。他の人々はイエス様に「この地方から離れてく(ださい)」(17)と行ったのです。ペテロは、この後つまずいてしまいます。彼がイエスを3度裏切った、それも「悪魔」の働きだったのでしょう。しかし、その経験があったからこそ、彼はイエス様をもっと愛するようになるし、いや何よりも、彼がこれから宣べ伝えて行く「イエス様の赦し」の意味を、自分のこととして経験し、理解することが出来たのです。ここに神が「悪」の働きを、なお許しておられる理由の1つがあるように思いますが…。いずれにしても、イエスはペテロのために祈られたのです。そして彼はイエス様の祈りに守られて、また立ち上がることが出来たのです。イエスは私達をも執り成していて下さるのです。だから私達も「悪魔/悪霊」の働きを受けないように、「我らを…悪より救い出だし給え」と祈り、イエス様に頼ることが最も良い方法なのです。イエス様に頼り、神の中に逃げ込んで行く限り、私達は「悪」の働きを恐れなくて良いのです。
しかし、私達の日々の祈りの中に「私…を試みに会わせないで、悪からお救いください」(マタイ6:13)という真剣な祈りがあるでしょうか。ある牧師がこんなことを言っておられます。「試みを克服しようとしてはいけない…試みには、必ず負ける。悪しき者には、必ず倒されるのです。信仰には百戦錬磨ということはありません。誘惑には負けるのです。だから試みに抗しきれない自分を徹底的に知ることが大切です。悪しき者と闘えない自分を徹底的に知ることが大切です。それゆえ、ひたすらに神によりたのむことをこの祈りは教えているのです。神の御手に逃れて勝つのです」(小島誠志)。私達は、「悪」が自分にも様々な形で働く可能性があるという健全な恐れを持って、イエス様の助けを普段に祈り求めて行く、それが大切ではないでしょうか。CSルイスは「悪魔の手紙」で、「『悪魔/悪霊』が最も恐れるのは、私達が祈ることだ」と教えています。
 しかし、イエス様の前に出て守りを祈り求めるという時、忘れてはならないポイントがあると思うのです。先程、「私達を危険に陥れるのは、『怒りや憎しみ』に代表されるような感情ではないか」と言いました。先日もご紹介しましたが、「百万人の福音」にカーラ・タッカーという方の証がありました。彼女は、友人と共謀して恨みを抱いていた男性を殺してしまいます。まさに「悪霊」に操られたような状況です。ところが刑務所の中で劇的な回心を経験するのです。そのあまりの変化に、やがて彼女を逮捕した刑事や、果ては殺された男性のお姉さんまでが、彼女が死刑にならないように助命嘆願をするようになるのです。結果的には死刑が執行されたのですが、しかし「何が彼女の人間性をあれほど見事に回復させたのか」ということが人々の心に残ったのです。それは一言で言うと「イエス様の赦し」だったのです。恐らく彼女もある時、犯してしまった罪の大きさ、その罪責感に耐えられないような思いになったのだと思うのです。そんな中で彼女は、聖書を通して「自分の罪のために苦しんでくれた人がいる、私が神に赦されるために死んでくれた人がいる」、そのことを具体的な真実として受け止めて行ったのではないでしょうか。自分の罪に苦しめば苦しむほど、十字架を通して差し出されている「赦し」の有り難さは途方もないものだと思います。それが彼女の心を溶かして行ったのだと思うのです。
何を教えられるかというと、私達の「憎しみ」に悪霊が働くとしたら、私達にはその「憎しみ」を溶かしてくれるものが必要なのです。何が私達の心を溶かすのか。それは19節に「主があなたに、どんなに大きなことをしてくださったか、どんなにあわれんでくださったかを、知らせなさい」(19)とあるように「自分がどんなところから神に救われ、赦され、愛されて来たか」、それを確認することではないかと思うのです。そして、自分が今も絶えざる神の赦しの中に生かされていること、そのことを祈りの中で確認することではないかと思うのです。1861年、アメリカで南部諸州が北部から離反して南北戦争が起こりました。4年後、戦争が終わって、北軍が勝った時、ある人が北軍の指導者リンカーン大統領に聞きました。「南軍(南部)の人々をどうしますか」。リンカーンは答えました。「私は、離反など全くなかったかのように彼らを扱うつもりです。なぜなら神ご自身が私達をそのように扱われたのですから」。リンカーンの心には、イエス様の語られた「放蕩息子の譬え話」―(「父親の財産を無理やり分けてもらって、外国で放蕩の限りを尽くし、落ちぶれてボロボロになって帰って来た息子を、父親が大喜びで迎えた」という譬え話)―があったのです。自分も神にただ赦され、ただ受け入れてもらったという思いがあったのです。戦争では、彼も危機的な状況に置かれた。しかし「赦されている」という思いが、「憎しみ」に勝利させたのです。そうやって戦争で傷ついた南北両軍(両地域)の溝が埋められて行ったのです。「瞬き詩人」と言われた水野源三さんがこんな詩を作っています。「いつわりを言う人や頑なな人をも、愛さなければ、愛さなければ。主に愛されているのだから、主に愛されているのだから」(水野源三)。主に愛され、赦され続けている、その自覚が私達の心を溶かし、私達の「憎しみ」を利用しようとする「悪魔/悪霊」の働きから私達を守って行くように、在るべき心の状態に回復させて行くように思うのです。
 

3.悪霊から守っておられる主

 最後に1つのお話をして終わります。1970年代、カンボジアの人々は、ポル・ポト政権下で恐怖と暗黒を経験します。「キリング・フォールド」という映画を御覧になった方もあると思います。その過酷な状況の中でクリスチャン達も大きな戦いを経験しました。ポル・ポト政権下では、人々は「憎む」ことを教えられました。そんな中でクリスチャンとして生き抜くためには、彼らは神の支えにすがるしかなかったのです。彼らは、夜起き出して祈り、隠し持った聖書を読み、神の導きを祈り求めたのです。ところが、そんな中で彼らは不思議な出来事を経験して行くのです。ある牧師が家で集会を守っていたら、村人ばかりでなくポル・ポト派の兵士までが魂の渇きを覚えて訪ねて来たそうです。彼らが牧師に聞くのだそうです。「あなたの家に出入りして、いつも戸口の階段に腰掛けている、あの威厳のある人はだれですか」。牧師の家族は誰もその人を見ていなかったのです。でも彼らには、主が彼らを守っておられるということが分かるのです。私はこの話を聞いて、きっと「悪霊」の目から見た私達は、その牧師の家のようではないかと思ったのです。彼らは、私達を威厳のある方が守っておられるのを見ているのです。「悪魔/悪霊」は負けています。しかし、依然として「悪魔/悪霊」の働きはあります。だから、私達は健全な恐れを持って私達を守っておられる主に頼って行きたいと思うのです。
 

聖書箇所:マルコ福音書435~41節 

「父なる神と主イエス・キリストから、恵みと平安が皆様の上にありますように」(1コリント1:3参照)、お祈り致します。
「隠れ家」という映画で有名な「コーリー・テン・ブーム」というオランダ人がいます。彼女の家族は、戦争中、ナチス占領下のオランダでユダヤ人を匿いました。それが見つかって、家族全員がナチスの強制収容所に入れられます。映画では、家族6人がトラックに乗せられた時、ナチスの兵士がお父さんに聞くのです。「全部で6人か」。お父さんは言います。「7人だ。イエス様が一緒だ」。信仰によって、自分達の出来ることを精一杯した驚くべき家族でした。戦争が終わり、コーリーは収容所を生き延びて、戦後は「赦しと和解」を呼びかけ続けました。「デイリーブレッド」というデボーションの本で彼女の次の言葉に出会いました。「世の中を見れば、心が騒ぐでしょう。自分自身を見れば、落ち込むでしょう。しかし、キリストを見上げれば、心に平安が訪れます」。今日の説教は「この言葉に要約される」と申し上げても良いと思います。そういう意味で、最初にこの言葉を「結論」としてご紹介しました。
いつものように「内容」と「メッセージ」と、2つに分けてお話しします。
 

1.内容:イエスが求めた信仰

時は夕方です。イエス様は、一日中、船の上から説教をして、疲れ切っておられたでしょう。船を下りて岸に上がるのではなくて、「向こう岸」に渡ろうとされました。岸辺に押し迫っている群衆から逃れるためだったかも知れません。あるいは向こう岸―(異邦人の地)―にまで伝道を広げようとされたのかも知れません。いずれにしても弟子達は、イエス様を乗せて船を漕ぎ出しました。
夜、漁に出ることに慣れている漁師を中心とした弟子達にとって、湖に吹き始めた突風も、初めの内は「いつものことが始まった」という程度のものだったかも知れません。ところが、その風が、いつもとは随分と違う激しいものとなり、舟が水浸しになって、「もしかしたら舟が沈むかも知れない」という状況になって来たのです。舟のことを良く知っているからこそ、彼らには「自分達の経験や力を越えるとんでもない状況になった」ということが分かったのです。慌てます。恐れます。ところが「イエス様は?」と見ると、舟の艫の方―(船尾:少し高くなっている所)―で、舟で使う座布団か何かを枕にして寝ておられました。その姿を見て、彼らは叫ぶのです。「先生。私たちがおぼれて死にそうでも、何とも思われないのですか」(38)。するとイエス様は「起き上がって、風をしかりつけ、湖に『黙れ、静まれ』と言われ」(39)ます。これで嵐が静まるのです。
問題は、イエス様が嵐を静めた後に弟子達に対して言われた言葉です。「どうしてそんなにこわがるのです。信仰がないのは、どうしたことです」(40)。イエス様は、弟子達の「何を」叱っておられるのでしょうか。また、弟子達に「どのような信仰の姿」を願っておられたのでしょうか。ある人は言うかも知れません。「弟子達は嵐の中でイエス様に助けを求めた。これは信仰ではないか。『多くの人々が「先生、助けて下さい」とイエスの許にやって来た』、それと同じものではないか」。私達も良く口にします、「神様、助けて下さい」。一体、彼らの「何が」悪かったのでしょうか。
問題は「この時、弟子達がイエス様に助けを求めて叫んだ言葉が、本当に信仰から出た言葉だったのか―(信仰の言葉だったのか)―」ということです。恐らくそうではありません。彼らは「イエス様なら嵐を静めることが出来るに違いない」と思って助けを求めたのではないと思います。なぜなら、イエス様が嵐を静めた後、「彼らは大きな恐怖に包まれて、互いに言った(のです)。『風や湖までが言うことをきくとは、一体この方はどういう方なのだろう』」(41)。「イエス様ならきっと何とかして下さる」と確信を持って叫んだのなら、「恐怖に包まれる」ことはないでしょう。喜んだはずです。では、彼らの中にあったのは何でしょうか。「先生、わたしたちがおぼれてもかまわないのですか」(38)。この言葉は、「信仰の言葉」というより「恐らくイエス様に対して腹を立てている言葉」です。「私達だけがこんなにハラハラして命の危険まで感じているのに、この方は私達のことを少しも考えて下さらないだろうか。なぜ私達を無視されるのだろうか」。そして彼らの心には、「疑い」がやって来たかも知れません。「もしかしたら、イエス様は眠り続けておられるのではないか。結局イエス様だけは嵐の中で助かって、私達だけが滅びるのではないか」。この言葉には、そういう思いさえ込められているのではないでしょうか。
イエス様が、やがて湖の中に進むべき道を造って下さったことを思う時、「出エジプト記」の紅海の出来事と重なります。モーセに率いられてエジプトを出発したイスラエルでしたが、エジプトのパロの軍勢が彼らを追って来て、前は海、後ろはエジプト軍という危機的な状況に追い込まれた時、イスラエルの人々はモーセに食って掛ります。「エジプトに墓がないので、あなたは私たちを連れて来て、この荒野で、死なせるの…か…いったい何ということを…してくれたのです」(出エジプト14:11)。しかしモーセは言います。「恐れてはいけない。しっかり立って、きょう、あなたがたのために行なわれる主の救いを見なさい…主があなたがたのために戦われる」(同14:13~14)。しかし、いずれにしても民はモーセに、そして神様に、腹を立てたのです。この「神様に―(イエス様に)―腹を立てる」ということは、しばしば私達にもやって来る思いではないでしょうか。「神はなぜ私を放っておかれるのか。結局、神は私に関わって下さらないのではないか」。先日も、私が昨年、鬱になったという話をしましたが、私は鬱状態の中で、この「疑い」に襲われ、翻弄され、そして弟子達と同じ叫び声を上げていました。弟子達の姿と自分の姿が重なります。「神様。なぜこの状態を放っておかれるのですか。私がこんなに苦しんでいるのに、何とも思われないのですか、何もされないのですか」。神に腹を立てている自分、そしてやがては、あたかも神がおられないかのように叫び、神様に背を向けて見せる自分がいました。本当に不信仰でした。ここで弟子達が見せているのも、「信仰の皮を被った不信仰」の姿ではないでしょうか。
では、弟子達はどうすれば良かったのでしょうか。どうすることが「信仰の姿」だったのでしょうか。あるクリスチャン・ビジネスマンの証を聞いたことがあります。その方は、65歳で数億の借金を背負ってしまったのです。そこをどうやって通って来たのか。「イエス・キリストは、きのうもきょうも、いつまでも同じです」(へブル13:8)という御言葉がありますが、「『神は生きておられる。神の愛は変わらない』。そこに信頼して、今自分が出来る最善を尽くして来た。そこに神が働いて下さった、不思議を為して下さった。そうやって通って来た」と証しされました。恐らくここで期待された信仰の姿というのは、イエス様が寝ておられるのを見ながら、それでもイエス様に信頼して―(「イエス様がおられるではないか。イエス様には必ず何かのお考えがある。私達に悪くされるはずはない」、そう信じて)―せっせと舟を漕ぐ、船底に水が溜まったらせっせと水を掻い出す。イエス様に信頼するが故に、後のことはイエス様に―(神様に)―委ねて、自分達が今できる最善のことをする、それが、イエスが弟子達に求められた姿だったのではないでしょうか。それが、今も信仰者に求められている姿ではないでしょうか。そして、それがまた、本当の意味で「委ねる」ということではないでしょうか。
 

2.メッセージ:主イエスを信じて歩む

私達は、この個所からどのような信仰のレッスンを受け取れば良いのでしょうか。弟子達は最後に問います。「風や湖までが言うことをきくとは、いったいこの方はどういう方なのだろう」(41)。「いったいこの方は誰だろう」。私達は、イエス様を、どのような方として捉えれば良いのでしょうか。この個所が教えるのは、「私達が主と仰ぐイエス様は、嵐に向かって『静まれ』と言えば、嵐を静めることが出来た、そのようなお方である」ということです。嵐に対する命令は「黙れ、静まれ(落ち着け)」(39)と非常に簡潔でした。命令が簡潔なのは、それを完全に支配下に置いておられるからです。くどくど余計なことを言う必要ななかったのです。しかし弟子達は、それを認めることが出来ずに恐れました。弟子達は、奇蹟的な癒しを為さるイエス様は見ていました。しかし、まさか自然界を支配なさる方だとは思っていなかったのです。弟子達は、イエス様を、奇蹟を為さる、しかし親しみのある人間としてイメージしていたのではないでしょうか。その意味で、イエス様を小さく見ていたのではないでしょうか。
私達も―(「私も」と言うべきか)―時に、大きなイエス様を信じることが出来ずに恐れるのではないでしょうか。思いもよらないことがやって来た時、あたかもそこに、イエス様は―(神様は)―おられないかのように怖じ惑う。しかし、ある神学者は言いました。「恐れは不信仰からやって来る」。痛い言葉です。でもこの個所は私達に「主イエス・キリストの『この自然界さえも治めておられる権威』を認めるように、そしてその権威で私達の歩みをしっかり守り導いておられることを信じるように、信じて、信頼して、委ねて行くように」、そう呼びかけるのです
しかしそうは言っても、私達の信仰は様々な出来事の中で揺れます。神の力を、神の配慮を疑う時があります。私は今、コロナ禍の中で信仰を教えようとする本を読んでいます。「ある人々が『神はいるのか』と言うに違いない状況で、なお神を信じるところに、コロナ禍を通り抜ける唯一の道がある」ということを語っている本です。本の中で、私達がイエス様を―(神様を)―信じることが出来る根拠として上げられているのは、イエス様が十字架に架かって下さった方だと言うことです。次の言葉が繰り返されています。「キリスト者は、試練に関する問題を解決した人たち達ではありません。私たちに代わって苦難を受けた神を信頼し、愛することを知った者です」(ジョン・レノックス)。
最近、ある方の証しを送って頂いて読みました。一部分だけの紹介になりますが…。その方が、鬱状態の中で、ある人を赦せないでいた時、夢を見ました。夢の中で、手に槍を持って何かを突き刺していたのです。何か月かして、その夢の続きが、幻となって目の前に現れました。何と、彼女が突き刺していた相手の顔が見えましたが、それはイエス様だったのです。イエス様は言われたそうです。「いいんだよ。私を突き刺しなさい。十字架に架かったということは、全てのことが含まれているんだよ」。彼女は、自分の罪を赦すために十字架に架かって下さったイエス様、そのイエス様の十字架が本当に生々しい現実になったそうです。「この方に信頼しないで、誰に信頼するのか」、そういう心境であられたのではないかと思います。私達の信じる主は、そういう方です。その方が私達と共にいて下さいます。その方は、自然界でさえ、創造し、支配しておられる方なのです。悪の力が働いていますから、悪は自然界にあっても私達に禍を為します。コロナ禍も、そうかも知れません。しかし、だからこそ初めにご紹介した、コーリー・テン・ブームの言葉が迫って来ます。「…自分自身を見れば、落ち込むでしょう。しかしキリストを見上げれば、心に平安が訪れます」。ここに真理があるのではないでしょうか。この神様を信じ、委ねて行きたいと願うのです。同時に、私達と共にイエス様がおられることを信じて、私達にも、神の力の及ぶことを祈りながら、せっせと舟を漕ぐ、水を掻い出す、そのような信仰生活でありたいと願います。
 

3:最後に

最後に、この個所から「教会として」学ばなければならないことがあります。イエス様は寝ておられた。寝ておられたとは、どういうことでしょうか。イエス様は、もちろん神に信頼しておられた。しかし同時に、弟子達にご自分を任せておられたということです。弟子達に「ご自分を運ぶ務め」を与えて、寝ておられたのです。弟子達は、一生懸命イエス様を運びました。(しかし途中で恐ろしくなりました)。教会はイエス様に「私を運ぶように」とイエス様の仕事を委ねられているのです。「そのようにして主イエスの歴史に参加するように」と招かれているのです。教会には色々なことが起こります。コロナ禍のような、思いもしない突風のようなことがやって来るかも知れません。しかしここで「いったいこの方はどういう方なのだろう」(41)と問うた弟子達は、イエスがやがて死の力を打ち破って弟子達の前に現れた時、「イエスの復活」を確認した時、もう「この方はどういう方なのだろう」と問うことをしなくなりました。むしろ「イエスとはどういう方なのか、イエス以外には救いはないのだ」と語り始めたのです。ある時、お世話になった方の葬式に参列しました。「ヘブル書11章4節」に「彼は死にましたが、その信仰によって、今もなお語っています」という言葉がありますが、「召天された方の信仰の生涯」がその会場を―(私達の魂を)―何か豊かなもので満たしている、魂を揺さぶられる思いでした。先週の敬愛する兄弟のご葬儀でも、同じことを感じました。「死」という、嘆き悲しむしかないように見えるその空気さえ、「主にある生涯の力強さ―(希望)―」は、打ち破って行くのです。「福音の力」を感じました。私達はこの信仰を感謝します。そして一人でも多くの方にこの希望をご自分のものにして頂きたいと願います。イエス様は教会を頼りにしておられます。だからこそ「困難があっても、教会という舟を漕ぎ、水を掻い出し、その舟の中で神の業を経験しながら、心に働く神の奇跡を経験しながら、イエス様を運び続けるように…」と、この箇所は私達を励ますのです。
 

聖書箇所:マルコ福音書42634 

 ある時の市内牧師会で、分かち合いをしている時、1人の先生が言われました。「今、自分達の教会の人数は20人くらいですが、10年後には会堂一杯の人で溢れている、そういうビジョンを持って歩んで行きたいと思います」。私も、励ましを頂いたことでした。先に良いビジョンを見ながら生きて行くことは、大切なことではないかと思います。先日も、カウンセラーをしている方と話をしている時、その方が言われました。「『5年後、どうなっていたいと思うか。そのために今日、何をするか』、そういう生き方も大切だと思いますよ」。「良いビジョン(幻)」を見ること、持つことは、大事なことだと思わされます。今日の箇所は、イエス様が「良いビジョン(幻)、イメージ」を持つように励ましておられる個所です。
イエス様の「神の国」の譬話が続きます。イエス様は、なぜ譬話によって「神の国」を語られるのか。それは「譬は、聞く人に『オヤッ』と思わせて、その心を惹き付ける」からです。しかし、それだけではありません。譬話の重要な働きは、それを聞く人にイメージを与えるということです。「ショーシャンクの空に」という映画があります。「希望の大切さ」を語る映画ですが、ある場面で主人公がこう言います。「彼女は私のことを『閉じた本のような人だ』と言っていた」。「閉じた本のような人」、私はその言葉から「心を開かない、心にあることを外に出さない(出せない)、そういう人」をイメージすることが出来ました。ビジョン(幻)、と共に「イメージ―(物事についての全体的な感じ、理解、それも『良いイメージ』)」を持つことも大切なことだと思います。(この個所の説教で、ある牧師が「イメージ」という言葉を使っておられました。良い表現だと思いましたので、私も使わせて頂きます)。
イエス様は「『神の国(神の支配の領域)』が来ている」と語られます。しかし「神の国(神の支配の領域)」は人々の目には見えません。「ハイ、これが神の国ですよ」と言って見せることが出来るものではない。見えないものを、聞く人がイメージを持つことが出来るように、イエス様は譬で語られるのです。逆に言うと、そういう形でしか人の心は、「神の国(神の支配の領域)」に対して開けて行かない、理解が広がらないのではないでしょうか。だから、譬が語られるのです。
しかし、「譬が聞く人の心を開く」と言っても、聞く人は、その譬話から想像を働かせて、「イメージ」を受け取らなければならないのです。「ある人が『あの人は氷のように冷たい人だ』と言うのを聞いた別の人が、体温計を持ってその人の所に行って、計って、『36度もあるじゃないか』と言った」という話を聞いたことがあります。それではイメージを受け取ったことにはなりません。私達は、イエス様の譬話から「神の国(神の支配の領域)」について、相応しいイメージを受け取らなければならない。その時に大切なことは「イエス様に対する信頼を働かせて想像する」ということです。そうした時、この2つの譬話は、「神の国(神の支配の領域)」について何を教えているのでしょうか。私達は、「『神の国(神の支配の領域)』について―(あるいは『神の国』を生きることについて)」どのようなイメージを持てば良いのでしょうか。内容と適用と2つに分けてお話します。
 

1:内容~神の国の現実をイメージする

「26~29節」は、「新共同訳」が「『成長する種』のたとえ」と小見出しをつけている譬です。イエスは言われます。「神の国は、人が地に種を蒔くようなもので、夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに、種は芽を出して育ちます。どのようにしてか、人は知りません。地は人手によらず実をならせるもので、初めに苗、次に穂、次に穂の中に実が入ります」(25~28)。もちろん人は、肥料をやり、雑草を抜き…と手入れをします。ほったらかして何もしないわけではありません。しかしイエス様が「地は人手によらず実をならせるもの」(28)と言っておられるように、人がどんなに一生懸命に手入れをしようと、根本のところでは、人が実を結ばせることは出来ないのです。実を結ばせるのは、土の働き、神が創造された成長の仕組み、要するに神の働きによるのです。神の働きの中で種は成長し、やがて実を結ぶのです。
イエス様は、続いて「30~32節」で「『からし種』のたとえ」を語られます。ユダヤでは、からし種(黒芥子)は、「小さなもの」を譬えるのに良く用いられた、いわば「小さなもの」の代表選手のような存在でした。しかし、その小さな種がいったん蒔かれると、神の働きの中で、人の背丈を越えて、家の2階にまで達するような植物に成長するのです。そして、その葉が作り出す地面の日陰には、実際に鳥が巣を作るらしいです。他のものを憩わせるほど大きなものになるのです。あるラビはそれに登った、という話が残っているくらい、大きく成長するのです。
この2つの譬から、私達は「神の国(神の支配の領域)」について、どのようなイメージを想像すれば良いのでしょうか。それは何よりもまず、地上の「神の国(神の支配の領域)」が大きく広がって行く、その成長のことが言われているのかも知れません。イエス様はあるところで「神の国は、あなたがたのただ中にあるのです」(ルカ17:21)と言われました。言い換えると「神の支配の領域はあなたがたの間にあるのです」ということです。先週「『神の国(神の恵の支配の領域)』は、イエス様を信じる人の心の中に、そしてまた、その人を包むようにして、存在するものだ」と申し上げました。ということは、イエス様を信じる人々が増えて行く、そのことが言われていると考えると分かり易いと思います。
地上に於ける「神の国(神の支配の領域)」について、ユダヤの人々は、「神の国」は、今の世がある時点で終わり、そこから「神の国(神が支配される来るべき世)」が始まると考えていました。しかし、実際はそうではなかったのです。「神の国(神の支配の領域)」は、「巨大なローマ帝国の中の辺境の地であるパレスチナに於けるイエス様の働き」という小さな種として始まったのです。しかし、その種が成長して行くのです。
イエス様の弟子の中には、熱心党のメンバーがいました。彼らは「自分達の力でこの世の中を何とかしなければ…」と考えていた人々です。そして「何とかする」ためには、暴力をも辞さなかった人々です。しかしイエス様はここで「夜は寝て、朝は起き、そうこうしているうちに…地は人手によらず実をならせる…」(27)と言われます。「夜は寝て、朝は起き」、「朝は起き、夜は寝て」ではないのです。ユダヤでは、1日が日没から始まります。「さあ、1日が始まった。寝るぞ」となるのです。しかしそれは、言い方を換えれば「前の日(その日の日没まで)に働いた結果は、神様に任せて、自分は休む」ということでもあるのです。「神の手に委ねるしかない」ということを覚えることでもあるのです。神が「神の国(神の支配の領域)」を成長させて下さるのです。「私達の小さな思い計らいを越えて、私達の弱い力を越えて、信じる者の背後に神の働きがある」ということです。
「神の国(神の支配の領域)」は人の手によって作り出せるものではない。神は歴史の中で、時至って、独り子イエス様を十字架にお架けになりました。そして、その独り子を復活させなさいました。神のなさったことです。そのイエス様の十字架と復活、そして聖霊降臨によって、これも小さなからし種ほどの働きだった弟子たちの働きが、力を与えられ、着実に成長し、今23億人の人々の間に「神の国(神の支配の領域)」は来ているのです。
私は歴史を振り返って見る時、世界が色々な意味で本当の平和を得るには、皆が自らの罪を知り、イエス様の教えの前に身を低くする、それしかないように思います。だからと言って、他の信仰を否定するつもりは全くありません。しかし理想的には、皆がイエス様の教えの前に本当に身を低くして、お互い同士の関係を持つこと、そこに真の平和の可能性、祝福があるという印象を最近ますます強くしています。その意味で、私達も置かれた所で主の業に励みたいと願うのです。その時、私達は励まされます。私達の働きも、神が主権を持って導いて下さるのです。私達は種を蒔けば良いのです。蒔かない種は育ちませんから。「種を蒔くことは、あなた方に期待している」と言われているのではないでしょうか。そして私達は、自分達のした仕事を神様に委ねるのです。伝道も、最後まで責任を持たなければならないと思うと大変です。しかし、神を信じる人を拡げて下さるのは神様です。私達は、委ねるのです。働いて、委ねて、その過程の中で、神の働きを見せて頂くのです。
 

2:適用~神の国を良いイメージをもって生きる

この個所を、私達の信仰生活にどのように適用すれば良いのでしょうか。
今「神の国(神の支配の領域)」を、「地上の神の国の広がり、イエス様を信じ、神の支配を受け入れる人々の広がり、成長」のこととして考えました。「種蒔き」に加わって行くことも大切な適用でしょう。しかし、ある神学者は「この譬話には、私達の霊的な成長のことも語られている」と言います。つまりそれは、私達1人びとりの心の中の「神の国(神の支配の領域)の成長」のことかも知れません。そのように考えることもできると思います。
私達も、「熱心党」ではありませんが、自分の力で何とかしなければならないと心配し、大したことが何も出来ずに無力感に襲われ、失望し、そういうことを繰り替えているのではないでしょうか。しかしイエス様は、私達1人びとりの信仰生活についても、良いビジョン(幻)、イメージを持つように励まして下さっているのではないでしょうか。それは「神様が主導権を取って私達を、私達の人生を、生活を導いて下さる」というイメージです。「その神様に信頼して、委ねて、信仰生活を送って行く」というイメージです。
この話は何度かしていますが…。高鍋出身の石井十次という方がおられます。「日本の社会福祉の先駆者、孤児の父」と呼ばれる人です。彼は、あることが切っ掛けで孤児と関わるようになり、孤児院を建て、最盛期にはその孤児院で1200人の孤児を養うようになるのです。石井十次について次のような伝説的な話が残っています。東北で大凶作があり、沢山の孤児達が彼の孤児院に送られて来た時のことです。心労も重なったのでしょう、彼は腸チフスに冒されて1か月の闘病をします。その病の床で、彼は幻を見ます。イエス様が大きな籠を背負っていて、その籠の中には既に200人位の子供が入っていました。ところが籠に手をかけている大人達は、まだまだ次々に子供達を籠の中に入れるのです。やがて子供達が皆入ってしまうと、イエス様は「もう済んだのか」と言って静かに立ち上がり、十次も籠に手を掛けて手伝って運んでいました。十次はその幻からイエス様のメッセージを、「『神の国(神の支配の領域)』を生きるためのイメージ」を受け取ります。「お前は、自分が孤児院を背負っていると思って心配しているけど、孤児院を背負っているのは私だ。お前は孤児院が狭くてもう子供達を入れることは出来ないと思っているが、今見た通り、いくらでも入る。お前は心配せずに、ありたけの力を出して手伝いさえすれば良いのだ」。「手伝いさえすれば良いのだ」、この言葉が十次の心に刻まれたと言います。彼の中に、イエス様が主人公、自分は手伝う者、というイメージが出来るのです。それが彼を支えて行くのです。
私達も、自分の人生について、あるいは日頃の生活について、心の中に、また具体的な場面において、神様に任せる部分、「神が背負って下さっているのだ、私は神様を手伝っているのだ」という部分、それを持つことは、意味深いことだと思います。その時、人生に希望が見えてきます。その時、行き詰まりのように見える所に、道が開けて来るのです。「5000人の給食」の記事おいて、弟子達は言うのです。「ここは寂しい所ですし、時刻ももう回っています。ですから群衆を解散させてください。そして村に行ってめいめいで食物を買うようにさせてください」(マタイ14:13)。「私達にはどうしようもありません」と言うのです。確かにそうだったでしょう。しかしそれが「行き詰まり」です。なぜ「イエス様、どうすれば良いのでしょうか。あなたはどうして下さいますか」と言えなかったのでしょうか。「神の働き」を計算に入れない時に、私達は行き詰まる、希望が見えないのです。しかし、結局5000人に食事を与えたのは、イエス様だったのです。神様の働きを思う時にこそ、希望がやって来るのです。
石井十次の例を取るまでもなく、「神に委ねる」ということは、「何もしない」ということではありません。十次も孤児院の様子を、当時珍しかった映像に納めて、映写会をして全国を回ったりしています。自分に出来ること、自分がしなければならないことは、して行くのです。しかしそれ以上に、「祈り」をもって神様の助けを期待するのです。生きて働いて下さる神様を信じるのです。そして、その結果を、また神に任せて行くのです。もちろん「こんなに祈っているのに、いつになったら状況は変わるのか」と思う時も多いと思います。その意味で「神に委ねる」時には、忍耐が必要です。また、現実の様々な出来事に直面した時、「神が働いて下さる」というイメージに生きることは、口で言うほど易しいことではないでしょう。私も困難に弱い人間です。問題を前にして、小さな信仰が吹き飛んでしまうこともしばしばです。しかし、それでもイエス様は、この個所を通して「良いイメージを持って生きること」の大切さを教えて下さっているのではないでしょうか。
なぜ、アブラハムが「信仰の父」と呼ばれるのか。アブラハムは、カナンに来た時、「わたしはこの土地をあなたに与える」と言われました。しかし、カナンには先住のカナン人が住んでいたのです。「神の言葉」と「現実」が違うのです。「神様。なぜですか」と言いたいところでしょう。しかし、アブラハムは、「神の示されたイメージ」に生きるのです。そのイメージを目の前に置きながら、彼はカナン人と折衝をしながら、生きて行くのです。その中で、土地が彼のものになって行くのです。信仰の戦いのようなところで、神様はアブラハムを祝福されたのです。神が教えて下さるイメージを心に刻み、そのイメージに生きる、それが信仰者の行き方であることを聖書は語ります。
「百万人の福音」に、文芸作品を執筆していたけれど、「置かれた状況からみて、どうしてもその仕事が出来そうにない」と言って、編集者に断りを入れた方の証しがありました。そうしたら、編集者が彼女の家を訪ねて来て、話をじっくり聞いて、一言言われたのです。「お委ねしたらいいのです」。彼女は、この言葉を信仰で受け止めるのです。「委ねる」ということを本気で受け止めた時、彼女は変わるのです。希望が与えられるのです。そして「出来ない」と思っていたことが出来たのです。
私達は「神の国(神の恵の支配の領域)」を生かされています。「神の国(神の支配の領域)」のイメージ―(神が私を支えて下さっている、神が私の中で、私の外で働いて下さっている、神が私に手を添えて導いて下さっている、そのような)―「神の国(神の支配の領域)」についての良いイメージを持ちながら、その良いイメージ、良いビジョン(幻)に生きて行きたいと願います。神が先導して下さいます。私達に出来ないこと、大きすぎること、それは神様にお任せして、自分の出来るところで「神の国(神の支配の領域)」のイメージに生きて行きましょう。きっと「神の国(神の恵みの支配の領域)」の現実を、神が経験させて下さいます。
 

終わりに

今日2つのことを申しあげました。繰り返しますが、神様が、この世界において、そして私達の心の中において、「神の国(神の恵の支配の領域)」を拡げて下さいます。その神に、信頼し、委ねて歩いて参りましょう。