2023年5月 佐土原教会礼拝説教

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聖書箇所:使徒の働き2章1~13節   

 ペンテコステ、おめでとうございます。イエス様は、甦ってから40日間、弟子達の前に現れ、弟子達に教え、そして天に昇って行かれました。そしてイエス様の昇天から10日後、イエスが約束しておられた聖霊が天から降って来られたのです。その聖霊降臨を記念する日を「ペンテコステ」と言います。それがこの聖日です。ペンテコステはキリスト教の三大祭りの1つです。教会の誕生日でもあります。改めておめでとうございます。
聖霊について「イザヤ書」にこんな記事があります。「…彼らを海から上らせた方は、どこにおられるのか。その輝かしい御腕をモーセの右に進ませ、彼らの前で水を分け…荒野の中を行く馬のように、つまずくことなく彼らに深みの底を歩ませた方はどこにおられるのか。家畜が谷を下るように、主の御霊が彼らをいこわせた」(イザヤ63:11~14)。「出エジプト」の時、「神が御業をもって民を導き出されたこと」が回想されている言葉ですが、ポイントは、奴隷の苦しみの中にいた民が救い出されたり、紅海が2つに分けられたり、草木一本も生えないような荒野で食べ物を食べ、水を与えられて彼らが生きて来ることが出来たのは、「それは彼らの中に『神の御霊』がおいでになったからだ」とイザヤが言っていることです。神様は聖霊を通して、様々な御業をなさるのです。聖霊が、私達の魂の中で、私達の状況の中で、働いて下さるのです。「聖霊」は「見えないイエス様、見えない父なる神様」と考えても良いと思いますが、今朝は「ペンテコステ」の出来事を伝える箇所から学びます。
 

1:「ペンテコステ」に何が起こったのか

 イエスが十字架に架かれたのは、「過ぎ越しの祭」というユダヤの祭の時でした。2章1節の「五旬節」と訳されている言葉は、言語では「ペンテコステ」ですが、「『過ぎ越しの祭』から数えて50日目の祭」を指す言葉です。それはユダヤ教の大切な祭でした。それでローマ帝国中から大勢のユダヤ人がエルサレムにやって来ていました。しかし外の賑わいをよそに、イエスの弟子達、母マリヤと兄弟達は一つ所に集まって、イエスが約束された「聖霊」が来られるのを祈りながら待っていました。イエス様は、天に上られる前、「エルサレムを離れないで…待ちなさい…もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです」(1:4~5)と約束して下さっていました。そこに聖霊が降られました。その時、どんなことが起こったのか、詳しいことは分かりませんが、聖書から3つのことは知ることが出来ます。1つは、2節「激しい風が吹いてくるような響きが起こり、家全体に響き渡った」(2)のです。「風」と訳されている言葉は「息」とも訳される言葉で、「風や息」は「神の霊、聖霊」を表す言葉として使われました。ですからそれは、聖霊が臨んだことを示すしるしでした。2つ目は3節「炎のような分かれた舌が現れて一人ひとりの上にとどまった」(3)。「炎」や「火」も聖霊を表す比喩として用いられた言葉です。3つ目は、彼らが「他国のことばで話しだした」(4)ことです。彼らはほとんどがガリラヤ人でした。普段は「アラム語」を話しました。その彼らが9~11節にあるような広範な地域からやって来ている人々の国語を話し出したのです。
いずれにしても、聖霊を受け、聖霊に満たされた彼らは、隠れ家から外に出て、神殿まで行き、「9~11節」にある広範囲な地域から来ている人々の国語で語り出しました。そこで―(14節から後になりますが)―弟子のペテロが世界で初めてのキリスト教のメッセージを語るのです。
 

2:「聖霊降臨」が弟子達に意味したこと

この出来事は何を意味するのか。それは「イエスを信じる全ての人に聖霊が注がれる『聖霊の時代』が始まった」ということです。それは弟子達にどういう意味があったのでしょうか。十字架で死んだイエス様が甦って弟子達の前に現れた時、弟子達は興奮したでしょう。彼らは生前のイエス様と共に過ごしてその働きを見て、その教えを聞いていました。十字架の時は躓いたけど、復活のイエス様に会いました。40日の集中講義も聞きました。「イエス様が甦った。出て行ってこのことを人々に語りたい」、そういう気持ちだったと思います。(私達も凄い話、興味深い話を知っていたら誰かに話したいでしょう)。でも「1章4節」でイエスが命じられたことは、「父の約束を待ちなさい…もう間もなく、あなたがたは聖霊のバプテスマを受けるからです…聖霊があなたがたの上に臨まれるとき、あなたがたは力を受けます」(使徒1:4,8)、つまり「聖霊を待ちなさい」ということでした。かつてイエスは、聖霊について「わたしは助け主をあなたがたのところに遣わします」(ヨハネ16:7)と言われました。「その『助け主/聖霊』を待て」と言われたのです。なぜなら聖霊を受けずに動く人間の力は当てにならないし、長続きしないからです。
ペテロは、「最後の晩餐」の時、「たとい、ごいっしょに死ななければならないとしても、私は、あなたを知らないなどとは決して申しません」(マルコ14:31)と言いました。しかし、その舌の根も乾かないうちにイエス様を裏切ったのです。ペテロはその経験を通して、人間的な勢いや元気がいかに頼りないものかを知ったのです。他の弟子達も同じでした。人間は弱い。いざとなったら私達は、色々な意味で弱いのではないでしょうか。だからイエスは「聖霊を受けるのを待ちなさい」と言われたのです。そして聖霊を受けた時、彼らは自分の力ではない、聖霊に支えられて、イエスを十字架につけた権力者の牙城である神殿に出て行くのです。そして権力者を見据えて―(それまでは、その人々を恐れて逃げて隠れていたのです)―イエスの甦りを語り、「イエスを信じなさい」と語ったのです。ここにキリスト教会が誕生するのです。
 

3:「聖霊降臨」が私達に意味するこ

「聖霊降臨」は、2000年後を生きる私達に、何を語るのでしょうか。それは私達にも助け主が必要だし、そして私達にも、イエスを信じる時、聖霊が与えられるということです。
私達にとって一番切実なのは、聖霊は、私達の信仰を守って下さっているということです。CSルイスというイギリスのクリスチャンの文学者、作家がいます。彼は60歳を過ぎてから初めて結婚をしますが、その時には既に妻となる女性はガンに冒されていました。一時的に奇跡的な回復を見せますが、3年後に妻は亡くなってしまいます。その悲しみの中で「悲しみをみつめて」という本を書きます。この本には、やり場のない悲しみ、悲しみの故の神に対する怒りや非難が書いてあります。信仰は危機に瀕しています。それこそ「神が何だ、信仰が何だ」という感じです。しかし、そのことを通して彼は、「自分が『信仰だ』と思っていたものが、いかにもろいものであったのか」、その真の姿がさらけ出されるのを感じるのです。しかし同時に、自分の信仰の状態がどうであるかを越えて、それもこれも包み込んで、彼を導いて行かれる神様に気付くのです。言葉を換えれば、彼の神との関係は、彼の信仰にかかっていたのではないのです。神の方が彼を導いておられたのです。それこそ聖霊の働きです。私達の信仰も、実は、私達が必死に信じて、信仰を守っているのではない、聖霊によって守られているのではないでしょうか。
それだけではありません。イエス様は、私達が祝福の人生を生きるための秘訣を沢山教えて下さいましたが、聖霊の助け無しには、聖書の教え、イエス様の教えを生きることは出来ないのです。イエス様は「あなたの敵を愛しなさい」(ルカ6:27)、「赦しなさい。そうすれば、自分も赦されます」(ルカ37)と言われました。(皆さんには敵がいますか。自分を、自分の人生を、傷つけた人、自分に害を及ぼした人、自分に辛い仕打ちをした人、そういう人を簡単に赦し、愛せるでしょうか)。「第二次大戦中、ユダヤ人を匿ったということで強制収容所に入れられたオランダ人のコーリー・テン・ブームという女性がいます。家族は収容所で殺され、彼女も辛い思いをしました。しかし戦後、彼女はヨーロッパの人々にキリストの和解を説いて回りました。ドイツにも行きました。ある教会で和解のメッセージを語り終わった時、1人の男が前に出て来ました。それは、かつて彼女が入れられていた収容所の看守をしていたナチスの将校でした。彼は言いました。「私は収容所の看守をしていました。でも、その後、クリスチャンになったのです。でも、あなたの口から『赦す』と言って欲しいのです。赦してくれますか」。一般論を語ることと、自分に直接関わることに相対することでは、違うのです。彼女はどうしても手を差し出すことが出来ませんでした。しかし祈るのです。「主よ。助けて下さい。私の手を差し出すことは出来るはずです。必要な感情は、あなたが備えて下さい」。彼女は、固まった手を差し出した、その時です。肩から始まって彼と握手をしている手に向かって暖かいもの、彼女の全ての傷、痛みを癒すような暖かな何かが流れた。そして彼女は言うのです。「赦します。心からあなたを赦します」。聖霊の働きです。聖霊は、イエス様が教えて下さった祝福の道を歩むことをも助けて下さるのです。
いずれにしても、私達にも、信仰生活にいて、聖霊の助けを必要とする色々な場面があるのではないでしょうか。しかし問題は、どうすれば聖霊が私達のところに来られるかということです。私達は、信仰を告白して洗礼を受ける時に聖霊のバプテスマを受ける、と信じていますが…。聖霊に与っているような気がしないとおっしゃる方がおられましたら、次の点を確認して下さると良いと思います。
 聖書には、2つのことが聖書に教えられています。1つは、この後の方ですが、2章38節でペテロは人々に説教して言いました。「…このイエスを、あなたがたは十字架につけたのです」(38)。そして最後に言いました。「悔い改めなさい。そして、それぞれ罪を赦していただくために、イエス・キリストの名によってパブテスマを受けなさい。そうすれば、賜物として聖霊を受けるでしょう」(38)。「あなた方は自分がイエスを十字架につけたことを自覚して、悔い改めなさい」と呼びかけました。その目的を「罪を赦していただ(き)…聖霊を受ける(ために)」と言いました。ペテロの説教を聞いた人達の中には、50日前に「(イエスを)十字架につけろ」と叫んだ人もいたのです。しかしそれは、2000年後の私達には関係のない話でしょうか。しかし水野源三さん―(子供の頃の脳性麻痺で体の自由を失い、生涯、瞬きしか出来ず、しかし瞬きだけで沢山の信仰の詩を書いた詩人)―は、こんな詩を作っています。「ナザレのイエスを、十字架にかけよと、要求した人、許可した人、執行した人、それらの人の中に私がいる」。何を言っているかというと、「私の罪が赦されて、私が聖霊に与ることが出来るように、イエスが十字架に架かって下さった」と言っているのです。私達も、聖霊に与る、そのポイントは「罪の自覚と悔い改め」です。
 自分の話をして申し訳ないのですが、参考までに…。私は、学生の時に、ある問題の中で、教会学校で聞いた神様を思い出して、「助けて下さい」と神様に願って教会に飛び込みました。そして神様に助けて頂き、7年ぶりに教会に繋がるようになりました。そして勧められて洗礼を受けたのですが、洗礼に与った時、心からの罪の自覚と悔い改め、それがなかったように思います。だから教会で話されていることが良く分からないのです。「神の恵みが…」と言われても、「恵み」が分からない。礼拝も、出席しないと何となく不安で義務的に参加していました。ところが就職して、職場での失敗を通して、「自分も罪人だった」ということが身に染みて分かる機会がありました。その時、神様に赦しと助けを求めて、すがるようにして祈りました。そして教会を通して、神様から「赦し」の宣言を頂きました。それから十字架が輝き出すようになりました。「恵み」が分かるようになったのです。神様を求める気持ち、神様への感謝の思い、そういったものが静かに湧き上がるようになりました。私は、それが自分にとっての聖霊のバプテスマ(洗礼)だったのではないかと思っています。
個人的な話をして申し訳ありませんでしたが…。だから聖書が語るように、「聖霊に与るための罪の自覚と悔い改め」ということが重要なポイントではないかと、自分の体験からも思うのです。
 「罪」とは何でしょうか。私達の回りにいる方々は、多くの方々が善人に見えます。しかし「人間は皆、生まれながら罪を抱えている」、それが聖書の教えるところです。「原罪」と言います。これは人間がどうしようもなく持っているものなのです。それを理解することは大事なことなのです。カナダにいる時、ある方と聖書の勉強をしているのですが、その方が「私は自分が罪人だとはなかなか思わない」というようなことを言われました。私は「妬み」の話をしました。「妬み」は、頑張って妬もうと思わなくても自然に湧き上がって来るものではないでしょうか。私達は、「醜い感情だ」と知っています。しかし、どうしようもなく湧き上がって来るのです。なぜでしょうか。「人の罪は妬みに現れる」と言った人がいますが、それは私達に罪があるからです。妬むから罪があるのではない、罪があるから妬むのです。恨み、憎しみ等も同じです。つまり私達は、罪を持っているのです。そういう話をさせて頂いたら、その方も「私も罪だらけです」と納得して下さいました。
作家の三浦綾子さんは、「罪」を「自己中心」と表現しました。私達は何でも自分を中心に考える、イザとなれば「自分さえ良ければ良い」という自己中心を持っているのではないでしょうか。(しばらく前、マスクを買うためにドラッグストアーの前に並んでいる時に、他人の中にも、自分の中にも、それを感じました)。あるいは三浦さんは、こうも言っています。「何気なく言う悪口、陰口…その心の中にとぐろを巻いているのは、敵意、ねたみ、憎しみ、優越感…ではないか…だが人の悪口を言ったことのない者はいないだろう。私達は1人残らず罪深いのだ」(三浦綾子)。三浦綾子文学の研究者・森下辰衛という先生は「人間の罪は『もう愛せない、もう愛さない』、そこに現れる」と言いました。私は、14年間、教師をしましたが、子供達への愛がないために、子供達を傷つけてしまった、そんなことが思い出されます。自分の力では愛に生きることも難しい。
申し上げたいことは、私達には罪があるということです。でも自分では、その罪をどうしようもないのです。何より罪があると神に受け入れられない。だからそのために、イエス様が私達の罪を背負って身代わりに十字架に架かって下さった、そして神と私達の間に橋を架けて下さった、それが十字架の意味です。だから自分の弱さ、罪、自己中心、妬みや裁き、そういうものを認め、「神様、裸の私はこんな者です。赦して下さい。私の罪のためにイエス様が十字架に架かって下さったことを信じます。感謝します。助けて下さい。神様の力を下さい」、そう祈る時、神は私達を受け入れて下さり、そしてその時、喜んで聖霊を注いで下さるのです。
そしてもう1つ、大事なことは、聖霊を求めて祈ることです。イエスは言われました。「天の父が、求める人たちに、どうして聖霊を下さらないことがありましょう」(ルカ11:13)。悔い改め、赦しを求め、そして聖霊の助けを求めるその人に、聖霊が働くようになるのです。それが「聖書」の約束です。初代教会の人達は、教会に集まって何をしていたのか。彼らは祈っていたのです。祈りに打ち込んでいたのです。その中で、聖霊の働きに与って行くのです。
まとめます。2000年前の「ペンテコステ」、罪を悔い改め、イエス様の十字架を感謝して見上げる全ての人に、そして聖霊を祈り求める人に、聖霊がやって来られる時代が始まったのです。そして、今もそうです。聖霊が私達の傍らにやって来られ、助けて下さいます。神の力を注いで下さいます。やがては、誰も死を迎えます。でも聖霊は死にも打ち勝たせて下さいます。生きるにも、死ぬにも、聖霊が助けて下さる。それがキリスト教信仰の祝福です。私達も、聖霊の助け、力に与って、聖霊のお働きによって力強い信仰生活をさせて頂きたいと願います。
 

 

聖書箇所:マタイ福音書2章13~23節   

 2023年も3分の1が過ぎましたが、皆様の聖書通読のご様子は如何でしょうか。聖書は、「旧約」が929章、「新約」が260章、合計1189章あります。1189章を365日で割ると、1日3.3章を読むと1年で全部が終わる計算です。今からでも遅くありません。もし「今まで全然読んでいなかった」とおっしゃる方がおられても、今日からでも、「新旧約聖書」は厳しいとしても、「新約聖書」だけでも、通読に向けて頑張って行きましょう。
なぜ、このようなことを申し上げるかというと、私自身が「御言葉に養われていないな」と思わされるからです。だから信仰生活がどこか薄っぺらい感じがします。と同時に、今日のメッセージの準備をしていて、御言葉の力に改めて目が開かれるような気がしたからです。ペテロは言いました。「あなたがたは…生まれたばかりの乳のみ子のように、純粋な、御言葉の乳を慕い求めなさい。それによって成長し、救いを得るためです」(1ペテロ2:1~2)。「御言葉によって成長するのだ」と言うのです。「天国に行ったら聖書は読めない」と聞いたことがあります。地上に生きている間に御言葉に養われ、私達を間違った道に導く悪に対抗して行きましょう。
 

1:内容~ヘロデが幼児を殺害する

前回は、「東方の博士達がイエス様を拝みに来た」という箇所を学びました。今日の箇所はその続きです。ここで何が起こっているのか。一言で言えば「ヘロデが幼子イエスを殺そうとしている」ということです。ヘロデは、この箇所等を読むと「狂気の王様」という印象がありますが、実際は、権謀術策渦巻く権力構造の中で賢く自分の力を拡大して行った、政治的な手腕を持っていた人だったようです。ローマ皇帝とも上手に関係を保ちました。また彼のやった大きな業績は「エルサレムの神殿を再建した―(増築した)」ということです。今でもエルサレムには、ヘロデが再建した神殿の壁の一部が残っていて、人々がそこで祈っています。ヘロデは、人々の神殿に対する願いをも実現したのです。しかしそのヘロデが、イエスを殺そうとしたのです。なぜでしょうか。
ヘロデは、純粋のユダヤ人ではなく、エドム人という民族の流れを持っていました。だからユダヤ人は、どこかでヘロデ王を認めていなかったのです。しかしヘロデは、「ユダ人の王」でいたかった。だから人々の尊敬を集めるために、神殿を再建したのです。そのようにして、必死で王様であろうとしました。それだけに、自分の立場を危うくするような者は赦さなかった。妻を殺し、伯父を殺し、息子を殺し、義理の父を殺し…皆が自分の王位を危うくすると思って殺して行きました。ヘロデは、そのように、権力がありながら疑心暗鬼の中で暮らさなければならなかった人です。
だから東方の博士達が「ユダヤ人の王としてお生まれになった方は、どこにおれますか」(マタイ2:2)と聞いて来た時、彼はその「ユダヤ人の王として生まれた子」を「殺してしまわなければならない」と考えました。彼はイエスを狙います。イエス1人を殺すためにベツレヘム周辺の2歳以下の男の子を全部殺してしまうという恐ろしいことまでするのです。
イエス様は守られます。ヨセフが夢で「エジプトに逃げるように」と告げられて、ヨセフがすぐにそのお告げに従ったために、一家は無事にエジプトに逃げることが出来ました。しかし、他の子供達は殺されてしまうのです。子供達の母親は、悲しんだことでしょう、泣き叫んだことでしょう。
この出来事は、それが実際に起こった出来事だからマタイは書いたのですが、マタイにはこれを書く時に伝えたいことがあったと思うのです。ルターは言っています。「悪魔が、その悪魔に支配されているこの世が、幼子イエスと、その幼子イエスがもたらそうとして下さっている御国に対して、どんなに敵意を持っていたかということが、ここでこそ、明らかになった…この話は、どんなに一生懸命にイエスを滅ぼそうとしたかということを教えてくれる話だ」。それは逆に「イエス様がどんなに恐ろしい世界に赤子として生まれて下さったのか、神様はどんな恐ろしい世界にイエス様を送って下さったのか」、そのことを私達に教えます。私達を愛するために、十字架の贖いを成し遂げるために、神が払われた犠牲が、その最初からどれほど大きなものであったのか、私達の胸に迫って来るわけです。
しかしマタイは、それだけを伝えようとしているのではないと思います。この事件は「人間の罪がどれほど恐ろしいことを引き起こすか」、そのことを証しします。しかし、ここを読む者は「なぜ、このことが起こることを、神は赦されたのか」という疑問を持つのではないでしょうか。マタイは、それに何か答えようとしているのではないかと思います。
この個所には注目すべき言葉が繰り返されています。15節「これは、主が預言者を通して、『わたしはエジプトから、わたしの子を呼び出した』と言われた事が成就するためであった」、17節「そのとき、預言者エレミヤを通して言われた事が成就した」、23節「これは預言者たちを通して『この方はナザレ人と呼ばれる』と言われた事が成就するためであった」。この3つの言葉は「これで『旧約』の言葉が成就した」と言うのです。この記事だけでなく、私達の人生には色々な不条理な苦しみ、悲しみがあります。それらが単に偶然に起こっているとすれば、私達は途方に暮れてしまうのです。しかしマタイは、この個所を通して「聖書に照らして考える時、神様を計算に入れる時、出来事の意味は変わってくるのだ」ということを教えてくれるように思うのです。繰り返される3つの言葉を通して、マタイの、聖書のメッセージを受け取りたいと思います。
 

2:メッセージ

1)私達は神から呼び出して頂いた

1番目は13~15節です。東方の博士達が、別の道を通して自分達の国に帰ってしまった時に、ヘロデは激怒して、イエスを探し出して殺そうとしました。その時、ヨセフは、夢で主の使いのメッセージを受けて、イエスとマリヤを連れてエジプトに逃れます。恐らくエジプトのアレキサンドリアという町だっただろうと言われます。当時、ユダヤの国で為政者に睨まれた人が逃げ場所としていたのが、アレキサンドリアでした。いずれにしても聖家族は、ヘロデが死ぬまでそこに滞在します。ヘロデが紀元前4年に死ぬと、エジプトから呼び出されてイスラエルに帰って来るのです。
そのことにマタイは、「旧約」の預言者ホセアの言葉を引用します。「ホセア書11章」:「イスラエルが幼いころ、わたしは彼を愛し、わたしの子をエジプトから呼び出した」(ホセア11:1)。これは第一義的には、ホセアの時代の700年ほど前に起こった「出エジプト」のことが語られているのですが、同時にホセアは―(自分では気づいていなかったかも知れませんが)―ホセアの時代の700年後のイエス様の出来事を預言していたのです。
しかし、イエス様に起こった出来事を書いているだけでもないのです。「聖書」では、「エジプト」は「悪」の代名詞として語られます。それはつまり、罪の中に生きていた私達が、神様によって呼び出されたことまでが語られているのだと思います。私達は、イエス様のご生涯、十字架、復活によって「神の子」とされ、「わたしの子」と呼んで頂いて、神に呼び出して頂いた者なのです。マタイは、この出来事を通してそのことまでを語っていると思います。皆様はいかがでしょうか。私は自分の過去を思い出して、恥ずかしい思い、辛い思い、情けない思い、苦しい思い、色々な思いに苛まれます。泥の中を這いずり回っているような時もありました。そのような者を、神は「私の子」と呼んで、選び出して下さったのです。何という恵みだろうかと思います。それも、イエス様のご生涯、十字架、復活に懸かっていたことを思う時、本当にイエス様に感謝することです。
 

2)神には深いみ旨がある

第2番目は16~18節です。ヘロデによってベツレヘムとその近辺の2歳以下の男の子は殺されました。その数20~30人ほどでしょうか。「ヘロデの残虐さからすると驚くほどのことでもなかっただろう」という学者もいます。しかし子供を殺された親(母親)は、どんなに辛かったでしょうか。
マタイはここで、「エレミヤ書31章」の言葉を引用しています。「ラマで声が聞こえた。激しく嘆き悲しむ声だ。ラケルは子供たちのことで泣き、慰めてもらおうともしない、子供たちがもういないからだ」(18)。ラケルというのは、「創世記」に登場するアブラハムの孫のヤコブの妻ラケルのことです。ラケルはヨセフの母でした。ヨセフは、兄達の恨みを買って、兄達の手でエジプトに売り飛ばされます。でも兄達は、父ヤコブに「ヨセフは野獣に噛み殺されてしまったに違いない」と嘘の報告をします。真実を知らないヤコブは、慰められることも拒んで嘆きました。母親のラケルも、子供を失った母の悲しみを一身に背負って嘆いたはずです。エレミヤの預言は、本来はそのラケルの悲しみと―{ラケルは死んだ後、ベツレヘム―(ここではラマと呼ばれている)―に葬られましたから}―それから1400年程後、やがてユダ王国がバビロンに滅ぼされて、ユダの主だった人々がラケルの墓の傍らを通ってバビロンへ引かれて行くことになる、「その姿を、ユダヤ民族の母であるラケルも嘆いているだろう」という2つの悲しみを重ね合わせて歌ったものです。
しかしマタイは、「エレミヤは、さらに『イエスが誕生された』この時の事件をも見せられて、その悲しみを歌っていたのだ」ということを聖霊によって示されて、ここに引用したのです。しかし、マタイがこの御言葉を引用したのは、この御言葉がそのような悲しみを歌うだけに終わらないからです。エレミヤの言葉は、ユダヤ人がバビロンに引かれて行く、そのことを語りながら、すぐ後にこう続くのです。「主はこう仰せられる。『あなたの泣く声をとどめ、目の涙をとどめよ。あなたの労苦には報いがあるからだ…彼らは敵の国から帰って来る。あなたの将来には望みがある…あなたの子らは自分の国に帰って来る…』…」(エレミヤ31:16~17)。回復の預言です。希望の宣言です。現実には、悲惨な出来事です。しかし、ここには嘆き悲しむ母親達が、涙を拭われ、泣き止むことが、約束されているのです。それはつまり、イエスという方は、そのように、嘆きを喜びに変えて下さる救い主としてお出でになったということを、マタイはここで語ろうとしているのではないかと思います。
宗教改革者ルターは言いました。「殺された幼子たちこそキリストのための最初の殉教者たちであった」(ルター)。「聖書」には「主の聖徒たちの死は主の目に尊い」(詩篇116:5)とあります。であればマタイは、「この幼子達はイエスの十字架の贖いによって救われ、天国に入って行ったのだ」ということを言おうとしていると思います。ボンヘッファーという神学者―(後にナチスによって処刑された神学者)―はこう言っています。「ベツレヘムにおいて殺された幼ない子達は、気の毒であったと、我々は言うかも知れないが、違う…この子供達は…イエスのために死んだのだ…イエスはいつも、この子供達から離れないのだ…この子供達は、イエスと共に今尚生きているのだ」(ボンヘッファー)。私は「天国は本当にある」という映画を思い出しました。1人の少年が大病をして、手術の途中、その魂が天国に導かれます。そしてそこで、自分が生まれる前にお母さんが流産したお姉さんに出会うのです。お姉さんは、イエス様の御許で祝福に満たされて生きていたのです。やがて天国でお母さんにも会うでしょう。少年は、天国にずっと居たかったけれど、イエス様から「お父さん、お母さんが、君の快復を祈っているから、地上に帰りなさい」と言われ、その魂が地上に帰って来るのです。つまり手術が成功して、彼は快復するのです。
私達には、理解出来ないことがあります。しかし神は、永遠の観点から、私達に分からないことも、やがて私達が「そうだったのか」と納得出来るような形で、その偉大なご計画を分からせて下さるのではないでしょうか。
 

3:主イエスは私達がどんな状況にあっても共におられる

3番目は19~23節です。ヘロデ王が死んだ後、ヨセフは御告げを受けて、マリヤとイエス様を連れてイスラエルに帰って来ます。しかしベツレヘムのあるユダヤ地方は、ヘロデの息子のアケラオという暴君が治めていたので、夢で告げられた通り、故郷ガリラヤのナザレに帰るのです。イエス様はナザレで成長されます。そしてその伝道生涯の間、人々から「ナザレのイエス」と呼ばれることになるのです。
実は「この方はナザレ人と呼ばれる」(23)という言葉は、「旧約」にはありません。マタイがどんな資料を使ったのか、学者の間でも議論があります。ただ1つ、言えることがあります。「ヨハネ1章」でイエス様の弟子になったナタナエルが弟子になる前、ピリポからイエスのことを聞いた時、こう言います。「ナザレから何の良いものが出るだろう」(ヨハネ1:46)。そのように、ナザレという村は、「つまらない村」だと思われていたのではないでしょうか。「ナザレ人と呼ばれる」ということは、そのこと自体が人々から軽蔑されることを意味したのではないでしょうか。「旧約」の預言者イザヤは、イエス様について預言して言いました。「彼はさげすまれ、人々からのけ者にされ、悲しみの人で病を知っていた。人が顔をそむけるほどさげすまれ、私たちも彼を尊ばなかった」(イザヤ53:3)。そのように、イエス様は、言わば最も低いところから、やがて復活、昇天と、最も高い所に上られた方です。つまり、低きから高きまで、全てを知り、御手の中に治めておられる方なのです。私達の生きるところ、どんなところにも、イエス様のおられない所はないのです。
「この方はナザレ人と呼ばれる」(23)とマタイが書いた時、それはイエス様の辱められることの多いご生涯、人々から捨てられるようなご生涯、弱さを知っておられたご生涯、そのようなご生涯を生きられたことを強調しているのではないでしょうか。それは、私達に何を語るのか。
教会は、信仰者は、地の塩として、世の中の弱い立場にある人々、苦しんでいる人々、そういう人々に対する温かい視点をなくしてはならないということではないでしょうか。もちろん、何が出来るというわけではありません。特に私達のような小さな教会は、具体的に出来ることはないかも知れません。しかし、世の中の隅に追いやられている人々、弱さを嘆いている人々、苦しみの中を生きている人々、人からバカにされたり、軽蔑されたりしている人々、そういう人々に対するイエス様の視点、そのようなものはなくさないようにしたいと願うのです。
森永製菓の創業者である森永太一郎はクリスチャンです。彼は、一攫千金を夢見てアメリカに渡りますが、商売が上手く行かず、ある老夫婦の家の下働きをしなければならなくなりました。その頃は、今より人種差別の激しかった頃です。東洋人は、白人からの差別の対象でした。しかし太一郎を雇ってくれた老夫婦は、太一郎に差別的な態度を取らなかったのです。太一郎は聞いたのです。「どうしてですか」。老夫婦は言いました。私達も神に造られました。あなたも神に造られた存在です。神に造られた者が、同じように神に造られた人を差別することは出来ません。この夫婦に導かれて、彼はクリスチャンになるのです。彼の信仰の生涯には紆余曲折がありましたが、晩年「我は罪人の頭なり」と題して、全国の教会で証しをして周ったのです、信仰の生涯を全うしたのです。
カナダの教会で奉仕をしている時、カウンセラーの兄弟が証しをしてくれたことがあります。「右に沢山の幸いな人が集まっている大教会があるとします。左に貧しい人が数人集まっている所があるとします。イエス様ならどちらに行かれるでしょうか」。これも「教会はイエス様の視点をなくしてはいけないのではないか」というメッセージでした。
以上、3つの言葉を基にこの個所を見て来ました。先日「デイリーブレッド」で「わたしが彼らに語っている幸福もみな、わたしが彼らにもたらす」(エレミヤ32:41)という言葉に触れて、新たな希望をもらった気がしました。私達が聖書に親しんで神を計算に入れる時、私達に起こる様々な不条理に見える出来事の中を、私達はなお意味と希望を持って通って行けるのではないでしょうか。御言葉と共に生きて行きたいと願うことです。
 

 

聖書箇所:マタイ福音書2章1~12節   

 今日は「母の日」です。村上宣道という先生は、牧師家庭に生まれながら、中学生の時、「神なんかいない」と神を否定するようになったそうです。「神はいない」と考えると自由になった気がしました。しかし、そこからどんどん堕ちて行ったのです。万引きをしてスリルを味わっても、結局生きる意味も目的も、価値も見いだせずに、虚無的になり、やがては虚しさの果てに死に場所を探して歩くようにまでなります。「世界中の誰もが赦されても、自分は赦されない」とまで考えたのです。そんな時、一晩中ほっつき歩いて明け方に家に帰って来たら、お母さんが待っていました。お母さんは彼を叱るのではなくて、ギューッと抱きかかえて「寒かっただろう、お母さんの愛が足りなかった、ごめんねー」と言ったのです。そして祈ってくれました。「神様、イエス様が『父よ、彼らをお赦しください。自分が何をしているのか知らないのです』と祈られた祈りは、宣道のためでもあったことを信じます」。村上先生は、この祈りから変わるのです。「こんなどうしようもない者は赦されない」と思っていた、しかしその神様が「こんな者を愛して下さる」と信じることが出来るようになったのです。
母の愛、ありがたいものだと思います。お母様がご健在の方も、既に召されておられる方も、母を思い、母に感謝を捧げる時を持ちたいと願うことです。また今「お母さん」をなさっておられる方々の上に主の祝福を、心からお祈り致します。
さて、今朝は「東方の博士達来訪」の記事を通して信仰の学びをします。
 

1.「博士達の来訪」の意味

イエス様が生まれてしばらく経った頃、東方から博士達がエルサレムにやって来て「ユダヤ人の王としてお生まれになった方はどこにおいでになりますか…東の方でその方の星を見たので、拝みにまいりました」(2)と言いました。彼らは何者なのでしょうか。なぜ「ユダヤ人の王」が生まれたというのに、異邦人の彼らが拝みに来たのでしょうか。「東の方」というのは「ユダヤから見て東の方」ということで、かつてバビロンやペルシャがあった地域です。「新共同訳」は、彼らを「占星術の学者達」と訳しています。その地方は、占星術が発達していた地域です。つまり彼らは、天文学の先生であり、星占いの先生であり、呪い師であり、祭司でもあり…そういう人達だったと思われます。ある学者は、「はるか昔に没落した王の種族であったのではないか」とも言っています。
さて、「東方」ですが、例えばバビロンは、イエス誕生の600年前、ユダ国の主だった人々が捕囚民として連れて行かれた地です。バビロンでユダヤ人は惨めな捕囚民でしたが、彼らの信仰はバビロンの人々―(後のペルシャの人々)―にも影響を与えて行ったと思われます。「旧約『ダニエル書』」に「ダニエル―(ユダヤから連れてこられた貴族の青年)―の知恵に驚いたバビロンの王様が、ダニエルを『バビロンのすべての知者たちをつかさどる長官』(ダニエル2:48)にした」という記事があります。今でいえば文科大臣にしたということです。ダニエルの信仰はバビロンの人々に影響を与えて行ったはずです。聖書が預言する救い主は、ユダヤ人だけではない、世界の人々に救いを与える救い主でした。「そのような救い主がやがて現れる」という希望は、代々の東方の人々の心も捕らえて行ったと思います。そして不思議なことに、イエス様の時代というのは、「ユダヤから世界を支配する者が出る」という機運のようなものが、中東世界に高まっていた時代だったそうです。そういうことも博士達に影響したかも知れません。
この博士達は占いをしていた人です。多くの人が救いを求めて訪ねて来たでしょう。しかし、彼らの占いには、何の救いも、確かな希望もない、ということを誰よりも知っていたのが、彼らだったのではないでしょうか。尼僧からキリスト教の伝道師になった方が言っておられます。「仏教が人間が行き着いた最高の哲学であることは分かる。でも求めているものはなかった…神に向かって祈る、神と交わる世界がなかった」。私達は、私達を救ってくれる確かな「存在」が必要なのです。ある本にはこんな話がありました。その先生の教会に1人の女性が訪ねて来て言いました。「取り返しのつかないことをしました」。先生は「取り返しのつかないこと」の内容を聞いて何か助言して上げようとしました。しかし、女性は立ち去ってしまうのです。先生は言っています。「あの日、彼女は、何者かの前に立ちたかったのです…彼女の深みに共にいる方をなぜ示すことができなかったのか…どんな人間の絶望よりもさらに深い神の恩寵の光の中に共に立って、なぜ祈れなかったのか、と思います」。この話も教えます。人には、神と交わる世界が必要なのではないでしょうか。神に祈る、神に助けを期待する、そういう世界がなければ、真の光は見えないのです。博士達も、人の世の闇を見ながら、そこに光をもたらすことが出来ない自分達を痛感していたのではないでしょうか。ある神父さんは「なぜ神父になったのか」と聞かれて「本当に人を救うことの出来る本物に繋がり、その本物にひれ伏したかった」と言いました。博士達も、本当に人を、自分達を、救ってくれる、本物―(神)―に繋がることを求めたのではないでしょうか。しかし、どうすれば本物の神に出会い、繋がることが出来るでしょうか。だからこそ、「ユダヤに生まれる」と言われる「救い主」に、「本物」に、望みをかけたのではないでしょうか。
彼らは、天文学の専門家です。星の動きに異変が起こった時、それが「神が特別なことを告げるしるしだ」ということが分かったのです。「救い主の誕生」と星との関連は「旧約」にも「ヤコブから一つの星が上り…」(民数記24:17)と預言されています。だから、ついに「救い主」が生まれることを確信して、「救い主」を訪ねて、はるばるユダヤにやって来たのです。
彼らは「王が生まれるなら、首都の王宮だろう」と考えたと思うのです。だからエルサレムに行きます。そして人々に聞いて回ります。それがヘロデの耳に入りました。王の耳に入ったというのですから、博士達は―(普通考えられている)―3人より多かったのかも知れません。「200人程だった」という説もあります。いずれにしても、ヘロデは「ユダヤ人の王」と聞いて、自分の地位が脅かされることを恐れました。だから博士達に捜し出してもらって、その子を殺すために祭司長や学者達に問うた情報を博士達に与えました。こうして博士達は、教えられた通りベツレヘムに行くのです。
9~10節「すると、見よ、東方で見た星が彼らを先導し、ついに幼子のおられる所まで進んで行き、その上にとどまった。その星を見て、彼らはこの上もなく喜んだ」(2:9~10)。ついに星が止まった、ついに救い主に見えるのです。彼らは「この上もなく喜」(10)びました。そして「ひれ伏して拝んだ。そして、宝の箱をあけて、黄金、乳香、没薬を贈り物としてささげた」(11)のです。「黄金は王への捧げもの、乳香は祭司への捧げもの、没薬は死者への捧げもの」と言われます。それは真の王であり、人と神を執り成す祭司であり、死ぬことによって救いを成し遂げるイエス様の生涯を表す贈り物でした。博士達は、イエス様がそういう救い主であることを、何か理解していたのかも知れません。しかしそれ以上に、ある本には「宝の箱」というのは「彼らにとって大切な星占い師の商売道具が入っていた箱だった」と説明されていました。もしそうなら、それをイエス様に捧げてしまったということは―(彼らは、神が占いや呪いを嫌われることを知っていたはずです。「旧約聖書」に何度も書かれています。しかし、それを捨てられなかった。でも彼らは)―救い主に見えることができた、その喜びの中で、神の御心にそぐわないものを捨ててしまいました。そして、彼らは神に近づく新しい生き方を始めるのです。それは12節「別の道から自分の国へ帰って行った」(12 )の言葉にも暗示されています。
 

2.「博士達の来訪」のメッセージ

この物語は私達に何を語るのでしょうか。2つのことを申し上げます。
 

1)神の選びの恵み

「マタイ福音書」では、異邦人で、しかも占い師であった彼らが最初にイエス様に礼拝を捧げるのです。そのことは「神の選びの不思議」を語るのではないでしょうか。彼らが星の運行に詳しかったこと、救いを求めていたということを申し上げました。しかし、そんな人達は沢山いたでしょう。しかし彼らだけが、神の招きに応えて、立ち上がってやって来たのです。なぜ、彼らはそうしたのか。それは、最終的には神の選びによることだったと思います。神に選ばれたから応答したのです。
しかし、ではなぜ、神は彼らを選ばれたのでしょうか。聖書にこうあります。「あなたがたの召しのことを考えてごらんなさい。この世の知者は多くはなく、権力者も多くはなく、身分の高い者も多くはありません。しかし神は、知恵ある者をはずかしめるために、この世の愚かな者を選び、強い者をはずかしめるために、この世の弱い者を選ばれたのです。また、この世の取るに足りない者や見下されている者を、神は選ばれました。すなわち、有るものをない者のようにするため、無に等しいものを選ばれたのです。これは、神の御前でだれをも誇らせないためです」(1コリント1:26~29)。なぜ、彼らを選ばれたのか。それは、彼らが神の民ではない、異邦人であり、しかも占い師だったからだと思うのです。ユダヤ人にとって異邦人は神の救いから漏れるべき人々でした。しかも、申し上げた通り、「占い」は神が嫌われることです。彼らは、神に選ばれるに相応しい人達ではなかった、御前に誇るべきものは何1つ持っていなかった、しかしだからこそ、イエスにお会いした時、そんな自分達に神が目を留めて下さり、今救い主に見える、それを思って喜びに溢れたのではないでしょうか。神に心からの感謝を捧げることが出来たのではないでしょうか。
 私達も同じです。お1人びとり、教会にお出でになる切っ掛け、理由は、色々とあられるでしょう。それは自分で決めたことのように思っても、決してそれだけではないのです。最後は神の選びです。あなたは神に選ばれた。だから、神の招きに応答してイエス様の前に出ておられるのです。もし皆さんが「私は選ばれるような者ではない」と思われるなら、だからこそ神は選ばれたのです。大塚久雄という経済学者が講演の中でこう言いました。「『自分は無きに等しい者であって、その自分を神は選んで下さった』、そのことを支えにやって来た」。「私が神様を選んだのではない。神様が私を選ばれたのだ」という事実は、私達の歩みを支えるのです。ある方が洗礼を受けられた時、牧師が「あなたがキリスト教の神様を選んだのではなく、神様があなたを選ばれたのですよ」と話したら、その姉妹は「自分が選んだのではなくて、神様が自分を選んで下さったのですか。ありがたいことですね。本当にありがたい」、そう言って涙を流されたそうです。私達は、選ばれた恵みを、それが当たり前になってしまって、忘れてしまう時があるのではないでしょうか。しかし、神に選ばれ、神を「私の主」として持ち、神に礼拝を捧げ、神に希望を持って生きることができること、それは大きな恵みではないでしょうか。
それは、こうも表現できます。イエスはある時、言われました。「まして神は、夜昼神を呼び求めている選民のために…いつまでも…放っておかれることがあるでしょうか」(ルカ18:7)。「選ばれた民の祈りに、神は必ず答えて下さる」という言葉です。「神によって選ばれているという事実があるから、選ばれた者の祈りだから、神は聞いて下さる」、それが私達の祈りの根拠です。そしてある牧師が言いました。「私達がたとえどんな困難な所に立っているにしても、祈ることができる限り、道は必ず前に開けるのです」。選ばれたということは、それを根拠に、どんなに困難なところに立たされても、祈りつつ、神様に期待しつつ歩むことが出来るということでもあります。本当に感謝なことだと思います。
いずれにしても、この個所は、選びの恵みを語ります。選ばれたという事実に感謝し、その恵みの事実を大切にして行きましょう。
 

2)神の招きに対する応答の祝福

 「博士達は、神から遠いところにいた、しかしだからこそ、神に招かれたことを感謝して2000kmの距離をやって来た」と申し上げました。彼らは、神の招きに応答したのです。そしてその応答に応えて、神様は彼らを見事にイエス様の御許に導かれました。一方「キリストが生まれるのはベツレヘムです」と答えることが出来た祭司長達、学者達は、神の招きに応えない。だからイエス様に見えるという祝福に与れないのです。その意味でこの個所は、神の招きに応答することの大切さ、その祝福を語るのではないでしょうか。神を経験する方法、それは、恐らく神の招きに応答することです。そしてそれは、信仰を持つ時のことだけでなく、信仰の生涯において、私達を前へ押し出してくれる祝福の方法ではないでしょうか。
 このメッセージを準備する中で「アマールと夜の訪問者」という話を知りました。アメリカで生まれたオペラのようですが…。舞台はイエス様が生まれた時代のベツレヘムです。足の悪い少年アマールは、母親と2人で貧しい暮らしをしていました。ある夜、アマールは母親に言います。「家の窓と同じくらいの大きな星が出ているよ」。その夜遅く、ドアをノックする音が聞こえます。アマールがドアを開けると、そこには立派な身なりの3人の王様と従者達がいました。王様達は言いました。「素晴らしい子どもに貢ぎ物を捧げるため、もう長いこと旅を続けている。ここでしばらく休ませてもらえないか」。母親は村人達の手を借りて、一行をもてなします。夜更け、母は「我が子が乞食にならずに済むならば」と王様達の黄金に手を伸ばし、従者に見とがめられ、取り押さえられました。騒ぎで起きたアマールは、必死になって「盗んだのは僕だ」と母親をかばいます。その様子を見て感動した王様は言います。「ご婦人、その黄金はとっておきなさい。私達がお訪ねしようとしている幼子は、私達の黄金を必要とはなさいません。ただ愛の上に、その御国を建てようとなさる方だからです…彼は私達に新しい命をもたらし、私達の死を引き受け、彼の町に入る鍵は貧しい者の手にあるのです」。そう言って先を急ごうとする王達を、罪を悔い改めた母親は、呼び止めて言います。「お待ち下さい。どうぞこの黄金をお持ち帰り下さい。私達は生涯そのような王をお待ち申していたのです。もしも、こんなに貧しくなかったらば、私達もその幼子に贈り物をお捧げしたいのですが…」。その時、アマールが「僕がこの松葉杖を捧げるよ」と言います。それは、これまで足の悪い彼を支えて来た、彼にとって何よりも大切なものでした。でも、それを捧げようと持ち上げた時、彼は王達の方に向かって一歩踏み出し、そして松葉杖なしに歩けたことに気が付きます。「歩ける、母さん、僕、歩ける!」。王達は言います。「これこそ聖なる御子のしるし、私達は新しくお生まれになった王を褒め称えなくてはなりません」。そしてアマールは、3人の王様と一緒に幼子を拝する旅に出るのです。背中には幼子に捧げる松葉杖が背負われていました。
 長く引用しましたが、アマールの姿は、神の招きに応答する信仰者の姿を象徴していると思うのです。アマールが、それまで握りしめていたものを、差し出そうとした時、つまり、幼子イエスを拝するという神の招きに応答しようとした時、彼は素晴らしい祝福を経験したのです。東方の博士達も、神の招きに応えた時、人生が変えられるような喜びと祝福を経験したのです。皆さんは、今、どのような招きを受けておられるでしょうか。何を変えるように示されているでしょうか。神様は、私達を良く知っておられ、私達の信仰生活を成長させるために、前に向かって招かれるのです。「この年までこれでやって来たから、今さら…」と思わないで下さい。私達の信仰生活は、死ぬ瞬間まで「聖化」を願い求める歩みです。私達が、神の招きを真剣に受け止め、その招きに応えようとする時、私達はきっと、豊かな信仰の祝福を、神を、経験するのではないでしょうか。イエス様を拝するために、神の招きに応えて、2000kmを旅した博士達のことを心に刻みたいと願うことです。
 

 

聖書箇所:マタイ福音書1章18~25節   

私達が使っている「新改訳聖書」の「第1版」を大淀教会の牧師をしておられた先生が翻訳されたという話を以前から聞いていました。数年前の「百万人の福音」にその本間正巳先生の証がありましたが、証の中に奥様の話がありました。高齢になられてアルツハイマーを病まれたようです。イギリスで暮らしておられるお嬢さんも心配して時々帰って来られましたが、お母さんの様子を見てショックを受けます。全く別人のように変わってしまっていた。しかしある日、そのお母さんが突然祈り始められたのです。「色々なことが分からず、物事が上手に出来ない自分の不甲斐なさを赦して下さい…それでも、こんな私を愛して、導いて下さるイエス様に感謝します…これからの私の降りて行く道を、なだらかな道として下さい」。お嬢さんはびっくりしました。抜け殻のようになっているお母さんの心の奥底に神様が愛して下さっているお母さんの人格がある、神が共にいて下さる、そう気づくのです。奥様にとっては試練でしょう。しかし正にそこで、奥様は神様と出会っておられるのです。神は信仰者とどこまでも共にいて下さる方である、そのことを教えられた証でした。
「神は私達と共にいて下さる」、それをヘブル語に直すと「イム・マ・ヌウ・エル(インマヌエル)」―(「イム」は「共に」、「ヌウ」は「私達」、「エル」は「神」)―となります。そしてここで生まれるイエス様こそ、私達にとって「インマヌエル」である方。イエス様を通して、神は私達と共にいて下さるのです。感謝なことです。
今日の箇所は、その「インマヌエル」なるイエス様の誕生について語る記事です。主人公はイエス様の父となるヨセフです。この個所を通して、信仰の恵みに迫りたいと思います。
 

1:主イエス誕生の語りかけ①~「神の恵み」

イエス様の誕生の記事ですが、この個所の中心的な出来事は「ヨセフが夢を見る場面」です。夢というのは私達の心の深いところにある心理を反映していることが多いそうです。私達も経験することです。ヨセフにも、夢にまで見るようになっていた深い悩みがあったのです。それは「婚約者のマリヤが子供を宿している」ということでした。ヨセフは、誰にも言えずに苦しんでいたのです。19節「夫のヨセフは正しい人であって、彼女をさらし者にはしたくなかったので、内密に去らせようと決めた」(19)。「正しい人」、「掟に従って結婚までは体の関係を持っていなかった」と言うことです。それにも拘らず婚約者が子を宿したのです。どんなにマリヤを愛していても、そのまま結婚するにはあまりにも大きなことでした。ヨセフは「夫」と呼ばれています。ユダヤでは婚約は結婚と同じ重みを持っていて公に宣言されました。婚約を解消する時も、通常は理由を公にして離縁を宣言するのです。そうするとマリヤは「婚約中の夫がいながら姦淫の罪を犯した」として石打の刑です。公の場で「申命記22章」が読まれて、石が投げられるのです。ヨセフは傷つきながらもマリヤの命だけでは守ろうとした。理由を公表しないで「私の勝手で婚約を解消します」ということにしようと決めました。そうすると「子供を宿らせておいて落ち度もないのに離縁するとは何事か」と世間から非難されます。その非難を受けてでもマリヤの命を守ろうとした、それがヨセフという人でした。後にイエス様が「『わたしはあわれみは好むが、いけにえは好まない』とはどういう意味か、行って学んで来なさい」(マタイ9:13)と言われましたが、正に憐れみに生きようとしたのです。
しかしそれは、悩んで苦しんだ果ての決断だったでしょう。だからこそ、夢にまで見たのです。しかし彼の夢に天の使いが現れて、事の真実を告げるのです。ある人が「神様ももっと早く言って下されば、ヨセフはこんなに苦しまなくて良かったのに」と言いました。でもヨセフは、この経験を通して神との交わりを経験するのです、その信仰が成長するのです。神様は、私達も同じように取り扱われるのではないでしょうか。三浦綾子さんは「苦難の中でこそ、人生は豊かなのです」と言いました。苦難の中でこそ神を経験するからではないでしょうか。いずれにしてもヨセフは、言うならば、深い悩みの中で神と出会うのです。ある神学者が言いました。「人は誰も、他の人に知らせることが出来ない心の片隅を持っている。そこには、誰にも言えない秘密があるかも知れない、恥じていることがあるかも知れない、辛い罪責感があるかも知れない、深い悩みがあるかも知れない、悔しさがあるかも知れない。しかしその誰にも知らせることの出来ないような心の片隅で、人は神に会うのだ」。正にヨセフは、一人で悩んで苦しんでいる、そこで神に会った、そして神の導きを受けたのです。ヨセフは神に出会うことが出来たのです。このことは私達に何を語るのでしょうか。
ストラボンという学者が、世界中の民族を調べて回りました。その結果「世界中のどの民族も『神』を持たない民族はない。人間は何者かを拝もうとしている」、彼はそう言いました。旧ソ連にブレジネフという指導者がいました。ソ連が「神を信じない」思想を謳っていた絶頂期です。でもブレジネフが死んだ時、奥さんは彼の遺体の上で十字を切ったのです。思想や哲学ではどうしようもないものがあるのです。「神なんか信じない」と言っている人も、イザとなったら「神様!」と叫ぶと聞きます。本来、人は神を求めるのです。それにも拘わらず、どうして人は神をもっと近くに感じることが出来ないのでしょうか。
聖書は「人の罪が私達を神から遠ざけるのだ」と言うのです。具体的な罪もそうですが、人間には妬みや自己中心があります。「原罪」という、私達の魂を毒しているどうしようもないものがあるのです。その罪が私達を神様から遠ざけるのです、仕切りなのです。ここでイエスは「この方こそ、ご自分の民をその罪から救ってくださる方です」(21)と、「この方こそ罪の問題を解決して下さる」と言われているのです。どうやって解決して下さるのか。20~21節に「ダビデの子ヨセフ。恐れないであなたの妻マリヤを迎えなさい。その胎に宿っているものは聖霊によるのです。マリヤは男の子を産みます。その名をイエスとつけなさい」(20~21)とあります。これは神がヨセフに「マリヤの産む子を自分の子として迎えて欲しい」と頼んでおられるということです。その意味でイエス様は、ヨセフに「自分の子」として迎えられた方なのです。「ヨセフに迎えられた」とは、どういうことでしょうか。
1章1節~17節の系図の最後に「ヤコブにマリヤの夫ヨセフが生まれた」(16)とあります。そのヨセフに、イエス様は迎えられたのです。それは言うならば、イエス様は、ヨセフに繋がるところの人間の歴史の中に入り込んで下さったのです。その系図は、名君と謳われるダビデ王さえ、家臣の妻を奪ってしまったことを記す、人間の罪深さを描く系図です。イエス様はその人間の罪の歴史に入り込み、人間の罪を全部引き受けて十字架に架かり、私達の罪に下るはずの罰をご自分が受けて、私達の罪の問題を解決して下さったのです。そうやって神様と私達の間に橋を架けて下さったのです。神と私達の仕切りは取り除かれました。誰でも、イエス様を信じるなら、神様と繋がることが出来るようになったのです。苦悩の中で神に会えるようになったのです。いや、苦悩の時だけではない、「神われらと共にいます」、神がいつも私達と―(あなたと)―共にいて「あなたを強め、助け、守って下さる」、そういう時代がイエス様の誕生で始まったのです。だからヨセフは、神に出会った。それがヨセフの夢が教えることです。
1人の姉妹の証を「百万人の福音」で読みました。この方は、マスコミの仕事に夢中になっていた28歳の時、突然、難病に襲われました。全身の神経障害、麻痺が呼吸筋まで広がり、呼吸が出来なくなりました、死に直面したのです。これまで、人を押しのけてでも仕事に邁進する生き方をして来ました。神様から「お前はそれでよいのか」と問われていたのです。そんな時の病気です。彼女は「神が招かれた時には『ハイ、ハイ』と言って天国に行ける」と思っていました。ところが、現実に死に直面した時には、「今死んだら何もならない、死にたくない」と叫んでいる自分がいるのです。彼女は涙を流して祈りました。「神様、どうかもう一度いのちを与えて下さい。そうしたら今度は、喜んで天国に行けるような生き方がしたいのです」。祈りは聞かれ、奇跡的に呼吸が出来るようになりました。しかし医者からは「一生寝たきりの生活を覚悟して下さい」と言われます。しかしそんな中で、なぜか生きる意欲が甦るのです。神様の御業です。リハビリに励んだ結果、手足の麻痺は奇跡に回復し、5か月後には杖をついて歩けるようになります。彼女は、病気の人の抱える精神的な悩みがいかに大きいかを知って、快復した後、そういう人の心を支えるソーシャルワーカーの道に進むのです。彼女は言います。「人生は一寸先に何が起こるか誰にも分かりません。しかし…行き詰まったように見えても…神様に祈り求めるなら、次の道は既に備えられていることが分かるのです…あの朝、私に再起のいのちを下さった神様は、どんな状況の中でも共におられ、『私がついているよ』と語りかけ、励ましてくださるのです」(藤井美和)。
「『その名はインマヌエルと呼ばれる』(…神は私達たちとともにおられる、という意味である)」(23)。誰の人生にも、自分の力ではどうにもならないことがあります。でも私達は、苦悩の中で神に出会い―(神に触れられ)、神と共に生きて行くことが出来るようになったのです。悩みの中で、弱さの中でこそ、神に会えるということは、どんな時にも望みを捨てなくて良いということではないでしょうか。神が何かをして下さるという希望、この問題は神に在って意味があるという希望、それを持つことが出来るということではないでしょうか。イエス様の誕生によって、神が共にいて下さるようになった、それが、この個所―(イエスの誕生)―の語りかけです。
 

2:主イエス誕生の語りかけ②~「神の招き」

この個所にはもう1つの語りかけがあります。「神の招き」です。
この後ヨセフはどうしたでしょうか。イエスを自分の子として身に引き受けました。ベツレヘムに行き、イエスの生まれる宿を探して歩きました。イエスがヘロデ王に狙われた時には、エジプトへの長い旅を、身を挺して守ったのです。何の権力もない大工です。神は、その彼に「私の子を守ってくれ、引き受けてくれ」と委ねられたのです。そしてヨセフは「神と共に働く者」とされたのです。神の方から始めて下さった恵みの歴史です。しかしヨセフは、そのようにしてその歴史を荷う人間として、神の恵みの歴史に入り込むことが出来たのです。この個所は、「あなたも神と共に生きて行けるようになったのだ」と恵みを語ります。しかしそれだけではなくて、私達をも、「あなたにも神の恵みの歴史を荷って欲しい―(神と一緒に働いて欲しい)」と招くのではないでしょうか。
「神の恵みの歴史を荷う―(神と共に働く)」、お一人びとりが、既にそれぞれ置かれた場所で神の愛に生き、恵みの歴史を荷っておられることでしょう。祝福をお祈りします。色々あると思いますが、数年前来て下さった佐藤彰先生が下さった冊子にあった1人の姉妹のことをご紹介します。
この方は、70歳を過ぎてから乳癌の大手術を受けた後、「まだ動く指をもって主に仕えたい」とワープロを購入して、それで教会の奉仕を始めたそうです。その姿が痛々しいので、役員会が助言しました。「姉妹、あなたは病身です。奉仕をせずに療養して下さい」。その姉妹は涙を流して「私から奉仕を取り上げないで下さい」と訴えたそうです。佐藤先生も「この人は倒れる瞬間まで奉仕をするつもりなのだ」と悟って、もう何も言わなかったそうです。その生き方には色々な意見があると思いますが、でも、恵みの歴史を荷おうとする思いが伝わって来る気がします。またその方は、亡くなる半年ほど前、自分を導いてくれた宣教師に再会するためにアメリカの田舎町の教会を訪問しました。そこでこう語ったそうです。「皆さん、この先生を日本に遣わして下さって本当にありがとうございます。私は、様々な辛いこともありましたが、今は福音の力をしみじみと実感しています。私の体内には4つの癌があります。けれども死ぬことが全く怖くありません。それは先生が私にキリストの福音を伝えて下さったからです。皆さんも、もしイエス様の本当の力を知りたいとお思いなら、癌になってみて下さい」。どんな人でも、例外なくたった1人にならなければならない時があります。それはこの世を去る時です。しかし、イエス様を信じる者は、その時にも「神が私と共にいて下さる―(神共に在す)」、そのことに全てを委ねることが出来るのです。何と素晴らしいことでしょうか。
さて、佐藤先生は、その宣教師の目に涙が光っているのを見て、「このたった1人の日本人に会うためにでも、日本に行ってよかった」、その涙がそう語っているのを感じたそうです。そして、神の福音は、その姉妹から、家族へ、隣人へと、伝わって行ったのです。彼女は、生涯、神の証しに生きたそうです。神様の恵みを証しすること、それも神の恵みの歴史を荷うことではないでしょうか。
申し上げたように、神と一緒に働く(労する)、神の栄光を表す、神の恵みを表す、色々な形があると思います。神の愛に生きることもそうです。このように神への礼拝を守ることも、既にその働きです。いずれにしても、無理をする必要はありません。でも、どんな形でも良い、私達も神の恵みの歴史を荷わせて頂きたいと願うのです。なぜなら「どんな時にも神が私と共にいて下さる―(神共にいます)」、私達はこんな素晴らしい祝福を頂いたからです。私達が気づかない時でさえも、神は共にいて下さるのです。それに何かお応えしたい、そう願うからです。詩篇の詩人も詠いました。「主が、ことごとく私に良くしてくださったことについて、私は主に何をお返ししようか」(詩篇116:12)。それだけでなく、そこにこそ、尽きることのない生きる意義、生きる上での張り、色あせない人生の価値のようなものもあるのではないかと思うからです。
聖書には「イエスがもう一度、地上に来られる」という「再臨」の約束が預言されています。やがてイエス様が、空の扉を開けて入って来られるのです。その時、イエス様から「よくやった。良い忠実なしもべ―(として生きたな)」(21)と言って頂けたら、どんなに幸いでしょうか、どんなに大きな喜びでしょうか。